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十四編

告子下

第 12 篇

任国のある人が屋廬子に問うた。「礼と食べ物とでは、どちらが大切ですか」

屋廬子が答えた。「礼が大切です」

その人がまた問うた。「美色と礼とでは、どちらが大切ですか」

屋廬子が答えた。「礼が大切です」

その人が言った。「礼に従って食べ物を求めれば餓死し、礼に従わずに食べ物を求めれば食べ物が得られるという場合、それでも必ず礼に従わなければならないのでしょうか。親迎(しんげい)の礼に従って妻を迎えれば妻を得られず、親迎の礼に従わずに妻を迎えれば妻が得られるという場合、それでも必ず親迎しなければならないのでしょうか」

屋廬子は答えることができなかった。翌日、彼は鄒国に行き、このことを孟子に告げた。

孟子は言った。「この問いに答えることが何の難しいことがあるのか。物事の根本を考えず、ただ末端だけを比較すれば、一寸の厚さの木片でも高い建物よりも高くなりうる。金属は羽毛よりも重いが、それは金属製の釣り針一個が羽毛一車分よりも重いと言うのか。食べ物の中で最も重要な場合と礼の中で最も軽微な場合とを比較すれば、食べ物の方が重要であることは言うまでもない。美色の中で最も重要な場合と礼の中で最も軽微な場合とを比較すれば、美色の方が重要であることは言うまでもない。あなたは彼にこう答えなさい。『兄の腕をねじってその食べ物を奪えば食べ物が得られ、ねじらなければ得られないとしたら、あなたはねじるのか。東隣の家の壁を越えてその家の娘を抱き寄せれば妻が得られ、抱き寄せなければ得られないとしたら、あなたは抱き寄せるのか』」

曹交が問うた。「人は皆堯舜になれると言いますが、本当でしょうか」

孟子は言った。「その通りです」

曹交が言った。「私は、文王の身長が十尺、湯王の身長が九尺であったと聞いています。今、私の身長は九尺四寸余りあります。ただ穀物を食べているだけですが、どのようにすればよいのでしょうか」

孟子は言った。「これの何が難しいのか。ただ行えばよいのです。もしここに一人の人がいて、力を出しても一羽の雛さえ持ち上げられなければ、それは力のない人です。今、三千斤を持ち上げることができると言えば、それは力のある人です。では、烏獲(うかく)が持ち上げられる重さを持ち上げることができれば、それで烏獲となるのです。人はできないことを憂えるべきでしょうか。ただ行わないだけなのです。ゆっくり歩いて年長者の後ろに従うことを悌(てい)と言い、速く歩いて年長者の前に行くことを不悌と言います。ゆっくり歩くことなど、人ができないことでしょうか。ただ行わないだけなのです。堯舜の道は、ただ孝悌だけです。あなたが堯の衣服を着て、堯の言葉を唱え、堯の行いを行えば、これが堯となるのです。あなたが桀の衣服を着て、桀の言葉を唱え、桀の行いを行えば、これが桀となるのです」

曹交が言った。「私は鄒君にお目通りすることができれば、宿を借りることができます。どうか先生の門下に留まって学びたいと願います」

孟子は言った。「道というものは、大路のようなものです。どうして難しいことがありましょうか。人の問題は、ただ求めようとしないことにあるのです。あなたは帰って自ら求めなさい。師はたくさんいるのです」

公孫丑が問うた。「高子(こうし)が言いました。『小弁(しょうべん)の詩は、小人が作った詩である』と」

孟子は言った。「何を根拠にそう言うのか」

公孫丑が言った。「詩の中に恨みがあるからです」

孟子は言った。「高老先生が詩経を評するのは、実に固陋(ころう)である。もしここに一人の人がいて、越の人が弓を引いて彼を射ようとしたなら、彼は笑いながらそのことを話すことができる。他に理由はなく、越の人と疎遠だからである。もし彼の兄が弓を引いて彼を射ようとしたなら、彼は涙を流して泣きながらそのことを話すだろう。他に理由はなく、兄と親しいからである。小弁の恨みは、親しむ者を親しむことから生じている。親しむ者を親しむこと、これが仁である。高老先生が詩経を評するのは、実に固陋である」

公孫丑が言った。「凱風(がいふう)の詩には、なぜ恨みがないのでしょうか」

孟子は言った。「凱風の詩は、親の過ちが小さいからである。小弁の詩は、親の過ちが大きいからである。親の過ちが大きいのに恨まないのは、親からますます遠ざかることである。親の過ちが小さいのに恨むのは、わずかな刺激にも耐えられないことである。親からますます遠ざかることは不孝であり、わずかな刺激にも耐えられないことも不孝である。孔子は言った。『舜は最も孝行であった。五十歳になっても父母を慕っていた』と」

宋牼(そうこう)が楚に行こうとしていた。孟子は石丘で彼に出会い、問うた。「先生はどこへ行かれるのですか」

宋牼が言った。「私は秦と楚が戦っていると聞き、楚王に会って停戦を勧めようと思います。もし楚王が受け入れなければ、秦王に会って停戦を勧めようと思います。二人の王のうち、どちらかには必ず聞き入れてもらえるでしょう」

孟子は言った。「詳しく伺いたいとは思いませんが、ただあなたの大旨を知りたいのです。あなたはどのように説こうとお考えですか」

宋牼が言った。「私は『利(り)』をもって説こうと思います」

孟子は言った。「先生の志は大いなるものですが、先生のお使いになる名号はよろしくありません。先生が『利』をもって秦楚の王を説き、秦楚の王が利を好んで三軍を止めるならば、それは三軍の将士が利を好んで止めるのを喜ぶことになります。臣たる者が利をもって君に仕え、子たる者が利をもって父に仕え、弟たる者が利をもって兄に仕えるならば、君臣・父子・兄弟の間はついに仁義を捨てて、利をもって互いに接することになります。このような状態で国が滅びないことは、かつてありません。先生が『仁義』をもって秦楚の王を説き、秦楚の王が仁義を好んで三軍を止めるならば、それは三軍の将士が仁義を好んで止めるのを喜ぶことになります。臣たる者が仁義をもって君に仕え、子たる者が仁義をもって父に仕え、弟たる者が仁義をもって兄に仕えるならば、君臣・父子・兄弟の間は利を捨てて、仁義をもって互いに接することになります。このような状態で天下に王とならないことは、かつてありません。どうして必ず『利』と言わなければならないのですか」

孟子が鄒に住んでいたとき、季任(きじん)が任国で国政を代理しており、礼物を送って孟子と交際を結ぼうとした。孟子は礼物を受け取ったが、返礼をしなかった。孟子が平陸(へいりく)に住んでいたとき、儲子(ちょし)が斉の相国となり、礼物を送って孟子と交際を結ぼうとした。孟子は礼物を受け取ったが、返礼をしなかった。その後、孟子は鄒から任国に行き、季子を訪ねた。平陸から斉に行ったが、儲子を訪ねなかった。屋廬子は喜んで言った。「私は先生の落ち度を見つけました」

屋廬子が問うた。「先生は任国に行かれて季子を訪ねられましたが、斉に行かれて儲子を訪ねられなかったのは、儲子がただの相国だからでしょうか」

孟子は言った。「そうではない。書経に言う。『進献するには礼を重んじる。もし礼が進献の品にふさわしくなければ、それは進献しなかったのと同じである。これは心が進献に用いられなかったからである』と。これは儲子が進献の礼を全うしなかったからである」屋廬子は喜んだ。ある人が彼に問うと、屋廬子は言った。「季子は自ら鄒に来ることができなかったが、儲子は自ら平陸に来ることができたからである」

淳于髡(じゅんうこん)が言った。「名声と功業を重んじる者は、世を救うためである。名声と功業を軽んじる者は、己を全うするためである。あなたは斉の三卿の一人でありながら、君と民に対する名声と功業を何一つ立てずに斉を去られました。仁者は本来このようなものなのでしょうか」

孟子は言った。「低い地位にありながら、賢者の身で不賢な者に仕えることをしないのは、伯夷である。五次も湯王のもとに行き、五次も桀王のもとに行ったのは、伊尹である。汚れた君主を嫌わず、小さな官職も辞さなかったのは、柳下恵である。この三人のやり方は異なるが、その向かうところは同じである。同じとは何か。仁である。君子はただ仁をなせばよいのであって、どうしてやり方が同じでなければならないのか」

淳于髡が言った。「魯繆公(ろぼくこう)のとき、公儀子(こうぎし)が国政を執り、子柳(しりゅう)と子思(しし)が臣となりました。しかし魯の領土は侵され、ますます縮小しました。このように見ると、賢人は国にとって何の益もないということですね」

孟子は言った。「虞公(ぐこう)は百里奚(はくりけい)を用いなかったために滅びました。秦穆公(しんぼくこう)は百里奚を用いたために天下の覇者となりました。賢人を用いないために滅びる者があれば、賢人を用いるために覇者となる者もあるというのに、賢人など益がないと言うのは誤りです」

淳于髡が言った。「かつて、王豹(おうひょう)が淇水のほとりに住むと、河西の人は歌をよくするようになりました。綿駒(めんく)が高唐(こうとう)に住むと、斉の国の人は歌をよくするようになりました。華周(かしゅう)と杞梁(きりょう)の妻は、その夫の死をよく弔ったので、国の風俗が変わりました。内にいる者が外に及ぼす力は、このようなものです。あなたは三卿の一人でありながら、上下の功績が何もないのは、賢者は去るべきであり、留まるべきではないということでしょうか。また、あなたは斉に仕えながら、その君を王にすることもできなかった。これはあなたの恥辱ではないでしょうか」

孟子は言った。「斉の国で、どうして私が王となることを妨げるようなことを行うことがありましょうか。それは私の力の及ばないことです。君を王とすることは、私の力の及ぶことではありません」

孟子が言った。「虞国は百里奚を用いなかったために滅び、秦の穆公は彼を用いて覇者となった。賢人を用いなければ滅びるのであり、ただ侵略されるだけで済むことなどあり得ようか。」

淳于髡が言った。「昔、王豹が淇水のほとりに住むと、河西の人々は歌が上手くなった。綿駒が高唐に住むと、斉の西部の人々は歌が上手くなった。華周と杞梁の妻は、その夫を悼んでよく泣き、国の風俗を変えた。内にあるものは、必ず外に現れる。何かを行って効果のなかったものは、私淳于髡はまだ見たことがない。ゆえに、賢人がいないのである。もしいるならば、私は必ず彼らを知ることができる。」

孟子が言った。「孔子が魯の司寇となったが、用いられず、国君に従って祭祀に臨んだ際、祭肉が送られてこなかったので、彼は祭祀の冠も脱がずに急いで去った。孔子を知らない者は、彼が祭肉のために去ったと思った。孔子を知る者は、彼が魯君の失礼のために去ったと思った。実は孔子は、自らに小さな過ちを負わせて去ろうとしたのであり、無闇に去ろうとしたのではない。君子のなすことは、一般の人にはそもそも理解できないものである。」

孟子が言った。「五霸は、三王の罪人である。今の諸侯は、五霸の罪人である。今の大夫は、今の諸侯の罪人である。天子が諸侯の国に行くことを巡狩と言い、諸侯が天子の朝廷に参内することを述职と言う。春には耕作を視察し、不足する者を助け、秋には収穫を視察し、足りない者を救済する。天子の領内に入り、土地が開かれ、田畑が整い、老人が養われ、賢人が尊ばれ、優れた人材が位にあるならば、賞があり、土地をもって賞する。天子の領内に入り、土地が荒れ、老人が見捨てられ、賢人が排斥され、民を搾取する者が位にあるならば、罰がある。諸侯が一度朝見しなければ爵位を下げ、二度朝見しなければ領地を減らし、三度朝見しなければ六軍を派遣して討つ。ゆえに、天子は命令を下して討たせるが自らは攻めず、諸侯は命令を受けて攻めるが命令は下さない。五霸は、諸侯を脅して諸侯を攻めさせた者である。ゆえに言う、五霸は三王の罪人であると。五霸の中で、斉の桓公が最も強かった。葵丘の盟約において、諸侯は犠牲を縛り、盟書をその上に置いたが、血を飲まなかった。第一条の盟約に曰く、『不孝の者を誅罰し、既に立てた太子を廃せず、妾を妻とするな。』第二条に曰く、『賢人を尊び、人材を育て、徳ある者を顕彰せよ。』第三条に曰く、『老人を敬い、幼い者を慈しみ、賓客や旅人を忘れるな。』第四条に曰く、『士の官職は世襲させず、官職は兼任させず、士を選ぶには必ず適切にせよ。大夫を勝手に誅殺するな。』第五条に曰く、『至る所に堤防を築くな、食糧の流通を妨げるな、封賞があっても報告しないな。』最後に曰く、『凡そ同盟した者は、盟誓の後、友好を回復せよ。』今の諸侯は、皆この五つの禁令に違反している。ゆえに言う、今の諸侯は五霸の罪人であると。国君の悪を助長するのは、その罪はまだ小さい。国君の悪に迎合するのは、その罪は大きい。今の大夫は皆、国君の悪に迎合している。ゆえに言う、今の大夫は今の諸侯の罪人であると。」

魯が慎子を将軍にしようとした。孟子が言った。「民を先に教えずに使役することを、民を害するという。民を害する者は、堯・舜の時代には容れられなかった。たとえ一戦で斉に勝ち、さらに南陽を占領しても、それは許されない。」

慎子は不愉快そうに言った。「これは私慎滑厘には全く理解できないことです。」

孟子が言った。「はっきりとあなたに言おう。天子の土地は方千里である。千里に満たなければ、諸侯を接待するのに足りない。諸侯の土地は方百里である。百里に満たなければ、宗廟の典籍を守るのに足りない。周公は魯に封じられ、方百里であった。土地が足りなかったわけではないが、実際の封地は百里であった。太公は斉に封じられ、方百里であった。土地が足りなかったわけではないが、実際の封地は百里であった。今、魯の国は方百里の五倍の広さがある。もし聖王が興ったなら、魯の土地は減らされる側にあると思うか、増やされる側にあると思うか。無理にそちらから取ってこちらに与えるようなことは、仁人でさえしない。ましてや人を殺して土地を得ることなどあり得ようか。君子が君主に仕えるのは、ただ君主を正しい道に導き、仁に心を置くことに専念するのみである。」

孟子が言った。「今、君主に仕える者は言う、『私は君主のために領土を開き、府庫を満たすことができる』と。今のいわゆる良臣は、まさに昔で言う民の賊である。君主が道義を志さず、仁を行おうと志さないのに、富みを求めるのは、夏の桀を富ませるようなものである。また言う、『私は君主のために同盟国を結び、戦えば必ず勝つことができる』と。今のいわゆる良臣は、まさに昔で言う民の賊である。君主が道義を志さず、仁を行おうと志さないのに、彼のために力戦するのは、夏の桀を助けるようなものである。今の道に沿って進み、今の風気を変えなければ、たとえ天下全体を与えられても、一日も安らかに座っていることはできない。」

白圭が言った。「私は十分の一の税を実施したいと思いますが、いかがでしょうか。」

孟子が言った。「あなたのやり方は、貉国のやり方である。一万戸の国で、一人だけに陶器を作らせて、間に合うだろうか。」

白圭が言った。「いいえ、陶器が足りません。」

孟子が言った。「貉という国は、五穀が育たず、ただ黍だけが生える。城壁や宮室、宗廟や祭祀の礼がなく、諸侯の間で贈り物や宴を交わす礼もなく、様々な官吏や役所もない。だから十分の一の税で足りるのである。今、あなたは中原に住みながら、人倫を捨て、君子を不要とする。どうしてそれが行われようか。陶器を作る者が少なすぎるのも、国を治めることができない。ましてや君子がいなければなおさらである。堯・舜の税率よりも軽くしようとするのは、大貉・小貉である。堯・舜の税率よりも重くしようとするのは、大桀・小桀である。」

白圭が言った。「私の水害の治め方は、禹よりも優れています。」

孟子が言った。「あなたは間違っている。禹が水害を治めたのは、水の本性に従って導いたのである。ゆえに禹は四海を水の帰趨とした。今、あなたは隣国を水の帰趨としている。水が逆流するのを洚水と言う。洚水は洪水であり、これは仁人が嫌うところである。あなたは間違っている。」

孟子が言った。「君子が誠実でなければ、どうして節操を持つことができようか。」

魯が楽正子に政事を任せようとした。孟子が言った。「私はこのことを聞いて、喜んで眠れなくなった。」

公孫丑が言った。「楽正子は強いのですか。」

孟子が言った。「いいえ。」

「彼には知恵がありますか。」

孟子が言った。「いいえ。」

「彼は見聞が広いのですか。」

孟子が言った。「いいえ。」

「では、なぜ喜んで眠れなくなったのですか。」

孟子が言った。「彼は人柄として善を好むからである。」

「善を好めばそれで十分ですか。」

孟子が言った。「善を好めば天下を治めるのに十分である。ましてや魯国であればなおさらである。もし本当に善を好むならば、四海の内の人々が、千里の遠さをも厭わずに、善を告げに来るだろう。もし善を好まなければ、人々は彼の真似をして、『ふん、私はとっくに知っている』と言うだろう。そのふんという声と顔つきが、人を千里の外に拒むのである。士が千里の外に留まれば、讒言を好み、阿諛する者が来る。讒言を好み、阿諛する者と共にいて、国を治めようとして、できるだろうか。」

陳子が言った。「昔の君子は、どのような場合に出仕したのですか。」

孟子は言った。「就任するには三つの場合があり、辞去するにも三つの場合がある。君主が恭敬の礼をもって迎え、その上で彼の主張を行おうと言えば、就任する。礼遇は衰えないが、主張が行われなければ、辞去する。次に、主張は行われないが、君主が恭敬の礼をもって迎えれば、就任する。礼遇が衰えれば、辞去する。最も劣るのは、朝に食がなく、夕方にも食がなく、飢えて家を出ることもできない場合である。君主がこれを聞いて、『私は大義から言えば彼の道を行うことができず、またその主張に従うこともできない。それでいて彼を私の土地で飢えさせておくのは、恥ずかしいことだ』と言い、彼を周済する。これも受け入れてよいが、飢え死にを免れるにすぎない。」

孟子は言った。「舜は田畑の中から起こり、傅説は版築の労役の中から選ばれ、膠鬲は魚や塩の商人の中から選ばれ、管夷吾は獄官の手から解放されて用いられ、孫叔敖は海辺から選ばれ、百里奚は市場の中から選ばれた。それゆえ、天が大いなる責任をこの人に降そうとする時は、必ずまずその心を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その身体を飢えさせ、その身を窮乏させ、その為すところを常に乱して意のままにならなくする。これによってその心を震撼させ、その性情を堅忍にし、もともと備わっていない能力を増やすのである。人は常に過ちを犯し、それによって初めて改めることができる。心に困苦し、思慮が塞がって、初めて奮い立つことができる。顔色に現れ、声に発して、初めて人に理解される。一国において、内部に法度を堅持する大臣や君主を補佐する士がおらず、外部に勢力の釣り合う隣国や外患がなければ、その国はしばしば滅びる。この後に及んで、憂患が人をして生存せしめ、安逸享楽が人をして滅亡せしめることを知るのである。」

孟子は言った。「教育にもまた様々な方法がある。私が彼を教え諭すことを不屑とする、これ自体が一つの教えなのである。」