漢紀十七
地節三年(甲寅、前六七)より始まり、己未(前六二)に至るまで、合わせて六年間である。
中宗孝宣皇帝 上之下
地節三年(甲寅、前六七)
1 春三月、皇帝は詔を下して言った。「朕は聞く、功あって賞せず、罪あって罰せざれば、堯・舜と雖も天下を教化すること能わずと。今、膠東国の相・王成は、辛勤して流民を招撫し、怠ることなく、流民の自ら籍に申し出る者、八万余人に及ぶ。治績、常を超えて異なるもの有り。王成に關内侯の爵を賜い、秩は中二千石とす。」召して用いんとするに及ばずして、成は任所にて卒す。後に詔して丞相・御史に命じ、各郡・国の上計する長史・守丞に問う、政令の得失を。或る者が答えて曰く、「前の膠東国相・王成は、虚偽に戸口を増やし、以て顕賞を蒙らんとす。是の後、俗吏の多くは虚名を追求する」云々。
2 夏四月戊申、皇子・奭を立てて皇太子と為す。丙吉を太傅と為し、太中大夫・疏広を少傅と為す。太子の外祖父・許広漢を平恩侯に封ず。又、霍光の兄の孫・中郎将・霍云を冠陽侯に封ず。
霍顕、太子の立たるるを聞き、憤怒して食せず、血を嘔きて曰く、「是れ民間に在りて生まれし子なり。何ぞ能く太子と為さんや!後の皇后、子を生まば、反って王と為すのみならんか!」又、皇后を教唆して毒を以て太子を殺さしめんとす。皇后、数々太子を召して賜食すれども、太子の保母・乳母は常に先ず之を嘗む。皇后、毒を挟むも術無し。
3 五月甲申、丞相・韋賢、老病を以て致仕を請う。帝、黄金百斤・安車・駟馬を賜い、免じて家に帰さしむ。丞相の致仕する、賢より始まる。
4 六月壬辰、魏相を丞相と為す。辛丑、丙吉を御史大夫と為し、疏広を太子太傅と為し、広の兄の子・疏受を太子少傅と為す。
太子の外祖父・平恩侯・許伯、太子の幼きを以て、帝に請いて其の弟・中郎将・許舜をして太子の家を監護せしめんとす。帝、以て疏広に問う。広、対えて曰く、「太子は国の儲君なり。師友は必ず天下の英俊ならん。宜しく独り外家の許氏に親しむべからず。且つ太子には自ずから太傅・少傅有り、官属已に備われり。今、復た許舜をして太子の家を監護せしむるは、示す所の者陋にして、以て太子の美德を天下に広むるの道に非ざるなり。」帝、其の言を善しと為し、以て魏相に告ぐ。相、冠を免(ぬ)ぎて謝して曰く、「是れ臣等の及ぶ所に非ざるなり。」疏広、是に由りて見重せらる。
5 京師、大いに雹(ひょう)を下す。大行丞・東海の人・蕭望之、上疏して、大臣の政を執り、一家独り権を専らにするの故なりと為す。帝、平素より望之の名を聞き、之を謁者と為す。時に帝、広く賢俊を延納し、民、多く書を上りて便宜を言う者多し。輒(すなわ)ち下して望之に問わしむ。其の高き者は丞相・御史に請いて之を用い、次なる者は中二千石に試用せしめ、満歳して以て聞せしめ、下なる者は報(しら)せて之を罷む。望之の処する所の奏、皆、報可せらる。
6 冬十月、詔して曰く、「乃者(さきに)九月壬申、地震有り、朕甚だ懼る。朕の過失を以て戒め、及び賢良方正能く直言極諫する者有らば、以て朕の不逮を匡正し、官の諱む所あること毋(な)かれ。朕、徳無く、遠方を安んずる能わず。是の故に辺境の屯戍、已むことを得ず。今、復た兵を飾り、屯戍を重ね、久しく百姓を労するは、天下を安んずるの道に非ざるなり。車騎将軍・右将軍の屯兵を罷めよ。」又、詔して曰く、「池籞(ちぎょ)の未だ幸(おはしま)さざる所は、貧民に仮(か)して之を用いよ。郡国の宮館、復た修治すること毋れ。流民の故郷に帰る者は、公田を仮し、種食を貸し、且つ賦税を貰(ゆる)し、算事(徭役)を除くことを勿れ。」
7 霍氏、驕侈縦横なり。太夫人・顕、大いに第宅を広くし、乘輦(じょうれん)を製し、之に加えて彩画し、絳(こう)の茵(しとね)と虎皮の帷(とばり)を以てし、黄金を塗り、韋(かわ)と絮(わた)を以て輪を裹(つつ)み、婢をして五彩の絲を以て顕をして府中に遊ばしむ。監奴・馮子都と淫す。而して禹・山も亦並びて第宅を治め、平楽館に走馬馳逐す。霍雲、朝見すべきに、数々病と称して私出し、多くの賓客を従え、黄山苑中に張圍して獵し、奴(やつこ)をして朝に至らしめて名を上(たてまつ)らしむ。敢えて譴責する者莫し。顕及び諸女、昼夜長信宮殿の中に出入し、時度無し。
帝、民間に在る時、霍氏の尊盛久しきを聞き、心内に之を悪(にく)む。親しく政を聴するに及び、御史大夫・魏相、給事中と為る。顕、禹・雲・山に謂いて曰く、「汝等、勤めて大将軍の余業を継がず。今、御史大夫給事中と為る。人、一たび汝を間(へだ)てなば、汝等、能く自ら救うことを得んや!」後、両家の奴、道に争い、霍氏の奴、御史府に入り、其の門を蹴(ふ)まんと欲す。御史、為に叩頭して謝し、乃ち去る。或る人、以て霍氏に告ぐ。顕等、始めて憂う。
魏大夫の丞相と為るに及び、数々暇に乗じて入りて言を為す。平恩侯及び侍中・金安上等、径路出入す。時に霍山、尚書を領す。帝、吏民の上書を密封して、尚書を経ず、群臣の進見する、独り往き来するを得せしむ。霍氏、是を深く悪(にく)む。帝、漸く霍氏の許后を毒殺せるを聞けども、未だ審らかにせず。乃ち霍光の女婿・度遼将軍・未央衛尉・平陵侯・范明友を光禄勲に徙(うつ)し、其の女婿・諸吏・中郎将・羽林監・任勝を出だして安定太守と為す。数月にして、又、霍光の姉婿・給事中・光禄大夫・張朔を出だして蜀郡太守と為し、諸孫婿・中郎将・王漢を武威太守と為す。頃(しばら)くして、又、霍光の長女婿・長楽衛尉・鄧広漢を少府に徙す。戊戌、張安世を衛将軍と為し、両宮衛尉・城門・北軍兵、皆、之に属す。霍禹を大馬司と為し、小冠を冠(かぶ)らしめ、印綬無からしめ、其の屯兵官属を罷め、特(ただ)官名のみ霍光と同じく大馬司と為す。又、范明友の度遼将軍印綬を収め、但だ光禄勲と為す。霍光の中女婿・趙平、散騎・騎都尉・光禄大夫、屯兵を将(ひき)い、又、平の騎都尉印綬を収む。諸胡・越騎・羽林及び両宮衛将の屯兵を領する者、悉く其の親愛なる許・史の子弟を以て之に代う。
8 初め、孝武の世、征伐頻りに発し、百姓貧耗し、窮民犯法し、奸邪滋に多し。是に於いて張湯・趙禹の属をして、條(すじ)を為して法を定め、作(な)して見知故縦・監臨部主の法と為し、緩深故の罪を緩くし、急故出の罰を急にす。其の後、姦猾な者、法を巧みにし、転相(たがい)に比喩し、網密にして律令煩苛し、文書、机案に積み、典(つかさど)る者、遍く見る能わず。是を以て郡国、用うる所の法、駮(まじ)わり、或いは罪同じくして論ずる所異なり、姦吏、因りて市(とりひき)を為し、活かさんと欲すれば則ち生を出すの議に付し、死せしめんと欲すれば則ち比死の律を付す。議する者、咸(みな)冤(うらみ)傷(いた)む。
廷尉史・巨鹿人の路温舒が上書して言った。「臣は聞きます。斉には無知の乱があり、桓公がそれによって興りました。晋には驪姫の難があり、文公がそれによって覇者となりました。近世では趙王が善終せず、諸呂が乱を起こしましたが、孝文帝が太宗となりました。これによって見れば、禍乱の発生は、聖人のために道を開こうとするものです。変乱の後には、必ず以往とは異なる恩恵があります。これは賢聖が天命を昭示するためのやり方であります。昔、昭帝が崩じて子がなく、昌邑王は荒淫で秩序を乱しました。これは皇天が至聖の君を開くための方法でありました。臣は『春秋』が即位を重んじ、大一統を重視し、その始めを慎むことを聞いております。陛下はまさに帝位に登り、天意に符節を合わせるにあたり、前代の過ちを改革し、天命を受ける始めの綱紀を正し、煩瑣な法令を除き、百姓の苦痛を消除し、もって天意に順うべきであります。臣は秦に十の過失があったと聞きますが、その一つが今なお存在しております。それは訴訟を審理する官吏であります。獄は天下の命の所在であり、死せる者は復活せず、絶たれたものは継ぐことができません。『書経』に曰く『無辜を殺すよりは、寧ろ常法に拠らざるを失せよ』と。今、訴訟を審理する官吏はそうではなく、上下互いに駆り立て、苛刻を明察とし、厳酷な者を公正の名とし、平穏な者には多くの後患があります。ゆえに訴訟を審理する官吏は皆、人を死なせようと欲します。人を憎むからではなく、自らを保つ道が人を死なせることにあるからであります。それゆえに死人の血は市に流れ、刑に遭う者は肩を並べて立ち、死刑を宣告される者は年ごとに万を数えます。これは仁聖の君が悲しむところであり、太平の盛世が未だ及ばないのは、すべてこのためであります。人の常情として、平安であれば生を楽しみ、苦痛であれば死を欲します。鞭打ちの下にあって、何の自白が得られないことがありましょうか!ゆえに囚人は苦痛に耐えかねて、偽りの言葉を作って応じます。官吏はこれを望み、その状況を説明するよう導きます。上奏する際には却下されることを恐れ、繰り返し鍛え上げて罪名をでっち上げます。判決の文書が完成すれば、皋陶が審理しても、死んでも罪が余ると思われるでしょう。なぜでしょうか。鍛え上げて罪とした者が多く、文書がでっち上げた罪名が明らかだからであります。ゆえに俗諺に『地に獄を画き、商量して入れず。木に獄吏を刻み、期して対質せず』とあります。これらは皆、官吏の風気を痛み、悲痛な言葉であります。願わくば陛下、法律制度を省みて、刑罰を寛大にされれば、太平の風気が世に興ることができましょう。」皇帝はその言葉を良いと思った。
9 十二月、皇帝は詔を下して言った。「近来、官吏は用法を巧みにし、条文はますます苛刻になっている。これは我が徳の足りないためである。判決が妥当でなければ、有罪の者は邪悪な心を起こし、無辜の者は殺戮を受け、父子は悲しみ怒り、私は非常に心を痛めている!今、廷史を派遣して郡国と共に訴訟を審理させているが、責任は軽く俸禄は薄い。よって廷尉平を設置すべきである。俸禄は六百石、員数は四人とする。必ず公平に判決し、もって我が心に適うようにせよ!」そこで毎年秋末に審判を求める時、皇帝はしばしば自ら宣室に臨み、斎戒して居住し、判決を裁いた。刑獄は公平であると称された。
涿郡太守の鄭昌が上疏して言った。「今、英明な君主が自ら垂聴し明察すれば、廷尉平を設置せずとも、刑獄は自然に公正となりましょう。もし後世のことを考えれば、律令を刪定するに如くはありません。律令が一度確定すれば、愚昧な百姓は何を避けるべきかを知り、奸邪な官吏は手を弄することができなくなります。今、根本を正さずに、廷尉平を設置して枝葉の問題を処理すれば、政事が衰え訴訟が怠れば、廷尉平は権を握りて禍乱の端緒となるでありましょう。」
10 昭帝の時、匈奴は四千の騎兵を車師に派遣して屯田させた。五将軍が匈奴を攻撃するに及び、車師の屯田者は驚いて逃走し、車師は再び漢と往来した。匈奴は怒り、車師の太子・軍宿を召し、人質にしようとした。軍宿は焉耆の外孫であり、匈奴に人質として行くことを望まず、焉耆に逃げた。車師王は子の烏貴を太子に改めた。烏貴が王に立つと、匈奴と婚姻を結び、匈奴に教唆して漢が烏孫に通じる道を阻ませた。
この年、侍郎・会稽人の鄭吉と校尉・司馬熹は、刑を免れた罪人を率いて渠犁に屯田し、穀物を積み、西域の城郭諸国の兵一万余と、自ら率いる屯田兵一千五百人を合わせて、車師を攻撃し、破った。車師王は降伏を請うた。匈奴は兵を発して車師を攻撃した。鄭吉と司馬熹は兵を率いて北進し、匈奴を迎え撃った。匈奴は敢えて進まなかった。鄭吉と司馬熹はそこで一軍候と二十名の兵士を留めて車師王を守らせ、自ら兵を率いて渠犁に戻った。車師王は匈奴の軍が再び来て殺されることを恐れ、軽騎で烏孫に逃れた。鄭吉はそこでその妻子を迎え取り、長安に送った。匈奴は車師王の弟・兜莫を車師王に改めて立て、車師の残りの民衆を集めて東方に移住させ、敢えて再び元の地に住まわせなかった。そして鄭吉は始めて三百人の吏卒を派遣して車師に屯田させ、もってその地を充実させた。
皇上は即位の初めから、たびたび使者を派遣して外祖母の家を探させた。年代が遠いため、見つかったものは多くが似て非なる者であった。この年、外祖母の王老太太およびその子・王无故、王武を見つけた。皇上は王无故と王武に関内侯の爵位を賜った。十日半月の間に、賞賜は万を数えた。
地節四年(乙卯、紀元前六六年)
春、二月、外祖母に称号して博平君と為す。舅の王无故を平昌侯に、王武を楽昌侯に封ず。
夏、五月、山陽・済陰の地に雹が降る。大きさは鶏卵の如く、深さ二尺五寸に達し、二十余人を打死し、飛鳥はすべて打死された。
詔を下して言う、「今より以後、子が父母を隠し、妻が夫を隠し、孫が祖父母を隠すとも、罪に問わず。」
広川恵王の孫・劉文を広川王と為す。
霍顕および霍禹・霍山・霍雲は、自らが日に日に侵奪され削弱されているのを見て、たびたび相対して泣き、自らを怨んだ。霍山が言った。「今、丞相が権を握り、天子は彼を信頼し、大将軍の時の法令をことごとく改め、大将軍の過失を宣揚している。また、かの儒生たちは多くが貧寒の出身で、遠方から来て、飢え寒さに苦しみ、好き勝手に狂言を言い、何も避けず、大将軍は昔、常に彼らを仇敵視していた。今、陛下は儒生たちと語ることを好み、彼らは人々が書を上書し、多くは我が家のことを言及する。かつて上書があり、我が兄弟たちが驕り横暴であると言い、言辞は極めて痛切であった。私はそれを押さえて上奏しなかった。後になって上書する者はますます狡猾になり、皆、密封の奏章を上書し、陛下は常に中書令を派遣して取りに行かせ、尚書を経由せず、ますます人を信じなくなった。また聞くところによれば、民間で喧伝されている『霍氏が許皇后を毒殺した』というのは、果たして本当のことなのか?」霍顕は恐れかつ焦り、そこで実情をことごとく霍禹・霍山・霍雲に告げた。霍禹・霍山・霍雲は驚いて言った。「そうだったのか!なぜ早く私たちに告げなかったのか!陛下が我が家の女婿たちを追放し斥けたのは、まさにこの理由からだ。これは大事であり、処罰は軽くはない。どうすればよいのか?」そこで邪悪な陰謀を抱き始めた。
霍雲の舅・李竟の友人の張赦は、霍雲の家が慌ただしく不安であるのを見て、李竟に言った。「今、丞相と平恩侯が権を握っている。太夫人に太后に言わせて、先ずこの二人を殺させるべきだ。陛下を改めて立てることは、ただ太后にのみかかっている。」長安の男・張章がこのことを告発し、事は廷尉・執金吾に下され、張赦らを逮捕した。後に詔があり、逮捕を中止した。霍山らはますます恐れ、互いに言った。「これは陛下が太后を重んじられるゆえに、深く追及されないのだ。しかし、悪事の兆しはすでに現れている。長く時が経てばやはり発覚し、発覚すれば滅族である。先手を打つに如くはない。」そこでそれぞれの娘たちに各自の夫のところへ帰らせて告げさせ、皆に言った。「どこに逃げられようか!」
恰に李竟が諸侯王と交際した罪に問われ、供述が霍氏に連座した。詔勅があり、「霍雲、霍山は宮中で警護の任に就くのに適さない。職を免じて家に帰らせよ」と命じられた。山陽太守の張敞は密封した奏章を上奏した。「私は、公子季友が魯国に功績があり、趙衰が晋国に功績があり、田完が斉国に功績があったと聞いております。いずれもその功績に報いて、子孫にまで及びました。ついに田氏は斉国を篡奪し、趙氏は晋国を分割し、季氏は魯国を専断しました。それゆえ孔子は『春秋』を作り、盛衰を考察し、最も厳しく世襲の卿を非難しました。かつて大将軍が重大な決断を下し、宗廟を安定させ、天下を平定したその功績は、決して小さなものではありません。周公が摂政したのはわずか七年でしたが、大将軍が摂政したのは二十年、天下の命運は彼の手中にありました。彼の権勢が隆盛であった時、天地を感動させ、陰陽を侵迫しました。朝廷の大臣は本来、明らかにこう言うべきでした。『陛下は故大将軍を褒め称え寵愛してその功徳に報いることで十分です。近ごろ輔政の大臣が専権し、貴戚の勢力が盛んすぎ、君臣の名分が明確ではありません。霍氏の三人の列侯を罷免して皆を家に帰させてください。衛将軍の張安世については、几杖を賜って引退させ、時々慰問して召し出し、列侯の位をもって天子の師とされるのがよいでしょう。』陛下が明確に詔勅を下して恩情によりお許しにならなければ、群臣が道理を尽くして争ってから同意するならば、天下の人々は必ず、陛下が功徳を忘れず、朝臣が礼法をわきまえていると思うでしょう。霍氏は世々代々憂いがなくなるのです。今、朝廷には正しい議論が聞かれず、陛下自らが詔勅を下して態度を表明させているのは、良い方法ではありません。今、二人の列侯がすでに免職されました。人情に大きな違いはなく、私の心で推し量るに、大司馬とその分家の親族は必ず恐れの心を抱くでしょう。近臣が自らの危険を感じるのは、完全な方法ではありません。私、張敞は朝廷で公然とこの建議を述べたいと願いますが、辺境の郡を遠く守っており、道がありません。陛下のご明察を望みます。」上はその計略を大いに賞賛したが、召し出すことはなかった。
霍禹、霍山らの家ではたびたび怪異な現象が現れ、一家は憂いに沈んだ。霍山が言った。「丞相が勝手に宗廟の祭祀に使う子羊、兎、蛙を減らした。この罪で彼を罰することができる。」太后が博平君のために酒席を設け、丞相、平恩侯以下の官を招き、范明友、鄧広漢に太后の命を奉じて彼らを引きずり出して斬首させ、続いて天子を廃して霍禹を立てることを謀った。約束は整ったが、まだ実行に移されないうちに、霍雲は玄菟太守に、太中大夫の任宣は代郡太守に任命された。折悪しく事が露見し、秋七月、霍雲、霍山、范明友は自殺し、霍顕、霍禹、鄧広漢らは捕らえられた。霍禹は腰斬に処され、霍顕ならびに娘たち、兄弟は皆、処刑されて晒し者にされた。霍氏に連座して誅殺され、族滅された者は数十家にのぼった。太僕の杜延年は霍氏の旧人であるという理由で、連座して免官された。八月己酉、皇后霍氏は廃され、昭台宮に置かれた。乙丑、詔勅を下し、霍氏の謀反を告発した男の張章、期門の董忠、左曹の楊惲、侍中の金安上、史高を皆、列侯に封じた。楊惲は丞相楊敞の子である。金安上は車騎将軍金日磾の弟の子である。史高は史良娣の兄の子である。
初め、霍氏が奢侈であったとき、茂陵の人徐生が言った。「霍氏は必ず滅びる。奢侈であれば謙遜でなくなり、謙遜でなければ主君を軽んじる。主君を軽んじるのは道義に背くことであり、衆人の上に立っていれば、衆人は必ず彼を害そうとする。霍氏が権力を握って久しく、彼らを害そうとする者は多い。天下の人が彼らを害そうとしているのに、彼らの行いが道義に背いている。滅びずして何を待つというのか!」そこで上疏して言った。「霍氏の勢力が盛んであります。陛下がたとえ彼らを愛し厚く遇されても、時に応じて抑制し、滅亡に至らしめないようにされるべきです。」奏章は三回に及び、その都度の返答は「承知した」であった。後に霍氏が誅滅され、霍氏を告発した者たちが皆、封賞を受けた。ある人が徐生のために上書した。「私は、ある客が主人を訪ね、主人の家の煙突が真っ直ぐで、そのそばに薪が積んであるのを見て、客が主人に言ったのを聞きました。『煙突を曲がったものに変え、薪を遠くへ移しなさい。さもなければ火事になりますよ。』主人は黙って応えませんでした。間もなく家は案の定失火し、近所の人々が共に消し止め、幸いにして火は消えました。そこで牛を屠り酒を設けて隣人たちに感謝し、焼けて焦げ頭を爛らした者を上座に座らせ、残りの者はそれぞれ功績の大小に従って順に座らせましたが、煙突を改め薪を移すことを勧めた者を招くことはありませんでした。ある人が主人に言いました。『もし初めに客の言葉を聞いていたなら、牛や酒を費やすこともなく、ついに火事も起こらなかったでしょう。今、功績を論じて客を招くにあたり、煙突を改め薪を移すことを勧めた者が恩恵を受けず、焦げ頭を爛らした者がかえって上客となったのはなぜですか?』主人はようやく悟り、その人を招きました。今、茂陵の徐福は、たびたび上書して、霍氏にまもなく変事があるだろうから、防ぎ断つべきだと述べました。もし初めに徐福の建議が実行されていたなら、国には土地を分割し列侯に封じるという出費はなく、臣下には叛逆して誅滅されるという禍敗もなかったでしょう。事はすでに過ぎ去りましたが、ただ徐福だけが賞を受けていません。陛下のご明察をお願いし、その『薪を移し煙突を改める』計略を重く見て、『焦げ頭を爛らした者』の上に置かれることを望みます。」上はそこで徐福に帛十匹を賜り、後に郎官に任命した。
宣帝が即位したばかりの時、高廟に謁見しに行った。大将軍霍光が陪乗したが、帝は内心非常に彼を畏れ、あたかも芒刺が背中に刺さっているかのようであった。後に車騎将軍張安世が霍光に代わって陪乗すると、天子はようやく挙措が落ち着き、身体が伸びやかになり、安心して親しみを感じた。霍光が死に、その宗族がついに誅滅されたので、民間では霍氏の禍端は陪乗の時に萌したと伝えられている。その後十二年、霍皇后はまた雲林館に移され、ついに自殺した。
班固は賛して言う。霍光は幼主を輔けるという託けを受け、漢室の寄託を担い、国家を匡正し、社稷を安定させ、昭帝を擁立し、宣帝を扶け立てた。たとえ周公、伊尹であっても、どうして彼に勝ることができようか。しかし霍光は学ばずして術なく、大義を明らかにしなかった。妻の邪悪な陰謀を隠し、娘を皇后に立て、過度に膨れ上がった欲望に溺れ、それによって転覆の禍を増大させ、死後わずか三年で宗族が誅滅された。悲しいかな!
臣司馬光曰く、霍光が漢室を輔けたことは、まことに忠誠と言えよう。しかしながら、ついにその宗族を庇護することができなかったのは、なぜか。威信と権柄は、君主の器である。臣下がこれを掌握し、長く返さなければ、禍を被らない者は稀である。孝昭帝の明智をもってすれば、十四歳にして上官桀の偽りを見抜くことができたのだから、もとより自ら政務を執ることができたはずである。ましてや孝宣帝は十九歳で即位し、聡明剛毅で、民間の疾苦を知っていたのに、霍光は長く大権を独り占めし、退くことを知らず、多くの私党を配置して朝廷を満たした。君主に上で憤怒を積もらせ、官吏や人民に下で怨みを溜め込ませ、歯を食いしばり横目で見て、機会の発動を待たせた。彼自身が禍を免れたのはすでに幸運であったのに、ましてや子孫が驕横奢侈によって禍に赴くにおいておや。たとえそうであっても、もし孝宣帝が初めから俸禄と賞賜によって彼の子孫を富裕にさせ、大きな封邑を享受させ、奉朝請させたならば、それで十分に彼の大徳に報いることができたであろう。しかるに、なお彼らに政事を任せ、兵権を授け、事が積もり嫌疑が生じてから、さらにこれを削減剥奪した。それによって怨恨と恐怖を生じさせ、邪悪な陰謀を起こさせるに至った。これはただ霍氏が自ら禍を取ったのみであろうか。また孝宣帝が醸成したものでもある。昔、鬬椒が楚の国で乱を起こした時、楚の荘王はその族を滅ぼしたが、箴尹の克黄を赦免した。それは子文に後嗣がなければ、何をもって人に善を勧めようかと考えたからである。霍顕、霍禹、霍山、霍雲の罪は、たとえ族滅に値するとしても、霍光の忠誠と勲労は祭祀されないわけにはいかない。しかるに、その家に一人の生き残りも残さなかったのは、孝宣帝もまた恩が薄いと言わざるを得ない。
九月、詔勅を下し、天下の塩価を引き下げた。また、各郡国に命じ、毎年、獄中に繋がれている囚人のうち、拷問、杖刑、あるいは病や飢えで死亡した者を報告させ、その所属する県、姓名、爵位、籍貫を明記させ、丞相、御史がその優劣を考核して上奏することとした。
十二月、清河王の劉年が内乱により廃され、房陵に移された。
8 この年、北海太守の廬江人朱邑は政績考課で第一となり入朝して大司農となり、勃海太守の龔遂は入朝して水衡都尉となった。これに先立ち、勃海の近隣郡県では連年飢饉が続き、盗賊が同時に蜂起し、二千石の官員はこれを捕らえ鎮めることができなかった。皇帝は治めるに足る者を選抜し、丞相・御史は元昌邑王の中郎令であった龔遂を推挙し、皇帝は彼を勃海太守に任命した。召見した際に、「どのような方法で勃海を治め、そこの盗賊を鎮めるのか」と問うた。龔遂は答えて言った、「海浜の地は遠く、聖明の教化が及んでおりません。そこの百姓は飢寒に苦しみながら官吏が恤むこともなく、それゆえに陛下の子民が陛下の兵器を盗んで池の中で戯れているに過ぎません。今、私に彼らを征伐させるおつもりか、それとも慰撫させるおつもりでしょうか」と。皇帝は言った、「賢良を選抜任用するのは、そもそも彼らを慰撫せんがためである」と。龔遂は言った、「私は、乱れた民を治めることは乱れた縄を整えるようなもので、急躁にすることはできず、ただゆっくりと行ってこそ、ようやく治めることができると聞いております。私は、丞相・御史がひとまず法律の条文で私を縛ることなく、実際の状況に応じて柔軟に処置することを許していただきたいと願います」と。皇帝はこれを許し、別途黄金を賜って送り出した。龔遂は駅車に乗って勃海郡の境界に到着した。郡中では新太守が着任すると聞き、兵を派遣して迎えた。龔遂は兵士をすべて帰した。文書を発して所属県に告げて言った、「追捕する官吏はすべて廃止せよ。手に鍬や鎌などの農具を持つ者はすべて良民であり、官吏は問うてはならない。兵器を持つ者こそが盗賊である」と。龔遂は単独で車に乗って役所に入った。盗賊は龔遂の教令を聞くと、ただちに解散し、兵器や弩を棄てて鎌や鍬を手に取り、ここにことごとく平定され、百姓は安らかに業に従った。龔遂はここで穀倉を開いて貧民に貸し与え、賢良な官吏を選抜して彼らを安んじ養った。龔遂は斉の地の風俗が奢侈で、工商の末業を好み、農耕に従事しないのを見て、自ら率先して節倹を励行し、百姓に農耕や養蚕を勧め、人口に比例して樹木を植え家畜を養わせた。百姓の中に刀剣を佩びている者がいれば、剣を売って牛を買わせ、刀を売って子牛を買わせて言った、「なぜ牛や子牛を身に佩びているのか!」と。彼は慰労巡察し、郡中には蓄えができ、訴訟事件は止んだ。
9 烏孫公主の娘が亀茲王の絳賓の夫人となった。絳賓は上書して言った、「漢の外孫を娶ることができましたので、公主の娘とともに入朝することを願います」と。
元康元年(丙辰、紀元前六五年)
1 春、正月、亀茲王とその夫人が来朝した。ともに印綬を賜い、夫人は公主と号し、賞賜は非常に厚かった。
2 始めて杜陵を造営した。丞相・将軍・列侯・二千石の官員、家産百万以上の者を杜陵に移した。
3 三月、鳳凰が泰山・陳留に集まり、甘露が未央宮に降ったため、詔を下して天下に大赦した。
4 有司がまた、悼園は皇考と尊称すべきであると進言した。夏、五月、皇考廟を建てた。
5 冬、建章衛尉を設置した。
6 趙広漢は、代々官吏を務めた家の子孫の中から若く有能な者を用いるのを好み、専ら彼らの強健勇猛な気勢を励まし、事に臨んでは風を生じ波を起こすが如く、回避するところがなく、多くは果断な計略を取ることができ、阻む者はいなかったが、ついにこれによって失敗した。趙広漢は私怨により男子の栄畜を罪に論じて処死した。ある者が上書してこれを告発し、案件は丞相・御史に下されて取り調べられた。趙広漢は丞相夫人が侍婢を殺したのではないかと疑い、これをもって丞相を脅そうとしたが、丞相の取り調べはますます急迫した。趙広漢はここで吏卒を率いて丞相府に入り、丞相夫人を召し出して庭中に跪かせて訊問を受けさせ、十数人の奴婢を捕らえて去った。丞相は上書して自己を陳述し、案件は廷尉に下された。実際には丞相が自らの過失により侍婢を責め鞭打ち、侍婢が出て外宅に行ってから死んだもので、趙広漢の言うところとは異なっていた。皇帝は趙広漢を憎み、彼を廷尉に下して獄に入れた。吏民が宮門の前に守って号泣する者は数万人に及び、「私は生きて官府の役に立たないので、どうか趙京兆に代わって死に、彼が引き続き小民を養うことを許されたい」と言う者もあった。趙広漢はついに腰斬の刑に処せられた。趙広漢が京兆尹を務めた時、廉潔明察で、威勢は豪強を震え上がらせ、小民はそれぞれその職を安んじ、百姓は彼を追慕し歌い称えた。
7 この年、少府の宋畴が「鳳凰が彭城に降ったが、京师には至らなかった。賞賛するに値しない」と議論したことにより、泗水太傅に左遷された。
8 皇帝は博士・諫大夫の中から政事に通暁した者を抜擢して郡国の守相に補任し、蕭望之を平原太守に任命した。蕭望之は上書して言った、「陛下は百姓を哀れみ、恩徳が普及しないことを憂慮され、すべての諫官を派出して郡吏に補任されました。朝廷に直言諫争の臣がいなければ、過失を知ることはできません。これはいわゆる末節を憂えて根本を忘れるというものです」と。皇帝はここで蕭望之を召し出して少府を代理させた。
9 東海太守の河東人尹翁帰は、郡の治績が優れていたため入朝して右扶風となった。尹翁帰の人物は、公正廉潔明察で、郡中の吏民の賢良・不肖および奸邪の罪状の情況をことごとく知っていた。各県には登記簿があり、彼は自ら政務を処理した。緊急の事態があればやや緩やかにした。吏民にわずかな過失があれば、彼は簿籍を繰った。彼が人を捕らえるのは必ず秋冬の官吏考核の大会中および出巡の際であり、何事もない時にはしなかった。彼が捕らえるのは、一を誅して百を戒めるためであった。吏民は皆信服し、恐れ、改過自新した。彼が右扶風を務めるに当たっては、廉潔公平で奸邪を憎む官吏を選抜して要職に据え、礼をもって遇し、好悪を同じくした。もし尹翁帰に背くことがあれば、罰も必ず執行された。しかし彼は温良謙遜で、己の才能品行をもって人に驕ることがなかったので、特に朝廷の称賛を得た。
10 当初、烏孫公主の末子万年が莎車王の寵愛を受けた。莎車王が死去し子がなかった。当時万年は漢にいた。莎車国の人々は議論し、漢に託属しようとし、また烏孫の歓心を得たいと考え、上書して万年を莎車王に立てることを請うた。漢はこれを許し、使者の奚充国を派遣して万年を送った。万年が即位するとすぐに、残暴凶悪で、国人は喜ばなかった。
皇帝は群臣に西域に派遣できる者を推挙するよう命じた。前将軍韓増は上党人馮奉世を推挙し、衛候の身分で節を持して大宛などの国の客を伊循城に送らせた。折悪しく前莎車王の弟呼屠征が隣国とともに莎車王万年と漢の使者奚充国を殺し、自立して王となった。当時匈奴もまた兵を発して車師城を攻めたが、落とせずに撤退した。莎車は使者を派遣して「北道の諸国はすでに匈奴に帰属した」と触れ回り、ここに南道を攻め劫掠し、諸国と血を飲んで盟約し漢に背き、鄯善より以西はすべて断絶して通じなくなった。都護鄭吉・校尉司馬憙はともに北道の諸国の間にいた。馮奉世はその副使厳昌と議し、「もしただちに攻撃しなければ、莎車は日増しに強大となり、その勢いは制し難くなり、必ずや西域を危うくするであろう」と考え、ここに節を持して諸国の王に告諭し、それによって彼らの軍隊を徴発し、南北道合わせて一万五千人を集め、進軍して莎車を攻撃し、その城を破った。莎車王は自殺し、その首級を長安に送り、他の兄弟の子を改めて莎車王に立てた。諸国はことごとく平定され、威は西域を震わせ、馮奉世はここで兵を撤収して上奏した。皇帝は韓増を召して言った、「将軍が人を推挙したことを祝す」と。
馮奉世はここで西のかた大宛に行った。大宛は彼が莎車王を斬ったことを聞き、彼を他の使者よりも重んじ、その名馬象龍を得て帰還した。皇帝は非常に喜び、馮奉世に封賞することを議した。丞相・将軍は皆「可」としたが、ただ少府蕭望之のみが、「馮奉世は命を受けて出使し明確な任務があったのに、擅みに命令を偽り、諸国の軍隊を徴発し、功効はあるといえども、後世の法とすることはできません。もし馮奉世に封賞すれば、後の使者が馮奉世の例に倣って利を貪り、争って兵を発し、万里の外で功を邀え、国家のために夷狄の中で事を滋くする端を開くことになり、この芽は助長すべきではありません。馮奉世は封を受けるべきではありません」と言った。皇帝は蕭望之の意見を善しとし、馮奉世を光禄大夫に任命した。
元康二年(丁巳、紀元前六四年)
1 春、正月、天下に大赦した。
2 上(皇帝)は皇后を立てようと考えた。当時、館陶公主の母である華婕妤、淮陽憲王の母である張婕妤、楚孝王の母である衛婕妤が寵愛を受けていた。上は張婕妤を皇后に立てようとしたが、長い間、霍氏が皇太子を害そうとした教訓を顧みて、改めて後宮の中で子がなく、かつ慎み深い者を選んだ。二月乙丑の日、長陵の王婕妤を立てて皇后とし、太子を養育させた。その父の王奉光を邛成侯に封じた。皇后は寵愛を受けず、上に拝謁することは稀であった。
3 五月、詔を下して言った。「刑獄は、万民の命に関わるものである。生きる者に恨みを抱かせず、死する者に遺憾を残さなければ、文吏と称することができる。しかし今日はそうではない。法を執る者の中には、心に巧詐を抱き、法律の条文を曲解し、意味を歪めて、軽重の公平を欠き、上奏が事実に基づかず、上もこれを知ることができない。四方の民は誰に頼ればよいのか!二千石の官員はそれぞれ所属の官吏を考察し、このような者を用いてはならない。官吏の中には、勝手に徭役を発し、駅舎を飾り立て、過ぎたるもてなしで使者を迎え、職権を越え法に反して名誉を博する者がいる。これは薄氷を踏んで日が昇るのを待つようなものであり、危なくないだろうか!今、天下は疫病の災害にかなり見舞われており、私は深く憐れむ。諸郡国の災害が深刻なところには、今年の田租・賦税を徴収しないよう命じる。」
4 また言った。「聞くところによれば、古代の天子の名は、知り難くとも避け易いものであった。今、名を詢と改める。」
5 匈奴の大臣たちは皆、「車師の土地は肥沃で、匈奴に近い。もし漢にこれを得られ、多くを開墾して穀物を蓄えられれば、必ずや我が国を害するであろう。争わずにはいられない」と考え、たびたび兵を派遣して車師の屯田者を攻撃した。鄭吉は渠犁の屯田兵七千余人を率いて救援に向かったが、匈奴に包囲された。鄭吉は上書して言った。「車師は渠犁から一千余里離れており、漢の渠犁の兵は少なく、形勢上救援することはできません。屯田の兵士を増やしていただきたい。」上は後将軍趙充国らと議し、匈奴が衰弱しているのに乗じて、その右部の地を攻撃し、もって西域に騒擾を起こさせないようにしようと考えた。
魏相が上書して諫めて言った。「私は聞いております。乱れを救い暴虐を討つ兵を義兵といい、義兵を用いる者は王となります。敵が我を攻め、已むを得ず応戦するものを応兵といい、応兵は勝ちます。些細な恨みによって争い、怒りを抑えられないものを忿兵といい、忿兵は敗れます。他人の土地・財宝を貪るものを貪兵といい、貪兵は打ち破られます。国家の強大と人民の多さに恃み、敵に威風を示そうとするものを驕兵といい、驕兵は滅びます。この五つは、人事のみならず、天道の道理でもあります。近ごろ匈奴は善意を示し、彼らが捕らえた漢の民は常に送り返し、辺境を侵すことはありません。我々と車師の屯田を争っているとはいえ、大いに気にかけるほどのことではありません。今、諸将が兵を出して匈奴の境内に入ろうとしていると聞きます。愚昧な私は、この兵を何と名付けるべきか知りません。今、辺境の郡県は困苦貧乏で、父子が一枚の羊裘を共用し、野草や木の実を食べ、常に生きてゆくことさえ危ぶまれており、兵を動かすことは難しいのです。『戦いの後には必ず凶年がある』とは、民の愁苦の気が陰陽の和を傷つけることを言います。出兵して勝ったとしても、なお後患があり、恐らく災害や変異がこれによって生じるでしょう。今、各郡国の守相は多くが公正な選抜によって得られた者ではなく、風俗は特に浅薄であり、水旱の災害が時節を待たずに起こっています。今年の統計によれば、子弟が父兄を殺し、妻が夫を殺した者が、合わせて二百二十二人います。愚昧な私は、これを小さな変事とは思いません。今、陛下の側近の者はこれを憂えず、遠征を企て、些細な恨みのために遠方の夷狄に報復しようとしています。これはおそらく孔子が『我れ季孫の憂いは顓臾に在らずして、蕭牆の内に在るを恐る』と言ったところであります。」漢の宣帝は魏相の言葉に従い、出兵を取りやめた。長羅侯常惠を派遣し、張掖・酒泉の騎兵を率いて車師に向かわせ、鄭吉とその官吏・兵士を迎えて渠犁に帰還させた。焉耆にいた元の車師の太子軍宿を召し寄せ、車師王に立てた。車師の国民をことごとく渠犁に移住させ、もとの車師の土地を匈奴に与えた。鄭吉を衛司馬とし、鄯善より西南の道路を保護するよう命じた。
魏相は漢の旧事や有益な奏章を研究することを好み、たびたび漢の建国以来の国家が施行した有益な施策、ならびに賢臣賈誼・鼂錯・董仲舒らの言論を条陳し、上奏して施行を求めた。魏相は属官に、郡国に赴いて事務を査問する際や、休暇後に家から府衙に戻った際には、各地の異状を報告するよう戒めた。もし叛賊や風雨の災害などの変故があり、郡守が報告しなければ、魏相は上奏して説明した。彼は御史大夫丙吉と心を合わせて輔政にあたり、漢の宣帝はともに敬重した。
丙吉の人は深く厚く、自らの善行を誇らなかった。皇曾孫(漢の宣帝)が機会に遇って皇帝に立てられて以来、丙吉はかつての恩情を一言も口にしなかった。それゆえ朝廷の中で彼の功績を知る者はなかった。折りしも掖庭の宮婢がその庶民の夫に上書させ、自らかつて皇帝を養育保護した功績があると称した。奏章は掖庭令に下って査問され、宮婢の供述の中で使者の丙吉が事情を知っていると述べた。掖庭令は宮婢を連れて御史府に行き丙吉に面会させた。丙吉は彼女を認め、言った。「お前はかつて皇曾孫を養育するにあたり慎みを欠いたため、私に責め打たれたことがある。どうして功績があろう!ただ渭城の胡組、淮陽の郭征卿のみが恩徳あるのみである。」そこで別々に胡組らが共に養育に努めた労苦の状況を上奏した。皇帝は詔を下して丙吉に胡組・郭征卿を探させた。彼女らは既に亡くなっていたが、子孫があり、皆厚い賞賜を受けた。詔を下して宮婢の賤籍を免じ、庶民とし、十万銭を賜った。皇帝は自ら召し出して問い質し、その後初めて丙吉が旧恩がありながら終に言わなかったことを知り、非常に敬重した。
皇帝は蕭望之が経術に通暁し、穏重で思慮に富み、議論に余裕があり、その才能は宰相に足ると考え、その政事処理能力を詳細に試そうとし、また彼を左馮翊に任命した。蕭望之は少府から外任に出されることを、左遷と考え、自分の意向にそぐわないことを恐れ、上書して病と称した。皇帝はこれを聞き、侍中成都侯金安上を派遣して旨を伝えさせて言った。「官を任命するには、必ず先に民を治めさせて功績を考察するものである。そなたは以前平原太守の任が短かったので、再び三輔で試用するのだ。そなたに過失があるからではない。」蕭望之はそこで直ちに就職して事務を執った。
初め、掖庭令の張賀は、たびたびその弟の車騎将軍張安世に対して皇曾孫(漢の宣帝)の才能と品行、ならびに現れた奇瑞を称賛した。張安世は常にこれを制止し、皇帝が幼くして位にある時に、皇曾孫を称賛すべきではないと考えた。漢の宣帝が即位した時、張賀は既に亡くなっていた。皇帝は張安世に言った。「掖庭令は生前に私を称賛したが、将軍がそれを制止したのは、正しいことであった。」皇帝は張賀の恩情を追憶し、その墓に恩徳侯の封を授け、二百戸の守墓人を置こうとした。張賀には子が一人いたが早世しており、張安世の小児の張彭祖がいた。張彭祖は幼い頃、皇帝と机を共にして書を学んだ。皇帝は彼を侯に封じようとし、先ず関内侯の爵位を賜った。張安世は深く張賀への封賞を辞退した。また守墓戸数を減じるよう請い、次第に三十戸に減じた。皇帝は言った。「朕がこれを行うのは、掖庭令のためであって、将軍のためではない。」張安世はそこで止め、敢えて言わなかった。
皇帝は元昌邑王劉賀を内心で警戒し、山陽太守張敞に璽を捺した詔書を下し、盗賊への警戒を厳重にし、往来の客商を検査するよう命じた。ただし、下した詔書の内容を漏らしてはならないとした。張敞はそこで劉賀の居住状況を逐条上奏し、その廃位後の様子を明らかにして言った。「元昌邑王劉賀という者は、顔色は青黒く、目は小さく、鼻先は低くて尖っており、鬚や眉は少なく、身体は高大で、痿病を患っており、歩行に不便があります。かつて私が彼と話し、その心中を探ろうとして、悪鳥を用いて彼を刺激し、『昌邑には多くの梟がいる』と言いました。元王は答えて言いました。『そうです。以前私が西のかた長安へ行った時には、全く梟はいませんでした。帰って来る時、東のかた済陽に至って、初めて再び梟の鳴き声を聞きました』と。元王の衣服、言葉、跪拝、起立を観察するに、彼は正気を失っており、聡明ではありませんでした。私は以前に申し上げました。『哀王の歌舞伎の張修ら十人は子女がなく、哀王の陵園に留まっておりますので、彼らを元の籍に帰すことを請う』と。元王はこの言葉を聞いて言いました。『宮中の者が陵を守るのに、病にかかった者には治療を与えるべきではなく、互いに傷つけ合った者は法に従って処置すべきではなく、彼らを早く死なせたいのだ。太守はなぜ彼らを帰そうとするのか』と。彼は天性、混乱と滅亡を好み、終始仁義を顕さないこと、このような次第であります。」皇帝はこれによって、劉賀が憂慮に値しないことを初めて知った。
元康三年(戊午、紀元前63年)
春、三月、詔を下して元昌邑王劉賀を海昏侯に封じた。
乙未の日、詔を下して言った。「朕が微賤であった時、御史大夫丙吉、中郎将史曾・史玄、長楽衛尉許舜、侍中・光禄大夫許延寿は、皆朕に旧恩があり、また元掖庭令張賀は、朕が学問に励み経術を修めるよう指導し、その恩恵は特に顕著であり、功績は大きい。詩経に言うではないか。『恩徳なくして報いられざるはなし』と。張賀が養育した弟の子、侍中・中郎将張彭祖を陽都侯に封じ、追って張賀に陽都哀侯の諡号を賜い、丙吉を博陽侯、史曾を将陵侯、史玄を平台侯、許舜を博望侯、許延寿を楽成侯とせよ。」張賀には孤孫の張霸がおり、年は七歳で、散騎・中郎将に任じられ、関内侯の爵位を賜った。かつての旧知の者から、下は郡邸獄の役人に至るまで、かつて養育保護の功労のあった者は、皆官禄・田宅・財物を得て、それぞれ恩情の深さに従って報いられた。
丙吉が封じられようとする時、病にかかった。皇帝は彼の病が重く起き上がれなくなるのを憂い、彼の家に使者を遣わして封印綬を加え、生きている間に授けようと考えた。太子太傅夏侯勝が言った。「彼は死にはしません。私は、陰徳のある者は必ずその報いを享受し、子孫に及ぼすと聞いています。今、丙吉はまだ報いを得ずして病が重くなっていますが、これは彼にふさわしい死病ではありません。」後に病は果たして治った。
張安世は、自分が父子とも侯に封ぜられ、地位が非常に高くなったことを理由に、俸禄を辞退した。皇帝は詔して都内の倉庫に別に張氏の無名の銭を収めさせ、その額は百万にのぼった。張安世は事を慎み、細かく心を配り、大きな政務を決定するたびに、事が決まると病と称して退出した。詔令が下されたと聞くと、初めて驚いたふりをして、属官を丞相府に派遣して問い合わせさせた。朝廷の大臣で、彼が議論に参与したことを知る者はなかった。彼はかつて人を推薦したことがあり、その人が礼に来たが、張安世は非常に遺憾に思い、「賢者を挙げるのに、どうして私的に礼をする道理があろうか」と言って、遂に絶交し、再び交際しなかった。ある郎官が功績が高いのに昇進せず、自ら張安世に訴えた。張安世は答えて言った。「あなたの功績は高く、聖明な君主はご存知である。臣下が事を行うのに、何の長短を自ら言う必要があろうか。」と。固く許さなかった。間もなく、その郎官は果たして昇進した。張安世は自分の父子が尊く顕著であるのを見て、心が安んじられず、子の張延寿のために地方官への外任を請うた。皇帝は彼を北地太守に任じた。一年余り過ぎて、皇帝は張安世の年老いたのを憐れみ、再び張延寿を召して左曹・太僕とした。
夏、四月、丙子の日、皇子劉欽を淮陽王に立てた。皇太子は十二歳で、『論語』『孝経』に通じていた。太傅疏広は少傅疏受に言った。「私は聞いている。『足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず』と。今、官は二千石に至り、官名は成り立った。もしこのまま去らなければ、悔いを生じる恐れがある。」と。その日、父子とも病と称し、上奏して職を退くことを請うた。皇帝は皆許し、黄金二十斤を加えて賜い、皇太子は五十斤を贈った。公卿や旧友は都門外に帳を設けて送別し、送る車は数百両にのぼった。道で見た人は皆嘆じて言った。「賢いかな、二人の大夫よ。」ある人は嘆息して涙を流した。
疏広・疏受は故郷に帰り、毎日家に黄金を売らせて酒食を用意し、族人・旧友・賓客を招いて、共に楽しんだ。ある人が疏広に、黄金で子孫のためにいくらか産業を置くよう勧めた。疏広は言った。「私は老いて耄碌しただろうか。子孫のことを考えないわけがあるまい。ただ、もともと旧来の田宅があり、子孫をその中で勤めて耕作させれば、衣食を供給するに足り、普通の人と同じである。今、さらに財産を増やして余裕を持たせれば、ただ子孫を怠けさせるだけである。賢くして財多ければ、その志を損ない、愚にして財多ければ、その過ちを増す。まして富者は往々にして衆人の怨みを買うものである。私は子孫を教育する術を持たないが、彼らの過ちを増して怨みを招くようなことはしたくない。また、この黄金は、聖明な君主が老臣を養うために賜ったものである。だから私は喜んで郷里・宗族と共にこの賜り物を享受し、以て余命を過ごす。それもまた可ならずや。」と。そこで族人は皆心から服した。
潁川太守黄霸は、郵亭や郷官に鶏や豚を飼わせて、鰥・寡・貧窮の者を養わせた。その後、规章条令を制定し、父老・師帥・伍長を設置して、民間に頒布施行させ、善を勧め奸を防ぐ意図をもって百姓を教え、また農耕桑織に努め、節約して財を蓄え、樹木を植え、牲畜を飼い、浮華奢侈の費用を除くように導いた。彼の治める様子は、米塩のように細かく、初めは煩瑣であるように見えたが、黄霸は精力をもってこれらの施策を実行することができた。接見する官吏百姓に対しては、その談話を通じて反復推究し、他の隠れた事柄を問いて互いに参考にし、その聰明さゆえに、官吏百姓は彼がどのようにして知ったのか分からず、皆彼を神明と称え、絲毫も欺くことができなかった。奸邪の者は他の郡県に逃げ、盗賊は日に日に減った。黄霸は教化を力めて行ってから初めて誅罰を施し、必ずや部下の官吏を成就させ保全することに力を注いだ。許県の県丞は年老いて病み耳が聞こえず、督郵が報告して彼を追放しようとした。黄霸は言った。「許丞は清廉な官吏である。年老いてはいるが、なお拝跪送迎の礼を行うことができる。少し耳が遠いだけだ、何の差し支えがあろうか。しばらくよく助けてやり、賢者の心を失わせてはならない。」と。ある人がその理由を問うた。黄霸は言った。「しばしば官吏を替えれば、送り迎えの費用、ならびに奸邪の官吏が帳簿を断ち切り財物を盗む機会、公家私人の費消損失は多く、これらは皆百姓から出る。替える新しい官吏も必ずしも賢者とは限らず、あるいは旧吏に及ばないかもしれない。ただ徒に混乱を増すだけである。治める道は、ただあまりに過ぎたものを除くに過ぎない。」と。黄霸は外見は寛厚で内心は明察であったため、官吏百姓の心を得、戸口は年ごとに増え、治績は天下第一とされ、召されて京兆尹を代行した。間もなく、法に触れて連続して降格された。後に詔があり、再び彼を潁川太守とし、八百石の俸禄で職に就かせた。
元康四年(己未、紀元前62年)
1 春、正月、詔を下して言った。「年齢八十歳以上の者は、誣告・殺人・傷害を除き、他の罪はすべて問わない。」
2 右扶風尹翁帰が死去し、家に余財がなかった。秋、八月、詔を下して言った。「翁帰は廉潔公正で、百姓を治めて成績優れていた。特に翁帰の子に黄金百斤を賜い、祭りに供えさせよ。」
3 皇帝は関係省庁に命じて、高祖の功臣の中で侯爵を失った子孫を探させたところ、槐里の公乘周広漢ら136人を見つけ出し、全員に黄金20斤を賜り、賦税や徭役を免除し、祭祀を奉じさせ、子々孫々絶やさないよう命じた。
4 丙寅の日、富平敬侯張安世が死去した。
5 当初、扶陽節侯韋賢が死去した際、長子の韋弘が罪により獄に繋がれており、家人が韋賢の遺命と偽り、次子の大河都尉韋玄成を後継者とした。韋玄成はこれが韋賢の本意でないことを深く知っていたため、狂病を装い、寝たまま大小便をし、言葉は乱れ、笑い声をあげ、精神は錯乱した。埋葬後、爵位を継承すべき時となったが、彼は狂病を理由に召しに応じなかった。大鴻臚がこの状況を上奏し、奏章は丞相・御史に下されて調査が命じられた。この事件を担当する丞相史は、そこで韋玄成に手紙を送り言った。「古の辞譲には、必ず文采と義理が見事に備わっており、それゆえ後世に栄光を伝えることができました。今、あなたは独り容貌を損ない、恥辱を被り、狂癡を装い、光彩は暗くして顕れず、あなたが託す名義は何と微妙なことか!私は元来愚昧で浅学であり、過分にも宰相の属官を務めておりますが、どうかあなたの風評を少しでも聞かせていただきたい。さもなくば、あなたが高尚な品行を損ない、私が小人と見なされることを恐れます。」韋玄成の友人の侍郎章もまた上疏して言った。「聖明な君主は礼譲をもって国を治めることを貴びます。どうか韋玄成を優遇し、その志に背かず、彼が簡素な住まいに安んじられるようにすべきです。」そして丞相・御史は韋玄成が実際には病気でないと判断し、弾劾したが、詔があり弾劾を許さず、爵位を受けさせるよう召し出した;韋玄成は已むを得ず、爵位を受けた。皇帝はその節操を敬重し、韋玄成を河南太守に任命した。
6 車師王烏貴が烏孫に逃亡した時、烏孫は彼を留めて送り返さなかった。漢朝は使者を派遣して烏孫を責めると、烏孫は烏貴を京師に送り届けた。
7 当初、武帝が河西四郡を開拓し、羌人と匈奴との通路を遮断し、各部の羌人を追放して、湟中地域に居住させなかった。皇帝が即位すると、光禄大夫義渠安国が命を受けて各部の羌人を巡察した;先零の酋豪が言った。「時季に従って湟水の北に渡り、民が耕作しない土地で放牧することを望みます。」義渠安国はこのことを上奏した。後将軍趙充国は義渠安国が命を受けて巡察するに当たり、不敬(勝手に許可したこと)であると弾劾した。その後、羌人は先の言葉に基づき、強引に湟水を渡り、郡県はそれを禁じることができなかった。
間もなく、先零と各部の羌人の酋豪200人余りが仇を解き、人質を交換し、盟約を結んだ。皇帝はこれを聞き、趙充国に諮問したところ、趙充国は答えて言った。「羌人が容易に制御できる理由は、彼らの各部がそれぞれ首領を持ち、互いに攻撃し合うことが多く、勢力が統一されていないからです。過去30余年、西羌が反乱した時も、まず仇を解き、連合して令居を攻撃し、漢朝と対抗し、五、六年で平定されました。匈奴は何度も羌人を誘惑し、共に張掖・酒泉の地を攻撃し、羌人をそこに居住させようとしました。近頃、匈奴は西方で苦戦しており、再び使者を羌中に送って結託している疑いがあります。私は羌人の変乱がこれに留まらず、さらに他の部族と連合することを恐れています。事態が起こらぬうちに準備すべきです。」一ヶ月余り後、羌侯狼何が確かに使者を匈奴に派遣して援兵を借り、鄯善・敦煌を攻撃して漢朝の道を断とうとしていることが判明した。趙充国は「狼何の勢力だけでこの計略を独自に考え出せるはずがない。匈奴の使者がすでに羌中に到着し、先零・罕・幵が仇を解き盟約を結んだものと疑われる。秋に馬が肥える頃になれば、変乱は必ず起こるだろう。使者を派遣して辺防の軍隊を巡察させ、事前に準備を整え、各部の羌人に仇を解かせぬよう戒めて、その陰謀を察知すべきである。」と述べた。そこで両府(丞相府・御史府)は再び上奏し、義渠安国を派遣して各部の羌人を巡察させ、善悪を分別させた。
8 この時、数年連続で豊作となり、穀物の価格は一石五銭であった。
