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隋紀

隋紀三

第 3 篇

資治通鑑 第179巻 巻第百七十九 【隋紀三】 上章灘(庚申)より始まり、昭陽大淵献(癸亥)に至るまで、合わせて四年。

高祖文皇帝中 開皇二十年(庚申、西暦600年)

春、二月、熙州の人李英林が造反した。三月、辛卯の日、揚州総管司馬の河内の人張衡を行軍総管に任命し、歩兵騎兵五万人を率いさせて討伐し平定した。

賀若弼がまた罪に連座して獄に下された。皇帝は彼を数えて言った。「汝には三大過あり。嫉妬の心が大いなること、自ら是として人を軽んずる心が大いなること、君上を眼中に置かぬ心が大いなること。」やがてまた釈放した。ある日、皇帝は侍臣に言った。「賀若弼は陳を討伐しようとした時、高頰に言った。『陳叔宝は平定できる。しかし、飛鳥尽きて良弓蔵るるを憂えぬか?』と。高頰は『必ずや然らず』と言った。陳を平定して後、賀若弼は急いで内史の官職を求め、また僕射の官職を求めた。朕は高頰に言った。『功臣はまさに勲官を授けるべきで、朝政に干渉してはならぬ』と。賀若弼は後に高頰に言った。『皇太子は我に対して、言わざることはなく、吐露せざることはない。卿はついになぜ我が力を得ることを得ざるや、何ぞ黙黙として語らざるや!』と。彼は広陵を謀り、また荊州を図った。いずれも乱を作す地である。彼の心意はついに変わらぬであろう。」

夏、四月、壬戌の日、突厥の達頭可汗が辺塞を侵犯した。詔して晋王楊広、楊素に霊武道より出兵させ、漢王楊諒、史万歳に馬邑道より出兵させ、突厥を攻撃せしめた。

長孫晟は降伏した人々を率いて秦州行軍総管となり、晋王の指揮調度を受けた。長孫晟は突厥人が泉水を飲むことを以て、水中に毒を下し易しと為し、ここにおいて諸々の薬を取りて上流の水に投じた。突厥の人畜は多くを飲みて死した。ここにおいて大いに驚きて曰く、「天より毒水を降ろす。是れ我らを亡ぼさんとするか!」と。ここにおいて夜に乗じて遁走した。長孫晟は彼らを追撃し、首級一千余りを斬った。

史万歳は塞を出で、大斤山に至り、敵軍と遭遇した。達頭は使者を遣わして問う。「隋の将は誰ぞ?」斥候騎が報じて曰く、「史万歳なり。」突厥人はまた問う。「かの敦煌の戍卒なるか?」斥候騎が曰く、「正に是れなり。」達頭は懼れて軍を引き退けた。史万歳は馬を飛ばして百余里を追撃し、兵を縦にして攻め、大いに敵軍を破り、首級数千を斬った。敗兵を追い、沙漠数百里に深入りし、敵軍が遠くに遁走して後、還った。詔して長孫晟に再び大利城に還り、新たに帰附した人々を撫安せしめた。

達頭はまたその姪の俟利伐を遣わし、沙漠の東より啓民を攻撃せしめた。皇帝はまた兵を発して啓民を助け要道を守らしめた。俟利伐は退きて沙漠に入った。啓民は表を上りて陳謝して曰く、「大隋の聖人可汗は百姓を憐れみ養うこと、天の覆わざるなく、地の載せざるなきがごとし。我が染干は枯樹の枝葉を再生し、枯骨の血肉を再生するがごとし。千世万世、永く大隋の為に羊馬を掌らん。」皇帝はまた趙仲卿を遣わし、啓民の為に金河、定襄の二城を築かしめた。

秦孝王楊俊は久しく病み、床を起つ能わず。使者を遣わし表を上りて陳謝した。皇帝はその使者に言った。「我は力を竭してこの大業を創始し、訓戒を制し範例を垂れ、臣下の能く守るを望む。汝は我が子なり。而してこれを敗らんと欲す。何をもって汝を責むべきかを知らざるなり!」楊俊は慚愧し恐懼し、病ここにおいて重くなり、便ちまた楊俊に上柱国の官職を授けた。六月、丁丑の日、楊俊は薨去した。皇帝は彼を哭すること数声にして止んだ。楊俊の造りし奢侈華麗の物品は、悉く焼くことを命じた。王府の僚属は碑を立てることを請うた。皇帝は曰く、「名声を求めんと欲せば、一巻の史書にて足る。何ぞ必ずしも碑を要せんや!もし子孫の家業を保全する能わざれば、ただ徒らに人の為に鎮石と作らるるのみ!」楊俊の子の楊浩は、崔妃の生む所なり。庶子を楊湛という。群臣は皇帝の心旨に迎合し、奏して曰く、「漢代の栗姫の子劉栄、郭后の子劉強はいずれも母の廃せらるるに因りて連座せり。今、秦王の二子、母はいずれも罪あり。王位を継ぐべきにあらず。」皇帝は聴き従い、秦の官員を以て喪事の主人と為した。

初め、皇帝は太子楊勇に軍国政事を参与せしめ、時に増減改修あるごとに、皇帝は皆採用した。楊勇の性情は寛厚にして、直情径行、矯揉造作の行い無し。皇帝の生性は節倹なり。楊勇嘗て蜀の産の鎧甲を文飾せり。皇帝は之を見て喜ばず、戒めて曰く、「古より帝王に奢侈を好みて能く久しき者は無し。汝は儲君たり。当に倹約を以て先と為し、もって宗廟を承奉すべし。我が往日の衣服、各一件を留め、時に復た観て以て自ら警戒す。恐らくは汝の今日の皇太子の心を以て、前の事を忘れんことを。故に汝に賜うに我が旧時に佩びし一刀と、一盒の醤菜とを以てす。是れ汝が昔上士を為しし時、常に食せしものなり。もし前の事を記さば、当に我が心意を知るべし。」

後に冬至に遇い、百官皆楊勇を拝見し、楊勇は楽を奏して賀を受けたり。皇帝之を知り、朝臣に問いて曰く、「近頃聞く、冬至の日、内外の百官相継いで東宮に朝拝すと。是れ何の礼ぞや?」太常少卿の辛が曰く、「東宮に於いては、是れ賀なり。朝拝と謂うべからず。」皇帝曰く、「賀する者は正に三数十人たるべし。各々其の意に随いて、各自往くべし。何ぞ有司の召するを以て、一時に悉く集まるや!太子は法服を著け音楽を設けて以て之を待つ。可ならんや?」ここにおいて詔して曰く、「礼に等級の差あり。君臣は雑淆すべからず。皇太子は位は上嗣に居すと雖も、義は兼ねて臣子の分あり。而るに方岳の諸侯が冬至の日に朝賀し、進献する土産の貢物、別して東宮に呈す。此の事は典則に合わず。当に悉く停止すべし!」恩寵ここより衰え始め、漸く猜忌の隔たりを生ず。

楊勇は多くの内寵有り。昭訓の雲氏は特に寵を得たり。その妃の元氏は幸いを得ず。心疾を患い、二日にして死せり。独孤皇后は別に故有りと為し、楊勇を大いに責めたり。ここにおいて雲昭訓は専ら内宮の事を掌り、長寧王楊儼、平原王楊裕、安成王楊筠を生む。高良娣は安平王楊嶷、襄城王楊恪を生む。王良媛は高陽王楊該、建安王楊韶を生む。成姫は潁川王楊煚を生む。後宮は楊孝実、楊孝範を生む。皇后はますます満足せず、頗る人を遣わして伺察し、楊勇の過失罪悪を求めたり。晋王楊広は、ますます矯揉造作す。ただ蕭妃と居るのみ。後庭に子を生むも皆養わず。皇后ここによりて屡々楊広の賢徳を称す。大臣の権を掌る者は、楊広皆心を傾けて之と交わる。皇帝と皇后の、毎に左右を楊広の住所に遣わすや、貴賤を問わず、楊広は必ず蕭妃と門口に迎え入れ、為に美味佳肴を設け、厚礼を致す。往来の婢僕、其の仁孝を称せざるは無し。皇帝と皇后は嘗て其の府第に臨みたまう。楊広は美姫を悉く別室に蔵匿し、ただ年老いて醜き者のみを留め、素服を着せ、左右に供奉せしむ。屏帳は素絹を用いる。故に楽器の弦を断ち、塵埃を払わざらしむ。皇帝之を見て、彼の声色を好まざる者と為し、宮中に還り、侍臣に告げ、心中大いに喜べり。侍臣皆慶を称す。ここより皇帝の愛すること特に諸子に異なれり。

皇帝は密かに善相の来和を命じ、普遍く諸子を観察せしむ。来和は対えて曰く、「晋王は眉上の双骨隆起し、貴く言う可からず。」皇帝はまた上儀同三司の韋鼎に問う。「我が諸子の誰か帝位を継ぐべきか?」対えて曰く、「皇帝、皇后の最も愛する者に之を与う。臣の敢えて預り知る所に非ず。」皇帝は笑いて曰く、「汝は肯て明らかに言わざるなり!」

晋王楊広は容貌儀態優美にして、性情聡敏智慧、沈深穩重なり。学を好み、文章を善くす。恭敬を以て朝士を接し、礼節は極めて謙卑なり。ここにおいて名声大いに著しく、諸王の中に在りて首位に居す。

楊広は揚州総管を務め、入朝し、帰鎮しようとする際、宮中に入って皇后に別れを告げ、地に伏して涙を流した。皇后もまた悲しみに涙を流した。楊広は言った。「臣は性情も見識も愚かで劣っており、常に平生の兄弟の情誼を守ってまいりました。何の罪を犯したのか知りませんが、東宮(太子楊勇)の愛を失い、彼は常に心に積もる怒りを抱き、我を屠り陷害しようとしております。常に讒言が曾母が杼を投げるような事態を生み、毒酒が杯や勺の中に現れるのを恐れ、そのため憂いを積み、危亡に遭遇することを恐れております。」皇后は怒って言った。「𪾢地伐(楊勇の幼名)はますます我慢ならぬ。私は彼のために元氏の娘を娶らせたのに、彼は夫婦の礼をもって彼女を扱わなかった。阿雲を専寵し、このような豚や犬のような子をたくさん生ませた。先の嫁は毒で死んだが、私も徹底的に追究できなかった。どうしてまたお前にこのような心を向けるのか!私が生きている間でさえこのようなありさま、私が死んだ後は、彼はお前を魚や肉のように扱うであろう!常に思うに、東宮には正妻の生んだ嫡子がおらず、皇帝が千秋万歳の後には、あなたたち兄弟が阿雲の子の前に拝礼して安否を問わねばならぬとは、なんと大きな苦しみであろうか!」楊広はまた拝礼し、嗚咽して止まらず、皇后も悲しみに耐えかねた。これより皇后は楊勇を廃し楊広を立てる決意を固めた。

楊広は安州総管宇文述と以前から親しく、宇文述を自分の近くに置こうと、上奏して寿州刺史に任命させた。楊広は特に総管司馬の張衡を信任し用い、張衡は楊広のために太子の位を奪う策略を謀った。楊広は宇文述に計を問うた。宇文述は言った。「皇太子は寵愛を失って久しく、美徳は天下に聞こえておりません。大王は仁孝で知られ、才能は世に冠たり、何度も将軍を務め、屡々大功を立てられました。主上と内宮はともにあなたを愛し、四海の望みは実に大王に帰しております。しかしながら廃立は国家の重大事であり、他人の父子骨肉の間にあることは、確かに謀りやすいことではありません。しかし主上の心を変えられる者は、ただ楊素のみであります。楊素が謀を共にするのは、その弟の楊約だけです。私は以前から楊約を知っております。どうか京師に行き、楊約と会い、共にこの事を図りましょう。」楊広は大いに喜び、多くの金銀財宝を持たせ、宇文述を関中に入らせた。

楊約はその時大理少卿を務めており、楊素は何かを行うたびに、必ず先に楊約と謀ってから実行した。宇文述は楊約を招き、器玩を盛んに並べ、彼と酣酔するまで痛飲し、そのまま一緒に博打をした。毎回わざと負けたふりをし、持参した金銀財宝を全て楊約に負けて与えた。楊約は得るところが多く、次第に宇文述に謝意を表した。宇文述はそこで言った。「これは晋王の賜物で、私にあなたと楽しませしめたものです。」楊約は大いに驚いて言った。「なぜこのようなことを?」宇文述はそこで楊広の意を伝え、彼を説得して言った。「正道を守ることは、確かに臣子の常道であります。しかし常軌を逸して道義にかなうことも、また達人の良策であります。古来の賢人君子は、時勢に応じて変化し禍を避けることをしなかった者はおりません。あなたの兄弟は、功名が世に冠たり、権勢を執ること多年、朝臣の中であなたの家族に屈辱を受けた者は、数えきれるものでしょうか!また、東宮は自分の欲するところを実行できず、常に歯を食いしばって執政の大臣を恨んでおります。あなたは自ら主上に取り入ってはおりますが、あなたを害そうとする者も元々多いのです!主上がもしお隠れになれば、あなたは何によって身を守ることができましょうか!今や皇太子は皇后の愛を失い、主上は以前から彼を廃する心を持っておられます。これはあなたの知るところです。今もし晋王を立てることを請えば、賢兄の口一つで済むのです。果たしてこの時に乗じて大功を立てることができれば、晋王は必ず永遠に心に銘記し、これによって累卵の危険を脱し、泰山の安泰を成就することができるのです。」楊約はその言を正しいと思い、楊素に告げた。楊素は聞いて大いに喜び、手を打って言った。「私の智慧思慮は、これに遠く及ばない。お前に啓発された。」楊約はその計が行けると知り、また楊素に言った。「今や皇后の言葉は、主上は聞き入れないものはありません。機会に乗じて早く自ら結託すべきで、そうすれば長く栄華と俸禄を保ち、子孫に福禄を伝えられます。兄がもし躊躇すれば、一旦変事が起き、太子が権を握らせれば、恐らく災禍が来るまでに幾日もありません!」楊素は従った。

幾日か過ぎて、楊素は宮中に入って宴会に侍り、少しばかり「晋王は孝行で友愛、恭倹であり、至尊に似ているところがある」と述べた。これによって皇后の心を推し量った。皇后は涙を流して言った。「あなたの言うことは正しい!我が子は非常に孝行で仁愛であり、至尊と私が内使を遣わすのを聞くたびに、必ず国境で迎え、別れを言うときには、未だかつて泣かなかったことはない。またその新しい嫁も極めて憐れであり、私が婢を遣わすと、常に彼女と同寝同食する。どうして𪾢地伐が阿雲と向かい合って座り、終日酣酔して宴楽し、小人に親しみ、骨肉を猜疑し隔てるのと同じであろうか!私がますます阿{麻女}(楊広の幼名)を愛するのは、常に彼が暗に殺されるのを恐れるからである。」楊素は既に皇后の心を知ったので、力説して太子の不才を述べた。皇后はそこで楊素に黄金を贈り、皇帝の廃立を助けるようにさせた。

楊勇は彼らの陰謀をかなり知っており、憂慮し恐れたが、計を施す術がなく、新豊人の王輔賢を遣わして様々な厭勝の物を作らせた。また後園に庶人村を建てさせ、家屋は粗末であり、楊勇は時にその中で寝起きし、布衣を着て草の褥を敷き、これによって災いを防ごうとした。皇帝は楊勇が自ら不安に思っているのを知り、仁寿宮にて、楊素を遣わして楊勇の所行を観察させた。楊素は東宮に到り、立ち止まって入らず、楊勇は束帯して彼を待ったが、楊素は故意に長く進まず、楊勇を怒らせた。楊勇は恨みを抱き、言葉や顔色に表れた。楊素は帰って言った。「楊勇は怨恨し、恐らく別の変事があるでしょう。どうか深く防備し観察なさいますように!」皇帝は楊素の讒言と誹謗を聞き、非常に疑った。皇后もまた人を遣わして東宮を窺わせ、細かな事でも全て上奏して聞かせ、それに加えて誣陷し飾り立てて、彼の罪を構成した。

皇帝はそこで楊勇を疎んじ猜疑し、玄武門から至徳門の間に哨兵を設置し、動静を窺わせ、全て事に随って奏報させた。また、東宮の宿衛の人々は、侍官以上、名籍は全て各衛府に属させることとし、勇健な者は皆屏退させ除去した。左衛率の蘇孝慈を淅州刺史に出し、楊勇はますます不愉快になった。太史令の袁充が皇帝に言った。「臣が天文を観まするに、皇太子は廃されるべきであります。」皇帝は言った。「天象は既に久しく現れている。群臣が敢えて言わないだけである。」袁充は袁君正の子である。

晋王楊広はまた督王府軍事の姑臧人の段達に命じ、密かに東宮の寵臣である姫威を賄賂し、太子の動静を窺わせ、秘密に楊素に報告させた。そこで内外に喧伝され誹謗され、過失が日々伝えられた。段達はそこで姫威を脅して言った。「東宮の過失は、主上は既に全て知っておられる。既に密詔を奉じており、必ず廃立があるだろう。お前が告発すれば、大富貴を得るであろう!」姫威は承諾し、すぐに上書して告発した。

秋、九月、壬子の日、皇帝は仁寿宮から京師に帰った。翌日、大興殿に臨御し、侍臣に言った。「朕が京師に帰ったばかりなので、心を開いて楽しむべきである。なぜかかえって憂愁し苦しんでいる!」吏部尚書の牛弘が答えて言った。「臣等が職務に堪えませんので、至尊を憂い苦しめているのであります。」皇帝は既に何度も讒言や誹謗を聞いており、朝臣が皆知っているのではないかと疑い、そのため人々の中で問いを発し、太子の過失を聞こうとした。牛弘の答えは既に皇帝の心に合わず、皇帝はそこで顔色を変え、東宮の官属に向かって言った。「仁寿宮は此処から遠くないのに、朕が京師に帰るたびに、厳重に仗衛を備えさせ、敵国に入るかの如くである。朕は腹泄のため、衣を解いて寝ることもできなかった。昨夜、厠に行こうとしたので、後房に警急があるのを恐れ、また前殿に移った。これはお前たちが朕の家国を壊そうとしているのではあるまいか!」そこで太子左庶子唐令則ら数人を逮捕し、関係する部門に交付して審問させた。そして楊素に東宮の事情状況を述べさせ、近臣に知らしめた。

楊素はそこで公然と述べた。「臣が勅命を奉じて京師に向かい、皇太子に劉居士の余党を検校するよう命じました。太子は詔を奉り、顔色を変え、情緒激しくなり、肌肉が飛び跳ねるようでありました。臣に対し、『劉居士の党羽は皆、既に伏法した。我をどこに派遣して窮追討伐させるのか!汝は右僕射であり、委任と寄托は軽くない。自ら検校せよ。我に関することではない!』と言いました。また、『かつて大事が成功しなかったなら、我が先に誅殺されていたであろう。今や天子となったというのに、諸弟にも及ばず、一事以上、自ら決断することを得ない!』とも言いました。そして長嘆し、振り返って『我は大いに自らが妨碍を受けていると感じる』と言いました。」皇帝は言った。「この子は大位を継ぐに堪えないことが久しい。皇后は常に我に彼を廃するよう勧めた。我は彼が布衣の時に生まれた者であり、また長子であるため、徐々に改まることを望み、今日まで忍び隠してきた。楊勇はかつて皇后の侍児を指さして人に『これらは皆、我の物である』と言った。この言葉は何と怪異なことか!彼の妻が剛死した時、我は深く彼女が毒に遭ったのではないかと疑い、かつて彼を責めた。すると楊勇は恨んで『元孝矩を殺すであろう』と言った。これは我を害そうとして怒りを遷したに過ぎない。長寧が剛生まれた時、朕と皇后は共に抱いて養った。彼は自ら彼此の心を懐き、連続して人を遣わして索めてきた。また、雲定興の娘は、外で私下に結合して生まれたものである。考えればそうであり、どうして彼の親生の骨肉であろうか!かつて晋の太子は屠家の女を娶り、その子は屠割を好んだ。今、もし同類でなければ、宗廟を乱すであろう。我は徳において堯・舜に愧じるところがあるが、ついに万姓を不肖の子に委ねることはない!我は常に彼が我を害することを恐れ、大敵を防ぐが如くである。今、彼を廃して天下を安定させる!」左衛大将軍・五原公元旻が諫めて言った。「廃立は大事であります。詔旨がもし施行されれば、後悔しても及びません。讒言は限りがなく、惟だ陛下の明察を願います。」皇帝は応えず、姬威に命じて太子の罪悪を全て陳述させた。姬威が答えて言った。「太子はかねてより臣と語り、心はただ驕奢にありました。かつて『もし人が諫めるなら、正に彼を斬殺すべきであり、百十人を殺さなければ、自然に永遠に平らぐことはない』と言いました。台殿を兴建し、四季に停むことがありませんでした。先に蘇孝慈が左衛率を解かれた時、太子は鬚を奮い、肘を揚げて『大丈夫はついに一日あるであろう。終にこの事を忘れず、必ず快意を得ん』と言いました。また、宮内の所需について、尚書が多く法を執って与えなかったので、彼は怒って『僕射以下、我は一二人を殺し、彼らに我を怠る災いを知らしめん』と言いました。毎々『至尊は我が側室庶子を多く持つことを悪む。高緯や陳叔宝はどうして庶子ではなかったか!』と言いました。かつて師姥に命じて吉凶を占わせ、臣に『至尊は十八年を忌む、この期限は近い』と言いました。」皇帝は涙を流して言った。「誰か父母の生む所でない者がいるだろうか、竟にここに至るとは!朕は近頃『斉書』を読み、高歓がその子を放縦にしたのを見て、勝てずに憤怒した。どうしてこれを倣うことができようか!」そこで楊勇及びその諸子を囚え、分部してその党羽を逮捕した。楊素は文を舞い墨を弄し、巧みに詆毀し、罪名を羅織して罪案を構成した。

数日後、有关部门が楊素の意を承け、上奏して元旻は常に曲意をもって楊勇に事え、心を寄せて託付に依っていたと述べた。仁寿宮において、楊勇は親信の裴弘を遣わして元旻に書を送り、題して「人に見せてはならない」と書いた。皇帝は言った。「朕は仁寿宮にあり、微細な小事でも、東宮は必ず知った。それは駅馬よりも速く、久しく怪しんでいた。どうしてこれらの者ではないか!」武士を遣わし、儀仗の中で元旻を逮捕させた。右衛大将軍・元冑は当時、下班すべきであったが、去らず、そこで上奏して言った。「臣が先に下班しなかった理由は、元旻を防ぐためでありました。」皇帝は元旻及び裴弘を獄に交付した。

これに先立ち、楊勇は老いた枯槐を見て、「これは何に用いることができるか」と問うた。ある者が答えて「古槐は特に火を取るに宜しい」と言った。当時、衛士は皆、火燧を佩びていた。楊勇は工匠に命じて数千枚を造らせ、左右に分け与えようとした。この時に至り、庫中でこれを収めた。また、薬蔵局に艾草数斛が貯蔵されており、捜索して得た。大いに怪しみ、これをもって姬威に問うた。姬威は言った。「太子のこの意は別に在る所があります。至尊が仁寿宮におわす時、太子は常に馬千匹を養い、『直ちに行って城門を守れば、自然に餓死するであろう』と言いました。」楊素は姬威の言葉を用いて楊勇を詰問したが、楊勇は服さず、言った。「我は聞く、公家の馬は数万匹であると。我は太子であることを愧じ、馬千匹を有する。これが造反であるか!」楊素はまた東宮の服飾玩物を発掘し、雕飾を施したと思われるものを全て庭中に陳列し、文武群官に示して、太子の罪証とした。皇帝及び皇后は交代で使者を遣わして楊勇を責問したが、楊勇は服さなかった。

冬、十月、乙丑の日、皇帝は人を遣わして楊勇を召した。楊勇は使者を見て、驚いて言った。「我を殺そうとするのか!」皇帝は戎服を着て兵衛を陳列し、武徳殿に臨御し、百官を東面に立ち、諸王を西面に立ち、楊勇及びその諸子を引き連れて殿庭に列せしめ、内史侍郎・薛道衡に命じて詔書を宣読させ、楊勇及びその男・女で王・公主に封ぜられた者を全て廃して庶人とした。楊勇は再拝して言った。「臣は当に屍を都市に陳べ、将来の鑑戒とすべきでありました。幸いに哀憐を蒙り、生命を全うするを得ました!」言い終わり、涙が流れ衣襟を濡らし、すぐに舞い退いた。左右には憫れみ黙しない者はなかった。長寧王楊儼は上表して宿衛を請い、言辞は哀傷で懇切であった。皇帝は見て憫れんだ。楊素が進言して言った。「聖心が螫手に遭うが如くであることを願います。宜しく再び留意すべきではありません。」

己巳の日、詔して言う。「元旻、唐令則及び太子家令・鄒文騰、左衛率司馬・夏侯福、典膳監・元淹、前吏部侍郎・蕭子寶、前主璽下士・何竝を併せて斬罪に処す。妻妾子孫は皆、官府に没入す。車騎将軍・楡林人閻毗、東郡公崔君綽、游騎尉沈福宝、瀛州術士章仇太翼は特免死とし、各杖一百、本人及び妻子・資財・田宅を全て官府に没入す。副作大匠高龍叉、率更令晋文建、通直散騎侍郎元衡は皆死罪に処す。」そこで群官を広陽門外に集め、詔を宣して彼らを戮した。そこで楊勇を内史省に移し、五品官の俸禄食物を供給した。楊素に物品三千段、元冑・楊約に各千段を賞賜し、楊勇を訊問した功を賞した。

文林郎楊孝政が上書して諫めて言った。「皇太子は小人に誤られたものです。当に訓誨を加えるべきであり、廃すべきではありません。」皇帝は怒り、彼の胸を鞭打った。

初め、雲昭訓の父・雲定興は、東宮に出入りするに節制がなく、屡々奇服異器を進献して媚悦を求めた。左庶子裴政は屡々諫めたが、楊勇は従わなかった。裴政は雲定興に言った。「あなたの所為は法度に合いません。また、元妃が暴死したこと、道中で議論が沸き起こっています。これは太子にとって、良い名声ではありません。あなたは当に自ら退くべきであり、然らざれば禍患に遭うでしょう。」雲定興は楊勇に告げた。楊勇はますます裴政を疎んじ、これにより外に出して襄州総管とした。唐令則は楊勇の親昵する所となり、常に彼に弦歌をもって内人を教えさせた。右庶子劉行本は彼を責めて言った。「庶子は当に正道をもって太子を輔佐すべきである。どうして房帷の間に媚びることがあろうか!」唐令則は甚だ慚じたが改めることができなかった。当時、沛国人劉臻、平原人明克譲、魏郡人陸爽は、皆文学をもって楊勇の親しむ所となった。劉行本は彼らが調護できないことを怒り、常に三人に言った。「あなたたちはただ読書を知るのみである!」夏侯福はかつて閣内で楊勇と戯れ、夏侯福は大笑いし、声は外にまで聞こえた。劉行本はこれを聞き、彼が出て来るのを待ち、彼を数えて言った。「殿下は寬容で、あなたに顔色を賜った。あなたは何たる小人で、敢えてこのように褻瀆傲慢するのか!」そこで執法者に交付して処治させた。数日後、楊勇が夏侯福のために請い、ようやく釋放された。楊勇はかつて良馬を得、劉行本に騎乘させて観覧しようとした。劉行本は正色して言った。「至尊は臣を庶子に設置し、殿下を輔導させようとされたのであり、殿下のために弄臣となるためではありません。」楊勇は慚じて止めた。楊勇が敗亡するに及び、二人は既に死んでいた。皇帝は嘆息して言った。「もし裴政・劉行本が在ったならば、楊勇はここに至らなかったであろう。」

楊勇がかつて宮臣を宴に招いた時、唐令則が自ら琵琶を弾き『嫵媚娘』を歌った。洗馬の李綱が立ち上がって楊勇に言った。「唐令則は宮卿の身でありながら、その職責は調護にあるべきです。それなのに広席の場で自ら倡優に身をやつし、淫声を進めて視聴を汚しました。事が主上の耳に入れば、唐令則の罪は測り知れず、殿下のご迷惑になること必定です!臣は速やかに彼を罪に問うことを請います!」楊勇は言った。「我はただ楽しみたいだけだ、お前は余計なことをするな!」李綱は急ぎ足で退出した。やがて楊勇が廃されると、皇帝は東宮の官属を召し出して厳しく責めたが、皆恐れおののいて答えられる者はいなかった。ただ李綱だけが言った。「廃立は大事であります。今、文武の大臣たちはそれが不可と知りながら、口を開く者がおりません。臣、どうして死を恐れて、陛下に分別して申し上げないことがありましょうか!太子は本性、中等の人であります。善とともにすることもでき、悪とともにすることもできます。もし陛下が正しい人を選んで輔佐させれば、大きな基業を継ぎ守るに足りましょう。ところが今、唐令則を左庶子とし、鄒文騰を家令として、二人はただ弦歌や鷹犬をもって太子を楽しませることしか知らず、どうしてこのような事態に至らぬことがありましょうか!これは陛下の過失であり、太子の罪ではございません。」そう言って地に伏して涙を流し、声を詰まらせた。皇帝の神色はしばらく惨憺として言った。「李綱が我を責めるのは、道理がないわけではない。しかし一を知り二を知らぬ。我がお前を選んで宮臣としたのに、楊勇は親しみ信頼せず、たとえ正しい人を得ても、何の益があろう!」李綱が答えて言った。「臣が親しまれ信頼されなかったのは、確かに奸臣が側にいたからであります。陛下がただ唐令則、鄒文騰を斬り、賢才を改めて選んで太子を輔佐させれば、どうして臣がついには疎んじられ棄てられることがありましょうか!古より嫡長子の廃立は、覆されて危亡に至らぬことが少なくありません。願わくば陛下、深く聖慮を留め、後悔を残されませぬよう。」皇帝は不快に思い、朝を罷めた。左右の者は皆彼のために戦慄した。ちょうど尚書右丞の欠員があり、関係官庁が人選を請うと、皇帝は李綱を指して言った。「これこそ良い右丞である!」すぐに彼を任用した。

太平公の史万歳が大斤山から帰還すると、楊素はその功績を妬み、皇帝に言った。「突厥はもともと投降したのであり、初めから侵犯に来たわけではなく、ただ塞上で牧畜していたに過ぎません。」そこでその功績は取り上げられなかった。史万歳はたびたび上表して実情を述べたが、皇帝は悟らなかった。皇帝が太子を廃し、ちょうど東宮の党類を厳しく追及していた時、皇帝が史万歳がどこにいるかを尋ねると、史万歳は実際には朝堂にいた。楊素が言った。「史万歳は東宮を訪れておりました!」これによって皇帝を怒らせた。皇帝は確かにそうだと思い、史万歳を召し出すよう命じた。その時、彼が率いていた将士で朝堂に冤罪を叫ぶ者が数百人いた。史万歳は彼らに言った。「私は今日、あなたたちのために主上に力強く申し上げ、事は決着させるつもりだ。」皇帝に謁見すると、「将士に功績があるのに、朝廷に抑圧されております!」と言い、言葉は憤慨し激しかった。皇帝は大いに怒り、左右に命じて殿上で彼を撲殺させた。すぐに追い戻そうとしたが、すでに間に合わず、そこで詔を下してその罪状を述べた。天下の人々は皆、彼のために冤罪を惜しんだ。

十一月、戊子の日、晋王の楊広を皇太子に立てた。天下に地震があり、太子は章服の等級を下げ、宮官は臣と称さないことを請うた。十二月、戊午の日、詔してこれに従った。宇文述を左衛率に任じた。初め、太子が宗位を謀った時、洪州総管の郭衍がその事に参与した。そこで郭衍を召して左監門率とした。

皇帝は前太子の楊勇を東宮に囚え、太子の楊広に預けて管理させた。楊勇は自ら廃されたのは自分の罪ではないと思い、たびたび皇帝に面会して冤罪を申し立てようとしたが、楊広が妨げて聞こえないようにした。楊勇はそこで大木に登って大声で叫び、その声は皇帝の在所にまで届き、引見されることを望んだ。楊素はそこで、楊勇は情志が昏乱し、癲鬼に取り憑かれており、もはや収容すべきでないと言った。皇帝はその通りだと思い、ついに会うことはできなかった。

初め、皇帝が陳を攻略した時、天下は皆、太平が来ると考えた。監察御史の房彦謙は密かにその親しい者に言った。「主上は猜疑心が強く苛烈で、太子は卑しく弱く、諸王は権勢を専らにしている。天下は安寧であるが、まさに危乱を憂えるべきである。」その子の房玄齢もまた密かに房彦謙に言った。「主上はもともと功德がなく、詐欺をもって天下を奪い、諸子は皆驕奢で仁がなく、必ず自ら誅殺し合うでしょう。今は太平ですが、その滅亡は足を組んで待つことができます。」房彦謙は房法寿の玄孫である。

房玄齢は杜杲の兄の孫である杜如晦とともに予選に参加した。吏部侍郎の高孝基は人を知ることで名高かったが、房玄齢を見て嘆息して言った。「私は多くの人を見てきたが、このような郎君は見たことがない。他日必ずや偉器となるだろう。ただその大成を見ることができないのが恨みである!」杜如晦を見て、彼に言った。「君には応変の才があり、必ずや棟梁の重責を担うだろう。」ともに子孫を彼らに託した。

皇帝は晚年、仏道や鬼神を深く信じた。辛巳の日、初めて詔して「仏及び天尊、岳、鎮、海、瀆の神像を盗み毀損する者は、不道の罪とする。僧侶が仏像を毀損し、道士が天尊像を毀損する者は、悪逆の罪とする。」と定めた。

この年、同州刺史の蔡王の楊智積を朝に入れた。楊智積は皇帝の弟の子である。性格は謹厳で、家には私的な請託がなく、自らの奉養は質素であり、皇帝は非常に憐れんだ。楊智積には五人の子がいたが、ただ『論語』と『孝経』だけを読ませ、賓客と交際させなかった。ある者がその理由を尋ねると、楊智積は言った。「あなたは私を知らないのだ!」その意図は、おそらく諸子が才能を持つことで災いを招くのを恐れたのである。

斉州行参軍の章武の人、王伽が流刑囚の李参ら七十余人を護送して京師に向かった。滎陽に至り、彼らの辛苦を哀れみ、全てを呼び集めて言った。「お前たちは自ら国刑に触れ、鎖を身にまとうのは確かに当然の務めである。しかし、さらに護送の士卒を苦しめるのは、心に恥じるところがあろう!」李参らは謝罪した。王伽はそこで全ての枷を解き、護送の士卒をやめさせ、彼らと約束して言った。「某日には京師に着くべきである。もし遅れることがあれば、我はお前たちのために死を受けよう。」そう言って彼らを去らせた。流人は感動して喜び、約束の日通りに到着し、一人も離叛する者はいなかった。皇帝はこれを聞いて驚き異とし、彼らを召し出して語り合い、長く称賛した。そこで全ての流人を召し出し、妻子を連れて皆入ることを許し、殿庭で宴を賜って赦免した。そして詔して言った。「およそ命あるものは、含霊して性を禀け、皆善悪を知り、皆是非を認識する。もし至誠をもって臨み、明らかに導き勧めれば、風俗は必ず教化に従い、人は皆善に向かうであろう。往日は海内が乱離し、道徳教化が廃絶したため、官吏に慈愛の心なく、百姓に奸詐の意があった。朕は聖法に従い、徳をもって人民を教化しようと欲する。而して王伽は深く朕の意を識り、誠心をもって導き、李参らは感悟し、自ら法司に赴いた。これは明らかに示す、天下の人々は教化し難いのではないと。もし官吏を皆王伽の類とし、百姓を皆李参の輩とすれば、刑罰を措いて用いないことも、遠いことであろうか!」そこで王伽を抜擢して雍県県令とした。

太史令の袁充が上表して言った。「隋朝が興って以後、白昼が次第に長くなっております。開皇元年、冬至の日影の長さは一丈二尺七寸二分でありました。それから次第に短くなり、十七年に至っては、旧時に比べて三寸七分短くなりました。太陽が北極に近ければ日影は短く白昼は長く、北極から遠ければ日影は長く白昼は短くなります。太陽が内道を行けば北極に近く、外道を行けば北極から遠くなります。謹んで『元命包』に按ずるに、『日月は内道より出で、璇璣はその常度を得る』とあります。『京房別対』に言う、『太平の世には、太陽は上道を行く。升平の世には、次道を行く。霸代の時には、下道を行く。』と。臣下は大隋が国運を開き、上は乾元に感じ、日影短く白昼長きこと、古来稀なりと考えます。」皇帝は朝に臨み、百官に言った。「日影が長くなる祥瑞は、上天の佑けである。今、太子が新たに立ったので、改元すべきである。日長の意を取って年号とせよ。」その後、百工の役は皆、程課を増やされた。日長の故である。丁匠は皆これを苦しんだ。

高祖文皇帝中 仁寿元年(辛酉、西暦601年)

春、正月、乙酉朔日、大赦天下、年号を改める。尚書右僕射楊素を左僕射とし、納言蘇威を右僕射とする。丁酉日、河南王楊昭を改めて晋王に封ず。突厥歩迦可汗、辺塞を犯し、恒安において代州総管韓弘を破る。晋王楊昭を内史令とする。二月、乙卯朔日、日食あり。夏、五月、己丑日、突厥の男女九万人、来降す。六月、乙卯日、十六人の使者を遣わし、各地の風俗を巡視考察せしむ。乙丑日、詔して、天下の学校の学生の数は多けれども学業は精しからず、ただを選抜して保留し、太学、四門学及び州県の学校はすべて廃止すとす。前殿内将軍河間人劉炫、表を上りて懇切に諫むるも、皇帝聴かず。秋、七月、戊戌日、国子学を改めて太学とす。

初め、文帝、北周の禅譲を受け、民心の未だ服さざるを憂え、屡々祥瑞の兆ありと称して誇示し、偽りて瑞を造りて進献する者、数えきれず。冬、十一月、己丑日、南郊に祭祀を行い、封禅の礼に従い、祝版に前後に現れたる諸々の祥瑞を詳しく陳述し、以て報答感謝を表す。

山獠乱をなし、衛尉少卿洛陽人衛文升を資州刺史として鎮撫に遣わす。衛文升は名を玄といい、字を行とす。到任するや、獠人、大牢鎮を攻めんとす。衛文升、単騎その営寨に至り、彼らに謂いて曰く、「我れは刺史なり、天子の詔命を奉じ、来たりて汝らを安んじ養い育てん。驚き恐れることなかれ」と。衆の獠人、敢えて動く者なし。ここにおいて衛文升、利害を説き示せば、その酋長、感動喜悦し、兵を撤して去り、前後に帰附する者十余万人。文帝、大いに喜び、絹帛二千匹を賞賜す。壬辰日、衛文升を遂州総管とす。

潮州、成州等五州の獠人反叛す。高州酋長馮盎、急ぎ京城に至り、討伐を請う。文帝、楊素に命じて馮盎と賊寇の形勢を議せしむ。楊素、嘆じて曰く、「蛮夷の中に、かくの如き者あるを想わず」と。即ち馮盎を遣わし、江・嶺の兵を発して獠人を攻めしむ。叛乱平定の後、馮盎を漢陽太守とす。

詔して楊素を雲州道行軍元帥とし、長孫晟を受降使者とし、啓民可汗を挟みて北のかた歩迦可汗を攻めしむ。

高祖文皇帝中 仁寿二年(壬戌、公元602年)

春、三月、己亥日、皇上、仁寿宮に幸す。突厥の思力俟斤等、南のかた黄河を渡り、啓民可汗の男女部衆六千人、各種牲畜二十余万頭を掠めて去る。楊素、諸軍を率いて追撃し、転戦すること六十余里、突厥を大いに敗り、突厥、北のかた逃走す。楊素、また追撃を続け、夜に及びて彼らに追いつく。彼らの散逸を恐れ、自らの騎兵をしてやや後れしめ、自ら二騎の騎兵と二名の降突厥人を率い、突厥人と並行す。突厥人、覚らず。彼らが宿営を停めて未だ安んじざるに及び、後続の騎兵を促して突然襲撃せしめ、突厥を大いに敗り、掠奪したる人口牲畜をことごとく奪い返し、啓民可汗に還付す。ここより突厥、遠く遁れ、沙漠以南、侵擾掠奪の事なし。楊素、功により子楊玄感を柱国に進め、楊玄縦に淮南公の爵を賜う。

兵部尚書柳述は、柳慶の孫なり。蘭陵公主を娶り、恩寵に依りて意気に事をなし、楊素以下の者、皆これに順う。皇帝、符璽直長万年人韋雲起に問うて曰く、「外に不便の事あらば、我に告ぐべし」と。柳述、その時皇帝の側に侍す。韋雲起、奏して曰く、「柳述、驕り横暴にして、未だ大なる事を経ず。兵機の要務、その任に堪えず。ただ公主の夫たるを以て、要職に身を置く。臣、恐れらくは衆議、陛下をして『官を任ずるに賢を選ばず、偏に寵愛する者を親しむ』と謂わんことを。これも亦た最大の不便に候う」と。皇帝、その言を是とし、顧みて柳述に謂いて曰く、「韋雲起の言、汝の良薬なり。以て師友と為すべし」と。秋、七月、丙戌日、詔して朝廷内外の官に命じ、各自その知る者を挙げしむ。柳述、韋雲起を挙げ、通事舎人とせらる。

益州総管蜀王楊秀、容貌魁偉にして、胆気あり、武芸を好む。皇帝、常に独孤皇后に謂いて曰く、「楊秀、必ず良き死を遂げず。朕の在る時は憂うることなけれども、兄弟の時に及びて、必ず造反せん」と。大将軍劉哙、西爨を討つ時、皇帝、上開府儀同三司楊武通に命じて兵を率いて続いて進ましむ。楊秀、寵愛する者万智光を用いて楊武通の行軍司馬とす。皇帝、楊秀の人の用い方の非なるを以て、これを譴責し、ここにおいて群臣に謂いて曰く、「我が法度を敗る者は、我が子孫なり。猛虎の如し。他の獣、これを傷つくる能わざるも、却って皮毛の間の虫に咬食せらるるが如し」と。ここにおいて楊秀の統轄範囲を分減す。

長史元岩の死後、楊秀、次第に奢侈僭越し、渾天儀を造り、多く山獠を捕捉して宦官と為し、車馬服飾、皇帝に比拟す。太子楊勇、讒言によりて廃せられ、晋王楊広太子と為るに及び、楊秀、心中平らかならず。太子、楊秀の終に禍根と為るを恐れ、密かに楊素に命じてその罪過を捜求し、以て讒言せしむ。皇上、ここにおいて楊秀を征召す。楊秀、猶豫し、病と称して行かざるを欲す。総管司馬源師、諫む。楊秀、色を変えて曰く、「これは我が家の事なり、汝と何の関わりあらんや」と。源師、涙を流して対えて曰く、「臣、府中の幕僚たるに愧じ、敢えて心を尽くさざらんや!聖上、勅命ありて大王を追召す。已に時日を延ばし、今なお猶ほ行かず。百姓、大王の心を知らず。若し異議を生ぜば、朝廷内外、猜疑驚駭し、雷霆の詔書を発し、一介の使者を遣わさば、大王何を以て自ら明らかにせんや?願わくは大王、熟考せよ!」と。朝廷、楊秀の変を生ずるを恐れ、戊子日、原州総管独孤楷を益州総管とし、駅馬に乗りて疾行してこれを換えしむ。独孤楷到着するも、楊秀、なお発たず。独孤楷、反復勧諭すること久しくして、ようやく上路す。独孤楷、楊秀の悔いる色あるを察し、ここにおいて軍を整えて備えをなす。楊秀、四十余里行きて、軍を回して独孤楷を襲撃せんとす。備えあるを偵知し、ここにおいて止む。

八月、甲子日、皇后独孤氏、崩ず。太子、皇上及び宮人に対して哭すること、死に堪えざるが如し。然れどもその私室に在りては、飲食談笑、平常の如し。又、毎朝、二溢米を進むるを命ずるも、私かに命じて外より肥肉、乾肉、魚鮓を取り、竹筒に入れ、蠟を以て口を封じ、衣襟に裹みて持ち入らしむ。

著作郎王劭、奏して曰く、「仏の説く、『人、天上に生まれ、及び無量寿国に生まるとき、天仏、大光明を放ち、香花伎楽を以て迎えん』と。恭しく惟るに、大行皇后の福善祥瑞、諸々の秘記、備わって詳らかに載せ、皆、妙善菩薩と謂えり。臣、謹みて八月二十二日を案ずるに、仁寿宮内にまた金銀花の雨を降らす。二十三日、大宝殿の後、夜に神光現る。二十四日卯時、永安宮の北、自然に発する種々の音楽あり、虚空に震動充満す。夜五更に及び、忽然として寝たるが如く、ここに昇天す。経文の説く所と、事事符合応験す」と。皇上、これを覧て悲しみ喜ぶ。

九月、丙戌日、皇上、仁寿宮より京城に還る。

冬、十月、癸丑日、工部尚書楊達を納言とす。楊達は楊雄の弟なり。

閏月、甲申日、詔して楊素、蘇威と吏部尚書牛弘等に命じて五礼を修訂せしむ。

上は上儀同三司の蕭吉に命じて皇后の葬地を選ばせた。蕭吉は一つの吉地を見つけて言った。「占年は二千年、占世は二百世と出ました。」上は言った。「吉凶は人によりて決まるものであり、地によるものではない。高緯(北斉の後主)が父を葬った時、占わせなかったことがあろうか!すぐに国は滅びた。我が家の墓田も、もし不吉だと言うならば、我は天子になるべきではなかった。もし凶でないと言うならば、我が弟は戦死すべきではなかった。」しかし結局は蕭吉の言葉に従った。蕭吉は退出した後、同族の蕭平仲に告げて言った。「皇太子は宇文左率を遣わして深く私に感謝して言った。『あなたは以前、私が太子になるべきだとおっしゃいましたが、ついにそれが叶いました。決して忘れません。今、山陵を占うにあたり、どうか私が早く確立されるよう務めてください。私が確立されたならば、必ず富貴をもってあなたに報いましょう。』私は彼に言った。『四年の後、太子は天下を治めるでしょう。』もし太子が政を執れば、隋朝はおそらく滅びるでしょう!私は以前、彼を欺いて『占年は二千年』と言いましたが、実は三十字のことです。『占世は二百世』と言ったのは、実は二世を伝えるという意味を取ったのです。あなたは覚えておきなさい!」

壬寅の日、文献皇后を太陵に葬った。詔を下して言った。「楊素は葬事を経営し、勤勉に吉地を求め、この楊素の心を論ずれば、事は誠孝を極めている。どうして戎寇を平定した功績に比べられようか!別に彼の一子を義康公に封じ、食邑一万戸とせよ。」并せて田三十頃、絹一万段、米一万石、金珠綾錦はこれに相当するものを賜った。

蜀王楊秀が長安に到着した。上は彼を見て、言葉をかけなかった。翌日、使者を遣わして厳しく責めた。楊秀が謝罪し、太子と諸王は朝廷で涙を流して謝罪した。上は言った。「先に秦王(楊俊)が財物を浪費した時、我は父道をもって訓戒した。今、楊秀は百姓を害しているので、君道をもって制裁すべきである。」そこで彼を法執行官に引き渡した。開府儀同三司の慶整が諫めて言った。「庶人楊勇はすでに廃され、秦王はすでに亡くなりました。陛下が現在お持ちの子は多くありません。どうしてここに至りましょうか!蜀王の性格は非常に剛直です。今、厳しく罰せられれば、おそらく自らを全うできないでしょう。」上は大いに怒り、その舌を切ろうとした。そこで群臣に言った。「楊秀を市で斬り、百姓に謝罪すべきである。」そして楊素らに命じて追究し処罰させた。

太子は密かに偶人を作り、手を縛り心臓を釘で打ち、枷鎖や足枷をかけ、上と漢王楊諒の姓名を書き、また「西岳の慈父・聖母・神兵に請う、楊堅・楊諒の神魂を収め、この形状のごとく、散らし蕩かせ給うなかれ」と記した。密かに華山の麓に埋めた。楊素がこれを発掘した。また、楊秀が図讖を勝手に述べ、京城に妖異があると称し、蜀地の瑞祥を捏造したと言った。并せて檄文を作り、「期日を定めて罪を問う」と記し、それを楊秀の文集の中に置き、共に上に奏上した。上は言った。「天下にどうしてこのようなことがあろうか!」十二月癸巳の日、楊秀を庶人に廃し、内侍省に幽閉し、妻子との面会を許さず、ただ二人の獠族の婢女を彼に仕えさせ、連座して罪に問われた者は百余人に及んだ。楊秀は哀痛の表を上って謝罪し言った。「どうか仁慈の恩恵を垂れ、憐れみを賜い、残りの命が尽きないうちに、どうか瓜子との面会を願います。どうか一つの墓穴を賜り、骸骨を安んずる所を得させてください。」瓜子とは、彼の愛子である。上はそこで詔を下して彼の十の罪状を列挙し、かつ言った。「我は今、楊堅・楊諒があなたの何の親戚であるかを知らない。」後にようやく彼が子と共に住むことを許した。

当初、楊素はかつて小さな過失により勅命で御史台に送られ、治書侍御史の柳彧に審問させるよう命じられた。楊素は貴顕を恃み、柳彧の座に座っていた。柳彧が外から入ってこれを見て、階の下で笏を正し、儀容を整えて楊素に言った。「勅命によりてあなたの罪過を審問する!」楊素は慌てて下りた。柳彧は案に倚りかかって座り、楊素を庭中に立たせ、弁駁して事の状況を問いただした。楊素はこのことにより恨みを抱いた。蜀王楊秀はかつて柳彧に李文博の撰した『治道集』を求め、柳彧はそれを与えた。楊秀は柳彧に十人の奴婢を送った。楊秀が罪を得るに及び、楊素は上奏して、柳彧が内臣として諸侯と交わったとし、彼を削職して平民とし、懐遠鎮に流して戍守させた。

皇帝は司農卿の趙仲卿を益州に派遣し、楊秀の事を徹底的に追及させた。楊秀の賓客が通ったところは、趙仲卿は必ず罪をでっち上げて法に照らして処罰し、州県の長官でこれにより罪を得た者は半数を超えた。上は彼を有能と認め、賞賜は非常に厚かった。

久しくして、貝州長史の裴肅が使者を遣わして奏書を上った。言うには、「高熲は天賦の傑出した良才であり、開国の元勲です。衆人の妬みを受け、廃されるに至りました。願わくば、陛下はその大功を記し、その小過を忘れられよ。また、二人の廃された庶人皇子(楊勇・楊秀)は罪を得て久しく、悔改の心が無いことがありましょうか!願わくば、陛下は君父の仁慈を弘め、天性の道義を顧みられ、それぞれに小国を封じて、その為すところを観察されよ。もし改過して善に向かえば、徐々に封地を増やし、もしなお悔い改めなければ、貶謫・削奪しても遅くはありません。今、彼らの自新の道は永遠に絶たれ、慚愧の心は表す所がありません。悲しむべきではありませんか!」奏書が上呈され、上は楊素に言った。「裴肅は我が家の事を憂慮している。これも極めて誠心である。」そこで裴肅を召し出して朝廷に入れた。太子はこれを聞き、左庶子の張衡に言った。「楊勇を自新させようとは、彼は何を考えているのか?」張衡は言った。「裴肅の意図を見るに、彼を呉太伯や漢の東海王のようにさせたいのでしょう。」裴肅が到着し、上は直接彼に楊勇はもはや再び收録できない旨を諭し、そして彼を帰した。裴肅は、裴侠の子である。

楊素の弟の楊約および堂叔父の楊文思・楊文紀、族父の楊忌は皆、尚書・列卿を務め、彼の子たちは汗馬の功労が無いにもかかわらず、官は柱国・刺史に至った。彼は広く資産を経営し、京城から四方の都会に至るまで、邸店・水碾・水磨・肥沃な田地・上等な宅第は、数えきれないほどあった。家僮は数千人、後庭に綺羅をまとう妓妾は千人を上回った。宅第は豪華奢侈で、その規制は宮殿に比した。親戚故旧の官吏は清要顕赫の職に満ちていた。既に一人の太子と一人の親王を廃してから、威勢権力はますます盛大になった。朝廷の大臣の中で彼に背き触れた者は、あるいは一族全滅に至った。彼に阿り迎合した者やその親戚は、たとえ才能が無くとも、必ず抜擢昇進させ、朝廷上下は風に従うように、畏れずして服従しない者は無かった。敢えて楊素と対抗して屈しなかった者は、ただ柳彧および尚書右丞の李綱、大理卿の梁毗のみであった。

当初、梁毗は西寧州刺史となり、通算十一年であった。蛮夷の酋長は皆、金の多い者を豪傑とし、互いに攻撃し奪い合い、安寧の年はほとんど無かった。梁毗はこれを憂えた。後に、諸酋長が一緒に金を持って梁毗に贈った。梁毗は金を座の側に置き、それに向かって慟哭し、彼らに言った。「この物は飢えても食べられず、寒くても着られない。あなたたちはこの物のために互いに殺し合い、数えきれないほどになっている。今、この物を持って来たのは、私を殺そうとするのか!」少しも受け取らなかった。そこで蛮夷は感動し悟り、互いに攻撃するのをやめた。上はこれを聞いて善しとし、彼を召して大理卿とし、その法の執行は公平允当であった。

梁毗、楊素が権勢を独占しているのを見て、国の禍いとなることを憂慮し、密奏を封じて上奏した。「臣は聞きます。臣子は威福を専らにしてはならず、それがあなたの家を害し、あなたの国を禍にすると。臣は私かに左僕射・越国公楊素が寵遇を重ねられ、権勢が日々に隆盛となり、士大夫たちは皆、彼の顔色を窺って行動しているのを見ております。彼の意に逆らう者は夏に厳しい霜が降りるかの如くで、彼の意に迎合する者は冬に甘い雨が降るかの如くであり、一人の人の栄辱は彼の唇によって決まり、事業の廃興は彼の指揮を待っております。彼が偏愛する者は皆、忠誠や正直な者ではなく、彼が抜擢する者は全て親族であり、子弟が至る所に分布し、州県を兼ねて管掌しております。天下が无事であれば、あるいは暫くはその非分の図謀を鎮めることができましょうが、天下に変事があれば、彼は必ず禍乱の端緒となるでしょう。奸臣が権を専らにするのは、徐々に形成されるものであり、王莽は多年の積み重ねに依り、桓玄は幾代もの経営に基づき、ついには漢の祭祀を絶やし、晋の国祚を覆しました。陛下がもし楊素を阿衡(伊尹)とお考えならば、臣は彼の心が必ずしも伊尹の心ではないことを憂慮します。謹んで陛下に古今を審らかにし、状況に応じて処置していただき、大いなる基業を永遠に安定させ、天下の民草を幸せにしていただくことを請う次第です。」奏書が差し出されると、皇上は大いに怒り、梁毗を捕らえて獄に下し、自ら彼を尋問した。梁毗は力強く陳述した。「楊素は寵愛を擅にし権を弄び、将兵を統率する地において、道無き殺戮を行いました。また、太子と蜀王が罪を得て廃された時、百官は震え慄かぬ者はありませんでしたが、ただ楊素だけが眉を上げ腕を振るい、喜びを顔に表し、国家に事があるのを自らの幸いとしておりました。」皇上は彼を屈服させることができず、ついに釈放した。

この後、皇上も次第に楊素を疎んじ疑うようになり、そこで勅令を下した。「僕射は国家の宰輔であり、自ら瑣末な事務を処理する必要はない。ただ三、五日に一度尚書省に来て、大事を評論すればよい。」表面上は優遇と尊崇を示したが、実はその権力を奪ったのである。楊素はこのため仁寿の末年まで、再び尚書省の事務を統括することはなかった。楊約を伊州刺史に左遷した。

楊素が既に疎んじられると、吏部尚書・柳述はますます権勢を振るい、兵部尚書を兼ね、機密の掌握に参与した。楊素はこのため彼を憎んだ。

太子が賀若弼に問うた。「楊素、韓擒虎、史万歳は皆、良将と称されているが、その優劣は如何に?」賀若弼が答えた。「楊素は猛将であり、謀将ではありません。韓擒虎は闘将であり、領将ではありません。史万歳は騎将であり、大将ではありません。」太子が言った。「それでは大将とは誰か?」賀若弼が下拜して言った。「ただ殿下のご選択に任せるのみです!」賀若弼の意は自らを褒め称えるものであった。

交州の俚族の首領・李仏子が乱を起こし、越王の旧城を占拠し、兄の子・李大権を派遣して龍編城を占拠させ、その別部の首領・李普鼎に烏延城を占拠させた。楊素は瓜州刺史・長安人の劉方が将帥の謀略を有していると推薦し、詔を下して劉方を交州道行軍総管とし、二十七営を統率して進軍させた。劉方は軍令が厳粛で、違反する者は必ず斬首した。しかし彼は士卒を仁愛し、病にかかった者がいれば自ら見舞い慰めたため、士卒もこれに心服した。都隆嶺に到着すると、賊軍に遭遇し、これを撃破した。進んで李仏子の営寨に迫り、先に禍福を説き諭した。李仏子は恐れ、投降を願い出て、長安に護送された。

高祖文皇帝中 仁寿三年(癸亥、西暦六〇三年)

秋、八月、壬申の日、幽州総管・燕栄に自尽を賜った。燕栄は性情が厳しく残酷で、側近を鞭打つこと、動けば上千に及んだ。彼はかつて路傍に叢生する荊棘を見て、これを刑杖にできると考え、人に命じて取らせ、すぐにそれで人を試し打ちした。ある人が自ら罪がないと申し立てると、燕栄は言った。「後日もし罪があれば、その時は免じてやろう。」後にその人が過ちを犯し、燕栄が杖打とうとすると、その人は言った。「先日杖打たれた時、使君は罪があれば寛恕するとお約束になりました。」燕栄は言った。「罪がなくともこのように打つのだ、ましてや罪があるのに!」そのまま杖打ちした。

観州長史・元弘嗣が幽州長史に転任することになり、燕栄に辱められるのを恐れ、固く辞退した。文帝は勅令を燕栄に下した。「元弘嗣がもし杖打ち十回以上の罪を犯したならば、必ず上奏して聞かせよ。」燕栄は怒って言った。「この小僧、よくも私を嘲弄したな!」そこで元弘嗣を派遣して倉庫の穀物の収納を監督させ、一粒の糠秕を簸り出すだけで、彼を処罰した。鞭打ちは毎回十回に満たなかったが、一日のうちに、あるいは三、四回に及んだ。こうして一年を経るうちに、怨恨と隔たりは日増しに深まった。燕栄はついに元弘嗣を捕らえて獄に下し、その食糧を絶った。元弘嗣は衣服の綿を抜き出し、水に浸して飲み下した。その妻が宮中に赴いて冤罪を訴え、文帝は使者を派遣して審査・検証させた。使者は上奏して燕栄が暴虐であり、賄賂を受けて名声が地に落ちていると述べた。そこで文帝は燕栄を京師に召還し、自尽を賜った。元弘嗣が燕栄に代わって政務を処理したが、残酷さはさらに激しくなった。

九月、壬戌の日、常平官を設置した。

この年、竜門人の王通が宮中に赴き『太平十二策』を献上したが、文帝は採用できず、官を罷めて帰らせた。王通はそこで黄河・汾水の間で学問を教授し、遠方から来る学生が非常に多かった。朝廷は何度も召し出そうとしたが、彼は出仕しなかった。楊素は彼を非常に重んじ、官に就くよう勧めた。王通は言った。「私は先人が残した古びた家屋があり、風雨を凌ぐに足り、わずかな田畑があり、粥を給するに足り、書を読み道理を論ずるに足りて、自ら楽しんでおります。願わくは明公、自らを正して天下を治め、時節を和順にし年を豊かにしてくだされば、私王通が受ける恩賜はそれだけで十分であり、官に就くことを望みません。」ある人が楊素の前で王通を讒言して言った。「彼は実際にはあなたを軽んじております。なぜあなたは彼を尊敬されるのですか?」楊素はこの言葉を王通に問うた。王通は言った。「もし明公が軽んじられるべき方ならば、私の行いは正しいでしょう。もし明公が軽んじられるべき方でなければ、私の行いは誤りでしょう。得失は全て私自身にあり、明公に何の関係がありましょうか!」楊素は以前と同様に彼を遇した。

学生の賈琼がどのようにすれば誹謗を止められるかと問うた。王通は言った。「弁解しないことだ。」怨恨を止めるにはどうするかと問うと、「争わないことだ。」と答えた。王通はかつて言った。「赦免のない国は、その刑罰が必ず公平である。横暴に税を徴収する国は、その富が必ず削られる。」また言った。「誹謗を聞いて怒る者は、讒言の媒介である。誉め言葉を見て喜ぶ者は、阿諛の媒介である。媒介を断ち媒介を取り除けば、讒言と阿諛は遠ざかる。」大業の末年、王通は家で亡くなり、門人が彼に諡号を文中子と贈った。

突厥・歩迦可汗の部属が大いに乱れ、鉄勒・僕骨などの十数部落が、皆歩迦に背いて啓民可汗に投降した。歩迦の部衆は潰走し、西に逃れて吐谷渾に奔った。長孫晟は啓民可汗を送って碛口に安置し、啓民可汗はここに至って完全に歩迦の部衆を有することとなった。