モバイルで快適に読む 『詩経』アプリ:全文検索、しおり、読み上げ、オフライン
テーマ
文字サイズ 18
国風

関雎

第 1 篇

『関雎』という詩の序文にはこうある。『関雎』の詩は、后妃の美德を称えるものであり、『国風』の第一編であり、天下を教化し、夫婦の関係を正すために用いられた。故に、それは郷間の民衆にも、諸侯の国々にも適用されるものである。

「風」という字には、諷喩の意味もあり、教化の意味もある。風は万物を吹き動かし、教化は人心を感化する。詩とは、人の心の志の向かうところであり、心にあれば志となり、言葉で表せば詩となる。感情が心の内に湧き上がれば、言葉となって現れる。言葉では足りなければ、嘆息を発する。嘆息でも足りなければ、声を長く引いて歌う。声を長く引いて歌ってもなお足りなければ、知らず知らずのうちに手を舞い足を踏むのである。

感情は声となって表れ、声が調和のとれた旋律をなすものを、音楽という。太平の世の音楽は安らかで楽しげであり、その政治は調和している。乱世の音楽は恨みや怒りを含み、その政治は乖離している。亡国の時の音楽は悲しみ憂いに満ち、その民は苦しんでいる。故に、政治の得失を正し、天地を感動させ、鬼神を感化させるのに、詩ほど近しく効果的なものはない。古代の聖王は詩を用いて、夫婦の関係を規範とし、孝行の心を養い、人倫の綱常を厚くし、道徳の教化を完成させ、社会の風気を変えた。

ゆえに『詩経』には六つの表現手法がある。第一に「風」、第二に「賦」、第三に「比」、第四に「興」、第五に「雅」、第六に「頌」という。上位の者は「風」を用いて下位の者を教化し、下位の者は「風」を用いて上位の者を諷喩する。含蓄ある文辞、婉曲な方法で諫め、語る者に罪はなく、聞く者は戒めを得るに足る。故に「風」というのである。王道が衰え、礼儀が廃れ、政教が失われ、各国の政治が乱れ、各家の風俗が異なる時代になると、ここに「変風」「変雅」が生まれた。国の史官は政治の得失の軌跡を明らかにし、人倫の廃れたことを悲しみ、刑法や政令の苛刻さを嘆き、吟詠によって自らの感情を述べ、その君主を諷喩した。これは彼らが時勢の変化に通じ、なお旧時の風俗を懐かしんだからである。故に「変風」は感情から発するが、礼儀を限界とする。感情から発するのは、民の本性である。礼儀を限界とするのは、古代の聖王の恩沢である。よって、一つの諸侯国のことに関わり、国君一人の根本にのみ連なるものを「風」という。天下の大いなる事を論じ、四方の風俗を表すものを「雅」という。「雅」とは正しいという意味であり、王政の興廃の原因を言う。政事には大小があるので、『小雅』もあり、『大雅』もある。「頌」とは、盛大な徳の儀容を賛美し、成功を神明に告げるものである。これを「四始」といい、『詩経』の最高の境地である。

かくのごとく、『関雎』『麟趾』の示す教化は、王者の風であり、故にこれを周公に帰属させる。「南」とは、教化が北方より南方に及ぶことを言う。『鵲巣』『騶虞』の示す徳行は、諸侯の風であり、古代の聖王が教化に用いたもので、故にこれを召公に帰属させる。『周南』と『召南』は、始まりを正す大道であり、王道教化の基である。故に、『関雎』の詩篇は、賢淑な娘を得て君子に匹配することを喜び、その憂いは賢才を用いることにあり、美色に溺れないことにある。静かで優しい娘を憐れみ、賢徳のある人材を思い、善良な心を害する意のないこと――これが『関雎』一篇の大義である。

関関と鳴く雎鳩、双つ並びて河の洲に。

淑やかで美しい娘、君子の良き配偶者。

長短揃わぬ荇菜、舟の左右にて採る。

淑やかで美しい娘、昼も夜も求める。

求むれど得られず、昼も夜も思いに沈む。

思いは長く、寝返り打ちて眠れぬ。

長短揃わぬ荇菜、舟の左右にて摘む。

淑やかで美しい娘、琴や瑟を弾きて親しむ。

長短揃わぬ荇菜、舟の左右にて選ぶ。

淑やかで美しい娘、鐘や鼓を打ちて悦ばす。

『関雎』は全五章、各章四句。別の説では三章とし、第一章は四句、第二章と第三章は各八句とする。