隋紀五
資治通鑑 第181巻 卷第一百八十一
【隋紀五】著雍執徐(戊辰)より玄黓涒灘(壬申)に至る、凡そ五年。
隋煬皇帝上之下 大業四年(戊辰、西暦608年)
春、正月、乙巳の日、詔を下して河北の諸軍五百余万人を徴発して永済渠を開鑿し、沁水を引きて南のかた黄河に至り、北のかた涿郡に通ず。壮年の男子足らず、始めて婦女を発して役に就かしむ。
壬申の日、太府卿元寿を以て内史令と為す。
裴矩、西突厥の処羅可汗が其の母を思念するを聞き、使者を遣わして招撫懐柔せんことを請う。二月、己卯の日、煬帝、司朝謁者崔君肅をして詔書を奉じて慰問曉諭せしむ。処羅可汗、崔君肅を見るに甚だ傲慢にして、詔書を受くるに肯んじて起たず。崔君肅、之に謂いて曰く「突厥はもと一國、中に分裂して半ばを為し、毎歳相戦うこと、積もること數十年、相滅ぼすこと能わず、是れ明らかに両者の勢い均しきのみ。然るに啓民可汗、其の部落の百万の衆を率い、身を屈し膝を折り、大隋の天子に臣と称す。此れ何の故ぞや。正に彼、可汗を深く疾み、獨り自ら制する能わずして、大国の兵を借りて共に可汗を滅ぼさんと欲するのみ。群臣皆啓民の請を聴許せんと欲し、天子既に許し、出兵日に期す。但だ可汗の母たる向夫人、西突厥の滅亡せんことを懼れ、日夜宮闕の前に守り、泣きて哀れみを請い、匍匐して謝罪し、使者を遣わして可汗を召し、可汗をして入朝帰附せしめんことを請う。天子之を憐れみ、故に復た使者を此に遣わす。今可汗竟に此くの如く傲慢なれば、則ち向夫人は天子を欺くこととなり、必ず市朝に誅され、首級は突厥の王庭に伝送せられん。然る後に大隋の軍を発し、東突厥の衆を加え、左右に挟み扶けて、以て可汗を撃たば、可汗の滅亡は日の無きなり!何ぞ二拝の礼を惜しみて、慈母の命を絶ち、一たる称臣の言を惜しみて、國をして墟たらしめんや!」処羅可汗、驚懼して立ち上がり、涙を流して再拝し、跪いて詔書を受け、乃ち使者をして崔君肅に従いて汗血馬を貢せしむ。
三月、壬戌の日、倭王多利思比孤、使者を遣わして入朝貢を為す。煬帝に与うる書に曰く「日出處の天子、書を日沒處の天子に致す。恙無きや」と。煬帝之を見て、説ばず、鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書、無礼なる者は、復た奏聞すること勿れ」と。
乙丑の日、帝、車駕五原に至り、因りて塞を出でて長城を巡視す。行宮に六合板城を設け、槍車を以て載す。停宿する毎に、車轅を外に向けて以て外圍と為し、内に鐵菱角を布く;次に弩床を設け、皆鋼錐を插し、外に向く;上に旋機弩を安裝し、繩を以て機關に連ね、人繩に觸るれば弩機旋轉し、觸れたる方向に発す。外に又繩を以て周繞し、鈴柱、槌磐を設けて以て警戒を知る。
煬帝、能く極遠に使する者を募り、屯田主事常駿等、赤土國に使せんことを請い、煬帝大いに喜ぶ。丙寅の日、常駿等に命じて物五千段を齎し、以て赤土王に賜う。赤土國は、南海中の遠國なり。
煬帝、宮殿を修せざる日無く、両京(長安、洛陽)及び江都、園林亭殿雖も多く、久しければ則ち益厭う。遊幸の毎に、左右に顧み、意に適う所無く、何くにか往くべきを知らず。乃ち天下の山川の圖を貢せしめ、自ら一々覧觀し、以て宮殿園林を置くに勝れる地を求む。夏、四月、詔して汾州の北、汾水の源に於いて、汾陽宮を営建せしむ。
初め、元徳太子薨じ、河南尹斉王楊暕、次に以て嗣となるべきなり。元徳太子の官屬に隸する吏士二万余人、悉く楊暕に隸す。煬帝、為に精しく僚屬を選び、光禄少卿柳謇之を以て斉王長史と為し、且つ之に誡めて曰く「斉王、徳業修まりて備わらば、富貴自ずから卿の家に集まらん;若し行い不善有らば、罪また卿に及ばん」と。柳謇之は、柳慶の姪なり。楊暕、寵遇日に隆んに、百官趨きて之に謁し、道路に填塞す。楊暕、是に由り驕橫にして、小人に親狎し、所為多法度に合わず。左右の喬令則、庫狄仲锜、陳智偉を遣わして歌舞声色を求む。喬令則等、是に因りて放恣に、人家に美女有るを聞き、輒ち暕の命と仮して召し、車に載せて暕の第に入れ、奸淫して後放つ。庫狄仲锜、陳智偉、隴西に至り、諸胡を拷掠し、其の名馬を責索し、數匹を得て以て暕に献ず;暕、馬主に還すを命ずるも、仲锜等、暕の賜と詐り、直ちに家に帰す、暕知らざるなり。楽平公主、嘗て煬帝に奏し、柳氏の女美なりと曰うも、煬帝答えず。久しくして、公主復た柳氏を以て暕に進め、暕之を納む。後、煬帝公主に問いて曰く「柳氏の女安くにか在る」と。公主曰く「斉王に在り」と。煬帝説ばず。暕、煬帝に従いて汾陽宮に幸し、大いに狩猟す。煬帝、暕に命じて千騎を率いて圍に入らしむ。暕、多く麋鹿を獲て以て献ず;而して煬帝獲る所無く、乃ち従官を怒るも、皆曰く「斉王の左右の人の為に遮らるる所と為り、獣前に走る能わず」と。煬帝是に由り怒り、暕の罪過を求む。時に制有り:県令故無く境を出づるを得ず。伊闕県令皇甫詡有り、暕の寵幸を得、禁を犯して之を汾陽宮に至らしむ。御史韋徳裕、煬帝の旨に迎合して暕を弾劾す。煬帝、甲士千余人をして大いに暕の第を捜索せしめ、因りて其事を窮治す。暕の妃韋氏早く死し、暕、妃の姉元氏の妻と通じ、女を生む。暕、相者を召して遍く後庭の女子を相せしむ。相者、妃の姉を指して曰く「此の生産の子、皇后と為るべし」と。暕、元徳太子に三子有るを以て、己が立たれざるを恐れ、陰に左道を以て魘魅し、事此に至りて悉く発く。煬帝大怒り、喬令則等數人を斬り、妃の姉を賜死し、斉王府の官属皆辺遠に流す。柳謇之、斉王を匡正する能わざるを以て、罪と為し、官籍を除く。時に趙王楊杲年尚幼し。煬帝、侍臣に謂いて曰く「朕唯だ暕の一子有るのみ。然らずんば、當に市朝に肆して、以て國家の法を明らかにすべし」と。暕是に由り恩寵日に衰え、京兆尹と為るも、復た時政に与わず。煬帝恒に一虎賁郎将をして其の府事を監せしめ、暕小過有れば、虎賁郎将奏聞す。煬帝亦常に暕の変を生ぜんことを患い、給する所の左右、皆老弱にして、徒に數を備うるのみ。太史令庾質は、庾季才の子にして、其の子斉王の属官と為る。煬帝、庾質に謂いて曰く「汝、一心に我に事えずして、却って子をして斉王に事えしむ、何ぞ二心有るや」と。対えて曰く「臣、陛下に事え、子、斉王に事う、實に一心にして、敢えて二心有らず」と。煬帝猶怒り、之を出だして合水県令と為す。
乙卯の日、詔して曰く、突厥啓民可汗、朝廷の教化に遵い、戎狄の俗を変ぜんと欲す。宜しく万寿戍に於いて城郭屋宇を修建し、其の帷帳牀褥等の物、務めて優給せよと。
秋、七月、辛巳の日、丁壮二十余万人を発して長城を築く、楡谷より東に。
裴矩は鉄勒を説得して吐谷渾を攻撃させ、大いにこれを破った。吐谷渾の可汗である伏允は東方へ逃れ、西平の境内に入り、使者を派遣して投降と救援を求めた。煬帝は安德王楊雄に浇河から出兵させ、許公宇文述に西平から出兵して迎えさせた。宇文述が臨羌城に到着すると、吐谷渾は宇文述の兵力が強盛であることを恐れ、投降せずに部衆を率いて西方へ逃走した。宇文述は兵を率いて追撃し、曼頭・赤水の二城を攻め落とし、首級三千余を斬り、吐谷渾の王公以下二百人を捕らえ、男女四千口を捕虜として帰還した。伏允は南方の雪山へ逃れ、その旧地はすべて空となり、東西四千里、南北二千里が隋朝の占有するところとなり、州・県・鎮・戍を設置し、天下の軽罪人をそこに移住させた。
八月、辛酉の日、皇帝は自ら恒山を祭祀し、天下に大赦を施した。河北道の郡守はすべて集まり、裴矩が招致した西域の十数カ国も皆、祭祀を助けた。
九月、辛未の日、天下の鷹を養う者をすべて召し集めて東京に集め、到着した者は一万余人に及んだ。
冬、十月、乙卯の日、新しい法令格式を頒布した。
常駿らが赤土国の境内に到着すると、赤土国王利富多塞は使者を派遣し、三十艘の船で迎えさせ、金鎖を献上して常駿の船を繋ぎ、合わせて航海すること百余日、赤土国境に入ってから一ヶ月余りでようやくその都に到達した。赤土国王の居処や器物用品は極めて珍貴華麗であり、使者を接待する礼節も非常に厚く、その子那邪迦を常駿に随行させて入朝し貢物を献上させた。
煬帝は右翊衛将軍・河東人の薛世雄を玉門道行軍大将に任命し、突厥の啓民可汗と連合して伊吾を攻撃させた。軍隊が玉門関を出発したが、啓民可汗は来なかった。薛世雄は孤軍で砂漠を越え、伊吾は初め隋軍が到達できないと思い、すべて備えをしていなかった。薛世雄の軍がすでに砂漠を越えたと聞き、非常に恐れて投降を請うた。薛世雄はそこで漢代の旧伊吾城の東に城を築き、銀青光禄大夫王威に一千余名の甲士を率いて戍守させてから帰還した。
隋の煬皇帝の上之下 大業五年(己巳、紀元609年)
春、正月、丙子の日、東京を東都と改称した。
突厥の啓民可汗が来朝し、賞賜の礼はますます厚くなった。
癸未の日、詔を下して天下に均田制を施行した。
戊子の日、皇帝は東都から西方へ帰還した。
己丑の日、民間に鉄叉・搭鉤・刀刃の類の使用を禁止する令を下した。
二月、戊申の日、皇帝の車駕は西京(長安)に到着した。
三月、己巳の日、西方へ河右地方を巡視した。乙亥の日、扶風の旧宅に臨んだ。夏、四月、癸亥の日、臨津関から出兵し、黄河を渡り、西平に到着して軍を陳列し武事を講じ、吐谷渾を攻撃する準備をした。五月、乙亥の日、皇帝は拔延山で大規模な狩猟を行い、包囲網の周囲は二十里に及んだ。庚辰の日、長寧谷に入り、星嶺を越えた。丙戌の日、浩亹川に到着した。橋が完成していなかったため、都水使者の黄亘および監督の役人九人を斬首し、数日後に橋が完成し、そこで進軍を続けた。
吐谷渾の可汗伏允は部衆を率いて覆袁川に拠った。煬帝は内史元寿に命じて南方の金山に駐屯させ、兵部尚書段文振に北方の雪山に駐屯させ、太僕卿楊義臣に東方の琵琶峡に駐屯させ、将軍張寿に西方の泥嶺に駐屯させ、四面から包囲させた。伏允は数十騎を連れて脱出し、その名王の一人に伏允と偽らせて車我真山に拠らせた。壬辰の日、煬帝は詔を下し、右屯衛大将軍張定和に命じて捜索捕獲させた。張定和は敵が少ないと軽んじ、鎧をつけずに身を挺して山に登ったところ、吐谷渾の伏兵が射殺した。その副将の柳武建が吐谷渾を攻撃し、これを破った。甲午の日、吐谷渾の仙頭王は行き詰まり、男女十余万人を率いて投降した。六月、丁酉の日、煬帝は左光禄大夫梁默らに命じて伏允を追撃討伐させたが、敗れ、梁默は伏允に殺された。衛尉卿の劉権は伊吾道から出撃し、吐谷渾を攻めて青海に至り、一千余人を捕虜とし、その勢いに乗じて追撃し、伏俟城に到達した。
辛丑の日、煬帝は給事郎の蔡征に言った。「古来より天子には巡狩の礼がある。しかし江東の諸帝王は多くが脂粉を塗り、深宮の中に座して、百姓と相見えない。これはどういう道理か。」蔡征は答えた。「これが彼らが長く統治できなかった理由でございます。」丙午の日、煬帝は張掖に到着した。煬帝が西巡しようとした時、裴矩に命じて高昌王の曲伯雅および伊吾の吐屯設らを説得させ、厚利で誘って入朝させた。壬子の日、煬帝は燕支山に到着し、曲伯雅・吐屯設らおよびの使者が路辺で拝謁した。煬帝は皆に金玉を佩びさせ、錦繡や毛織物を着せ、香を焚き楽を奏で、歌舞を喧しくさせた。煬帝はまた武威・張掖の男女百姓に盛装して見物するよう命じ、衣服や車馬が鮮やかでない者は郡県の官吏が督促して罰した。車馬人群れが入り混じり騒ぎ、数十里にわたって連なり、これによって中国の強盛を示した。吐屯設は西域の数千里の土地を献上し、煬帝は大いに喜んだ。癸丑の日、西海・河源・鄯善・且末等の郡を設置し、天下の罪人を流して戍卒とし、これらの地を守らせた。劉権に命じて河源郡の積石鎮を鎮守させ、大規模に屯田を開墾し、吐谷渾を防ぎ、西域への道を開通させた。
この時、天下には郡が合わせて百九十、県が千二百五十五、戸口は八百九十余万あった。東西は九千三百里、南北は一万四千八百十五里。隋朝の強盛は、ここにおいて頂点に達した。
煬帝は裴矩に撫慰懐柔の謀略があると考え、銀青光禄大夫に昇進させた。西京の諸県および西北の諸郡から、すべて塞外に物資を輸送し、年間の費えは億万を数えた。路は険阻で遠く、賊寇の略奪に遭い、人員や家畜が死亡して到着できない者は、郡県が賦税を課してその家を破産させた。このため百姓は生業を失い、西部地区がまず困窮に陥った。
初め、吐谷渾の伏允はその子の順を派遣して朝見させたが、煬帝は順を留めて帰さなかった。伏允は戦いに敗れて逃走し、生計を立てることができず、数千騎を率いて党項に客居した。煬帝は順を可汗に立て、玉門に送り、その残余の部衆を統率するよう命じた。その大宝王の尼洛周を輔佐とした。西平に到着した時、順の部下が尼洛周を殺し、順はついに吐谷渾に入ることができずに帰還した。
丙辰の日、煬帝は観風殿に臨み、大規模に礼器文物を陳列し、高昌王の曲伯雅および伊吾の吐屯設を引き連れて殿上に登らせ宴飲し、その他の蛮夷の使者は殿階の下で陪侍した者が二十余国に及び、九部楽および魚龍戯を演奏して楽しませ、賞賜には差別があった。戊午の日、天下に大赦した。
吐谷渾には青海があり、民間伝説ではそこに牝馬を放つと龍種を得られるという。秋、七月、青海に牧場を設置し、二千匹の牝馬を山谷に放って龍種を得ようとしたが、効果がなく中止した。
皇帝の車駕は東へ帰還し、大斗抜谷を通過した。山路は険しく狭く、人々は魚のように連なって進み、風雪が交わり、天色は暗くなり、文武の官は飢えと寒さに苦しみ、全身ずぶ濡れとなり、夜になって長く前の営地に到達できず、兵士は凍死した者が大半、馬や驢馬は十の八、九が凍死し、後宮の妃子や公主の中には、狼狽して離散し、軍士と雑じって山中に宿泊する者もあった。九月、癸未の日、車駕は西京に入った。冬、十一月、丙子の日、再び東都へ赴いた。
民部侍郎裴蘊は、民間の戸籍登録において、戸口の脱漏や老幼の虚偽申告がなお多いことから、貌閲(実地調査)を実施するよう上奏し、一人でも不実があれば、関係の役人は解職とするよう求めた。また、民衆による告発を許可し、一人の壮丁を発見した場合には、告発された者に代わって告発者が賦役を納めることとした。この年、各郡が報告した計帳には、壮丁二十四万三千人、新たに帰属したが加わった。煬帝は朝に臨んで奏状を御覧になり、百官に向かって言った。「前代には賢能な人材がおらず、このような欺瞞・偽装の状況を招いた。今や戸口はすべて正確となり、すべて裴蘊の力による。」これ以降、裴蘊は次第に親しく信任されるようになり、まもなく抜擢されて御史大夫に任命され、裴矩、虞世基と共に機密を掌ることとなった。裴蘊は君主の微細な意図を窺い知ることに巧みで、煬帝が罪に陥れようとする者には、法を曲げて罪名をでっち上げ、赦そうとする者には、寛大な法律の条文に付会して釈放した。これ以降、大小の案件はすべて裴蘊に委ねられ、刑部や大理寺はあえて彼と争う者なく、必ず彼の意旨を伺ってから判決を下した。裴蘊は機知と弁舌に富み、話は滔滔としてとどまらず、重くも軽くも、すべて彼の口から出て、分析は明快かつ敏速で、当時の人々は詰問することができなかった。
突厥の啓民可汗が死去し、煬帝は彼のために三日間朝廷を停止し、その子の咄吉を立てた。これが始畢可汗である。始畢可汗は上表して公主の降嫁を請い、煬帝は詔を下して彼らの風俗に従って行うよう命じた。
当初、内史侍郎の薛道衡は才学で名声を博し、長く要職にあったが、高祖の末年、襄州総管として出された。煬帝が即位すると、番州刺史の任から召還し、秘書監に任用しようとした。薛道衡が京に到着すると、『高祖文皇帝頌』を献上した。煬帝はこれをご覧になり、不快に思って、蘇威に向かって言った。「薛道衡は先朝を称美しているが、これは『魚藻』の心だ。」彼を司隷大夫に任命したが、その罪を問おうとしていた。司隷刺史の房彦謙は薛道衡に、賓客を絶ち、言辞を卑しくするよう勧めたが、薛道衡は採用しなかった。ちょうど新しい法令の審議があり、長期にわたって決着がつかなかったため、薛道衡は朝中の官員に向かって言った。「もし高頴が死んでいなければ、法令は決してずっと前に施行されていただろう。」ある者がこのことを上奏し、煬帝は怒って言った。「お前は高頴を懐かしむのか!」彼を法執行官に引き渡して糾明させた。裴蘊は上奏した。「薛道衡は才能に依り、旧情に倚り、君を無視する心があり、罪を国家に帰し、妄りに禍端を造りました。その罪名を論ずれば、晦渋のようですが、その情意を推し量れば、実に悖逆です。」煬帝は言った。「そうだ。朕は幼少の頃、彼と共に出仕し、彼は朕が幼いのを軽んじ、高頴、賀若弼らと外で専ら威権を恣にした。朕が即位した後は、心中不安を抱き、幸いに天下が无事であったため、反乱を起こせなかったに過ぎない。お前が彼の叛逆を論じたのは、よく朕の本心を体している。」薛道衡は自らの犯した罪が大きくないと思い、憲司に早期の判決を促し、上奏の日には煬帝が必ず赦免してくれると期待し、家族に食事を準備させて、見舞いに来る賓客をもてなそうとした。上奏があると、煬帝は彼に自尽を命じた。薛道衡は意外に思い、自殺することができなかった。憲司が再び上奏し、彼を絞殺し、妻子は且末に流刑とした。天下の人々は皆、彼が冤罪であるとした。
煬帝は大規模に軍事装備を検閲し、武器や甲冑の精良さを称賛した。宇文述がこれに乗じて言った。「これはすべて雲定興の功績です。」煬帝は直ちに雲定興を太府丞に昇進させた。
隋煬皇帝上之下 大業六年(庚午、紀元六一〇年)
春、正月、癸亥の朔日、夜明け前の三刻、数十人の強盗が、白い頭巾をかぶり、白衣をまとい、香を焚き花を手にして、弥勒仏と自称し、建国門から入った。門番は皆、叩頭した。その後、彼らは衛士の兵器を奪い、乱を起こそうとした。斉王の楊暕が彼らに遭遇し、これを斬殺した。そこで京城は大規模に捜索され、連座する者は一千余家に及んだ。
煬帝は、諸蕃の首領がすべて洛陽に集まっているため、丁丑の日、端門街で大規模に各種雑技を陳列した。戯場の周囲は五千歩、楽器を演奏する者は一万八千人、楽声は数十里に響き渡り、黄昏から早朝まで灯火は天地を照らした。丸一ヶ月で終了し、費用は巨万に及んだ。以来毎年このようにした。諸蕃は豊都市での交易を請い、煬帝はこれを許可した。事前に店舗の修繕・装飾を命じ、軒は整然と統一させ、多くの帷帳を設置し、珍宝・貨物は満ち溢れ、人物の服装は華やかで、野菜を売る者までもが龍鬚席を敷かせた。胡人の客が時に酒店や飯館を通りかかると、皆を招き入れて座らせ、酔って飽きるまで去らせず、費用を取らなかった。そして欺いて言った。「中国は富饒であり、酒食は例によって無料である。」胡人は皆、驚嘆した。その中で狡猾な者はよく気づき、絹帛で木を巻いているのを見て、問うた。「中国にも貧しい者がいて、衣服も体を覆えないのに、なぜこれらの物を彼らに与えず、木に巻いているのか。」街中の人は恥じて答えることができなかった。
煬帝は裴矩の才能を称賛し、群臣に向かって言った。「裴矩は朕の意図を非常によく理解しており、凡そ陳述・上奏するものは、すべて朕がすでに計画していながら、まだ言い出していないことを、裴矩が報告するのである。もし心を尽くして国に尽くしていなければ、誰がこのようにできるか!」この時、裴矩と左翊衛大将軍の宇文述、内史侍郎の虞世基、御史大夫の裴蘊、光禄大夫の郭衍は、皆、諂媚阿諛によって寵愛を受けた。宇文述は供奉に巧みで、挙措動作は機敏かつ優雅で、侍衛たちは皆彼を模範とした。郭衍はかつて煬帝に、五日に一度朝政に臨むよう勧め、言った。「高祖の真似をせず、徒らに自ら辛苦されるな。」煬帝はますます彼を忠実だと思い、言った。「ただ郭衍の心だけが朕と同じである。」
煬帝は朝に臨む時は神態荘重で、言葉や詔は言辞・義理ともに見るべきものがあった。しかし内心は声色を好み、両都および巡遊の際には、常に僧・尼・道士・女官を従わせ、四道場と称した。梁公の蕭矩は、蕭琮の弟の子である。千牛左右の宇文皛は、宇文慶の孫である。いずれも煬帝の寵愛を受けた。煬帝は毎日、苑中の林亭の間に大量に酒食を陳列させ、燕王の楊倓と蕭矩、宇文皛、および高祖の妃嬪・御女たちを一席とし、僧・尼・道士・女官を一席とし、煬帝と諸々の寵愛する姫妾たちを一席とし、各席はおおむね相接し、退朝後には宴飲に出かけ、互いに酒を勧め、酒が酣になるにつれて混乱極まり、為さざるはなく、これを常の事とした。楊氏の家族の中で容貌美麗な婦女は、しばしば煬帝に進献された。宇文皛は後宮に出入りし、門禁の制限を受けず、妃嬪や公主に至るまで醜聞があり、煬帝も罪に問わなかった。
煬帝はまた朱寬を派遣して流求国を招撫させたが、流求は従わなかった。煬帝は虎賁郎将の廬江人陳棱、朝請大夫の同安人張鎮周に、東陽兵一万余人を発して、義安から海を渡って攻撃させるよう命じた。航行すること一ヶ月余りで流求国に至り、張鎮周を先鋒とした。流求王の渴刺兜は兵を率いて迎え撃った。陳棱らはたびたび彼らを撃破し、ついに都城に至った。渴刺兜は自ら兵を率いて出戦したが、また敗北し、営寨に退いた。陳棱らは勝に乗じて営寨を攻め落とし、渴刺兜を斬殺し、その民衆一万余人を捕虜として帰還した。二月、己巳、陳棱らは流求の捕虜を進献し、百官に賞賜し、陳棱は右光禄大夫に、張鎮周は金紫光禄大夫に昇進した。
己卯、詔を下して言う。「近代の分封は名実が相符わない。今より以後、功労勲績ある者のみに封地を賜い、なおかつその子孫に継承させる。」於是、先に賜った五等の爵位で、功績のない者はすべて削除された。
庚申、召し集めた北周・北斉・梁・陳の四朝の散楽芸人をすべて太常寺に所属させ、すべて博士弟子を設置して相互に伝授させ、楽工は三万人余りに達した。
三月、癸亥、煬帝は江都宮に行幸した。
初め、煬帝は汾陽宮を大規模に造営しようとし、御史大夫の張衡に図面を描いて上奏するよう命じた。張衡はこの機会に諫言して言った。「近年、労役が多く、百姓は疲弊困窮しております。どうか陛下にはご留意いただき、少しばかり減らしていただきたく存じます。」煬帝は内心大いに不満に思った。その後、張衡は侍臣に対して言った。「張衡は自らの計略によって、我をして天下を得させたと思っている。」そこで煬帝は、斉王の楊暕が皇甫詡を連れて車駕に従ったこと、および先に涿郡に巡幸して恒山で祭祀を行った際、謁見した父老の衣冠が多く整っていなかったことを挙げ、張衡が御史台の官としてこれを検挙し正さなかったと非難し、彼を朝廷から左遷して楡林太守とした。久しくして、張衡は労役を監督して楼煩城を築き、煬帝の巡幸に乗じて謁見する機会を得た。煬帝は張衡が痩せていないのを嫌い、悔い改めようとしないと思い、張衡に言った。「お前は大いにふくよかだ。ひとまず郡守の任に戻るがよい。」そして再び彼を楡林に遣わした。ほどなく、勅命により張衡は労役を監督して江都宮を修建した。礼部尚書の楊玄感が江都に使者として赴いた際、張衡は楊玄感に言った。「薛道衡は実に冤罪で死んだのだ。」楊玄感はこのことを上奏した。江都郡丞の王世充もまた上奏して、張衡が接待の器物をしばしば減らしたと述べた。煬帝はそこで怒り、張衡を鎖につないで江都の市街に送り、斬殺しようとしたが、久しくしてようやく放免され、官職を剥奪されて庶民とされ、原籍に帰された。王世充をして江都宮監を兼任させた。
王世充はもともと西域の胡人で、姓は支氏であった。父の王収は幼い時に母に従って王家に嫁ぎ、そこで王姓を冒した。王世充は本性が狡賢く、能弁であり、経史を少なからず涉猟し、兵法を好み、法律の条令に詳しかった。煬帝がたびたび江都に巡幸すると、王世充は機嫌をうかがって阿諛し、池や台を飾り立て、珍しい物品を進献したため、寵愛を得た。
夏、六月、甲寅、江都太守の品級を京兆尹と同じとするよう定めた。
冬、十二月、己未、文安憲侯の牛弘が死去した。牛弘は寛厚で謙虚倹約、学問は精深広博であり、隋朝の老臣として終始信任を受け、悔恨や恥辱に遭わなかったのは、ただ牛弘一人だけであった。その弟の牛弼は酒を好み、しかも酔って乱暴することがあり、かつて酔って牛弘の車を引く牛を射殺したことがあった。牛弘が家に帰ると、その妻が迎えて言った。「小叔が牛を射殺しました。」牛弘は怪しんで問いただすこともなく、直接答えて言った。「干し肉にせよ。」座に着いてから、妻がまた言った。「小叔が突然牛を射殺しました。これは怪しいことです!」牛弘は言った。「もう知っている。」神色は自然で、読書をやめなかった。
勅命により江南河を開削し、京口から余杭に至るまで、長さは八百余里、幅は十数丈とし、竜舟が通行できるようにし、かつ駅、行宮、草料站を設置して、東巡して会稽に行く準備とした。
煬帝は百官が車駕に従う際に皆袴褶を着用していたが、軍旅の間では不便であるとし、この年、初めて詔を下した。「車駕に従って遠路を跋渉する者、文武の官はすべて戎装を着用せよ。五品以上の官は一律に紫袍を着用し、六品以下は緋色と緑色を兼用し、小吏は青色、百姓は白色、屠夫や商人は黑色、兵士は黄色を用いよ。」
煬帝が啓民可汗の大帳を巡幸した時、高麗の使者が啓民可汗のところにいた。啓民可汗は隠し立てすることができず、彼をして煬帝と対面させた。黄門侍郎の裴矩が煬帝を勧めて言った。「高麗はもともと箕子が封ぜられた地であり、漢や晋の時代には郡県とされておりました。今やついに臣と称さず、別の異域となっております。先帝は彼らを征討しようと長く考えておられましたが、ただ楊諒が不賢で、出兵して功がありませんでした。陛下の御代において、どうして攻め取らず、冠帯礼義の地を、かえって蛮貊の郷とすることができましょうか。今、その使者は啓民が国を挙げて帰順するのを目の当たりにしております。彼らが恐れるに乗じて、入朝するよう脅迫するのがよいでしょう。」煬帝はこれに従い、牛弘に命じて旨を宣べさせて言った。「朕は啓民が誠心をもって国に奉ずるがゆえに、自らその大帳に至った。明年、朕は涿郡に赴く予定である。お前が帰ったなら、高麗王に告げよ。早く来朝すべきであり、自ら疑い恐れることなく、安養育成の礼は、啓民と同じくするであろう。もし来朝しなければ、朕は啓民を率いてその国土を巡視するであろう。」高麗王の高元は恐れた。藩属の礼儀に多く欠けるところがあったため、煬帝は彼を討伐しようとし、天下の富人に命じて戦馬を買い求めさせ、一匹の馬の値は十万銭とした。兵器や儀仗を検査選別し、必ず精良で新奇なものとさせ、もし粗悪なものがあれば、使者は即座に斬られた。
隋の煬帝、大業七年(辛未、西暦611年)
春、正月、壬寅、真定襄侯の郭衍が死去した。
二月、己未、煬帝は釣台に登り、楊子津に至って、百官を大いに宴した。乙亥、煬帝は江都を出発して涿郡に巡幸し、竜舟に乗り、黄河を渡って永済渠に入った。なおも吏部、門下、内史、御史の四司の官員に命じて、船の前で選抜補充の官を行わせ、受選者は三千余人に上り、ある者は徒歩で船を三千余里にわたって従いながら、安置を得られず、寒さと飢えに疲弊困頓し、死亡した者は十のうち一、二あった。
壬午、詔を下して高麗を討伐した。幽州総管の元弘嗣に命じて東萊の海口に行き、三百艘の船を建造させた。官吏が労役を監督し、昼夜水の中に立って、ほとんど休む暇もなく、腰から下はすべて蛆が湧き、死亡した者は十のうち三、四あった。夏、四月、庚午、車駕は涿郡の臨朔宮に到着し、文武の随従官員で九品以上の者には、すべて邸宅を支給して安置するよう命じた。これに先立ち、詔を下して天下の軍隊を全面的に徴発し、遠近を問わず、すべて涿郡に集結させた。また江淮以南の水手一万人、弩手三万人、嶺南の排鏦手三万人を徴発し、ここに四方遠方の地より人々が流れのごとく奔走して集まった。五月、河南、淮南、江南に命じて戦車五万両を製造して高陽に送らせ、衣甲帳幕を積載するために用い、士兵に命じて自ら車を引かせ、河南、河北の民夫を徴発して軍需を供給させた。秋、七月、江・淮以南の民夫と船を徴発して黎陽倉と洛口倉の食料を涿郡に運搬させ、船は首尾相連なって一千余里に及び、兵器鎧甲や攻城器具を積載し、往復して道にいる者は常に数十万人に達し、道路を塞ぎ、昼夜絶えず、死者は互いに枕を重ね、臭気や汚物が道に満ち、天下は騒然として動揺した。
山東、河南で大水が発生し、三十余郡が水没した。冬、十月、乙卯、底柱山が崩壊し、黄河を塞いで河水を逆流させ、数十里に及んだ。
初め、煬帝が西巡した際、侍御史の韋節を派遣して西突厥の処羅可汗を召見し、車駕と大斗抜谷で会合するよう命じたが、処羅可汗の国人は従わず、処羅可汗は使者に謝罪し、他の理由を挙げて辞退した。煬帝は大いに怒ったが、どうすることもできなかった。折しもその酋長の射匱が使者を派遣して求婚してきたため、裴矩は機に乗じて上奏した。「処羅可汗が朝見に来ないのは、自らの強大さを恃んでいるからでございます。臣は計略を用いてこれを弱め、その国を分裂させれば、容易に制御できると存じます。射匱は都六の子、達頭の孫で、代々可汗となり、西面に君臨しておりましたが、今やその位を失い、処羅に附属していると聞き及んでおります。それゆえ使者を遣わして援けを結ぼうとしております。願わくばその使者を厚遇し、大可汗に封じれば、突厥の勢力は分裂し、両方とも我々に従うでありましょう。」煬帝は「汝の言は誠に正しい」と言い、裴矩をして朝夕に館駅に至らしめ、婉曲に暗示し勧諭させた。煬帝は仁風殿で射匱の使者を召見し、処羅が従わない状況を説明し、射匱の善良を慕う心を称え、朕は彼を大可汗に立てるつもりであると述べ、兵を発して処羅を誅殺するよう命じ、その後で求婚を許すとした。煬帝は桃竹の白羽箭を一つ取り外して射匱に賜い、こう言った。「この事は迅速に行うべきで、矢のように速くなければならない。」使者が帰途、処羅のところを通過すると、処羅はこの箭を愛し、留め置こうとしたが、使者は計略を用いてようやく脱出した。射匱はこれを聞いて大いに喜び、兵を発して処羅を襲撃した。処羅は大敗し、妻子を棄て、左右の数千騎を率いて東へ逃走し、途中で略奪を受け、高昌に寄寓し、東へ退いて時羅漫山に拠った。高昌王の曲伯雅が上表して状況を報告した。煬帝は裴矩と向氏の親信の要員を急速に玉門関の晋昌城に派遣し、処羅に入朝するよう諭させた。十二月、己未、処羅は臨朔宮に朝見し、煬帝は大いに喜び、特別な礼遇でこれをもてなした。煬帝は処羅と宴を共にし、処羅は叩頭して、朝覲が遅れたことを謝罪した。煬帝は温かい言葉で慰め、天下の珍味を備え揃え、女楽を盛んに陳列し、綾羅錦繍や管弦の音色が目もくらむばかりであったが、処羅はついに鬱々とした表情を崩さなかった。
煬帝は前年から高麗征伐を計画し、詔を下して山東に軍府を設置し、馬を養って軍役に供するよう命じた。また民夫を徴発して米を運ばせ、泸河・懐遠の二鎮に積み置いたが、車牛で行った者は戻らず、士卒の半数以上が死亡し、耕作は農時を失い、田地の多くは荒廃した。これに飢饉が加わり、穀価は高騰し、東北の辺境は特に深刻で、一斗の米が数百銭に達した。運ばれた米の中には粗悪なものがあり、百姓に命じて米を買って賠償させた。また鹿車夫六十余万人を徴発し、二人で三石の米を押したが、路途は険阻で遠く、干糧としても足りず、軍鎮に到着しても納めることができず、皆罪を恐れて逃亡した。加えて官吏は貪婪残暴で、これに乗じて盤剥し侵奪し、百姓は困窮し、財力は尽きた。安んじて暮らせば凍えや飢えに耐えられず、死期は迫り、劫略盗賊となればなお命を永らえることができるため、ついに徒党を組んで盗賊となった。
鄒平人の王薄は部衆を集めて長白山に拠り、斉郡・済北郡一帯を劫掠し、自らを知世郎と称し、世事は知るべしと言った。また《無向遼東浪死歌》を作り、互いに感召し勧勉し合い、征役を逃れた者たちは多くがこれに帰附した。
平原の東に豆子という場所があり、海に背き、黄河に臨み、地形は深く險阻であった。北斉以来、多くの盗賊がここに潜んでいた。劉霸道という者がおり、家はその近くに住み、代々官職にあり、家産は富んでいた。劉霸道は侠義を好み、門下の食客は常に数百人いた。諸々の盗賊が起こるに及んで、遠近の者が多く彼に投靠し、十数万人を集め、「阿舅賊」と号した。
漳南人の竇建徳は、若い頃から気節や侠義を崇尚し、胆力は常人に勝り、同郷の者たちに帰附された。ちょうど高麗征討のために人を募るのに当たり、竇建徳は勇敢さゆえに二百人長に選ばれた。同県の孫安祖もまた驍勇をもって征士に選ばれたが、孫安祖は家が水害に遭い妻子が餓死したことを理由に辞退したところ、県令は怒って鞭打った。孫安祖は県令を刺殺し、竇建徳のもとに逃げ、竇建徳は彼をかくまった。官府が追捕し、踪迹が竇建徳の家に及んだため、竇建徳は孫安祖に言った。「文皇帝の時、天下は富足し、百万の軍隊を発して高麗を征伐したが、なお敗れた。今や水害が患となり、百姓は困苦貧窮し、加えて往年の西征では、出征した者は戻らず、創傷も癒えていない。主上は百姓を恤れまず、かえってまた兵を発して自ら高麗を攻めようとしている。天下は必ず大乱となるだろう。大丈夫が死なずんば、大功を立てるべきであり、どうしてただ逃犯でいるだけか!」そこで無頼の少年を集め、数百人を得て、孫安祖にこれを率いさせ、高雞泊中に入れて強盗とし、孫安祖は自ら将軍と称した。当時、鄃人の張金称が河曲に部衆を集め、蓨人の高士達は清河の境内に部衆を集めて強盗となっていた。郡県は竇建徳が賊寇と通じていると疑い、その家族をことごとく捕らえて殺した。竇建徳は部下の二百人を率いて高士達のもとに逃げ帰り、高士達は自ら東海公と称し、竇建徳を司兵に任じた。間もなく、孫安祖は張金称に殺され、その部衆はすべて竇建徳に帰附し、竇建徳の兵力は一万余人に達した。竇建徳は身を屈して人に接し、士卒と甘苦を共にしたため、人々は争って帰附し、彼のために死を尽くすことを願った。
これより各地の盗賊は蜂起するがごとく起こり、数えきれず、部衆の多い者は一万余人に達し、城邑を陥落させた。甲子、帝は勅して都尉・鷹揚郎将に郡県と相互に連携して追捕させ、捕らえれば即座に斬決するよう命じたが、しかし禁ずることはできなかった。
隋煬皇帝大業八年(壬申、公元612年)
春、正月、帝は西突厥の処羅可汗の部衆を三部分に分け、その弟の闕度設に老弱の部衆一万余人を率いさせ、会寧に居住させた。また特勒の大奈に別にその余の部衆を率いさせ、楼煩に居住させた。処羅には五百騎を率いて常に皇帝の車駕に従って巡遊するよう命じ、曷婆那可汗の号を賜い、賞賜は非常に厚かった。
初め、嵩山の道士潘誕は三百歳と自称し、皇帝のために金丹を合煉した。皇帝は彼のために嵩陽観を建造し、華麗な家屋が数百間あり、童男童女各一百二十人を供役の者として充て、その位は三品官に相当した。常に数千人を役使い、費やした銭財は万を数えた。潘誕は金丹には石胆・石髄を用いるべきだと言い、そこで石工を徴発して嵩山に大石を鑿らせ、深さ百尺に及ぶものが数十箇所あった。都合六年、金丹は成らなかった。皇帝が責めると、潘誕は答えて言った。「石胆・石髄がありません。もし童男童女の胆髄を各三斛六斗得られれば、これで代用できます。」皇帝は怒り、彼に枷鎖をかけて涿郡に送り、斬首した。臨終の時、潘誕は人に言った。「これは天子に福がなく、ちょうど私の兵解の時が来たのだ。私は梵摩天に生まれるべきである。」
四方の軍隊はすべて涿郡に集結した。皇帝は合水令の庚質を召し、問うた。「高麗の部衆は我が一郡にも敵わぬ。今朕はこの軍隊をもって彼らを征伐するが、汝は克つことができると思うか。」庚質は答えた。「征伐すれば克つことができます。しかし臣は私かに愚見がございます。陛下が自らお出ましになることを願いません。」皇帝は顔色を変えて言った。「朕は今総領してここに至った。どうして敵を見ずして先に自ら退くことができようか。」庚質は答えた。「もし戦って勝てなければ、恐らくは陛下の威厳を損ないましょう。もし陛下がここに留まり、猛将勁卒に命じて、策略を授け、兼程して進ませ、不意を衝けば、必ずや克つことができます。事機は迅速にあり、遅れれば効功はありません。」皇帝は喜ばず、言った。「汝はすでに出行を恐れるなら、自らここに留まるがよい。」右尚方署監事の耿詢は書を上って懇切に諫めた。皇帝は大いに怒り、左右に命じて彼を斬らせようとしたが、何稠が苦しんで救い、ようやく死を免れた。
壬午の日、皇帝は詔を下し、左十二軍は鏤方、長岑、溟海、蓋馬、建安、南蘇、遼東、玄菟、扶余、朝鮮、沃沮、楽浪等の道より出発し、右十二軍は黏蝉、含資、渾弥、臨屯、候城、提奚、蹋頓、粛慎、碣石、東□施、帯方、襄平等の道より出発し、絶え間なく進軍して、平壤に総集結することとした。総勢百十三万三千八百人、号して二百万と称し、糧食の輸送を担当する者はその倍であった。南桑干の水辺で土地神を祭祀し、臨朔宮の南で上天を祭祀し、薊城の北で馬祖を祭祀した。皇帝自ら節度を授けた。すなわち、各軍には大将、副将各一人を置き、騎兵四十隊、各隊百人、十隊をもって一団とし、歩兵八十隊、これを四団に分け、各団には偏将一人を置いた。鎧、兜、纓穂、旗幟は、各団で色を異にした。受降使者一人を置き、詔を奉じて安撫慰問にあたるが、大将の節制は受けない。輜重や散兵なども四団に分け、歩兵に挟み護衛させて進軍させた。前進、停止、営寨の設置には、いずれも次序と儀法があった。癸未の日、第一軍が出発した。毎日一軍を派遣し、その間隔を四十里とし、連営して徐々に進んだ。総計四十日を経て、ようやく全軍が出発し終え、先頭と末尾は連なり、鼓角の音は互いに聞こえ、旌旗は九百六十里にわたって連なった。御営の内部には、十一衛、三台、五省、九寺があり、それぞれ内、外、前、後、左、右の六軍に隶属し、その後から出発し、さらに八十里にわたって連なった。近世以来、出兵の盛況として、かつてなかったものである。
甲辰の日、内史令の元寿が死去した。
二月、壬戌の日、観徳王の楊雄が死去した。
北平襄侯の段文振は兵部尚書となり、上表して、皇帝が「突厥を寵遇することあまりに厚く、彼らを塞内に安置し、兵器や食糧を供給しているが、戎狄の本性は、親しみを知らずして貪欲であり、後日必ず国家の禍患となるでしょう。速やかに彼らを曉諭し送還して塞外に出させ、その後、烽火の望楼を明確に設置し、辺境に沿って鎮守し防備を厳重にし、その厳守を期すべきです。これこそ万歳の長遠なる策であります」と述べた。兵曹郎の斛斯政は、斛斯椿の孫であり、器識と才幹の精明さをもって、皇帝の寵愛と信任を受け、兵事を専らに掌管させられた。段文振は、斛斯政が陰険で薄情であり、機要の事務を委ねるべきではないと知り、度々皇帝に進言したが、皇帝は聴き入れなかった。高麗を征伐するに及び、段文振を左候衛大将軍とし、南蘇道より出発させた。段文振は道中で病が重くなり、上表して言った。「臣、私かに見るに、遼東の小醜は、なお厳罰に服しておりません。陛下は遠く六師を降し、自ら万乗を労しておられます。ただ夷狄は多く詐謀を用いるため、深く防備を加えねばなりません。彼らが口先で降服を述べても、直ちに受け入れるべきではありません。水潦の時節がまさに到来しており、遷延してはなりません。ただ願わくば、陛下が各軍を厳しく約束し、星夜兼行して迅速に出発させ、水陸併進し、その不意を突けば、平壤の孤城も勢い、必ずや攻め落とせるでしょう。もしその根本を覆せば、残りの城は自然に陥落します。もし平定が間に合わず、秋雨の連続に遭えば、深く艱難険阻となり、兵糧はすでに尽き、強敵は前にあり、靺鞨が後ろから出撃し、躊躇して決断しなければ、上策とは言えません。」三月、辛卯の日、段文振は死去し、皇帝は非常に痛み惜しんだ。
癸巳の日、皇帝は自ら親征の軍に臨み、進軍して遼水に至った。各軍は合流し、水辺に臨んで大陣を布いた。高麗の兵は遼水に拠って守り、隋兵は渡河できなかった。左屯衛大将軍の麦鉄杖は人に言った。「大丈夫の命には、それなりの在所があるものだ。どうして艾で額を焼き、瓜蒂で鼻を噴き、黄疸を治し得ずして、女子や子供の手の中で死を待つことがあろうか!」そこで自ら進んで先鋒を願い出て、その三人の子に言った。「我は国恩を蒙り、今こそ死を致すべき日である。我がもし良機を得て殺されれば、汝らは富貴を得るであろう。」皇帝は工部尚書の宇文恺に命じて、遼水の西岸に三つの浮橋を造らせた。完成すると、浮橋を曳いて東岸に近づけたが、橋の長さが足りず、岸まで一丈あまりに達しなかった。高麗の兵が大挙して到来し、隋兵の中で勇猛な者たちは争って水に入り戦ったが、高麗の兵は高所から彼らを攻め、隋兵は岸に登ることができず、多くの者が死んだ。麦鉄杖は東岸に跳び上がり、虎賁郎将の銭士雄、孟叉らとともに皆戦死した。そこで兵を収め、浮橋を再び西岸に引き戻した。皇帝は詔を下し、麦鉄杖を宿公に追贈し、その子の麦孟才に爵位を襲わせ、次子の麦仲才、三子の麦季才をともに正議大夫に拝した。また少府監の何稠に命じて浮橋を接ぎ足して長くさせ、二日で完成した。各軍は相次いで進み、東岸で大戦し、高麗の兵は大敗し、死者は万を数えた。各軍は勝ちに乗じて進み、遼東城を包囲した。これが漢代の襄平城である。皇帝の車駕は遼水を渡り、曷薩那可汗と高昌王の伯雅を伴い、戦場を観覧させて彼らを震え上がらせ、そこで詔を下して天下を赦免した。刑部尚書の衛文升、尚書右丞の劉士龍に命じて、遼東の百姓を安撫し、賦税を十年免除し、郡県を設置して、管理統轄の便を図った。
夏季、五月、壬午の日、納言の楊達が死去した。
諸将が東方に出発するにあたり、煬帝は自ら彼らに告げて言った。「今は百姓を安撫し、罪人を討伐するのであって、功名のためではない。諸将の中に、朕の意を理解せず、軽兵をもって奇襲し、孤軍独闘し、己れひとりの功名を立てて賞を求める者があろうが、それは大軍の行うべき法度ではない。汝らが進軍する際は、三路に分かれるべし。攻撃するにあたっては、必ず三路互いに知らせ合い、軽率に単独で進んで、損害や戦死を招いてはならない。また、軍事的な進止はすべて、奏上して返答を待ち、勝手に専断してはならない。」遼東城はたびたび戦いに出て不利となり、そこで城に拠って固守した。煬帝は諸軍に命じて城を攻めさせた。また諸将に勅して、高麗がもし降服すれば、直ちに安撫し受け入れ、兵士に掠奪を許してはならないと命じた。遼東城がまさに陥落しようとする時、城中の者は常に降服を申し出た。諸将は勅旨を奉じて好機を捉えることができず、先に使者を飛ばして奏上し、返報が到着するのを待つ間に、城中の守備もすでに整い、すぐさま出城して抵抗した。このようなことが何度も繰り返されたが、煬帝はついに悟らなかった。やがて城は長く攻め落とせず、六月、己未の日、煬帝は遼東城の南に臨み、城の地形を視察し、そこで諸将を召集して責めて言った。「汝らは自ら官位が高いと思い、また家柄を恃み、愚かで懦弱な態度で朕に対そうとするのか!都にいた時、汝らは皆、朕が来ることを望まず、朕が病に倒れ戦いに敗れるのを恐れたのだ。朕が今日ここに来たのは、まさに汝らの為すところを見、汝らを斬らんがためである!汝らは今、死を恐れ、力を尽くそうとせず、朕が汝らを殺せぬと思っているのか!」諸将は皆、恐怖に顔色を失った。煬帝はそこで城西数里のところに留まり、六合城に駐屯した。高麗の諸城は皆、堅守して陥ちなかった。右翊衛大将軍の来護児は、江・淮の水軍を率い、戦船は数百里に連なり、海を渡って先行し、𬇙水から入り、平壤から六十里のところで、高麗軍と遭遇し、進撃して大いに破った。来護児は勝ちに乗じて平壤城に直進しようとしたが、副総管の周法尚がこれを止め、諸軍が揃ってから共に進むよう請うた。来護児は聴かず、精鋭の甲士四万を選び、城下に直逼した。高麗は外城の内の空寺に伏兵を埋伏し、兵を出して来護児と戦い、偽って敗走した。来護児は追撃して城に入り、兵を放って捕虜や掠奪をさせたため、隊伍は整わなくなった。伏兵が攻撃を開始し、来護児は大敗し、辛うじて身一つで逃れ、逃げ帰った兵はわずか数千人であった。高麗軍は戦船の在り処まで追撃したが、周法尚が陣形を整えて待ち受けたため、高麗軍はようやく退いた。来護児は兵を率いて海辺に帰り駐屯し、敢えて留まって諸軍に応接しようとはしなかった。
左翊衛大将軍宇文述は扶餘道より出発し、右翊衛大将軍于仲文は楽浪道より出発し、左驍衛大将軍荆元恒は遼東道より出発し、右翊衛将軍薛世雄は沃沮道より出発し、右屯衛将軍辛世雄は玄菟道より出発し、右御衛将軍張瑾は襄平道より出発し、右武将軍趙孝才は碣石道より出発し、涿郡太守検校左武衛将軍崔弘升は遂城道より出発し、検校右御衛虎賁郎将衛文升は増地道より出発し、いずれも鴨緑水の西で合流した。宇文述らの軍は、瀘河・懐遠の二鎮から出発し、人馬には百日分の糧草を支給し、さらに排甲・槍槊および衣資・戎具・火幕を支給したが、一人当たり三石以上の負担となり、重くて運搬できなかった。軍中で令を下した。「米粟を捨てた者は斬る!」兵士たちはみな営帳の下に穴を掘って糧草を埋めた。道の半ばに至った時には、すでに食糧は尽きかけていた。
高句麗は大臣の乙支文徳を隋の陣営に派遣して偽りの降伏を申し出させたが、実際は虚実を探ろうとしたものであった。于仲文は以前に密旨を奉じていた。「もし高元あるいは文徳が来たならば、必ず擒えよ。」于仲文は彼を捕らえようとしたが、尚書右丞の劉士龍が慰撫使を務めており、固く止めた。于仲文はやむなく乙支文徳を帰らせたが、間もなく後悔し、人を遣って乙支文徳を騙して言った。「まだ言うべきことがある、再び来るべし。」乙支文徳は顧みず、鴨緑水を渡って去った。于仲文は宇文述らと共に乙支文徳を失った後、内心不安を抱いた。宇文述は糧食が尽きたため、軍を撤収しようと考えた。于仲文は精鋭をもって乙支文徳を追撃すれば、成功できると建議した。宇文述は固く止めたが、于仲文は怒って言った。「将軍は十万の衆を率いながら、小賊を撃ち破ることもできない。何の面があって皇帝に会えようか!それに、私は今回の出陣に当たり、もとより功績なきことを知っていた。なぜか?古の良将で成功した者は、軍中の事は一人で決断したからである。今や人々がそれぞれ異なる心を持っている。どうして敵に勝つことができようか!」当時、煬帝は于仲文に計略があると考え、諸軍に彼に諮問し報告し、その調度に従うよう命じていた。それゆえ、このような発言があったのである。そこで宇文述らは已むを得ず従い、諸将と共に水を渡って乙支文徳を追撃した。乙支文徳は宇文述の兵士に飢色があるのを見て、彼らを疲弊させようと考え、戦うごとに退却した。宇文述は一日のうちに七度戦って全て勝利を報じたが、連勝に乗じるとともに、衆人の議論に迫られて進軍し、東の薩水を渡り、平壌城から三十里のところに至り、山に依って陣営を敷いた。乙支文徳はまた使者を遣わして偽りの降伏を申し出、宇文述に請うて言った。「もし軍を撤収されるならば、必ずや高元をして皇帝の行宮に朝見させましょう。」宇文述は兵士が疲弊して再戦できないこと、また平壌城が険しく堅固で、迅速に攻略するのは難しいと見積もり、その偽りの降伏に乗じて軍を返した。宇文述らは方陣を組んで進み、高句麗軍は四方から襲撃したが、宇文述らは戦いながら進んだ。秋、七月、壬寅の日、薩水に至り、軍が川を渡ること半ばに及んだ時、高句麗軍が後方から後軍を攻撃し、左屯衛将軍の辛世雄が戦死した。ここにおいて諸軍はみな潰走し、制御できなくなった。将士は逃げ走ること一昼夜にして鴨緑水に至り、四百五十里を行軍した。将軍の天水人王仁恭が後衛を務め、高句麗軍を攻撃して撃退した。来護児は宇文述らが敗れたと聞き、また兵を率いて撤回した。ただ衛文升の一軍のみが損害なく完全であった。
当初、九軍が遼水を渡った時、合わせてであったが、遼東城に帰還した時には、わずか二千七百人となり、物資・備蓄・器械は数万に及んだが、ことごとく失われた。煬帝は大いに怒り、宇文述らを鎖に繋いだ。癸卯の日、軍を率いて帰還した。
当初、百済王の璋は使者を遣わして高句麗征討を請い、煬帝は彼に高句麗の動静を偵察させたが、璋は密かに高句麗と結託していた。隋軍が出発しようとした時、璋はその臣の国智牟を遣わして出兵の期日を請うてきた。煬帝は大いに喜び、手厚く賞賜し、尚書起部郎の席律を百済に派遣し、軍を合わせる期日を告げさせた。隋軍が遼水を渡るに及んで、百済もまた国境に軍隊を厳しく整え、隋を助けると称したが、実際は形勢を窺っていた。
この出征においては、ただ遼水の西で高句麗の武歴邏を攻め取り、遼東郡および通定鎮を設置したのみであった。八月、黎陽・洛陽・太原などの倉の食糧を望海頓に輸送するよう命じ、民部尚書の樊子蓋をして涿郡に留守させた。九月、庚寅の日、車駕は東都に到着した。
冬、十月、甲寅の日、工部尚書の宇文愷が死去した。
十一月、己卯の日、宗室の女を華容公主とし、高昌に嫁がせた。
宇文述はかねてより煬帝の寵愛を受け、またその子の宇文士及は煬帝の娘の南陽公主を娶っていたため、煬帝は彼を殺すに忍びなかった。甲申の日、于仲文らと共に皆、官を削られて庶民とされ、劉士龍を斬って天下に謝罪した。薩水の敗戦において、高句麗軍は追撃して薛世雄を白石山に包囲したが、薛世雄は奮戦して敵軍を撃破したため、独り官を免れることができた。衛文升を金紫光禄大夫とした。諸将はみな罪を于仲文に帰したため、煬帝は諸将を釈放した後、于仲文のみを拘禁した。于仲文は憂い憤り、病を発して重篤となり、ついに放免され、家で死去した。
この年、大旱魃が起こり、疫病が発生し、山東が特に深刻であった。
張衡が放逐されて廃された後、煬帝は常に親しい者を遣って張衡の所行を窺わせた。煬帝が遼東から帰還すると、張衡の妾が張衡が怨恨を抱き、朝廷の政治を謗ったと告発したため、煬帝は詔して彼の家で自尽するよう命じた。張衡は臨終に当たり、大声で言った。「我は人のために何事を為したというのか、どうして長く生きることを望もうか!」監刑の者は耳を塞ぎ、急いで彼を殺させた。
