宋紀五
《資治通鑑》第百二十三巻 宋紀五 柔兆困敦(丙子年)より重光大荒落(辛巳年)に至るまで、合わせて六年。
春、正月、癸丑朔、上(宋文帝)疾あり、朝会を行わず。甲寅、北魏の国主(太武帝)宮に還る。二月、戊子、北燕王(馮弘)使者を北魏に遣わして貢物を献じ、子を人質として送ることを請う。北魏の国主許さず、兵を発してこれを討とうとす。壬辰、北魏、十数輩の使者を東のかた高麗等の諸国に遣わし、この事を告げ知らす。
司空・江州刺史・永修公檀道濟、前朝に功績あり、威望名声甚だ高く、その親信の部将は皆百戦を経、諸子また才気あり、朝廷既にこれを猜疑し畏れり。上久しく疾に患い、癒えず。劉湛、司徒劉義康に説きて曰く、「もし上、一日世を去らば、道濟を制御すること能わず。」會々上疾篤く、義康上に言い、道濟を召して朝に入らしむ。道濟の妻向氏、之に謂いて曰く、「蓋世の功勲、古より猜忌せらる。今事無くして召さる、禍將に至らんとす。」道濟京師に至り、留まること数月。上疾稍々瘳え、将に之をして還らしめんとす。已に江次に至り、未だ発せず。會々上疾又発作す。義康、勅を矯めて道濟を召して入りて祖饌せしめ、因りてこれを収む。三月、己未、詔を下して曰く、「檀道濟、陰に金銀を散じ、奸猾を招誘し、朕の疾に因りて、謀反を図る。」廷尉に付し、其の子給事黄門侍郎檀植等十一人と倶に誅し、惟だ其の孫檀孺を宥す。又、司空参軍薛彤・高進之を殺す。此の二人は皆道濟の腹心にして、勇力有り、時に人其れを関羽・張飛に比す。道濟収めらるるや、憤怒極まり、目光火炬の如く、頭巾を脱して地に投じ、曰く、「乃ち汝(劉宋を指す)の万里の長城を壊すのみ。」北魏人聞きて、喜びて曰く、「道濟死せば、呉の小児輩復た憚るに足らず。」庚申、大赦す。中軍将軍南譙王劉義宣を以て江州刺史と為す。辛未、北魏の平東将軍娥清・安西将軍古弼、精鋭騎兵一万人を率いて北燕を討つ。平州刺史拓跋嬰、遼西の諸軍を率いて之と合す。氐王楊難當、自ら大秦王と称し、年号を建義と改め、妻を立てて王后、世子を立てて太子と為し、百官を置くこと皆天子の制に依るが、然れども仍お宋・魏に貢献を絶たず。
夏、四月、北魏の娥清・古弼、北燕の白狼城を攻めて、これを抜く。高麗、将葛盧孟光を遣わし、数万の軍を率い、陽伊に従いて和龍に至り、北燕王を迎えしむ。高麗軍、臨川に駐屯す。北燕尚書令郭生、百姓の遷都を畏るるに因り、城門を啓きて北魏軍を入れんとす。北魏人疑い、城に入らず。郭生、乃ち軍を率いて北燕王を攻む。北燕王、高麗軍を率いて東門より城に入り、郭生と宮殿の下に戦い、郭生、流矢に中りて死す。葛盧孟光城に入り、兵士に命じて故衣を脱し、北燕武庫中の精兵良器を取って之に発し、城中に大いに掠奪す。
五月、乙卯、北燕王、龍城の現戸を率いて東のかたに遷る。宮殿を焼き、火十日滅せず。婦女をして甲を着せて中に在らしめ、陽伊等、精兵を率いて外を為し、葛盧孟光、騎兵を率いて殿と為し、方軌(並列して進む)して行き、前後八十余里に亘る。古弼の部将高苟子、騎兵を率いて追わんと欲す。古弼酔い、刀を抜きて之を止む。故に北燕王、遁るるを得たり。北魏国主聞きて、怒り、囚車を以て古弼及び娥清を平城に送り、皆守門の士卒と為す。戊午、北魏国主、散騎常侍封撥を高麗に遣わし、命じて北燕王を送り返さしむ。
丁卯、北魏国主、河西に幸す。六月、詔して寧朔将軍蕭汪之をして軍を率いて程道養を討たしむ。軍郪口に至る。帛氐奴、降るを請う。程道養敗れ、郪山に退く。赫連定西遷するや、楊難當因りて上邽を占拠す。秋、七月、北魏国主、驃騎大将軍楽平王拓跋丕・尚書令劉絜を遣わし、河西・高平の諸軍を監督して之を討たしめ、先ず平東将軍崔赜を遣わし、詔書を持して楊難當に諭す。
北魏散騎侍郎游雅、宋に来聘す。己未、零陵王太妃褚氏薨ず。追諡して晋恭思皇后と為し、晋の礼を以て葬る。
八月、北魏国主、河西に猟す。北魏国主、広平公張黎を遣わし、定州の兵士一万二千人を発して莎泉道を開かしむ。
九月、庚戌、北魏楽平王拓跋丕等、略陽に至る。楊難當、懼れ、詔命を受くるを請い、上邽の守軍を撤して仇池に還る。諸将議して以て為す、「其の豪帥を殺さざれば、軍還りて後、必ず聚まりて乱を為さん。且つ大軍遠出せば、掠奪する所有らざれば、以て軍需を充たし、将士に賞する能わず。」丕、将に聴かんとす。中書侍郎高允、丕の軍事に参与し、諌めて曰く、「諸将の謀に従わば、是れ其の帰順の心を傷つく。軍還りて後、乱を為すこと必ず速やかなり。」丕乃ち止め、新附を撫し、秋毫犯さず。秦・隴、是に由りて安んず。楊難當、其の子楊順を以て雍州刺史と為し、下辨に駐む。高麗、北燕王を北魏に送らず、使者を遣わして表を奉じ、称して曰く、「当に馮弘と共に王の教化を尊奉すべし。」北魏国主、高麗の詔に違うを以て、之を攻むるを議し、将に隴右の騎兵を発せんとす。劉絜曰く、「秦・隴の新附の民、当に先ず賦税を優免し、其の富実を待ち、而して後之を用うべし。」楽平王拓跋丕曰く、「和龍、初めて平らぎ、当に広く農桑を興して以て軍需を充たし、而る後に進み攻めば、則ち高麗一挙にして滅ぶ可し。」北魏国主乃ち止む。
癸丑、皇子劉浚を封じて始興王、劉駿を武陵王と為す。
冬、十一月、己酉、北魏国主、稒陽に幸し、雲中に於いて野馬を駆り、野馬苑を置く。閏月、壬子、宮に還る。初め、宋武帝、長安を克つや、古銅渾天儀を得たり。儀の形状は備われども、日月五星を綴らず。是の年、詔して太史令銭楽之に命じて更に渾天儀を鋳造せしむ。直径六尺八分、水力にて動かし、昏旦の中星、天象に符す。柔然、北魏と和親を絶ち、北魏の辺境を犯す。吐谷渾恵王慕瑰薨ず。弟慕利延位に嗣ぐ。
春、正月、戊子、北魏北平宣王長孫嵩薨ず。辛卯、大赦す。二月、乙卯、北魏国主、幽州に幸す。三月、丁丑、北魏国主、南平王拓跋渾を以て鎮東大将軍・儀同三司と為し、和龍を鎮守せしむ。己卯、宮に還る。上、散騎常侍劉熙伯を北魏に遣わして聘礼を議せしむ。會々上の女薨ずるに因りて止む。
夏、四月、趙広・張尋・梁顕等、各々部衆を率いて降る。偏将王道恩、程道養を斬り、首級を送る。余党悉く平らぐ。丁未、輔国将軍周籍之を以て益州刺史と為す。北魏国主、地方官の多く貪婪なるを以て、夏、五月、己丑、詔して吏民をして法を犯す郡守県令を告発せしむ。是に由りて奸猾の徒、専ら長吏の過失を求めて、在位者を脅し、郷里に横行す。而して長吏皆志を降して之に接し、貪婪放縦、旧の如し。
丙申(二十一日)、北魏の国主は雲中へ向かった。秋七月戊子(十四日)、北魏の永昌王拓跋健らは西河で山胡白龍の残党を討伐し、これを滅ぼした。八月甲辰(朔日)、北魏の国主は河西へ向かった。九月甲申(十一日)、宮中に帰還した。丁酉(二十四日)、北魏の国主は使者を派遣し、吐谷渾王慕利延を鎮西大将軍・儀同三司に任命し、改めて西平王に封じた。
冬十月癸卯(朔日)、北魏の国主は雲中へ向かった。十一月壬申(朔日)、宮中に帰還した。北魏の国主はさらに散騎侍郎董琬・高明らを派遣し、大量の金銀や絹織物を携えさせ、西域へ赴かせて九国を招撫させた。董琬らが烏孫に到着すると、烏孫王は大いに喜び、「破洛那・者舌の両国は、ともに魏に臣従し貢物を納めたいと望んでいるが、自ら進んで送る道がないだけである。今や使者がおり、道すがら彼らを慰撫されるがよい」と言った。そこで案内人と通訳を送り、董琬を破洛那へ、高明を者舌へ導かせた。近隣の諸国はこれを聞き、争って使者を董琬らに従わせて北魏に貢物を納めさせ、その数は十六国に及んだ。これ以降、毎年朝貢が絶えることはなかった。
北魏の国主は自分の妹である武威公主を河西王沮渠牧犍に嫁がせた。河西王は宋繇を派遣し、表文を持たせて平城に謝意を伝えさせ、また彼の母親と公主の称号をどうすべきか尋ねさせた。北魏の国主は群臣に協議させたところ、みな「母親は子によって尊くなり、妻は夫の爵位に従います。沮渠牧犍の母親は河西国太后と称し、公主はその国では王后、京師では公主と称するのがよろしいでしょう」と言った。北魏の国主はこれに従った。
当初、沮渠牧犍は涼武昭王の娘を娶っていた。北魏の公主が到着すると、李氏とその母尹氏は酒泉に移り住んだ。まもなく李氏が死去し、尹氏はその遺体を撫でて泣かず、「お前の国は滅び、家は亡びた。今死ぬのはすでに遅すぎる」と言った。沮渠牧犍の弟である沮渠無諱は酒泉を鎮守しており、尹氏に言った。「王太后(尹氏を指す。彼女は李暠の嫁であり、沮渠牧犍の妻李氏の母である)の孫たちは伊吾におります。太后は彼らを頼って行かれますか?」尹氏はその意図を測りかね、偽って言った。「我が子孫は流れ漂い、異域に身を寄せている。我の残る日々も多くはない。ここで死ぬべきであり、もはやあの氈裘を着た者の鬼とはなるまい。」まもなく、彼女は密かに伊吾へ逃れた。沮渠無諱は騎兵を派遣して追跡させた。尹氏は追跡の騎兵に向かって言った。「沮渠酒泉(沮渠無諱を指す)は我に北へ帰ることを許した。なぜまた追って来るのか!お前たちは我の首を取って帰れ。我は決して帰らぬ。」追跡の騎兵はあえて迫らず、引き返した。尹氏はついに伊吾で没した。沮渠牧犍は将軍沮渠旁周を派遣して北魏に貢物を納めさせた。北魏の国主は侍中古弼・尚書李順を派遣し、彼の侍臣に衣服を賜り、またその世子である沮渠封壇を召して入朝させた。この年、沮渠牧犍は沮渠封壇を北魏に派遣し、また使者を建康に派遣して、各種の書籍や敦煌の趙匪文が撰した『甲寅元暦』を進献し、さらに数十種の書籍を求めた。皇帝(南朝宋の文帝)はすべてを与えた。
李順が河西から帰還すると、北魏の国主は彼に問うた。「そなたはかつて涼州を取る策を述べたが、朕は東方に用事があったため、果たせなかった。今や和龍は平定された。朕は今年中に西征しようと思うが、どうか?」李順は答えた。「臣がかつて申し上げたことは、現在の状況をもってしても、誤りはないと私には思われます。しかし国家の軍はたびたび出動し、将士は疲れております。西征のことは、後日を待たれるようお願いいたします。」北魏の国主はそこで中止した。
春二月丁未、吐谷渾王慕利延を都督西秦・河・沙三州諸軍事・鎮西大将軍・西秦・河二州刺史・隴西王に任命した。
三月癸未、北魏の国主は詔を下し、五十歳以下の僧尼を還俗させた。
当初、燕王馮弘は遼東に逃れた。高麗王高琏は使者を派遣して慰労し、「龍城王馮君、野に来りて仮寓し、兵士・馬匹は疲れおるか」と言った。馮弘は恥じて怒り、帝王の格式で詔を下して彼を責めた。高麗は彼を平郭に置き、まもなく北豊に移した。馮弘はかねてより高麗を軽んじており、政令・刑罰・賞賜はなお自国におけるがごとくであった。高麗はそこで彼の侍従を奪い、その太子王仁を人質として捕らえた。馮弘は高麗を恨み、使者を派遣して南朝宋に表を上り、迎えを請うた。宋の文帝は使者王白駒らを派遣して迎えさせ、また高麗に命じて資助し送り出させた。高麗王は馮弘を南下させたくなく、将軍孫漱・高仇らを派遣し、北豊で馮弘を殺させ、その子孫十余人も殺し、馮弘に昭成皇帝と追諡した。王白駒らは配下の七千余人を率いて奇襲し、孫漱・高仇を討伐し、高仇を殺し、孫漱を生け捕りにした。高麗王は王白駒らが勝手に人を殺したとして、使者を派遣して彼らを捕らえ、南朝宋に送り届けた。宋の文帝は高麗が遠方の国であるため、その意に逆らうことを望まず、王白駒らを獄に入れた。まもなく彼らを赦免した。
夏四月、故黄門侍郎殷淳の娘を迎え、太子劉劭の妃とした。
五月戊寅、北魏は大赦を行った。
丙申、北魏の国主は五原へ向かった。秋七月、五原から北へ柔然を征討した。楽平王拓跋丕に命じて十五人の将軍を督率させ東路から出兵させ、永昌王拓跋健に十五人の将軍を督率させ西路から出兵させ、北魏の国主は自ら中軍を率いた。浚稽山に至り、さらに中軍を二路に分けた。陳留王拓跋崇は大沢から涿邪山へ向かい、北魏の国主は浚稽山から北へ天山に向かい、西へ白阜山に登ったが、柔然を見ずして帰還した。当時、漠北の地域は大旱で、水草がなく、人馬の死傷が多かった。
冬十一月丁卯朔、日食があった。
十二月丁巳、北魏の国主は平城に到着した。
豫章の雷次宗は学問を好み、廬山に隠棲していた。かつて散騎侍郎に召されたが、就任しなかった。この年、処士として建康に召され、鶏籠山に学館を設けさせ、学生を集めて教授させた。宋の文帝はかねてより文芸を愛好し、丹陽尹廬江の何尚之をして玄学を設けさせ、太子率更令何承天をして史学を設けさせ、司徒参軍謝元をして文学を設けさせ、雷次宗の儒学と合わせて、四学とした。謝元は謝霊運の族弟である。宋の文帝はたびたび雷次宗の学館に臨幸し、雷次宗に儒服を着せて侍講させ、供給は非常に豊かであった。また給事中に任命したが、受け入れなかった。長く経って、廬山に帰った。
臣司馬光は言う。『易経』は言う。「君子は多く前人の言動を記し、以てその徳を蓄える」。孔子は言う。「言葉は意を達すれば足る」。これによって見れば、史学は儒学の一端であり、文学は儒学の余事である。老子・荘子の虚無の説に至っては、もともと教えを施すものではない。学ぶのは道を求めるためである。天下に二つの道はない。どうして四学などありえようか!
宋の文帝は性情仁厚で恭倹であり、政事に勤め、法度を守るが苛酷ではなく、人に寛容だが放縦ではない。百官はみな長くその職に留まり、地方長官は六年を期限とし、官吏は容易に免職されず、百姓は頼るところがあった。三十年の間、四境の内は安寧で、人口は繁殖増加した。百姓が租税を納め徭役に服するのは、年ごとの定められた賦役に限られ、朝に出て夕に帰り、それぞれ自分のことに従うのみであった。民間の巷々では、誦読の声が互いに聞こえた。士人は節操を重んじ、郷里は軽薄を恥とした。江東の風俗は、この時が最も美しかった。後世、政治を語る者は、みな元嘉の年間を称賛する。
春正月庚寅、司徒劉義康は大将軍・兼司徒に進み、南兗州刺史・江夏王劉義恭は司空に進んだ。北魏の国主は定州へ向かった。
当初、劉宋の高祖(劉裕)は遺詔を残し、諸子が順に荆州を鎮守するよう命じていた。臨川王の劉義慶は荆州に在任すること八年、朝廷はその後任を選ぼうとしたが、順序からすれば南谯王の劉義宣が継ぐべきであった。しかし宋の文帝は劉義宣の才能が凡庸で鄙劣であるとみなし、これを搁置して用いなかった。二月、己亥の日、衡陽王の劉義季を都督荆・湘等八州諸軍事、荆州刺史に任命した。劉義季がかつて春に外出して狩猟をした時、一人の老人が藁蓑を着て耕作していた。従者がこれを叱ると、老人は言った。「遊楽や狩猟に耽ることは、古人が戒めたところです。今や陽気が温和に広がり、一日耕さなければ、百姓は農時を逃してしまいます。どうして禽獣を追う楽しみのために、老農を駆り立て叱ることができましょうか!」劉義季は馬を止めて言った。「これは賢人である!」命じて食物を与えさせたが、老人は辞退して言った。「大王が農時を侵さなければ、境内の百姓は皆、大王の賜う食物を飽きるほど食べられます。老夫がどうして独りで大王の賞賜を受けられましょうか!」劉義季がその姓名を尋ねたが、老人は答えずに去った。
三月、北魏の雍州刺史の葛那が上洛を侵犯し、上洛太守の镡長生は郡を棄てて逃走した。
辛未の日、北魏の国主は宮中に帰還した。
楊保宗はその兄の楊保顕と共に童亭から北魏へ奔った。庚寅の日、北魏の国主は楊保宗を都督隴西諸軍事、征西大将軍、開府儀同三司、秦州牧、武都王に任命し、上邽を鎮守させ、公主を嫁がせた。また楊保顕を鎮西将軍、晋寿公に任命した。
河西王の沮渠牧犍はその嫂の李氏と姦通し、兄弟三人が皆、交替で彼女と私通した。李氏は沮渠牧犍の姉と共に毒を謀って北魏の公主を害そうとした。北魏の国主は解毒の医師を馳せ馬で派遣して救治させ、公主はようやく全快した。北魏の国主は李氏を召し出そうとしたが、沮渠牧犍は遣わさず、かえって厚い財物を与えて酒泉に住まわせた。
北魏が使者を西域に派遣するたび、常に沮渠牧犍に命じて案内役を出させ、流砂の彼方まで送らせた。使者が西域から帰還し、武威に至った時、沮渠牧犍の側近の中に、北魏の使者に告げる者があった。「我が君は柔然の可汗の妄言を信じて言いました。『昨年、北魏の天子が自ら我を討伐に来たが、兵士と馬は疫病で死に、大敗して帰った。我はまたその弟の楽平王・拓跋丕を捕らえた。』と。我が君は大いに喜び、国内で宣伝しました。また柔然の可汗が使者を西域諸国に遣わし、『北魏はすでに衰弱した。今や天下で我だけが強大である。もし再び北魏の使者が来たら、彼らに供奉してはならない。』と声称したと聞きました。西域諸国はこれにより、かなり二心を抱いています。」使者は帰還後、これらの状況を全て上奏した。北魏の国主は尚書の賀多羅を涼州に派遣して実情を観察させた。賀多羅が帰還し、沮渠牧犍は表面上は臣子の礼を行うが、内心は実際には乖戻悖逆していると報告した。
北魏の国主はこれを討伐しようと考え、崔浩に諮問した。崔浩は答えて言った。「沮渠牧犍の叛逆の心はすでに露わになっており、誅殺せざるを得ません。官軍が昨年北伐した時、勝利を得なかったとはいえ、実際には大した損失はありませんでした。戦馬三十万匹のうち、途中で死傷したものは八千を超えず、平年に痩せて死ぬものも一万匹を下りません。ところが遠方の者は我々の空虚に乗じ、軽々しく我々が衰え耗損し、再び振るえないと思い込んでいます。今、不意を衝いて大軍が突然到着すれば、彼は必ず驚き乱れて為す術を知らず、これを擒にするのは必然です。」北魏の国主は言った。「良い!我が意見も同じである。」そこで西堂において大いに公卿を集めて議した。
弘農王の奚斤ら三十余人は皆言った。「沮渠牧犍は西方の辺境の小国の君主であり、内心は純粋に臣服しているわけではないが、父の位を継いで以来、貢物や賦税は欠かしたことがありません。朝廷は彼を藩臣として遇し、公主を嫁がせました。今、彼の罪悪はまだ顕著ではなく、寛恕すべきです。国は先ごろ柔然を征討したばかりで、兵士と馬は疲弊しており、大挙して出兵することはできません。また彼の土地は塩分が多く痩せており、水草を得難いと聞きます。大軍が一旦到着すれば、彼は必ず城を固めて守るでしょう。もし城を攻め落とせなければ、野外には掠奪すべきものもなく、これは危険なやり方です。」
当初、崔浩は尚書の李順を嫌っていた。李順は涼州に使節として赴くこと十二回に及び、北魏の国主は彼を有能と見なしていた。涼の武宣王(沮渠蒙遜)は度々李順と遊宴を共にし、その群臣に対してしばしば驕慢な言葉を口にした。李順が漏らすのを恐れ、その都度金銀財宝を李順の懐中に詰め込み、李順もまた彼のために隠蔽した。崔浩はこれを知り、密かに北魏の国主に告げたが、国主は信じなかった。涼州討伐を議するに及んで、李順と尚書の古弼は共に言った。「温圉水から西の姑臧に至るまで、一面枯れた石ばかりで、全く水草がありません。その地の人が言うには、姑臧城の南にある天梯山の上には、冬に雪が積もって深さ一丈余りになり、春夏に融けて流れ下り川となり、住民はこれを引いて灌漑しています。大軍が来ると聞けば、この渠口を塞ぎ、水源は必ず絶たれるでしょう。城を繞らす百里の内、地には草が生えず、人馬は飢え渇き、長く留まることは難しい。奚斤らの議論は正しい。」北魏の国主はそこで崔浩に命じて奚斤らと互いに詰問させた。群臣は他に言う言葉もなく、ただ「そこには水草がない」とだけ言った。崔浩は言った。「『漢書・地理志』には『涼州の牲畜は天下の富饒なり』とあります。もし水草がなければ、どうして牲畜が繁殖できましょうか?それに、漢人が水草のない場所に城郭を築き、郡県を設置するはずがありません。まして雪が融けた後では、ただ塵を収めるだけで、どうして渠を疏らいて灌漑できましょうか!この言葉は実に人を欺くものです。」李順は言った。「耳で聞くより目で見るに如かず。私はかつて目で見ました。どうしてあなたと弁論できましょうか?」崔浩は言った。「あなたは他人の金銭を受け取り、彼のために遊説しようとしている。私が目で見ていないと思って欺こうとしているのか!」北魏の国主は屏風の後ろでこれを盗み聞きし、これらの言葉を聞いて、出てきて奚斤らに接見した。言辞神色は厳しく、群臣は敢えて再び言葉を発せず、唯々諾々とするのみであった。
群臣が出た後、振威将軍・代郡人の伊馛が北魏の国主に言った。「涼州に本当に水草がなければ、彼らは何によって国を立てるのでしょう?皆の議論は採用すべきではありません。崔浩の言葉に従うべきです。」北魏の国主はその言を正しいとした。
夏、五月、丁丑の日、北魏の国主は西郊で兵を練った。六月、甲辰の日、平城から出発した。侍中・宜都王の穆寿を派遣して太子の拓跋晃を補佐して監国させ、留台の事務を決断させ、朝廷内外はこれに従わせた。また大将軍・長楽王の嵇敬、輔国大将軍・建寧王の拓跋崇を派遣し、二万人を率いて漠南に駐屯させ、柔然に備えさせた。公卿に命じて書簡を認め、河西王の沮渠牧犍を責め、その十二条の罪状を列挙し、かつ言った。「もし汝が自ら群臣を率い、礼物を送り、遠くから迎え、馬前で跪拝するならば、これが上策である。六軍が一旦到着すれば、汝が両手を縛り、棺を載せて降伏するのは、これが中策である。もし汝が迷いを悟らず、孤城に困守し、時に及んで悔い改めなければ、身は死に族は滅び、世の最も大きな恥辱となろう。汝はこれを考慮し、自ら多福を求めるがよい!」
己酉の日、隴西王の吐谷渾慕利延を改めて河南王に封じた。
北魏の国主は雲中から黄河を渡った。秋、七月、己巳の日、上郡属国城に到着した。壬午の日、輜重を留め、諸軍を部署し、撫軍大将軍・永昌王の拓跋健、尚書令の劉絜と常山王の拓跋素を前鋒とし、二路に分かれて進軍させた。驃騎大将軍・楽平王の拓跋丕、太宰・陽平王の杜超を後継とし、平西将軍の源賀を案内役とした。
北魏の国主が源賀に涼州を攻め取る方策を問うと、源賀は答えて言った。「姑臧城の傍らには四部の鮮卑がおり、皆、我が祖父の旧部でございます。願わくば軍の先頭に立ち、国家の威信を宣揚し、彼らに禍福を説き明かせば、彼らは必ずや部衆を率いて帰順いたしましょう。外援がすでに降服すれば、その後でその孤城を攻め取ることは、掌を返すように容易でございます。」北魏の国主は言った。「良い!」
八月、甲午の日、永昌王の拓跋健は河西の牲畜二十数万頭を獲得した。
河西王沮渠牧犍は北魏の軍が来たと聞き、驚いて言った。「どうしてこうなったのか!」左丞姚定国の計略を用い、城を出て迎えようとせず、柔然に救援を求めた。弟の征南大将軍沮渠董来に一万余人を率いさせて城南で戦わせたが、風を見るように崩れ去って逃げ散った。劉絜は占い師の言葉に従い、時辰が不吉であるとして軍を収めて追撃せず、沮渠董来はかろうじて城中に入ることができた。北魏の国主はこのため劉絜に怒った。
丙申の日、北魏の国主は姑臧に到着し、使者を遣わして沮渠牧犍に城を出て投降するよう告げた。沮渠牧犍は柔然が北魏の辺境を侵そうとしていると聞き、国主が東へ帰ることを望み、城を固く守った。兄の子である沮渠祖が城壁を越えて出奔し投降すると、北魏の国主は城中の状況を詳しく知り、軍を分けて姑臧を包囲した。源賀は兵を率いて各部の三万余の部落を慰撫し招いたので、北魏の国主は姑臧の攻撃に専念でき、もはや後顧の憂いはなかった。
北魏の国主は姑臧の城外が水草豊かであるのを見て、李順を恨み、崔浩に言った。「お前が以前言ったことは、今まさにその通りになった。」崔浩は答えた。「私は敢えて真実を言わないことはありません。他の事も大抵このようなものです。」
北魏の国主が涼州を討伐しようとした時、太子拓跋晃もまたこれに疑念を抱いていた。この時になって、北魏の国主は太子に詔を賜って言った。「姑臧城の東門、西門の外に湧き出る泉が城北で合流し、その水の流れは大河のようである。その他の溝渠は砂漠に流れ込み、その間には乾いた土地が全くなかった。よってこの勅令を下し、お前の疑念を解くものである。」
庚子の日、皇子劉鑠を南平王に立てた。
九月、丙戌の日、河西王沮渠牧犍の兄の子である沮渠万年がその部衆を率いて北魏に投降した。姑臧城は陥落し、沮渠牧犍はその文武官五千人を率いて手を縛って投降を請い、北魏の国主はその縄を解いて礼をもって遇した。城内の人口二十万余、倉庫の珍宝は数えきれないほど収めた。張掖王秃発保周、龍騎将軍穆罷、安遠将軍源賀を分遣して諸郡を巡視させると、帰順する雑胡がまた数十万に及んだ。
当初、沮渠牧犍はその弟の沮渠無諱を沙州刺史・都督建康以西諸軍事・兼酒泉太守とし、沮渠宜得を秦州刺史・都督丹嶺以西諸軍事・兼張掖太守とし、沮渠安周を楽都太守とし、従弟の沮渠唐児を敦煌太守としていた。姑臧が陥落すると、北魏の国主は鎮南将軍・代郡人の奚眷に張掖を攻めさせ、鎮北将軍封沓に楽都を攻めさせた。沮渠宜得は倉庫を焼き払い、西へ酒泉に逃れた。沮渠安周は南へ吐谷渾に奔り、封沓は数千戸を掠めて帰還した。奚眷は酒泉を攻め、沮渠無諱と沮渠宜得は残兵を収めて晋昌に逃れ、敦煌の沮渠唐児を頼った。北魏の国主は弋陽公元絜をして酒泉を鎮守させ、武威・張掖にもまた将を置いて鎮守させた。
北魏の国主は姑臧で宴を設け、群臣に言った。「崔公の智謀は余裕があり、私はもはや不思議に思わない。伊馛は騎馬射箭の武人だが、その見解が崔公と同じであるのは、実に非常に奇特なことだ!」伊馛は射箭に巧みで、牛を引きずって後退させることができ、走れば奔馬に追いつき、性格は忠誠で謹み深かったので、北魏の国主は特に彼を愛した。
北魏の国主が西へ討伐に向かう時、穆寿は河のほとりまで見送り、北魏の国主は彼に告げた。「柔然の可汗呉提と沮渠牧犍は昔から交情が厚い。私が沮渠牧犍を討つと聞けば、呉提は必ず辺塞を侵犯するであろう。だから私は強兵と肥えた馬を残し、お前に太子を補佐させる。田の収穫が終われば、すぐに兵を発して漠南に至り、軍を分けて要害の地に伏せ、敵を待て。彼らを誘って深く入れ、その後で攻撃すれば、勝利しないことはない。涼州は道のりが遠く、私はお前を救援できない。お前は私の言葉に背くな!」穆寿は叩頭して命令を受けた。穆寿は常に中書博士の公孫質を信頼し、彼を謀主とした。穆寿と公孫質はともに占いを信じ、柔然は必ず来ないと考え、備えをしなかった。公孫質は公孫軌の弟である。
柔然の敕連可汗は、北魏の国主が姑臧に向かったと聞き、虚に乗じて侵攻し、兄の乞列帰を嵆敬・建寧王拓跋崇と共に北鎮で対峙させることを残し、自ら精鋭の騎兵を率いて深く入り、善無の七介山に至った。平城は大いに驚き恐れ、百姓は争って中城に逃げ込んだ。穆寿はどうすればよいか分からず、西城門を閉じて太子を退かせ南山に守らせようとしたが、竇太后が従わなかったため中止した。司空長孫道生・征北大将軍張黎を遣わして吐頽山で防がせた。ちょうどその時、嵆敬・建寧王拓跋崇が陰山の北で乞列帰を破り、彼を捕らえ、その伯父の他吾無鹿胡及び将帥五百人と共に、斬首一万余級を挙げた。敕連可汗はこれを聞いて逃走し、漠南まで追撃してから帰還した。
冬、十月、辛酉の日、北魏の国主は東へ帰還し、楽平王拓跋丕と征西将軍賀多羅を留めて涼州を鎮守させ、沮渠牧犍の宗族及び吏民三万户を平城に移した。
癸亥の日、秃発保周が諸部落の鮮卑を率いて張掖に拠り、北魏に背いた。
十二月、乙亥の日、太子劉劭が冠を加えられ、大赦天下を行った。劉劭は眉目秀麗で、読書を好み、騎馬射箭に優れ、賓客を招くことを好んだ。彼がしようとすることは、皇帝は必ず従い、東宮に置かれた兵士は羽林軍と同等であった。
壬午の日、北魏の国主は平城に到着した。柔然の侵入によって大きな損失がなかったため、穆寿らは誅殺を免れた。北魏の国主はなおも沮渠牧犍を妹婿として遇し、引き続き征西大将軍・河西王とさせた。沮渠牧犍の母が死去すると、太妃の礼で葬った。武宣王のために守墓人家三十戸を置いた。
涼州は張氏以来、人材が多いと称されていた。沮渠牧犍は特に文学を愛し、敦煌の闞駰を姑臧太守とし、張湛を兵部尚書とし、劉昞・索敞・陰興を国師助教とし、金城の宋欽を世子洗馬とし、趙柔を金部郎とし、広平の程駿と程駿の従弟の程弘を世子侍講とした。北魏の国主は涼州を攻略した後、皆礼遇して任用し、闞駰・劉昞を楽平王拓跋丕の従事中郎とした。安定人の胡叟は、若くして俊才があり、沮渠牧犍を頼って赴いたが、沮渠牧犍はあまり重んじなかった。胡叟は程弘に言った。「貴主は偏狭で陋劣な国に居ながら僭号し礼を用い、小事を大に事とするが心は専一でなく、表面は仁義を慕うが実は道徳が無い。その滅亡は足を待つばかりである。私は木を選んで止まろうとし、まず魏に行く。お前と暫く別れるが、長い別れではない。」そこで北魏に赴いた。一年余りして、沮渠牧犍は果たして敗れた。北魏の国主は胡叟に先見の明があるとし、虎威将軍に拝し、始復男の爵を賜った。河内人の常爽は、世々涼州に寄寓し、礼命を受けず、北魏の国主は彼を宣威将軍に任命した。河西の右相宋繇は北魏の国主に従って平城に行き、そこで死去した。
北魏の国主は索敞を中書博士とした。当時、北魏の朝廷は尚武を尊び、貴族の子弟は講学を児戯のように思っていた。索敞は博士となること十余年、勤めて誘導し、厳粛で礼儀があり、貴族の子弟は皆彼を畏れ、多くがこれによって成就し、前後して顕達して尚書・州牧・郡守となった者が数十人いた。常爽は温水の西に学館を設け、七百余人を教授した。常爽は賞罰の条例を設け、弟子は彼に事えること厳父の如くであった。これより北魏の儒風が振興し始めた。高允は常に常爽の訓導の方策を称賛し、言った。「文翁は柔和をもって勝ち、先生は剛強をもって敵を克つ。教化を設けることは同じではないが、人材を成就することは同じである。」
陳留の人、江強は涼州に寄寓し、経書・史書・諸子の書籍一千巻余り及び書法を献上し、中書博士に任じられた。北魏の国主は崔浩に秘書の事務を監督させ、史職を総攬させた。中書侍郎高允、散騎侍郎張偉を参与に任じて著作を掌らせた。崔浩が上奏して言った。「陰仲達、段承根は涼州の優秀な人材であります。彼らに命じて共に国史を修撰させてください。」二人とも著作郎に任じられた。陰仲達は武威の人であり、段承根は段暉の子である。
崔浩は諸家の暦法家を集め、漢の元年以来の日食・月食、五星の運行度数を考校し、前代の史書の誤りを非難批評し、別に『魏暦』を編纂して、高允に見せた。高允が言った。「漢の元年十月、五星が東井に集まったというのは、暦法の推算における浅はかな事柄です。今、漢史を非難しながらこの誤謬に気づかないのは、恐らく後世の人々が今日の我々を非難するのも、今日の我々が古人を非難するのと同じことになるでしょう。」崔浩が言った。「誤りはどこにあるのか。」高允が言った。「『星伝』によれば、『太白星、辰星は常に太陽に従って運行する』とあります。十月、太陽は尾宿・箕宿にあり、黄昏時には申位南方に没し、東井星はちょうど寅位北方に現れます。この二つの星がどうして太陽を背いて運行できましょうか。これは史官がこの事を神聖化しようとして、もはや道理で推究しなかったに過ぎません。」崔浩が言った。「天文が変化を起こそうとするならば、何ができないことがあろうか。」高允が言った。「この事は空論で争うことはできません。もう一度よく審察すべきです。」座にいた人々は皆、高允の言葉を非難したが、ただ東宮少傅の游雅だけが言った。「高君は暦法に精通している。虚言であるはずがない。」一年余りが過ぎて、崔浩は高允に言った。「先に議論した事は、もともと深く考えたわけではなかった。後になって改めて考究したところ、果たしてあなたの言った通りであった。五星は前の三ヶ月に東井に集まったのであって、十月ではなかった。」人々はこれでようやく嘆服した。高允は暦法に精通していたが、初めは推算もせず、また人のために解説もしなかった。ただ游雅だけが知っていた。游雅は何度も災異について高允に尋ねたが、高允は言った。「陰陽の災異は、知ることが難しい。既に知ったとしても、また漏れることを恐れる。知らない方が良い。天下には精妙な道理が多くある。どうして急いでこれを問う必要があろうか。」游雅はやっと止めた。北魏の国主が高允に問うた。「政事を治めるには、何を先にすべきか。」当時、北魏には多くの禁封された良田があった。高允が言った。「私は幼い頃貧賤で、ただ農事だけを知っています。もし国が田地を広げて穀物を蓄積し、公私ともに備えがあれば、飢饉は憂えるに足りません。」北魏の国主はそこで全ての田禁を解除し、田地を民に分け与えるよう命じた。
吐谷渾の王、慕利延は、北魏が涼州を攻略したと聞いて非常に恐れ、部衆を率いて西に逃れ、砂漠を越えた。北魏の国主は、その兄の慕瑰が赫連定を擒えた功績があったため、使者を派遣して慰撫し告諭すると、慕利延は故地に戻った。
氐王の楊難当は兵数万を率いて北魏の上邽を侵犯し、秦州の人々の多くがこれに応じた。東平の人の呂羅漢は鎮将の拓跋意頭に説いて言った。「楊難当の部衆は多い。今、戦わなければ、我々の弱さを示すことになり、部衆は心が離れ意気消沈して、守り抜くのは難しくなるでしょう。」拓跋意頭は呂羅漢に精鋭の騎兵一千余人を率いさせ、楊難当の軍陣に衝撃させた。進むところ敵なく、その左右の騎兵八人を斬り、楊難当は非常に驚愕した。折から北魏の国主が璽書で楊難当を責めたため、楊難当は軍を率いて仇池に戻った。
南豊太妃の司馬氏が死去した。彼女は元の営陽王(劉義符)の後裔である。
趙広、張尋らがまた謀反を企て、処刑された。
春、正月己酉の日、沮渠無諱が北魏の酒泉を侵犯した。元絜はこれを軽んじて、城を出て彼と語り合った。壬子の日、無諱は元絜を捕らえ、酒泉を包囲した。
二月、北魏は仮の通直常侍の邢穎を派遣して訪問させた。
三月、沮渠無諱が酒泉を攻略した。
夏、四月戊午朔の日、日食があった。庚辰の日、沮渠無諱が北魏の張掖を侵犯した。禿髪保周は刪丹に駐屯していた。丙戌の日、北魏の国主は撫軍大将軍の永昌王拓跋健に命じて諸将を督率し、これを討伐させた。
司徒の劉義康は朝廷の大権を独り占めした。皇上は体が弱く病がちで既に多年に及び、労れるたびに発作を起こし、幾度も危篤に陥った。義康は心を尽くして看病し、薬や食べ物は自ら口を付けなければ進めず、幾晩も続けて眠らないこともあった。朝廷内外の大小の事務は全て彼が独断で施行した。彼は生まれつき官吏の職務を好み、書類や記録を審査する際には、精到で詳しくないことはなかった。皇上はこのため多くの事務を彼に委ね、彼の上奏や陳述は全て受け入れられないことはなかった。地方長官以下は、全て義康に選抜任用させ、生殺与奪の大事も、時には彼の記録命令だけで決まった。その権勢は遠近に震い、朝廷内外の人々は車の輻が轂に集まるように彼の門下に集まり、毎朝その府門の前には数百台の車があった。義康は自ら応対し、決して怠けたり疲れたりしなかった。また記憶力が強く、見聞きしたことは一生忘れなかった。人々の多い大勢の前で、自分の記憶力を誇示して聡明さを示すのを好んだ。士人の中で有能な者は、多くが彼の厚遇を受けた。かつて劉湛に言ったことがある。「王敬弘や王球といった連中は、一体何ができるというのか。ただ座って富貴を得ているだけで、どうして理解できようか。」しかし彼は元来学問がなく、大局を理解せず、朝廷の官人の中で才能のある者は皆、自分の府中に招き入れ、府中の僚属で才能がなく自分の意に背く者は、排斥して台省の官に就けさせた。彼は自らを皇帝と至親の兄弟と見なし、もはや君臣の間の界限を保たず、心のままに事を行い、全く猜疑や防備がなかった。私かに六千余人の僮僕を養い、朝廷に報告しなかった。各地から献上される贈り物は、上等の品を義康に送り、下等の品を皇上の用に供した。皇上がかつて冬に柑橘を食べ、その形や味が良くないと嘆いたことがある。義康が言った。「今年の柑橘には確かに良いものがあります。」人を遣わして東府から柑橘を取り寄せると、貢上されたものより三寸も大きかった。
領軍将軍の劉湛と僕射の殷景仁は仲が悪く、劉湛は義康の権勢に頼って彼を排斥しようとした。義康の権勢は既に盛んであり、劉湛はますます彼を尊崇し、もはや臣下の礼を取らなくなった。皇上は次第に不満を感じるようになった。劉湛が初めて入朝した時、皇上は彼に対して恩寵と礼遇が厚かった。劉湛は治国の道を論ずるのが巧みで、前代の旧事に詳しく、叙述は条理が明瞭で、聞く者は疲れを忘れた。彼が雲龍門に入るたびに、車夫は車馬を解き放ち、左右の侍従や儀仗隊は勝手に散り、夕方にならなければ出てこなかった。これが常態となった。晩年に至り、彼は義康を扇動した。皇上の心の中では既に疎んじていたが、接する礼遇は変えず、かつて親しい者に言ったことがある。「劉班が西から帰ってきたばかりの頃、私は彼と話す時、いつも空の明るさを気にし、彼が去るのを心配した。近頃彼が入朝すると、私も空の明るさを気にするが、彼が去らないのを苦に思うのだ。」
殷景仁は密かに皇上に言った。「相王(義康)の権勢は重すぎます。これは国家の長久の計ではありません。少しばかり抑制されるべきです。」皇上は密かに同意した。
司徒左長史の劉斌は、劉湛の同宗である。大将軍従事中郎の王履は、王謐の孫である。および主簿の劉敬文、祭酒の魯郡の人孔胤秀は、皆、諂いへつらうことで義康の寵愛を得ていた。彼らは皇上が多病であるのを見て、皆言った。「皇上一旦崩じなば、長君を立てるべきである。」皇上がかつて病重く、義康に臨終の詔書を準備させたことがある。義康は尚書省に戻り、涙を流して劉湛と殷景仁に告げた。劉湛が言った。「天下は艱難であり、どうして幼い君主が駕馭できるものでありましょうか。」義康と殷景仁は共に答えなかった。しかし孔胤秀らは勝手に尚書省に行き、晋の咸康末年、康帝を立てた旧例を調べた。義康はこれを知らなかった。後に皇上の病が癒え、この事を少し聞き及んだ。そして劉斌らは密謀し、大権を最終的に義康に帰せしめようと、党を結び私利を図り、宮禁を窺い、自分と異なる者があれば、必ず万端に陥れ害そうと図り、また殷景仁の短所を収集し、あるいは虚構の事柄を作り出して劉湛に告げた。これより君主と宰相の勢力は分裂した。
義康は劉斌を丹陽尹に任命しようと考え、会話の中で、皇上に彼の家が貧しいことを述べた。話が終わらないうちに、皇上が言った。「彼を呉郡太守に任命せよ。」その後、会稽太守の羊玄保が帰還を願い出たため、義康は再び劉斌をその後任にしようと、皇上に奏上して言った。「羊玄保が帰りたがっていますが、誰を会稽太守にすべきかわかりません。」皇上はその時すぐには考えがまとまらず、慌てて言った。「私はすでに王鴻を用いた。」去年の秋から、皇上は東府に行かなくなった。
五月癸巳日、劉湛は母の喪に服するため職を辞した。劉湛は自らの罪がすでに露見し、身の置き場がないことを自覚し、側近に言った。「今年は必ず敗れる。平素は口舌の争いに頼ってきたので、何とか引き延ばしてきた。今は窮地にあり苦しんでいるから、もはやその望みはない。災いが来るのも長くはあるまい!」乙巳日、沮渠無諱は再び張掖を包囲したが、攻め落とせず、兵を退いて臨松に駐屯した。北魏の国主は征伐せず、ただ詔を下して諭すのみであった。
六月丁丑日、北魏の皇孫拓跋浚が生まれ、天下に大赦を下し、年号を太平真君と改めた。これは寇謙之の『神書』にある「輔佐北方太平真君」の言葉に基づくものである。
太子劉劭は京口に行き京陵を拝謁し、司徒義康、竟陵王劉誕らが皆従い、南兗州刺史、江夏王劉義恭は江都から彼らに合流した。
秋、七月己丑日、北魏の永昌王拓跋健は番禾で禿発保周を破った。保周は逃走し、北魏は安南将軍尉眷を派遣して追撃させた。
丙申日、北魏の太后竇氏が死去した。
壬子日、皇后袁氏が死去した。
癸丑日、禿発保周は行き詰まって自殺した。
八月甲申日、沮渠無諱はその中尉梁偉を北魏の永昌王拓跋健のところに派遣し、投降を願い出て、酒泉郡および捕虜とした将士の元絜らを返還した。北魏の国主は尉眷を派遣して留まり涼州を鎮守させた。
九月壬子日、元皇后を葬った。
皇上は司徒彭城王劉義康との間の確執が明らかになり、禍乱が起こりつつあると感じた。冬、十月戊申日、劉湛を逮捕して廷尉に引き渡し、詔を下してその罪を公表し、獄中で処刑し、同時にその子の劉黯、劉亮、劉儼およびその同党の劉斌、劉敬文、孔胤秀ら八人を誅殺した。尚書庫部郎何默子ら五人を広州に流し、ここに天下に大赦を下した。当日、義康を命じて宮中に宿泊させ、中書省に留めた。その夜、それぞれ劉湛らを逮捕した。青州刺史杜驥は兵を率いて殿内で警戒し不意に備え、人を派遣して旨意を宣布し、劉湛らの罪状を義康に告げた。義康は上表して辞職を願い出たため、詔を下して義康を江州刺史とし、侍中、大将軍の位は変えず、都を出て豫章を鎮守させた。
初め、殷景仁は五年間病に臥せっていたが、皇上には会わないものの、密使の往来は毎日十数通に及び、朝廷の大小の事務は必ず彼に諮問された。その行動は秘密裏に慎重に行われ、誰もその内情を窺い知ることはできなかった。劉湛を逮捕した日、殷景仁は人に衣冠を拭かせたが、左右の者はその意図を理解しなかった。その夜、皇上は宮中を出て華林園延賢堂に行き、殷景仁を召し出した。殷景仁は依然として足の病を理由に、小さな輿に座って運ばれてきた。誅殺や処分の事柄は、すべて彼に委ねられた。
初め、檀道済は呉興の人の沈慶之が忠誠で慎重であり、軍事に通じていると推薦した。皇上は彼に隊を率いて東掖門を守らせた。劉湛が領軍であった時、彼に言った。「あなたは省中に長年いるのだから、当然昇進すべきだろう。」沈慶之は厳しい顔で言った。「私は省中に十年いるので、自然に昇進すべきであり、わざわざあなたに煩わせる必要はありません!」劉湛を逮捕した夜、皇上は門を開けて沈慶之を召し出した。沈慶之は軍服を着て脛当てを締めて入ってきた。皇上が言った。「なぜそんなに急いで軍装を整えたのか?」沈慶之が言った。「夜中に隊主を召し出すのに、平服でいることは許されません。」皇上は沈慶之を派遣して劉斌を逮捕させ、殺させた。
驍騎将軍徐湛之は徐逵之の子であり、義康と特に親しく、皇上は深く恨んでいた。義康が失敗した後、徐湛之は逮捕され、罪は死に当たった。彼の母である会稽公主は、兄弟の中の長女であり、常に皇上から礼遇され、家事の大小は必ず先に彼女に諮ってから行われた。高祖が貧しく賤しかった時、かつて自ら新洲で荻を刈ったことがあり、納布の衫袄があり、それは臧皇后が自ら縫ったものであった。貴顕となった後、それを公主に渡して言った。「後代に驕り奢り節度を知らぬ者が出たら、この衣服をもって見せよ。」この時、公主は宮中に入り皇上に会い、声を上げて泣き、もはや臣妾の礼を行わず、錦の袋に納布の衫を入れて地面に投げつけて言った。「あなたの家はもともと貧しかった。これは私の母があなたの父のために作ったものだ。今日やっと腹いっぱい食べられるようになったのに、私の子を殺そうとするのか!」皇上はそこで徐湛之を赦免した。
吏部尚書王球は王履の叔父であり、簡素で淡泊な美名があり、皇上から重んじられた。王履は生来名利を追い求め、深く義康と劉湛に結びついた。王球は何度も戒めたが、彼は聞かなかった。劉湛を誅殺した夜、王履は裸足で走って来て王球に告げた。王球は左右に命じて彼のために靴を取らせ、まず酒を温めて飲ませ、彼に言った。「普段、私はあなたに何と言ったか?」王履は恐怖して答えられなかった。王球はゆっくりと言った。「私がいるのに、あなたは何を心配することがあるのか!」皇上は王球の故をもって、王履は死を免れ、家に廃されて蟄居した。
義康が権勢を振るっていた時、人々は競って彼に親しもうとしたが、ただ司徒主簿の江湛だけは早くから自ら遠ざかり、武陵内史に任じられることを願い出た。檀道済はかつて自分の子のために江湛に求婚したが、江湛は固く辞退した。道済が義康を通じて請うたが、江湛はさらに固く拒否した。それゆえ、二人の公卿の禍に連座しなかった。皇上はこれを聞いて彼を称賛した。江湛は江夷の子である。
彭城王義康は中書省に十数日間留まった後、皇上に会って別れを告げ、船に乗って去った。皇上はただ彼に向かって泣くだけで、他には何も言わなかった。皇上は僧の慧琳を派遣して彼を見に行かせた。義康が問うた。「弟子に帰ってくる可能性はあるか?」慧琳は言った。「残念ながら、あなたは数百巻の書を読まれなかったことです。」
初め、呉興太守謝述は謝裕の弟である。たびたび義康を補佐し、常に諫めの効用があり、早くに亡くなった。義康が南方に行こうとした時、嘆息して言った。「昔、謝述はただ私に退くことを勧め、劉班はただ私に進むことを勧めた。今、劉班は生きて謝述は死んだ。私の失敗は当然である!」皇上も言った。「謝述がもし生きていれば、義康は必ずやこのような事態には至らなかったであろう!」
征虜司馬の蕭斌を義康の咨議参軍とし、豫章太守を兼任させ、事の大小を問わずすべて彼に委ねた。蕭斌は蕭摹之の子である。龍驤将軍蕭承之を派遣して兵を率いて防守させた。義康の側近で愛し親しんだ者たちは、皆従うことを許された。賞賜は手厚く、書信による恩賞は絶えず、朝廷の大事はすべて彼に告げられた。
久しくして、皇上は会稽公主のところに行き宴を催し、非常に楽しんだ。公主は立ち上がり、二度拝み頭を地に打ち付け、悲しみのあまり自らを抑えられなかった。皇上はその意図がわからず、自ら立ち上がって彼女を支えた。公主は言った。「車子(義康の幼名)は晩年、必ずや陛下に容れられないでしょう。今日、特に彼のために命を請います。」そう言って泣き崩れた。皇上も涙を流し、蒋山を指さして言った。「必ずやそのような心配はない。もし今日の誓いに背くならば、それは初寧陵に背くことになる。」すぐに封じた酒を義康に賜り、手紙を添えて言った。「会稽の姉が宴の時に弟を思い、残った酒を今封じて送る。」それゆえ、公主が亡くなるまで、義康は平穏に過ごすことができた。
臣司馬光は言う:文帝の義康に対する兄弟の情愛は、初めは厚くないわけではなかった。しかしついに兄弟の心を失い、君臣の大義を損なった。禍乱の根源をたどれば、まさに劉湛の権勢欲が満たされなかったことにある。『詩経』に言う。「貪人は類を敗る。」これはこのような情況を言うのであろう!
征南兗州刺史江夏王劉義恭を司徒、録尚書事に任命した。戊寅日、臨川王劉義慶を南兗州刺史とし、殷景仁を揚州刺史とし、僕射、吏部尚書の位は変えなかった。義恭は彭城王の失敗の教訓を汲み、総録の任に当たりながらも、ただ文書に従って執行するのみであった。皇上はこれで安心した。皇上は毎年相府に二千万銭を与え、他の物もこれに見合うものであった。しかし義恭は生来奢侈であり、費用は常に不足したため、皇上はさらに別に銭を与え、毎年一千万に達した。
十一月丁亥日、北魏の国主は山北へ赴いた。
殷景仁が揚州刺史に任命された後、身体は虚弱で病がさらに重くなり、帝は彼のために西州の路上に車の音を立てさせないよう命じた。癸丑日、殷景仁は死去した。十二月癸亥日、光禄大夫王球を僕射に任命した。戊辰日、始興王劉浚を揚州刺史に任命した。当時劉浚はまだ幼く、州の事務はすべて後軍長史范曄と主簿沈璞に委ねられた。范曄は范泰の子であり、沈璞は沈林子の子である。范曄はまもなく左衛将軍に昇進し、吏部郎沈演之を右衛将軍に任命して、共に禁軍を掌管させた。また庾炳之を吏部郎とし、いずれも機密に参与させた。沈演之は沈勁の曾孫である。
范曄は俊逸な才覚を持っていたが、性情は浅薄で行いが軽率であり、何度も名教に触れて士族に軽蔑された。彼は生来せっかちで争いを好み、自らの才能が十分に発揮されていないと考え、常に鬱々として不満を抱いていた。吏部尚書何尚之が帝に言った。「范曄の志趣は尋常とは異なります。どうか彼を外に放ち、広州刺史とされてください。もし朝廷内で禍乱を起こせば、刑を用いざるを得ません。刑を多く用いることは、国家の良いことではありません。」帝は言った。「劉湛を殺したばかりで、また范曄を追い出せば、人々はお前たちが人材を容れず、私が讒言を聞いたと言うだろう。皆が彼をそのような者と知っていれば、害をなすことはない。」
この年、北魏の寧南将軍王慧龍が死去し、呂玄伯は彼の墓を守り、終身離れなかった。
北魏の国主は伊□を尚書に任命し、郡公に封じようとしたが、伊□は辞退して言った。「尚書の事務は繁重であり、公爵の地位は極めて高く、臣下のような年少で愚鈍な者が受けるべきものではありません。」帝が何を望むか尋ねると、答えた。「中書・秘書の両省には多くの文士がおります。もし恩典が尽きなければ、どうかその中で職務に就くことをお許しください。」帝はこれを良いと考え、彼を中護国将軍・秘書監に任命した。
大秦王楊難当は再び自ら武都王と称した。
春、正月、癸卯日、北魏は沮渠無諱を征西大将軍・涼州牧・酒泉王に任命した。
彭城王劉義康は豫章に到着し、刺史の職を辞した。甲辰日、劉義康を都督江州・交州・広州三州諸軍事に任命した。前龍驤参軍巴東人の扶令育は朝廷に上表し、言った。「昔、袁盎が漢文帝に諫めて言いました。『淮南王がもし道中で風霜雨露に遭って死なば、陛下は弟を殺したという名を得るでしょう。』文帝は採り入れず、後に後悔されました。彭城王劉義康は、先朝の愛子であり、陛下の二弟であります。もし彼に迷いや謬りの過ちがあれば、正しく善悪の道理で教え、道義の方法で導くべきであり、どうして疑似の間の嫌疑を信じ、一朝にして貶め削り、遠く南の辺境に送るのでしょうか!平民の者でさえ、陛下のために心痛めております。廬陵王の過去のことは、まさに鑑戒とするに足ります。恐らく劉義康の年寿が尽き、突然南方で死ぬことでしょう。私は卑賤でありながら、ひそかに陛下のために恥じ入ります。陛下は悪しき枝を伐るべきと知りながら、どうして枝を伐ることが木を傷つけると知らないのでしょうか!私は切に願います、陛下が速やかに劉義康を京師に召し返し、兄弟の間に和協を、君臣の間に融洽団結をもたらせば、天下の期待は満たされ、諸々の議論の道も断たれましょう。どうして必ずしも司徒公・揚州牧であることをもって彭城王を安置する必要がありましょうか!もし私の言が国にとって誤りならば、重刑をもって陛下に謝罪することを請います。」表が上奏されると、すぐに扶令育を逮捕し建康の獄に交付し、死を賜った。
裴子野は評論して言う。上に位する者が善事を行うのは、雲行き雨降るが如く、万物がその恵みを受ける。悪事に及ぶ時は、天裂け地震うが如く、万物が驚き恐れる。誰か知らぬ者があり、誰か見えぬ者があろうか!どうして一人の身体を殺し、一人の口舌を塞ぐことで、祈り逃れ、跡を消し去ることができようか!これらはすべて怒りを抑えきれずに病を重ねたに過ぎない。太祖の寛大さをもってしても、なお彭城王の殺害に耳を覆った。この後、誰が敢えて軽々しく直言できよう!劉宋の歴代、正直で誠実な臣下を聞くことは稀であった。これは剛直な気概が、習俗において前代に愧じるからか?それとも当時の君主の刑罰政令がこのようにしたのか?張約は権臣の手に死に、扶育は賢明な君主の後に死んだ。宋朝の刑罰、ああ、恐ろしいことである!
北魏の新興王拓跋俊は淫乱で法に従わず、三月、庚戌日、爵位を公に降格された。拓跋俊の母は先に罪により処死されており、拓跋俊は怨みを心に積み、叛逆の企てがあった。事が露見し、死を賜った。辛亥日、北魏は郁久閭乞列帰に朔方王の爵位を、沮渠万年に張掖王の爵位を賜った。
夏、四月、沮渠唐児が沮渠無諱に叛いた。沮渠無諱は従弟の沮渠天周を酒泉に留めて鎮守させ、弟の沮渠宜得と共に軍を率いて沮渠唐児を攻め、沮渠唐児は敗れて死んだ。北魏は沮渠無諱が結局は辺境の禍患となると考え、庚辰日、鎮南将軍奚眷を派遣して酒泉を攻めた。
秋、八月、辛亥日、北魏は散騎侍郎張偉を派遣して来訪させた。
九月、戊戌日、北魏の永昌王拓跋健が死去した。
冬、十一月、戊子日、王球が死去した。己亥日、丹陽尹孟𫖮を尚書僕射に任命した。
酒泉城中の食糧は尽き、一万余人がことごとく餓死し、沮渠天周は自らの妻を殺して兵士に食べさせた。庚子日、北魏の奚眷が酒泉を攻め落とし、沮渠天周を捕らえて平城に送り、殺した。沮渠無諱は食糧を欠き、また北魏の兵勢の強盛を恐れ、そこで西方に流沙を渡ることを謀り、その弟沮渠安周を派遣して西方の鄯善を攻めた。鄯善王は降伏しようとしたが、折しも北魏の使者が到着し、堅守して抵抗するよう勧めた。沮渠安周は攻略できず、兵を退いて東城に拠った。
氐王楊難当は全国の軍を率いて侵入し、蜀地を占拠しようと図り、その建忠将軍苻冲を東洛に派遣して梁州の軍を防がせた。梁州・秦州二州刺史劉真道は苻冲を攻撃し、これを斬った。劉真道は劉懐敬の子である。楊難当は葭萌を攻め落とし、晋寿太守申坦を捕らえ、ついで涪城を包囲した。巴西・梓潼二郡太守劉道錫は城を固めて守り、楊難当は十数日間攻めたが攻略できず、ついに撤退した。劉道錫は劉道産の弟である。十二月、癸亥日、詔をもって龍驤将軍裴方明らに甲士三千人を率いさせ、また荊州・雍州二州の兵力を発して楊難当を討たせ、すべて劉真道の指揮調度に従わせた。
晋寧太守爨松子が叛き、寧州刺史徐循が討伐して平定した。
天門蛮の田向求らが叛き、溇中を破った。荊州刺史衡陽王劉義季は行参軍曹孫念を派遣して討伐し、これを撃破した。
北魏の寇謙之が北魏主に言った。「今、陛下は真君として世を治め、静輪天宮の法度を建てられました。古より、このようなことはありません。まさに壇に登り符書を受け、聖徳を顕わすべきです。」帝はその建議に従った。
