王制
王が俸禄と爵位の制度を定める。位は公、侯、伯、子、男の五等に分かれる。諸侯の官は上大夫(即ち卿)、下大夫、上士、中士、下士の五等とする。天子の田地は縦横一千里、公・侯の田地は百里、伯の田地は七十里、子・男の田地は五十里とする。田地が五十里に満たない諸侯は、直接天子に朝見することができず、他の諸侯に附属する。これを「附庸」という。天子の三公は、その封地が公侯に相当する。天子の卿は、その封地が伯に相当する。天子の大夫は、その封地が子男に相当する。天子の元士は、その封地が附庸に相当する。
制度の定めるところでは、農夫は田百畝を受ける。百畝の田地の収穫は、上等の農夫は九人を養い、次の等級は八人を養い、次の等級は七人を養い、次の等級は六人を養い、下等の農夫は五人を養う。官府に仕える平民の俸禄は、この等級の差に従って定める。諸侯の下士の俸禄は上等の農夫に相当し、その俸禄は彼らが田を耕して得る収入に代わるのに足るものとする。中士の俸禄は下士の二倍、上士は中士の二倍、下大夫は上士の二倍、卿の俸禄は大夫の四倍、国君の俸禄は卿の十倍とする。次等の国の卿の俸禄は大夫の三倍、国君は卿の十倍とする。小国の卿の俸禄は大夫の二倍、国君は卿の十倍とする。
次等の国の上卿は、その地位が大国の中卿に相当する。中卿は大国の下卿に相当し、下卿は大国の上大夫に相当する。小国の上卿は、その地位が大国の下卿に相当する。中卿は大国の上大夫に相当し、下卿は大国の下大夫に相当する。中士・下士がいる場合は、その人数はそれぞれ上士の三分の二とする。
四海の内には九つの州があり、それぞれの州は縦横一千里とする。各州の中には、封地縦横百里の国を三十、七十里の国を六十、五十里の国を百二十、合わせて二百十の国を建てる。名山と大沢は分封に用いず、残りの土地は附庸と閑田とする。八つの州には、それぞれ二百十の国がある。
天子の王畿の内には、封地が方百里の国が九つ、七十里の国が二十一つ、五十里の国が六十三个、合わせて九十三の国がある。名山と大沢は頒賜に用いず、残りの土地は士人に俸禄を与えるため、または閑田とする。
合わせて九つの州で、千七百七十三の国がある。天子の元士と諸侯の附庸はこの数に含めない。
天子は王畿百里の内の収入をもって官府の経費に充て、千里の内の収入をもって天子の日常の用に供する。
王畿千里の外には、方伯を置く。五つの国で一つの「属」とし、属には長を置く。十の国で一つの「連」とし、連には帥を置く。三十の国で一つの「卒」とし、卒には正を置く。二百十の国で一つの「州」とし、州には伯を置く。八つの州には八人の伯、五十六人の正、百六十八人の帥、三百三十六人の長がいる。八人の伯はそれぞれその所属を率いて、天子の二人の老臣に帰属する。この二人の老臣は天下を左右の二部分に分けて治め、「二伯」という。
王畿千里の内を「甸」といい、千里の外を「采」または「流」という。
天子には三公、九卿、二十七大夫、八十一元士を置く。
大国には三人の卿がおり、いずれも天子が任命する。下大夫五人、上士二十七人。
次国には三人の卿がおり、その内の二人は天子が任命し、一人は本国の国君が任命する。下大夫五人、上士二十七人。
小国には二人の卿がおり、いずれも本国の国君が任命する。下大夫五人、上士二十七人。
天子はその大夫を派遣して三監とし、方伯の国を監督させる。国ごとに三人を派遣する。天子の王畿内の諸侯は、俸禄のみを享有する(世襲できない)。王畿外の諸侯は、爵位を世襲することができる。
制度の定めるところでは、三公は一命の服(袞服)を着ることができる。もし加賞があれば、それは賞賜であるが、最高でも九命を超えない。次等国の国君は、最高でも七命を超えない。小国の国君は、最高でも五命を超えない。
大国の卿は、最高でも三命を超えない。下卿は二命とする。小国の卿と下大夫は一命とする。
凡そ平民の中から賢才を選んで官に用いるには、必ず先にその德行と才能を考核する。考核が明らかになってから任用し、職務に堪えてから爵位を授け、爵位が定まってから俸禄を与える。
朝廷において爵位を授けるには、士人と共に商议する。市街において罪人を処刑するには、民衆と共にこれを唾棄する。故に、公家は刑罰を受けた者を養わず、大夫は彼らを供養せず、士は路上で彼らに出会っても言葉を交わさない。彼らを四方に追放し、その行くところに任せ、政事に参与させず、また彼らに生き永らえさせようとも思わない。
諸侯は天子に対して、二年ごとに使いを遣わして聘問し、三年ごとに卿を遣わして聘問し、五年ごとに諸侯自ら朝見する。
天子は五年ごとに一度、諸侯の国を巡視する。
当年の二月、東に向かって巡視し、泰山に至り、山上で柴を焚いて天を祭り、遥かに山川を祭祀する。諸侯に接見し、百歳の老人を慰問し、自らその家を訪ねる。太師に命じて当地の詩歌を収集させ、民風を観察する。市場を管理する役人に物価を報告させ、民衆の好悪を観察する。もし民衆の心志が淫邪であれば、その好みは正道から外れるであろう。礼儀を掌る役人に命じて時令・月日を考核し、日付を確定し、音律・礼楽・制度・衣服を統一し、規範を定める。山川の神霊で、祭祀を行わないものがあれば、それは不敬である。不敬の場合は、国君は封地を削減される。宗廟の祭祀で、礼制に従わないものがあれば、それは不孝である。不孝の場合は、国君は爵位を下げられる。礼楽制度を変更する者は、従わない者である。従わない場合は、国君は流される。制度や衣服を改革する者は、背く者である。背く場合は、国君は討伐される。民衆に対して功徳のある者には、封地を増やし爵位を上げる。五月、南に向かって巡視し、南岳に至る。礼儀は東巡と同じとする。八月、西に向かって巡視し、西岳に至る。礼儀は南巡と同じとする。十一月、北に向かって巡視し、北岳に至る。礼儀は西巡と同じとする。巡視が終わった後、祖廟と父廟に帰って報告し、一頭の牛を犠牲として用いる。
天子が出発しようとする時は、「類」の祭をもって上帝を祭り、「宜」の祭をもって社神を祭り、「造」の祭をもって父廟を祭る。諸侯が出発しようとする時は、「宜」の祭をもって社神を祭り、「造」の祭をもって父廟を祭る。
天子が重大な事務なく諸侯と会見することを「朝」という。その主な目的は、礼儀を考察し、刑罰を整え、道徳規範を統一し、もって天子を尊崇することにある。天子が諸侯に楽器を賜う時は、柷(楽器の一種)を代表として与える。伯・子・男に楽器を賜う時は、鼗(楽器の一種)を代表として与える。
諸侯は、弓矢を賜わった後でなければ征伐する権を持たず、斧鉞を賜わった後でなければ誅殺する権を持たず、圭瓚を賜わった後でなければ鬯酒を醸造する権を持たない。もし圭瓚を賜わっていなければ、天子に鬯酒を求めることを要する。
天子が教育を興すよう命じて後、諸侯は学校を建てることができる。小学は王宮の南門の左側に設け、大学は郊外に設ける。天子の大学を「辟雍」といい、諸侯の大学を「頖宮」という。
天子が出征しようとする時は、「類」の祭をもって上帝を祭り、「宜」の祭をもって社神を祭り、「造」の祭をもって父廟を祭り、出征の地において「祃」の祭を行う。出征前には祖廟において命令を受け、大学において作戦方針を決定する。出征から帰還し、罪ある者を捕らえたならば、大学に帰って「釋奠」の礼を行い、捕らえた捕虜と斬り取った左耳の数を報告する。
天子と諸侯は、戦争などの大事がない時は、年に三度田猟を行う。第一回目の田猟の獲物は祭祀に用い(干肉にして豆器に盛る)、第二回目は賓客のもてなしに、第三回目は君主の厨房を満たすために用いる。大事がないのに田猟をしないことを「不敬」と言い、田猟を礼法に従わずに行うことを「暴殄天物」と言う。天子は田猟の際に包囲の方法を用いず、諸侯は群れをなす獣を狩らない。天子が獲物を射止めた後は大旗を下ろし、諸侯が射止めた後は小旗を下ろし、大夫が射止めた後は副車を止めるよう命じる。副車が止まってから、百姓が田猟を始めることができる。獺が魚を捕らえて祭祀を始めると、山沢を司る虞人が初めて水沢に入って魚梁を設ける。豺が獣を捕らえて祭祀を始めると、初めて田猟が行える。鳩が鷹に変わると、初めて羅網を設けられる。草木が凋落した後、初めて山林に入って伐採できる。昆虫がまだ冬ごもりしていない時は、火で田を焼いてはならない。幼い鹿を捕らず、鳥の卵を取らず、胎児を宿す母獣を殺さず、生えたばかりの木を伐らず、鳥の巣を壊さない。
冢宰(太宰)は国の支出予算を立てるのに、必ず年末に行い、五穀がすべて収穫されてから予算を定める。国土の大きさに基づき、年の豊凶を見る。三十年間の収穫の平均を基準として予算を立て、収入に応じて支出を決める。祭祀の費用は、年間収入の十分の一とする。国喪に遭遇した場合は、三年の間は他の祭祀を行わず、ただ天地と社稷の祭祀のみ、喪の規定を越えて行うことができる。喪の費用は、三年間の収入総額の十分の一とする。喪と祭祀について、費用が不足することを「暴」と言い、余ることを「浩」と言う。祭祀の際、豊年には贅沢をせず、凶年には倹約しない。国に九年分の蓄えがないことを「不足」と言い、六年分の蓄えがないことを「危急」と言い、三年分の蓄えがないならば、その国は国とは言えない。三年耕せば必ず一年分の蓄えがあり、九年耕せば必ず三年分の蓄えがある。三十年の収入を通算して計算すれば、たとえ旱魃や水害に遭っても、百姓に飢えた顔色はない。そうしてから、天子は安心して食事をし、毎日音楽を楽しむことができる。天子が亡くなれば、七日間柩を停め、七ヶ月後に埋葬する。諸侯は五日間柩を停め、五ヶ月後に埋葬する。大夫、士、平民は三日間柩を停め、三ヶ月後に埋葬する。三年の喪に服すことは、天子から平民に至るまで同じである。平民は埋葬の際に綱で棺を吊り下ろし、雨が降っても中止せず、墓塚を積まず、木を植えない。喪に服す間は、他の仕事をせず、天子から平民に至るまで同じである。喪礼の格式は死者の生前の身分に従い、祭祀の格式は祭祀を行う者(生者)の身分に従う。嫡子以外の子は祭祀を主宰しない。
天子は七つの宗廟を設ける。三つの昭廟、三つの穆廟、そして太祖廟を加えて七つとする。諸侯は五つの宗廟を設ける。二つの昭廟、二つの穆廟、そして太祖廟を加えて五つとする。大夫は三つの宗廟を設ける。一つの昭廟、一つの穆廟、そして太祖廟を加えて三つとする。士は一つの廟を設ける。平民は寝室で祭祀を行う。
天子と諸侯の宗廟における祭祀の名称は、春の祭祀を「礿」、夏を「禘」、秋を「嘗」、冬を「烝」と言う。天子は天地を祭祀し、諸侯は社稷を祭祀し、大夫は五祀(戸、竈、中霤、門、行)を祭祀する。天子は天下の名山大川を祭祀する。五岳を祭祀する格式は三公に相当し、四瀆を祭祀する格式は諸侯に相当する。諸侯は自分の封地内の名山大川のみを祭祀する。
天子と諸侯は、自分の領土内にありながら子孫が祭祀を行っていない古国の先君を祭祀する。
天子の春の祭祀は単独の祭祀(祫礿)であり、夏、秋、冬の祭祀は合祀(祫禘、祫嘗、祫烝)である。諸侯が春の祭祀「礿」を行ったならば、夏の祭祀「禘」は行わず、夏の祭祀を行ったならば秋の祭祀は行わず、秋の祭祀を行ったならば冬の祭祀は行わず、冬の祭祀を行ったならば春の祭祀は行わない。諸侯の春の祭祀「礿」は単独の祭祀であり、夏の祭祀「禘」は一年ごとに単独祭祀と合祀を交互に行い、秋の祭祀「嘗」と冬の祭祀「烝」はともに合祀である。
天子が社稷を祭祀するには牛・羊・豚の三牲(大牢)を用い、諸侯が社稷を祭祀するには羊・豚の二牲(少牢)を用いる。大夫と士が宗廟を祭祀するには、封田を持つ者は祭祀を行い、封田を持たない者はただ祭品を進呈するのみである。平民は春には韭を進め、夏には麦を進め、秋には黍を進め、冬には稲を進める。韭には卵を合わせ、麦には魚を合わせ、黍には子豚を合わせ、稲には雁を合わせる。天地を祭祀するための牛は、その角が蚕や栗の実の大きさであり、宗廟を祭祀するための牛は、その角が一手で握れる大きさであり、賓客をもてなすための牛は、その角が一尺の長さである。諸侯は特別な理由がなければ牛を殺さず、大夫は特別な理由がなければ羊を殺さず、士は特別な理由がなければ犬や豚を殺さず、平民は特別な理由がなければ珍しい美味を食べない。
諸々の料理の豊かさは祭祀の犠牲を超えてはならず、宴飲の衣服は祭祀の礼服を超えてはならず、寝室の規模は宗廟を超えてはならない。
古の時代には、公田は民力に借りて耕作させ、別途租税を徴収しなかった。市場では、商店の地皮税のみを徴収し、物品税は徴収しなかった。関所では、ただ旅人を検査するのみで、関税は徴収しなかった。山林や水沢は、時節に従って入り伐採や漁撈を行わせ、禁止しなかった。士大夫の圭田は課税しなかった。
民を徴用して労役に服させるのは、年に三日を超えてはならない。
田地や住宅は売買してはならず、墓地は別途申請してはならない。
司空は測量道具を持って土地を測り、民を山川や沼沢の近くに安置し、四季の時令の変化に従って配置する。土地の遠近を測り、民力を徴用して諸々の工事に従事させる。民を使役する際は、老人でもできる仕事をさせながら、壮年の者の糧食を与える。
民の住居を安置する際は、必ずその土地の寒暖・乾湿、および広い谷や大きな川などの異なる環境に基づいて、異なる制度を定める。民がこれらの地に生活すれば、風俗も異なる。性格の剛柔・軽重・遅速はそれぞれ異なり、味の調和も異なり、使用する器械の制度も異なり、着る衣服もそれぞれに適するものがある。教化を整えるが、その習俗は変えず、政令を統一するが、その便利なところは変えない。中原の地と四方の少数民族、五方の民は、それぞれに本性があり、強いて変えることはできない。東方の民族を夷と言い、彼らは髪を振り乱し、体に刺青を施し、火を通さない食物を食べる者もいる。南方の民族を蛮と言い、彼らは額に彫刻を施し、足の指が交差しており、火を通さない食物を食べる者もいる。西方の民族を戎と言い、彼らは髪を振り乱し、獣の皮を着て、穀物を食べない者もいる。北方の民族を狄と言い、彼らは羽毛の衣服を着て、洞穴に住み、穀物を食べない者もいる。中原、夷、蛮、戎、狄、この五方の民は、それぞれに安住する居所、和する味覚、適する衣服、便利な道具、備わった工具を持つ。五方の民は、言語が通じず、嗜好や欲望も異なる。彼らの心意を伝え、欲望を通じさせるために、東方を「寄」、南方を「象」、西方を「狄鞮」、北方を「訳」と言う。
民を安置する際は、土地を測って城邑を建て、土地を量って民を安置する。土地、城邑、民の居住、この三者は必ず互いに調和していなければならない。荒地がなく、遊手好閑の民がなく、飲食に節度があり、行いが時節に合い、民は皆その居所に安んじ、仕事を楽しみ、功業に勤しみ、君主を敬い、上級者に親しみ、そうしてから学校を興す。
司徒は六礼を修めて民の本性を節制し、七教を明らかにして民の徳行を振興し、八政を統一して邪悪を防ぎ、道徳を統一して風俗を統一し、老人を養って孝道を奨励し、孤児や孤独な者を恤んで困窮無依の者を救い、賢能を尊重して徳行を崇め、不肖を挙げて邪悪を退ける。郷官に命じて、教化に従わない者を挙げて報告させる。年老いた者は皆郷学に集まり、吉日に郷射礼を行って射の功績を尊び、郷飲酒礼を行って年齢を尊ぶ。大司徒は国の優秀な士人と執事者を率いて参加する。もしその者が改めなければ、国の右郷に命じて、教化に従わない者を挙げて左郷に移させ、国の左郷に命じて、教化に従わない者を挙げて右郷に移させ、なおも原先の礼をもって遇する。もしなお改めなければ、郊野に移し、なおも原先の礼をもって遇する。もしなお改めなければ、辺遠の地に移し、終身士人の地位を与えない。郷官に命じて、優秀な士人を考察し、司徒に推薦する。これを「選士」と謂う。司徒は選士の中の優秀な者を考察し、国学に推薦する。これを「俊士」と謂う。司徒に推薦された者は、郷里の徭役を免ぜられる。国学に推薦された者は、司徒の徭役を免ぜられる。これを「造士」と謂う。楽正は四種の学術を尊び、四種の教育を設け、先王の『詩』『書』『礼』『楽』に従って士人を造就する。春秋には『礼』『楽』を教授し、冬夏には『詩』『書』を教授する。天子の太子、王子、諸侯の太子、公卿・大夫・上士の嫡子、および国が選んだ俊士・選士は、皆国学に入って学ぶ。凡そ入学する者は、年齢の大小によって順序を定める。卒業しようとする時、小胥・大胥・小楽正は教化に従わない者を挙げて大楽正に報告する。大楽正は天子に報告する。天子は三公・九卿・大夫・上士に命じて皆国学に入らせる。もしなお改めなければ、天子自ら国学に臨んで視察する。もしなお改めなければ、天子は三日間宴を開かず、その者を遠方に流す。西方に流す場所を「棘」と謂い、東方に流す場所を「寄」と謂い、終身士人の地位を与えない。大楽正は造士の中の優秀な者を考察して天子に報告し、司馬に推薦する。これを「進士」と謂う。司馬は官に堪える人材を辨别し评定し、進士の中の賢能な者を考察して天子に報告し、これによってその評語を定める。評語が定まれば、官職を授ける。官職に就けば、爵位を賜う。爵位が定まれば、俸禄を与える。大夫が職務を怠れば、終身任用せず、死後は士人の礼をもって葬る。もし征発作戦の命令があれば、大司徒に命じて戦車と甲冑をもって士人を教導する。凡そ技芸をもって力を出す者は、四方に行くことができ、腿や腕を露わにし、弓を射、戦車を御することができる。凡そ技芸をもって君主に事える者には、祝・史・射・御・医・卜および諸々の工匠が含まれる。凡そ技芸をもって君主に事える者は、他の事務を兼ねることができず、官職を調任されることができず、本郷を離れた後は、士人と年齢によって尊卑を定めることができない。卿大夫の家に仕える者は、本郷を離れた後も、士人と年齢によって尊卑を定めることができない。
司寇は刑法を掌り、罪罰を明断して、訴訟事件を審理する。必ず三度の訊問を経なければならない。犯罪の意図はあるが事実の根拠がない場合は、受理しない。量刑の際、軽くも重くもできる場合は軽く処罰する。赦免の際、罪は重いが寛恕に値する場合は重く赦免する。
凡そ五刑を制定するには、必ず天理に依拠し、刑罰と罪過を相符させなければならない。凡そ五刑の訴訟事件を審理するには、必ず父子の間の親情を推究し、君臣の間の道義を確立し、これをもって衡量とする。罪過の軽重の順序を考え、罪過の深浅の程度を慎重に揣度して区別しなければならない。己の聡明知恵を竭し、己の忠誠仁愛を奉献して、案情を徹底的に明らかにしなければならない。疑わしい案件は、広く衆人と共に審議する。もし衆人にも疑問があれば、罪人を赦免する。必ず案件の大小軽重の割合を考察して判決を下す。判決書が作成された後、史官は判決結果を正に報告し、正はこの案件を審理する。正は判決結果を大司寇に報告し、大司寇は棘木の下で審理する。大司寇は判決結果を天子に報告し、天子は三公に命じて審理に参与させる。三公は判決結果を天子に報告し、天子はさらに「三宥」の原則に基づいて三度寛恕し、その後ようやく刑罰を執行する。凡そ刑罰を制定するには、罪が軽くとも勝手に赦免してはならない。刑罰とは、定型することである。定型とは、定局となることである。一度定局となれば変更できないので、君子はこれに対して心を竭し力を尽くさなければならない。凡そ文義を割裂し、法令を破壊し、名分を混淆し、制度を擅改し、邪道を用いて政事を乱す者は、死刑に処す。靡靡の音、奇異な衣服、奇異な技芸、奇異な器械を作って民衆を惑わす者は、死刑に処す。行為が偽りで改めようとせず、言論が偽りで巧みに弁じ、邪説を学んで知識が広く、誤りに順応してこれを美化して民衆を惑わす者は、死刑に処す。鬼神・時日・卜筮を仮託して民衆を惑わす者は、死刑に処す。この四種の死罪に当たる者は、審理を経る必要がない。凡そ禁令を執行して民衆を統一するには、過失を赦免しない。圭璧・金璋などの貴重な玉器は、市場で売ってはならない。天子が賜う命服・命車は、市場で売ってはならない。宗廟祭祀の器物は、市場で売ってはならない。祭祀の犠牲は、市場で売ってはならない。兵器は、市場で売ってはならない。日常使用する器具が規格に合わないものは、市場で売ってはならない。兵車が規格に合わないものは、市場で売ってはならない。布帛の精粗が規格に合わず、幅の広狭が尺寸に合わないものは、市場で売ってはならない。邪僻な色をもって正色を混ぜたものは、市場で売ってはならない。錦繍の花纹を織った絲織物や、珠玉で作った器物は、市場で売ってはならない。衣服・飲食は、市場で売ってはならない。五穀が成熟せず、果実が成熟していないものは、市場で売ってはならない。樹木が伐採の基準に達していないものは、市場で売ってはならない。禽獣魚鼈が殺すに足る大きさに達していないものは、市場で売ってはならない。関所は禁令を執行して稽查し、奇異な衣服を禁じ、言辞の怪しい者を識別する。
大史は典礼を掌り、簡冊を持って記録し、避諱と禁忌を奉行する。
天子は斎戒してから諫言を受ける。司会は一年の政績の総括を天子に報告し、冢宰は斎戒してからこれを受ける。大楽正・大司寇・市官、この三官はそれぞれその政績の総括を携えて司会に従い天子に報告する。大司徒・大司馬・大司空は斎戒してからこれを受け、百官はそれぞれその政績の総括を三官に報告する。大司徒・大司馬・大司空は百官の政績の総括を天子に報告し、百官は斎戒してから天子の考課を受ける。その後、老人を慰労し、農民を慰労し、一年の事務を完成し、国家の財政予算を制定する。
凡そ養老の礼は、有虞氏は燕礼を用い、夏后氏は飨礼を用い、殷人は食礼を用い、周人はこれを修訂して兼ねて三礼を用いる。五十歳の者は郷学で養老礼を受け、六十歳は国都の小学で、七十歳は大学で受け、この制度は諸侯に通行する。
八十歳の者は、君命を拝受する際には跪いて頭を地に二度つけるだけでよく、盲人も同様とする。九十歳の者は、他人に代わり拝受させることができる。五十歳の者は幼少とは異なる精白した穀物を食べることができ、六十歳の者はあらかじめ肉食を備えることができ、七十歳の者は別に一食分の膳を有することができ、八十歳の者は常に珍味佳肴を食べることができる。九十歳の者は飲食を寝室から離さず、膳食や飲み物はその遊行する場所に従って供される。六十歳の者は葬具の準備を始めることができ、七十歳の者は季節ごとに準備し、八十歳の者は月ごとに準備し、九十歳の者は日々整え、ただし絞・𫄛・衾・冒などの入棺の衣類は死後に作る。五十歳の者は衰え始め、六十歳の者は肉食がなければ飽き足らず、七十歳の者は絲帛がなければ温まらず、八十歳の者は人の陪伴がなければ眠りが温まらず、九十歳の者は陪伴があっても眠りが温まらない。五十歳の者は家の中で杖をつくことができ、六十歳の者は郷里で杖をつくことができ、七十歳の者は国都で杖をつくことができ、八十歳の者は朝廷で杖をつくことができ、九十歳の者は、天子がもし問うことがあればその居所に赴き、珍味佳肴を携える。七十歳の者は朝に臨むのに朝会の終わるを待たず、八十歳の者は月ごとに官が安否を問い、九十歳の者は日ごとに膳食が供される。五十歳の者は労役に服さず、六十歳の者は兵戎の事に参与せず、七十歳の者は賓客の応接の事に参与せず、八十歳の者は喪祭の事に参与しない。五十歳の者は爵位を受けることができ、六十歳の者は自ら学校に学ぶ必要なく、七十歳の者は告老退職することができる。喪事に遇えば、喪服を着るのみである。
有虞氏は上庠に国老を養い、下庠に庶老を養った。夏后氏は東序に国老を養い、西序に庶老を養った。殷人は右学に国老を養い、左学に庶老を養った。周人は東膠に国老を養い、虞庠に庶老を養った。虞庠は国都の西郊に位置する。有虞氏は祭祀に「皇」冠を戴き、深衣を着て老を養った。夏后氏は祭祀に「収」冠を戴き、燕衣を着て老を養った。殷人は祭祀に「冔」冠を戴き、缟衣を着て老を養った。周人は祭祀に「冕」冠を戴き、玄衣を着て老を養った。およそ夏・殷・周の三代の王が老を養うには、すべて年齢によって定めた。八十歳の者は、一人の子が徭役を免れることができる。九十歳の者は、全家が徭役を免れることができる。家に残疾人や病人がいて、人の世話を必要として生活できる者は、一人が徭役を免れることができる。父母の喪に服するには、三年間徭役を免れる。斉衰・大功の喪に服するには、三ヶ月間徭役を免れる。他の諸侯国に移住しようとする者は、三ヶ月間徭役を免れる。他の諸侯国から移住して来た者は、一年間徭役を免れる。
幼くして父を失った者を「孤」といい、老いて子のない者を「独」といい、老いて妻のない者を「矜」といい、老いて夫のない者を「寡」という。この四種の者は、天下の民の中で困苦して訴えるところのない者であり、国には定められた食糧がこれらに供給される。
唖・聾・跛・手を断たれた者・身長の矮小な者・諸々の工匠は、それぞれその才能に従って養われる。
道路においては、男子は右側を歩き、婦人は左側を歩き、車両は中央を通る。自分の父より年長の人に遇えば、その後に従って歩く。自分の兄より年長の人に遇えば、雁の飛行のように列を成して従って行く。朋友の間では、互いに追い越してはならない。軽い荷物は合わせて一人で担うことができ、重い荷物は分担し、頭髪の白くなった老人には物を持たせてはならない。徳のある老人は徒歩で行かず、普通の民の老人は空腹のままで食事をしない。
大夫の祭祀の器物は、他人に借りない。祭祀の器物が完成する前に、宴飲の器物を作らない。
方一里の土地は、田に換算して九百畝である。方十里の土地は、方一里の百倍であり、田に換算して九万畝である。方百里の土地は、方十里の百倍であり、田に換算して九億畝である。方千里の土地は、方百里の百倍であり、田に換算して九万億畝である。
恒山から南河までの距離は、ほぼ一千里である。南河から長江までの距離も、ほぼ一千里である。長江から衡山までの距離は、一千里を超える。東河から東海までの距離は、一千里を超える。東河から西河までの距離は、ほぼ一千里である。西河から流沙までの距離は、一千里を超える。西は流沙に至らず、南は衡山に至らず、東は東海に至らず、北は恒山に至らず、四海の内の土地は、長短を截り補って、方三千里となり、田は八十万亿一万億畝となる。方百里の地には、田九十億畝がある。そのうち山陵・森林・河川・沼沢・溝渠・城郭・宮室・道路が三分の一を占め、残りは六十億畝となる。
古くは周尺八尺を以て一歩としたが、今は周尺六尺四寸を以て一歩とする。古くの一百畝は、現在の東田一百四十六畝三十歩に相当する。古くの一百里は、現在の一百二十一里六十歩四尺二寸二分に相当する。
方千里の地は、一百の方百里の地に相当する。三十の方百里の諸侯国を分封すれば、七十の方百里の地が残る。さらに六十の方七十里の諸侯国を分封すれば、二十九の方百里の地と四十の方十里の地に相当する。残りは四十の方百里の地と六十の方十里の地となる。さらに一百二十の方五十里の諸侯国を分封すれば、三十の方百里の地に相当し、残りは十の方百里の地と六十の方十里の地となる。名山大沢は分封に用いず、残った土地は附庸および閑田とする。諸侯の中に功績ある者は、閑田から土地を取って俸禄とし、土地を削減された者は、土地を閑田に返す。天子の王畿内においては、方千里の地は、一百の方百里の地に相当する。九の方百里の諸侯国を分封すれば、九十一の方百里の地が残る。さらに二十一の方七十里の諸侯国を分封すれば、十の方百里の地と二十九の方十里の地に相当し、残りは八十の方百里の地と七十一の方十里の地となる。さらに六十三の方五十里の諸侯国を分封すれば、十五の方百里の地と七十五の方十里の地に相当し、残りは六十四の方百里の地と九十六の方十里の地となる。
諸侯の下士の俸禄は九人を養い、中士は十八人を養い、上士は三十六人を養う。下大夫は七十二人を養い、卿は二百八十八人を養う。国君は二千八百八十人を養う。次等の国の卿は二百十六人を養い、国君は二千一百六十人を養う。小国の卿は百四十四人を養い、国君は千四百四十人を養う。次等の国の卿で、本国の国君が任命する者は、その俸禄は小国の卿と同じとする。天子の大夫が三監となり、諸侯国を監察する者は、その俸禄は諸侯の卿に準じ、その爵位は次等の国の国君に準じ、俸禄は方伯の土地から支給される。方伯が天子に朝見するため、天子の王畿内に湯沐邑を有し、その待遇は元士に準じる。諸侯の世子は封国を継承し、大夫は爵位を世襲しない。官を用いるのは徳に従い、爵位を授けるのは功績に従う。まだ爵位を賜っていない者は、天子の元士に準じて、その封国を治める。諸侯の大夫は、爵位と俸禄を世襲しない。
六礼とは、冠礼・婚礼・喪礼・祭礼・郷飲酒礼・士相见礼である。七教とは、父子・兄弟・夫婦・君臣・長幼・朋友・賓客の間の教化である。八政とは、飲食・衣服・技芸・別異・尺度・容量・数目・制度である。
