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四十九篇

学記

第 18 篇

(発想をめぐらせて、逐段原文に対応しつつ現代中国語の簡体白話文に翻訳し、段落を完全に保ち、削除も追加もせず、繁体字は使わず、儒家の核心概念は必要に応じて括弧書きで注釈を加える)

(以下は訳文である)

思慮を発して法度にかなわせ、善良な人を招き求めることは、小さな名声を得るには足りても、大衆を感動させるには足りない。賢者に親しみ、遠方の士民を思いやることは、大衆を感動させるには足りても、民を教化するには足りない。君子がもし民を教化し、良い風俗を形成しようと望むなら、必ず教育から始めなければならないだろう!

玉も磨かなければ器物にはならず、人は学ばなければ道理を知らない。ゆえに古の王は国を建て民を治めるにあたり、教学を第一に置いた。『尚書』の『説命』篇に「常に学ぶことを忘れてはならない」とある。おそらくこの道理を言っているのだろう!

たとえ美味しい料理があっても、食べなければその美味しさを知ることはできない。たとえ最上の道理があっても、学ばなければその良さを知ることはできない。ゆえに、学んでから初めて自分の知識の不足を知り、教えてから初めて自分の困惑を知る。不足を知れば、それから自らに求めることができる。困惑を知れば、それから自ら強く努めることができる。ゆえに「教えることと学ぶことは互いに促進し合う」と言うのである。『尚書』の『説命』篇に「教えることと学ぶことはそれぞれ半分を占める」とある。おそらくこの道理を言っているのだろう!

古の教育には、家には私塾があり、郷には庠があり、区域には序があり、国には学があった。毎年入学させ、隔年で考核した。一年目は学生が経文を分析し、志を弁別する能力を調べる。三年目は学生が学業に専念し、同輩と共に楽しむことを調べる。五年目は学生が広く学び、師に親しむことを調べる。七年目は学生が学問を討論し、朋友を選ぶことを調べる。これを小成という。九年目で学生が類推を働かせ、独自に判断して師の教えに背かないようになる。これを大成という。そうして初めて民を教化し、風俗を変え、近くの人を心から服従させ、遠くの人を慕って帰服させることができる。これが大学教育の道理である。古の書に「小さな蟻も時々土をくわえて学ぶ」とある。おそらくこの道理を言っているのだろう!

大学の開校時には、皮弁の礼服をまとい、祭菜を陳列して先聖先師を祭り、道業を尊ぶことを示す。『小雅』の中の三篇の詩を歌い、官に就くことの学びの始まりを示す。入学時に太鼓を打って学生を集め、書箱を開け、学業に対して謙虚であることを示す。夏楚という二種の戒めの棒を用いて、威厳を保つ。夏祭の後までは学校を視察せず、学生が心ゆるやかに志を立てられるようにする。常に観察しながら多くを言わず、学生の内心を集中させる。幼い学生はただ聞くだけで問わず、学びが等級を越えないようにする。これら七項が、教学の大原則である。古の書に「およそ官に就くことを学ぶ者は先に職事を学び、士となることを学ぶ者は先に志を定める」とある。おそらくこの道理を言っているのだろう!

大学の教学は、時に従って行われ、教学には必ず正規の課業があり、休息の時にも必ず居場所がある。学ぶにあたって、調弦や雑音の練習をしなければ、琴弦をうまく整えることはできない。広く譬えを学ばなければ、『詩経』をよく学ぶことはできない。様々な礼服の作法を学ばなければ、礼制に安んじることはできない。技芸への興味を養わなければ、学ぶことを楽しむことはできない。ゆえに君子は学びに対して、心を込めて養い、勤めて修め、適度に休み、ゆったりと遊ぶ。そうすれば、安心して学び師に親しみ、朋友と楽しみ道義を守ることができる。ゆえに師や朋友を離れても、道義に背くことはない。『尚書』の『説命』篇に「敬い謙虚に、努めて時機を逃さなければ、その修業は成就する」とある。おそらくこの道理を言っているのだろう!

今の教師は、ただ書簡を読み上げ、多く問答を設け、言葉を煩雑にし、急いで成果を求めて学生が理解しているかどうかを顧みず、学生を使うのも誠意からではなく、教育するにもその才能を十分に発揮させない。彼らの施す教えは情理に背き、要求も人の本性に逆らう。こうして、学生は自分の学びを隠し、師を怨み、学びの難しさに苦しんでその利益を知らず、無理に学業を終えても、必ずすぐに忘れてしまう。教育が成功しないのは、おそらくこのためである!

大学の教育方法は、過ちが起こる前に防ぐことを予防といい、適切な時に行うことを適時といい、等級の順序を越えて教えないことを循序漸進といい、互いに観察して長所を学ぶことを観摩という。これら四点が、教育が成功する原因である。

過ちが起こってから防ごうとすれば、抵抗に遭い克服しがたい。時機を逃してから学ぼうとすれば、苦労しても成果は上がりにくい。乱雑に教えて循序漸進しなければ、混乱して整えることができない。独りで学んで朋友がいなければ、見聞が狭くなる。不適切な朋友と交われば師から離れる。悪い嗜好に溺れれば学業を荒らす。これら六点が、教育が失敗する原因である。

君子は教育が成功する原因を知り、また教育が失敗する原因を知って、初めて人の師となることができる。ゆえに君子の教育は、啓発誘導である。導くが引っ張らず、励ますが抑えつけず、啓発するが直接言い切らない。導くが引っ張らなければ、師弟関係は和やかになる。励ますが抑えつけなければ、学びは容易になる。啓発するが言い切らなければ、学生は考えることができる。和やかで容易であり、かつよく考えることができるなら、よく啓発誘導していると言える。

学生には四つの過失があり、教師は必ず知らねばならない。人が学ぶ時、ある過失は多くを貪ることにあり、ある過失は少なく求めることにあり、ある過失はあまりに容易に見ることにあり、ある過失は難しさに怖じて止めることにある。この四つの過失は、心の様子がそれぞれ異なる。その心の様子を知って初めて、その過失を正すことができる。教育とは、長所を伸ばし短所を補うことである。

歌の上手い人は、人にその歌声を受け継がせることができる。教育の上手い人は、人にその志を受け継がせることができる。その言葉は簡約で通達し、精微で美しく、譬えは多くなくて道理は明らかである。これこそ、人に志を受け継がせることができると言える。

君子は学問の難易を知り、また学生の資質の良し悪しを知って初めて、広く啓発誘導することができる。広く啓発誘導できて初めて師となることができる。師となれて初めて官長となることができる。官長となれて初めて君主となることができる。ゆえに、師とは、君主となることを学ぶものである。したがって師を選ぶことは慎重にせねばならない。古の書に「三王四代の時代、最も重視されたのは師であった」とある。おそらくこの道理を言っているのだろう!

およそ学びの道理は、師を敬うことが最も難しい。師が敬われて初めて、道義が重んじられる。道義が重んじられて初めて、民が学びを敬うことを知る。ゆえに君主が臣下に対して臣下の礼をもって遇さない場合が二つある。臣下が祭祀の尸を務める時は、臣の礼をもって遇さない。臣下が師を務める時は、臣の礼をもって遇さない。大学の礼儀では、たとえ天子に講義する場合でも、北面して臣の礼を取ることはない。これは師を尊ぶためである。

学びの上手い人は、師は楽で効果は倍になり、学生もその功績を師に帰する。学びの下手な人は、師は苦労して効果は半分になり、学生も師を怨む。問いの上手い人は、硬い木を伐るようなもので、まず易しいところから入り、節や木目を処理して、時間が経てば互いに離れて解ける。問いの下手な人はその逆である。答えの上手い人は、鐘を撞くようなもので、軽く撞けば小さな音を出し、強く撞けば大きな音を出し、その響きがゆったりと収まるのを待って、初めて音が完全に発せられる。答えの下手な人はその逆である。これらはすべて学問を進める方法である。

ただ記憶に頼って問答を教えるだけの者は、人の師となるには足りない。必ず学生の質問を聞き、学生が質問できなければ、それから教える。教えてもまだ分からなければ、一時的に置いておいてもよい。優れた鍛冶屋の子は、必ず皮衣作りを学ぶ。優れた弓師の子は、必ず箕作りを学ぶ。車の御を初めて学ぶ者は、車を逆さまにして、馬を車の後ろに従わせる。君子はこの三つの事を観察すれば、学びに志すことができる。

古の学び手は、物事を比較し、類推することができた。鼓の音は五音に属さないが、五音はそれなくして調和を得ることができない。水は五色に属さないが、五色はそれなくして現れることができない。学びは五官に等しくないが、五官はそれなくして治めることができない。師は五服に属さないが、五服はそれなくして親しむことができない。

君子曰く、大徳の人は一つの官職に拘泥せず、大道は一つの具体的な器物に限られず、大信は盟約によって束縛される必要がなく、大時の節は整然と一様ではない。この四つを理解すれば、学びに志すことができる。三王が川を祀る際には、まず河を祭り、その後海を祭った。河は源であり、海は帰するところである。これが所謂、本を務めるということである。