
墨子
墨家の創始・兼愛非攻
『墨子』は、戦国初期の思想家墨翟およびその弟子・後学による著作を集めたものであり、先秦時代の墨家学派の中核をなす文献である。墨家は儒家と並んで「顕学」と称され、戦国時代に大きな影響を及ぼした。全編は本来七十一篇あったが、現在は五十三篇が伝わっている。内容は政治倫理、論理思弁、科学技術、軍事防衛にわたり、儒家とは異なる、極めて実践的な思想の姿を示している。
倫理政治の面では、墨子は「兼愛」「非攻」「尚賢」「節用」「非楽」などを唱え、等級特権や侵略戦争に反対し、実際の利益や民衆の福祉を基準とした政策を重視した。その「兼愛」の思想は、親疎・貴賤の区別を打破することを求め、当時としては急進的な平等の色彩を帯びていた。認識論においては、墨子は経験と検証を重んじ、「三表法」を是非を判断する基準として提示し、中国論理学の先駆けとなった。
また、『墨子』には光学(小孔成像)、力学、幾何学、城郭防衛のための器械製作など、古代の科学技術に関する多くの史料が保存されており、先秦時代の工匠や学者の高度な理性が示されている。文体は質朴で剛健であり、対話や論弁が多く用いられている。『兼愛』『非攻』などの政治論の名篇に加え、『公輸』のように墨子が楚の宋攻めを止めた故事を記した古典的叙述も含まれている。
歴代、墨学は一時的に途絶えた時代もあるが、『墨子』は諸子百家の重要な一翼として、中国古代思想の多元的な構造を理解するための必読の書であり続けている。道徳的理想、論理的方法、技術的実践を融合させたその内容は、中華文明においてしばしば過小評価されてきた実務的・革新的精神を体現している。
