第三十八回 三分を定めて隆中に決策す 長江を戦いて孫氏讎を報ず
劉備、二度諸葛亮を訪うも会えず、三度目を望む。関羽曰く「兄長、自ら二度もお訪ねになり、礼儀が過ぎております。きっと諸葛亮は虚名ばかりで真の才学なく、お会いするのを避けておるのでしょう。兄長、何ゆえこのような者にそこまで執着なさるのですか」と。劉備曰く「違う。昔、斉の桓公が東郭の平民に会おうとして、五度往復してようやく一面を得た。まして我が会おうとするのは大賢である」と。張飛曰く「兄者、間違っております。この田舎者ごとき、どこが大賢でありましょうか。今回は兄者が行かれるには及びません。もし彼が来なければ、縄で縛って連れて参ります!」と。劉備、叱って曰く「汝、周の文王が姜子牙を訪ねた故事を知らぬのか。文王でさえ賢者をかくも敬った。汝、何と無礼なことよ!今回は汝、行くな。我は雲長と行く」と。張飛曰く「両方の兄者が行かれるならば、小弟、どうして遅れを取りましょうか」と。劉備曰く「汝も共に行くならば、礼を失してはならぬ」と。張飛、承諾す。
かくて三人、馬に乗り従者を連れて隆中へ向かう。草廬より半里のところで、劉備は馬を下りて歩き、折よく諸葛均に出会う。劉備、急ぎ礼を施し問うて曰く「令兄は庄におられますか」と。諸葛均曰く「昨晩、戻ってきました。将軍、今日お会いになれましょう」と。言い終えると、飄然と独り去って行く。劉備曰く「今回こそ幸い、先生にお会いできよう!」と。張飛曰く「この男、無礼です! 我らを庄まで案内してもよかろうに! なぜ一人で去ってしまったのです!」と。劉備曰く「彼には彼の用事がある。無理強いできようか」と。
三人、庄の前に着き門を敲くと、童子が開けて出て来る。劉備曰く「仙童、お手数ながらお取り次ぎ願いたい。劉備、お招きにより先生にお目にかかりたく参上した」と。童子曰く「今日、先生はおられますが、ただいま草堂で昼寝をしてまだお目覚めになりません」と。劉備曰く「それならば、しばらく報せずともよい」と。関羽、張飛の二人に命じ、ただ門口にて待たせる。劉備、緩歩して入り、先生が仰向けに草堂の几案の席に寝ておられるのを見る。劉備、拱手して階下に立つ。
半時ほど経つも、先生、目覚めず。関羽、張飛、外に久しく立ち、動きなく、中に入りて劉備を見れば、なおも侍立している。張飛、大いに怒り、関羽に曰く「この先生、何と傲慢なことよ! 我が兄者が階下に侍立しているのに、彼は高く臥し、起きようともせぬ! 我、屋後に火を放ち、起きるかどうか見てやろう!」と。関羽、再三押し止める。劉備、なおも二人に門外にて待つよう命ず。堂の上を見れば、先生、身を返し起き上がらんとして、またもや壁に向かいて寝入る。童子、報ぜんとす。劉備曰く「しばらく驚かすな」と。また一辰(時)立ちて、諸葛亮、ようやく目覚め、口に詩を吟ず:
大夢誰か先ず覚えん、平生は我自ら知る。草堂の春睡足りて、窗外の日遅々たり。
大夢誰か先ず覚えん、平生は我自ら知る。
草堂の春睡足りて、窗外の日遅々たり。
諸葛亮、詩を吟じ終え、身を返して童子に問うて曰く「俗客が来たか」と。童子曰く「劉皇叔がこちらにおられ、立ちて久しくお待ちでございます」と。諸葛亮、ここに起きて曰く「何ゆえ早く報せぬ! まだ着替えさせよ」と。かくて後堂に入る。また半時ほど経て、ようやく衣冠を整え出でて迎う。劉備、諸葛亮の身の丈八尺、顔は冠の玉の如く、頭には綸巾を戴き、身には鶴氅を披き、飄然として神仙の気概あるを見る。劉備、下って拝し曰く「漢室の末裔、涿郡の愚かなる者、久しく先生の高名を承り、耳に雷の如く響き渡りました。先日二度お訪ねするも、一面を得ず、書案に賤名を残しましたが、先生、ご覧じられたでしょうか」と。諸葛亮曰く「南陽の田舎者、生来の怠け者にて、たびたび将軍のご尊駕を辱め、汗顔の至りに堪えません」と。
二人、礼を交わし、主客の席に着く。童子、茶を進む。茶が終わり、諸葛亮曰く「昨日、書状の内容を拝見し、将軍の憂国憂民の心、痛いほどに感じ入りました。ただ、我が諸葛亮、若くして才学浅く、下問に応えるに誤りあるを恐れます」と。劉備曰く「司馬徳操の言葉、徐元直の言葉、虚談でありましょうか。願わくは先生、我が鄙賤を嫌わず、お手数ながらご教示賜らんことを」と。諸葛亮曰く「徳操、元直は、世の高士にてあります。我が諸葛亮はただの耕夫に過ぎません。どうして天下の大事を語り得ましょうか。お二人のご推薦は誤っております。将軍、何ゆえ美玉を捨てて頑石を求められるのですか」と。劉備曰く「大丈夫、経世済民の奇才を懐きながら、どうして白髪のまま山林泉下に朽ち果てられましょうか。願わくは先生、天下蒼生を思い、我が愚鈍を開き、ご教示賜らんことを」と。諸葛亮、笑いて曰く「将軍のご志望をお聞かせ下さい」と。劉備、人を退け、席に近づき語って曰く「漢室傾頽し、奸臣が権柄を盗み、我、身の程知らずも、天の下に大義を伸ばさんと欲すれども、智謀浅短にして、今に至るも成すところなし。ただ先生のみ、我が愚鈍を開き、困厄を救い給わんことを。実に万幸にございます」と。
諸葛亮曰く「董卓の乱以来、天下の豪傑、並び起こりました。曹操の勢力、袁紹に及ばざるも、ついに袁紹を勝ち得たのは、天時のみにあらず、人の謀略によるものです。今や曹操はすでに百万の衆を擁し、天子を挟みて諸侯に号令す。これはまことに彼と争鋒すべからず。孫権は江東に拠り、すでに三代を経、地勢険要にして民は帰服す。これは外援とすべく、図るべからず。荊州は北に漢水・沔水を拠え、利は南海に達し、東は呉郡・会稽に連なり、西は巴郡・蜀郡に通ず。これは用武の地なれど、その主あらざれば守る能わず。これはおそらく天、将軍を資くる所、将軍、これを棄てるべけんや。益州は険要にして塞がり、沃野千里、天府の国、高祖、これに拠りて帝業を成せり。今や劉璋、昏庸にして懦弱、民は富み国は殷実なれども、存恤を知らず、智謀ある者は明君を得んと欲す。将軍は帝室の冑、信義天下に聞こえ、英雄を総攬し、賢を思うこと渇きの如し。もし荊州・益州を跨り、険要を守り、西は諸戎と和し、南は彝・越を撫し、外は孫権と結び、内は政理を修めば、天下に変あるを待ちて、上将一人を命じ、荊州の軍を率い、宛・洛に向かわしめん。将軍、みずから益州の軍を率い、秦川より出撃せば、民、誰か箪食壺漿して将軍を迎えざらんや。もし真に能くこれをなさば、大業成るべく、漢室興るべし。これ、我が諸葛亮が将軍の為に謀る所の策なり。願わくは将軍、これを考えたまえ」と。言い終え、童子に命じて一軸の画を取らせ、庁堂の中央に掛け、指して劉備に曰く「これは西川五十四州の図にございます。将軍、覇業を成さんと欲せば、北は曹操に天時を占めさせ、南は孫権に地利を占めさせ、将軍は人和を占めよ。まず荊州を取りて家と為し、後、西川を取りて基業を建て、以て鼎足の勢いを成し、然る後、中原を図るべし」と。
劉備、聞き終え、席を離れ拱手して謝し曰く「先生の御言葉、たちまち我が茅塞を開き、雲を払い青天を見るが如し。されど荊州の劉表、益州の劉璋は、いずれも漢室の宗親、我、どうして忍んで奪い得ましょうか」と。諸葛亮曰く「我、夜に天象を観るに、劉表は久しからずして世を去らん。劉璋は業を立てるの主にあらず。長き後には必ず将軍に帰すべし」と。劉備、聞き、叩頭して拝謝す。この一席の話、諸葛亮、茅廬を出でざるに、すでに天下三分を知る、実に万古、人に及ぶ能わざる所なり。後人、詩を以て讚えて曰く:
豫州、当時孤窮を嘆き、何の幸か南陽に臥龍あり。他年分鼎の処を識らんと欲せば、先生、笑いて画図の中を指す。
豫州、当時孤窮を嘆き、何の幸か南陽に臥龍あり。
他年分鼎の処を識らんと欲せば、先生、笑いて画図の中を指す。
劉備、拝して諸葛亮に請いて曰く「我、名微徳薄なれども、願わくは先生、鄙賤を嫌わず、山を出でて助けたまえ。我、恭しく明教を聴かん」と。諸葛亮曰く「我、久しく耕鋤を楽しみ、世に応ずるに懶けて、命に従う能わず」と。劉備、涙して曰く「先生、山を出でずんば、天下蒼生如何にせん」と。言い終え、涙、袍袖を沾し、衣襟尽く湿る。諸葛亮、その心の至誠なるを見て、ここに曰く「将軍、既に嫌わず、願わくは犬馬の労を致さん」と。
劉備は大いに喜び、関羽と張飛を呼び入れて拝謁させ、金銀や絹織物の礼物を差し出した。諸葛亮は固辞して受け取らなかった。劉備が言うには、「これは大賢を招聘する礼ではなく、ただ我が劉備の心ばかりのしるしに過ぎません」と。諸葛亮はようやくこれを受け取った。そこで劉備らは荘園に泊まり、一夜を共に過ごした。翌日、諸葛均が帰って来たので、諸葛亮は言い含めて、「私は劉皇叔の三度の訪問による恩義を受け、出仕せざるを得なくなった。お前はここで農耕に励み、田畑を荒らしてはならない。私が功を成した暁には、すぐに隠棲するつもりだ」と。後世の人が詩を作って嘆じた。
身未だ昇騰せずして退くの歩を思い、功成らば応に憶うべし去る時の言。
只だ先主の叮嚀の後、星落つ秋風五丈原。
また古風の一篇があり、曰く、
高皇手に提ぐ三尺の雪、芒砀の白蛇夜に血を流す。
秦を平らげ楚を滅ぼして咸陽に入り、二百年前に幾んど絶えんとす。
大いなるかな光武、洛陽に興り、桓霊に伝わりて又崩裂す。
献帝都を遷して許昌に幸し、紛紛たる四海に豪傑生ず。
曹操専権にして天時を得、江東の孫氏鴻業を開く。
孤窮の玄徳天下を走り、独り新野に居り民の危を愁う。
南陽の臥龍大志有り、腹内に雄兵正奇を分かつ。
只だ徐庶の臨行の語に因り、茅廬三顧心相知る。
先生爾の時年三九、琴書を收拾し隴畝を離る。
先ず荊州を取り後川を取らん、大いに経綸を展べて天を補うの手。
縦棋の舌上に風雷を鼓し、談笑の胸中星斗を換う。
竜騜虎視して乾坤を安んじ、万古千秋名不朽ならん。
劉備ら三人は諸葛均に別れを告げ、諸葛亮と共に新野へ帰った。劉備は諸葛亮を師として敬い、食事は同じ机、寝る時は同じ床で、終日天下の大事を論じ合った。諸葛亮が言うには、「曹操は冀州に玄武池を築いて水軍を訓練しており、必ず江南を侵す心積もりです。密かに人を江の向こうへ遣わし、虚実を探らせるべきです」と。劉備はその言を聞き入れ、人を江東へ遣わして消息を探らせた。
さて孫権は、孫策の死後、江東に拠って父兄の基業を継ぎ、広く賢能の士を招き入れ、呉会に館舎を建て、顧雍・張紘に命じて四方の賓客を接待させた。ここに数年、互いに推挙し合った。当時、会稽の闞沢(字は徳潤)、彭城の厳畯(字は曼才)、沛県の薛綜(字は敬文)、汝南の程秉(字は徳枢)、呉郡の朱桓(字は休穆)、陸績(字は公紀)、呉人の張温(字は惠恕)、会稽の駱統(字は公緒)、烏程の呉粲(字は孔休)ら、この数人が先後して江東に到着した。孫権は彼らを非常に尊敬し礼遇した。また数人の良将を得た。汝陽の呂蒙(字は子明)、呉郡の陸遜(字は伯言)、琅琊の徐盛(字は文向)、東郡の潘璋(字は文珪)、廬江の丁奉(字は承淵)である。文武の官たちは、共に彼を補佐した。ここにおいて江東は人材が集まることを謳われた。
建安七年、曹操は袁紹を破り、使者を江東に遣わして、孫権に子を京師に入朝させて侍従させるよう命じた。孫権は決断に迷った。呉太夫人は周瑜・張昭らを呼び、面会して議させた。張昭が言うには、「曹操が我々に子を入朝させようとするのは、諸侯を牽制する方法です。しかし行かせなければ、彼が出兵して江東を攻める恐れがあり、情勢は必ず危うくなります」と。周瑜が言うには、「将軍は父兄の遺業を継ぎ、六郡の民を兼有し、兵は精強で糧は充足し、将士は命令に従います。何の逼迫があって、人質を他人に送らねばならないのでしょうか? 人質を一度送れば、曹氏と連合せざるを得ず、彼が召喚の命令を出せば、行かざるを得ません。そうなれば他人に制御されることになります。送らない方が良く、徐ろに彼の変化を観察し、別の良策を用いてこれを防ぐべきです」と。呉太夫人が言うには、「公瑾の言う通りです」と。孫権はそこで周瑜の言に従い、使者を謝絶し、子を送らなかった。これにより曹操は南下して江南を攻める意図を持つようになった。しかし北方が平定されておらず、南征の暇はなかった。
建安八年十一月、孫権は兵を率いて黄祖を討ち、長江の上で戦った。黄祖の軍は敗れた。孫権の部将凌操は、軽い小舟に乗って真っ先に突撃し、夏口に斬り込んだが、黄祖の部将甘寧に一矢で射殺された。凌操の子凌統は、当時十五歳であったが、奮闘して父の屍を奪い返した。孫権は戦況が不利と見て、兵を収めて東呉へ帰った。
さて孫権の弟孫翊は丹陽太守であった。孫翊は性格が剛直で酒を好み、酔ってはしばしば兵士を鞭打った。丹陽の督将嬀覧・郡丞戴員の二人は、常に孫翊を殺そうとする心を持ち、孫翊の従者辺洪と心腹を結び、共謀して孫翊を害そうと図った。当時、諸将と県令たちは、皆丹陽に集まっていた。孫翊は宴を設けて彼らを接待した。孫翊の妻徐氏は美しく聡明で、占いを非常に得意としていた。この日、一卦を占うと、卦象は大凶を示したので、徐氏は孫翊に外へ出て客に会わないように勧めた。孫翊は聞き入れず、そこで皆と共に集まった。
夕方、宴が終わり散会となると、辺洪は刀を帯びて門外に従い、すぐに刀を抜いて孫翊を斬り殺した。嬀覧・戴員はそこで罪を辺洪に擦り付け、市で彼を斬首した。二人は勢いに乗って孫翊の家産と侍妾を奪い取った。嬀覧は徐氏の美貌を見て、彼女に言うには、「我はお前の夫の仇を討ったのだ。お前は我に従え。従わなければ死あるのみ」と。徐氏は言うには、「夫が死んで間もなく、すぐにお従いするのは忍びません。月末の日に、祭りを設けて喪服を除くまで待ち、それから結婚しても遅くはありません」と。
嬀覧はこれに従った。徐氏はそこで密かに孫翊の腹心の旧将孫高・傅嬰の二人を府に招き入れ、泣いて彼らに言うには、「先夫が在世の折、常に二人の将軍は忠誠で義理堅いと申しておりました。今、嬀・戴の二賊が我が夫を謀殺し、ただ辺洪に罪を擦り付け、我が家の財物や童僕・婢女をことごとく分捕りました。嬀覧はまた私を強引に占めようとしており、私は既に彼を騙って承諾し、その心を安心させました。二人の将軍は人を遣わして夜のうちに呉侯に報告し、同時に密計を設けてこの二賊を討ち、この仇と恥辱を報いて下さい。私は生死ともにあなたがたの恩徳に感謝いたします」と。言い終えてまた拝んだ。孫高・傅嬰は皆泣いて言うには、「我々は平素府君の恩遇を蒙りながら、今日すぐに殉死しなかったのは、まさに仇を討つことを考えていたからです。夫人のご命令、どうして力を尽くさずにおられましょうか?」
そこで密かに腹心の使者を遣わして孫権に報告した。月末の日になると、徐氏は先ず孫高・傅嬰の二人を召し、密室の帳幕の中に伏せさせ、その後堂上で祭りを設けた。祭りが終わると、たちまち喪服を脱ぎ、沐浴し香を焚き、厚化粧をして、笑いながら話すこと平常の如くであった。
媯覽はこれを聞いて大いに喜んだ。日が暮れると、徐氏は婢を遣わして媯覽を府中に招き入れた。廳堂に席を設けて酒を飲ませた。酔いが回ると、徐氏は媯覽を密室に誘い入れた。媯覽は喜んで、醉いに乗って中に入った。徐氏が大声で呼ばわった。「孫、傅の両将軍はどこにいるのか」。二人はすぐに帳の中から刀を携えて飛び出した。媯覽は反応する間もなく、傅嬰に一刀で斬り倒され、孫高がさらに一刀を加えてその場で殺した。徐氏はまた人を遣わして戴員を宴に招いた。戴員が府中に入り、廳堂に至ったところで、やはり孫高、傅嬰の二将に殺された。すぐに人を遣わしてこの二人の賊の家族やその残黨を皆殺しにさせた。徐氏はそこで再び喪服を着、媯覽、戴員の首を孫翊の靈前に祭った。一日も経たないうちに、孫權が自ら軍馬を率いて丹陽に到着し、徐氏がすでに媯覽、戴員の二賊を殺したのを見て、孫高、傅嬰を牙門將に封じ、丹陽を守らせ、徐氏を家に送り歸って養老させた。江東の人で彼女の徳を稱えない者はなかった。後に人が詩を作って讚えた。
才節兼ね備えて世に稀なり、
奸邪の徒は一旦摧き鋤かる。
庸臣賊に従ひ忠臣死す、
東吳の女子の大丈夫に如かず。
さて、東吳の各地の山賊は全て平定された。長江の中には戰船が七千餘隻あった。孫權は周瑜を大都督に任じ、江東の水陸軍馬を總管させた。建安十二年、冬十月、孫權の母である吳太夫人が病篤く、周瑜、張昭の二人を召して言った。「我は元は吳の人であり、幼くして父母を失い、弟の吳景と共に越中に移り住んだ。後、孫家に嫁いで四人の子を生んだ。長子の孫策を產んだ時、月が懷中に入る夢を見た。後に次子の孫權を產んだ時、また日が懷中に入る夢を見た。占う者が言った。『日月が懷中に入る夢を見た者は、その子必ず貴からん』と。不運にも孫策は早く死に、今、江東の基業を孫權に託す。汝ら心を同じくして力を合わせて之を輔けよ。我死すとも亦瞑すべし」。また孫權に遺言して言った。「汝は子布、公瑾に對しては師傅の禮をもって事とし、以て慢る事なかれ。我が妹は我と共に汝が父に嫁ぎたれば、即ち汝が母なり。我死せば、我が妹に事うるは我に事うるが如くせよ。汝が妹も亦善く養い、佳婿を選びて之を嫁がせよ」。
言い終わって遂に薨じた。孫權は大いに號泣し、喪葬の禮を執り行ったが、その詳細は言うまでもない。翌年の春に及び、孫權は黃祖を討伐しようと議した。張昭が言った。「喪に服して未だ一年を經ず、出兵すべからず」。周瑜が言った。「仇に報い恥を雪するに、何ぞ期年を待たんや」。孫權は猶豫して決しなかった。折しも北平都尉の呂蒙が入り來たり拜して、孫權に告げて言った。「臣、龍湫の水口に駐まりし時、忽ち黃祖の部將甘寧が降り來たりました。臣、之を詳しく問うた。甘寧、字は興霸、巴郡臨江の人にて、頗る書史に通じ、氣力有り、遊俠を好む。嘗て亡命の徒を招集し、江湖に橫行し、腰に銅鈴を掛け、人、鈴の音を聞けば皆避けた。又、嘗て西川の錦を以て船帆と為し、當時の人は皆『錦帆賊』と呼んだ。後に前に非るを悔い、改過自新し、衆を率いて劉表に投ぜんと欲したが、劉表の事を成す能わざるを見て、東吳に來降せんと欲し、黃祖に留められ夏口に在り。先に東吳、黃祖を破りし時、黃祖は甘寧の力を賴りて、纔かに夏口に逃れ歸れり。然れども甘寧に待すること極めて薄なり。都督の蘇飛、數回甘寧を黃祖に薦むるも、黃祖曰く『甘寧は劫江の賊、豈に用うるに足らんや』と。甘寧、此に由りて怨望を懷く。蘇飛、其の意を知り、酒を設けて甘寧を家に邀へ、之に謂ひて曰く『我、數回君を薦むるも、奈何ぞ主公肯て用いず。歳月流れ易く、人生幾何ぞ、自ら遠きを圖るべし。我、進んで君を保ちて鄂縣の長と為さん、去就は君自ら決せよ』と。甘寧、此に由りて夏口を去るを得て、江東に投ぜんと欲すれども、江東の人が彼が黃祖を救い凌操を殺しし事を怨むを恐れたり。臣、詳しく主公の求賢若渴、舊怨を記さざることを告げ、況んや各其の主と為す、何の恨みか有らんや。甘寧、喜びて衆を率い江を渡り、來りて主公に謁見せんとす。主公の裁決を請う」。
孫權は大いに喜んで言った。「我、興霸を得れば、黃祖を破るは必ずなり」。即ち呂蒙に命じて甘寧を引き連れて入見させた。參拜が終わり、孫權が言った。「興霸此に至るは、大いに我が心に叶う。豈に舊怨を記さんこと有らんや。疑うこと勿れ。願わくば我が為に黃祖を破るの策を教えよ」。甘寧が言った。「今、漢の運は日に危急にして、曹操は終に簒奪の事を為さんとす。荊州の南の地は、曹操の必ず爭わんとする所なり。劉表は遠慮無く、其の子は愚劣にして、基業を繼ぐに堪えず。明公は宜しく早く此の地を圖るべし。若し遅らば、則ち曹操が先手を取らん。今、當に先ず黃祖を取り攻むべし。黃祖は今、年老い昏聵し、財利を専らにし、吏民を侵刻し、人心は皆怨み、戰具は修まらず、軍に法紀無し。明公、若し往きて之を攻めば、勢い必ず破ることを得ん。彼の軍を破り、鼓を擊ちて西に進み、楚關を據えて巴、蜀を圖らば、霸業は以て定まるべし」。
孫權が言った。「此れ金玉の言なり」。遂に周瑜を大都督と為し、水陸の軍馬を總管せしめ、呂蒙を前部先鋒と為し、董襲と甘寧とを副將と為し、孫權自ら大軍十萬を率いて黃祖を征討した。探子が情況を偵知し、江夏に報じた。黃祖は急ぎ衆を集めて議し、蘇飛を大將と為し、陳就、鄧龍を先鋒と為し、江夏の兵を悉く動員して迎え撃った。陳就、鄧龍は各々一隊の艨艟戰船を率いて沔口を塞ぎ、艨艟の上に各々強弓硬弩一千餘張を設け、大索を以て艨艟を水面に繋ぎ止めた。東吳の軍到るや、艨艟の上に鼓聲起こり、弓弩一斉に發せられ、兵敢えて進まず、凡そ數里の水面を退いた。甘寧、董襲に對して言った。「事已に此に至る、進まざるを得ず」。乃ち小船一百餘隻を選び、毎船精兵五十人を用い、二十人は櫓を撐ぎ、三十人は各々鎧を被り、鋼刀を執らせた。矢石を避けず、直ちに艨艟の傍に衝り到り、大索を斷ち切れば、艨艟是に於いて橫たわった。
甘寧は身を飛ばして艨艟に跳び乘り、鄧龍を斬り殺した。陳就は船を棄てて逃げた。呂蒙、之を見て、小船に跳び下り、自ら櫓を執り、直ちに船隊に衝り入り、火を放ちて船を燒いた。陳就、急ぎ岸に上らんと欲するや、呂蒙は命を賭して其の前に趕り到り、胸を當て一刀にて之を斬り倒した。蘇飛が軍を率いて岸に於いて接應するに及び、吳軍は一斉に岸に上がり、勢い當るべからず。黃祖の軍は大敗した。蘇飛は荒れ野に落ち延びんとし、折から東吳の大將潘璋に出會った。兩馬相交わり、戰うこと數合に及ばず、潘璋に生き擒りにせられ、直ちに船に押し來たりて孫權に見えた。孫權は左右に命じ囚車に監置し、黃祖を生擒して共に誅せんと待ち、三軍に促し、晝夜を分かたず夏口を攻めた。正に是くの如し。
只だ錦帆の賊を用いざるが故に、
今に到りて大索の船を衝き開く。
只だ錦帆の賊を用いざるが故に、
今に到りて大索の船を衝き開く。
黃祖の勝負如何、且く下文の分解を見よ。
