第九十四回 関勝義を以て三将を降す 李逵莽に眾人を陷る
第九十四回 関勝義降三将 李逵莽陥衆人
話説宋江は蓋州にて両隊の兵馬人数を定め、閨子(くじ)を書き、盧俊義と共に香を焚いて祈った。宋江が一つの閨子を拈って見れば、それは東路であり、盧俊義は西路を引き当てた。言うまでもなく、雪が晴れて出発するのを待つのみである。花栄、董平、施恩、杜興を残し、兵二万を分けて蓋州を鎮守させた。
初六日の吉期に至り、宋江、盧俊義は出兵の準備を整えた。忽ち蓋州の属県である陽城、沁水の両処の军民が、累々田虎の残害を受け、已むを得ず投降していたが、今や天兵の到来を知り、军民は陽城守将寇孚、沁水守将陳凱を縛り上げ、軍前に差し出したとの報せが入った。両県の耆老は百姓を率い、羊を牽き酒を担いで城を献納した。宋先锋は大いに喜び、両処の军民に大いに賞賛し労い、榜を給して慰撫し、再び良民とした。宋先锋は寇孚、陳凱が天兵の此処に到るを知りながら、速やかに来帰せざるを以て、即ち斬首して旗に祭り、以て賊人を戒めた。是の日、両路の大兵は俱に北門を出で、花栄等は酒を置いて饅別した。宋江は杯を執り花栄に対して曰く、「賢弟は賊軍に威震し、此の城の保障たるに堪えたり。今此の城は惟だ北面のみ敵を受く。若し賊兵有らば、当に奇を設けて之を撃ち、以て賊胆を喪失せしむべし。然らば則ち賊人敢えて南に窺うこと無からん。」花栄等は唯唯として命を受けた。宋江又杯を執り盧俊義に対して曰く、「今日出兵するに、陽城、沁水の俘を献ずるの喜びを得たり。二処既に平らげば、賢弟は長駆して直ちに晋寧に抵り、早く大功を建て、生けて賊首田虎を擒え、朝廷に報効し、同じく富貴を享けん。」盧俊義曰く、「兄長の威に頼り、両処は戦わずして服す。既に厳令を奉ずれば、敢えて心を尽くし力を弾まざらんや!」宋江又前日蕭讓に教えて許貫忠の図画に照らして別に一軸を書き写させたるを取り、盧俊義に付与して収め置き備えに用いしむ。当に正先锋宋江は令を伝えて兵を三隊に分つ。林冲、索超、徐寧、張清は兵一万を領して前隊と為す。孫立、朱仝、燕順、馬麟、単廷珪、魏定国、湯隆、李雲は兵一万を領して後隊と為す。宋江は呉用と共に其余の将佐を統領し、兵三万を領して中軍と為す。三隊、軍兵合わせて五万、東北を望んで進発す。副先锋盧俊義は宋江、花栄等に辞し、四十員の将佐、軍兵五万を管領し、西北を望んで征に向かう。
花栄、董平、施恩、杜興は宋江、盧俊義に饅別して城に入る。花栄は令を伝え、城北五里の外に、二つの営寨を扎し、施恩、杜興各々兵五千を領し、強弓硬弩、並びに諸般の火器を設けて屯扎し、以て敵鋒に当たらしむ。又東西の両路に、奇兵を設けて埋伏せしむ。言うに及ばず。其の高平は自ずから史進、穆弘有り、陵川は自ずから李応、柴進有り、衛州は自ずから公孫一清、関勝、呼延灼有り、各々守禦す。看官、話頭を牢记せよ。
且つ宋先锋の三隊の人馬、蓋州を離るること三十余里。宋江は馬上に在りて、遥かに前面に一座の山嶺有るを見る。多時を経て、漸く山下に近づく。馬首の右に在り。宋江は其の山の形勢を観るに、他山に比して又同じからず。但だ見る、
万叠の流嵐は鱗次の如く密に、数峰は連峙して雁行を成す。嶺の顛の崖石は城郭の如く、天を插す雲木は蒼蒼を繞る。
宋江正に山景を観看するに在りしが、忽ち李逵の上前に来りて指を以て曰く、「哥哥、此の山の光景、前日の夢中と異なること無し。」宋江即ち降将耿恭を喚び問いて曰く、「汝此に久しく在れば、必ず此の山の来歴を知らん。若し許貫忠の図に依らば、房山は州城の東に在り、当に天池嶺と謂うべし。」李逵曰く、「夢中の秀士、正に天池嶺と説きしを、我は却って忘れたり。」耿恭曰く、「此の山は果たして天池嶺なり。其の顛の石崖は城郭の如く、昔人兵を避けし処なり。近来土人此の嶺に霊異有りと説き、夜間に石崖中、往往にして紅光照耀すること有り。又樵者岸畔に到れば、異香鼻を撲つこと有り。」宋江聞き終わり、便ち曰く、「此くの如くならば却って李逵の夢に符合す。」是の日、兵行くこと六十里にして安営す。路に於いて話無し。一日に非ずして、壷関の南に到り、関を離るること五里にして下寨す。
説けば壷関は元より山の東麓に在り、山形は壷に似る。漢の時に始めて関を此に置く。故に此れを壷関と謂う。山の東に抱犢山有り、壷関の山麓と相连なる。壷関正に両山の中に在り、昭徳城の南八十里の外に在り。乃ち昭徳の険隘なり。上に田虎の手下の猛将八員、精兵三万在りて鎮守す。其の八員の猛将は誰ぞ、
山士奇 陸輝 史定 呉成
仲良 雲宗武 伍粛 竺敬
説けば山士奇は元は沁州の富戸の子弟、膂力人に過ぎ、好んで槍棒を使う。人を殺して罪を懼れ、遂に田虎の部下に投じ、敵を拒ぎて功有り、偽りて兵马都监の職を受く。慣れ使いし一条の四十斤重き渾鉄棍、武芸精熟す。田虎、朝廷宋江等の兵马前来するを聞き、特に彼を昭徳に差し、精兵一万を選び、陸輝等に協同して壷関を鎮守せしむ。彼の処の一応の調遣、俱に便宜に行うことを得て、奏聞するを須いず。
山士奇壷関に到り、蓋州の失守を知り、宋兵必ず関を取らんと来たるを料り、日日兵を励まし馬を秣い、迎撃の準備をす。忽ち宋兵已に関南五里の外に扎営すとの報せ有り。士奇馬軍一万を整え点じ、史定、竺敬、仲良と同じく各々披掛して馬に上り、兵を領して関を出でて迎え撃ち、宋兵と対陣す。両辺列して陣勢を成し、強弓硬弩を用い、陣脚を射止む。両陣の裏、花腔鼉鼓は擂ち、雑彩繍旗は揺る。北陣の門旗開くる処、一将馬に立ち当先す。彼が如何に装束せるかを見よ、
鳳翅明盔は穩やかに戴き、魚鱗甲は重ねて披く。錦紅袍の上に花枝を織り、獅蛮帯は瓊瑶密に砌む。純鋼鉄棍は緊に挺ち、青毛騘馬は頻りに嘶く。壷関に新たに到る大将軍、山都監士奇是れなり。
山士奇高く叫ぶ、「水洼の草寇、敢えて我が边疆を侵犯するか!」那邊の「豹子頭」林冲、馬を驟せて陣を出で、喝して曰く、「虐を助くる匹夫、天兵到来するも、尚お抗拒するか!」矛を拈り馬を縦り、直ちに士奇を搶む。二将垓心に搶み到る。両軍喊声を揚げ、二騎相交わる。四条の臂膊は縦横し、八只の馬蹄は撩乱す。斗うこと五十余合に及び、勝負分かたず。林冲暗暗に喝采す。竺敬、士奇の勝ち能わざるを見、馬を拍ち飛刀して戦いを助く。那邊の「没羽箭」張清、馬を飛ばし接住す。四騎の馬、陣前に在りて二対いに厮杀す。張清と竺敬と斗うこと二十余合に至り、張清力怯え、馬を拍ち便ち走る。竺敬馬を驟せて来たり追う。張清花枪を帯し止め、錦袋内に向かい一石子を取り、身を扭り過ぎ、竺敬の面門を睨み定め、一石子を飛ばし、声を喝して曰く、「着く!」正に竺敬の鼻凹に中たり、身を翻し馬より落ち、鮮血迸り流る。張清馬を回し枪を拈りて刺さんとす。北陣の裏、史定、仲良双び出で、死して救い得て脱る。関上、一将を打ち翻すを見、士奇に失有らんことを恐れ、遂に金を鳴らし兵を収む。宋江も亦金を鳴らし兵を収めて寨に回り、呉用と商量して曰く、「今日一員の賊将を打ち翻し、少しく鋭気を挫けり。我山勢の険峻なるを見るに関形壮固なり。何の良策を用い、此の関を破る可き?」林冲曰く、「来日関に叩き搦戦し、必ず其の賊将を殺却し、衆兄弟力を迸して衝殺して上らん。」呉用曰く、「將軍あえて造次なること勿れ!孫武子云く、『勝つ可からざる者は、守るなり。勝つ可き者は、攻むるなり。』と。謂う所は、敵未だ勝つ可からざれば、則ち我当に自ら守るべく、彼の敵勝つ可ければ、則ち之を攻むるなり。」宋江曰く、「軍師の言、甚だ善し。」
翌日、林冲と張清が宋江の許に参上し、兵を率いて挑戦に出ることを申し出た。宋江は「たとえ勝ったとしても、輕易に関に上ってはならぬ」と命じ、徐寧と索超に兵を率いて応援するよう命じた。そこで林冲と張清は五千の軍馬を率い、関の下で旗を振り鼓を打ち、罵って挑戦したが、辰の時から午の時まで、関上には動きがなかった。林冲と張清がまさに陣営に引き揚げようとした時、猛然と関内から砲声が一発響き、関門が開き、山士奇が伍肅、史定、呉成、仲良を連れ、二万の兵馬を率いて、殺到してきた。林冲は張清に言った。「賊どもは我々の疲れに乗じようとしている。我々は力を尽くして前進せねばならぬ。」後陣の索超と徐寧が兵を率いて共に前進した。両軍は陣を敷き、言葉を交わさず、直接相手を求めて斬り結んだ。林冲は伍肅と戦う。山士奇が馬を出せば、張清は梨花槍を振るって迎え撃つ。呉成と史定の二人が同時に飛び出し、索超は大斧を振るい、馬を駆って迎え撃ち、二人の将を力戦して防いだ。両軍は続けざまに鬨の声を上げ、七騎の戦馬が、砂塵の影の中、殺気の叢の中で、灯影のように組み合って戦った。戦いが最も激しくなった時、「豹子頭」林冲が大喝一声、一槍で伍肅を馬から突き落とした。呉成と史定の二人は索超と戦い、すでに力が尽きかけていたが、向こうで伍肅が落馬するのを見て、史定は慌てて隙を見せ、馬を叩いて自陣へ逃げ去った。呉成は史定が敗走するのを見て、斧をかわして逃げようとしたが、索超に斧を振るわれて真っ二つに斬られた。山士奇は二人の将を失ったのを見て、馬を回して陣に帰ろうとした。張清が追いかけて、手を挙げて一石を放ち、山士奇の後頭部に命中、兜が鏗と音を立て、山士奇は驚いて馬の鞍に伏して逃げ去った。仲良は急いで兵を率いて関に入ろうとしたが、林冲らが兵を駆って攻め寄せ、北軍は大敗した。山士奇は兵を率いて乱れ入り関に逃げ込み、関門を閉める暇もなかった。林冲らは関の下まで真っ直ぐに攻め寄せたが、関上から矢や石を打ち下ろされたため、入ることができなかった。林冲は左腕に矢を受けたため、兵を収めて陣営に帰った。宋江は安道全に命じて林冲の矢傷を治療させたが、幸い甲冑が厚かったため、傷は重くはなかった。それはさておき。
また、山士奇は関に入り、兵士を点検すると、二千余名を失い、さらに二名の将を失っていた。彼は配下の者と相談し、一方で人を威勝の晋王の許に遣わし、宋江らの兵は強く馬は壮ん、将は勇猛で、防ぎきれないため、増援の良将を派遣して守らせ、安全を保障できるように願い出た。また一方で、密かに抱犊山の守将・唐斌、文仲容、崔埜と約束し、精兵を率いてひそかに抱犊山の東面から出発し、宋兵の後方に回り込ませることにした。期日を決め、砲声を合図とし、「こちらは兵を率いて関を出て、攻め下り、両路から挟撃すれば、必ずや大勝利を得られるであろう。」と。その場で計略を定め、関を堅守して唐斌からの知らせを待つことにし、それはさておき。
また、宋江は壺関の険要さを見て、急には攻め落とせず、半月余りにわたって対峙していたが、ちょうど帳中で煩悶していると、突然、衛州の関将軍が使いの早馬で書状を届けてきたと報じられ、中には機密の用事があるという。宋江と呉用は急いで封を切って見ると、手紙にはこうあった。
宋江は手紙を詳細に読み終え、呉用と相談し、兵を動かさず、ただ関内の動静を観察し、その後で策応することにした。
さて、山士奇は人を遣わして密かに唐斌にひそかに出兵するよう約束させたが、軍人が戻って報告した。「今は月明かりが昼のように明るうございます。月が暗くなる月末まで待って進兵し、敵に悟られぬようにするのがよろしいかと。」山士奇は「それも一理ある。」と言った。十日余りが過ぎ、宋軍も攻めて来なかったが、突然、唐斌が数騎の兵を連れ、抱犊山の側から関内に駆け込んできたと報じられた。間もなく唐斌が関に到着し、山士奇に拝謁した。唐斌は言った。「今夜三更、文仲容と崔埜が一万の兵を率い、ひそかに抱犊山の東面から出発します。兵士は軟らかい甲冑を着け、馬には鈴を外させ、夜明けには必ず宋兵の陣営の背後に到着するでしょう。こちらは早急に準備し、関を出て応援するのがよろしいかと。」山士奇は喜んで言った。「両路から挟撃すれば、宋兵は必ず敗れるであろう!」山士奇は酒を用意して饗応した。夕方になると、唐斌は関に上って見回し、「おかしなことだ。星明かりの下、関の外に誰かが偵察に来ているようだ。」と言いながら、側近の軍士の矢筒から二本の矢を取り、関の外に向かって射た。これもまたこの関が破られるべき時であったのだろう、関の外には確かに数人の軍卒がおり、宋江の将令を奉じて、闇夜に紛れて密かに関中の消息を探っていた。唐斌の放った矢は、あいにく一人の軍卒の右の太腿に命中したが、太腿の肉が痛むだけで、矢じりがないように思われた。軍卒は怪しみ、矢をよく見ると、多くの絹帛が矢じりにきつく巻き付けられていた。軍卒は隠し事があると知り、飛ぶように陣営に走り、宋江に報告した。宋江が燈火の下で封を切って見ると、中には蠅の頭ほどの小さな字が数行書かれてあり、それは唐斌が密かに約束した内容だった。「明朝の夜明けに関を献じます。文仲容、崔埜が兵を率いてひそかに先鋒陣営の背後に到着する手はずです。砲声を待ち、関内から討って出て応援します。その時、唐斌はその場にいて、機に乗じて関を奪取します。宋の先鋒様は速やかに関に入る準備を整えられよ。」宋江は読み終え、呉用と密かに準備を相談した。呉用は言った。「関将軍の計略に間違いはあるまい。しかし、敵兵が我々の背後に現れる以上、準備を怠ってはならぬ。孫立、朱仝、単廷珪、魏定国、燕順に一万の兵を率いさせ、旗を巻き鼓を静め、ひそかに陣営の背後に赴いて伏兵とせよ。もし文、崔の二将の兵が到着しても、彼らを陣営に近づけるな。我々の軍がこの関を奪取したのを聞き、轟天子母号砲を放つのを聞いてから、初めて彼らを近づけさせるのだ。さらに徐寧、索超に五千の兵を率いさせ、ひそかに陣営の東に赴いて伏兵とせよ。林冲、張清に五千の兵を率いさせ、ひそかに陣営の西に赴いて伏兵とせよ。陣営内で砲声が上がるのを待ち、両路から同時に討って出て応援し、兵を合わせて関に攻め上れ。万一、我々が敵の奸計に陥ったならば、すぐに救い応援に来い。」宋江は「軍師のご計画は極めて良い!」と言った。その場で計略に従い、諸将に令を伝え、各自準備のために立ち去った。
さて、山士奇は関内で唐斌からの知らせを得て、ひたすら宋兵陣営の背後からの砲声を待っていた。夜が明けるのを待ち、突然、関南で連珠砲が轟くのを聞いた。唐斌は山士奇と共に関に上って見渡すと、宋軍の陣営の背後では土煙が立ち上り、旌旗が乱れていた。唐斌が言った。「これは必ずや文、崔の二将の兵が到ったに違いない。急いで関を出て応援すべきだ!」山士奇は史定と共に精兵一万を率い、先に関を出て討って出で、唐斌と陸輝に一万の兵を率いさせ、後に続いて策応するよう命じ、竺敬と仲良には関に駐屯するよう命じた。その時、宋兵は関から軍馬が討って出るのを見て、後退した。山士奇が先頭に立って兵を駆って襲いかかろうとしたところ、猛然と一発の砲声が響き、宋兵の左右から二つの軍勢が躍り出て、殺到してきた。唐斌は宋兵の二隊が討って出るのを見て、急いで馬を回し兵を率いて関に攻め上り、門の外に矛を横たえ馬を立てた。山士奇と史定がそれぞれに戦いを分けていると、宋の陣営からまた一発の砲声が響き、李逵、鮑旭、項充、李衮が投げ槍と盾の手兵を率いて、転がるように殺到してきた。山士奇は準備があることを知り、急いで兵を招集し馬を回して関に上ろうとした。関の前で一人の将が馬に立ち、大声で叫んだ。「唐斌ここにあり!壺関はすでに宋朝のものとなった。山士奇、早く馬を下りて投降せよ!」手を挙げて一槍、あっという間に竺敬を刺し殺した。山士奇は大いに驚き、なすすべもなく、数十騎を率いて、西へ命からがら包囲を突破して逃げ去った。林冲と張清は関を奪取しようと、追撃もせず、兵を率いて関に攻め上った。その時、李逵らの歩兵は身軽で素早く、すでに関に上り、すぐに号砲を放ち、唐斌と共に守関の兵士を追い討ち、壺関を奪取した。仲良は乱兵に殺された。関外の史定は徐寧に刺し倒された。北兵は四方に逃げ散り、投げ捨てた鎧や兜、馬匹は数知れず、二千余人を殺し、五百余名を生け捕りにし、投降した者も多かった。
しばらくして、宋江ら大軍は次々と関内に入った。唐斌は馬を下り、宋江を拝して言った。「唐某には罪がございます。かねてより先锋の仁義を聞き及び、その節は大寨に身を投じたく存じましたが、ただ道筋がなく、尊顔を拝することが叶いませんでした。今日、天が便宜を与え、唐某をして先锋に従うことを得せしめました。まことに平生の願いを満たした思いでございます。」言い終えて、また拝した。宋江は慌てて答礼し、急いで起こして言った。「将軍が朝廷に帰順し、宋某と共に叛逆を蕩平せば、宋某は朝に帰り天子に保奏し、自ずから優先して叙用致しましょう。」その後、孫立ら諸将は、文仲容、崔埜と共に、両路の兵馬を率いて関外に駐屯し、命令を待った。宋江は文、崔二将に関内に入り参上するよう伝令した。孫立らは兵馬を統率し、しばらく関外に駐屯した。文仲容、崔埜は関内に入り、宋江を参拝して言った。「文某、崔某は縁あって、麾下にて力を尽くすことを得、犬馬の労を尽くす所存でございます。」宋江は大いに喜んで言った。「将軍らは同じくこの関を謀り、功労少なからず。宋某は功績簿に、一つ一つ記しましょう。」翌日、直ちに宴を設け、唐斌ら二人と祝賀した。一方、関内外の軍士を点検し、新たに降った兵は二万余人、得たる戦馬は一千余匹。諸将は皆、来て功を献じた。
宋江は将佐軍兵への賞与を終えた。宋江は唐斌に、昭徳関中の兵将は幾ばくかを問うた。唐斌が言うには、「城内にはもと三万の兵馬がおり、山士奇が一万を選んで関を守らせております。現在城中の兵馬はなお二万、正偏の将佐は合わせて十員でございます。」その十員とは、すなわち、孫琪、葉声、金鼎、黄鉞、冷寧、戴美、翁奎、楊春、牛庚、蔡沢である。
唐斌がまた言うには、「田虎は壺関を恃みとして昭徳の屏障としておりましたが、壺関は既に攻め破られ、田虎は一臂を失いました。唐某、不才ながら、願わくば先锋となりて昭徳を討ちたいと存じます。」その時、陵川の降将耿恭もまた、唐斌と共に先锋となることを願い出て、宋江はこれを許した。しばらくして、宋江は文仲容、崔埜に言った。「両君はかねて抱犢山に駐屯し、その地の情況に通じておられ、威名は既に伝わっております。我、両君に本隊の人馬を率いさせ、なおも抱犢山に帰り駐屯し、独り一つの方面を担当させたいと存じます。我が昭徳を破るを待ち、その時改めて将軍を招きお会い致しましょう。両君のご意向はいかがであろうか。」文仲容、崔埜は声を揃えて答えた。「先锋の命令、どうして従わずにおられましょうか。」その時、酒宴は終わり、文仲容、崔埜は宋先锋に別れを告げ、抱犢山へと向かった。
翌日、宋先锋は帳を上げ、戴宗に命じて晋寧の卢先锋の許へ赴き、軍情を探り、速やかに往復して報告せよと命じた。戴宗は命令に従って出発したが、これはひとまず措く。宋江は呉用と議し、兵馬を分派して昭徳を攻めることを決めた。唐斌、耿恭は兵一万を率いて東門を攻める。索超、張清は兵一万を率いて南門を攻める。ただし西門は空けておき、威勝からの救兵が到来し、内外から衝突して不便となるのを防ぐためである。また、李逵、鮑旭、項充、李袞に命じて歩兵五百を率いさせ、遊撃部隊として往来応援させる。孫立、朱仝、燕順に命じて兵を率いて関内に入らせ、樊瑞、馬麟と共に兵馬を管理し、壺関を鎮守させる。分派が定まり、宋先锋と呉学究は其余の将領を統率し、営寨を引き払って進軍し、昭徳城の南十里のところに陣営を敷いたが、これはひとまず措く。
話は両方に分かれる。さて、威勝の偽省院官は、壺関守将の山士奇と晋寧の田彪からの告急文書を受け取り、田虎に奏報し、宋兵の勢力は強大で、壺関、晋寧の両所は危急にあると述べた。田虎は殿上に上がり、衆人と議して、兵を発して救援に向かおうとした。そこへ朝班の中から一人の者が現れ出た。頭には黄冠を戴き、身には鶴氅を纏い、進み出て奏上した。「臣、大王に啓上致します。願わくば壺関に赴き、敵を退けたいと存じます。」その人は喬と姓し、名は冽、ただ一字である。その祖先はもと陕西の涇原の人であった。その母が懐妊の時、豺狼が家に入り、後に鹿となる夢を見て、夢覚めて喬冽を生んだ。この喬冽、八歳にしてすでに槍棒を弄ぶを好み、偶々崆峒山に遊歴し、異人に遇いて幻術を授けられ、風雨を呼び、霧を駕し雲を騰らすことを得た。彼はまた九宮県の二仙山に道を訪ねたこともあったが、羅真人は肯んじて会おうとせず、道童をして伝えさせて言うには、「汝は外道を鑽り、玄妙精微を悟らず。汝が『徳』魔に遇い伏せられて後、始めて我に会うを得ん。」と。喬冽は怒って帰り、自ら法术を恃み、浪遊して束縛されなかった。その幻術多きが故に、人々は皆彼を「幻魔君」と呼んだ。後に安定州に至った。本州は大旱に見舞われ、五ヶ月間一滴の雨もなく、州官は榜文を出して、「もし雨を祈ること能う者あらば、信賞銭三千貫を与う。」と掲げた。喬冽は榜文を剥がし、法壇に登ると、大雨は滂沱として降り注いだ。州官は雨水の充足を見て、この信賞銭を心に留めなかった。また、喬冽に事が起こるべき因縁があった。地元に歪んだ学究がおり、姓は何、名は才と言い、本州の庫吏と最も親密に交わっており、その時このことを聞きつけ、彼は庫吏を唆し、信賞銭の大半を州官に献上させ、残余を自らの懐に収めさせた。何才は庫吏から借財し、これまたいくらかの利を得た。庫吏は却って三貫銭を喬冽に与えて言うには、「汝はかくも高き法术を持ちながら、この金を要しても用無し。我がここに正項の銭糧あり、なおも起解に足らず、東に繰り西に遣り繰りしておる。この信賞銭は、我が言うに従い、ひとまず庫房に預け置き、後日用ある時、来て逐次引き出すが良かろう。」と。喬冽はこれを聞き、大いに怒って言った。「信賞銭は元来本州の富戸が協力して出したものだ。お前、どうして勝手に侵吞し、削り取ることができるのか。庫蔵の糧餉は、すべて民の脂膏である。お前はただ侵吞して己を肥やし、笑いを買い歓を追い、国家の多くの大事を壊してしまった。この汚穢なる醜類を打ち殺し、庫蔵の一害を除いてやろう!」拳を上げ、面を打ち据えた。その庫吏は酒色に身を空しくした者で、加えて身体肥満、手を出す前に先ず息切れし、どうして耐えられようか。その時、喬冽に拳打脚踢され、痛め打たれて、狼狽して帰り、床に臥すこと四五日、とうとう傷が重くて死んだ。庫吏の妻子は本州に訴状を出した。州官も七八分は察しがつき、信賞銭の件からこの事が起こったのだと。批文を下し、差人を遣わして兇手の喬冽を捕らえ、審問せよと命じた。
喬冽はこのことを聞き、夜のうちに涇原に逃げ帰り、母親と共に家を離れ、威勝に逃げ奔り、姓名を変え、「全真」と偽り、「冽」の字を「清」に改め、法号を起こして道清と称した。やがて田虎が乱を起こし、喬道清に法术あるを知り、誘い込んで仲間に加え、妖言を捏造し、幻術を施し、愚民を煽り惑わし、田虎が州県を侵奪するを助けた。田虎は事事喬道清に頼り、偽って彼を護国霊感真人、軍師左丞相の位に封じた。その時初めて姓氏を公にし、そのため皆彼を国師喬道清と称した。
その時、喬道清は田虎に奏上し、願わくば軍馬を率い、壺関に赴き敵を拒まんと申し出た。田虎が言うには、「国師、かくも寡人の憂いを分かとうとは。」話も終わらぬうち、また殿帥の孫安が殿上に進み出て奏上した。「臣、願わくば軍馬を率いて晋寧を救援せん。」田虎は喬道清、孫安を征南大元帥に加封し、各々兵馬二万を撥して赴かしめた。喬道清また奏上して言うには、「壺関危急にございます。臣、軽騎を選び、星夜馳せて救援に赴かん。」田虎は大いに喜び、枢密院に命じて兵将を分撥し、喬道清、孫安に従い出征せしめた。枢密院は命令を得、将を選び兵を撥し、二人に交付した。喬道清、孫安は即日軍馬を整え、出発した。
その孫安は喬道清と同郷で、彼もまた涇原の人である。身の丈九尺、腰の周り八囲、よく韜略に通じ、体力は人に勝れた。一身に出色の好武芸を身に付け、慣れ親しむは両口の鑌鉄剣。後に父の仇を報ずるため、二人を殺し、官府の追捕が厳しかったため、家を棄てて逃げ去った。彼はかねて喬道清と交情厚く、喬道清が田虎の下にいるを聞き、威勝に至り、喬道清を頼った。喬道清は彼を田虎に推薦し、敵を拒みて功あり、偽って殿帥の位を受けていた。今日、十員の偏将を統率し、軍馬二万を率いて、晋寧の救援に向かう。その十員の偏将とは誰か、すなわち、
梅玉 秦英 金禎 陸清 畢勝
潘迅 楊芳 馮升 胡邁 陸芳
である。この十員の偏将は、皆偽って統制の位を授けられていた。その時、孫安は喬道清に別れを告げ、軍馬を統率し、晋寧に向かって出発したが、これはひとまず措く。
また、喬道清は二万の軍馬を団練の聶新、馮統領に任せ、自らは四員の偏将と共に先行した。その四員とは、
雷震 倪麟 費珍 薛燦
である。
その四名の偏将は、いずれも总管の職を仮に授けられ、喬道清に従い、精兵二千を率いて、夜を徹して昭徳へと向かった。一日と経たずに、昭徳城の北十里の地に到着した。先発の騎馬斥候が報せて来た。「昨日、宋兵に壺関を破られ、今は三路に分かれて昭徳の城を攻めております」。喬道清はこれを聞き、大いに怒って言った。「この連中、実に無礼だ!我が腕前というものを思い知らせてやろう」。兵を率いて飛ぶように進軍した。折しも唐斌、耿恭が兵を率いて北門を攻めているところであった。突然、西北の方角から二千余りの騎兵が到着するのが報告され、唐斌と耿恭は陣を敷いて迎え撃った。喬道清の軍馬は既に到着しており、両陣は相対し、旗鼓相望み、南北の間はなお一箭の地を隔てていた。唐斌と耿恭は、北陣の前に四名の将が一人の先生を簇擁し、紅羅の宝蓋の下に馬を止めているのを見た。その先生はどのような様子か。見れば、頭には紫金嵌宝の魚尾道冠を戴き、身には黒衣に沿う烈火錦の鶴氅をまとい、腰には雑色の彩絲の绦を締め、足には雲頭方赤の舄を履いていた。一口の锟铻鉄古剣を杖ち、一匹の雪花銀鬃馬に跨っていた。八字眉に碧眼、落ちた肥えた頬、四方口の声は鐘に似ていた。
その先生が馬上にあり、馬前には一面の皂旗が立てられ、その上に金字で両行十九字の大書があった。すなわち「護国霊感真人、軍師左丞相、征南大元帥喬」と。耿恭はこれを見終えると、恐れ驚いて言った。「この人は手強い!」両軍が未だ交鋒するに及ばず、折り悪しく李逵ら五百名の遊兵が突然到着した。李逵はすぐにでも進み出ようとしたが、耿恭が言う。「この者は晋王の配下で第一の切れ者、妖術を使い、最も手強い」。李逵が言う。「俺が突っ込んであの糞野郎を斬ってしまえば、何の鳥の術を使うこともあるまい」。唐斌も言った。「将軍、敵を軽んじてはなりませぬ」。李逵はどうして聞くものか、板斧を振るって突撃し、鮑旭、項充、李衮は李逵に万一のことがあってはと心配し、五百名の団牌標槍手を率いて、一斉に転がり込むように殺到した。その先生は呵呵大笑し、大喝して言った。「この奴め、猖獗に任せて能を示すでない!」慌てず騒がず、その宝剑を虚空に向かって一指し、口の中で呪文を唱え、声を発して言う。「疾!」。見事な白日青天が、たちまち黒霧漫漫、狂風颯颯、土埃を巻き上げた。さらに一团の黒気が、李逵ら五百余人を包み込み、まるで黒漆の皮袋の中に吸い込まれたかの如く、眼前には一筋の光もなく、少しも身動きが取れず、耳にはただ風雨の声のみが聞こえ、己が何処にいるのかも分からない。たとえ英雄好漢といえども、翼を生やして飛び去ることは叶わない。たとえ火首金剛であろうとも、どうして地網天羅を逃れられよう。八臂の那咤も、龍潭虎窟を脱することは難しい。はたして李逵ら众人の危困、生死は如何に。且つ下回の分解を聴け。
