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漢紀

漢紀九

第 9 篇

建元元年(辛丑、紀元前140年)

1 冬十月、賢良方正・直言極諫の士を推挙する詔を下し、帝みずから策問して古今の治国の道を問うた。対策した者は百余人。

広川の董仲舒が答えて言う。

「道とは、治に至る道であり、仁・義・礼・楽は、いずれもその道具であります。ゆえに聖王が没した後も、子孫が数百年にわたり長く安寧を保つことができたのは、すべて礼楽教化の効能であります。君主で安定した生存を望まない者はおりませんが、政治が乱れ国が危うくなる者は多い。これは任用する者が適切でなく、歩む道が正しくないため、政事が日々に損なわれるからであります。周の道は幽王・厲王の時に衰えましたが、道そのものが消え去ったのではなく、幽王・厲王がそれに従わなかったのであります。宣王に至り、先王の徳を追慕し、停滞した事業を振興し、欠けたるを補い、文王・武王の功業を顕彰したところ、周の道は新たに復興しました。これは朝晩怠らず善を行うことによってもたらされたものであります。

『孔子は言いました、「人は道を弘めるものであり、道が人を弘めるのではない」と。ゆえに治乱興廃は君主自身にかかっており、上天が天命を下したからといって挽回できないわけではありません。君主の執り行うところが悖逆・荒唐であれば、統治の綱紀を失うのであります。君主たる者は、みずからの心身を正して朝廷を正し、朝廷を正して百官を正し、百官を正して万民を正し、万民を正して四方を正すべきであります。四方が正されれば、遠近とも正に帰さない者はなく、邪気がその間に干渉することはありません。かくして陰陽は調和し、風雨は時を得、万物は和し、万民は繁殖し、さまざまな福運や招来すべき瑞祥はことごとく降り、王道は完成するのであります!

『孔子は言いました、「鳳凰来たらず、河図出でず、吾は已んぬるかな!」と。これは、本来これらの瑞祥を招き得るのに、みずからが卑賎で実現できないことを悲しんだのであります。今、陛下は天子として貴く、四海を富有し、瑞祥を招き得る地位にあり、瑞祥を招き得る権勢を有し、また瑞祥を招き得る資質を備えておられます。行いは高く恩徳は厚く、智慧は明らかで心意は美しく、民を愛し士を好み、仁義の主と称することができます。しかるに天地が応ぜず、美好な瑞祥が到来しないのは、なぜでありましょうか。すべて教化が確立されず、万民が正されていないからであります。万民が利益を追うのは、水が下へ流れるようなもので、教化を堤防としなければ、これを防ぐことはできません。古の王者はこの道理をわきまえていたので、南面して天下を治めるにあたり、教化を最優先としない者はおりませんでした。太学を設けて国都で教育を行い、庠序を設けて郷邑で教化を行い、仁によって民を潤し、義によって民を磨き、礼によって民を縛りました。ゆえに刑罰は軽くても禁令を犯す者はなく、教化が行われて習俗が美しくなったからであります。聖王が乱世を継ぐと、乱世の痕跡を掃討し尽くし、教化を改めて修め、これを推奨して興しました。教化がすでに明らかになり、習俗がすでに形成されると、子孫がこれに従い、五、六百年経ってもなお損なわれませんでした。秦は先聖の道を滅ぼし、仮初めの統治を行ったので、建国十四年で滅び、その遺毒・余烈は今日に至るまで消えず、習俗は浅薄で悪質となり、人民は凶暴で頑迷となり、抵触・抗拒し、ここまでひどく損なわれました。私はひそかに譬えます。琴瑟が調和しないときは、ひどければ弦を解き張り直して初めて奏でられます。施政が行き詰まれば、ひどければ変革して改めることで初めて治まります。ゆえに漢が天下を得て以来、常に治めようとしながら、今日に至るまでうまく治まらないのは、変革すべきときに変革しなかったからであります。

『私は聞いております。聖王が天下を治めるには、幼少のときに学ばせ、成長したら才能に応じて官を授け、爵禄によって徳行を養い、刑罰によって悪行を戒めました。ゆえに人民は礼儀をわきまえ、上位を冒すことを恥じました。武王は大義を行い、残賊を平定し、周公は礼楽を制作して飾りました。成王・康王の盛時に至り、獄舎は四十余年も空になりました。これも教化の浸潤と仁義の流布によるものであり、単に肌を傷つける効果だけではありえません。秦に至ってはそうではなく、申不害・商鞅の術を師とし、韓非の説を行い、帝王の道を憎み、貪欲を習俗とし、名のみを求めて実を考察せず、善を行う者が必ずしも禍を免れず、悪を行う者が必ずしも刑を受けませんでした。ゆえに百官は虚辞を飾って実を顧みず、表面上は君に仕える礼節がありながら、内心には背く思いがあり、虚偽を作り欺瞞を飾り、利益を追って恥を知らず、刑を受ける者は多く、死者は相望みましたが、奸邪は止みませんでした。これは習俗・教化によるものであります。今、陛下は天下を兼有し、帰服しない者はおりませんが、功徳がまだ百姓に施されていないのは、おそらく王心が施されていないからであります。『曾子』に言います、「己が聞くところを尊べば、高明となる。己が知るところを行えば、光大となる。高明光大は、他のものにあるにあらず、心を用いるのみ」と。願わくは、これによって聞くところを用い、内心に誠意を確立して実行に移されれば、三王と何の違いがありましょうか!

『平時において士人を養わずに賢才を得ようとするのは、玉石を彫琢せずに文采を求めるようなものです。ゆえに士人を養う大事は、太学より重要なものはありません。太学は、賢士の集まる所であり、教化の根本の源泉であります。今、一郡・一国の多くの人口をもって応じながら、詔書の求める人材にかなう者がいないのは、王道がしばしば断たれているからであります。私は願わくは、陛下が太学を興し、明師を置き、天下の士人を養い、たびたび考問してその才能を十分に発揮させれば、英俊の才を得られるべきでありましょう。今の郡守・県令は、民衆の師長であり、聖上の教化を承け伝える者であります。ゆえに師長が賢でなければ、君主の徳は宣揚されず、恩沢は流布されません。今、官吏は下を教導することができず、あるいは主上の法令を承用せず、百姓を暴虐にし、奸邪と結託し、貧窮孤弱の者は冤苦して職を失い、はなはだ陛下の心意にそぐいません。このため陰陽は錯乱し、災気は充満し、万物は順遂することが少なく、黎民は救済を得られません。すべて長吏が明らかでないためにこうなるのであります!

『長吏は多く郎中・中郎・二千石の子弟から出ており、郎吏を選任するにも家財によっており、必ずしも賢能ではありません。また、古のいわゆる功とは、官に任じて職にかなうことを基準とし、年功を積むことではありませn。ゆえに小才は年功が長くても小官を離れず、賢才は年功が短くても輔佐となることを妨げられませんでした。したがって官吏は力を尽くし智慧を尽くし、職事を治めて功績を求めることに専念しました。今はそうではなく、年功を積んで尊貴を得、長く在職して官を得ます。このため廉恥は乱れ、賢と不肖は混ざり、真の人材を得ることができません。私は愚かながら考えますに、諸侯・郡守・二千石にそれぞれその官吏・民衆の中から賢能なる者を選ばせ、毎年二人を貢上して宿衛に充てさせ、これによって大臣の才能を観察するのがよいでしょう。賢能を貢上した者は賞し、不肖を貢上した者は罰します。こうすれば、各位の二千石官吏は心を尽くして賢を求め、天下の士人は任用されて官となることができるでしょう。天下の賢人を普遍的に得れば、三王の盛世は実現しやすく、堯・舜の名声も達しうるでしょう。年功をもって功とせず、実をもって賢能を試すことを上とし、才能を量って官を授け、徳行を考察して位を定めれば、廉恥は分かれ、賢と不肖は区別されるでありましょう!

「積少成多、積小成大と聞いております。ゆえに聖人といえども、暗きより明るきに至り、微細より顕著に至らぬ者はおりません。それゆえ堯は諸侯より起こり、舜は深山より起こりましたが、一日にして顕達したのではなく、徐々に積み重ねる過程があったのです。言葉は自らの口より出でて塞ぐこと能わず、行いは自らの身より発して隠すこと能わず。言葉と行いは、国家を治める重大な方面であり、君子はこれをもって天地を感動させるのです。故に小事をよくする者は大事を成就し、微細を慎む者は顕著を顕わすことができます。善行は身に積もれば、昼が次第に長くなり人知らざるがごとく、悪行は身に積もれば、灯火が油を消耗し人覚えざるがごとし。これが唐堯・虞舜が美名を得て、夏桀・商紂が哀れみ畏れられる所以です。

楽しみて淫せず、繰り返して倦まざるもの、これを道と謂います。道は万世に弊害なく、弊害は道の喪失です。先王の道には、必ず偏りて施行できぬところがあり、故に政事に暗くして行き届かぬところがあれば、偏りを正して弊害を救うのみです。三王の道は、法とするところ異なれども、相反するにあらず、弊害を匡し衰えを扶けるため、遭遇する時勢の変化が異なるのです。故に孔子は言いました『無為にして治まる者は、其れ舜か』と。暦法を改め、服色を変ずるは、ただ天命に順応するのみ。其余は全て堯の道に従い、何ぞ変ずる必要があろうか。故に王者には改制の名ありて、道を変ずる実はありません。然れども夏は忠を尚び、殷は敬を尚び、周は文を尚ぶは、継承せる前代に救うべきものありて、これを用うべき故です。孔子は言いました『殷は夏の礼に因り、其の損益する所、知るべし。周は殷の礼に因り、其の損益する所、知るべし。其れ周に継ぐ者、百世と雖も知るべし』と。これは百代の君王が用うる所、即ちこの三者なるを言うのです。夏は虞に因るも、独り損益を言わざるは、道一にして尚ぶ所同じき故。道の本源は天より出で、天変ぜざれば、道も亦変ぜず。ゆえに禹は舜を継ぎ、舜は堯を継ぎ、三聖王相継いで同一の道を守り、弊害を救うべき政事なきが故に、損益を言わざるなり。これによりて見れば、治世を継ぐ者は其の道同じく、乱世を継ぐ者は其の道を変ずべし。

今、漢は大乱の後に継ぐ。宜しく周の文を少し削り、夏の忠を用うべきか。古の天下も亦今日の天下、同じくこの天下にして、古を以て今を準ずるに、何ぞ相違ここに至るや。何の謬りかありて衰弊ここに至るか。恐らくは古の道に偏り、天理に違うことあるにあらざるか。

天にも亦配分あり。歯を与うる者は角を去り、翼を与うる者は只二足を与う。これは大なるを受くる者は小なるを取る能わざらしむるなり。古、人に俸禄を与うる者は、体力にて生計を立てず、工商に従事せず。これ亦大なるを受けて小なるを取る能わず、天の意と同じ。既に大なるを受け、又小なるを取らば、天すら満たす能わず、況んや人においてをや。これ百姓の喧々として愁苦し、生活足らざる所以なり。寵愛を受け高き位に居り、家温飽し厚き禄を享有しながら、富貴の資力に乗じて、下にて百姓と利を争わば、百姓何ぞ彼らに勝る能わん。百姓は日々に削られ、月々に侵奪され、徐々に極度の貧困に陥る。富者は奢侈浪費し、貧者は困急愁苦す。百姓生存を楽しまず、又何ぞ犯罪を免れんや。これ刑罰の繁多にして奸邪の遏め能わざる所以なり。天子の大夫は、下の百姓の観摩効法する所、遠方の人の四方を仰望する所なり。近き者は彼らを見て仿い、遠き者は彼らを望みて学ぶ。如何ぞ賢人の位に居りて平民の行いを為すべけんや。急々として財利を追求し、常に欠乏を恐るるは、平民の心意なり。急々として仁義を追求し、常に百姓を教化し得ざるを恐るるは、大夫の心意なり。易に曰く『物を負いて車に乗れば、寇盗を招きて奪わん』と。車に乗るは君子の位分、物を負うは小人の事なり。これは君子の位に居りて小人の行いを為せば、禍患必ず至るを言う。君子の位に居らば、当に君子の行いあるべし。然らば公儀休の魯の宰相たるの為す所を除きては、為すべきものなし。

春秋は大一統を推崇す。これは天地の変わらざる常道、古今共通の義理なり。今、師伝は道を異にし、人は論を異にし、百家の学説は方向各々異なり、旨趣同じからず。故に上は統一の標準を掌握する能わず、法令制度は屡々変更し、下は何に従うべきかを知らず。愚昧ながら考えますに、六経と孔子の学術に属さざる学説は、皆その伝播の道を断ち、同時に進むを許さず。邪辟の言滅びたる後、統一の綱紀始めて立てられ、法度始めて明らかにせられ、百姓始めて従うべきを知るべし。」

天子はその対策を善しとし、董仲舒を江都の相と為す。会稽の人、荘助も亦賢良として対策に応じ、天子はこれを抜擢して中大夫と為す。丞相衛綰、上奏して曰く「挙薦せる賢良の中に、申不害・韓非・蘇秦・張儀の説を研究し国政を乱す者あらば、全て罷免せんことを請う。」奏は批准せらる。董仲舒は若くして春秋を研究し、孝景帝の時に博士と為る。進退挙止、礼に合わざることを為さず、学者皆師と尊ぶ。江都相に為るに及び、易王に事う。易王は皇帝の兄にして、常に驕縦、勇力を好む。董仲舒は礼儀をもってこれを匡し、易王はこれを敬重す。

2 春、二月、大赦す。

3 三銖銭を発行す。

4 夏、六月、丞相衛綰免ぜらる。丙寅、魏其侯竇嬰を丞相と為し、武安侯田蚡を太尉と為す。皇上は常に儒家学術を崇尚し、竇嬰・田蚡は皆儒術を好む。代の人、趙綰を御史大夫に推薦し、蘭陵の人、王臧を郎中令と為す。趙綰、明堂を建立して諸侯を朝見せんことを請い、且つその師申公を推薦す。秋、天子、使者をして束帛に璧を加え、安車驷馬をもって申公を迎えしむ。申公到り、天子に謁見す。天子、国家を治め禍乱を平定することを問う。申公、年八十余。答えて曰く「治国の者は多言に在らず、ただ力行の如何を看るのみ。」この時、天子正しく文詞を好み、申公の答えを聞き、黙然として言わざるも、既にこれを招き来たれるが故に、太中大夫と為し、魯国の京師の邸に住まわせ、明堂建立、諸侯巡視、暦法改正、服色変更等の事を議せしむ。

5 この年、内史寧成、罪に坐して髡鉗の刑に処せらる。

建元二年(壬寅、紀元前一三九年)

1 冬、十月、淮南王劉安、朝見のため来る。皇上は劉安が叔父の輩にして才能高きが故に、甚だ尊重し、宴会接見のたびに語り、黄昏に至り日暮れて止む。

劉安は常に武安侯田蚡と親交あり。入朝するに当たり、武安侯、霸上に到りてこれを迎え、謂いて曰く「皇上に太子なし。大王は高皇帝の親孫にして、仁義を行い、天下これを知らざる者なし。皇上もし一日崩じなば、大王を除きて誰か立ちて皇帝と為るべき者あらんや。」劉安大いに喜び、重ねて田蚡に金銭財物を贈る。

2 太皇太后竇氏、黄帝・老子の学説を好み、儒家学術を喜ばず。趙綰、東宮に政事を奏報せざることを請う。竇太后大いに怒りて曰く「これは再び新垣平の如き事を為さんとするか。」私かに趙綰・王臧の財利貪図の事を捜求し、以て皇上を責む。皇上、是において明堂建立の事を廃し、全ての興辦事項を廃止す。趙綰・王臧を官吏に付し審理せしめ、両人共に自殺す。丞相竇嬰、太尉田蚡免ぜられ、申公も亦病に因りて免ぜられ家に帰る。

当初、景帝は太子太傅の石奮とその四人の子が皆二千石の官に就いたので、彼ら一家をまとめて石奮を「万石君」と呼んだ。万石君には文学の素養はなかったが、恭しく慎むことでは誰にも及ばなかった。子や孫が小吏となり、帰省して彼を拝謁すると、万石君は必ず朝服を着て接見し、彼らの名前を直接呼ぶことはなかった。子孫に過ちがあれば、彼は責めず、ただ脇の席に座り、机に向かって食事をしなかった。すると子たちは互いに責め合い、一族の長老を通じて上衣を脱ぎ腕を露わにして謝罪し、過ちを改めて初めて彼は許した。成人した子孫が側にいる時は、たとえ暇な時でも必ず冠を正した。彼は喪に服す際、悲しみ哀しむこと非常に深かった。子孫は教えに従い、皆孝行と慎み深さで郡国に名を知られた。趙綰・王臧が文学によって罪を得た后、竇太后は儒者は文采は多いが質素さに欠けると考え、今や万石君の家は虚談をせず身をもって実践しているとして、その長子石建を郎中令に、末子石慶を内史に任命した。石建は皇上の側に仕え、諫言すべきことがあると、人のいない所では率直に語って非常に恳切であったが、朝廷に出るとまるで言葉が不得手なようであった。皇上はそのため彼を親しくした。石慶はかつて太仆を務め、皇上のために車を御して外出した。皇上が車中に何頭の馬がいるか尋ねると、石慶は馬鞭で馬の数を数え終え、手を挙げて「六頭でございます」と答えた。石慶は幾人かの子の中でもっとも粗略な方であった。

竇嬰・田蚡が免職された後、侯爵の身分で家に閑居していた。田蚡は官職には就いていなかったが、王太后の関係で親しく寵愛され、度々進言することが多く効果を上げた。勢いにすがろうとする士人や官吏は皆、竇嬰を離れて田蚡に帰属し、田蚡は日に日に驕り高ぶった。

3 春、二月、丙戌朔、日食があった。

4 三月、乙未、太常柏至侯許昌を丞相に任命した。

5 当初、堂邑侯陳午は皇上の叔母である館陶公主劉嫖を娶っていた。皇上が太子であった時、公主は力を尽くし、その娘を太子の妃として嫁がせた。皇上が即位すると、妃は皇后となった。竇太主(館陶公主)は功績を恃み、際限なく要求し、皇上は彼女に頭を悩ませた。皇后は誇り高く嫉妬深く、寵愛を独占しながら子がなく、医者に費やした金銭は合わせて九千万にのぼり、これによって子を望んだが、結局得られなかった。その後、寵愛は次第に衰えた。皇太后は皇上に言った。「あなたは即位したばかりで、大臣たちはまだ心服していない。先に明堂を建てたことで、太皇太后は既に怒っている。今また長公主(館陶公主)に逆らえば、必ずやさらに罪を得ることになるだろう。婦人の性情は喜ばせやすいものだ。あなたは非常に慎むべきである」。皇上はそこで長公主と皇后に対して次第に恩寵と礼遇を増していった。

皇上は霸上に赴いて災いを払い福を求める祭祀を行い、帰路、姉の平陽公主を訪ね、歌女の衛子夫を寵愛した。衛子夫の母衛媪は、平陽公主の家の奴婢であった。公主はそこで衛子夫を宮中に送り入れ、衛子夫の恩寵は日に日に深まった。陳皇后はこれを聞いて、非常に怒り、幾度も死にそうになった。皇上はますます怒った。

衛子夫の同母異父の弟衛青、その父鄭季は、もとは平陽県の県吏で、平陽侯の家に仕え、衛媪と私通して衛青を生み、衛姓を冒した。衛青は成長すると、平陽侯の家で騎奴となった。大長公主(館陶公主)は衛青を捕らえて監禁し、殺そうとした。衛青の友人の騎郎公孫敖と壮士たちが彼を奪い返した。皇上はこれを聞き、衛青を召し出し、建章監・侍中に任命し、賞賜は数日の間に千金に積もった。間もなく衛子夫を夫人とし、衛青を太中大夫に任命した。

6 夏、四月、星が太陽のように、夜間に現れた。

7 始めて茂陵邑を設置した。

8 当時、大臣の中で議論する者の多くは、晁錯の削藩の策略は冤罪であると考え、諸侯王を抑圧することに力を注ぎ、度々上奏して彼らの過失や罪悪を暴き立て、細かい欠点を探し出し、彼らの臣下を鞭打って、自分の国君を告発させた。諸侯王は悲しみ恨まない者はなかった。

建元三年(癸卯年、紀元前一三八年)

1 冬、十月、代王劉登・長沙王劉發・中山王劉勝・済川王劉明が来朝した。皇上が宴を設けて酒を賜ると、劉勝は楽の音を聞いて泣いた。皇上がその理由を問うと、答えた。「悲しむ者は続けてすすり泣くことができず、憂い思う者はため息をつくことができません。今、私は心の結び目が長く積もり、微かで美しい楽の音を聞くたびに、知らず知らずのうちに涙が縦横に流れます。私は骨肉の至親として東方の藩王となり、輩行からは陛下を兄と申し上げます。今や群臣の中には、葦の膜のような親密な関係や、鴻の毛のような軽い重みもない者が、徒党を組んで論じ合い、朋友が互いに助け合い、宗室を排斥し、骨肉を氷が溶け散るようにしているのを、私は私かに心を痛めております」。彼は詳しく官吏の侵害の状況を説明した。そこで皇上は諸侯を厚く遇し、有关部门が奏上する諸侯の事務を減らし、親族に対する恩愛を増した。

2 黄河の水が平原郡で氾濫した。

3 大飢饉が起こり、人食いが発生した。

4 秋、七月、彗星が西北の方角に現れた。

5 済川王劉明は中傅(王国の輔佐官)を殺した罪により、廃され、房陵に移された。

6 七国の乱が失敗した後、呉王の子劉駒は閩越に逃亡し、東瓯が自分の父を殺したことを恨み、常に閩越に東瓯を攻めるよう勧めた。閩越はこれに従い、兵を発して東瓯を包囲し、東瓯は天子に使者を送って急を知らせた。天子が田蚡に問うと、田蚡は答えた。「越人は互いに攻め合うのは、もともと常のことです。また度々裏切りを繰り返し、秦の時代から彼らを棄てて属国とはしませんでした。中国を煩わせて救援するには及びません」。荘助が言った。「ただ力が及ばず救えないこと、徳が覆い尽くせないことを恐れるべきです。もしそれができるなら、どうして彼らを棄てることがありましょう。まして秦は咸陽さえも棄てたのです。ましてや越人などはなおさらです。今、小国が困窮して急を知らせてきたのに、天子が救援しなければ、彼らはどこに訴えに行けましょう。また何をもって万国を養うというのでしょうか」。皇上は言った。「太尉は彼と謀るに足りない。私は即位したばかりで、虎符を出して郡国の軍隊を徴発したくない」。そこで荘助を持節させて会稽に軍隊を徴発させに行かせた。会稽郡守は法令を口実に兵を出そうとしなかったので、荘助は一人の司馬を斬り、皇上の意旨を説明し、そこで兵を発して海を渡り東瓯を救援に向かった。軍隊がまだ到着しないうちに、閩越は兵を退いて去った。東瓯は国中の民を挙げて内遷することを願い出、そこで全ての民を率いて来り、長江・淮河の間に安置された。

7 九月三十日(丙子)、日食があった。

8 皇上は即位した当初から、天下の文才と知恵のある人士を招き選び、破格の抜擢の位で彼らを遇した。各地の士人はこぞって上書し政事の得失を論じ、自らを誇って官職を求める者は数千人にのぼった。皇上はその中で才智が特に優れている者を選び、寵愛して重用した。荘助が最も先に進用され、後に呉の地の人朱買臣、趙の地の人吾丘寿王、蜀の地の人司馬相如、平原の人東方朔、呉の地の人枚皋、済南の人終軍らを得て、皆側近に職した。皇上は常に彼らを大臣と辯論させ、朝廷の内外は義理の文をもって呼応し合い、大臣たちは度々論破された。しかし司馬相如はただ辞賦によって寵愛された。東方朔・枚皋はしっかりした理論の基盤がなく、諧謔や冗談を好み、皇上は彼らを俳優のように養い、度々賞賜はしたが、ついに実際の職務を担任させることはなかった。東方朔もまた皇上の顔色を窺い、時に直言して諫め、補益するところがあった。

この年、皇帝は初めて微行を始めた。北は池陽に至り、西は黄山に、南は長楊宮で狩猟し、東は宜春苑で遊んだ。側近で騎射に優れた者たちと殿門で時刻を約束した。しばしば夜間に出行し、みずから平陽侯と称した。夜明けに南山のふもとに入り、鹿、猪、狐、兎を射猟し、農作物の田地を駆け巡ったため、民衆は皆叫び罵った。鄠県と杜県の県令は彼らを捕らえようとしたが、彼らが皇帝の器物を示したため、ようやく免れた。また、夜に伯谷に至り、宿屋に投宿して主人に水を求めたところ、主人は「水はない。尿ならある!」と言い、皇帝を姦盗と疑い、若者を集めて攻めようとした。主人の妻は皇帝の容貌が並々ならぬものと見て、夫を止めて言った。「この客は普通の人ではない。それに備えもある。手を出すべきではない。」夫は聞き入れず、妻は酒で夫を酔わせて縛り上げた。若者たちは四方に逃げ散り、妻は鶏を殺し飯を炊いて客に謝罪した。翌日、皇帝は宮中に帰り、この妻を召し出して黄金千斤を賜り、その夫を羽林郎に任じた。その後、皇帝はひそかに更衣所を設け、宣曲から南にわたって十二か所とし、夜は長楊宮や五柞宮などの各宮殿に宿泊した。

皇帝は道のりが遠く辛苦し、また民衆に憎まれたため、太中大夫の吾丘寿王を遣わして阿城以南、盩厔以東、宜春以西の土地を登記させ、総面積と畝数、およびその価値を計算させ、これらの土地を皇家の上林苑とし、南山に連ねようとした。さらに中尉と左右内史に詔を下し、所属する県の中の荒田を報告させ、これをもって鄠県と杜県の民衆に補償しようとした。吾丘寿王がこれを奏上すると、皇帝は非常に喜び、声を連ねて褒めた。当時、東方朔が側にいて、諫めて言った。「あの南山は天下の険要の地であります。漢が興り、三河の地を離れ、霸水・灞水の西に留まり、涇水・渭水の南に都を定めたのは、いわゆる天下の陸の海のような豊かな地であり、秦が西戎を捕虜とし、崤山以東の地を併合できた所以であります。その山は玉、金、銀、銅、鉄、良材を産出し、諸々の工匠が材料を得る所であり、万民が富むに頼る基であります。また粳稻、梨、栗、桑、麻、竹箭などの豊かな物産があり、土地は姜や芋の栽培に適し、水には蛙や魚が多く、貧しい者でも自らを養い家を満たし、飢寒の憂いがありません。故に酆・鎬の間は肥沃な土地と称され、一畝の価値は一金でありました。今、これを苑囿と計画し、陂池水沢の利用を絶ち、さらに百姓の肥沃な土地を奪えば、上は国家に財用を欠かせ、下は農桑の業を奪うことになり、これは不可の第一であります。荊棘の叢を茂らせ、狐・兎の苑囿を広げ、虎狼の巣窟を大きくし、他人の墳墓を壊し、他人の家屋を撤去し、幼弱の者を故郷を懐かしみ憂えさせ、老人を流涙悲嘆させること、これは不可の第二であります。百姓を追い立てて営み、塀を築いて囲い、騎兵は東西に馳せ、車馬は南北に疾走し、また深い溝や大きな渠があります。一日の遊楽は、天子の安全を危うくするに足りず、これは不可の第三であります。殷の紂王は九市の宮を造って諸侯が叛き、楚の霊王は章華台を修建して楚の民が離散し、秦の始皇帝は阿房宮を興して天下が大乱に陥りました。この卑しく愚かな臣が、陛下の盛意に逆らい、罪は万死に値します。」皇帝はそこで東方朔を太中大夫・給事中に任じ、黄金百斤を賜った。しかしながら、なおも上林苑を修建する工事を起こし、吾丘寿王の奏請に従って実行した。

皇帝はまた自ら熊や猪を撃ち殺し、獣を追い駆けるのを好んだ。司馬相如が上疏して諫めて言った。「臣は、物に同類でありながら能力の異なるものがあると聞いております。故に力では烏獲を、敏捷では慶忌を、勇では孟賁・夏育を数えます。臣は愚かでありますが、ひそかに考えますに、人に確かにこのような情況があるならば、獣にもまたしかるべきでありましょう。今、陛下は険阻に登り、猛獣を射猟するのを好まれます。もし突然、凶猛尋常ならざる獣が、予測しがたい状況に驚き、陛下の車駕に衝突すれば、車は向きを変える間もなく、人は巧みな技を施す暇もなく、たとえ烏獲・逄蒙の技倆があっても用いるに及ばず、枯木朽株もすべて障害となりましょう。これは胡人・越人が車輪の下から忽然と現れ、羌人・夷人が車の後に従うようなものであり、危険ではないでしょうか!たとえ万全にして禍患がなくとも、本来、天子が近づくべきものではございません。たとえ清道の後に行幸し、大道を馳せても、なお時に馬の轡が切れる変故が起こることがあります。ましてや、豊かな草むらを越え、丘陵や荒原を馳せ、前には獣を獲る楽しみがあり、心には変故を防ぐ念頭がなければ、禍害を生ずることは難しくありません。万乗の尊きを軽んじて安んぜず、万分の一の危険な道を遊楽とするのは、臣はひそかに陛下がそうすべきではないと考えます。おおむね、明らかな者は事の萌す前から予見し、知恵ある者は危険の未だ形成されざるうちに避けます。災禍は本来、多く微細なところに隠れ、人々の疏忽の時に発生するものであります。故に俗諺に言います。『家に千金を積めば、軒の下に坐せず。』この言葉は小事を言いますが、もって大事を喩えることができます。」皇帝はその言を善しとした。

建元四年(甲辰、紀元前一三七年)

1 夏、風が起こり、赤きこと血の如し。

2 六月、旱魃。

3 秋、九月、彗星が東北方に現る。

4 この年、南越王趙佗、薨ず。その孫の文王趙胡、位に即く。

建元五年(乙巳、紀元前一三六年)

1 春、三銖錢を廃し、半両錢を通ず。

2 五経博士を置く。

3 夏、五月、大規模な蝗害が発生す。

4 秋、八月、広川惠王劉越、清河哀王劉乘、ともに薨ず。後嗣なく、封国を廃す。

建元六年(丙午、紀元前一三五年)

1 春、二月、乙未の日、遼東郡の高祖廟に火災あり。

2 夏、四月、壬子の日、高園(高祖陵園)の便殿に火災あり。皇帝、素服を五日間着す。

3 五月、丁亥の日、太皇太后(竇太后)崩ず。

4 六月、癸巳の日、丞相許昌、免ぜらる。武安侯田蚡、丞相となる。田蚡、驕り奢り、修建した邸宅は諸王侯のうちで首位に立ち、田園は極めて肥沃なり。郡県から物品を購入する者は、道路上に絶えず。各方からの賄賂を大量に受け入れる。その家の金玉、婦女、狗馬、声楽、玩好の物、数えきれず。朝に奏事するごとに、坐して長く談論し、その言うところはすべて聴かれた。彼が推薦する者は、あるいは平民から起家して二千石の官に至るものもあり、権力はほとんど皇帝を凌ぐに至る。皇帝、ついに言う。「お前は官吏を任命し終えたか。朕もまた官吏を任命したい。」彼はかつて考工官署の土地を自分の邸宅に拡張することを請求した。皇帝、怒って言う。「お前はなぜいっそ武庫を奪い取らぬのか!」この後、ようやくやや収まる。

5 秋、八月、彗星が東方に現れ、その長さは天空を横切る。

6 閩越王郢、兵を発して南越の辺境の城邑を攻める。南越王、天子的な制約を守り、擅みに兵を発することをせず、人を遣わして書を上り天子に報告す。ここにおいて天子、南越王の仁義を賞賛し、大規模に兵を徴発し、大行の王恢を豫章より出兵させ、大農令の韓安国を会稽より出兵させ、閩越を攻めしむ。

淮南王劉安、書を上り諫めて言う。

「陛下、天下に臨み、恩徳を布き、天下は安寧にして、人々は業に安んじ、自ら終身戦争を見ることなからんとす。今、関係の部門が兵を発して閩越を討とうとしていると聞き、臣劉安、ひそかに陛下のために慎重に考える。」

「閩越は中原の外の地域であり、髪を切り、身体に刺青を施す民であり、中原の冠帯の国の法度で統治することはできません。夏・殷・周の三代が隆盛であった時から、胡人や越人は中原の正朔を受け入れませんでした。力が弱くて服従させられなかったのではなく、威厳が足りずに制圧できなかったのではなく、そこは居住すべき土地ではなく、統治すべき民ではなく、中原を煩わすに値しないと考えたからです。漢が初めて天下を定めてから七十二年、越人の間で互いに攻撃し合うことは数え切れないほどありましたが、天子は一度も兵を発してその地域に入ったことはありません。臣は、越人には城郭や郷邑がなく、渓谷の間や竹林の中に住み、水戦に慣れ、船を巧みに操り、地形は深く昏暗で水の険が多いと聞いています。中原の人はその険阻を知らずにその地に入れば、百人でも一人に敵いません。彼らの土地を得ても、郡県を設置することはできません。攻めても、迅速に勝利することはできません。地図で彼らの山川の要衝を見れば、距離はわずか数寸ですが、実際の距離は数百千里あり、険阻や叢林はすべて記すことはできません。見た目は容易そうでも、行くのは非常に困難です。天下は宗廟の神霊に頼り、境内は非常に安寧で、白髪の老人は戦争を見たことがなく、百姓は夫婦が共に暮らし、父子が互いに守り合うことができ、これは陛下の恩恵です。越人は名目上は藩臣ですが、朝廷に貢物や祭祀の酒を献上せず、一兵一卒の労役も提供しません。彼らが互いに攻撃し合うのに、陛下が兵を発して救援するのは、かえって中原の力を使って蛮夷のために苦労するようなものです。しかも越人は愚かで軽薄で、盟約を破り、節操がなく、天子的な法度を守らないのは、一日や二日のことではありません。一度詔令に従わなければ、兵を発して討伐するならば、臣は以後戦争が止む時がないのではないかと恐れます。

「近年、連年収穫が悪く、百姓は爵位を売り、子を質に入れて衣食を維持しています。陛下の恩恵による救済に頼り、ようやく溝壑で死なずに済みました。四年間不作が続き、五年目にはまた蝗害が起こり、百姓の生活はまだ回復していません。今、兵を発して数千里を遠行し、衣服や食糧を供給し、越人の地域に入り、輿に乗って山嶺を越え、船を曳いて水に入り、数百千里を行進し、道中は深い林と密な竹が続き、水路では上下に礁石が衝突し、林中には多くの蝮蛇や猛獣がおり、夏の暑熱の時には、嘔吐下痢や霍乱などの病気が絶え間なく続きます。まだ武器を交える前に、死傷する者は必ず多いでしょう。先に南海王が反逆した時、陛下の先臣が将軍の間忌に命じて兵を率いて攻めさせ、その軍が投降したため、上淦に安置しました。後に再び反逆した時、ちょうど天が暑く雨が多く、楼船の士卒は水上に住み、櫂を漕ぎ、戦わずして病死した者が半数を超えました。父母は老涙を流し、孤児は啼哭し、家は破れ人は亡くなり、千里の彼方に遺体を迎えに行き、骸骨を包んで家に帰りました。悲哀の気は、数年止まず、老人たちは今も覚えており、まだ越地に入らないうちに災禍がすでにこのように深刻でした。陛下の恩恵は天地に匹敵し、聖明は日月の如く、恩恵は禽獣にまで及び、福沢は草木にまで遍く、一人でも飢え凍え、天寿を全うできずに死ねば、陛下はそのために心を痛められます。今、国内に犬の吠えるような警報もないのに、陛下の士卒を死なせ、中原に曝し、山谷に浸し、辺境の百姓はそのために朝早く城門を閉め、夜遅く開け、朝から夜を待てないほどであり、臣劉安は密かに陛下のために深く憂慮します。

「南方の地形に詳しくない者は、多くが越人は兵が多く将が強く、辺境の城邑を侵すことができると考えています。淮南の国全体がそうだった時、多くの者が辺境の官吏であり、臣は密かに、越地は中原とは異なると聞いています。高山に隔てられ、人迹はまれで、車道は通じず、これは天地が内外を隔てるためのものです。彼らが中原に入るには、必ず山嶺や河川に沿って下らねばならず、嶺河の両岸は山の崖が険しく、水流は石を漂わせ船を破り、大船で食糧を積んで流れに沿って下ることはできません。越人が乱を起こそうとするならば、必ずまず余干県の境内で耕作し、食糧を蓄積し、その後に入り、木材を伐採して船を造ります。辺境の城邑の守備軍がもしも確かに慎重であれば、越人が木材を伐りに来た者があれば、すぐに逮捕し、彼らの蓄積を焼き払えば、たとえ百越の衆があっても、辺城をどうにかできるでしょうか!しかも越人は力が薄弱で、陸戦はできず、また車騎や弓弩を用いることもできません。しかし攻め入ることができないのは、地形の険要に依拠し、中原の人がその水土に慣れていないからです。臣は、越人の兵士は数十万を下らないと聞いています。越地に攻め入るには、五倍の兵力が必要であり、車を引き糧を運ぶ者はその中に含まれません。南方は暑熱で湿気が多く、夏に近づけば蒸し暑く、水辺に露宿し、蝮蛇や毒虫が発生し、病気が多発し、まだ武器が血に染まらないうちに病死する者が十のうち二、三あり、たとえ越国全体を捕虜にしても、損失を補うには足りません。

「臣は路上の人から聞きました。閩越王の弟の甲が閩越王を殺し、甲もそのために処刑され、その民はまだ帰属していません。陛下がもしその人々を招き寄せ、漢の内地に安置しようとされるならば、重臣を派遣して慰問し、恩徳を施し、賞賜を与えて招き寄せれば、彼らは必ず幼い子を連れ、老いた親を支えて来て聖徳に帰順するでしょう。もし陛下が彼らを用いないならば、すでに絶えた世系を継ぎ、滅びようとする国を保存し、王侯を立て、養うべき越人とすれば、彼らは必ず帰順して藩臣となり、代々貢物を献上し職務を尽くすでしょう。陛下は一方寸の印信、一丈二尺の綬帯を用いて、辺遠の地域を撫慰し、一兵も労せず、一戟も損なわず、威徳を共に施されます。今、兵を派遣して越地に入れば、彼らは必ず驚愕し恐れ、朝廷が殺戮し滅ぼそうとしていると考え、必ず雉や兎のように逃げ去り、山林の険阻に隠れます。彼らを捨てて去れば、再び集まり、軍を留めて駐屯させれば、年を経るごとに、士卒は疲弊し、食糧は欠乏し、百姓は戦事に苦しみ、盗賊は必ず起こります。臣は老人たちから聞きました。秦の時代、かつて尉屠睢を派遣して越人を攻め、また監禄に命じて渠道を開削し道路を通じさせましたが、越人は深山密林に逃げ入り、攻めることができませんでした。軍を留めて空地に駐屯させれば、長期間にわたり、士卒は疲労しました。越人が出撃し、秦兵は大敗し、そこで戍卒を徴発して防備しました。この時、内外は騒動し、百姓は皆生活できず、逃亡する者は互いに従い、群れを成して盗賊となり、ついに崤山以東の禍難が起こり始めました。戦いは凶事であり、一方に急があれば、四方が震動します。臣は変故が発生し、奸邪が興るのが、ここから始まるのではないかと恐れます。

「臣は、天子の軍には征討はあっても交戦はないと聞きます。意味するところは、敢えて抵抗する者がいないということです。もし越人が幸いにして執事の先鋒を冒し、たとえ一人の厮役の兵卒でも無事に帰ってこなければ、たとえ越王の首を得たとしても、臣は密かに大汉のために恥じ入ります。陛下は四海を疆域とし、すべての生民は皆、臣妾です。恩徳を施して覆い庇い、彼らを安居楽業させれば、恩沢は万世に伝わり、子孫に受け継がれ、窮まりなく続くでしょう。天下の安定は、泰山に四隅を縄で束ねたかの如くであり、夷狄の地など、一日の暇を費やし、汗馬の労を煩わせるに値するでしょうか!『詩経』に曰く、『王猶允塞、徐方既来』と。これは王道が非常に広大で、遠方の人々が自然と帰順するという意味です。臣劉安は密かに、将吏たちが十万の大軍を用いて、一人の使者の任務を完成させることを恐れます。」

この時、漢軍はすでに出発していたが、まだ山嶺を越えていなかった。閩越王郢は兵を発して要害の地を占拠した。彼の弟である餘善は、丞相や宗族と謀って言った。「大王は勝手に兵を出して南越を攻撃したことを天子に報告しなかったため、天子が軍を派遣して討伐しようとしている。漢軍は兵が多く将は強く、たとえ幸運にも彼らに勝ったとしても、後続の軍がさらに多く来て、最終的には国が滅びて終わるだろう。今、王を殺して天子に謝罪すれば、天子がそれを聞き入れて軍を撤収させれば、国は自然と保たれる。もし聞き入れられなければ、力を尽くして死に物狂いで戦う。勝てなければ、海に逃げ込もう。」皆が言った。「良い。」そこで矛を使って閩越王を刺し殺し、使者を遣わしてその首を大行王恢のもとに届けさせた。大行は言った。「我々が来た目的は、閩越王を誅殺することだった。今、王の首が届き、謝罪してきた。戦わずして首謀者を除くことができた。これ以上に有利なことはない。」そこで臨機応変に進軍を止め、大農韓安国の部隊に知らせ、使者に閩越王の首を持たせて急いで天子に報告した。天子は詔を下して両将軍の軍事行動を中止させ、言った。「郢らは首謀者である。ただ、無諸の孫である繇君丑だけは謀議に加わっていない。」そこで中郎将を派遣して丑を越繇王に立て、閩越の先王の祭祀を継続させた。餘善は郢を殺した後、国中で非常に威勢があり、国民の多くが彼に帰順し、彼はひそかに自ら王を名乗り、繇王は抑えることができなかった。皇上はこれを聞いて、餘善のために再び軍を起こすのは無駄だと考え、「餘善は何度も郢と共に乱を謀ったが、後にまず郢を殺し、そのおかげで軍を労することなく済んだ」と言い、餘善を東越王に立て、繇王と並び立たせた。

皇上は莊助を南越に派遣して旨意を伝えさせた。南越王趙胡は叩頭して言った。「天子が私のために兵を発して閩越を討伐してくださった。私は死しても恩に報いることはできません。」太子趙嬰齊を入朝させて侍衛とし、莊助に言った。「我が国はちょうど侵犯を受けたところです。使者はお帰りください。私は日夜、旅装を整え、入朝して天子にお目にかかります。」莊助は帰路、淮南を通りかかり、皇上は再び莊助を淮南王劉安のもとに派遣して越人を討伐したことを知らせ、彼の意見を嘉し答礼させた。劉安は謝罪して及ばないと述べた。莊助が南越を去った後、南越の大臣たちは皆、王に諫めて言った。「漢は兵を発して郢を誅殺しましたが、これによって南越を震撼させようとしているのです。それに先王はかつて言いました。『天子に仕えるには、ただ礼節を失わないことを求めるのみ』と。要するに、いくつかの良い言葉を聞いただけで入朝すれば、二度と戻れなくなる恐れがあり、これは国を滅ぼす形勢です。」そこで趙胡は病と称し、ついに入朝しなかった。

この年、韓安国は御史大夫となった。

東海太守で濮陽の人である汲黯は、主爵都尉となった。初め、汲黯が謁者であった時、その威厳によって人々に畏敬されていた。東越の者同士が互いに攻撃し合ったため、皇上は汲黯を視察に派遣した。彼は東越には行かず、呉の地まで行って帰還し、報告した。「越人は互いに攻撃し合うのが、元来彼らの習わしであり、天子の使臣を煩わせるには及びません。」河内郡で火事が起こり、燃え広がって千余家に及んだ。皇上は汲黯を視察に派遣した。彼は帰って報告した。「民家の火事で、家屋が連なって燃え広がったもので、心配するには及びません。私は河南郡を通りかかりましたが、河南郡の貧民が水害や干害で困窮している者が万余家おり、中には父子が互いに食べ合っている者もいました。私は謹んで臨機応変に行動し、符節を持って河南郡の倉庫を開き、穀物を放出して貧民を救済しました。私は符節をお返しし、仮託の詔命の罪をお受けいたします。」皇上は彼を賢いとして罪を赦した。彼が東海郡にいた時、役所を治め民を管理するに当たり、静けさを好み、郡丞や属吏を選んで任用し、大きな原則だけを求め、細かい節にはこだわらなかった。汲黯は体が病みがちで、しばしば内室に横になって出てこなかった。一年余りで、東海郡はよく治まり、人々は彼を称賛した。皇上はこれを聞き、彼を主爵都尉に召し、九卿の列に加えた。彼の治め方は無為を重んじ、大局を掴み、法令の条文にこだわらなかった。

汲黯という人は、性格が傲慢で、礼節に欠け、面と向かって人を責め、他人の過ちを許すことができなかった。当時、天子はちょうど文学の儒者を招いており、皇上が言った。「私はこうしたい。」汲黯は答えた。「陛下は内心では多くの欲望をお持ちでありながら、外見では仁義を施しておられます。どうして堯・舜の治め方を真似ることができましょうか。」皇上は黙り込み、怒って顔色を変え、退朝した。公卿たちは皆、汲黯のことを心配した。皇上が退朝後、側近に言った。「汲黯の愚直さは度を越している。」群臣の中に汲黯を非難する者がいた。汲黯は言った。「天子が公卿や補佐の臣を置かれるのは、どうして彼らに阿諛追従させ、心に迎合させ、主君を不義に陥れさせるためでありましょうか。それに私はすでにその地位にあります。たとえ自身を惜しんでも、どうして朝廷を辱めることができましょうか。」汲黯は体が病みがちで、病欠の期間が三か月に及ぼうとしていた。皇上は何度も休暇を賜ったが、結局完治しなかった。最後に病が重くなり、莊助が代わりに休暇を願い出た。皇上が言った。「汲黯はどのような人物か。」莊助が言った。「汲黯を官に就けて仕事をさせれば、特に優れたところはありません。しかし、彼が少主を補佐し、城を守るように深く堅固に守り、招いても来ず、追い払っても去らず、たとえ孟賁や夏育と自称しようとも、彼の意志を奪うことはできません。」皇上が言った。「その通りだ。古に社稷の臣という者がいたが、汲黯はそれに近い。」

匈奴が和親を求めてきたため、天子は群臣に議論させた。大行王恢は燕の出身で、匈奴の事情に詳しく、提案した。「漢と匈奴は和親をしても、通常数年も経たないうちに、また盟約を破ります。従わずに、兵を発して攻撃するのが良いでしょう。」韓安国が言った。「匈奴は鳥のように移動し、制御しがたく、上古以来、人類に属していません。今、漢軍が数千里を行軍して彼らと利を争えば、人馬は疲れ困憊します。敵は完全な力で我々の疲弊に対抗する。これは危険なやり方です。和親の方が良いでしょう。」議論する群臣の多くは韓安国に同調した。そこで皇上は和親を許可した。

元光元年(丁未、前一三四年)

1 冬、十一月、初めて各郡国にそれぞれ孝廉を一人ずつ推挙するよう命じた。これは董仲舒の建議を採用したものである。

2 衛尉李広が驍騎将軍となり、雲中に駐屯した。中尉程不识が車騎将軍となり、雁門に駐屯した。六月、兵を解散して帰朝した。李広と程不识は、いずれも辺郡の太守として兵を統率し、当時名声があった。李広は行軍に厳格な部曲の編成や行軍の隊列を設けず、ただ水草の豊かな場所を選んで駐屯し、各自が便利なようにさせ、刁斗を敲いて自ら警戒することもなく、幕府の公文書簿冊も非常に簡略だった。しかし、彼は遠くまで斥候を出しており、これまで危険に遭ったことはなかった。程不识は部曲、行伍、営陣を厳格に管理し、刁斗を敲き、軍士や官吏は軍務の文書を夜明けまで処理し、軍隊は休息を得られなかった。しかし、彼もまた危険に遭ったことはなかった。程不识は言った。「李広の軍隊は非常に簡易であるが、もし敵が突然侵犯してくれば、防ぐことができない。しかし、彼の兵士たちは安逸で楽しく、皆喜んで彼のために死のうとする。私の軍隊は煩わしいが、敵もあえて私を侵犯しようとはしない。」しかし、匈奴は李広の謀略を恐れ、兵士たちもまた多くは李広に従うことを喜び、程不识を苦しいと思った。

臣司馬光は言う。『易経』に「軍隊を出すには法紀をもってこれを律せよ。さもなければ、善悪いずれにせよ凶がある」とある。これは軍隊を治めるのに法度を用いなければ、凶でないものはないという意味である。李広は兵を統率し、各自が便利なようにさせた。李広の才能をもってすれば、これでも可能であった。しかし、模範とすることはできない。なぜなら、後継者には難しく、ましてや彼と同時に将たる者たちにはなおさらである。小人の性情は、安逸と放縦を好み、目前の禍患を見ない。彼らはすでに程不识を煩わしいと思い、李広に従うことを楽しむならば、上を憎んで従わなくなる。こうなれば、簡易の弊害は、ただ李広の軍隊が敵の突然の侵犯を防げないというだけではない。だから「軍事は厳明をもって終わる」と言うのである。将たる者も、ただ厳明であればよい。それならば、程不识を模範とすれば、功績がなくとも、まだ失敗には至らない。李広を模範とすれば、滅びない者は少ない。

3 夏、四月、天下に大赦を行った。

4 五月、詔を下して賢良・文学の士を推挙させ、皇上が自ら彼らに策問した。

5 秋、七月、癸未の日、日食があった。