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漢紀

漢紀五

第 5 篇

甲寅年(紀元前一八七年)より癸未年(紀元前一七九年)に至るまで、凡そ十年。

高后(こうごう)

高后元年(甲寅、紀元前一八七年)

1 冬、太后は呂氏の子弟を王に封じようと欲し、右丞相王陵に諮問した。王陵が言うには「高帝はかつて白馬を殺して盟約されました。『劉氏の子弟にあらざる者にして王と称する者は、天下の者が共にこれを討つ』と。今、呂氏を王に封ずるは、盟約に違います」と。太后は喜ばず、左丞相陳平・太尉周勃に問うた。二人は答えて「高帝は天下を平定し、劉氏の子弟を王に封じました。今、太后が臨朝して政を聴き、呂氏の子弟を王に封ずるは、何の不可かありましょう」と。太后は大いに喜び、朝を退いた。王陵は陳平・周勃を責めて言うには「初め高帝と歃血して盟約した時、あなた方はその場にいなかったのか? 今、高帝は崩じ、太后は女主にして、呂氏を王に封ぜんと欲す。あなた方はこれに従い盟約に背く。何の面あって地下に高帝に見えん」と。陳平・周勃言う「朝廷に於いて面と向かって争うは、我々はあなたに及ばない。国家を全うし、劉氏の後を安んずるは、あなたも我々に及ばない」と。王陵、言うこと無し。十一月、甲子、太后、王陵をして皇帝太傅と為す。実にその相権を奪うなり。王陵、是に於いて病と称し免官して家に帰る。

是に於いて左丞相陳平を右丞相と為し、辟陽侯審食其を左丞相と為す。政事を理せず、宮中を監すること、郎中令の如くならしむ。審食其は故より太后に幸せられ、公卿大臣は皆、彼に由りて事を決す。

太后、趙尭が嘗て趙隠王の為に策を謀りしを怨み、趙尭の罪を治む。

上党郡守任敖は嘗て沛県の獄吏を為し、太后に恩有り。是に於いて御史大夫と為す。

太后、又其の父臨泗侯呂公を追尊して宣王と為し、兄周呂令武侯呂沢を悼武王と為す。以て呂氏の子弟を王に封ずるの端緒と為さんと欲す。

2 春、正月、三族の罪と妖言の令を廃す。

3 夏、四月、魯元公主薨ず。公主の子張偃を魯王に封じ、公主に諡して魯元太后と為す。

4 辛卯、孝恵帝の名義上の子劉山を襄城侯と為し、劉朝を軹侯と為し、劉武を壺関侯と為す。

太后、呂氏を王に封ぜんと欲し、先ず孝恵帝の名義上の子劉彊を淮陽王と為し、劉不疑を恒山王と為す。大謁者張釋をして大臣に暗示せしむ。大臣、是に於いて悼武王の長子酆侯呂台を呂王に立て、斉国の済南郡を割きて呂国と為すことを請う。

5 五月、丙申、趙王宮の叢台に火あり。

6 秋、桃李花開く。

高后二年(乙卯、紀元前一八六年)

1 冬、十一月、呂粛王呂台薨ず。

2 春、正月、乙卯、地震あり。羌道・武都道に山崩あり。

3 夏、五月、丙申、楚元王の子劉郢客を上邳侯と為し、斉悼恵王の子劉章を朱虚侯と為す。宮中に入り宿衛を為すことを命じ、又呂禄の女を劉章に妻せしむ。

4 六月、丙戌晦、日食あり。

5 秋、七月、恒山哀王劉不疑薨ず。

6 始めて八銖の銭を行ず。

7 癸丑、襄成侯劉山を恒山王と為し、名を改めて劉義と為す。

高后三年(丙辰、紀元前一八五年)

1 夏、江・漢水、氾濫して四千余戸を没す。

2 秋、星昼に見ゆ。

3 伊水・洛水、氾濫して一千六百余戸を没す。汝水、氾濫して八百余戸を没す。

高后四年(丁巳、紀元前一八四年)

1 春、二月、癸未、孝恵帝の名義上の子劉太を昌平侯と為す。

2 夏、四月、丙申、太后、其の妹呂嬃を臨光侯と為す。

3 少帝、漸く長じ、自ら皇后の生みし子に非ずと知る。是に於いて言を放つ「皇后、何ぞ能く我が母を殺して我を子と称せんや。我、長ずれば即ち変を為さん」と。太后、聞きて之を永巷に幽閉す。帝病むと称し、左右、見るを得ず。太后、群臣に謂う「今、皇帝、久しく病みて癒えず、精神錯乱し、宗廟を奉じ天下を治むるに堪えず。之を易うべきなり」と。群臣、皆叩頭して言う「皇太后、天下の為に慮り、宗廟・社稷を安んずるの心、甚だ深遠なり。臣等、叩頭して詔を受けん」と。是に於いて少帝を廃し、陰かに之を殺す。五月、丙辰、恒山王劉義を皇帝と為す。名を改めて劉弘と為す。元年と称せず、太后臨朝して天下の政事を治むるが故なり。軹侯劉朝を恒山王と為す。

4 是の年、平陽侯曹窋を御史大夫と為す。

5 有司、南越の関市・鉄器の交易を禁ずるを請う。南越王趙佗、言う「高帝、我を立てて王と為し、使節・貨物を通ぜり。今、高后、讒臣に聴きて蛮夷を異別し、器物の流通を絶つ。此れ必ずや長沙王の計にして、中国に倚りて南越を滅ぼし、然る後に其の地を兼ねて王と為り、自ら功を為さんと欲するなり」と。

高后五年(戊午、紀元前一八三年)

1 春、趙佗、自ら南越武帝と称し、兵を発して長沙を攻む。数県を破りて去る。

2 秋、八月、淮陽懐王劉彊薨ず。壺関侯劉武を淮陽王と為す。

3 九月、河東・上党の騎兵を発し、北地に屯す。

4 始めて戍卒の歳更を命ず。

高后六年(己未、紀元前一八二年)

1 冬、十月、太后、呂王呂嘉の驕恣を以て之を廃す。十一月、呂粛王の弟呂産を呂王と為す。

2 春、星昼に見ゆ。

3 夏、四月、丁酉、天下に大赦す。

4 朱虚侯劉章の弟劉興居を東牟侯と為し、亦宮中に入り宿衛を為さしむ。

5 匈奴、狄道を寇し、阿陽を攻む。

6 始めて五分の銭を行ず。

7 宣平侯張敖薨ず。諡して魯元王と為す。

高后七年(庚申、紀元前一八一年)

1 冬、十二月、匈奴、狄道を寇し、二千余人を掠む。

2 春、正月、太后、趙幽王劉友を召す。劉友、呂氏の女を娶りて王后と為す。之を愛せず、他姫を寵愛す。呂氏の女、怒りて去り、太后に讒言して曰く「趙王、『呂氏、安んぞ王たるべき。太后百歳の後、吾必ず之を撃たん』と言えり」と。太后、是に因りて趙王を召す。王至る。邸に置き、見ず。衛兵をして囲み守らしめ、食を与えず。其の臣の中、窃かに食を送る者有れば、即ち捕えられて罪を治めらる。丁丑、趙王、餓死す。民の礼を以て民塚の次に埋む。

3 己丑、日食あり。昼晦く。太后、之を悪み、左右に謂う「是れ我が為なり」と。

4 二月、梁王劉恢を改めて趙王と為し、呂王呂産を梁王と為す。梁王、国に就かず、皇帝の太傅と為る。

5 秋、七月、丁巳、平昌侯劉太を済川王と為す。

6 呂嬃の女は、将軍・営陵侯劉沢の妻なり。劉沢は高祖の従兄弟なり。斉人田生、之が為に大謁者張卿に遊説して曰く「呂氏の王と為るや、大臣、皆心服せざるなり。今、営陵侯劉沢は、劉氏の族中最も長ず。今、あなた太后に言いて之を王に封ぜしめば、呂氏の王位、益々固からん」と。張卿、宮中に入り太后に言う。太后、然りと為し、斉国の琅邪郡を割きて劉沢を琅邪王と為す。

7 趙王劉恢は趙国に移封された後、心の中で楽しまなかった。太后は呂産の娘を王后に立て、王后の随行の役人は皆呂氏の者で、専権して事を行い、ひそかに趙王を監視し、趙王は思いのままに行動することができなかった。趙王には寵愛する側室がおり、王后は人に命じて毒酒で彼女を殺させた。六月、趙王は悲しみと怒りに耐えかねて自殺した。太后はこれを聞き、趙王が一人の女のために宗廟の礼を廃したと考え、彼の後継ぎを廃した。

8 この時、呂氏の子弟が専権して事を行っていた。朱虚侯劉章は二十歳で、気力があり、劉氏の子弟が地位を得られないことを憤っていた。彼はかつて宮中に入り太后の宴に陪席し、太后は劉章に酒吏を命じた。劉章は自ら願い出て言った。「私は将軍の家の出です。どうか軍法に従って酒を進めることをお許しください。」太后は「よい」と言った。酒が盛り上がった時、劉章が「耕田の歌」を歌うことを願い出て、太后は許した。劉章は歌った。「深く耕し密に種を蒔き、苗は疎らに残す。同じ種でなければ、鍬で除き去る!」太后は黙っていた。しばらくして、呂氏の一人が酔って酒席を逃げ出した。劉章は追いかけ、剣を抜いて彼を殺して戻り、報告した。「一人が酒席を逃げ出しましたので、私は謹んで軍法を執行して殺しました!」太后の左右の人々は皆非常に驚いたが、すでに軍法に従って酒を進めることを許していたため、彼を罰することができず、宴を終えた。これ以降、呂氏の子弟は皆朱虚侯を恐れ、大臣たちも皆朱虚侯に従い、劉氏の勢力はこれによってさらに強まった。

陳平は呂氏の専権を憂慮したが、力を抑えるには足らず、災いが自分に及ぶのを恐れた。彼はかつて閑居して深く考え込んでいたところ、陸賈が訪ねてきて、直接座に着いたが、陳丞相は気づかなかった。陸賈は言った。「そんなに深く考え込んでいるのですか!」陳平は言った。「あなたは私が何を考えているか推測できますか?」陸賈は言った。「あなたはすでに富貴の極みに達し、何の欲望もありません。しかしなお憂いがあるとすれば、呂氏と幼い主君のことだけでしょう。」陳平は言った。「その通りです。ではどうすればよいでしょうか?」陸賈は言った。「天下が安定していれば、宰相に注目すべきです。天下が危険で乱れていれば、大将に注目すべきです。将と相が和やかに協調すれば、士人は帰服します。天下にたとえ変乱が起きても、権力は分散しません。国のために考えるならば、鍵はあなた方両人の手中にあります。私はしばしば太尉周勃にこのことを話そうと思いましたが、周勃は私と冗談を言い合い、私の言葉を軽んじました。あなたはどうして太尉と親しく交わり、深く結びつかないのですか?」そして陳平のために呂氏に対処するいくつかの策を計画した。陳平はその計略を用い、五百金で周勃に祝いの品を贈り、豊かな酒宴を準備した。太尉も同じように返礼した。二人は深く結びつき、呂氏の陰謀はますます衰えた。陳平は百人の奴婢、五十台の馬車、五百万の銭を陸賈に与え、飲食の費用とした。

9 太后は使者を遣わして代王劉恒に告げ、趙王に移封したいと伝えた。代王は辞退し、代地の辺境を守りたいと願った。太后はそこで兄の子呂禄を趙王に立て、呂禄の父である建成康侯呂釈之を追尊して趙昭王とした。

10 九月、燕霊王劉建が死去した。彼には美人生みの子がいたが、太后は人に命じてこれを殺させた。燕国は廃された。

11 隆慮侯周灶を派遣して兵を率いさせ、南越を攻撃させた。

高后八年(辛酉、紀元前一八〇年)

1 冬、十月、辛丑の日、呂粛王の子である東平侯呂通を燕王に封じ、呂通の弟呂荘を東平侯に封じた。

2 三月、太后は災いを除き福を求める儀式を行い、帰途、轍道を通りかかった時、青い犬のようなものが太后の腋の下を掴み、たちまち見えなくなった。これを占うと、「趙王如意のたたりである」と言われた。太后はこれにより腋の傷で病に臥せった。

太后は外孫の魯王張偃が幼くして孤弱であるため、夏、四月、丁酉の日、張敖の前妻の二人の子、張侈を新都侯に、張寿を楽昌侯に封じ、魯王を補佐させた。また、中大謁者張釈を建陵侯に封じた。彼がかつて太后に呂氏の子弟を王に封じるよう勧めたからであり、これをもって賞とした。

3 長江と漢水が氾濫し、一万余りの家が水没した。

4 秋、七月、太后の病は重くなり、そこで趙王呂禄に上將軍を命じて北軍を駐屯させ、呂王呂産に南軍を駐屯させた。太后は呂産と呂禄に戒めて言った。「呂氏が王に封じられたことについて、大臣たちは心の中で服していない。私がもし亡くなれば、皇帝は幼く、大臣たちはおそらく変乱を起こすだろう。あなたたちは必ず軍隊を掌握し、皇宮を守りなさい。決して葬儀に出てはならない。人に制されることのないように!」辛巳の日、太后は亡くなった。遺詔で宣言した。天下に大赦を行い、呂王呂産を相国とし、呂禄の娘を皇后とする。高后の葬儀の後、左丞相審食其を皇帝の太傅とした。

5 呂氏の一族は乱を起こそうとしたが、大臣の絳侯周勃、潁陰侯灌嬰らを恐れて、敢えて起こさなかった。朱虚侯劉章は呂禄の娘を妻としていたため、その陰謀を知り、ひそかに人を遣わして兄の斉王劉襄に告げ、斉王に兵を発して西進させ、朱虚侯と東牟侯劉興居が京中で内応し、呂氏一族を誅殺し、斉王を皇帝に立てようとした。斉王はそこで舅の驷鈞、郎中令祝午、中尉魏勃とひそかに兵を発することを謀った。斉国の丞相召平は従わなかった。八月、丙午の日、斉王は人を遣わして丞相を誅殺しようとした。丞相はこれを聞き、兵を発して王宮を包囲した。魏勃は召平を欺いて言った。「大王は兵を発しようとしていますが、朝廷の虎符による検証はありません。そして相君が王宮を包囲したのはもっともなことです。私が代わりに兵を率いて大王を守ることをお許しください。」召平は彼を信じた。魏勃は兵権を掌握した後、丞相府を包囲し、召平は自殺した。そこで斉王は驷鈞を丞相とし、魏勃を将軍とし、祝午を内史とし、国内の全ての兵力を徴発した。

斉王は祝午を東に遣わして、琅邪王劉澤を欺いて言った。「呂氏が乱を起こそうとしており、斉王は兵を発して西進し、彼らを誅殺しようとしています。斉王は自ら若く、軍事に詳しくないと考え、国全体を大王に委ねたいと願っています。大王は高帝の時代から将軍を務めてこられました。どうか大王は臨淄にお越しになり、斉王と大事を議してください。」琅邪王はこれを信じ、西に急いで馬を走らせて臨淄に至り、斉王に会った。斉王はこれに乗じて琅邪王を留め置き、祝午に琅邪国の軍隊を全て徴発させ、一括して統率させた。琅邪王は斉王に勧めて言った。「大王は高皇帝の嫡孫であり、皇帝に立てられるべきです。今、諸大臣は決断を下せずにいます。そして私、劉澤は劉氏の宗族の中で最も年長であり、大臣たちはもともと私が決断を下すのを待っています。今、大王が私を留め置いても何の益もありません。私を関中に入れて大事を議させる方が良いでしょう。」斉王はその言が正しいと考え、車を増やして琅邪王を送り出した。琅邪王が出発した後、斉王は兵を発して西に進み、済南を攻撃した。彼は諸侯王に書簡を送り、呂氏の罪状を列挙し、兵を起こして彼らを誅殺しようと述べた。

相国呂産らはこれを聞き、潁陰侯灌嬰に兵を率いさせて斉王を攻撃させた。灌嬰は滎陽に到着し、謀って言った。「呂氏の一族は関中に重兵を擁し、劉氏を害して自ら帝位に就こうとしている。今、私が斉の軍を破って帰還報告すれば、これは呂氏の資本を増やすことになる。」そこで彼は留まって滎陽に駐屯し、使者を遣わして斉王と諸侯に知らせ、彼らと連合し、呂氏が変乱を起こすのを待って、共に彼らを誅殺しようとした。斉王はこれを聞き、兵を退いて西の国境に戻り、約束を待った。

呂禄と呂産は乱を起こそうとしたが、内では絳侯や朱虚侯らを恐れ、外では斉と楚の軍を恐れ、また灌嬰が自分たちに背くのを心配した。彼らは灌嬰の軍が斉の軍と連合するのを待ってから起こそうとし、ためらって決断できなかった。

この時、済川王劉太、淮陽王劉武、常山王劉朝、および魯王張偃は皆幼く、封国に行かず、長安に住んでいた。趙王呂禄と梁王呂産はそれぞれ兵を率いて南軍と北軍に駐屯していた。これらは皆呂氏の者であった。列侯や群臣で自分の命を全うできる者は誰もいなかった。

太尉絳侯周勃は兵権を掌握することができなかった。曲周侯酈商は年老いて病がちであり、その子の酈寄は呂禄と関係が良かった。そこで絳侯は丞相陳平と謀り、人を遣わして酈商を拉致し、その子の酈寄に命じて呂禄を欺いて言わせた。「高帝と呂后は共に天下を平定し、劉氏が立てた九人の王と、呂氏が立てた三人の王は、いずれも大臣たちの議論を経たものであり、これらのことは既に諸侯に通告され、諸侯も皆妥当と考えています。今や太后は崩御され、皇帝は幼く、あなたは趙王の印綬を帯びながら、速やかに封国へ赴いて鎮守せず、上将軍として兵を率いてここに留まっているため、大臣や諸侯から疑われています。なぜ将軍の印綬を返上し、軍を太尉に委ね、また梁王に相国の印綬を返上させ、大臣たちと盟約を結んでから封国へ赴かないのですか。そうすれば、斉国の軍は必ず撤退し、大臣たちは安心し、あなたは千里の封国を高枕で治めることができ、これは万世の利となります。」呂禄はこれを信じ、その策を良いと考え、軍を太尉に委ねようとした。人を遣わして呂産や呂氏一族の長老たちに報告したところ、有利だと言う者もいれば、不利だと言う者もいて、計略は決まらなかった。

呂禄は酈寄を信頼し、常に彼と共に出かけて遊猟し、その叔母の呂媭の家を訪れた。呂媭は大いに怒って言った。「お前は将軍でありながら軍を放棄するとは、呂氏は今や身の置き所がなくなる!」そして全ての珠玉や宝器を堂の下に散乱させて言った。「他人のためにこれらのものを守ってはいけない!」

九月庚申の朝、平陽侯曹窋が御史大夫の職を代行し、相国呂産のもとを訪れて事を相談した。郎中令賈寿が斉国から使者として帰還し、機会に乗じて呂産を責めて言った。「王が早く封国へ赴かなかったため、今や行こうとしても、行けるでしょうか!」彼は灌嬰が斉・楚と連合して呂氏を誅殺しようとしている状況を詳しく呂産に告げ、かつ呂産に急いで宮中に入るよう促した。平陽侯曹窋はこれらの言葉を大体聞きつけ、急いで丞相と太尉に報告した。

太尉は北軍に入ろうとしたが、入れなかった。襄平侯紀通が皇帝の符節を掌管していたので、彼に符節を持たせて詔勅を偽装させ、太尉を北軍に送り込んだ。太尉はさらに酈寄と典客劉揭に命じて先に呂禄を説得させて言わせた。「皇帝は太尉に北軍の職務を代理させ、あなたに封国へ赴かせようとしています。速やかに将軍の印綬を返上して立ち去らねば、災いが起こります。」呂禄は酈寄が自分を欺かないと思い、印綬を解いて典客に渡し、軍を太尉に委ねた。太尉が北軍に到着した時、呂禄は既に去っていた。太尉は軍門に入り、軍中に令して言った。「呂氏を支持する者は右腕を露わし、劉氏を支持する者は左腕を露わせ!」軍中の将士は皆左腕を露わし、太尉はここに北軍を掌握した。しかし南軍がまだあった。丞相陳平はそこで朱虚侯劉章を召し出して太尉を補佐させ、太尉は朱虚侯に軍門を監守させ、平陽侯曹窋に衛尉に告げさせた。「相国呂産を殿門に入れてはならない。」

呂産は呂禄が既に北軍を去ったことを知らず、未央宮に入ろうとして乱を起こそうとした。殿門に至ったが入れず、そこを徘徊していた。平陽侯曹窋は勝てないことを恐れ、急いで太尉に報告した。太尉はなお呂氏に勝てないことを憂え、公然と誅殺を宣言するのをためらい、朱虚侯に言った。「急いで宮中に入り、皇帝を守護せよ!」朱虚侯は兵を請い、太尉は彼に千余名の兵を与えた。朱虚侯は未央宮門に入り、呂産が宮廷にいるのを見た。夕暮れに至り、呂産を攻撃し、呂産は逃走した。この時、大風が起こり、そのため呂産の従者たちは混乱し、敢えて抵抗する者もなく、朱虚侯は呂産を追跡し、郎中府の厠の中でこれを殺した。朱虚侯が呂産を殺した後、皇帝は謁者に符節を持たせて朱虚侯を慰労させた。朱虚侯は符節を奪おうとしたが、謁者は肯んじなかった。朱虚侯はそこで彼と同乗し、符節を証として疾駆し、長楽宮衛尉呂更始を斬った。その後、引き返し、疾駆して北軍に入り太尉に報告した。太尉は立ち上がり、朱虚侯に拝礼して賀して言った。「恐れていたのはただ呂産のみ。今やこれを殺した、天下は安定した!」そこで人を分遣して呂氏一族の男女を全て逮捕し、老若を問わず斬首した。辛酉の日、呂禄を逮捕して斬り、呂媭を鞭打ちで殺し、人を遣わして燕王呂通を殺し、魯王張偃を廃した。戊辰の日、済川王劉太を改めて梁王とした。朱虚侯劉章を遣わして呂氏誅殺のことを斉王に告げ、兵を撤退させた。

灌嬰は滎陽に駐屯し、魏勃が元々斉王に兵を起こさせるよう唆した者であると聞き、使者を遣わして魏勃を召し出し、責問した。魏勃は言った。「火事の家で、どうして長輩に先に告げてから救火する暇がありましょうか!」そして退いて立ち、両脚が震え、怖気づいて言葉も出せない様子で、ついに他の言葉を言わなかった。灌将軍はしばらく彼をよく見て、笑って言った。「人々は魏勃が勇敢だと言うが、ただの狂妄な凡庸な者に過ぎず、何ができるというのか!」そこで魏勃を見逃した。灌嬰の軍も滎陽から撤退した。

班固の評論:孝文帝の時、天下の人々は皆、酈寄が友人を売ったと言った。友人を売るとは、利益を見て義を忘れることを指す。しかし酈寄の父は功臣であり、また人に拉致されたのであり、呂禄を打ち砕いて国家を安定させたことは、道義から言えば、君主と父を保全することも可能であった。

6 諸大臣は共に密かに謀って言った。「少帝および梁王・淮陽王・常山王は、いずれも孝恵皇帝の真の子ではない。呂后は計略を用いて他人の子と偽り、その母を殺し、彼らを後宮で養育し、孝恵皇帝に彼らを子とさせ、皇帝や諸侯王に立てて、呂氏の勢力を強めた。今や呂氏は全て滅ぼされたが、これらの立てられた者たちが成長して権力を握れば、我々は皆族滅される。諸侯王の中で最も賢明な者を選んで皇帝に立てるのが良い。」ある者が言った。「斉王は高皇帝の嫡長孫であり、皇帝に立てるべきである。」大臣たちは皆言った。「呂氏は外戚として凶悪であり、宗廟を危うくし、功臣を乱した。今や斉王の舅の驷鈞は、虎のように凶暴な者である。もし斉王を皇帝に立てれば、また呂氏の轍を踏むことになる。代王は今や高皇帝の在世の子の中で最も年長であり、仁孝で寛厚であり、太后薄氏の一家は謹慎で善良である。しかも年長者を立てるのは本来情理に適っており、まして代王は仁孝で天下に名高い!」そこで共に密かに人を遣わして代王を召し寄せた。

代王は側近の者たちに意見を求めると、郎中令の張武らが言った。「漢の朝廷の大臣たちは、皆、かつて高帝の麾下にあった大将たちで、軍務に精通し、多くは謀略や欺瞞の術を持っております。彼らの意図は、決して今の状況だけで終わるものではなく、ただ高帝や呂太后の威厳を恐れていたに過ぎません。今や呂氏の一族を誅殺し、都では大虐殺が行われたばかりです。彼らは大王を迎える名目を掲げていますが、実際には信頼できません。大王は病気と称してお出ましにならず、情勢の変化を見極められるのが宜しいかと存じます。」中尉の宋昌が進み出て言った。「群臣の意見は皆、誤りでございます。秦が道を失った時、諸侯や豪傑が同時に蜂起し、自ら天下を取れると考えた者は数え切れませんでした。しかし、ついに天子の位に就いたのは劉氏であり、天下の人々は他の者には望みを断ち切りました。これが第一の点です。高帝は子弟を王に封じ、その領地は犬の牙が交錯するように互いに制約し合い、いわゆる磐石のように堅固な宗族を築き、天下の人々はその強盛に従いました。これが第二の点です。漢が建国されてからは、秦の苛政を廃し、法令を簡素にし、恩恵と徳政を施したため、人々は皆、自ら安んじ、動揺させることは難しくなりました。これが第三の点です。呂太后の威厳をもって、呂氏の三人を王に立て、大権を一手に掌握し専制しました。しかし、太尉(周勃)が一つの符節を持って北軍に入り一声叫ぶと、兵士たちは皆、左腕を露出して劉氏を支持し、呂氏に背き、ついにはこれを滅ぼしました。これは天が授けたものであり、人力で成し得るものではございません。今、大臣たちがたとえ乱を起こそうとしても、百姓は彼らに従わないでしょう。その党与が一つにまとまることなどあり得ましょうか。今や朝廷の内には朱虚侯(劉章)や東牟侯(劉興居)のような親族がおり、外には呉、楚、淮陽、琅邪、斉、代といった強大な諸侯国が控えております。今、高帝の子としては、淮南王と大王だけが残っております。大王はまた年長で、賢明、聖徳、仁愛、孝行の名声が天下に広まっております。それゆえ、大臣たちは天下の人心に従い、大王を迎えようとしているのです。大王はご疑念を抱かれるべきではございません。」代王は太后に報告し、協議した。決断がつかず、そこで占いをすると、亀の甲羅に大横の兆が現れた。占いの解釈はこうであった。「大横の模様は明らかである。我は天王となり、夏啓のように基業を光大せん。」代王は言った。「我はもとより王である。何の王がさらにあるというのか。」占いの者が言った。「申し上げた天王とは、天子のことです。」そこで代王は太后の弟である薄昭を遣わして、絳侯(周勃)に会見させた。絳侯らは、代王を迎えようとする意図を詳しく薄昭に説明した。薄昭が帰って報告した。「確かに信頼でき、何ら疑うべきことはございません。」代王はそこで宋昌に笑いかけて言った。「確かにあなたの言う通りであった。」そこで代王は宋昌に命じて同じ車に乗らせ、張武ら六人は駅伝の車に乗り、共に長安へ向かった。高陵に着くと、止まって休息し、宋昌に先に馬で長安に行き、状況を視察させた。宋昌は渭橋に着くと、丞相以下の官たちが皆、出迎えた。宋昌が帰って報告した。代王は馬で渭橋に到着すると、群臣は跪拝し臣と称した。代王は車を降りて拝礼を返した。太尉の周勃が進み出て言った。「ひそかに私的なお話を願いたい。」宋昌が言った。「公事であれば、公に申されよ。私事であれば、王者に私事はない。」太尉はそこで跪いて、天子の印璽と符節を差し出した。代王は辞退して言った。「代王の邸で再び協議しよう。」後九月、己酉日(月末)、代王は長安に到着し、代王の邸に宿泊した。群臣は邸に従った。丞相の陳平らが再び跪拝して言った。「劉弘らは皆、孝恵帝の子ではなく、宗廟を継ぐべき者ではございません。大王は高帝の長子であり、後継ぎにふさわしい方でいらっしゃいます。どうか大王が天子の位にお就きくださいますよう。」代王は西を向いて三度辞退し、南を向いて二度辞退した後、ついに天子の位に即いた。群臣は礼儀に従って順に侍立した。東牟侯の劉興居が言った。「呂氏を誅殺した際、私は功績がございません。どうか宮中の清掃をお許しください。」そこで太僕の汝陰侯滕公(夏侯嬰)と共に宮中に入り、少帝の前に進み出て言った。「あなたは劉氏の子ではなく、皇帝と立つべき者ではない。」そこで振り返り、手で左右の戟を持った衛兵に武器を置いて去るよう合図した。数人が武器を置こうとしなかったので、宦官令の張釋が彼らに告げると、彼らも武器を置いた。滕公はそこで天子の車駕を呼び寄せ、少帝を乗せて出て行った。少帝が言った。「私をどこへ連れて行こうとするのか。」滕公が言った。「宮の外に住まわせるのだ。」少府に安置した。そこで天子的な法駕を用いて代王の邸に迎えに行き、報告して言った。「宮中は謹んで清掃いたしました。」代王はその夜、未央宮に入った。十人の謁者が戟を持って端門を守り、「天子は中におられる。お前は何者だ、入ろうとするとは。」と言った。代王はそこで太尉に告げた。太尉が行って説明すると、十人の謁者は皆、武器を置いて去り、代王はついに入った。夜になって、宋昌を衛将軍に任じ、南北二軍を撫慰させた。張武を郎中令に任じ、殿中を巡察させた。関係する役所はそれぞれ、邸で梁王、淮陽王、恒山王、そして少帝を誅殺した。文帝は前殿に戻って座り、夜になって詔書を下し、天下に大赦を行った。

太宗孝文皇帝上

文帝前元年(壬戌年、紀元前179年)

1 冬、十月、庚戌日、琅邪王劉澤を改めて燕王に封じた。趙幽王の子である劉遂を趙王に封じた。

2 陳平が病と称して辞職を願い出た。文帝がその理由を尋ねると、陳平は言った。「高帝の時には、周勃の功績は私に及びませんでした。しかし呂氏を誅殺した時には、私の功績も周勃に及びません。どうか右丞相の位を周勃に譲らせてください。」十一月、辛巳日、文帝は陳平を左丞相に、太尉周勃を右丞相に、大将軍灌嬰を太尉に改めて任命した。呂氏によって奪われた斉、楚の旧領は、全てそれぞれに返還された。

3 呂氏一族を誅殺した功績を評定し、右丞相周勃以下、増加する封戸や賜与する黄金にそれぞれ等差を設けた。絳侯(周勃)は退朝後、早足で歩き出し、その様子はたいそう得意げであった。文帝は彼に対して恭しく、しばしばその後ろ姿を見送った。郎中で安陵人の袁盎が進言した。「呂氏が悖逆したため、大臣たちが共にこれを誅殺しました。その時、丞相は太尉であり、兵権を掌握し、ちょうど成功の機会に巡り合ったに過ぎません。今、丞相は君主に対して傲慢な様子を見せているかのようであり、陛下は却って謙譲の態度を示しておられます。臣と君との間に礼節を失うことがあってはなりません。私はひそかに、陛下のなさりようは宜しくないと考えます。」その後、朝に臨む時、文帝はより一層厳粛になり、丞相もまたますます畏敬するようになった。

4 十二月、詔を下して言った。「法令は治国の基準である。今、法を犯した者は既に罪に定められているのに、罪のない父母、妻子、兄弟姉妹を連座させ、また彼らを奴婢として収めるのは、私は賛成しない。奴婢として収めることや、諸々の連座の法令を廃止せよ。」

5 春、正月、関係する役所が早急に太子を立てるよう請うた。文帝は言った。「私は徳が十分でない。たとえ広く天下の賢明で聖徳ある者を求めて天下を譲ることができなくとも、ましてや予め太子を立てるなどと言うのは、私の不徳を重ねるものである。しばらく差し控えよ。」関係する役所が言った。「予め太子を立てるのは、宗廟と社稷を重んじ、天下を忘れないためでございます。」文帝は言った。「楚王は私の叔父であり、呉王は私の兄であり、淮南王は私の弟である。これらは予め立てられた者ではないのか。今、彼らを選ばずして、必ずや自分の子を立てると言うのは、人々が私に賢明で徳ある者を忘れ、ただ自分の子だけを偏愛していると思うであろう。これは天下を憂える者のやり方ではない。」関係する役所は執拗に請うて言った。「古の殷や周が国を建て、太平を安定させて千年余りも続いたのは、まさにこの方法を用いたからでございます。後継ぎを立てるに必ず子を用いるというのは、この伝統がすでに久しいことでございます。高帝が天下を平定して太祖となり、子孫が代々絶えることなく継いでまいりました。今、立てるべき者を放棄して、他の諸侯や宗室から選ぶというのは、高帝のお心ではございません。再び協議するのは適切ではございません。陛下の子である劉啓が最も年長で、純厚で仁慈に富んでおります。どうか彼を太子に立てられますよう。」文帝はついにこれを許した。

6 三月、太子の母である竇氏を皇后に立てた。皇后は清河郡観津県の人である。彼女には弟の竇広国(字は少君)がおり、幼い頃に拐かされ、十数軒の家を転々としていた。竇后が皇后に立てられたと聞き、上書して自らの状況を述べた。文帝は彼を召し出して問いただし、検証して実情を得たので、田地・住宅・金銭を厚く賜り、兄の竇長君と共に長安に住まわせた。絳侯(周勃)や灌将軍(灌嬰)らは言った。「我々が死なずに済んでいるのは、命運がこの二人に懸かっているからだ。この二人は身分が低いので、彼らのために師傅や賓客を選ばねばならない。さもなければ、再び呂氏のようになり、大事となるであろう!」そこで節操や品行のある者を選んで彼らと交わらせた。竇長君と竇少君はこれ以降、謙遜で退くことを知る君子となり、貴い立場にあることから驕り高ぶって人に接することはなかった。

7 詔を下し、鰥夫・寡婦・孤児・独居老人および貧窮の人々を救済・貸与した。また命じて言う。「八十歳以上の者には、毎月、米・肉・酒を賜う。九十歳以上には、さらに帛や絮を加えて賜う。賜うべき物は官府が米穀を支給するものとし、県の長吏が自ら確認し、県丞または県尉が届けること。九十歳未満の者は、郷官の嗇夫や令史が届けること。二千石の官員は都吏を派遣して巡察し、不適任な者を監察せよ。」

8 楚元王劉交が死去した。

9 夏、四月、斉国と楚国で地震が起こり、二十九の山が同じ日に崩壊し、大水が決壊して氾濫した。

10 当時、ある者が千里馬を献上した。文帝は言った。「天子の出行には、鸞旗が前にあり、属車が後に続き、吉日を選んで一日に五十里を行き、軍の行軍は一日に三十里である。私が千里馬に乗って、独りで先にどこへ行くというのか。」そこで馬を返し、路銀を与えた。そして詔を下して言った。「私は献上を受け付けない。各地に命じて、貢物を求めて献上することを禁ずる。」

11 文帝は既に天下に恩恵を施し、諸侯や四方の夷狄、遠近の者たちが皆、喜び和やかになった。そこで代国から長安に来た功績を論じ、宋昌を壮武侯に封じた。

12 文帝はますます国家の政務に習熟していった。朝会の際、右丞相の周勃に問うた。「天下で一年に裁決される事件の数はどれほどか。」周勃は謝罪して知らないと答えた。文帝はさらに問う。「一年の銭穀の収支はどれほどか。」周勃はまた謝罪して知らないと答え、恐れ慚じ、汗が背中を流れた。文帝は左丞相の陳平に問うた。陳平は言った。「主管の官員がおります。」文帝が問う。「主管の官員とは誰か。」陳平が答えて言う。「陛下がもし裁決の事件をお尋ねならば、廷尉に問われるのがよろしい。銭穀の収支ならば、治粟内史に問われるのがよろしい。」文帝が言う。「もしそれぞれに主管の官員がいるならば、ではあなたが主管するのは何か。」陳平は謝罪して言う。「陛下が私を不肖と見なさず、宰相の任に就けられました。宰相の職責は、上では天子を輔佐し、陰陽を調和し、四時に順応すること。下では万物をそれぞれの場所に収めること。外では四方の夷狄や諸侯を鎮め撫でること。内では百姓を親しみ従わせ、卿大夫がそれぞれその職務に堪えるようにすることにございます。」文帝はそこで「良い」と褒めた。右丞相は大いに恥じ入り、退出してから陳平を責めて言った。「あなたは普段、どうして私に答え方を教えなかったのか。」陳平は笑って言った。「あなたは宰相の地位にありながら、自分の職責をご存じないのですか。まして陛下がもし長安城中の盗賊の数を尋ねられたら、あなたは無理に答えようとなさいますか。」こうして絳侯周勃は自分の才能が陳平に遠く及ばないことを知った。間もなく、ある者が周勃に勧めて言った。「あなたは既に諸呂を誅滅し、代王を帝に擁立した。その威名は天下に轟いている。そしてあなたは厚い賞賜を受け、尊い地位にある。長くこのままでいれば、災いがあなたの身に降りかかるでしょう。」周勃も自身の危うさを感じ、そこで病と称して辞職し、相印を返還するよう願い出た。文帝はこれを許した。秋、八月辛未の日、右丞相周勃は免職となり、左丞相陳平が単独で丞相となった。

13 当初、隆慮侯周灶が南越を攻めたが、暑さと湿気に遭い、兵士の間に疫病が流行し、軍は山嶺を越えられなかった。一年余りが過ぎ、高后が死去したため、兵を撤収した。趙佗はそこで軍の威勢と財物を用いて閩越・西甌・駱越を賄賂で従わせ、臣従させた。南越は東西に一万余里に及び、趙佗は黄屋車に乗り、左纛の旗を立て、自ら皇帝と称し、漢朝と同等となった。

文帝はそこで趙佗のために真定にある父母の墳墓に守邑を設け、毎年時に合わせて祭祀を行わせた。彼の兄弟を召し出し、高官に封じて厚い礼を賜り恩寵を示した。また陸賈を南越に使者として遣わし、趙佗に書簡を賜って言った。「朕は高皇帝の側室の子として生まれ、外地に派遣され、北方の代地で藩国を守っていた。道のりは遠く、情報は途絶え、朕は愚鈍で質朴であり、未だにあなたに手紙を送ったことがなかった。高皇帝が崩御され、孝惠皇帝が崩御された。高后が自ら臨朝して政を聴かれたが、不幸にして病に倒れ、諸呂がこれに乗じて乱を起こした。功臣たちの力に頼り、既に彼らを誅滅し終えた。朕は王・侯・官吏たちが擁立を放棄しなかったため、やむを得ず位に就いた。今や朕は即位した。先ごろ、あなたが将軍隆慮侯に書簡を送り、自分の親兄弟を探し、長沙の二人の将軍を罷免するよう求めたと聞く。朕はあなたの書簡に従い、将軍博陽侯を罷免した。あなたの真定にある親兄弟には、既に使者を遣わして慰問し、あなたの先人の墳墓を修繕させた。先日、あなたが辺境に兵を発し、絶えず禍害を起こしていると聞いた。当時、長沙は苦難に遭い、南郡は特に深刻であった。たとえあなたの南越国にとって、独りで利益を得ることができようか。必ずや士卒を多く殺し、良将・良吏を傷つけ、他人の妻を寡婦にし、他人の子を孤児にし、他人の父母を孤独にするだろう。一つの地を得て十の地を失う。朕はそのようなことを忍びない。朕は両国の犬牙のように入り組んだ境界を定めようと思い、官吏に問うたところ、官吏は言った。『これは高皇帝が長沙の土地を隔てるために定められたものです。』朕は勝手に変えることはできない。今、あなたの土地を得ても、国を大きくするには足らず、あなたの財を得ても、国を富ませるには足らない。五嶺以南は、あなたが自ら治めるがよい。しかしながら、あなたは自ら皇帝と称している。二人の皇帝が並び立つが、使者の往来が一つもなく、これすなわち争いである。争いながら譲らないのは、仁徳ある者の為すところではない。あなたと共に以前の悪意を捨て、今後は使者を通わせ、昔のように通好したいと願う。」

陸賈が南越に到着すると、南越王の趙佗は非常に恐れ、頭を叩いて謝罪し、漢朝の明らかな詔に従い、長く藩臣として仕え、貢物を進呈し職責を果たすことを表明した。そこで国内に命じて言った。「我聞く、二雄は並び立つこと能わず、二賢は同時に存在すること能わずと。漢朝の皇帝は賢明なる天子である。今より以後、帝制、黄屋車、左纛旗を廃止せよ。」そして書をしたためて言った。「蛮夷の大長、老夫臣佗、死を冒して再拝し、皇帝陛下に書を上呈す。老夫は南越の旧吏なり。高皇帝、幸いに臣佗に印綬を賜い、南越王に封ぜり。孝惠皇帝即位し、義として忍びて絶たず、老夫に賜うところの物、甚だ厚かりき。高后政を執り、蛮夷を区別し、令して曰く、『蛮夷南越に金、鉄、農具、馬、牛、羊を与うることなかれ。与うるとも、ただ牡のみを与え、牝を与うることなかれ』と。老夫、地僻遠にして、馬、牛、羊、すでに老いたり。自ら祭祀の足らざるを思い、死罪に当たると為し、内史藩、中尉高、御史平を遣わし、三批にわたり上書して謝罪せしむるも、いずれも返らず。また風聞す、老夫の父母の墳墓すでに破壊され、兄弟宗族すでに誅殺されしと。吏ども相議して曰く、『今、内に漢朝に振るうこと能わず、外に自ら地位を高むること能わず』と。故に帝号を改め、自らの国内にて帝と称すれども、敢えて天下を危害せず。高后これを聞き、大いに怒り、南越の封号を削り、使者の往来を絶つ。老夫、私かに疑う、是れ長沙王の讒言して我を陥れんとするものなりと。故に兵を発してその辺境を攻む。老夫、越地に住むこと四十九年、今や孫を抱くに至る。然れども早く起き遅く寝し、寝も安からず、食も味わわず、目は美色を見ず、耳は鐘鼓の音楽を聴かず。是れ漢朝に侍る能わざるが故なり。今、陛下幸いに哀れみ、我が旧の封号を復し、往時の如く漢朝と通使せしむ。老夫、死すとも、尸骨腐らず。我、号を改め、敢えて再び帝と称せじ。」

14 斉の哀王劉襄、薨ず。

15 文帝、河南郡守の呉公の治政の績が天下第一なりと聞き、召して入朝せしめ廷尉と為す。呉公、洛陽人の賈誼を推薦す。文帝、賈誼を召見し、博士に任命す。時に賈誼二十余歳。文帝、その文辞の広博なるを愛し、一年の内に、破格して太中大夫に抜擢す。賈誼、請う、暦法を改訂し、服色を変更し、官名を定め、礼楽を興し、以て漢朝の制度を建立し、秦朝の法令を更改せんと。文帝、謙譲して、未だ及ばず。

文帝前二年(癸亥、紀元前一七八年)

1 冬、十月、曲逆献侯陳平、薨ず。

2 文帝、詔して列侯に命じ、各々自らの封国に帰らしむ。官職に在る者及び詔により特許されて留まる者は、太子をして封国に遣わすべし。

3 十一月乙亥、周勃、再び丞相と為る。

4 癸卯、月の晦、日食有り。文帝、詔して曰く、「群臣、みな朕が過失及び朕の聞き見る所の足らざるを思い、請う、朕に告げよ。また賢良、方正、能く直言極諫する者を推挙し、以て朕の不足を匡正せよ。」と。乃ちそれぞれ各級の官吏に敕し、必ず徭役の費用を減らし以て百姓を便にし、衛将軍を罷めよ。太僕の現有する馬匹はただ用に足るもののみを留め、其余は皆駅伝に給すべし。

穎陰侯の騎兵賈山、書を上りて治乱の道を論じて曰く、

「臣聞く、雷霆に撃たるる者は、摧かれ折れざること無く、万鈞に圧せらるる者は、砕かれ滅せざること無しと。今、人主の威厳、雷霆に止まらず、その勢の重き、万鈞に止まらず。道を開きて諫言を求め、色を和らげて受け、言を用い、進言する者を顕揚するとも、士なお恐れて敢えて尽くさず。況んや欲を縦にし、暴虐を恣にし、己が過失を聞くを悪む者をや!威を以て之を震えしめ、勢を以て之を圧すとも、たとえ堯舜の智慧、孟賁の勇力有りとも、豈に摧かれざらんや!是くの如くにして、人主は己が過失を聞くこと能わず、国危うし。

昔、周室、約千八百の諸侯国有り。九州の百姓を以て千八百の君を養い、君は余財有り、百姓は余力有り、故に頌歌興る。秦始皇、千八百国の百姓を以て一人の身を養い、百姓、力竭きてなおその徭役に堪えず、財尽きてなおその需めに足らず。ただ一人の身のみ、其の自ら養う所はただ馳騁射猟の楽しみのみなるに、天下供給する能わず。秦始皇、自ら其の功徳を計り、後代世々窮まり無かるべきを以てす。然るに其の死後、僅かに数月にして、天下四方より之を攻め、宗廟滅びぬ。秦始皇、滅亡の中に在りて自ら知らず。何をもってか?天下、敢えて告ぐる者無きなり。敢えて告ぐる者無き所以の者は、また何をもってか?養老の道を欠き、輔弼の臣無く、朝政を非議する者を退け、直言を進むる士を殺す。故に阿諛苟合する者、其の徳を比べて堯舜より賢しと為し、其の功績を考べて湯武より高しと為す。天下すでに崩潰するも、之を告ぐる者無し。

今、陛下、天下をして賢良方正の士を推挙せしむ。天下、欣欣然として曰く、『将に堯舜の道、三王の功業を興さんとす』と。天下の士、精誠純白にして美政を承けんと欲せざる莫し。今、方正の士、みな朝廷に在り。また其の中の賢能なる者を選び、常侍、諸吏と為し、与に馳騁射猟し、一日に二、三回出づ。臣、恐る、朝廷の懈り、百官の政を荒らすことを。陛下即位し、自ら勉めて以て天下を厚うし、用度を節し百姓を愛し、獄を平らかにし刑を寛うす。天下、喜ばざる莫し。臣聞く、山東の吏、詔令を頒ち、百姓たとえ老羸廃疾の者も、杖を拄きて往きて令を聴き、願わくば暫くも生きて死なず、徳政教化の成るを見んと欲すと。今、功業、未だ定まり、名、未だ顕れず、四方、風に仰ぎ慕い附く。豪傑の臣、方正の士、日に猟を共にし、兎を逐い、狐を捕え、以て大業を損ない、天下の望みを絶つ。臣、私かに此を痛む。古の大臣、宴飲遊楽に与らず。皆、其の本職に専念し節操を高むることを得せしむ。然らば則ち群臣、敢えて身を正し行いを修め、心を尽くし力を竭して大綱に合せざる者無し。士、家に在りて行いを修め、而して天子の朝廷にて敗らる。臣、私かに其の為に悲しむ。陛下、群臣と宴飲遊楽するも、大臣、方正の士と朝廷に在りて国事を議す。遊楽は其の楽しみを失わず、朝は其の礼を失わず、議は其の計策を失わず。是れ治国の大事なり。」

文帝、其の言を嘉し、之を採用す。

文帝、朝に臨む毎に、郎官、従官、奏疏を上呈すれば、未だ曾て車駕を停めて其の意見を受けざること無し。意見、用う可からざれば之を置き、用う可ければ之を採用し、未だ曾て善しと称せざること無し。

文帝、霸陵より山に登り、西に向かいて馬を馳せ陡坡を下らんと欲す。中郎将袁盎、馬を騎り、文帝の車駕と並行し、手を伸べて馬の轡を掴む。文帝曰く、「将軍、恐れたりや?」袁盎曰く、「臣聞く、『家に千金有る者は、屋の下に坐せず』と。聖明の君主、危険に身を置かず、幸に倖せず。今、陛下、六駿に駕し飛馳して険しき坂を下る。万一、馬驚き車壊るれば、陛下、縦え自ら軽んずとも、何を以て高祖の廟及び太后に答えんや!」文帝、乃ち止む。

文帝の寵愛する慎夫人は、宮中でしばしば皇后と同席して座っていた。郎中署に至って座につく際、袁盎は慎夫人の座席を後方に引き下げた。慎夫人は怒り、座ろうとしなかった。文帝もまた怒り、立ち上がって宮中に帰った。そこで袁盎は進み出て諫めて言った。「私は『尊卑に次序あれば、上下和す』と聞いております。今、陛下はすでに皇后を立てられました。慎夫人はただの妾に過ぎません。妾と主とがどうして同席して座ることができましょうか! ましてや陛下が彼女を寵愛されるならば、厚く賞賜されるのがよろしい。陛下がこのようにされるのは、かえって慎夫人を害することになるのです。陛下は『人彘』の惨禍をご覧にならなかったのでしょうか!」そこで文帝はようやく喜び、慎夫人を召してこのことを告げた。慎夫人は袁盎に黄金五十斤を賜った。

賈誼が文帝に諫めて言った。

「『管子』に曰く『倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る』と。人民の衣食足りずして治まること、古より今に至るまで、未だ聞いたことがありません。古人は言いました『一夫耕さざれば、或いは之に由りて飢うる者あり。一女織らざれば、或いは之に由りて寒ゆる者あり』と。物を生み出すには時節の制約があり、それを用いるには限度がありません。そうであれば物資は必ず尽き果てます。古の天下を治める者は、極めて細やかに極めて周密にしたがゆえに、その蓄積は頼るに足るものでした。今、農業を棄てて工商に趨く者が多い。これ、天下の最大の害です! 奢侈の風俗が日に日に増長する。これ、天下の最大の患です! 害と患とが公然と盛行して、それを止める者がなく、国家の命運が覆滅しようとして、それを救う者がいません。生産する者は少なく、消費する者は多い。天下の財産、どうして枯渇せずにおられましょうか。

漢が興って以来、四十年に近くなります。公と私の蓄積は、なお痛ましい限りです。農時に遅れて雨が降らなければ、民は恐れおののきます。年が悪くて収穫がなければ、爵位や子女を売ってしまおうと請い求めます。これらのことはすでに耳に入っております。天下がここまで危うくなっているのに、どうして陛下が驚かれないことがありましょうか!

世には時に飢饉があり時に豊作がある。これは自然の道理です。夏の禹、殷の湯もこれを被りました。もし不幸にして、方円二、三千里の大旱が起こったならば、国は何をもって救済しましょう。突然、辺境に緊急の事態が生じ、数十百万の軍隊に対して、国は何をもってこれを供給しましょう。戦争と旱害が相重なり、天下の物資は極度に欠乏し、勇力ある者は徒党を組んで横行し、疲れ老いた者は互いに子を換えてその骨を食らいます。政事が完全に通じておらず、遠方に僭越を図る者がいれば、共に起ち上がって争奪するでしょう。その時に至って慌ててこれを図ろうとしても、間に合うでしょうか! 蓄積と備えは、天下の存亡の鍵です。もし食糧が多く財物が余れば、何を為しても成功しないことはありません! これを以て攻めれば取ることができ、守れば固くすることができ、戦えば勝つことができ、敵を撫で遠方を招くに、何を招いても来ないことはありません。

今、民を駆りて農業に帰し、全てを本に付着させましょう。天下の人々をして各自その労働に依って生計を立てさせ、工商や遊蕩に従事する者をして農耕に転じさせれば、蓄積は充実し、民は安居楽業します。そもそも天下を富み安定させることができるのに、かえってこのような恐るべき状況を生み出しているとは、私はひそかに陛下のために惜しみます!」

文帝は賈誼の言葉に感じ入り、春正月丁亥の日、詔を下して藉田を設け、文帝自ら耕して天下の民衆に率先垂範した。

三月、関係の官庁が皇子を諸侯王に立てるよう請願した。詔を下して、まず趙幽王の末子である劉辟彊を河間王とし、朱虚侯劉章を城陽王とし、東牟侯劉興居を済北王とした。その後、皇子の劉武を代王とし、劉参を太原王とし、劉揖を梁王とした。

五月、詔を下して言った。「古の天下を治める者は、朝廷に善言を進める旌旗と、政治を批判する木牌を設けて、治国の道を暢達にし、諫言する者を招き寄せた。今、法令の中に誹謗や妖言の罪がある。これにより群臣は思い切って進言することができず、皇上は自らの過ちを知る由もない。どうして遠方の賢良の士を招き寄せることができようか! これらの法令を廃止せよ。」

九月、詔を下して言った。「農業は天下の根本であり、人民が生存して頼るところである。而るに人民の中には本に務めず末に従う者があり、故に生計を維持することができない。朕はこの状況を憂慮する。故に今年、自ら群臣を率いて農耕を率先し、民衆を励ました。特に天下の民衆に今年の田租の半分を賜う。」

燕敬王劉沢が薨去した。