太史公自序第七十
昔、顓頊帝の時代、南正の重に天文を、北正の黎に地理を司らせた。堯・舜の時代にも、重黎の子孫にその職務を継がせ、夏・殷の時代まで続いた。故に重黎氏は代々天地のことを司った。周代になると、程伯休甫がその子孫である。周の宣王の時、重黎氏は天地を司る職務を失い、司馬氏となった。司馬氏は代々周の史書・典籍を掌った。周の恵王・襄王の頃、司馬氏は周を離れ晋に赴いた。晋の中軍将・随会が秦に逃亡すると、司馬氏は少梁に入った。
司馬氏が周を離れ晋に至ってから、族人は四方に分散し、ある者は衛に、ある者は趙に、ある者は秦にいた。衛にいた一派は、中山の相となった。趙にいた一派は、剣術の理論を伝えて名を顕し、蒯聵がその子孫である。秦にいた一派の名を司馬錯といい、張儀と論争し、秦の恵王は司馬錯に軍を率いて蜀を攻めさせ、蜀地を取ると、彼にそこを守らせた。司馬錯の孫の司馬靳は、武安君・白起に仕えた。この時、少梁はすでに夏陽と改名されていた。司馬靳は武安君と共に趙の長平の兵を坑殺し、帰還後、武安君と共に杜郵で賜死され、華池に葬られた。司馬靳の孫の司馬昌は、秦の鉄器を司る官員であり、ちょうど秦始皇の時代にあたる。蒯聵の玄孫の司馬卬は、武信君の部将となり朝歌を巡行し攻略した。諸侯が互いに王を封じる際、司馬卬を殷王とした。漢が楚を攻めた時、司馬卬は漢に帰順し、漢はその封地を河内郡とした。司馬昌は司馬無澤を生み、司馬無澤は漢の市長となった。司馬無澤は司馬喜を生み、司馬喜は五大夫に封じられ、死後はすべて高門に葬られた。司馬喜は司馬談を生み、司馬談は太史公となった。
太史公は唐都に天文を学び、楊何に『易経』を学び、黄子に道家の学説を学んだ。太史公は漢の武帝の建元から元封の間に官に就き、学者たちが諸家の学説の要旨を理解できず師法を誤ることを憂い、そこで六家の学説の要旨を論じて言った。
『周易・繋辞伝』に言う、「天下の人が求める目標は一つだが、思慮は百種あり、帰するところは同じだが、道は異なる」と。陰陽・儒・墨・名・法・道徳のこの六家は、いずれも国を治めることに努める学説である。ただ、その従うところの学説の道筋が異なり、省察するものと省察しないものがあるだけである。私はかつて私かに陰陽家の方術を観察したが、祥瑞を重んじ禁忌が多く、人を拘束して多くを畏れさせる。しかし、その排列する一年四季の順序は、失うことができないものである。儒家の学説は広範だが要領を得ず、力を費やす割に功は少なく、その提唱する事柄はすべてに従い難い。しかし、その規定する君臣父子の礼制、排列する夫婦長幼の別は、変えることができないものである。墨家は節約を主張するが従い難く、その提唱する事柄はすべてに従えない。しかし、彼らの強調する根本を重視し費用を節約する点は、廃することができないものである。法家は厳しく恩恵に乏しいが、君臣上下の名分を正す点は、改めることができないものである。名家は人を拘束して真実を失いやすいが、名実の相符を説く点は、考察しないわけにはいかないものである。道家は人に精神を専一にさせ、行動を無形の道に合わせ、万物を豊かにする。その学説は、陰陽家の四時の順序の大道理に順応し、儒墨両家の長所を取り入れ、名法両家の要点を摂取し、時に従って移り、物の変化に順応し、風俗を建立し、政事を施行するに、何も適わないものはない。その宗旨は簡約で把握しやすく、事は少なく功は多い。儒家はそうではない。彼らは君主を天下の模範とし、君主が唱え臣下が応じ、君主が先行し臣下が従うとする。こうして君主は労苦し臣下は安逸となる。大いなる道の要旨については、剛強と貪欲を捨て、聡明と知恵を棄て、これらを放棄して道術を用いる。精神を使い過ぎれば衰え、身体を労し過ぎれば疲弊する。身体と精神が共に安らかでなくして、天地と共に長久を望むのは、聞いたことがない。
陰陽家の四時・八位・十二度・二十四節気に関する説は、それぞれ禁忌と命令があり、それに従えば盛んになり、背けば死なずとも滅びるとする。これは必ずしも正しいとは言えず、故に「人を拘束して多くを畏れさせる」と言うのである。春に生まれ、夏に育ち、秋に収穫し、冬に蓄える。これは自然運行の重要な法則であり、順応しなければ天下の綱紀を定めることはできない。故に「四時の大順序は、失うことができない」と言うのである。
儒家は六芸を准则とする。六芸の経文と伝注は万を数え、数世代にわたってもその学問を究め尽くせず、一生をかけてもその礼儀を極められない。故に「広範だが要領を得ず、力を費やす割に功は少ない」と言うのである。君臣父子の礼制を排列し、夫婦長幼の次序を区分することについては、たとえ百家といえども変えることはできない。
墨家も堯舜の道を尊び、その德行を論じて言う、「殿堂の高さは三尺、土の階段は三段、茅葺きの屋根は刈り揃えず、木の垂木は雕飾しない。陶器の簋で飯を盛り、陶器の铏で羹を盛り、粗食を食べ、野菜の汁を飲む。夏は葛の衣を着、冬は鹿の裘をまとう」と。彼らは葬送に際し、三寸の厚さの桐の棺を用い、哭く時は声を尽くしても哀しみを尽くさない。喪礼を教えるには、必ずこれらを万民の基準とすべきとする。もし天下のすべての人にこれらを模倣させれば、尊卑の区別がなくなる。時代は異なり、事業は必ずしも同じではない。故に「節約するが従い難い」と言うのである。総じて言えば、根本を重視し費用を節約することは、民を富ませ家を充実させる方法である。これが墨子の長所であり、たとえ百家といえども廃することはできない。
法家は親疎を区別せず、貴賤を分けず、一律に法で決断する。そうすると、親を親しみ尊を尊ぶ恩情が絶たれる。これは一時の権宜の計としてはよいが、長期にわたって用いることはできない。故に「厳しく恩恵に乏しい」と言うのである。君主を尊び臣下を卑しくし、職分の権限を明確にして互いに越えさせないことについては、たとえ百家といえども変えることはできない。
名家は細かい点にこだわり過ぎ、絡み合って解けず、人をして本意に返ることができなくさせ、専ら名分で決断して人情を失わせる。故に「人を拘束して真実を失いやすい」と言うのである。名分に基づいて実情を考察し、交錯比較して誤りを出さないことについては、省察しないわけにはいかない。
道家は無為を主張し、また無為ならざるはなしと主張する。その実際の内容は施行しやすいが、その言辞は理解し難い。その学説は虚無を根本とし、因循を用となす。一成不变の情勢はなく、固定不変の形態はない。故に万物の実情を推究することができる。物に先立って動かず、物に後れて応じない。故に万物の主宰となることができる。法則があるようで法則がなく、時勢に従って事業を成就する。尺度があるようで尺度がなく、事物に順応してそれに合致する。故に言う、「聖人は朽ちることなく、時勢の変化に従うことを守る。虚無は道の常理であり、因循は君主の綱紀である」と。群臣が一斉に到来すれば、それぞれに自分の才能を表明させる。実と名が相符するのを端といい、実と名が相符しないのを窾という。虚言を聴かなければ、奸邪は生じず、賢と不賢は自然に分かれ、白黒は顕現する。これは君主が如何に運用するかにかかっており、何事も成就できないものはない。こうして大道に合致し、混沌として広大である。光輝は天下を照らし、また無名に返る。人が生きるのは精神によるものであり、よりどころとするのは形体である。精神を使い過ぎれば衰え、形体を労し過ぎれば疲弊し、形体と精神が分離すれば死ぬ。死んだ者は再び生き返らず、分離した者は再び結合できない。故に聖人はこのことを非常に重視する。これによって見れば、精神は生命の根本であり、形体は生命のよりどころである。もし先に自分の精神を安定させずして、「私は天下を治める術がある」と言っても、何によって治めるというのか。
太史公は天文を掌り、民を治めなかった。彼に司馬遷という子がいた。
司馬遷は龍門に生まれ、龍門山の南、黄河の北で耕作と放牧を行った。十歳の時にすでに古文を誦読した。二十歳の時、南方へ下り長江・淮河一帯を遊歴し、会稽山に登り、禹穴を探り、九疑山を眺め、沅水・湘水に舟を浮かべた。北方へは汶水・泗水を渡り、斉・魯の都で講学し、孔子の遺風を観察し、鄒県・峄山で郷射の礼に参加した。鄱・薛・彭城で困窮し、梁・楚の地を通り過ぎて故郷に帰った。そこで司馬遷は仕官して郎中となり、命を受けて西方の巴・蜀以南に出征し、南方の邛・笮・昆明を慰撫し、帰って朝廷に復命した。
この年、天子は漢朝の封禅の大典を初めて行い、太史公は周南に留め置かれ、これに参与できなかったため、心中憤懣し、病死しようとしていた。その子の司馬遷はたまたま使節から帰り、黄河・洛水の間で父に面会した。太史公は司馬遷の手を握り、涙を流して言った。「我が先祖はもと周の太史であった。上古より虞夏の時に功名を顕し、天文の事を掌った。後代は中途で衰微し、まさに我において絶えようとしているのか。もしお前が再び太史となれば、我々の先祖の事業を継ぐことができる。今、天子は千年の大統を承け、泰山で封禅の大典を行うが、我は随行できない。これは運命だ、運命だ!我が死んだ後、お前は必ず太史となれ。太史となったなら、我が著そうとした著作を忘れてはならない。また、孝道はまず父母に仕えることに始まり、中間では君主に仕えることに現れ、最終的には身を立て行うことにある。後世に名を揚げ、父母を顕彰する、これが最大の孝である。天下の人々は周公を称え、彼が文王・武王の功徳を論述し歌い、周・邵の風化を宣揚し、太王・王季の思慮を表し、公劉にまで遡り、后稷を尊崇したと言う。周の幽王・厲王以後、王道は衰え、礼楽は崩壊した。孔子は旧制を修復し、廃れた業を振興し、『詩』『書』を論定し、『春秋』を作り、今日に至るまで学者たちはこれを基準としている。魯の哀公が麒麟を捕らえて以来、四百余年、諸侯は互いに併合し、史書は散逸し断絶した。今、漢朝が興り、天下は統一され、明主・賢君・忠臣・義士の事績について、我は太史として論述せず、天下の歴史文献を廃棄してしまった。私は非常に恐れている。お前は心に留めておけ!」司馬遷は頭を下げ涙を流して言った。「子は愚かではございますが、どうか先人が整理された歴史の旧聞を詳細に論述し、敢えて遺漏することはございません。」
父が死去して三年後、司馬遷は太史令となり、石室金櫃に収められた書籍や档案を閲読・整理した。それから五年後、太初元年の十一月甲子日の朔旦冬至にあたり、太初暦を初めて用いることとなり、明堂でこれを公布し、諸神はすべて新しい暦法を受けた。
太史公は言った。「先父はかつて言った。『周公が死去して五百年後に孔子が現れた。孔子が死去してから今に至るまでまた五百年、清明な盛世を継承し、『易伝』を訂正し、『春秋』を継続し、『詩』『書』『礼』『楽』を根本とする者がいるだろうか。』その意図はここにあるのだ!その意図はここにあるのだ!どうして私が辞退できようか。」
上大夫の壺遂が問うた。「昔、孔子はなぜ『春秋』を作ったのですか。」太史公は言った。「私は董仲舒先生からこう聞いた。『周の政治は衰え、孔子は魯の司寇となったが、諸侯は彼を迫害し、大夫は彼を妨害した。孔子は自分の主張が用いられず、学説が行われることがないと知り、そこで二百四十二年の歴史の中で是非を判断し、天下の基準とし、天子を斥け、諸侯を退け、大夫を討ち、王道を明らかにすることを目的としたに過ぎない。』孔子は言った。『私はこれらの道理を空虚な言論に記すよりも、具体的事象によって表現する方がより深く顕著である。』『春秋』という書物は、上は三王の道を明らかにし、下は人倫の綱紀を弁別し、嫌疑を弁別し、是非を明断し、優柔不断な問題を解決し、善行を褒め悪行を斥け、賢能を推奨し不肖を軽んじ、滅びた国を保存し、絶えた世系を継続し、弊害を救済し衰廃を振興する。これこそ王道の重要な内容である。『易経』は天地・陰陽・四時・五行を記載するゆえに変化に長じ、『礼経』は人倫関係を規範するゆえに行為に長じ、『尚書』は先王の事績を記載するゆえに政事に長じ、『詩経』は山川・渓谷・禽獣・草木・雌雄を記載するゆえに風教に長じ、『楽経』は音楽を建立する根拠であるゆえに調和に長じ、『春秋』は是非を弁別するゆえに人事の治理に長じる。したがって、礼は人を節制し、楽は調和を啓発し、書は政事を記述し、詩は心意を表現し、易は変化を説き明かし、春秋は大義を明らかにする。乱れた状態を正すには、『春秋』ほど適切なものはない。『春秋』の文字は数万あり、その義例は数千に及ぶ。万物の分散と集合はすべて『春秋』の中にある。『春秋』には三十六の弑君事件、五十二の国家滅亡が記され、諸侯が流亡して自国を保全できなかったものは数えきれない。その根本原因を考察すれば、すべて君主の道を失ったことにある。ゆえに『易経』は言う。『毫釐を失すれば、千里の差あり。』また言う。『臣が君を弑し、子が父を弑するは、一朝一夕の故にあらず、その漸積は久しきに及ぶ。』ゆえに国を統治する者は『春秋』を知らざるべからず。知らねば前に讒言ありても見えず、後に姦賊ありても知らざるなり。臣たる者は『春秋』を知らざるべからず。知らねば日常の事務を処理して適切なやり方を知らず、変故に遭遇して臨機の処置を知らざるなり。君たる者、父たる者が『春秋』の義理に通暁せねば、必ず首悪の罪名を蒙る。臣たる者、子たる者が『春秋』の義理に通暁せねば、必ず篡弑の誅罰に陥り、死罪の悪名を負う。彼らはみな自ら善事をしていると思っているが、行いながらその道理を知らず、空言の指摘を受けても辞退できない。礼義の要旨に通暁しなければ、君は君らしからず、臣は臣らしからず、父は父らしからず、子は子らしからざるに至る。君が君らしからねば臣下に犯され、臣が臣らしからねば誅殺され、父が父らしからねば道義なく、子が子らしからねば不孝となる。この四つの行為は天下最大の過ちである。天下最大の過ちを身に加えられても、彼は受け入れて辞退できない。ゆえに『春秋』は礼義の根本である。礼は事が起こる前に禁じ、法は事が起こった後に罰する。法の作用は見えやすく、礼の禁止作用は知り難い。」
壺遂が言った。「孔子の時代は、上には聖明な君主なく、下には任用されず、ゆえに『春秋』を作り、空虚な文字を残して礼義を裁断し、一王の法典としたのです。今、先生は上には聖明な天子に遇し、下には職責を全うし、万事はすでに備わり、それぞれ適切な位置に置かれています。先生が論述しようとされるものは、何を明らかにしようとされるのですか。」
太史公曰:「然。然,非也。先人より聞く、『伏羲は純厚にして、易の八卦を作る。堯舜の盛徳は、尚書に載せられ、礼楽はこれにより興る。湯武の隆盛は、詩人がこれを歌う。春秋は善を採り悪を貶し、三代の徳を推し、周室を褒め、ただ諷刺譏刺のみにあらず。』と。漢興りて以来、当今の聖明天子に至るまで、祥瑞の兆しを得、封禅を行い、暦を改め、服色を変え、天命を清明の上天に受け、恩沢は無辺際に流布し、海外の異俗の国々も、重訳を経て関門を叩き、進献朝見を請う者、数えきれず。臣下百官は力の限り聖徳を頌するも、なお心を尽くし得ず。ましてや士人賢にして用いられざるは、上を統べる者の恥なり。君聖明にして徳の伝わらざるは、史官の過ちなり。況んや私は嘗て史官たり。もし聖明天子の盛徳を記さずして廃し、功臣・世家・賢大夫の功業を埋もれさせて述べず、先人の嘱託を背くならば、この上なき罪過はない。我が言う所は、ただ歴史故事を記述し、彼らの世代の伝聞を整理するのみ。いわゆる創作にあらず。而してこれを春秋に比するは、誤りなり。」
ここにおいてその文を編述す。七年を経て、太史公は李陵の禍に遭い、獄中に繋がる。ここにおいて歎じて曰く、「これ我が罪なり。これ我が罪なり。身毀され用いる能わず。」退きて深く思うに、「詩・書は隠約に書かれている。これは作者がその心志を実現せんと考えるためなり。昔、西伯は羑里に囚われ、周易を推演す。孔子は陳・蔡に困厄し、春秋を作る。屈原は放逐され、離騒を賦す。左丘明は失明し、国語あり。孫子は足を断たれ、兵法を論ず。呂不韋は蜀に貶せられ、世に呂覧伝わる。韓非は秦に囚われ、説難・孤憤を作る。詩三百篇は、多く賢人聖人の憤りを発して作る所なり。これらの人は心に郁結する所あり、その主張を実現する能わず。故に往事を記し、来者を思う。」ここにおいてついに陶唐より、漢武の獲麟に至るまでを記述し、黄帝より始む。
昔、黄帝は天地に法り、四聖は秩序に循い、各々法度を成す。唐堯は位を譲り、虞舜は居らず。その美しき帝業、万世に伝頌す。『五帝本紀』第一を作る。
禹の功績、九州は統一され、光輝は唐虞の世に燦とし、恩徳は後代に流る。夏桀は淫縦にして、遂に鳴条に放たる。『夏本紀』第二を作る。
契は商朝を開き、成湯に伝わる。太甲は桐宮に放たれ、徳政は伊尹により興る。武丁は傅説を得、ここに高宗と称せらる。帝辛は酒色に沈み、諸侯は朝貢せず。『殷本紀』第三を作る。
棄は周朝を開き、徳政は西伯に至り盛んなり。武王は牧野の戦いに、天下を撫す。幽・厲は昏乱し、豊鎬を喪う。赧王に至り衰え、洛邑は祭らるるなし。『周本紀』第四を作る。
秦の先祖、伯翳は禹を輔く。穆公は道義を思い、殽の戦いの将士を哀悼す。人を殉ずれば、黄鳥の詩、これを歌う。昭襄王は帝業を開く。『秦本紀』第五を作る。
始皇即位の後、六国を併呑し、兵器を銷して鐘鐻と為し、戦争を止めんと欲し、尊号を皇帝と称し、武功を誇り暴力に任す。二世は国運を継ぎ、子嬰は降りて俘虜となる。『始皇本紀』第六を作る。
秦は道義を失い、豪傑は奮い起こる。項梁は基業を創り、項羽はこれを継ぐ。宋義を殺して趙を救い、諸侯はこれを立てる。子嬰を誅し懐王に背き、天下はこれを指弾す。『項羽本紀』第七を作る。
項羽は暴虐、漢王は功徳を行う。蜀漢より奮い起こり、師を還して三秦を平定す。項羽を誅して帝業を成し、天下は安寧、制度を改め風俗を変ず。『高祖本紀』第八を作る。
恵帝は早逝し、呂氏は人心を得ず。呂禄・呂産の勢いを強め、諸侯はこれを図る。隠王を殺し趙王を幽死せしめ、大臣は深く疑い、ついに宗族の禍を致す。『呂太后本紀』第九を作る。
漢朝は建ちて間もなく、継嗣明らかならず。代王を迎えて即位せしめ、天下は心を帰す。肉刑を廃し、関隘橋梁を開通し、恩徳を広く施し、太宗と号す。『孝文本紀』第十を作る。
諸侯は驕横放縦、呉王まず乱を作す。朝廷は兵を出して討ち、七国は法に伏し、天下は安定、太平富足なり。『孝景本紀』第十一を作る。
漢朝興りて五代、隆盛は建元年間に在り。外は夷狄を禦ぎ、内は法度を修め、封禅を行い、暦を改め、服色を変ず。『今上本紀』第十二を作る。
三代は年代遠く、年数は考究すべからず。おおよそ譜牒旧聞に拠り、これを根本と為し、ここにおいて略推究す。『三代世表』第一を作る。
幽・厲の後、周室は衰微し、諸侯は権を専らにす。春秋の世、記さざる所あり。而して譜牒は経略し、五霸は迭り盛衰す。周代諸侯の先後次序の状を観んと欲す。『十二諸侯年表』第二を作る。
春秋の後、陪臣国政を執り、強国は互いに王と称す。秦に至るまで、ついに華夏諸国を併呑し、封地を消滅し、尊号を独占す。『六国年表』第三を作る。
秦朝は暴虐、楚人は難を発し、項氏ここに乱を作す。漢王は義に仗ち征伐す。八年の間、天下は三たび主を易え、事繁く変化多し。故に秦楚の際の月表を詳らかに記す。『秦楚之际月表』第四を作る。
漢朝建立以来、太初年間に至る百年の間、諸侯は廃立分封削地、譜牒は記載明らかならず、有司は従う所なし。強弱の根源は世代に在り。『漢興以来諸侯年表』第五を作る。
高祖の元功大臣、輔佐の臣、符を剖き爵を封じ、恩沢は後代に流る。宗族の次序を忘れ、或いは身死して国滅ぶ。『高祖功臣侯者年表』第六を作る。
恵帝・景帝の間、功臣宗属に爵位食邑を分封す。『惠景間侯者年表』第七を作る。
北は強胡を討ち、南は勁越を誅し、蛮夷を征伐し、武功ここに序列す。『建元以来侯者年表』第八を作る。
諸侯すでに強大、七国は合従す。子弟多しといえども、爵位封邑なし。推恩行義を施し、その勢力は漸く削弱し、恩徳は京師に帰す。『王子侯者年表』第九を作る。
国に賢相良将有れば、是れ百姓の表率なり。漢興以来の将相名臣年表を見るに、賢者はその治を記し、不賢者はその事跡を顕わす。『漢興以来将相名臣年表』第十を作る。
三代の礼制、その増減は各々異なる所に重きを置くも、要は人情に切近し、王道に通ず。故に礼は人の質に因りて節制し、大概古今の変化に順う。『礼書』第一を作る。
楽は、風俗を移し変うるに用ゆ。雅頌の声興りてより、人すでに鄭衛の音を好む。鄭衛の音、由来久し。人情感ずる所あり、遠方の習俗は懐かしむ。楽書に従い古来を記す。『楽書』第二を作る。
軍なければ強からず、徳なければ昌ならず。黄帝・湯武はこれにより興り、桀・紂・秦二世はこれにより滅ぶ。慎まざる可けんや。司馬法、由来久し。太公・孫武・呉起・王子成甫、能くこれを継ぎて明らかにし、近代に切合し、人事の変化を窮む。『律書』第三を作る。
律は陰に居て陽を治め、暦は陽に居て陰を治む。律と暦、相い治め、その間、毫釐の差も容さず。五家の暦文、相い矛盾す。唯太初元年に定めし暦のみ、理論に合う。ここにおいて『暦書』第四を作る。
星象気数の書を観るに、多くは吉凶の予兆を混ぜ込み、常軌に合わず。その文辞を推究し、その応験を考察すれば、異なることなし。その関連する事跡を集めて論じ、軌道の法度に従って順に検証し、ここに『天官書』第五を作る。
天命を受けて王と称すれど、封禅の符瑞は用いられること少なく、ひとたび用いれば万神みな祭祀を享けずということなし。諸々の神霊および名山大川の祭祀の礼儀を追跡し、ここに『封禅書』第六を作る。
大禹は河流を疏き、九州はここに安寧を得たり。漢の武帝の時に至り宣房の塞決を為し、また渠を開き溝涜を疏く。ここに『河渠書』第七を作る。
貨幣の流通は、もって農業と商業を通ずるものなり。極に発すれば技巧を弄し、財を兼併し、投機の利を争い、本を捨てて末を逐うに至る。ここに『平準書』を作り、もって世事の変化を観る。これ第八篇なり。
太伯は王位を避け、江南の蛮夷の地に赴く。文王・武王興り、古公亶父は王業の基を開く。閭廬は呉王僚を殺し、楚を臣従せしむ。夫差は斉に勝ち、伍子胥は皮袋に入れられて江に沈められる。夫差は伯嚭を信じ越に親しみ、呉はついに滅ぶ。太伯の譲りを賛美し、ここに『呉太伯世家』第一を作る。
申伯・呂侯の後裔は衰え、姜尚は賤しく生まれ、ついに西伯に帰し、文王・武王は師とす。その功は衆公侯を超え、密かに権謀を運らす。年老いて白髪となり、営丘に封ぜらる。柯の地の盟約に違わず、斉桓公はここに盛んとなり、諸侯を会すること数次、覇業の功績著しく明らかなり。田氏と闞氏は寵を争い、姜姓の斉はここに滅ぶ。姜尚の謀略を賛美し、ここに『斉太公世家』第二を作る。
あるいは従い、あるいは背き、周公はこれを撫す。文徳を発揚すれば、天下は応じ和す。成王を輔け、諸侯は周室を尊ぶ。隠公・桓公の際、これはいかなる故ぞ。三桓は強を争い、魯はここに盛んならず。周公の金縢の書を賛美し、ここに『周公世家』第三を作る。
武王は商紂を克つも、天下未だ定まらずして崩ず。成王は幼く、管叔・蔡叔はこれを疑い、淮夷は叛く。ここに召公は徳を秉持し、王室を安定し、もって東方を撫す。燕の禅譲は、ついに禍乱を醸す。『甘棠』の詩を賛美し、ここに『燕召公世家』第四を作る。
管叔・蔡叔は武庚を輔け、もって商の遺民を安んぜんとす。周公の摂政に及び、管叔・蔡叔は服さず。管叔鮮を殺し、蔡叔度を流し、周公は盟約を定む。太任は十人の子を生み、周は宗族をもって盛んなり。蔡仲の悔い改めしを賛美し、ここに『管蔡世家』第五を作る。
周王の後裔は絶えず、舜・禹の徳は称うるに足る。徳は美しく明らかにして、後代は功業を蒙る。百代の祭祀を享け、周に至り陳・杞を封ずるも、楚はついにこれを滅ぼす。斉の田氏は興り、舜はいかなる人ぞや。ここに『陳杞世家』第六を作る。
商の遺民を収め、叔封は始めて封を受け国を建つ。商の乱の教訓を明らかにし、『酒誥』を作りて戒め、衛朔の生まれしに及び、衛は傾き危うし。南子は蒯聵を憎み、父子の名分錯乱す。周の徳衰え、戦国すでに強く、衛は弱小なるがゆえに、独り角のみ後れて滅ぶ。かの『康誥』を賛美し、ここに『衛康叔世家』第七を作る。
ああ、箕子よ。ああ、箕子よ。正しき言は用いられず、かえって奴隷と化す。武庚の死後、周は微子を封ず。宋襄公は泓水の戦いに傷つき、君子誰かこれを称えん。宋景公は謙遜の徳あり、熒惑星はここに退行す。剔成は暴虐にして、宋はついに滅ぶ。微子の太師に問いしを賛美し、ここに『宋微子世家』第八を作る。
武王の崩御後、叔虞は唐の地に封ぜらる。君子はその名号を譏り、ついに武公に滅ぼさる。驪姫は寵を得、禍乱は五世に続く。重耳は志を得ざるも、ついに覇業を成就す。六卿は権を専らにし、晋はここに衰弱す。晋文公の天子より圭瓚と香酒を賜わりしを賛美し、ここに『晋世家』第九を作る。
重黎は事業を開き、呉回はこれを継ぐ。商の末年に、鬻熊は譜系を記す。周は熊繹を用い、熊渠はこれを継ぐ。楚荘王は賢明にして、ここに陳を復す。鄭伯を赦し、また兵を退けて華元を帰国せしむ。楚懐王は他国に客死し、子蘭は屈原に帰せり。阿諛を好み讒言を聴き、楚は秦に併呑さる。楚荘王の道義を賛美し、ここに『楚世家』第十を作る。
少康の子、遠く南海に封ぜられ、文身断髪し、鼋鼍魚鼈と共に居り、封禺山を守り、大禹の祭祀を奉行す。句践はここに困しみ、ここに文種・范蠡を用う。句践の蛮夷の地にありて徳を修め、強き呉を滅ぼして周室を尊びしを賛美し、ここに『越王句践世家』第十一を作る。
斉桓公は東遷し、太史伯陽父は用いらる。周王が禾苗を侵すに及び、王室の官はこれを議す。祭仲は強いて盟誓せられ、鄭は久しく盛んならず。子産の仁徳は、世にその賢明を称う。三晋は侵し、鄭は韓に併吞さる。鄭厲公の周惠王を納れしを賛美し、ここに『鄭世家』第十二を作る。
騏驥と騄耳なる良馬、ここに造父の才を顕す。趙夙は晋献公に事え、趙衰はその業を継ぐ。晋文公を輔け周王を尊び、ついに晋の輔臣となる。趙襄子は困しみ辱めらるるも、ついに智伯を擒えたり。趙主父は生け捕られ、餓えて雀を掏りて飢えを充つ。趙王遷は邪僻淫乱にして、良将を逐う。趙鞅の周室の乱を討ちしを賛美し、ここに『趙世家』第十三を作る。
畢万は魏の地に封ぜられ、十人の者これを知る。魏絳が干を殺すに及び、戎翟はここに和す。魏文侯は仁義を慕い、子夏を師とす。魏惠王は自大し、斉・秦これを攻む。信陵君を疑いし後、諸侯は援助を止む。ついに大梁は滅び、魏王假は捕らえられ奴隷と為る。魏武子の晋文公を輔け霸道を申明せしを賛美し、ここに『魏世家』第十四を作る。
韓厥は密かに徳を積み、趙武はここに興る。絶えたるを継ぎ、廃れたるを立て、晋人はこれを尊ぶ。韓昭侯は名を顕わし、申不害は用いらる。韓非を疑いて信ぜず、秦人は韓を襲う。韓厥の晋を輔け周天子の賦税を匡正せしを賛美し、ここに『韓世家』第十五を作る。
田完子は禍を避け、斉に赴き援助を求め、密かに徳を施すこと五代、斉人はこれを歌う。田成子は政権を握り、田和は諸侯と為る。斉王建は心を動かし、ここに共の地に遷さる。斉威王・宣王の乱世に独り周室を尊びしを賛美し、ここに『田敬仲完世家』第十六を作る。
周王室衰微し、諸侯は恣に横行す。孔子は礼崩楽壊を嘆き、経術を追述整理し、もって王道に通じ、乱世を匡して正道に帰し、書を著し説を立て、天下に礼儀法度を制定し、六藝の綱領を後世に伝う。ここに『孔子世家』第十七を作る。
桀・紂は道を失い湯・武は興り、周は道を失い『春秋』生ず。秦は政道を失い、陳涉は発跡し、諸侯は難を発し、風雲の如く起こり、ついに秦を滅ぼす。天下の禍難は、陳涉の発難より始まる。ここに『陳涉世家』第十八を作る。
成皋の台観、薄氏は始めて発跡す。心を枉げて代の地に赴き、竇氏はここに尊崇さる。栗姫は尊貴に依り、王氏はここに志を得たり。陳皇后は驕縦に過ぎ、ついに衛子夫を尊崇す。夫人の徳の斯くの如きを賛美し、ここに『外戚世家』第十九を作る。
漢は詭計を用い、陳の地に韓信を擒えたり。越・楚は剽悍軽捷なるがゆえ、弟劉交を楚王と為し、彭城に都し、もって淮水・泗水の地を強め、漢の宗室藩屏と為す。劉戊は邪道に沈み、劉礼はまた王位を継ぐ。劉交の高祖を輔けしを賛美し、ここに『楚元王世家』第二十を作る。
高祖が兵を挙げると、劉賈もこれに参与した。英布に襲撃され、荆・呉の地を失った。營陵侯劉澤は呂氏を激怒させ、そのため琅邪王に封じられた。劉午に騙され、齊王を信じて赴いたが帰らず、西へ入關し、孝文帝の擁立に立ち会い、燕地に再び封じられることができた。天下はまだ安定しておらず、劉賈と劉澤は同族として、漢朝の藩屏・輔佐となった。よって《荆燕世家》第二十一を作る。
天下がすでに平定されると、親族はもはや多くはなかった。齊悼惠王劉肥が先に成長し、確かに東方を鎮守した。齊哀王は擅みに兵を発し、諸呂に対して怒り、驷鈞は暴戻で、京師は応じなかった。齊厲王は宮中で淫亂であり、禍は主父偃によって引き起こされた。劉肥の輔佐を讚え、よって《齊悼惠王世家》第二十二を作る。
楚軍が我が軍を滎陽に包囲し、三年にわたり對峙した。蕭何は關西を鎮撫し、兵員を送り、食糧を絶えず供給し、百姓が漢朝を愛し、楚のために盡くそうとしないようにした。よって《蕭相國世家》第二十三を作る。
韓信と共に魏地を平定し、趙を破り、齊を攻略し、ついには楚軍を弱めた。蕭何に代わって相國となり、制度を變えず、百姓は安寧を得た。曹參が功績や才能を誇らないことを讚え、よって《曹相國世家》第二十四を作る。
帷幄の中での策謀は、形なく敵に勝つ。張良はこれらの事務を謀り、顯著な名聲もなく、武勇の功績もなく、易きに就いて難きを解き、微細なところから大事を成した。よって《留侯世家》第二十五を作る。
六つの奇計がすでに用いられ、諸侯は漢朝に服從した。呂氏の事は、陳平が主たる謀者であり、ついに宗廟を安定させ、社稷を固めた。よって《陳丞相世家》第二十六を作る。
諸呂が黨を結び、京師を弱めようと謀ったが、周勃は常規に背いて權變に合った。吳楚七國の亂では、周亞夫は昌邑に軍を駐め、齊・趙を窮地に陥れ、梁國を棄てて委曲を盡くした。よって《絳侯世家》第二十七を作る。
七國が叛き、京師を防衛したのは、梁國だけが屏障となった。寵愛に依り、功績を誇り、ほとんど禍に遭った。吳楚を防ぎ禦いだことを讚え、よって《梁孝王世家》第二十八を作る。
五宗がすでに王に封じられ、親屬は和睦融洽し、諸侯の大小はすべて藩屏となり、それぞれその所を得て、僭越不法のことは次第に減った。よって《五宗世家》第二十九を作る。
三子が王に封じられ、その文辭は觀るに足る。よって《三王世家》第三十を作る。
末世は利益を爭い求めるが、ただ彼らは道義を追求した。君位を讓って餓死し、天下の人々は彼らを稱えた。よって《伯夷列傳》第一を作る。
晏子は節儉で、管仲は奢侈であった。齊桓公は管仲によって霸者となり、齊景公は晏子によって治まった。よって《管晏列傳》第二を作る。
李耳は無為にして自然に教化し、靜かにして自然に正しくなることを主張した。韓非は事物の情理を揣摩し、形勢の法則に從った。よって《老子韓非列傳》第三を作る。
古來より王者はみな《司馬法》を持ち、司馬穰苴はそれを明らかにすることができた。よって《司馬穰苴列傳》第四を作る。
誠信・廉潔・仁愛・勇がなければ、兵法を傳え、劍術を論ずることができず、道と合い、內には身を修め、外には變に應じることができ、君子はこれをもって德行に比する。よって《孫子吳起列傳》第五を作る。
太子建は讒言に遭い、伍奢に連累が及び、伍尚は父を匡し、伍員は吳に逃れた。よって《伍子胥列傳》第六を作る。
孔子は經典を述べ、弟子たちは事業を興し、みな師となり、仁德を崇尚し、道義を勵ました。よって《仲尼弟子列傳》第七を作る。
商鞅は衛を去って秦に赴き、その法術を彰明し、秦孝公を強盛にして霸者とし、後世はその法令に從った。よって《商君列傳》第八を作る。
天下は連衡を圖る秦の貪婪無厭を憂えたが、蘇秦は諸侯を保全し、合縱を約して貪婪強橫な秦を抑制することができた。よって《蘇秦列傳》第九を作る。
六國がすでに合縱して親しんだが、張儀はその連衡の主張を明らかにし、また諸侯の合縱を解散させた。よって《張儀列傳》第十を作る。
秦が東に擴張し、諸侯の間で雄を稱することができたのは、樗里子と甘茂の計策による。よって《樗里甘茂列傳》第十一を作る。
山河の險要を制し、大梁を包圍し、諸侯の鋒鋩を收めて秦に事えさせたのは、魏冉の功績である。よって《穰侯列傳》第十二を作る。
南に鄢郢を攻め取り、北に長平を摧き、さらに邯鄲を包圍したのは、武安君白起が統帥した。楚を破り、趙を滅ぼしたのは、王翦の計謀である。よって《白起王翦列傳》第十三を作る。
儒墨兩家の遺文を蒐集し、禮義の綱領體系を明らかにし、梁惠王の利を追う弊害を斷ち切り、歷代の興衰の事跡を陳べた。よって《孟子荀卿列傳》第十四を作る。
賓客を好み、士人を禮遇し、士人は薛地に歸服し、齊のために楚と魏を防いだ。よって《孟嘗君列傳》第十五を作る。
權謀をもって馮亭を爭い、楚に赴いて邯鄲の圍みを救い、その國君を諸侯の間で再び雄とさせた。よって《平原君虞卿列傳》第十六を作る。
富貴の身をもって貧賤の下に屈し、賢能の才をもって不肖に退讓することができたのは、信陵君だけである。よって《魏公子列傳》第十七を作る。
君のために身を獻げ、強秦から脫出させ、遊說の士を南へ楚に奔らせたのは、黃歇の義擧である。よって《春申君列傳》第十八を作る。
魏齊の前で羞辱を忍び、強秦において威信を立て、賢能を推擧し相位を讓ったのは、この二人が成したことである。よって《范睢蔡澤列傳》第十九を作る。
軍を率いて謀略を實施し、五國の兵力を合わせ、弱小な燕のために強齊に復讐し、先君の辱めを雪いだ。よって《樂毅列傳》第二十を作る。
強秦の中で己の意思を伸ばし、廉頗に身を屈して弱みを見せ、これをもって君に忠誠を盡くし、兩者は諸侯の間で重んじられた。よって《廉頗藺相如列傳》第二十一を作る。
齊湣王が臨淄を失い莒に奔った後、ただ田單だけが即墨をもって騎劫を擊ち驅逐し、齊の社稷を保存した。よって《田單列傳》第二十二を作る。
詭辯の說を用いて、圍城の禍を解き、爵位俸祿を輕んじ、縱橫に志を施展するのを樂しんだ。よって《魯仲連鄒陽列傳》第二十三を作る。
辭賦を作って諷諫し、同類の事物を連ねて義理を明らかにした。《離騷》はこれらを體現している。よって《屈原賈生列傳》第二十四を作る。
子楚と交わり親しくさせ、諸侯の士人をして爭って先を競い秦に事えさせた。よって《呂不韋列傳》第二十五を作る。
曹沫は匕首を手にし、魯に失地を收回させ、齊も信義を明らかにした。豫讓は義節を守り、二心がなかった。よって《刺客列傳》第二十六を作る。
その謀略を明らかにし、時勢に順って秦を推し進め、ついに天下で志を得たのは、李斯が謀劃の首腦であった。よって《李斯列傳》第二十七を作る。
秦のために疆土を開き人口を增やし、北に匈奴を征服し、黄河に依って要塞を築き、山に因って堅固な防線を設け、楡中郡を置いた。よって《蒙恬列傳》第二十八を作る。
趙を鎮守し、常山を扼して河內地區を擴大し、楚の權勢を弱め、天下に漢王の信義を明らかにした。よって《張耳陳餘列傳》第二十九を作る。
西河・上黨の兵力を收め、高祖に從って彭城に至った。彭越は梁地を侵掠して項羽を困らせた。よって《魏豹彭越列傳》第三十を作る。
淮南の地をもって楚に背き漢に歸服し、漢は大司馬周殷を用いることができ、ついに垓下で項羽を擊ち破った。よって《黥布列傳》第三十一を作る。
楚の軍は京・索の間で我々を包囲したが、韓信は魏・趙を攻略し、燕・斉を平定して、漢朝に天下の三分の二を有するに至らせ、ここに項羽を滅ぼした。よって《淮陰侯列伝》第三十二を記す。
楚と漢が鞏・洛で対峙する中、韓信は潁川を守り、盧綰は項羽の兵糧を断った。よって《韓信盧綰列伝》第三十三を記す。
諸侯が項王に背いた時、ただ斉のみが城陽で項羽と連戦し、漢軍はその隙に乗じて彭城に入ることができた。よって《田儋列伝》第三十四を記す。
城を攻め野に戦い、戦功を得て朝廷に報告した中で、樊噲・郦商は力を尽くすこと甚だ多く、彼らはただ馳せ駆ける将であるのみならず、高祖が危難を脱するのを助けた。よって《樊郦列伝》第三十五を記す。
漢朝が平定されたばかりの時、典章制度は未だ明確でなく、張蒼は計相となり、度量衡を統一し、律暦を編み定めた。よって《張丞相列伝》第三十六を記す。
盟約を結び、使者を通わせ、諸侯を懐柔し安んじた。諸侯は皆親しみ従い、漢朝に帰順して藩国・輔臣となった。よって《郦生陸賈列伝》第三十七を記す。
秦と楚の間の事柄を詳しく知りたいと望み、周𫄬はかつて高祖に従って諸侯を平定した。よって《傅靳蒯成列伝》第三十八を記す。
豪強大族を移し、関中に都を定め、匈奴と和を結び盟約した。朝廷の儀礼を明らかにし、宗廟の法度・儀軌を定めた。よって《劉敬叔孫通列伝》第三十九を記す。
剛強を柔順に変え、ついに朝廷の列臣となることができた。欒布は権勢に脅かされて死者を裏切ることはなかった。よって《季布欒布列伝》第四十を記す。
君主の顔色に逆らって正しい原則を達成し、身の安全を顧みず、国家のために長遠の策を謀った。よって《袁盎朝錯列伝》第四十一を記す。
法度を謹んで守り大義を失わず、古代の賢人を称述し、君主の明智を増長した。よって《張釈之馮唐列伝》第四十二を記す。
敦厚で仁慈、父母に孝行で、言葉は鈍く行動は敏く、恭しく慎むことに努め、君子の中の長者であった。よって《万石張叔列伝》第四十三を記す。
節操を守り剛直で、義は廉潔と称するに足り、行いは賢能を励ますに足り、重任を負い大権を握りながら、理なき事によって阻まれることはなかった。よって《田叔列伝》第四十四を記す。
扁鵲は医術を論じ、医家の宗師と尊ばれ、その掌握する数術は精確で明らかであった。後世に伝え整理され、改変することはできず、倉公はそれに近いと言える。よって《扁鵲倉公列伝》第四十五を記す。
劉仲は王位を削られ、その子劉濞は呉王に封じられ、漢朝が平定されたばかりの時、江淮の間を鎮撫するに当たった。よって《呉王濞列伝》第四十六を記す。
呉楚七国が乱を起こした時、宗室親属の中でただ竇嬰のみが賢く士人を好み、士人は彼に帰し、彼は軍を率いて滎陽で山東の叛軍を防いだ。よって《魏其武安列伝》第四十七を記す。
智は近世の変故に対応するに足り、寛厚は人材を招くに足る。よって《韓長孺列伝》第四十八を記す。
敵に直面して勇み、士卒を仁愛し、号令は簡明で暢達し、将士は彼に従うことを願った。よって《李将軍列伝》第四十九を記す。
夏・殷・周の三代以来、匈奴はしばしば中原の患いとなった。その強弱の時機を知り、備えを設け征討を行うことを欲し、よって《匈奴列伝》第五十を記す。
曲がった辺塞を通し、河南の地を拡げ、祁連山を破り、西域諸国に通じ、北方の胡人を降した。よって《衛将軍騾騎列伝》第五十一を記す。
大臣や宗室貴族は奢侈で費えを競い合ったが、ただ公孫弘のみが衣食を節倹して百官の模範となった。よって《平津侯列伝》第五十二を記す。
漢朝が中原を平定した後、趙佗は南越を安定させて南方の藩属を保ち、朝廷に貢納を奉じた。よって《南越列伝》第五十三を記す。
呉が叛逆した時、東甌の人は劉濞を斬り、封禺山を守って漢朝の臣属となった。よって《東越列伝》第五十四を記す。
燕の太子丹の余部は遼東一帯に流れ散り、衛満はこれらの流亡の民を収め、東海のほとりに集め、これにより真番などの藩属を安定させ、辺塞を守って外臣となった。よって《朝鮮列伝》第五十五を記す。
唐蒙は命を奉じて夜郎に通じるために出使し、邛・笮の君主は内臣となり漢の官吏の管轄を受けることを請うた。よって《西南夷列伝》第五十六を記す。
《子虚》の事、《大人賦》の鋪陳は、辞藻は華麗で多く誇張があるが、その主旨は諷諫にあり、無為の道に帰した。よって《司馬相如列伝》第五十七を記す。
黥布が叛き、劉長は淮南王に封じられ、江淮の南を鎮守し、剽悍な楚の百姓を安んずるに当たった。よって《淮南衡山列伝》第五十八を記す。
法を奉じ事理に従う官吏は、功を誇らず能を示さず、百姓は特別な称賛はないが、過ちの行為もなかった。よって《循吏列伝》第五十九を記す。
朝廷に立ち衣冠を正せば、群臣に虚偽の言葉を言う者はなく、汲黯の荘重さは人を畏れさせた。人材を推薦し長者を称賛することを好み、莊助の為人は人心を潤すものがあった。よって《汲鄭列伝》第六十を記す。
孔子が亡くなって以来、京師は学校教育を重んじず、ただ建元・元狩の年間のみ、文辞の学が燦然と興った。よって《儒林列伝》第六十一を記す。
百姓は根本を捨てて多く巧詐を行い、奸邪の徒は法律を弄り、善良な者は彼らを感化できず、ただ厳酷な手段のみが彼らを治めることができた。よって《酷吏列伝》第六十二を記す。
漢朝はすでに大夏と通使し、西方の極遠の蛮夷の国々は、首を伸ばして内地を慕い、中原の風采を見ようと欲した。よって《大宛列伝》第六十三を記す。
人の困厄を救い、人の不足を賑う、これは仁者の為すところである。信を失わず、諾を背かず、これは義者の取るところである。よって《游侠列伝》第六十四を記す。
君に仕えて君の耳目を悦ばせ、君の顔色を和らげ、これにより親近を得ることは、ただ美色をもって寵愛を受けるのみならず、その才能も各々長所があった。よって《佞幸列伝》第六十五を記す。
時流に従わず、権勢利益を争わず、上下の間で隔たりなく、誰も彼を傷つけることができなかった。これは道家の処世の原則に従ったからである。よって《滑稽列伝》第六十六を記す。
斉・楚・秦・趙の各国には日時を占う者がおり、各々に習俗と用途があった。その大旨を全面的に観察することを欲し、よって《日者列伝》第六十七を記す。
三王の占いの方法は異なり、四方の少数民族の卜筮もまた差異があったが、いずれも吉凶を決するために用いられた。その要領を大略窺い、よって《亀策列伝》第六十八を記す。
平民百姓は、政事を妨げず、百姓を妨げず、時に従って取捨を行い財を増やし、智者はその中から採択するものがある。よって《貨殖列伝》第六十九を記す。
漢の王朝は五帝の末流を継ぎ、三代の基業を受け継いだ。周の政治は衰え、秦は古文を廃し、『詩』『書』を焼き払った。それゆえ、明堂、石室、金匱、玉版の中にあった図書典籍は散乱し、失伝した。この時、漢が興り、蕭何は律令を編次し、韓信は軍法を申明し、張蒼は章程を制定し、叔孫通は礼儀を定めた。こうして文学の士が次第に現れ、『詩』『書』もしばしば民間で発見された。曹参が蓋公を推挙して黄老の学説を講論させて以来、賈誼と晁錯は申不害・商鞅の学説を明らかにし、公孫弘は儒学によって顕達した。百年の間に、天下に遺存する文献と古代の事跡は、ことごとく太史公のもとに集まらなかったものはなかった。太史公父子は相継いでこの職務を務めた。太史公は言った。「ああ!我が先人はかつてこれらの事務を掌管し、唐堯・虞舜の時代に顕揚し、周に至って、またこのことを掌管した。それゆえ、司馬氏は代々天文暦法を主管してきた。我が代に至り、恭敬して記憶せねばならない。恭敬して記憶せねばならない。」そこで天下に散失した旧聞を収集し、帝王の興起の事跡を考察し、その起源を推究し、その結末を観察し、盛衰を見て、これらの事跡を論述考証し、おおむね三代を推求し、秦と漢を記録し、上は軒轅黄帝から始め、下は当今に至り、十二篇の本紀を書き上げ、すでに類別して整えた。時代が異なり、年代の前後が明らかでないため、十篇の表を作った。礼楽制度の増減、律暦数術の変更、兵法権謀、山川の形勢、鬼神祭祀、天人関係、および衰敗からの通変のため、八篇の書を作った。二十八宿は北極星を巡り、三十本の車輻は一つの車轂に集まり、運行は窮まりなく、輔佐の股肱の臣がこれに配され、忠実誠実に道義を実行し、主上に仕えるため、三十篇の世家を作った。扶正義、卓越非凡、自ら時機を失わず、天下に功名を立てるため、七十篇の列伝を作った。総計百三十篇、五十二万六千五百字、これが『太史公書』である。序文はおおむねこのようなもので、遺漏を拾い補い、一家の言を形成し、六経の異なる伝注を調和し、百家の雑説を整え、名山に蔵し、副本は京師に留め、後の世の聖人君子を待つ。これが第七十篇である。
太史公曰く:我は黄帝以来、太初年間に至るまでを記述し、終えること百三十篇。
