晋紀三十一
巻第百九
【晋紀三十一】 強圉作噩、一年
春、正月、己亥朔、帝行加冠礼、改元。左僕射王珣を尚書令と為し、領軍将軍王国宝を左僕射と為し、選挙を領せしめ、後将軍・丹楊尹を加う。会稽王司馬道子、東宮の兵を悉く王国宝に配属し、以て之を統領せしむ。
燕の范陽王慕容徳、秦に救を請うも、秦の兵は出動せず。鄴城の中、人心は惶懼す。賀頼盧、自ら魏王拓跋珪の舅と為り、東平公拓跋儀の調度指揮を受けず、故に拓跋儀と隙を生ず。拓跋儀の司馬丁建、陰かに慕容徳と通じ、乗じて之を離間し、書を城中に射入れ、以て此の状を告ぐ。甲辰、風沙天を蔽い、昼晦く。賀頼盧の営中に火光あり。丁建、拓跋儀に謂いて曰く「賀頼盧、営を焼きて叛を発せり」と。拓跋儀、然りと為し、遂に軍を率いて撤退す。賀頼盧、之を聞き、亦た撤退す。丁建、其の衆を率いて慕容徳の所に行き降り、且つ拓跋儀の軍は疲弊已み、撃つ可しと説く。慕容徳、桂陽王慕容鎮・南安王慕容青を遣わし、騎兵七千を率いて魏軍を追撃し、大いに之を破る。
燕主慕容宝、左衛将軍慕輿騰を遣わし博陵を攻め、魏の置く所の守宰を殺す。
王建等、信都を攻むること六十余日、下す能わず、士卒の死傷多し。庚申、魏王拓跋珪、自ら信都を攻む。壬戌の夜、燕の宜都王慕容鳳、城を踰え中山に奔る。癸亥、信都、魏に降る。
涼王呂光、西秦王乞伏干帰の反覆を以て、兵を発し之を討つ。乞伏干帰の部下、東のかた成紀に奔り避くるを請う。乞伏干帰曰く「軍の勝敗は、巧拙に在りて、衆寡に在らず。呂光の軍は衆しと雖も、法度無く、其の弟呂延は勇有れども謀無く、之を畏るるに足らず。且つ其の精兵は皆呂延に在り、呂延一たび敗れなば、呂光自ら走らん」と。呂光、長最に軍し、太原公呂纂等を遣わし歩騎三万を率いて金城を攻めしむ。乞伏干帰、衆二万を率いて救うも、未だ至らず、呂纂等已に金城を攻め下す。呂光、又其の将梁恭等を遣わし甲士一万余を率いて陽武下峡より出で、秦州刺史没弈干と共に乞伏干帰の東部を攻め、天水公呂延、枹罕の衆を率いて臨洮・武始・河関を攻め、悉く之を克つ。乞伏干帰、人を遣わし呂延を欺きて曰く「乞伏干帰の衆潰散し、成紀に奔れり」と。呂延、軽騎を率いて追撃せんと欲す。司馬耿稚諫めて曰く「乞伏干帰、勇気あり謀略常人に過ぐ、豈に風に望みて自ら潰散せんや。昔彼、王広・楊定を敗るるや、皆弱兵を以て之を誘えり。今此の来告る者、目動き色異なり、恐らく必ず姦詐有らん。宜しく陣を整え進み、歩騎相連接せしめ、諸軍の悉く集まるを待ち、然る後に撃たば、勝たざる無からん」と。呂延聴かず、進軍し、乞伏干帰と遇い、呂延戦死す。耿稚、将軍姜顕と散兵を収め、還り枹罕に屯す。呂光亦た軍を率いて姑臧に還る。
禿髪烏孤、自ら大都督・大将軍・大単于・西平王と稱し、境内を大赦し、改めて太初と元号す。広武に兵を練り、涼の金城を攻め、之を抜く。涼王呂光、将軍竇苟を遣わし之を討たしめ、街亭に戦い、涼軍大敗す。
燕主慕容宝、魏王拓跋珪の信都を攻むるを聞き、兵を出し深沢に屯し、趙王慕容麟を遣わし楊城を攻め、守兵三百人を殺す。慕容宝、珍宝及び宮女を悉く出し、郡県の群盗を募りて魏を攻めしむ。
二月、己巳朔、拓跋珪、師を還し楊城に屯す。没根の姪丑提、并州監軍と為り、其の叔父の燕に降るを聞き、誅せらるるを恐れ、所部の兵を率いて国内に還り乱を為す。拓跋珪、北還せんと欲し、其の国相渉延を遣わし燕に和を請い、且つ其の弟を質と為すを請う。慕容宝、魏に内乱有りと聞き、許さず、冗従僕射蘭真を遣わし拓跋珪の恩を負き義を忘るるを責め、其の衆を悉く出し、歩兵十二万、騎兵三万七千、曲陽の柏肆に屯し、滹沱水の北岸に営し魏軍を攔つ。丁丑、魏軍至り、滹沱水の南岸に営す。慕容宝、密かに兵を遣わし夜間に渡らしめ、勇壮の士一万余人を募り魏営を襲わしめ、宝、営北に陣し以て其の後援と為す。募兵、風に乗じ火を放ち、急に魏軍を攻む。魏軍大いに乱れ、拓跋珪驚き起ち、営を棄て跣足して走る。燕の将軍乞特真、百余を率いて其の帳に至り、拓跋珪の衣及び靴を得たり。未だ幾ばくならずして、募兵故無く自ら相驚擾し、相い斫射す。拓跋珪、営外に在りて此の状を見、乃ち鼓を撃ち衆を集め、左右及び中軍の将士漸く集まり来たり、営外に多く火炬を布き、騎兵を縦ち募兵を衝く。募兵大敗し、慕容宝の陣前に奔る。慕容宝、軍を率いて復た滹沱水の北岸に渡る。戊寅、魏、衆を整え来たり、燕軍と相持す。燕軍の気挫けたり。慕容宝、軍を率いて中山に還る。魏軍随いて追撃し、燕軍屡敗る。慕容宝懼れ、大軍を棄て、騎兵二万を率いて走り還る。時に大風雪あり、凍死する者相枕藉す。慕容宝、魏軍の追及せんことを恐れ、兵をして悉く袍甲・兵器を棄てしめ、数十万の刃、一も還り持つ者無く、燕の朝臣将卒、魏に降る者及び魏に虜と為る者多し。是に先立ち、張袞、常に魏王拓跋珪に燕の秘書監崔逞の才を説く。拓跋珪、崔逞を得て、大いに喜び、崔逞を尚書と為し、三十六曹を総領せしめ、政事を委く。
魏の軍士、柏肆より走り還る者有り、大軍敗散し、魏王の在る所を知らずと云う。晋陽を過ぐる時、晋陽の守将封真、乗じて兵を挙げ并州刺史曲陽侯拓跋素延を攻む。拓跋素延、之を攻め斬る。
南安公拓跋順、雲中に鎮す。此の事を聞き、自ら国事を代らんと欲す。幢将代人莫題曰く「此れ大事なり、軽んず可からず。宜しく審らかに後れの来たるを待つべし。然らずんば、禍患小さからじ」と。拓跋順乃ち止む。拓跋順は什翼犍の孫なり。賀蘭部帥附力眷・紇隣部帥匿物尼・紇奚部帥叱奴根、皆兵を挙げて叛す。拓跋順、之を討つも勝たず。拓跋珪、安遠将軍庾岳を遣わし騎兵一万を率いて師を還し三部を討たしめ、悉く之を平ぐ。国人乃ち安んず。拓跋珪、新附を撫せんと欲し、参合陂の誅殺を深く悔ゆ。拓跋素延、反者を討つに殺戮多きを以て罪と為し、官を免ぜらる。奚牧を并州刺史と為す。奚牧、東秦主姚興に書を送り、自ら「頓首」と稱し、姚興と対等の礼を行なう。姚興怒り、之を拓跋珪に告ぐ。拓跋珪、是に由り奚牧を殺す。
己卯の夜、燕の尚書郎慕輿、謀りて燕主慕容宝を弑し、趙王慕容麟を立てんと欲す。成ること無く、関を斬り出奔し魏に奔る。慕容麟、此に由り心中安んぜず。
三月、燕、儀同三司武郷人張崇を司空と為す。
当初、燕の清河王慕容会は魏軍が東進したと聞き、上表して国難に赴くことを請うた。燕主の慕容宝はこれを許した。しかし慕容会は初め出発する意思がなく、征南将軍の庫辱官偉と建威将軍の余崇に五千の兵を率いさせて先鋒とした。余崇は余嵩の子である。庫辱官偉らは盧龍に百日近く留まり、食糧が尽きて馬や牛を食べ尽くし、それでも慕容会は出発しなかった。慕容宝は怒り、幾度も詔勅を下して厳しく責めた。慕容会はやむを得ず、装備を整え兵を選ぶ名目で、さらに一ヶ月余り留まった。当時、道が通じておらず、庫辱官偉は軽装の部隊を先行させて道を開き、魏の強弱を探り、かつ声勢を張ろうと考えた。諸将は皆恐れて避け、行こうとしなかった。余崇は奮然として言った。「今、巨寇の勢いは天を衝き、京師は危急困窮している。一介の普通人でさえ命を懸けて君父を救おうとするのに、諸君は国家の恩寵と重責を蒙りながら、かえって命を惜しむのか!もし国家が傾けば、臣子の節義を立てることもできず、死しても恥辱を残す。諸君は安心してここに待っていよ。我、余崇がこの任を請う。」庫辱官偉は喜び、五百の歩兵・騎兵を選んで彼に与えた。余崇は漁陽まで進み、魏の千余りの騎兵に遭遇した。余崇はその部衆に言った。「敵は多く我は少ない。攻めなければ逃れることはできない。」そこで鼓を打ち鬨の声を上げて真っ直ぐに突進し、余崇は自ら十数人を斬った。魏の騎兵は潰走し、余崇も軍を率いて帰還し、首級や捕虜を得て、敵軍の虚実を詳しく報告したため、人々の気持ちはようやく奮い立った。慕容会はようやく出発し、ゆっくりと進み、この月になってようやく薊城に到着した。
魏が中山を包囲して久しく、城中の将士は皆出城して戦いたいと思っていた。征北大将軍の慕容隆は慕容宝に言った。「拓跋珪は幾度も小利を得たが、軍は長年滞在し、凶勢は挫かれ、兵馬の死傷は大半に及び、人心は帰郷を望み、諸部は離散している。まさに彼を撃つべき時です。加えて城中の者は一戦を奮いたいと思っています。もし我々の鋭気に乗じ、彼らの衰えを衝いて攻めれば、勝たぬことはありません。もし重く構えて決断しなければ、将士の士気は失われ、日に日に困窮し、時が経てば変事が起こり、後で使おうとしても不可能になるでしょう。」慕容宝はその言を正しいと思った。しかし衛大将軍の慕容麟が毎回その建議を阻み、慕容隆が既に陣を布いたのにまた解散させられることが、前後して何度もあった。
慕容宝は人を派遣して魏王の拓跋珪に請い、弟の拓跋觚を返し、常山以西の地を全て魏に割譲して和を乞おうとした。拓跋珪はこれを許したが、間もなく慕容宝は後悔した。己酉の日、拓跋珪は盧奴に向かい、辛亥の日、再び中山を包囲した。燕の将士数千人が一斉に慕容宝に請うて言った。「今、窮した城に坐して守れば、ついには困頓疲弊するでしょう。我々は出城して決死の戦いを望んでいますが、陛下は毎回それを抑えられ、これは坐して自滅を待つものです。それに包囲されて久しく、他に奇計も変策もなく、ただ長く時を待てば寇賊が自ら退くのを望むだけです。今、内外の形勢は強弱が懸隔しており、彼らが自ら退かないことは明らかです。どうか衆議を聴き、一戦して勝負を決すべきです。」慕容宝はこれを許した。慕容隆は退いて軍を整え、諸参佐を集めて言った。「皇威が振るわず、寇賊が内犯し、臣子は同じく恥辱を感じ、義は身を顧みない。今、幸いに賊を撃ち破り、平安に帰還すれば良いが、もし不幸にして戦死すれば、我が志節を示すことができる。諸君の中で北にわが母を訪ねる者があれば、我がこの心を伝えてほしい!」そして甲冑を着けて馬に乗り、営門で命令を待った。慕容麟がまたも慕容宝を固く止めたため、人々は非常に怨み怒り、慕容隆は涙を流して帰った。
この夜、慕容麟は兵を派遣して左衛将軍の北地王慕容精を襲撃し、禁軍を率いて慕容宝を弑せさせようとした。慕容精は大義をもってこれを拒み、慕容麟は怒り、慕容精を殺し、西山に逃亡して丁零の残党に身を寄せた。ここにおいて城中の人心は震え恐れた。慕容宝は慕容麟がどこへ行ったか知らず、清河王慕容会の軍が近くにあったため、慕容麟が慕容会の軍を奪い、先に龍城を占拠することを恐れ、慕容隆と驃騎大将軍の慕容農を召し出し、中山を離れて龍城を守ることを相談した。慕容隆は言った。「先帝は風雨に栉(くしけず)られて中興の大業を成し遂げられましたが、崩御されて一年も経たないうちに天下が大いに壊れたのは、まことに先帝に背いたと言えるではありませんか!今、外寇は強盛で内部の禍難もまた起こり、骨肉の至親は心を異にし、百姓は疑い恐れており、確かに敵に抗することはできません。北に旧都に遷るのも、事理として当然です。しかし龍川は地が狭く民は貧しく、中原の基準でそこに供給を求め、朝には夕べの大功を望むのは、必ずできません。もし節用して民を愛し、農耕に勤め兵を訓練すれば、数年の中に公私とも充実し、趙・魏の間では民衆が寇暴の苦しみを厭い、燕の恩徳を思うでしょう。おそらく回師して旧業を復することができるかもしれません。もしこれができなければ、険要に拠って守ることで、なおゆったりと精鋭を養うことができるでしょう。」慕容宝は言った。「そなたの言は全く道理にかなっている。私は全てそなたの意見に従おう。」
遼東人の高撫は占いをよくし、常に慕容農に信任され厚遇されていた。彼は密かに慕容農に言った。「殿下が北に行かれても、結局は到達できません。太妃にもお会いになれないでしょう。もし主上を独りで行かせ、殿下が密かにここに留まれば、必ず大功を立てることができます。」慕容農は言った。「国家に大難があり、主上は風塵を蒙っている。それに老母が北にいる。私は北に向かって死ぬことさえできれば、何の遺憾もない。そなたは何ということを言うのか!」そこで広く下僚を集め、去留を問うた。ただ司馬の魯恭と参軍の成岌だけが従うことを願い、他の者は皆留まりたいと思った。慕容農は全て彼らの意思に任せた。
慕容農の部将の谷会帰は慕容農に勧めて言った。「城中の人々は、皆、渉珪・参合の戦いで殺された者の父兄子弟です。彼らは血を流し足を踏み鳴らし、魏軍と戦いたいと願っていながら、衛軍将軍に抑えられています。今、主上が北遷しようとしていると聞き、皆が言っています。『慕容氏の一人を得て擁立し、魏軍と戦うならば、死しても悔いなし』と。大王が幸いにここに留まり、衆望を満たし、魏軍を退け、京畿を鎮撫し、大駕を奉迎すれば、忠臣として失うことはありません。」慕容農は谷会帰を殺そうとしたがその才能を惜しみ、言った。「必ずこのようにして生き延びようとするなら、死ぬに如かず!」
壬子の夜、慕容宝は太子の慕容策、遼西王の慕容農、高陽王の慕容隆、長楽王の慕容盛らと一万余りの騎兵で出発し、慕容会の軍に赴いた。河間王の慕容熙、勃海王の慕容朗、博陵王の慕容鑑は皆幼く、城を出ることができず、慕容隆が城に戻って彼らを迎え、自ら車を御して、全員を脱出させた。燕の将軍王沈らは北魏に降伏した。楽浪王の慕容惠、中書侍郎の韓范、員外郎の段宏、太史令の劉起らは工匠・芸人三百人を率いて邺城に逃亡した。
中山城中には主事者がおらず、百姓は惶恐して迷い、東門は閉ざされていなかった。魏王の拓跋珪は夜に乗じて入城しようとしたが、冠軍将軍の王建は掠奪を志し、兵士が府庫の財物を盗むことを恐れ、夜明けを待つよう請うた。拓跋珪はそこで止めた。燕の開封公の慕容詳は慕容宝に従おうとして間に合わず、城中の人々は彼を擁立して主とし、城門を閉じて守った。拓跋珪は全軍を率いて城を攻めたが、連日攻め落とせず、人を遣って巣車に乗り、城に近づいて彼らに告げて言った。「慕容宝は既にお前たちを棄てて逃げ去った。お前たち百姓は徒らに死を求めて、何を苦しもうとするのか。」城中の人々は言った。「我々小人は無知で、再び参合の衆のようになることを恐れ、故にしばらく命を繋いでいるに過ぎません。」拓跋珪は王建を顧み、その顔に唾を吐き、中領将軍の長孫肥と左将軍の李栗に三千の騎兵を率いさせて慕容宝を追跡させた。范陽まで追ったが及ばず、その新城の戍守拠点を破って帰還した。
甲寅の日、皇太后李氏を太皇太后として尊奉した。戊午の日、王氏を皇后に立てた。
燕の国主慕容宝は中山を離れ、趙王慕容麟と□開城で出会った。慕容麟は慕容宝が来るとは予想しておらず、非常に驚き、その部衆を率いて蒲陰に逃げ、さらに出て望都に駐屯した。地元の土人は彼らに物資をかなり供給した。慕容詳は兵を派遣して慕容麟を襲撃し、その妻子を捕らえた。慕容麟は身をかわして山中に逃げ込んだ。
甲寅の日、慕容宝は薊城に到着した。殿中の親しい側近の侍従はほとんど逃げ散ってしまい、ただ高陽王慕容隆が率いる数百騎のみが宿衛を務めた。清河王慕容会は騎兵二万人を率いて薊城の南で迎えた。慕容宝は慕容会の容姿や態度が不満げで、恨みの色があることを怪しみ、密かに慕容隆と遼西王慕容農に告げた。慕容農と慕容隆はどちらも言った。「慕容会は若く、一軍を任されており、それは驕りから生じたものであって、どうして他に企てがあろうか!臣らは礼義をもって彼を責めるべきです。」慕容宝は彼らの言葉に従ったが、それでも詔を下して慕容会の兵権を解き、慕容隆に归属させようとした。慕容隆は固く辞退した。そこで慕容会の軍隊を減らし、慕容農と慕容隆に分け与えた。また、西河公庫辱官驥に三千の兵を率いさせて中山の守備を助けさせた。
丙辰の日、慕容宝は薊城の府庫にある全ての物資を龍城に移した。北魏の石河頭は兵を率いて彼らを追撃し、戊午の日、夏謙沢で慕容宝に追いついた。慕容宝は戦おうとしなかったが、清河王慕容会が言った。「臣は士卒を訓練し、ただ敵と戦うことを求めています。今、大駕は塵にまみれ、人々は皆命を捧げようとしています。それなのに敵は自ら進んでやって来て、人々の心は皆怒っています。『兵法』に言う『帰る軍は止めるな』また『死地に置けば後生を得る』と。今、我々はこれらの条件を全て満たしており、どうして勝てないことを憂えましょう!もし彼らを捨てて去れば、賊は必ず勢いに乗じて追撃し、あるいは別の変事を生むかもしれません。」慕容宝はそこで彼の言葉に従った。慕容会は陣を整えて魏軍と交戦し、慕容農や慕容隆らは南から来た騎兵を率いて彼らを衝撃した。魏軍は大敗し、百余里追撃し、数千の首級を斬った。慕容隆はさらに独りで数十里を追撃してから戻り、その旧吏である留台治書の陽璆に言った。「中山の城中には数万の兵力が集まっているのに、私に心を思うままに奮わせさせることができない。今日の勝利は、かえって憾みを残すものだ。」そして慷慨して涙を流した。
慕容会は魏軍を破った後、驕り高ぶり凶狠さがますます激しくなった。慕容隆はたびたび訓戒し責めたため、慕容会はますます怒り恨んだ。慕容会は、慕容農と慕容隆がどちらも以前に龍城を鎮守し、地位が尊く名望が常に自分より上であることから、龍城に到着すれば権力や政権がもはや自分のものにならないことを恐れた。また、自分がついに後継ぎとなる望みがないことを知っており、そこで謀反を企てた。
幽州と平州の兵士たちは皆、慕容会の恩徳を懐かしみ、二王に属することを望まず、慕容宝に請うて言った。「清河王は勇略が世に並ぶものがなく、臣らは彼と生死を共に誓っています。どうか陛下は皇太子や諸王と共に薊城の宮中に留まり、臣らは清河王に従って南下し、京師の包囲を解き、帰って大駕を迎えましょう。」慕容宝の左右は皆慕容会を嫌い、慕容宝に言った。「清河王は太子になることができず、その神色はひどく不平に満ちています。しかも彼は才能武勇が人に勝り、人心を買うことに巧みです。陛下がもし人々の請願をお聞きになれば、臣は包囲を解いた後、必ず衛輒のような事が起こると恐れます。」慕容宝はそこで皆に言った。「道通(慕容会の字)は年が若く、才能は二王に及ばない。どうして独りで一軍を任せる征討の重任に堪えられようか!それに朕はまさに自ら六軍を統率し、慕容会を翼として倚り頼もうとしている。どうして彼を左右から離すことができようか!」人々は不満げに退いた。
左右は慕容宝に慕容会を殺すよう勧めた。侍御史の仇尼帰がこれを聞き、慕容会に告げて言った。「大王が頼りとするのは父君ですが、父君は既に異図があります。頼りとするのは軍隊ですが、軍隊は既に手中を離れています。どこに身を置くことを望みましょうか?二王を殺し、太子を廃し、大王自らが東宮に居し、将相の任を兼ねて、社稷を匡復するのが上策です。」慕容会はためらい、承諾しなかった。
慕容宝は慕容農と慕容隆に言った。「道通の志趣を観るに、必ず反逆すること疑いない。早めに除くべきだ。」慕容農と慕容隆は言った。「今、寇敵が内に侵し、中原は紛乱し、社稷の危うきこと、累卵の如しです。慕容会は旧都を鎮め撫で、遠くから国の難に赴き、その威名の重きは、四隣を震動させるに足ります。叛逆の形跡がまだ現れないのに急いで殺せば、父子の恩を傷つけるだけでなく、おそらく大いに威望を損なうでしょう。」慕容宝は言った。「慕容会の叛逆の心は既に成っている。お前たちは仁慈寛恕で、早く殺すに忍びないが、恐らく一旦変乱が起これば、必ず先に諸叔父を害し、それから朕に及ぶだろう。その時になって自ら身を誤ったことを悔やんでも遅いぞ!」慕容会はこれを聞き、ますます恐れた。
夏の四月、癸酉の日、慕容宝は広都の黄楡谷に宿営した。慕容会はその党羽の仇尼帰、呉提染干に二十数名の壮士を率いさせ、二手に分かれて慕容農と慕容隆を襲撃させ、帳下で慕容隆を殺した。慕容農は重傷を負ったが、仇尼帰を捕らえ、山中に逃げ込んだ。慕容会は仇尼帰が捕らえられ、事がついに露見することを恐れ、そこで夜に慕容宝のところへ行き言った。「慕容農と慕容隆が謀反しました。臣は既に彼らを除きました。」慕容宝は慕容会を討伐しようと考えたが、表面上は良い言葉でなだめて言った。「我はもとより二王を疑うこと久しかった。除いたのは良いことだ。」
甲戌の日、早朝、慕容会は儀仗を並べ厳重に警戒し、そこで出発した。慕容会は慕容隆の霊柩を捨てようとしたが、余崇が涙を流して固く請い、ようやく霊柩を軍に載せて進むことを許された。慕容農が出てきて自ら帰順した。慕容宝は彼を叱って言った。「どうして自ら負うのか!」そして彼を捕らえるよう命じた。十余里進んだ後、慕容宝は振り返って群臣を呼び集めて食事をし、かつ慕容農の罪を協議した。慕容会が着席すると、慕容宝は目くばせで衛軍将軍の慕輿騰に慕容会を斬らせようとしたが、その頭を傷つけただけで、殺すことはできなかった。慕容会は自分の軍に走り帰り、兵を率いて慕容宝を攻撃した。慕容宝は数百騎を率いて二百里を疾走し、午後申の刻に龍城に到着した。慕容会は騎兵を派遣して石城まで追わせたが、追いつけなかった。
乙亥の日、慕容会は仇尼帰を派遣して龍城を攻めた。慕容宝は夜に兵を派遣して襲撃し、彼を打ち破った。慕容会は使者を派遣して側近の佞臣の誅殺を請い、かつ太子となることを請うた。慕容宝は許さなかった。慕容会は全ての皇帝の車駕、器物、衣服を収め、後宮を将帥に分け与え、百官を設置任命し、自らを皇太子・録尚書事と称し、兵を率いて龍城に向かい、慕輿騰を討つことを名目とした。丙子の日、城下に駐兵した。慕容宝は西門に来た。慕容会は馬に乗って遠くから慕容宝と話し、慕容宝は彼を責めた。慕容会は軍士に命じて慕容宝に向かって大声で鼓噪させ、軍威を示した。城中の将士は皆怒り、夕方になって城を出て交戦し、慕容会を大いに破った。慕容会の軍は死傷者が大半に及び、軍営に逃げ帰った。侍御郎の高雲は夜に敢死の士一百余人を率いて慕容会の軍を襲撃し、慕容会の部衆は皆潰走した。慕容会は十数騎を率いて中山に逃げ奔ったが、開封公の慕容詳が彼を殺した。慕容宝は慕容会の母とその三子を殺した。
丁丑の日、慕容宝は大赦を行い、共に謀議に参与した者は皆罪を免じ、元の官職を復した。功績を論じて賞を与え、将軍に任命され侯に封じられた者は数百人にのぼった。遼西王慕容農は頭蓋骨が破れ、脳漿が露わになっていた。慕容宝は自ら彼の傷に包帯を施し、これによりかろうじて命を救った。慕容農を左僕射とし、程なくして司空・兼尚書令とした。余崇は自ら進み出て罪を申し出た。慕容宝はその忠誠を賞賛し、中堅将軍とし、宮中の警衛を掌らせた。高陽王慕容隆を追贈して司徒とし、諡を康とした。
慕容宝は高雲を建威将軍に任命し、夕陽公に封じて、養子とした。高雲は高句麗の分派の子孫であり、燕王慕容皝が高句麗を破った際に、彼を青山に移し、それ以来代々燕国の臣下となった。高雲は沈着で重厚であり、言葉少なく、当時彼を理解する者はいなかった。ただ中衛将軍の長楽人・馮跋だけは、その志や気概が非凡であると認め、彼と朋友の交わりを結んだ。馮跋の父・馮和は、西燕王慕容永に仕えて将軍となり、慕容永が敗れた後、和龍に移された。
僕射の王国宝と建威将軍の王緒は、会稽王司馬道子に取り入り、賄賂を受け取り、生活は極めて奢侈で、自らを抑えることを知らなかった。彼らは王恭と殷仲堪を憎み、司馬道子に彼らの兵権を削るよう勧めた。朝廷の内外はこれによって不安に震えた。王恭らはそれぞれ武器を整え、軍隊を訓練し、上表して北伐を求めた。司馬道子は彼らを疑い、詔を下して「盛夏は農事を妨げる」として、彼らにすべての戦備を解除するよう命じた。
王恭は使者を遣わし、殷仲堪と王国宝らを討つ計画を謀った。桓玄は志を得られず、殷仲堪の兵力を借りて乱を起こそうと考え、殷仲堪を説得して言った。「王国宝は諸君と常に敵対してきた。ただ速やかに諸君を滅ぼせないことを恐れているだけだ。今や彼は大権を握り、王緒と内外に結託し、彼が為そうとすることは、叶わぬものはない。王恭は国舅であり、彼はきっと害を加えられまい。あなたは先帝に抜擢され、衆人を超越して地方の長官となった。人々はあなたに機知はあるが、封疆の大吏の器ではないとしている。もし彼が詔書を発してあなたを中書令に召し、殷觊を荊州刺史に任じたら、あなたはどう処するつもりか。」殷仲堪は言った。「私はこの事を久しく憂慮していた。何か計略はあるか。」桓玄は言った。「王恭は悪を憎むこと仇の如し。あなたは密かに彼と約束し、晋陽のような軍を興して君側の悪を除くべし。東西で共に動けば、我が桓玄は無能ながらも、荊州・楚地の豪傑を率いて武器を執り先鋒となろう。これは斉桓公・晋文公のような功業である。」殷仲堪は心の中でその言葉を賛同し、外では雍州刺史の郗恢と交わり、内では従兄の南蛮校尉殷觊や南郡相の陳留人・江績と謀った。殷觊は言った。「臣として、各々が自らの職分を守るべきである。朝廷の是非は、どうして藩鎮が干渉できることであろうか。晋陽の挙兵は、私は敢えて参与しない。」殷仲堪が強いて招請すると、殷觊は怒って言った。「私は進んで賛同することはできず、退いて反対することもしない。」江績もまた、この事は不可能だと力説した。殷觊は江績が禍を招くのを恐れ、席上でとりなした。江績は言った。「大丈夫、どうして死をもって脅すことがあろうか。我が江仲元の年は既に六十、ただ死ぬべき場所を見つけていないだけだ。」殷仲堪は彼の固く正直なのを忌み、楊佺期をもってこれに代えた。朝廷がこれを聞き、江績を御史中丞に召した。殷觊はそこで発病を称して職を辞した。殷仲堪が見舞いに行き、殷觊に言った。「兄の病は実に心配である。」殷觊は言った。「私の病はただ自分を死なせるだけだが、あなたの病は家門を滅ぼすものだ。あなたは深く自らを愛し、私を心配してはならない。」郗恢も従おうとしなかった。殷仲堪は決断できず、ちょうど王恭の使者が到来し、殷仲堪が承諾すると、王恭は大いに喜んだ。甲戌の日、王恭は上表して王国宝の罪状を列挙し、兵を起こしてこれを討った。
当初、孝武帝は王珣に委任していたが、帝が急に崩御したため、遺命を受ける暇がなく、王珣はたちまち権勢を失い、沈黙するのみであった。丁丑の日、王恭の上表が朝廷に届き、京師の内外は戒厳した。司馬道子が王珣に問うて言った。「二つの藩鎮が反乱を起こしたのを知っているか。」王珣は言った。「朝廷の政事の得失について、我が王珣は参与しておりません。王恭・殷仲堪が難を起こしたことなど、どうして知ることができましょう。」王国宝は恐れ、どうすればよいか分からず、数百人を派遣して竹里を守らせたが、夜に風雨に遭い、各自散り散りに帰った。王緒は王国宝に、相王の命を借りて王珣・車胤を召し出し、彼らを殺して当時の声望ある者を除き、その後君主と宰相を擁して二つの藩鎮を討つよう勧めた。王国宝は承諾した。王珣と車胤が来たが、王国宝は彼らを害することができず、かえって王珣に計略を問うた。王珣は言った。「王恭・殷仲堪はあなたと元々深い恨みはなく、争っているのはただ権勢と利益に過ぎません。」王国宝は言った。「彼らは私を曹爽のようにするつもりか。」王珣は言った。「これは何という言葉か。あなたにどうして曹爽のような罪があろうか。王恭がまたどうして司馬懿のような人物であろうか。」さらに車胤に計略を問うと、車胤は言った。「昔、桓温が寿陽を包囲し、長く経ってようやく陥落させた。今、朝廷が軍を出せば、王恭は必ず城を守って立てこもるだろう。もし京口が陥落せず、上流の軍が突然到来したら、あなたはどう対処するつもりか。」王国宝はますます恐れ、上疏して職務の解任を求め、宮中に罪を待つことにした。やがて後悔し、詔書と偽って元の官職に復した。司馬道子は昏庸で懦弱であり、姑息を求めて、罪を王国宝に帰し、驃騎咨議参軍の譙王司馬尚之を遣わして王国宝を捕らえ、廷尉に引き渡した。司馬尚之は司馬恬の子である。甲申の日、王国宝に死を賜い、市で王緒を斬り、使者を王恭の下に遣わして深く謝罪し過ちを認めた。王恭はそこで兵を撤収して京口に帰った。王国宝の兄の侍中王愷と驃騎司馬王愉は、ともに職務の解任を求めた。司馬道子は、王愷と王愉は王国宝と異母兄弟であり、また常に仲が良くなかったため、皆許して問わなかった。戊子の日、天下に大赦を行った。
殷仲堪は王恭に応じることを承諾したものの、出兵を躊躇していた。王国宝らが既に死んだと聞き、ようやく上表して兵を起こし、楊佺期に巴陵に駐屯させた。司馬道子が書簡を送ってこれを制止すると、殷仲堪は兵を撤収して帰った。
会稽王の世子司馬元顕は、十六歳で傑出した才能があり、侍中を務めていた。彼は司馬道子に、王恭と殷仲堪がついには禍患となるだろうと説き、密かに準備を整えるよう求めた。司馬道子はそこで司馬元顕を征虜将軍に任命し、彼の衛府と徐州の文武官をすべて配属した。
魏王拓跋珪は、軍の食糧が不足したため、東平公拓跋儀に命じて鄴城を離れ、巨鹿に移駐させ、楊城に食糧を蓄積させた。慕容詳は歩兵六千人を出し、隙を見て魏軍の各屯営を襲撃しようとした。拓跋珪はこれを破り、首級五千を斬り、七百人を捕らえたが、皆放免した。
当初、張掖の盧水胡人・沮渠羅仇は、匈奴沮渠王の後裔であり、代々部族の首領であった。涼王呂光は沮渠羅仇を尚書とし、呂光に従って西秦を討たせた。呂延が戦死すると、沮渠羅仇の弟で三河太守の沮渠曲粥は、沮渠羅仇に言った。「主上は年老いて昏聩し、讒言を聞き入れている。今、軍は敗れ、大将は戦死した。まさに彼が智謀と勇力ある者を猜疑する時である。我々兄弟は必ず容れられまい。無名の死を遂げるよりは、軍を率いて西平に向かい、苕藋を経て、振臂して呼べば、涼州を平定するのは難しくない。」沮渠羅仇は言った。「確かに汝の言う通りだ。しかし我々の家は代々忠孝をもって西方に名を知られている。寧ろ人が我に背くとも、我は人に背くことを忍びない。」呂光は果たして讒言を聞き入れ、敗戦の罪で沮渠羅仇と沮渠曲粥を殺した。沮渠羅仇の甥・沮渠蒙逊は、雄健で傑出し、謀略があり、経書や史書に通じていた。彼は沮渠羅仇と沮渠曲粥の葬儀を行い、故郷に葬った。各部族の多くは彼らの家と姻戚関係にあり、葬儀に参列した者は合わせて一万余人に上った。沮渠蒙逊は泣いて衆人に言った。「呂王は昏聩で淫乱、残暴で道なく、無実の者を殺し尽くしている。我々の祖先は、かつて河西に雄を称えた。今、私は諸部族と共に二人の父祖の仇を報い、祖先の基業を回復したいと思う。どうであろうか。」衆人は皆「万歳」と叫んだ。そこで盟約を結んで兵を起こし、後涼の臨松郡を攻めて陥落させ、金山に駐屯して守った。
司徒左長史王𫷷は、王導の孫であり、母親の死去により呉の地で喪に服していた。王恭が王国宝を討伐する際、王𫷷を暫定的に呉国内史に任命し、東方で兵を挙げさせた。王𫷷は前呉国内史の虞嘯らを派遣して呉興、義興に入り兵士を募り、応募してきた者は数万人に達した。ほどなく王国宝が死に、王恭は撤兵し、公文を発して王𫷷に職を辞し、喪に服するよう命じた。王𫷷は兵を挙げた際に多くの異己を誅殺しており、形勢がすでに止められなくなっていたため、非常に怒り、王恭の命令に従わず、その子の王泰に兵を率いさせて王恭を討伐させるとともに、会稽王司馬道子に書簡を送り、王恭の罪状を陳述した。司馬道子はその書簡を王恭に送った。五月、王恭は司馬劉牢之に五千人の兵を率いさせて王泰を攻撃し、これを殺した。さらに王𫷷と曲阿で戦い、王𫷷の軍は潰走し、王𫷷は単騎で逃走し、行方不明となった。虞嘯父を捕らえて廷尉に送ったが、その祖父の虞潭に功績があったため、死罪を免じて庶人とした。
燕の庫辱官驥が中山に入り、開封公慕容詳と互いに攻撃し合った。慕容詳は庫辱官驥を殺し、庫辱官氏の全族を滅ぼした。また中山尹の苻謨を殺し、その全族を滅ぼした。中山城には定まった主がおらず、民は魏軍が乗じて攻めてくるのを恐れ、男女が盟約を結び、各自が戦った。甲辰の日、魏王拓跋珪は中山の包囲を解き、河間に行って糧食を調達し、各郡に義租の納入を督促した。甲寅の日、東平公拓跋儀を驃騎大将軍、都督中外諸軍事、兗州・豫州・雍州・荆州・徐州・揚州の六州牧、左丞相に任命し、衛王に封じた。慕容詳は自ら魏軍を退けたと考え、威望恩徳がすでに振るったとして、帝位に即き、年号を建始と改め、百官を設置した。新平公の可足渾潭を車騎大将軍、尚書令に任命し、拓跋觚を殺して人心を安定させようとした。
鄴城の官属は范陽王慕容徳に帝位に即くよう勧めたが、ちょうど龍城から来た者がいて、燕主慕容宝がなお生きていることを知り、取りやめた。
涼王呂光は太原公呂纂に軍を率いさせて沮渠蒙遜の忽谷を攻撃させ、これを破った。蒙遜は山中に逃げ込んだ。蒙遜の従兄の沮渠男成は涼国の将軍であり、蒙遜が兵を挙げたと聞き、また数千人の部衆を集めて楽涫に駐屯した。酒泉太守の塁澄が男成を討伐したが、敗北し、塁澄は戦死した。男成は建康を攻撃し、使者を派遣して建康太守の段業を説得して言った。「呂氏の政権は衰え、権臣が専断し、刑罰や殺戮に常軌がなく、百姓は安住する場所がありません。一州の内で、反逆する者が相次ぎ、土崩瓦解の形勢は、明白に眼前に現れており、民は哀号しながらも頼る所がありません。府君はどうして蓋世の才能を持ちながら、この滅びようとする国家に忠義を尽くそうとされるのですか。男成らはすでに大義を倡え、府君に屈していただいてこの州を鎮撫し、水や火の中にいるような残余の民が、生まれ変わったような恩恵を蒙ることができるようにしたいと望んでいます。いかがでしょうか。」段業は従わなかった。双方が二十日間対峙し、外からの援軍が来ず、郡人の高逵、史恵らが段業に男成の要請に従うよう勧めた。段業は平素から涼国の侍中房晷、僕射王詳と仲が悪く、自らを保つことができないのを恐れ、ついに彼らの申し出を受けた。男成らは段業を大都督、龍驤大将軍、涼州牧、建康公に推挙し、年号を神璽と改めた。男成を輔国将軍に任命し、軍国大事を委ねた。蒙遜は部衆を率いて段業に帰服し、段業は蒙遜を鎮西将軍に任命した。呂光は太原公呂纂に軍を率いさせて段業を討伐させたが、勝てなかった。
六月、西秦王乞伏乾帰は河州刺史の彭奚念を召して鎮衛将軍とした。鎮西将軍の屋弘破光を河州牧に、定州刺史の翟瑁を興晋太守に任命し、枹罕を守らせた。
秋、七月、慕容詳は可足渾潭を殺した。慕容詳は酒を好み、奢侈で華美を好み、士人や百姓を顧みず、刑罰や殺戮に節度がなく、誅殺した王公以下は五百人以上に及び、群臣や部下は心を離した。城中は飢饉で困窮し、慕容詳は百姓が城外に出て穀物を採取するのを許さず、餓死者が重なり合い、城中の者は皆、趙王慕容麟を迎えようと図った。慕容詳は輔国将軍の張驤に五千余人を率いさせて常山に行き租税を督促させたが、慕容麟が丁零から張驤の軍に入り込み、密かに中山を襲撃し、城門が閉ざされていなかったため、慕容詳を捕らえて殺した。慕容麟はここに自ら尊号を称し、人々が四方に出て穀物を採取するのを許した。人々が飽食した後、魏と戦うことを求めたが、慕容麟は従わず、まもなくまた窮乏と飢餓に陥った。魏王拓跋珪の軍は魯口に駐屯し、長孫肥に騎兵七千人を率いさせて中山を襲撃させ、その外城に入った。慕容麟は泒水に進軍したが、魏軍に敗れて帰還した。
八月、丙寅朔の日、魏王拓跋珪は軍を常山の九門に移した。軍中に大疫病が発生し、人や家畜の死が多く、将士たちは皆帰還しようとした。拓跋珪が諸将に疫病の状況を尋ねると、答えて言った。「生きている者はわずか十分の四、五です。」拓跋珪は言った。「これはもとより天命であり、どうすることもできない。四海の内の民は、皆国の子民となりうる。ただ我がどのようにしてこれを御するかにあるだけだ。どうして民がいないことを憂えようか。」群臣はここに敢えて言わなかった。撫軍大将軍の略陽公拓跋遵を派遣して中山を襲撃させ、その外城に入ってから帰還した。
後燕は遼西王慕容農を都督中外諸軍事、大司馬、録尚書事に任命した。
後涼の散騎常侍、太常の西平人郭黁は、天文や占術に優れ、国内の人々から信任され重んじられていた。ちょうど火星が井宿に留まったため、郭黁は僕射の王詳に言った。「涼国の分野に、大きな戦事が起こるでしょう。主上は年老いて病気がちで、太子は暗弱、太原公は凶暴で強悍です。ひとたび主上が崩御すれば、禍乱は必ず起こります。我々二人は長く宮廷の枢要な位置にあり、彼らは常に我々を骨の髄まで憎んでおり、我々は誅殺される筆頭となるでしょう。田胡人の王乞基の部落が最も強大で、東苑と西苑の人々は、その多くが元来その部衆です。私はあなたと大事を起こし、王乞基を主に推挙し、東西二苑の部衆は、全て我々のものとなるでしょう。城を占拠した後、徐々に次の段階を協議しましょう。」王詳はこれに従った。郭黁は夜間に二苑の部衆を率いて洪範門に火を放ち、王詳に内応させようとした。事が漏れて王詳は殺され、郭黁はここに東苑を占拠して反逆した。民間では皆、聖人が兵を挙げれば事が成功しないことはないと言い、従う者が多かった。
涼王呂光は太原公呂纂を召して郭黁を討伐させた。呂纂が帰還しようとした時、諸将は皆言った。「段業は必ず軍の背後から追跡して襲撃するでしょう。夜間に密かに行軍すべきです。」呂纂は言った。「段業には雄才大略はなく、ただ城に拠って自ら守るだけである。もし夜間に密かに去れば、かえってその気勢を増長させるに過ぎない。」そこで使者を派遣して段業に告げて言った。「郭黁が乱を起こしたので、私は今都に帰還する。あなたに決心があれば、早く出てきて決戦するがよい。」こうして軍を率いて撤退した。段業は敢えて出戦しなかった。
呂纂の司馬楊統はその従兄の楊桓に言った。「郭黁が事を起こしたのは、虚勢ではないはずです。私は呂纂を殺し、兄を主に推挙し、西に進んで呂弘を襲撃し、張掖を占拠して各郡に号令すれば、千載一遇の好機となるでしょう。」楊桓は怒って言った。「我は呂氏の臣として、安んじてその俸禄を享受し、その危難に際して救うことができないのに、どうしてさらにその禍難を増やすことができようか。呂氏がもし滅びるなら、我は弘演のような者となるつもりだ。」楊統は番禾に至って、ここに反逆して郭黁に帰服した。呂弘は、呂纂の弟である。
呂纂は西安太守の石元良と共に郭黁を攻撃し、大いに郭黁を破り、ここに姑臧に入ることができた。郭黁は東苑で呂光の八人の孫を捕らえており、敗戦後に非常に怒り、彼らを全て矛の先に投げつけて肢解し、その血を飲んで部衆に盟約を示したが、部衆は皆目を覆った。
涼国の人、張捷や宋生らは戎人・漢人三千人を招集し、休屠城で叛旗を翻し、郭黁と共に涼国の後将軍楊軌を盟主に推戴した。楊軌は略陽の氐人である。将軍の程肇が諫めて言った「あなたは龍の頭を捨てて蛇の尾に従う。良い計略とは言えません」。楊軌は聞き入れず、自ら大将軍・涼州牧・西平公と称した。
呂纂は城西で郭黁の部将・王斐を破り、郭黁の兵勢は次第に衰え、使者を派遣して禿髪烏孤に救援を要請した。九月、禿髪烏孤はその弟の驃騎将軍・禿髪利鹿孤に騎兵五千を率いさせて救援に向かわせた。
後秦の太后・蛇氏が死去した。後秦の主・姚興は哀しみのあまり礼を越えて身体を損ない、自ら政務を執らなかった。群臣は漢・魏の旧例に従い、葬儀が終われば喪服を脱いで吉礼を行うよう請うた。尚書郎・李嵩が上書して言った「孝道をもって天下を治めるのは、先王の高邁な事業です。聖上の本性に従って道徳の教えを光大させるべきで、埋葬の後は喪服のまま臨朝して政務を執るのが良いでしょう」。尹緯が反論して言った「李嵩は常規を曲げ礼制を越えています。どうか関係部署に下して罪を問うてください」。姚興が言った「李嵩は忠臣孝子である。何の罪があろうか。全て李嵩の建議に従う」。
鮮卑の薛勃が後秦に背き、後秦の主・姚興が自ら軍を率いて討伐した。薛勃は敗れて没弈干のもとに奔ったが、没弈干は彼を捕らえて後秦に送った。
後秦の泫氏男爵・姚買得が後秦の主・姚興を弑逆しようと図ったが、成功せず処刑された。
後秦の主・姚興は湖城に侵攻し、弘農太守・陶仲山、華山太守・董邁はいずれも降伏した。そこで陝城に至り、進んで上洛に侵攻して攻略した。姚崇を派遣して洛陽を侵犯させたが、河南太守・夏侯宗之は金墉城を固守し、姚崇は攻め落とせず、流民二万余戸を移して帰還した。
武都の氐人・屠飛、啖鉄らが方山に拠って後秦に叛き、姚興は姚紹らを派遣して討伐させ、屠飛、啖鉄を斬った。
姚興は政務に勤め、良い言葉を招き入れ採用した。京兆の杜瑾らはいずれも政事を論じて顕官に抜擢され、天水の姜龛らは儒学によって尊敬と礼遇を受け、給事黄門侍郎・古成詵らは文章によって機密事務に参与した。古成詵は剛直で、風俗教化を己の任としていた。京兆の韋高は阮籍の人物を慕い、母の喪に服する間も琴を弾き酒を飲んだ。古成詵はこれを聞いて涙を流し、剣を持って韋高を訪ね、殺そうとした。韋高は恐れて逃げ隠れた。
中山の飢饉は非常に深刻で、慕容麟は二万余人を率いて城を出て新市に拠った。甲子晦日(九月三十日)、魏王・拓跋珪が進軍してこれを攻めた。太史令・晁崇が言った「不吉です。昔、商の紂王は甲子の日に滅びました。この日は忌日と称され、兵家はこれを忌みます」。拓跋珪が言った「商の紂王が甲子の日に滅んだなら、周の武王は甲子の日に興ったのではないか」。晁崇は答えられなかった。冬十月、丙寅(初二日)、慕容麟は退却して泒水で防戦した。甲戌(初十日)、拓跋珪は慕容麟と義台で戦い、大敗させ、首級九千余を斬った。慕容麟は数十騎で妻子を迎えに西山に入り、やがて邺城に奔った。
甲申(二十日)、魏軍は中山を攻略し、後燕の公卿・尚書・将吏・士卒で降伏した者は二万余人に及んだ。張驤、李沈らは以前魏に降ったが、後に逃亡して去っていた。拓跋珪は城中に入り、皆を赦免した。後燕の印璽、図書、府庫の珍宝は万を数え、等級に従って群臣将士に分け与えた。弟の拓跋觚を追封して秦愍王とした。慕容詳の墓を掘り起こし、その屍を斬り裂いた。拓跋觚を殺害した高霸、程同を捕らえ、いずれも五族を誅滅し、大刀で細かく切り刻んだ。丁亥(二十三日)、三万騎を衛王・拓跋儀のもとに派遣し、邺城を攻める準備をさせた。
後秦の長水校尉・姚珍が西秦に奔り、西秦王・乞伏乾帰は娘を彼に嫁がせた。
河南の鮮卑・吐秣ら十二の部落の大人たちが、皆禿髪烏孤に帰附した。
中山から龍城に至った後燕の者がいて、拓跋珪の勢力は衰弱し、司徒・慕容徳は邺城を完全に守っていると言った。ちょうど慕容徳の上表が届き、後燕の主・慕容宝に南下して戻るよう勧めた。慕容宝はそこで大規模に兵士と戦馬を選抜し、再び中原を奪回しようと図った。鴻臚・魯邃を派遣して慕容徳を丞相・冀州牧に冊命し、南夏の公侯牧守は全て彼の皇帝の旨に従った官爵の任命を許された。十一月、癸丑(十九日)、後燕は天下に大赦を行った。十二月、徴集した軍隊は全て集結し、頓丘で戒厳し、将軍・啓仑を派遣して南下して情勢を視察させた。
乙亥(十二日)、慕容麟は邺城に到着し、再び自ら趙王と称し、范陽王・慕容徳を説いて言った「魏はすでに中山を攻略し、勢いに乗じて邺城を攻めようとしている。邺城中には蓄えがあるとはいえ、城は大きく守り難く、まして人心は恐れている。堅守は難しい。南の滑台に向かい、黄河に頼って魏軍を防ぎ、機に乗じて動くのが良い。河北もおそらく回復できよう」。当時、魯陽王・慕容和が滑台を鎮守していた。慕容和は慕容垂の弟の子であり、使者を派遣して慕容徳を迎えようとした。慕容徳はこれに応じた。
