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五十三篇

尚同中

第 12 篇

墨子が言うには、当今の時代、上古の民衆がまだ行政の長官を持たなかった頃に遡ると、おおよそ次のような言い伝えがある。「天下の人々は、是非の判断がそれぞれ異なっていた」。それゆえ、一人いれば一つの道理、十人いれば十の道理、百人いれば百の道理があった。人数が増えれば増えるほど、彼らの言うところの道理もまた増えていった。それゆえ、各自が自らの道理を正しいとし、他人の道理を誤りとして、互いに非難し合った。家庭内では父子兄弟が互いに恨み合い、皆が離散の心を抱き、和睦することができず、余力があっても互いに助け合おうとせず、良い道理を隠して互いに教え合わず、余った財物が腐っても互いに分け与えようとしなかった。天下の混乱は、まるで禽獣のようであった。君臣・上下・長幼の秩序や、父子兄弟の礼節がなかったため、天下は大いに乱れたのである。

民衆が行政の長官を持たず、天下の道義を統一できなかったために天下が混乱することを理解したので、天下の賢良で、聖智で、弁慧な者を選び、彼を天子に立てて、天下の道義を統一する仕事に従事させた。天子がすでに定められると、また一人の耳目で見聞きするだけでは、独りで天下の道義を統一することはできないと考え、天下に名高い賢良で、聖智で、弁慧な者を選び、彼らを三公に任命し、共に天下の道義を統一する仕事に従事させた。天子と三公がすでに定められると、また天下の地域は広大で、山林や遠方の民を統一して管理することはできないと考え、天下を分割し、多くの諸侯の国君を設置し、彼らにその国の道義を統一する仕事に従事させた。国君がすでに定められると、また一人の耳目で見聞きするだけでは、独りでその国の道義を統一することはできないと考え、その国の中から賢人を選び、彼らを左右の将軍・大夫、さらには郷里の長に任命し、共にその国の道義を統一する仕事に従事させた。

天子、諸侯の国君、民衆の行政の長官が、すでに確定した。天子は政令を発し教化を施して、次のように言った。「およそ良い事を聞き見たら必ず上級に報告し、悪い事を聞き見た場合も必ず上級に報告せよ。上級が正しいとするものは必ず正しいとし、上級が誤りとするものは必ず誤りとせよ。自分に良い計略があれば広く進言し、上級に過失があれば諫言せよ。上に向かっては上級に道義を統一し、下で徒党を組んで私利を図る心を持ってはならない。上級がこれを知れば賞を与え、万民が聞けばこれを称賛するであろう。もし良い事を聞き見ても上級に報告せず、悪い事を聞き見ても上級に報告しないならば。上級が正しいとするものを正しいとせず、上級が誤りとするものを誤りとしないならば。自分に良い計略があっても広く進言せず、上級に過失があっても諫言しないならば。下で徒党を組み私利を図って上級を非難するならば、上級がこれを知れば罰を与え、万民が聞けばこれを非難し誹謗するであろう」。それゆえ古代の聖王は刑法や政令、賞賜や称賛を非常に明察かつ慎重に信頼できるものとしたため、天下の人々は皆、上級の賞賜や称賛を得ることを望み、上級の誹謗や罰を恐れたのである。

それゆえ里長は天子の政令に従い、その里内の道義を統一した。里長がすでに里内の道義を統一すると、その里内の万民を率いて上に向かって郷長に統一させ、次のように言った。「およそ里内の万民は、皆上に向かって郷長に統一し、下で徒党を組んで私利を図ってはならない。郷長が正しいとするものは必ず正しいとし、郷長が誤りとするものは必ず誤りとせよ。悪い言葉を除き、郷長の良い言葉を学べ。悪い行いを除き、郷長の良い行いを学べ」。郷長はもともと郷の中の賢人であり、郷全体の者が郷長に従えば、郷がどうして治まらない理由があろうか。郷長が郷をよく治め、郷が治まった理由を考察すると、それは何によるのか。答えていうには、ただ彼がその郷内の道義を統一できたから、郷が治まったのである。

郷長はその郷を治め、郷がすでに治まった。さらにその郷内の万民を率いて上に向かって国君に統一させ、次のように言った。「およそ郷内の万民は、皆上に向かって国君に統一し、下で徒党を組んで私利を図ってはならない。国君が正しいとするものは必ず正しいとし、国君が誤りとするものは必ず誤りとせよ。悪い言葉を除き、国君の良い言葉を学べ。悪い行いを除き、国君の良い行いを学べ」。国君はもともと国の中の賢人であり、国全体の者が国君に従えば、国がどうして治まらない理由があろうか。国君が国をよく治め、国が治まった理由を考察すると、それは何によるのか。答えていうには、ただ彼がその国の道義を統一できたから、国が治まったのである。

国君はその国を治め、国がすでに治まった。さらにその国内の万民を率いて上に向かって天子に統一させ、次のように言った。「およそ国内の万民は、皆上に向かって天子に統一し、下で徒党を組んで私利を図ってはならない。天子が正しいとするものは必ず正しいとし、天子が誤りとするものは必ず誤りとせよ。悪い言葉を除き、天子の良い言葉を学べ。悪い行いを除き、天子の良い行いを学べ」。天子はもともと天下の仁徳ある者である。天下の万民が皆天子に従えば、天下がどうして治まらない理由があろうか。天子が天下をよく治め、天下が治まった理由を考察すると、それは何によるのか。答えていうには、ただ彼が天下の道義を統一できたから、天下が治まったのである。

天下がすでに上に向かって天子に統一されたが、まだ上に向かって天に統一されていなければ、天災はなお止むことはないであろう。それゆえ、あたかも天が寒暖の不調、雪霜雨露の時節に合わないこと、五穀の実らないこと、六畜の盛んでないこと、疫病の流行、暴風や苦雨を降らせ、絶え間なく到来させるのは、これが天の下す罰であり、上に向かって天に統一しない者を罰するためのものである。

それゆえ古代の聖王は、上天と鬼神が求めるものを明らかにし、上天と鬼神が憎むものを避けて、天下に利益をもたらし、天下の害を取り除こうとした。そのため天下の万民を率いて、斎戒し沐浴し、清らかに酒醴と祭具を整えて、上天と鬼神を祭祀した。彼らが鬼神に仕えるにあたり、酒醴や祭具は清らかでないことを敢えてせず、犠牲は肥えていないことを敢えてせず、珪璧や幣帛は規格に合わないことを敢えてせず、春秋の祭祀は時節を逃すことを敢えてせず、訴訟の審理は公正でないことを敢えてせず、財物の分配は均等でないことを敢えてせず、居処は怠慢であることを敢えてしなかった。言うには、彼らが行政の長官としてこのようにするから、上では上天と鬼神に対して彼ら行政の長官への深厚な情誼があり、下では万民に対して彼ら行政の長官への利便がある。上天と鬼神が深厚に遇する者であり、努力して務めるならば、上天と鬼神の福佑を得ることができる。万民が利便と感じる者であり、努力して務めるならば、万民の親附を得ることができる。彼らが施政をこのようにするから、謀事は成功し、事業は成就し、内を守れば堅固であり、外を征すれば勝利を得る。言うには、これは何によるのか。答えていうには、ただ同一の道義によって施政するからである。それゆえ古代の聖王は施政をこのようにしたのである。

さて、天下の人々は言う。「当今の世において、天下の行政長官はまだ廃止されておらず、それでいて天下が混乱する原因は何か」と。墨子は言う。「当今の世の行政長官は、根本においてすでに古代とは異なっている。あたかも有苗氏が五刑を用いたのと同じである。昔、聖王は五刑を制定して、天下を治めるために用いた。ところが有苗氏が五刑を制定すると、かえって天下を乱すために用いた。それでは、これは刑罰が悪いのだろうか。刑罰の用い方が悪いだけである。ゆえに先王の書『呂刑』に言う。『苗民は政令に従わず、ゆえに刑罰を加えた。そこで五種の殺人の刑罰を制定し、これを法と称した』と。これは、刑を用いることに巧みな者はそれで民を治め、刑を用いることに巧みでない者はそれで五種の殺人の刑罰とする、という意味である。それでは、これは刑罰が悪いのだろうか。刑罰の用い方が悪いのであり、ゆえに最終的に五種の殺人の刑罰となったのである。ゆえに先王の書『術令』に言う。『ただ口だけが、善い言葉を言うこともできれば、戦いを引き起こすこともできる』と。これは、口を用いることに巧みな者は善い言葉を言い、口を用いることに巧みでない者はそれで讒言・残害・寇盗・征战を行う、という意味である。それでは、これは口が悪いのだろうか。口の用い方が悪いだけであり、ゆえに最終的に讒言・賊害・寇盗・征战となったのである。

ゆえに、古代に行政長官を設置したのは、民を治めるためである。それは、あたかも糸に頭緒があり、網に総綱があるようなものであり、天下の淫暴の徒を駆り立てて道義を統一するためのものである。ゆえに先王の書『相年』に言う。『国を建て都を設け、ここに天子・国君を立てる。それは放縦のためではない。卿・大夫・師長を設ける。それは安逸のためではなく、彼らに職務を分かち治めさせ、天下を公正にするためである』と。これは、古代に上天・鬼神が国都を建て行政長官を設けたのは、彼らの爵位を高め、俸禄を増やし、彼らを富貴・安逸にするために安置したのではなく、万民のために利を興し害を除き、貧者を富ませ、少ない者を多くし、危うい者を安定させ、乱れた者を治めるためである、という意味である。ゆえに古代の聖王の施政はこのようであったのである。

今の王公大人の施政する政令・刑罰は、これとは反対である。彼らは自分の寵臣、宗族、父兄、故旧を左右に安置し、行政長官に設置する。民は、上(君主)が行政長官を設置するのが本当に民を治めるためではないことを知っている。ゆえに互いに結託し、隠蔽・隠匿し合って、上に向かって統一されることを肯んじない。ゆえに上下の道義は同じではない。もし上下の道義が同じでなければ、賞賛・誉め言葉は人を善に勧めるに足りず、刑罰は暴行を阻止するに足りない。どうしてこれが分かるのか。言う。上(君主)が立てられて国を治め、民の行政長官となり、『この人は賞すべきである。私は彼を賞そう』と言う。もし上下の道義が同じでなければ、上の者が賞するものは、まさに衆人が非難するものである。言う。衆人は彼と共に処し、衆人の間で非難を受ける。すると、たとえ彼が上の賞を得ても、彼を勧めるに足りない。上(君主)が立てられて国を治め、民の行政長官となり、『この人は罰すべきである。私は彼を罰そう』と言う。もし上下の道義が同じでなければ、上の者が罰するものは、まさに衆人が誉めるものである。言う。衆人は彼と共に処し、衆人の間で誉められる。すると、たとえ彼が上の罰を受けても、彼を阻止するに足りない。もし行政長官を立てて国を治め、民の行政長官として、賞賛・誉め言葉が人を善に勧めるに足りず、刑罰が暴行を阻止するに足りなければ、これは先に私が言った、民が生まれたばかりでまだ行政長官がいなかった時と同じではないか。もし行政長官がいることが、行政長官がいない時と同じであれば、これは民を治め、民を統一する方法ではない。

ゆえに古代の聖王は、まさに尚同を主張して各級の行政長官を設立した。それゆえ、上上下下の真実の情況が相互に通じ合うことができた。上に隠された政事や漏れた利益があれば、下の者がそれを発見して利益を得ることができた。下に積まれた怨恨や潜在する危害があれば、上の者がそれを発見して除去することができた。ゆえに、数千万里の外で、もし人が善事を行えば、その家族がまだ完全に知らず、郷里がまだ完全に聞かなくとも、天子はすでにそれを知って賞を与えた。数千万里の外で、もし人が悪事を行えば、その家族がまだ完全に知らず、郷里がまだ完全に聞かなくとも、天子はすでにそれを知って罰を与えた。ゆえに、天下の人々は皆、恐れ、震え、警戒し、戦慄し、邪悪・暴虐な事を敢えて行わず、皆言った。『天子の視聴は神明のようである』と。先王の言葉に言う。『これは神明なのではない。彼が他人の耳目をして自分の視聴を助けさせ、他人の口舌をして自分の言談を助けさせ、他人の心思をして自分の思考を助けさせ、他人の手足をして自分の行動を助けさせるからである』と。彼の視聴を助ける者が多ければ、彼の聞き見る所は遠くなる。彼の言談を助ける者が多ければ、彼の恩徳・教化が慰撫する範囲は広くなる。彼の思考を助ける者が多ければ、彼の謀略・決定は迅速に得られる。彼の行動を助ける者が多ければ、彼の事務処理は迅速に成功する。

ゆえに、古代の聖人が事業を成就し、成功を得て、名声を後世に伝えることができたのは、他の特別な理由があるからではない。ただ、尚同の原則をもって政事を治めることができたからである、と言うだけである。ゆえに先王の書『周頌』に言う。『来朝してかの君王に謁見し、その典章制度を請い求める』と。これは、古代の諸侯が春秋の季節に天子の朝廷に朝見・聘問し、天子の厳しい教えを受けたことを言う。そしてその後、国に帰って治めれば、政令の及ぶ所で、敢えて従わない者はいなかった。その当時、根本において、敢えて天子の教令を乱す者はいなかった。『詩経』に言う。『我が馬は黒鬣の白馬、六本の手綱は潤いありて光る。また馳せまた駆け、あまねく諮詢(相談)する』と。また言う。『我が馬は青黒い馬、六本の手綱は糸のごとし。また馳せまた駆け、あまねく諮議(相談)する』と。これは、古代の諸侯が善事・不善事を見聞きすると、皆馳せ駆けて馬を走らせて天子に報告したことを言う。ゆえに、賞賜は賢人に当たり、刑罰は暴徒に当たり、無辜の人を殺さず、有罪の人を逃がさなかった。これが尚同の効能である。

ゆえに墨子は言う。「如今天下の王公大人・士人君子が、もし本当に自分の国を富ませ、人民を多くし、刑政を治め、社稷を安定させたいと欲するならば、尚同の原則を審らかにしないではならないことを認識すべきである。これが治めの根本である。」