晋紀二十四
資治通鑑 第102巻
【晋紀二十四】 起屠維大荒落、盡上章敦牂、凡二年。
海西公下太和四年(己巳、公元三六九年)
春、三月、大司馬桓温、徐州・兗州二州刺史郗愔・江州刺史桓冲・豫州刺史袁真等と共に前燕を征伐せんことを請う。初め、郗愔北府に在り、桓温常に曰く、「京口の酒は飲むべく、兵は用うべし」と。郗愔の彼の地に居守するを甚だ願わず。而して郗愔は事の機宜に暗く、ここに於いて桓温に書を為り、共に王室を輔佐せんと欲し、率いる所の部をして黄河沿岸に出軍せんことを請う。郗愔の子郗超、桓温の参軍と為り、書を取りて看、一寸に引き裂きて毀ち、然る後に郗愔の書を偽り、自ら将帥の才に非ず、軍旅の務めに堪えず、年老い病有り、散地を賜りて老を養わんことを請い、桓温に勧めて己が部隊を兼ね統べしむ。桓温、書を得て大いに喜び、即ち郗愔を冠軍将軍・会稽内史に遷し、桓温自ら徐州・兗州二州刺史を兼領す。夏、四月、庚戌、桓温、歩兵・騎兵五万人を率いて姑孰より発す。
甲子、前燕の国主慕容暐、皇后可足渾氏を立てる。太后の堂弟、尚書令豫章公慕容翼の女なり。
大司馬桓温、兗州より前燕を征伐す。郗超曰く、「道路遠く、汴水又浅し。恐らくは水運通じ難からん」と。桓温聴かず。六月、辛丑、桓温金鄉に至る。天旱して水道絶ゆ。桓温、冠軍将軍毛虎生をして巨野三百里を鑿たせ、汶水を導きて清水に匯ましむ。毛虎生は毛宝の子なり。桓温、水軍を率いて清水より黄河に入る。船首尾相連なること数百里。郗超曰く、「清水より黄河に入るは、漕運通じ難し。若し敵出でて戦わず、運輸の道又絶え、敵の資に因りて補給と為すも、得る所無し。是れ危道なり。不若、率いる所の現有の部隊を以て直ちに鄴城に撲る。彼ら威名を畏れ、必ず風を望んで逃げ散り、北のかた遼東・碣石に遁れん。若し能く出でて戦わば、事即ち決すべし。若し鄴城を守らんと欲せば、此の盛夏の時、施工し難し。百姓田野に散在し、尽く官府の財と為り、易水以南は必ず拱手して命を聴かん。但だ恐らくは明公、此の計を軽率粗暴と為し、勝敗測り難く、専ら穩重を務めんと欲せば、則ち黄河・済水の間に軍を駐め、水運を制し、物資の儲け充足を待ち、明年の夏に至りて進兵す。是れ延るが如きも、目的を成功に在りとす。此の二策を捨てて軍を連ね北に上るは、進むも速やかに決戦する能わず、退くも必ず乏し。敵此の勢に乗じ、日を以て延引し、漸く秋冬の節に入り、河水益々涸竭阻塞す。且つ北方の地早く寒く、三軍の将士、皮衣褐衣を着る者少なし。恐らくは其の時に当たりて憂うる所は、糧食のみに非ざらん」と。桓温又聴かず。
桓温、建威将軍檀玄を遣わして湖陸を攻め、之を抜き、前燕の寧東将軍慕容忠を獲る。前燕の国主慕容暐、下邳王慕容厲を征討大都督と為し、歩兵・騎兵二万人を率いて黄墟に戦う。慕容厲の軍大敗し、単騎逃げ還る。高平太守徐翻、全郡を率いて降る。前鋒鄧遐・朱序、林渚に於いて前燕の将傅顔を破る。慕容暐、又楽安王慕容臧を遣わして諸軍を統べ桓温を禦ぐ。慕容臧禦ぐ能わず。是に於いて散騎常侍李鳳を遣わして秦に救いを求む。
秋、七月、桓温武陽に駐まる。前燕の故兗州刺史孫元、其の宗族党羽を率いて兵を起こし桓温に応ず。桓温枋頭に至る。慕容暐と太傅慕容評、大いに恐懼し、和龍に逃れんと議す。呉王慕容垂曰く、「臣請う之を撃たん。若し勝つ能わざれば、逃るも晚からず」と。慕容暐、是に於いて慕容垂をして楽安王慕容臧に代わり使持節・南討大都督たらしめ、征南将軍范陽王慕容徳等の衆五万人を率いて桓温を禦ぐ。慕容垂、表を上り司徒左長史申胤・黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰を俱に軍に従わしむるを請う。申胤は申鍾の子。封孚は封放の子なり。
慕容暐、又散騎侍郎楽嵩を遣わして秦に救いを求め、虎牢以西の地を割譲するを許諾す。前秦王苻堅、群臣を召して東堂に議す。皆曰く、「昔桓温我を攻め灞上に至るも、燕我を救援せず。今桓温燕を攻むるに、我何ぞ彼を救援せん!況や燕我に藩称せず、我何ぞ彼を救援せん!」と。王猛、私に苻堅に謂いて曰く、「燕雖強しと雖も、慕容評は桓温の敵に非ず。若し桓温山東の地を全有し、進軍して洛邑に屯し、幽州・冀州の兵力を収羅し、并州・豫州の糧食を調用し、崤山・澠池に兵を炫耀せば、則ち陛下の大事已ならん。今、不若燕と兵を合わし、以て桓温を撃退せん。桓温退く後、燕亦疲弊せん。然る後其の疲弊に乗じて之を奪うは、亦た善からずや!」と。苻堅聴く。八月、将軍苟池・洛州刺史鄧羌を遣わし、歩兵・騎兵二万人を率いて燕を救援せしめ、洛陽より発し、進みて頴川に至る。又散騎侍郎姜撫を遣わして使者と為し燕に報ず。王猛を以て尚書令と為す。
太子太傅封孚、申胤に問うて曰く、「桓温の兵衆強盛、士気整斉、順流直進す。今我が軍只だ高岸に徘徊し、兵交えず、勝ちて之を滅ぼすの理を見ず。事将に如何せん?」と。申胤曰く、「桓温の今日の声勢を以てすれば、能く為す有るに似たり。然れども我之を観るに、必ず成功せず。何を以てか?晋朝の王室衰弱し、桓温其の国に専制す。晋の朝臣、必ずしも皆之と同じ心ならず。故に桓温の志を得るは、衆の願わざる所、必ず中に於いて其の事を阻害せん。又、桓温驕り而して衆に倚るも、変に応ずるには怯なり。大軍深入し、乗ずべきの機に当り、却って中流に逍遥し、出でて勝を争わず、持久を欲し、坐して全勝を待つ。若し糧食の供給上らず、情状顕露し、形勢窘迫せば、必ず戦わずして自ら敗れん。是れ自然の理なり。」
桓温、前燕の降人段思を以て嚮導と為す。悉羅騰、桓温と戦い、段思を生け獲る。桓温、前趙の将李述を遣わして趙地・魏地を巡らす。悉羅騰、又虎賁中郎将染干津と共に之を攻撃し斬る。桓温の軍、士気挫かれる。
初め、桓温、豫州刺史袁真を遣わして譙郡・梁郡を攻め、石門を鑿ち以て水運を通ぜしむ。袁真、譙郡・梁郡を抜くも、石門を鑿つ能わず、水運の道塞がる。
九月、前燕の范陽王慕容徳、騎兵一万人を率い、蘭台治書侍御史劉当、騎兵五千人を率いて石門に屯す。豫州刺史李邽、州兵五千人を率いて桓温の糧道を断つ。劉当は劉佩の子なり。慕容徳、将軍慕容宙を遣わし騎兵一千人を率い前鋒と為し、晋軍と遇う。慕容宙曰く、「晋軍軽剽にして、敵陣に深入するを怯れ、人の退くに乗ずるに勇なり。宜しく誘餌を設けて以て之を釣るべし」と。是に於いて二百騎をして挑戦せしめ、其の余の騎兵を三分して伏す。挑戦の騎兵、未だ交えずして走る。晋軍之を追う。慕容宙、伏兵を率いて之を撃つ。晋軍の戦死する者甚だ多し。
桓温、戦いに数失利し、糧食の儲け又尽く。又秦軍の将に至らんと聞くを聞く。丙申、船を焼き、輜重・鎧甲・武器を棄て、陸路より逃げ還る。毛虎生を以て都督東燕等四郡諸軍事と為し、東燕太守を兼ねしむ。
桓温は東燕から倉垣へ逃れ、井戸を掘って水を飲み、七百余里を行軍した。前燕の諸将は争って彼らを追撃しようとしたが、呉王慕容垂は「それはできない。桓温が撤退したばかりの時は恐れおののいており、必ず厳重に警戒を設け、精鋭を後衛として選んでいるだろう。攻撃しても必ずしも勝てず、追撃を緩めるほうがよい。彼らは我々が追わないことを喜び、必ず昼夜を急行するだろう。その兵士たちが力尽き気力が衰えたところを攻撃すれば、勝てないことはない」と言った。そこで八千の騎兵を率いてゆっくりと彼らの後ろに従った。桓温は案の定、道を倍にして進んだ。数日後、慕容垂は諸将に告げて言った。「桓温を攻撃してよい」。そこで急追し、襄邑で桓温に追いついた。范陽王慕容徳はまず精鋭の騎兵四千人を率いて襄邑の東の山間に伏せ、慕容垂と挟撃して桓温をまた打ち破り、戦死者はまたも万を数えた。孫元はそこで武陽を占拠して前燕を防いだが、前燕の左衛将軍孟高が討伐して捕らえた。
冬十月、己巳、大司馬桓温は散兵を集め、山陽に駐屯した。桓温はこの敗北を深く恥じ、そこで袁真に罪をかぶせ、上奏して袁真を平民に落とした。また冠軍将軍鄧遐の官職を免じた。袁真は桓温が自分を誣告したと思い、服さず、上表して桓温の罪状を述べたが、朝廷は答えなかった。袁真はそこで寿春を占拠して反逆し、前燕に降伏して救援を求めた。また使者を秦にも遣わした。桓温は毛虎生を淮南太守に兼任させ、歴陽を守らせた。
前燕と前秦が和好を結んだ後、使者は何度も往来した。前燕の散騎侍郎太原人の郝晷と、給事黄門侍郎の梁琛が相次いで前秦に使した。郝晷は王猛と旧交があり、王猛は平常の情誼で彼を接待し、郝晷に東の国の事情を尋ねた。郝晷は前燕の政事が修まらず、前秦の治めが良いのを見て、前燕が滅びようとしていることを知り、密かに王猛に帰服しようと思い、かなり実情を漏らした。
梁琛が長安に到着した時、秦王苻堅は万年県で狩猟をしており、その場で梁琛に会おうとした。梁琛は言った。「秦の使者が燕に来れば、燕の君臣は皆朝服を着て礼を整え、宮廷を掃き清めてから、ようやくお会いするのです。今、秦王は野外で私に会おうとされていますが、使臣としてこの命令に従うことはできません!」尚書郎の辛勁が梁琛に言った。「賓客が国内に入れば、主人が接待の方法を定めるのみであり、あなたがどうして勝手に礼儀を規定できるのか!そもそも天子の外出は乗輿と呼ばれ、その滞在先は行在所と呼ばれる。どこに決まった殿堂の居所があるのか!また、『春秋』にも『遇礼』があるではないか。なぜできないことがあるのか!」梁琛は言った。「晋の王室が綱紀を失い、天の福運は徳ある者に帰し、秦と燕は共に天命を受けています。ところが桓温が猖狂し、我が国の領土を窺っています。燕が危急で秦が孤立しているため、形勢上、単独では支えきれません。そこで秦主は時局の危難を共に憂い、友好と救援を結んだのです。我が東朝の君臣は、西を仰ぎ見て、自らの力不足を恥じ、隣国の憂いとなっています。西の使者の到来に対しては、敬い礼遇を加えています。今、強敵は既に退き、両国の聘問が始まったばかりです。私は礼儀を尊び信義を厚くして両国の友好を固めるべきだと考えます。もし使臣を軽んじれば、それは燕を軽んじることであり、どうして和好を修める道理がありましょうか!天子は四海を家とするので、外出を乗輿と呼び、滞在を行在と呼びます。しかし今、天下は分裂し、天の光は各方に分かれています。どうして乗輿や行在の言い方を使えるでしょうか!礼制によれば、事前に約せずに会うことを『遇』と言います。これは事が緊急で臨時に行動し、礼節が簡略だからです。どうして平常のゆったりした時にすべきことでしょうか!客使は独りで行き、確かに形勢上は主人に制されます。しかし主人が礼をもって遇さなければ、私も従うことはできません。」苻堅はそこで彼のために行宮を設け、百官を列させてから賓客を招き入れ、燕の朝儀に従って行った。事が終わった後、苻堅は梁琛と私的に宴飲し、尋ねて言った。「東朝の名臣には誰がいるのか?」梁琛は言った。「太傅上庸王慕容評は、徳が明らかで親族として尊く、王室を光輝かせ補佐しています。車騎大将軍呉王慕容垂は、雄才大略が当世に冠絶し、外敵を防ぐことができます。その他、ある者は文才で用いられ、ある者は武略で任じられ、官員は皆その職に適い、民間に遺された賢才はありません。」
梁琛の従兄梁弈は秦の尚書郎であり、苻堅は典客に命じて梁琛を梁弈の邸宅に住まわせようとした。梁琛は言った。「昔、諸葛瑾は呉のために蜀に使いし、諸葛亮とは公朝でのみ会い、退朝後に私的に会うことはありませんでした。私はひそかにこのやり方を慕っています。今、私を私邸に住まわせようとするのは、私が受け入れられないところです。」そこでついに梁弈の家には入らなかった。梁弈は何度も梁琛の館舎に来て、梁琛と同臥同起し、暇な時に梁琛に燕の国事を尋ねた。梁琛は言った。「今、両国は分かれて拠っており、兄弟ともども栄寵を蒙っていますが、本心を言えば、それぞれ帰属するところがあります。私は東朝の良いところを言いたいと思いますが、それは西朝が聞きたいことではないでしょう。悪いところを言うのは、また使臣が議論すべきことではありません。兄はどうしてこれを問うのでしょうか!」
苻堅は太子を遣わして梁琛を招き会おうとした。秦人は梁琛に太子を拝ませようとし、先に彼にほのめかして言った。「隣国の君は、自国の君と同じである。隣国の太子も、また何の違いがあろうか!」梁琛は言った。「天子の子は元士と同じく扱われ、その卑しい地位から高貴な地位に上がらせるのです。まだ父の大臣を臣とすることはできません。ましてや他国の臣下はなおさらです。もし純粋な敬意が欠ければ、礼は往来するものです。情義においてどうして恭敬を忘れることがありましょうか。ただ、尊い立場を低くし、屈して煩わしいことを恐れるだけです。」そこでついに拝礼しなかった。
王猛は苻堅に梁琛を抑留するよう勧めたが、苻堅は許さなかった。
燕主慕容暐は大鴻臚温統を遣わして袁真に使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・揚州刺史を授け、宣城公に封じた。温統はまだ淮河を渡らずに死去した。
呉王慕容垂は襄邑から鄴城に帰り、威名はますます顕著となり、太傅慕容評はますます彼を恐れた。慕容垂は上奏して言った。「招集した将士は生死を顧みず戦功を立て、将軍孫蓋らは敵陣に突入しました。特別な賞賜を与えるべきです。」慕容評は皆抑えて実行しなかった。慕容垂は何度もこれを述べ、慕容評と朝廷で争い、怨恨はますます深まった。太后可足渾氏は以前から慕容垂を憎み、彼の戦功をそしり、慕容評と共に彼を殺そうと密謀した。太宰慕容恪の子慕容楷および慕容垂の舅蘭建がこれを知り、慕容垂に告げて言った。「先に発すれば人を制します。ただ慕容評と楽安王慕容臧を除けば、残りの者は憂慮に足りません。」慕容垂は言った。「骨肉が相殺し、まず国内に禍乱を引き起こすのは、私は死ぬとも忍びない。」程なくして、二人はまた告げて言った。「宮中の意向は既に決まりました。早く動かねばなりません。」慕容垂は言った。「もしどうしても補えないなら、私は外に避難するまでです。その他は言うに及ばない。」
慕容垂は内心これを憂えたが、子らに告げることを敢えてしなかった。世子慕容令が問うて言った。「父が近来、顔に憂色を帯びておられるのは、主上年幼で、太傅が賢を嫉み能を妬み、父の功高く望み重く、ますます猜疑されるからではありませぬか?」慕容垂は言った。「その通りだ。私は力を尽くして命を懸け強敵を打ち破り、本意は国と家を全うしようとしたのだ。功が成った後に、かえって身の置き所がなくなるとは思わなかった。お前が既に私の心を知っているなら、何か策を私のために謀ってくれるか?」慕容令は言った。「主上は昏庸で懦弱、政を太傅に委ね、一旦禍が起これば、弩機を発するよりも速いでしょう。今、家と身を全うし、かつ大義を失わないためには、龍城に逃れ、謙虚な言葉で謝罪し、主上の明察を待つのがよいでしょう。周公が東に居したように、あるいは感動して悟り、戻ることができるかもしれません。それが最大の幸いです。もしそれが叶わなければ、内では燕・代の地を撫で、外では諸族を懐柔し、肥如の険に拠って自保するのも、次善の策です。」慕容垂は言った。「よし。」
十一月、辛亥朔日、慕容垂は大陸沢で狩猟をしたいと請い、便服に着替えて鄴城を離れ、龍城へ向かおうとした。邯鄲に到着した時、末子の慕容麟は、かねてより慕容垂に寵愛されておらず、鄴城へ逃げ帰って事情を告げた。慕容垂の側近の者たちは多く逃亡し叛いた。太傅の慕容評は燕主の慕容𬀩に報告し、西平公の慕容強に精鋭の騎兵を率いて追跡させ、范陽で彼らに追いついた。世子の慕容令が殿(しんがり)を務めたため、慕容強は近づくことができなかった。ちょうど日が暮れたので、慕容令は慕容垂に言った。「本来は東都を拠点として自らの安全を図ろうとしましたが、今や事は露見し、謀を巡らす暇もありません。秦の主はまさに英雄豪傑を招き入れていますから、彼のところへ行って頼るのが良いでしょう。」慕容垂は言った。「今の状況では、ここを除いて他にどこへ行くというのか!」そこで騎兵を解散させ、足跡を消し、南山に沿って再び鄴城に戻り、趙国の顕原陵に隠れた。しばらくして、数百人の猟師たちが四方から囲んできた。抗戦すれば敵わず、逃げようとしても道がなく、どうすることもできなかった。折よく猟師たちの鷹が皆飛び去ったため、人々は馬を駆って散り散りになった。慕容垂はそこで白馬を殺して天に祭り、従者たちと盟約を結んだ。
世子の慕容令は慕容垂に言った。「太傅は賢を妬み能を憎み、讒言が行われてからというもの、人々の怒りは特に激しくなっています。今、鄴城の中では、あなた様の所在を知る者は誰もおらず、人々はまるで幼子が母を慕うかのように、夷人も漢人も皆同じ気持ちです。もし人々の心に従い、不意を突いて襲撃すれば、鄴城を奪うことは易々たることです。事が平定した後、弊政を改め賢能を選び、大いに朝政を匡正して主上を輔佐し、国家を安定させ家を全うすることは、大きな功業です。今日の好機は、確かに逃すべきではありません。どうか私に数騎の兵を与えてください。それで事を成し遂げるには十分です。」慕容垂は言った。「お前の謀の通りにすれば、事が成功すれば確かに大きな幸いだが、成功しなければ後悔しても間に合わない!西へ奔る方が、万に一つの失敗もないだろう。」子の馬奴は密かに鄴城へ逃げ帰ろうと謀り、殺されてから出発した。河陽に到着した時、渡し場の役人に阻まれたが、役人を殺して黄河を渡った。そこで洛陽から段夫人、世子の慕容令、慕容令の弟の慕容宝、慕容農、慕容隆、兄の子の慕容楷、舅の蘭建、郎中令の高弼と共に前秦へ奔り、妃の可足渾氏を鄴城に残した。乙泉の戍主の呉帰がC171郷まで追ってきたが、世子の慕容令がこれを退けた。
初め、秦王の苻堅は太宰の慕容恪が亡くなったと聞き、密かに燕を図ろうと考えていたが、慕容垂の威名を惧れて、発動できずにいた。慕容垂が来たと聞いて、非常に喜び、郊外まで出迎え、その手を握って言った。「上天は賢能な豪傑を生み、必ず共に大功を成し遂げさせるものだ。これは自然の道理である。私は必ずやあなたと共に天下を平定し、泰山で告成の儀を行い、その後あなたの故国を返し、代々幽州に封じよう。そうすれば、あなたは故国を離れても孝子を失わず、私に帰順しても忠臣を失わない。これで良いではないか!」慕容垂は辞退して言った。「寄寓の臣が、罪を免れるだけでも万幸でございます。故国の栄誉など、私が望むところではございません!」苻堅はまた世子の慕容令と慕容楷の才能を愛し、皆厚く遇して賞賜は数万に及び、彼らが謁見するたびに、じっと見つめた。関中の士人や百姓は、かねてより慕容垂父子の名声を聞いており、皆心から慕い仰いだ。王猛は苻堅に言った。「慕容垂父子は、まるで龍虎のようなもので、飼いならせるものではありません。もし彼らに風雲の勢いを借りれば、もはや制御できなくなるでしょう。早めに除くのが良いかと。」苻堅は言った。「私はまさに英雄を招き寄せて四海を掃清しようとしている。どうして殺せようか!それに彼らが来たばかりの時に、私は既に真心を尽くして受け入れた。平民でさえ約束を違えはしない。ましてや万乗の君たる者が!」そこで慕容垂を冠軍将軍に任命し、賓徒侯に封じ、慕容楷を積弩将軍とした。
燕の魏尹・范陽王の慕容徳は、かねてより慕容垂と親交があり、車騎従事中郎の高泰らも共に、これによって免官された。尚書右丞の申紹は太傅の慕容評に言った。「今、呉王が奔り出て、外の議論は騒然としています。呉王の僚属の中から賢者を召し出して抜擢するのが良いでしょう。おそらくは謗りを消すことができます。」慕容評は言った。「誰が適任か?」申紹は言った。「高泰がその首領格です。」そこで高泰を尚書郎に任命した。高泰は高瞻の甥である。申紹は申胤の兄である。
前秦は梁琛を一ヶ月余り留め置き、ようやく帰国させた。梁琛は昼夜兼行で急ぎ、鄴城に着いた時には、呉王の慕容垂は既に前秦へ奔っていた。梁琛は太傅の慕容評に言った。「秦人は日々軍隊を閲兵し、陝城以東に大量に食糧を蓄えています。私の見るところ、和好は長くは続かないでしょう。今や呉王がまた彼のところへ奔りました。秦人は必ず燕を窺う企みがあるでしょう。早めに備えるべきです。」慕容評は言った。「秦人がどうして叛臣を迎え入れて和好を破るようなことをするものか!」梁琛は言った。「今、両国は中原を分割して占拠し、常に互いに併呑しようという志を持っています。桓温が侵攻してきた時、彼らは計略を用いて救援しましたが、それは燕を愛していたからではありません。もし燕に乗ずべき隙があれば、彼らが元来の志を忘れることがありましょうか!」慕容評は言った。「秦の主はどのような人物か?」梁琛は言った。「明察で、決断力に優れています。」さらに王猛について問うと、梁琛は言った。「名は実に伴っています。」慕容評はどちらも意に介さなかった。梁琛はまたこれらの言葉を燕主の慕容𬀩に告げたが、慕容𬀩も意に介さなかった。梁琛は皇甫真に告げると、皇甫真は深く憂慮し、上疏して言った。「苻堅は絶えず使者を遣わして問候しておりますが、実際には我が国を窺う心があり、仁徳を慕い道義を忘れずに長く盟約を守るような人物ではありません。先ごろ洛川に出兵したこと、及び使者が相次いで到来したことで、我が国の険しいところ平らなところ、虚実の状況は、既に彼らに把握されてしまいました。今、呉王の慕容垂がまた彼のところへ奔り、その主謀となっております。伍子胥のような禍いを、防備しないわけにはいきません。洛陽、太原、壺関は、いずれも将を選び兵を増やし、未然に防ぐべきです。」慕容𬀩は太傅の慕容評を召して議した。慕容評は言った。「秦は国が小さく力も弱く、我が国を後ろ盾として頼っています。それに苻堅は善行を行う者に近く、ついに叛臣の言葉を受け入れて両国の友好を絶つようなことはしないでしょう。軽々しく自ら騒ぎ立てて、敵に野心を抱かせるべきではありません。」ついに防備を行わなかった。
前秦は黄門郎の石越を燕に使者として派遣した。太傅の慕容評は彼に奢侈を見せつけ、燕の富強を誇示しようとした。高泰と太傅参軍の河間人・劉靖は慕容評に言った。「石越は言葉が虚偽で目つきが遠くを見ており、友好を求めて来たのではなく、我々の隙を観察しに来たのです。兵を誇示して彼の企みを挫くべきです。今、彼に奢侈を見せつけるのは、ますます彼に侮られるだけです。」慕容評は聞き入れなかった。高泰はそこで病と称して官を辞し、家に帰った。
時に太后の可足渾氏が国政を乱し、太傅の慕容評は貪欲で飽くことを知らず、賄賂が公然と行われ、官員は才能によって選ばれることなく、群臣や百姓は怨恨と怒りを抱いていた。尚書左丞の申紹が上疏して言うには、「地方長官は、太平をもたらす根本です。現在の地方長官は、多くが適任ではなく、ある者は武人で行伍から出ており、ある者は貴戚で絹や錦の中で育ち、郷里から選ばれたわけでもなく、朝廷の職務を経験してもいません。加えて昇進や降格に法度がなく、貪欲で怠惰な者には刑罰の恐れがなく、清廉で身を修める者には表彰や賞賜の励みがありません。そのため百姓は困窮し疲弊し、盗賊が至る所に横行し、法紀は崩壊し、誰も矯正し統制することができません。また官吏の数が多すぎて、前代を超え、公私ともに混乱し、煩わしさに耐えられません。大燕の戸口は、秦・呉の両国の合計に等しく、弓馬の精鋭は、天下に比類がありませんが、近ごろ戦いごとに敗北するのは、すべて地方長官が税収を不公平に課し、侵奪や搾取が限りなく、出征する者も留守を守る者も皆窮迫し、誰も命を惜しまずに戦おうとしないからです。後宮の宮女は四千人を超え、僮僕や侍従、雑用の者たちはこの数をさらに上回り、一日の費用は万金にのぼります。士人や百姓はこれに倣い、競って奢侈を極めています。あの秦や呉は僭越な辺境の国でありながら、なおその領内を治め、併合の心を持っています。それに対して我々は上も下も旧態依然とし、日ごとに秩序を失っています。我々が政治を修めないことは、まさに彼らの望むところです。私は、地方長官を精選し、官職を統合し人員を削減し、軍人の家族を慰め、公私ともに便宜を図り、浮華な奢侈を抑制し費用を節約し、賞賜は必ず功績と釣り合い、刑罰は必ず罪と相応するようにすべきだと考えます。そうすれば、桓温や王猛でさえも首をはねてさらしものにでき、秦や呉の両国も奪取できましょう。ましてや国境を守り民を安んじるだけのことなど、言うに及びません!また、索頭部の什翼犍は老いて病み、昏聩で愚かであり、進貢が乏しいとはいえ、禍患となることはありません。それなのに労して遠征し戍守するのは、損あって益なしです。兵力を并州地域に移し、西河を制御し、南は壷関を強化し、北は晋陽を強化し、西の敵が来れば防戦し、過ぎ去れば退路を断つ方が、孤城を守り無用の地を防ぐよりはましです。」この上疏は差し出されたが、返答はなかった。
辛丑の日、丞相の司馬昱が大司馬の桓温と塗中で会合し、次の行動を謀った。桓温の世子である桓熙を豫州刺史、仮節に任命した。
当初、燕人は虎牢以西の地を割譲して前秦に賄賂を贈ることを約束していた。晋兵が撤退した後、燕人は約束を反故にし、秦人に対して「使者が言い間違えたのです。国や家を持つ者は、災難を分かち合い、患難を救うのは、当然の道理です。」と言った。秦王の苻堅は大いに怒り、輔国将軍の王猛、建威将軍の梁成、洛州刺史の鄧羌に歩兵・騎兵合わせて三万人を率いさせて燕を討伐させた。十二月、洛陽を攻撃した。
大司馬の桓温は徐州・兗州の百姓を徴発して広陵城を築き、移って鎮守した。当時、労役の徴発がすでに頻繁で、疫病も加わり、死ぬ者は十人中四五人に及び、百姓は嘆き怨んだ。秘書監の太原人である孫盛が『晋春秋』を撰し、当時の時事を直筆で記した。大司馬の桓温がこれを見て怒り、孫盛の子に対して言った。「枋頭の戦いは確かに失利したが、何もお前の父が言うようなことではない!もしこの史書がついに世に伝わるならば、自然とお前の家の門戸に関わることになるぞ!」その子は急いで拝謝し、修正を請うた。当時、孫盛は年老いて家に居り、性格は方正で厳格であり、法度や規則を重んじ、子孫がたとえ頭が白くなっても、ますます厳しく扱った。この時に至り、子たちは共に号泣して叩頭し、一家百口の命のために考えてくれるよう願った。孫盛大いに怒り、許さなかったので、子たちは密かにこれを改変した。孫盛は先に別に一本を書き写しており、外国に伝わっていた。孝武帝が奇書を求め購うに及び、遼東の人からこの書を得た。当時流行していた版本とは異なっていたため、両方の版本が保存されることとなった。
海西公の下、太和五年(庚午、西暦三七〇年)
春、正月、己亥の日、袁真は梁国の内史である沛郡の朱憲と、その弟の汝南内史である朱斌が大司馬の桓温と密かに通じているとして、彼らを殺した。
秦王の猛が燕の荊州刺史である武威王の慕容筑に書を送って言った。「我が国は今や成皋の険要を塞ぎ、盟津の道を絶ち、皇帝が御親征して虎狼の師百万を率い、軹関から鄴都を攻め取ろうとしている。金墉は窮困した戍守の地であり、外に救援はなく、城下の大軍は、将軍自らが目の当たりにしたところだ。どうして三百の疲弊した兵が支えられようか!」慕容筑は恐れ、洛陽を献じて降伏した。王猛は軍を整列させて彼の降伏を受け入れた。燕の衛大将軍である楽安王の慕容臧は新楽に城を築き、石門で秦兵を破り、秦の将・楊猛を捕らえた。
王猛は長安を出発する際、慕容令を軍事に参与させ、道案内とするよう求めた。出発しようとする時、慕容垂のもとを訪れて酒を飲み、落ち着いて慕容垂に言った。「今まさに遠くへ別れようとしている。あなたは私に何を贈ってくれるのか、それを見てあなたを思い出せるように。」慕容垂は佩刀を解いて彼に贈った。王猛は洛陽に着くと、慕容垂の側近である金熙に賄賂を贈り、慕容垂の使者に偽装させて、慕容令に言わせた。「我々父子がここに来たのは、死を逃れるためだ。今や王猛は人を仇敵のように憎み、讒言や誹謗が日に日に深まっている。秦王は外見は厚く親切に見えるが、内心は測りがたい。大丈夫たる者が死を逃れながら、結局死を免れず、天下の笑い者になるだろう。東朝は近ごろようやく悔い改め始め、主上と太后は互いに怨み合っていると聞く。私は今、東に帰ろうとしているので、人を遣わして知らせた。私はもう行ったので、お前もすぐに出発せよ。」慕容令はこのことを疑い、一日中ためらい、確かめる術もなかった。そこで旧部の騎兵を率い、狩りに出かけるふりをして、石門の楽安王である慕容臧のもとに奔った。王猛は慕容令が叛いたと上表し、慕容垂は恐れて逃亡したが、藍田で追跡の騎兵に捕らえられた。秦王の苻堅は東堂で彼を引見し、労って言った。「あなたは家国が和を失い、朕のもとに身を投じた。賢子は心に根本を忘れず、故郷を懐かしむのも、それぞれの志であり、深く責めるには足らない。しかし燕はまさに滅びようとしており、慕容令がそれを保存できるものではない。惜しむらくは、彼がただ虎口に飛び込んだだけのことだ。ましてや父子兄弟、罪は連座しない。あなたはなぜ過度に恐れて、これほど狼狽したのか!」彼を以前と同様に遇した。燕人は慕容令が叛いた後に戻ってきたこと、その父がまた前秦に厚遇されていることから、慕容令を反間と疑い、彼を沙城に流した。沙城は龍都の北東六百里にある。
臣・司馬光が言う。昔、周は微子を得て商の命運を改め、秦は由余を得て西戎に覇を唱え、呉は伍員を得て強楚を攻略し、漢は陳平を得て項羽を誅殺し、魏は許攸を得て袁紹を破った。それら敵国の有能な臣を、自らのために用いることは、進取の良い資本である。王猛は慕容垂の心が長く信頼しがたいことを知りながら、ただ燕がまだ滅んでいないこと、慕容垂が才能高く功績多く、罪なくして疑われ、行き詰まって前秦に帰順し、異心がないことを考えず、すぐに猜疑して殺そうとするのは、これは燕の無道を助け、来帰する者の門を塞ぐものである。どうしてこのようにできようか!だから秦王の苻堅は礼をもって燕の声望を収め、親しくして燕の情勢を尽くし、寵愛して燕の民衆を動かし、信任して燕の人心を結んだのであり、過ぎたることではない。王猛はなぜ急いで慕容垂を殺そうとし、市井の販売のような行為をし、まるでその寵愛を妬んで讒言する者のようであったのか。これが徳の高い君子のなすべきことであろうか!
楽安王の慕容臧は進軍して滎陽に駐屯した。王猛は建威将軍の梁成、洛州刺史の鄧羌を遣わして撃退させた。鄧羌を金墉に鎮守させ、輔国司馬の桓寅を弘農太守に任命して、鄧羌に代わって陝城を戍らせ、その後帰還した。
秦王苻坚は王猛を司徒に任命し、録尚書事とし、平陽郡侯に封じた。王猛は固辞して言った:「今、燕国と呉国は平定されておらず、戦車はなお馳せております。ただ一城を得ただけで三公の賞賜を受ければ、もしあの二つの敵を滅ぼしたならば、何をもって加賞すべきでしょうか!」苻坚は言った:「もし一時的に私の心を抑えなければ、どうしてあなたの謙虚な美徳を示せようか!すでに詔して有司に暫時あなたの固守に従うよう命じた。封爵は功労に報いるものだ。あなたはなお努めて私の命令に従うがよい!」
二月癸酉日、袁真が亡くなった。陳郡太守朱輔は袁真の子の袁瑾を建威将軍、豫州刺史に立て、寿春を守らせ、その子の朱干之と司馬爨亮を鄴城に遣わして命を請うた。燕人は袁瑾を揚州刺史、朱輔を荊州刺史に任命した。
三月、秦王苻坚は吏部尚書の権翼を尚書右僕射に任命した。夏四月、再び王猛を司徒、録尚書事に任命しようとしたが、王猛が固辞したので、やめた。燕と秦はともに兵を出して袁瑾を助け、大司馬桓温は督護の竺瑶らを遣わしてこれを防がせた。燕兵が先に到着し、竺瑶らは武丘でこれと交戦し、撃破した。南頓太守桓石虔は南城を攻め落とした。桓石虔は桓温の弟の子である。
秦王堅はまた王猛に命じて鎮南将軍楊安ら十将、歩騎六万人を督率し、燕を征伐させた。
慕容令は自らついに免れ得ないと覚悟し、密かに挙兵を謀った。沙城中で戍守を罰せられた兵士は数千人おり、慕容令はことごとく厚くこれを撫でた。五月庚午日、慕容令は牙門将孟妫を殺した。城大の渉圭は恐れ、効力を願い出た。慕容令はこれを信じ、側に置いた。そこで戍守の兵を率いて東に威徳城を襲い、城郎の慕容倉を殺し、その城を占拠して部署し、人を遣わして東西の各戍守拠点を招撫すると、ことごとく呼応した。鎮東将軍勃海王慕容亮は龍城に鎮守しており、慕容令はこれを襲おうとした。慕容令の弟の慕容麟がこのことを慕容亮に告げ、慕容亮は城門を閉じて守った。癸酉日、渉圭が側に侍る機会に乗じて慕容令を攻め、慕容令は単騎で逃走し、その党はことごとく潰散した。渉圭は慕容令を薛黎沢まで追い、捕らえて殺し、龍城に赴いて慕容亮に報告した。慕容亮はこれにより渉圭を殺し、慕容令の屍を収めて葬った。
六月乙卯日、秦王堅は灞上で王猛を送別して言った:「今、関東の重任をあなたに委ねる。まず壷関を破り、上党を平定し、その後長駆して鄴城を取るべし。これこそ『疾雷耳を掩うに暇あらず』というものである。我が自ら大軍を率い、後に続いて星夜に出発し、船車で糧草を運び、水陸併進する。あなたはこれを憂慮するな。」王猛は言った:「臣は陛下の声威に頼り、既定の方策を奉行し、残りの胡虜を掃平すること、風が落ち葉を掃くがごとくです。願わくば煩わして陛下の車駕をして自ら塵霧を冒さしめず、ただ陛下が早急に有司に命じて鮮卑人の処置事宜を整えさせられんことを。」秦王堅は大いに喜んだ。
秋七月癸酉朔日、日食があった。
秦の王猛は壷関を攻め、楊安は晋陽を攻めた。八月、燕の主慕容𬀩は太傅上庸王慕容評に命じて内外の精兵三十万を率い、秦軍を防がせた。慕容𬀩は秦の侵入を憂え、散騎侍郎の李鳳、黄門侍郎の梁琛、中書侍郎の楽嵩を召して問うた:「秦軍の兵力はいくらか?今、大軍はすでに出発した。秦軍は戦えるか?」李鳳は言った:「秦は地小人少なく、軍は弱小で、我が王師の敵ではありません。王景略(王猛)はただの凡庸な才で、太傅に及ぶべくもなく、憂うるに足りません。」梁琛と楽嵩は言った:「勝敗は謀略にあり、兵力の多少にありませぬ。秦軍は遠くから来寇しており、どうして戦わずにいられましょう!しかも我らは計謀をもって勝利を求むべきで、どうしてただ彼らが戦わぬことのみを望むべきでありましょうか!」慕容𬀩は大いに不機嫌になった。王猛は壷関を陥れ、上党太守南安王慕容越を擒え、その過ぐる所の郡県は、ことごとく風に望んで降服し、燕人は大いに震駭した。
黄門侍郎封孚は司徒長史申胤に問うた:「事態はどうなるでしょうか?」申胤は嘆息して言った:「鄴城は必ず滅びるでしょう、我らは今や秦の虜となるでしょう。しかしながら越が歳星を得て呉がこれを攻めたが、ついに禍を受けた。今、福德は燕にあります。秦は志を得ると雖も、燕の再建は、十二年を過ぎないでしょう。」
大司馬桓温は広陵から部衆二万人を率いて袁瑾を討った。襄城太守劉波を淮南内史とし、五千人を率いて石頭城に鎮守させた。劉波は劉隗の孫である。癸丑日、桓温は寿春で袁瑾を破り、遂にこれを包囲した。燕の左衛将軍孟高は騎兵を率いて袁瑾を救援し、淮北に到着したが、まだ渡河せず、ちょうど秦が燕を攻撃したので、燕は孟高を召し返した。
広漢の妖賊李弘は、漢の帰義侯李勢の子と称し、部衆一万余人を集め、自ら聖王と号し、年号を鳳凰とした。隴西人李高は、成主李雄の子と称し、涪城を破り、梁州刺史楊亮を駆逐した。九月、益州刺史周楚はその子の周琼を遣わして李高を討ち、また周琼の子の梓潼太守周飏を遣わして李弘を討ち、いずれも平定した。
秦の将楊安は晋陽を攻めたが、晋陽は兵糧が多く充足しており、久しく攻め落とせなかった。王猛は屯騎校尉苟長を留めて壷関を守らせ、兵を率いて楊安を助けて晋陽を攻めた。地道を掘り、虎牙将軍張蚝に壮士数百人を率いさせてひそかに城中に潜入させ、大声をあげて城門を斬り開き、秦兵を入れさせた。辛巳日、王猛と楊安は晋陽に入り、燕の并州刺史東海王慕容庄を擒えた。太傅慕容評は王猛を恐れ、進まず、潞川に駐屯した。冬十月辛亥日、王猛は将軍武都人の毛当を留めて晋陽を守らせ、潞川に進軍し、慕容評と対峙した。
壬戌日、王猛は将軍徐成を遣わして燕軍の形勢険要を偵察させ、正午に戻るよう約した。徐成が黄昏に至って戻ったので、王猛は怒り、これを斬ろうとした。鄧羌は請うて言った:「今、敵は多く我は少なく、明朝に戦おうとしています。徐成は大将です。しばらく寛恕されるべきです。」王猛は言った:「徐成を殺さなければ、軍法は立たない。」鄧羌は固く請うて言った:「徐成は我が鄧羌の本郡の将です。期に違えたため斬罪に当たるとはいえ、我が鄧羌は徐成と共に力を尽くして戦い、その罪を贖いたい。」王猛は許さなかった。鄧羌は怒り、営に帰り、鼓を撃って部隊を集め、王猛を攻めようとした。王猛がその理由を問うと、鄧羌は言った:「我は詔を受けて遠方の賊寇を討伐しています。今、近くに賊寇がいて、自ら相殺し合っています。まずこれを除かんと欲するのです!」王猛は鄧羌が義気と勇気を兼ね備えていると考え、人を遣わして彼に告げた:「将軍よ止まれ、我は今徐成を赦す。」徐成が赦された後、鄧羌は王猛のところに謝罪に来た。王猛はその手を取って言った:「我は将軍を試したに過ぎない。将軍が本郡の将に対してすらこのようであるなら、まして国に対してはなおさらだ!我はもはや賊寇を憂えない!」
太傅慕容評は、王猛が孤軍を深く進めていると考え、持久戦で彼を疲弊させようとした。慕容評は人柄が貪欲で卑劣であり、山や泉を独占して薪や水を売り、蓄積した金や絹は山のように積み上がっていた。兵士たちは怨恨と怒りに満ち、戦意を全く失っていた。王猛がこれを聞いて、笑いながら言った。「慕容評はまさに奴隷のごとき者だ。たとえ億兆の兵がいようとも恐れるに足らず、ましてや数十万にすぎない。我は今こそ必ず彼を打ち破るであろう。」そこで遊撃将軍郭慶に騎兵五千を率いさせ、夜間に小道から慕容評の軍営の背後に回り込み、慕容評の輜重を焼き払わせた。その火の光は鄴城の中でも見えた。燕の主君慕容𬀩は恐れ、侍中蘭伊を遣わして慕容評を責めて言った。「大王は高祖の子であり、宗廟や社稷を憂うべきである。なぜ兵士を慰撫せず、かえって薪や水の利を専らにし、一心に財を蓄えることのみを考えているのか。府庫の蓄えは、朕と大王が共にするものであり、貧しさを憂える必要があろうか。もし賊兵がさらに進撃し、家国が滅び去れば、大王は金や絹を手にしてどこに置こうとするのか。」そこでその金や絹をすべて軍士に分け与えるよう命じ、かつ出撃を促した。慕容評は非常に恐れ、使者を遣わして王猛に決戦を求めた。
甲子の日、王猛は渭源に陣を敷き、誓師して言った。「王景略(王猛)は国家の厚恩を受け、内外の要職を兼ねている。今、諸君と共に賊寇の地に深く入り、力を竭し、命を懸けて尽くし、進むのみで退くことなく、共に大功を立て、国家に報いるべきである。賢明なる君主の朝廷で爵位を受け、父母の家で杯を挙げて祝うならば、これもまた素晴らしいではないか。」衆人は皆、奮い立ち先を争い、鍋や釜を打ち壊し、食糧を捨て、大声に叫びながら競い進んだ。
王猛は燕軍の多勢を見て、鄧羌に言った。「今日の戦いは、将軍に非ずんば強敵を撃ち破ること能わず。成敗の鍵は、この一挙にある。将軍、努力せよ。」鄧羌が言った。「もし司隷校尉の官職を我に与えられるならば、公は憂うるに足りない。」王猛が言った。「これは我の成し得る事ではない。必ずや安定太守、万戸侯の爵位をもって君を処遇しよう。」鄧羌は不満げに退いた。間もなく両軍が交戦し、王猛が鄧羌を呼び寄せると、鄧羌は横になって応じなかった。王猛は馬を飛ばして鄧羌の陣営に馳せ、これを許諾すると、鄧羌は帳中で大いに酒を飲み、張蚝、徐成らと共に馬に跨り、矛を振るい、飛ぶように燕軍の陣中に突入した。出入りすること数回、傍らに人無きが如く、数百人を殺傷した。正午に至り、燕軍は大敗し、捕虜となり戦死した者は五万余人に及び、秦軍は勝ちに乗じて追撃し、殺され降伏した者はまた十万人余りに達した。慕容評は単身馬にて鄴城に逃げ帰った。
崔鴻が言う。鄧羌は本郡の将のために請うて法を乱した。これは私情に私するものである。兵を整え王猛を攻めようとした。これは主君を無視するものである。戦いに臨んで先に司隷校尉の官職を求めた。これは君主を脅迫するものである。これら三つの罪、これより大なるものがあろうか。王猛はその短所を容れ、その長所を用いた。まるで猛虎を馴らし、烈馬を御するが如くであり、もって大功を成したのである。『詩経』に曰く、「葑や菲を採るに、その下体を以てすることなかれ。」これは王猛のような者を言うのである。
秦軍は長駆して東進し、丁卯の日、鄴城を包囲した。王猛は上疏して言った。「臣は甲子の日、醜類を大いに破りました。陛下の仁愛の意旨に順い、六州の士人百姓に、君主が変わったことを感じさせず、執迷して命令に逆らう者を除いては、一概に殺害を加えません。」秦王堅はこれに答えて言った。「将軍の出征は一季を超えずして、首悪は既に打ち破られ、その功績は古人よりも高い。朕は今、自ら六軍を率い、星夜兼行して急ぎ来る。将軍は将士を休養させ、朕の到来を待ち、しかる後に鄴城を攻め取れ。」
王猛が到着する以前、鄴城では公然たる略奪が風の如く行われていたが、王猛が到着すると、遠近とも安定した。号令は厳明であり、軍人は私かに民を侵す者なく、法令は簡明であり、政事は寛厚であった。燕国の百姓はそれぞれ安らかに業に従い、互いに言い合った。「思いもよらず、今日また太原王(慕容恪)を見ることができようとは。」王猛はこれを聞き、嘆息して言った。「慕容玄恭(慕容恪)は実に奇士であり、古の遺愛の人と言うべきである。」そこで太牢の礼を設けてこれを祭った。
十一月、秦王堅は李威を留めて太子を輔けて長安を守らせ、陽平公苻融に洛陽を鎮守させ、自ら精鋭十万人を率いて鄴城に向かい、七日にして安陽に到着し、祖父(苻洪)の時の故旧の老人を宴した。王猛は密かに安陽に赴き苻堅に謁見した。苻堅が言った。「昔、周亜夫は漢文帝を迎えず、今、将軍は敵に臨みて軍隊を離れる。これは何故か。」王猛が言った。「周亜夫は前の主君の前で格式を示して名声を求めたものであり、臣は私かにこれを軽んじます。ましてや臣は陛下の威霊を奉じ、滅びんとする虜寇を攻めるのは、鍋の中の魚の如く、何を憂うるに足りましょうか。太子は幼少であり、陛下の車駕は遠くより来られました。もし不意の事態が生じれば、後悔しても間に合いましょうか。陛下は臣が灞上で申し上げた言葉をお忘れになりましたか。」
当初、燕の宜都王慕容桓は部衆一万余人を率いて沙亭に駐屯し、太傅慕容評の後援としていたが、慕容評の敗報を聞き、兵を率いて内黄に駐屯した。苻堅は鄧羌に命じて信都を攻めさせた。丁丑の日、慕容桓は鮮卑五千人を率いて龍城に逃げ奔った。戊寅の日、燕の散騎侍郎余蔚は扶余、高句麗および上党の質子五百余人を率いて、夜間に鄴城の北門を開き、秦兵を引き入れた。燕主慕容𬀩は上庸王慕容評、楽安王慕容臧、定襄王慕容淵、左衛将軍孟高、殿中将軍艾朗らと共に龍城に逃げ奔った。辛巳の日、秦王堅は鄴城の宫殿に入った。
慕容垂は燕国の公卿大夫および旧来の部下を見て、不満げな表情を露わにした。高弼が慕容垂に言った。「大王は祖宗の積み重ねた基業に拠り、英雄豪傑の世を超えた謀略を懐き、艱難困厄に遭い、外邦に寄寓されました。今、家国は傾覆したとはいえ、どうしてこれが大業復興の端緒でないと知りましょうか。私は考えるに、燕国の旧臣に対しては、江海の如き度量を広げ、恩恵をもって彼らの心を慰め結び、もって土を積み山を為す基を固め、九仭の高き功業を成就すべきです。どうして一時の怒りをもって彼らを棄てることができましょうか。私は私かに、大王のこの振る舞いは取るに足らぬものと考えます。」慕容垂は喜び、その言に従った。
燕主慕容𬀩が鄴城を脱出した時、なお一千余騎の護衛があったが、城を出ると、これらの騎兵は皆散り去り、ただ十数人のみが馬に従った。秦王苻堅は遊撃将軍郭慶に命じて彼らを追撃させた。当時、道路は険しく通行困難であり、孟高は慕容𬀩を扶け侍り、かつ二王を保護し、極めて辛苦労苦し、また至る所で盗賊に遭い、転戦しながら進んだ。数日後、福禄という地に至り、塚に倚り休息した時、二十余人の盗賊が突然現れ、皆弓矢を帶びていた。孟高は刀を手にして彼らと格闘し、数人を殺傷した。孟高は力尽き、自ら死は必至と覚悟し、直ちに進み出て一人の盗賊を抱きかかえ、地に打倒し、大声に叫んだ。「男児は已に行き詰まった。」残りの盗賊は慕容𬀩の方から孟高に矢を放ち、これを殺した。艾朗は孟高が独り戦うのを見て、また馳せ戻って盗賊に突入し、共に戦死した。慕容𬀩は馬を失い徒歩で逃走したが、郭慶は高陽でこれに追いつき、部将の巨武がこれを縛ろうとした。慕容𬀩が言った。「汝は何の小人ぞ、よくも天子を縛ろうとするか。」巨武が言った。「我は詔を受け盗賊を追捕する。何の天子があるものか。」そこでこれを捕らえ秦王苻堅のもとに送った。苻堅は投降せず逃走したことを責めると、慕容𬀩は答えて言った。「狐は死するに頭を穴に向かう。我はただ祖先の墓の傍らに帰り死せんと欲したのみである。」苻堅はこれを憐れんで解放し、宮中に帰らせ、文武の官を率いて投降させた。慕容𬀩は苻堅に孟高、艾朗の忠誠を称賛した。苻堅は命じて厚く殮葬させ、その子に郎中を授けた。
郭慶が軍を進めて龍城に到達すると、太傅の慕容評は高句麗に逃亡した。高句麗は慕容評を捕らえ、前秦に送った。宜都王の慕容桓は鎮東将軍の勃海王慕容亮を殺害し、その部衆を併合して遼東に逃亡した。遼東太守の韓稠は既に先に前秦に投降しており、慕容桓が到着した後も城に入ることができず、城を攻撃したが攻略できなかった。郭慶は将軍の朱嶷を派遣して彼を攻撃させ、慕容桓は部衆を抛棄して単独で逃亡し、朱嶷は追跡してこれを殺害した。
各州の牧守および六夷の渠帥は全て前秦に投降し、合計で百五十七郡、二百四十六万戸、九百九十九万口を得た。苻堅は燕の宮女や珍宝を将士たちに分け与えた。詔書を発布して大赦天下を宣言し、「我は薄徳をもって天の美命を承けたが、徳をもって遠方を懐柔し四方を安撫することができず、戦車を屡々出動させて百姓を禍害した。これは百姓の過ちではあるが、また我の罪でもある。今、大赦天下を行い、百姓と共に新たに始める」と述べた。
当初、梁琛が前秦に使者として派遣された際、侍輦の苟純を副使としていた。梁琛は毎回応対する際、苟純に先に告げなかったため、苟純はこれに恨みを抱き、帰国後、燕主の慕容暐に「梁琛は長安で王猛と非常に親しく友善にしており、恐らく反叛の企みがあるでしょう」と告げた。梁琛もまた屡々秦王の苻堅と王猛の賢能を称え、かつ前秦が兵を出すであろうと述べ、そのために備えをすべきだと説いた。その後、果たして前秦が燕を攻撃し、全て梁琛の言った通りとなったため、慕容暐は梁琛が内情を知っていたと疑った。慕容評が敗北すると、梁琛を捕らえて監獄に入れた。秦王苻堅が鄴城に入った後、彼を解放し、中書著作郎に任命し、召し出して、「汝は以前、上庸王と呉王は共に将相の中の奇才であると言ったが、なぜ彼らは計略を巡らせず、国家を滅亡に至らせたのか?」と問うた。梁琛は答えて、「天命が興廃を決めるのであり、どうして二人の者が変えられるものでしょうか!」と言った。苻堅は、「汝は時機を予見して行動することができず、虚しく燕の美善を称え、忠誠でありながら自ら備えをせず、かえって自身の災いを招いた。これを明智と言えるか?」と問うた。梁琛は答えて、「私は『幾は事物の変化の微かな兆しであり、吉凶が予め示す現れである』と聞いております。私のような愚昧で暗弱な者は、実にそれに到達することができません。しかしながら、臣として忠より優れたものはなく、子として孝より優れたものはありません。至誠の心を持つ者でなければ、忠孝を終始一貫して保つことはできません。故に古の忠烈の士は、危難に臨んでも節操を変えず、死に直面しても逃げず、もって君親に殉じました。時機を予見できる者は、内心で安危に通じ、自身で去就を選び、家国を顧みません。私がたとえ知ることができても、なお忍んで行うことはできません。ましてやできないことにおいてはなおさらです!」
苻堅は悦綰の忠誠を聞き、彼に会えなかったことを遺憾に思い、その子に郎中を授けた。
苻堅は王猛を使持節・都督関東六州諸軍事・車騎大将軍・開府儀同三司・冀州牧とし、鄴城を鎮守させ、爵位を清河郡侯に進め、慕容評の邸宅内の財物を全て彼に賜った。楊安に爵位博平県侯を賜い、鄧羌を使持節・征虜将軍・安定太守とし、爵位真定郡侯を賜い、郭慶を持節・都督幽州諸軍事・幽州刺史とし、薊城を鎮守させ、爵位襄城侯を賜った。その他の将士の封賞にはそれぞれ等差があった。
苻堅は京兆の韋鍾を魏郡太守とし、彭豹を陽平太守とした。その他の州県の牧・守・令・長は、全て元の官員をそのまま用いた。燕の常山太守申紹を散騎侍郎とし、散騎侍郎の京兆韋儒と共に繡衣使者とし、関東の各州郡を巡察させ、風俗を観察し、農耕蚕桑を奨励し、窮困者を救済し、死者を収斂埋葬し、節義の行為を表彰させ、燕の政令の中で民に不利なものは全て変革廃除させた。
十二月、秦王苻堅は慕容暐および燕の后妃・王公・百官を四万余戸の鮮卑人と共に長安に移した。
王猛は上表して梁琛を主簿に留め、記室督を兼務させるよう願い出た。ある日、王猛は僚属と宴飲し、燕の使者の話に及んで、王猛は「人心はそれぞれ同じではない。昔、梁君は長安に到り、専ら本朝を称賛した。楽君はただ桓温の軍力の強さを語った。郝君は少しばかり国内の弊端を述べた」と言った。参軍の馮誕は言った、「今、この三人は皆我が国の臣となりました。請問、臣を選ぶ基準は何を先としますか?」王猛は言った、「郝君が時機を予見することを先とする。」馮誕は言った、「それならば、明公は丁公を賞し、季布を誅したことになります。」王猛は大笑した。
秦王苻堅は鄴城から枋頭に赴き、父老を宴し、枋頭を永昌と改め、その地の百姓の賦税徭役を終身免除した。甲寅日、長安に帰り、慕容暐を新興侯に封じた。燕の旧臣慕容評を給事中、皇甫真を奉車都尉、李洪を驃馬都尉とし、いずれも奉朝請の待遇を与えた。李邽を尚書、封衡を尚書郎、慕容徳を張掖太守、燕人の平睿を宣威将軍、悉羅騰を三署郎とした。その他の封授にはそれぞれ等差があった。封衡は封裕の子である。
燕の元太史の黄泓は嘆息して言った、「燕は必ず復興するでしょう。おそらく呉王に在るのでしょう!惜しむらくは我は老いて、見るに及ばないことです!」汲郡の趙秋は言った、「天道は燕に在るのに、秦がこれを滅ぼした。十五年を出ずして、秦は必ず再び燕に占有されるでしょう。」
慕容桓の子の慕容鳳は年十一歳で、密かに復讐の志を抱いていた。鮮卑・丁零の中で気概才幹ある者には、彼は身を屈して交際した。権翼が彼を見て言った、「子は正当に才能名望をもって自らを顕揚すべきであり、汝の父が天命を認めなかったことを真似るべきではない!」慕容鳳は色を厲らせて言った、「先王は忠節を立てようとして成功しなかったのは、人臣の節操です。君侯の言葉は、どうして後人を奨励勧める道理でありましょうか!」権翼は顔色を変えて謝罪し、秦王苻堅に言った、「慕容鳳は慷慨にして才器がありますが、狼子野心であり、恐らく終に人のために用いられることはないでしょう。」
前秦は雍州の建制を廃止した。
この年、仇池公の楊世が死去し、子の楊纂が継位し、始めて前秦と関係を絶った。楊纂の叔父の武都太守楊統が彼と国を争い、兵を起こして互いに攻撃した。
