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後唐紀

後唐紀四

第 4 篇

【後唐紀四】 柔兆阉茂(丙戌)の四月より始まり、強圉大淵献(丁亥)の六月に至るまで、総じて一年余りである。

夏四月丁亥朔(朔日)、車駕は厳かに整列して出発の準備を整え、騎兵は宣仁門の外に陣を敷き、歩兵は五鳳門の外に陣を敷いた。従馬直指揮使郭従謙は、睦王李存乂が既に死んだことを知らず、彼を擁立して叛乱を起こそうと企て、麾下の兵を率いて軍営から刀を抜いて大声に叫び、黄甲両軍と共に興教門を攻撃した。荘宗は食事中であったが、変事を聞き、諸王及び近衛の騎兵を率いて反撃し、乱兵を興教門の外へ追い出した。当時、蕃漢馬歩使朱守殷は騎兵を率いて城外にいたが、荘宗は宦官を遣わして急ぎ彼を召し、共に賊兵を討とうとした。朱守殷は来ず、兵を率いて北邙山の茂林の下で休息した。乱兵は興教門に火を放ち、城壁に沿って攻め入り、近臣や宿将は皆鎧を脱いで密かに逃げ散った。ただ散員都指揮使李彦卿及び宿衛軍校何福進、王全斌ら十余人のみが奮戦した。やがて荘宗は流れ矢に当たり、鷹坊の善友が荘宗を支えて門楼から降り、絳霄殿の廊下に至り、矢を抜いた。荘宗は渇きと煩悶を覚えて水を欲しがったが、皇后は自ら見舞わず、宦官を遣わして乳酪を送らせた。程なくして荘宗は崩御した。李彦卿らは慟哭して去り、左右の者は皆逃げ散り、善友は廊下の楽器を集めて荘宗の屍を覆い、これを焼いた。李彦卿は李存審の子である。何福進、王全斌は共に太原の人である。劉皇后は金銀財宝を袋に詰めて馬の鞍に結び付け、申王李存渥及び李紹栄と共に七百騎を率い、喜慶殿に火を放ち、師子門から出奔した。通王李存確、雅王李存紀は南山へ逃れた。宮人は多くが逃げ散り、朱守殷は宮中に入り、三十余名の宮女を選び、各自に楽器・珍宝・古玩を取らせて、自分の家に置いた。ここにおいて諸軍は都城内で大いに掠奪した。この日、李嗣源は罌子谷に至り、此事を聞いて慟哭し、諸将に言った。「主上は平素より軍心を得ていたが、正にこの小どもたちに蔽い惑わされてこの境地に至ったのだ。今や我は何処へ帰るべきか!」戊子(初二日)、朱守殷は使者を走らせて李嗣源に報告し、「京城大いに乱れ、諸軍は焼き討ち掠奪して止まない。願わくば速やかに来て救援されたし」と言った。乙丑(誤りか)、李嗣源は洛陽に入り、自らの邸宅に住み、焼き討ち掠奪を禁じ、灰燼の中から荘宗の屍骨を探し出して殯した。李嗣源が鄴都に入った時、前直指揮使平遥の侯益は身を脱して洛陽に帰り、荘宗は彼を撫でて涙を流した。この時に至り、侯益は自ら縛して罪を請うた。李嗣源が言うには、「汝は臣として節を尽くした。何の罪があろうか!」と。彼を元の職に復した。李嗣源は朱守殷に言った。「汝はよく巡察警戒せよ。魏王の到着を待つべし。淑妃、徳妃は宮中に在り、供給は特に豊かに完備せよ。我は先帝の葬儀が終わり、国に君主が立つを待ち、藩鎮に帰りて国家のために北方を守らん。」この日、豆盧革は百官を率いて上牋し、李嗣源に即位を勧めた。李嗣源は彼らに面して言った。「我は詔を奉じて賊を討ちしが、不幸にも部下は叛き離散せり。入朝して自ら申し述べんと欲するも、また李紹栄に阻まれ、狼狽してこの境地に至れり。我は本来他の心なし。諸君が忽ちこのように推挙するは、実に我を知らざるなり。願わくば言うことなかれ!」豆盧革らは固く請うたが、李嗣源は許さなかった。

李紹栄は河中に奔り永王李存霸に頼ろうとしたが、従う兵は次第に逃げ散った。庚寅(初四日)、平陸に至り、わずか数騎となり、人に捕らえられて足を折られ、洛陽に送られた。李存霸もまた部衆千人を率いて軍鎮を棄て晋陽に逃れた。

辛卯(初五日)、魏王李継岌は興平に至り、洛陽に変事ありと聞き、また兵を率いて西に向かい、鳳翔に拠って守ろうと謀った。

向延嗣は鳳翔に至り、荘宗の命と称して李紹琛を誅した。

当初、荘宗は呂・鄭の二宦官を晋陽に命じ、一人は軍隊を監し、一人は倉庫を監し、留守張憲以下皆、応接に暇あらず。鄴都に変事あるに及び、また汾州刺史李彦超を北都巡検と為す。李彦超は李彦卿の兄なり。荘宗崩御の後、推官河間の張昭遠は張憲に勧めて表を上り李嗣源に即位を勧めしめんとした。張憲が言うには、「我は一書生、平民より金紫の官服を着るに至りしは、皆先帝の恩徳に出ず。何ぞ苟且に生きて愧じざらんや!」張昭遠は泣いて言う。「これは古人の為すところ、公が能く之を行えば、忠義永く朽ちず。」李存沼という者あり、荘宗の近親にして、洛陽より晋陽に逃れ、荘宗の命と偽り、密かに二宦官と謀りて張憲と李彦超を殺し、晋陽に拠りて拒み守らんとす。李彦超は之を知り、密かに張憲に告げて、先手を打ちて除かんと欲す。張憲が言うには、「我は先帝の厚恩を蒙り、忍びて之を為さず。義の為に死して禍を免れざるは、天の命なり。」李彦超の謀は未だ決せず。壬辰(初六日)の夜、軍士相率いて牙城に於いて二宦官及び李存沼を殺し、ここにおいて大いに掠奪して明るくなるに及ぶ。張憲は変事を聞き、忻州に逃る。恰も李嗣源の書信至り、李彦超は士卒に号令し、城中始めて安定し、乃ち太原軍府の事務を代行す。

百官三たび牋を上り李嗣源に監国を請い、李嗣源始めて許す。甲午(初八日)、興聖宮に入居し、始めて百官の列班朝見を受く。令を下すに「教」と称し、百官は之を殿下と称す。荘宗の後宮に存する者なお一千余人、宣徽使は其の中より年少艶麗なる者数百人を選びて監国に献ず。監国曰く、「此れ何の用か為さん!」答えて曰く、「宮中の職掌、人を欠くべからず。」監国曰く、「宮中の職掌は旧例に熟練すべきなり。此の者ども何ぞ知らん!」乃ち悉く年長旧老の者を以て補い、年少の者は皆出だして親戚の家に帰らしめ、親戚無き者は其の去就に任す。蜀中より送られ来る宮人も亦此に同じ。

乙未(初九日)、中門使安重誨を枢密使と為し、鎮州別駕張延朗を副使と為す。張延朗は開封の人、後梁に於いて租庸吏と為り、性は纖巧にして、権貴に事うるを善くし、其の女を安重誨の子に嫁せしむ。故に安重誨之を引き用う。監国、所在に命じて諸王を尋訪す。通王李存確、雅王李存紀は民間に蔵れ、或る人密かに安重誨に告ぐ。安重誨は李紹真と謀りて曰く、「今や殿下已に監国して喪事を主る。諸王は早く処置すべし、以て人心を一にせん。殿下の性情仁慈なるは、知らしむべからず。」乃ち密かに人を遣わし、農家に於いて之を殺す。一ヶ月余り後、監国始めて聞き、厳しく安重誨を責め、悲しみ惜しむこと久し。劉皇后は申王李存渥と共に晋陽に逃れ、道中に於いて李存渥と私通す。李存渥は晋陽に至るも、李彦超は之を入れず、鳳谷に逃れ、其の部下に殺さる。翌日、永王李存霸も亦晋陽に至るも、従う兵は悉く逃げ散り、李存霸は髪を剃り、僧服を着て李彦超に拝し、「願わくば山寺の僧と為り、庇護を得んことを。」軍士争いて之を殺さんと欲す。李彦超曰く、「六相公来たる、上奏して処分を俟つべきなり。」軍士聴かず、府門の碑の下に於いて之を殺す。劉皇后は晋陽に於いて尼姑と為り、監国は人を遣わして其の地に於いて之を殺す。薛王李存礼及び荘宗の幼子李継嵩、李継潼、李継蟾、李継峣は、変に遭いて皆其の所終を知らず。ただ邕王李存美のみは、風痺に中りて半身不随の故を以て幸いに免れ、晋陽に居る。

徐温、高季興は荘宗の殺されたるを聞き、ますます厳可求、梁震を重んず。梁震は前陵州判官貴平の孫光憲を高季興に推挙し、以て書記を掌らしむ。高季興は大いに戦船を修造し、楚を攻めんと欲す。孫光憲は諫めて曰く、「荊南は戦乱離散の後、公に頼りて士民を休養し、始めて生気有り。若し再び楚と怨を結べば、他国我が疲弊に乗ぜん。実に憂うべきなり。」高季興は乃ち止む。

戊戌(十二日)、李紹栄は洛陽に送られ、監国は彼を責めて言った。「我に何かお前に対して不義があったのか、我が子を殺したのは!」李紹栄は目を見開いてまっすぐに見つめ言った。「先帝に何かお前に対して不義があったのか!」そこで彼を殺し、その姓名を元行欽に戻した。

監国は蜀を征伐した軍隊が帰還して変事を起こすことを憂慮し、石敬瑭を陝州留後に任命した。己亥(十三日)、李従珂を河中留後に任命した。

枢密使の張居翰が老齢を理由に致仕を願い出て、許可された。李紹真はたびたび孔循の才能を推挙した。庚子(十四日)、孔循を枢密副使に任命した。李紹宏は姓を馬に戻すことを願い出た。監国は令を下し、租庸使の孔謙の奸佞諂媚、百姓への侵刻、軍民を窮困させた罪を列挙して彼を殺し、孔謙が設けた苛酷な収奪の法はすべて廃止した。そして租庸使と内勾司を廃し、従来通り塩鉄・戸部・度支の三司を復活させ、宰相一人に委ねて専ら管掌させた。また、諸道の監軍使を廃した。荘宗が宦官によって国を滅ぼされたからであり、諸道に命じて宦官をすべて殺させた。

魏王李継岌は興平から武功に退却した。宦官の李従襲が言った。「禍福は予測できません。退くよりは進むに如くはありません。大王はどうか速やかに東行して内難を救ってください。」李継岌はこれに従った。軍を返して渭水に至ると、代理西都留守の張篯がすでに浮橋を破壊していた。川の水に沿って浮かんで渡り、その日に渭南に到着した。腹心の呂知柔らは皆逃げ隠れしていた。李従襲は李継岌に言った。「大勢は既に去りました。大王は自らお考えになるべきです。」李継岌はためらい涙を流し、ついに自ら床に伏し、僕夫の李環に絞め殺させた。任圜が彼に代わってその部衆を率いて東行した。監国は石敬瑭に命じて彼らを慰撫させ、軍士に異論はなかった。これに先立ち、監国は親信の李沖を華州都監とし、西征軍を迎えさせた。李沖は勝手に華州節度使の史彦鎔を逼迫して入朝させた。同州節度使の李存敬が華州を通過すると、李沖は彼を殺し、その家族を皆殺しにした。また、西川行営都監の李従襲を殺した。史彦鎔は安重誨に泣いて申し立て、安重誨は史彦鎔を本鎮に帰し、李沖を召還した。監国が洛陽に入って以来、内外の機要事務はすべて李紹真が決定していた。李紹真は勝手に威勝節度使の李紹欽、太子少保の李紹沖を逮捕して獄に下し、彼らを殺そうとした。安重誨は李紹真に言った。「温韜、段凝の罪悪はすべて梁朝にあった。今、殿下はようやく内乱を平定し、天下を安定させようとしておられるのに、どうして専らお前の仇を討つことがあろうか!」李紹真はこれによってようやくやや控えめになった。辛丑(十五日)、監国は令を下し、李紹沖、李紹欽は姓名を温韜、段凝に戻し、ともに田里に放った。

壬寅(十六日)、孔循を枢密使に任命した。

有关部门が即位の儀礼について議論した。李紹真、孔循は唐朝の国運はすでに尽きたので、自ら国号を建てるべきだと考えた。監国は左右に問うた。「国号とは何か?」答えがあった。「先帝は唐より姓を賜り、唐のために仇を報い、昭宗の後を継いだので、唐と称しました。今、梁の者たちは殿下が唐と称するのを望まないだけです。」監国が言った。「我は十三歳で献祖に侍り、献祖は我を同宗の親族と見なし、子のように遇してくれた。また、武皇に侍ること二十年近く、先帝に侍ること二十年近く、謀画経営、攻戦征伐に参与しないことはなかった。武皇の基業は即ち我が基業、先帝の天下は即ち我が天下である。どうして同じ家でありながら国号を異にすることがあろうか!」執政大臣に命じて再び議論させた。吏部尚書の李琪が言った。「もし国号を改めれば、先帝は路人となり、梓宮はどこに依拠しましょうか。殿下が三代の旧君を忘れるだけでなく、我々臣下として心安らかでありましょうか!前代に旁支として皇位を継いだ者は多い。嗣子が霊柩の前で即位する礼を用いるべきです。」皆がこれに従った。丙午(二十日)、監国は興聖宮から西宮に赴き、斬衰の喪服を身にまとい、霊柩の前で皇帝の位に即き、百官は白色の喪服を着た。その後、袞冕を着けて冊命を受け、百官は吉服を着て祝賀した。

戊申(二十二日)、敕命を下し、中外の臣僚は鷹犬や奇珍玩好の類を進献してはならない。

有关部门が太原尹の張憲の棄城の罪を弾劾した。庚戌(二十四日)、張憲に死を賜った。

任圜は蜀を征伐した二万六千の兵士を率いて洛陽に到着した。明宗は彼らを慰撫し、それぞれ営に帰らせた。

甲寅(二十八日)、大赦天下を行い、元号を改めた。後宮の百人、宦官の三十人、教坊の百人、鷹坊の二十人、御厨の五十人を酌量して残し、その他はそれぞれ赴くところに任せた。各司使務で名ばかりで実のないものはすべて廃止した。各軍を近畿に分けて配置し食料を支給し、運輸を節約した。夏・秋の両税の省耗を免除した。節度使、防御使などは、正旦・冬至・端午・皇帝降誕の四節にのみ進貢を許し、百姓から聚斂してはならない。刺史以下は進貢を許さない。選人で先に文書を塗り潰された者は、三銓に命じて詐偽の部分のみを除き、その他は旧規に復するよう命じた。

五月、丙辰朔(初一)、太子賓客の鄭珏、工部尚書の任圜をともに同中書門下平章事に任命した。任圜はなお三司を判した。任圜は公を憂えること家の如くし、賢俊を選抜し、僥倖を絶ち、一年の間に府庫は充実し、軍民はともに充足し、朝廷の綱紀はようやく整い始めた。任圜は常に天下を己の任とし、そのため安重誨は彼を憎んだ。武寧節度使の李紹真、忠武節度使の李紹瓊、貝州刺史の李紹英、斉州防御使の李紹虔、河陽節度使の李紹奇、洺州刺史の李紹能は、それぞれ旧姓名に復することを願い出て、霍彦威、苌従簡、房知温、王晏球、夏魯奇、米君立とし、許可された。苌従簡は陳州の人である。王晏球はもと王の家の子で、杜氏に養われたので、姓を王に復することを願い出た。

丁巳(初二)、百官に正衙の常朝のほか、五日ごとに内殿に起居するよう命じ始めた。

数百名の宦官が山林に逃げ隠れ、あるいは剃髪して僧となり、晋陽に至った者は七十余人いた。詔して北都指揮使の李従温に命じて彼らをすべて殺させた。李従温は皇帝(明宗)の甥である。

皇帝は前相州刺史の安金全が晋陽に功績があったため、壬戌(初七)、安金全を振武節度使、同平章事に任命した。

丙寅(十一日)、趙在礼が皇帝に鄴都に行幸するよう請うた。戊辰(十三日)、趙在礼を義成節度使に任命した。趙在礼は軍情が安定していないことを理由に辞退し、赴任しなかった。

李彦超が入朝した。皇帝が言った。「河東に憂いがないのは、お前の功績である。」庚午(十五日)、彼を建雄留後に任命した。

甲戌(十九日)、王延翰に同平章事を加えた。

皇帝は文字を読めず、四方からの奏事はすべて安重誨に読ませた。安重誨もすべてを理解できるわけではなかったので、上奏して言った。「臣はただ忠誠の心をもって陛下に事え、枢機を掌ることを得ました。今、事務はおおよそ知ることができますが、古い事柄については、臣の及ぶところではありません。前朝の侍講・侍読、近代の直崇政院・枢密院に倣い、文学の臣を選抜して共に事に当たらせ、応対諮問に備えることを望みます。」そこで端明殿学士を設置し、乙亥(二十日)、翰林学士の馮道、趙鳳を端明殿学士に任命した。

丙子(二十一日)、郭崇韜の帰葬を許可し、朱友謙の官爵を回復した。両家の財貨田宅で、先に没収されたものはすべて返還された。

戊寅(二十三日)、安重誨に山南東道節度使を兼任させた。安重誨は襄陽が重要な地であり、帥を欠くことはできないので、兼任には適さないとして固辞した。皇帝はこれに同意した。

詔を発し、汴州控鶴指揮使張諫ら三千人を徴発して瓦橋を戍守させた。六月、丁酉(十二日)、城を出た後、また戻って叛乱を起こし、坊市を焼き掠め、権知州・推官の高逖を殺した。馬歩都指揮使・曹州刺史の李彦饒に迫って統帥としようとしたが、李彦饒は言った。「汝ら我を統帥としたいなら、我の命令に従い、焼き掠めを禁じるべし。」衆は従った。己亥(十四日)の朝、李彦饒は屋中に甲兵を伏せ、諸将が入って賀すると、李彦饒は言った。「先日率先して乱を起こした者はわずか数人である。」そこで張諫ら四人を捕らえて殺した。その同党の張審琼が衆を率いて建国門で大声に騒ぐと、李彦饒は兵を率いて攻め、その四百人をことごとく殺し、軍・州はようやく安定した。当日、将・州の事務を公文で節度推官の韋儼に委ねて代理させ、その状況を詳しく上申した。庚子(十五日)、詔により枢密使の孔循に汴州を知らせ、作乱に関与した三千家を捕らえ、ことごとく殺した。李彦饒は李彦超の弟である。

蜀の百官が洛陽に到着し、永平節度使兼侍中の馬全は言った。「国家がここに至って滅びたなら、生きているより死んだ方がましである。」と述べ、飲食を絶って死んだ。平章事の王鍇らを諸州府の刺史・少尹・判官・司馬に任じ、また蜀に戻った者もいた。

辛丑(十六日)、滑州都指揮使の于可洪らが火を放って乱を起こし、魏博の戍兵三指揮を攻撃して追い出した。

乙巳(二十日)、勅を下した。「朕の二字の名は、連ねて称さなければ、すべて避けるに及ばず。」

戊申(二十三日)、西川節度使の孟知祥に兼侍中を加えた。

李継曮は華州に到着し、洛陽の変乱を聞いて、また鳳翔に戻った。帝はこのため柴重厚を殺した。

高季興が上表して、夔・忠・万の三州を属郡とするよう請い、詔はこれを許可した。

安重誨は恩寵を恃んで驕り不法を働き、殿直の馬延がうっかりしてその先導に衝突したため、安重誨は馬の前でこれを殺し、御史大夫の李琪が上申した。秋、七月、安重誨が帝に請うて詔を下させ、馬延が大臣を犯したと称し、これをもって中外に戒めた。

于可洪と魏博の戍将とが互いに上奏して相手が乱をなしたとし、帝は使者を遣わして検証し、辛酉(初七)、都市において于可洪を斬り、その首謀者である滑州左崇牙全營を族滅し、助けて乱をなした右崇牙両長剣建平の将校百人も族滅した。

壬申(十八日)、初めて百官に命じて五日に一度起居し、交代で政事を奏対させた。

契丹主が渤海を攻め、夫余城を陥落させ、名を東丹国と改めた。その長子の突欲に命じて東丹を鎮守させ、人皇王と号し、次子の徳光に西楼を守らせ、元帥太子と号した。帝は供奉官の姚坤を契丹に遣わして告哀した。契丹主は荘宗が乱兵に殺されたと聞き、慟哭して言った。「我が朝定の子よ。我がまさに救わんとしていたが、渤海がまだ陥ちず、行くことができず、我が子をしてここに至らしめた。」と泣きやまなかった。胡人の言葉で「朝定」とは、漢人の言う「朋友」である。また姚坤に言った。「如今天子は洛陽に急難ありと聞きながら、なぜ救いに行かなかったのか。」答えて言った。「道のり遠くして間に合わなかった。」契丹主は言った。「なぜ自ら帝となったのか。」姚坤は帝が即位した理由を説明した。契丹主は言った。「漢人は花言巧語を好む、多くを言うに及ばず!」突欲が傍らに侍立して言った。「牛を牽いて人の田を踏み荒らす者があれば、その牛を奪い取る、これでよいか。」姚坤は言った。「中原に君主なく、唐天子は已むを得ずして立った。これもまた、天皇王が初めて国を有したときと同じで、どうして強取したものであろうか!」契丹主は言った。「道理はまさにそうである。」また言った。「聞くところによれば、我が子は専ら声色遊猟を好み、軍民を恤れまず、このような末路に至るべきである。我はこの事を聞いてから、一家挙げて酒を絶ち、伶人を散じ、鷹犬の縄を解いた。もしも我が子の行いを学べば、自ら滅亡を取るであろう。」また言った。「我が子と我とは世交であるが、数々我と激しく戦った。如今天子とは怨みなく、和を結ぶに足る。もし我に河北の地を与えれば、我はもはや南侵しない。」姚坤は言った。「これは使臣の専断できるところではない。」契丹主は怒り、これを囚え、十数日して、また召し出して言った。「河北は得難いであろう、鎮・定・幽州を得ればよい。」紙筆を与えて催促して状を書かせたが、姚坤は肯んぜず、契丹主は殺そうとした。韓延徽が諫めたので、また囚えた。

丙子(二十二日)、雍陵に光聖神閔孝皇帝を葬り、廟号を荘宗とした。

丁丑(二十三日)、鎮州留後王建立が上奏して、涿州刺史劉殷肇が交替を受け入れず、謀って乱をなそうとしたので、すでに討伐して擒えたと述べた。

己卯(二十五日)、応州に彰国軍を置いた。

門下侍郎・同平章事の豆盧革・韋説が帝の前で事を奏するに、時に礼数が十分に恭敬でなかった。百官の俸銭はすべて割り引いて支給されたが、豆盧革父子は独り実銭を受けた。百官は五月から俸を与えられたが、豆盧革父子は正月から与えられた。このため衆議は沸騰した。韋説は孫を子として奏請して官を授けさせ、選人王参の賄賂を受け、近地の官に任じた。宮中の旨意により庫部郎中蕭希甫を諫議大夫としようとしたが、豆盧革・韋説が覆奏して反対した。蕭希甫はこれを恨み、上疏して「豆盧革・韋説は前朝に忠ならず、阿諛して苟且に容を求めた」とし、また誣告して「豆盧革は強いて民田を奪い、田客を放って人を殺させた。韋説は隣家の井戸を奪い、窖蔵の物を取った」とした。帝は詔を下して豆盧革を辰州刺史に、韋説を溆州刺史に左遷した。庚辰(二十六日)、蕭希甫に金帛を賜い、散騎常侍に抜擢した。

辛巳(二十七日)、契丹主阿保機が夫余城において死去した。述律后は諸将及び制し難い酋長の妻を集めて、彼女らに言った。「我は今寡居す、汝ら我に倣わざるべからず。」またその夫を集めて泣きながら問うた。「汝ら先帝を思念するか。」答えて言った。「先帝の恩徳を蒙り、どうして思念せざらん。」述律后は言った。「果たして思念するなら、まさに彼に会いに行くべし。」そこで彼らを殺した。

癸未(二十九日)、さらに豆盧革を費州司戸に、韋説を夷州司戸に左遷した。甲申(三十日)、豆盧革を陵州に流し、韋説を合州に流した。

孟知祥は密かに蜀の地を占拠する志を懐き、倉庫を検めると、甲冑二十万を得た。左右牙等の兵十六營を設置し、合わせて一万六千人とし、牙城の内外に駐屯させた。

八月、乙酉朔(初一)、日食があった。

丁亥(初三)、契丹の述律后は小兒子の安端少君に東丹を鎮守させ、長子の突欲と共に契丹主の霊柩を護送し、部衆を率いて夫余城から出発した。

当初、郭崇韜は蜀の騎兵を左右驍衛等の六營に分け、合わせて三千人とした。歩兵は左右寧遠等の二十營に分け、合わせて二万四千人とした。庚寅(初六)、孟知祥はさらに左右衝山等の六營を増設し、合わせて六千人とし、羅城の内外に駐屯させた。また義寧等の二十營を設け、合わせて一万六千人とし、分けて管轄境内の州県に駐屯させて就食させた。さらに左右牢城四營を設け、合わせて四千人とし、分けて成都境内に駐屯させた。

王公儼が楊希望を殺害した後、節度使の旌節を得ようと企み、符習の治政は厳しく急促であり、軍府の者たちは彼の帰還を望んでいないと吹聴した。符習が帰還し、斉州に到着したところ、王公儼がこれに抵抗し、符習は進むことができなかった。王公儼はさらに将士に上表させて自らを統帥とするよう求め、皇帝は詔を下して彼を登州刺史に任命した。王公儼は時期に赴任せず、軍情に引き留められたと偽り、皇帝はそこで天平節度使霍彦威を平盧節度使に転任させ、淄州に軍を集めて攻め取ろうと図った。王公儼は恐れ、乙未(十一日)になってようやく赴任した。丁酉(十三日)、霍彦威は青州に到着し、追跡して王公儼を捕らえ、その族党もろともことごとく斬殺した。支使の北海人韓叔嗣もこれに連座した。その子の韓熙載は呉国に奔ろうとし、密かにその友人である汝陰の進士李谷に告げた。李谷は彼を正陽まで送り、痛飲して別れた。韓熙載は李谷に言った。「呉国がもし私を宰相に用いるなら、私は長駆して中原を平定しよう。」李谷は笑って言った。「中原がもし私を宰相に用いるなら、呉国を取ることは嚢の中の物を取るに過ぎない。」

庚子(十六日)、幽州が契丹の辺境侵犯を報告し、斉州防御使安審通に兵を率いて防禦させるよう命じた。

九月、壬戌(初九)、孟知祥は左右飛棹兵六営を設置し、合わせて六千人とし、長江沿いの各州に分駐させ、水戦を訓練して夔州・峡州に備えた。

癸酉(二十日)、盧龍節度使李紹斌が趙姓に復することを請い、許可され、名を徳鈞と賜った。趙徳鈞の養子趙延寿は皇帝の娘興平公主を娶っていたため、趙徳鈞は親近・信任を受けた。趙延寿はもともと蓨県令劉邟の子である。

楚王馬殷に守尚書令を加えた。

契丹の述律后は次子の徳光を愛し、彼を帝に立てようとし、西楼に至り、彼と突欲とを共に帳前に馬に乗って立たせ、諸酋長に言った。「二人の子は共に愛しいが、どちらを立てるべきか分からない。汝らが立てるべき者を選び、その馬の手綱を取れ。」酋長たちは彼女の意図を知り、争って徳光の馬の手綱を取り、歓躍して言った。「元帥太子に仕えることを願います。」述律后は言った。「衆人の望むところ、我どうして背けようか。」そこで彼を天皇王と立てた。突欲は怒り、数百騎を率いて唐に奔ろうとしたが、巡邏の者に阻まれた。述律后は罪に問わず、彼を東丹に帰らせた。天皇王は述律后を太后と尊び、国事はすべて彼女が決定した。太后はさらに彼女の姪を天皇王后に納めた。天皇王は性情孝順で恭謹であり、母が病に臥せって食事を取らない時は彼も食べず、母の前で侍して応対する時、時に意に沿わないことがあると、母が眉を上げて彼を見るだけで、恐れて速やかに退き、再び召されなければ敢えて見えなかった。韓延徽を政事令に任命した。姚坤が帰って復命することを許し、その臣子阿思没骨馁を派遣して告哀させた。

壬午(二十九日)、李継曮に名を従曮と賜った。

冬季、十月、甲申朔(初一)、初めて文武官員に春冬の衣を賜った。

昭武節度使・は、驕奢淫逸で残暴であり、己丑(初六)、自ら大閩国王と称した。宮殿を修建し、百官を設置し、威儀文物はすべて天子の制度に倣い、群下は彼を殿下と称した。境内に赦免を行い、その父王審知を追尊して昭武王とした。

静難節度使毛璋は、驕横僭越で法に従わず、士卒を訓練し兵器を修繕し、跋扈の意図があった。皇帝は詔を下して潁州団練使李承約を節度副使として監視させた。壬辰(初九)、毛璋を昭義節度使に転任させた。毛璋が詔に従わないとすると、李承約と観察判官の長安人辺蔚が穏やかに説得し導き、長い時間を経てようやく代替を受け入れた。

庚子(十七日)、幽州が契丹の盧龍節度使盧文進が奔降してきたと上奏した。当初、盧文進は契丹のために平州を守っていたが、皇帝が即位し、密使を派遣して勧め、改朝换代の後は、もはや嫌疑や怨恨はないと告げた。盧文進の部下は皆漢人で、故郷に帰りたいと思い、そこで契丹の平州に駐屯する者を殺し、部衆十余万、車帳八千乗を率いて奔降してきた。

当初、魏王李継岌と郭崇韜は蜀中の富民に犒賞銭五百万緡を納めさせ、金銀や絹帛で代えることを許したが、昼夜督促責罰し、自殺する者が出た。軍隊に供給した後、なお二百万緡が残った。この時、任圜が三司を判し、成都の富饒を知り、塩鉄判官・太僕卿趙季良を孟知祥の官告国信兼三川都制置運使に派遣した。甲辰(二十一日)、趙季良は成都に到着した。蜀人は何も与えまいとしたが、孟知祥は言った。「府庫は他人が積み蓄えたものであり、出すことはできる。州県の租税は、鎮兵十万人を養うために用いるもので、決して得ることはできない。」趙季良はただ庫中の物資を引き出しただけで、敢えて制置運の職事を言い出さなかった。安重誨は、孟知祥および東川節度使董璋が共に険要を占拠し、強兵を擁し、長く経てば制御し難くなることを恐れた。また孟知祥は荘宗の近親であるため、密かに彼を図ろうと考えた。客省使・泗州防御使李厳は自ら西川監軍となることを請い、必ず孟知祥を制圧できると述べた。己酉(二十六日)、李厳を西川都監とし、文思使の太原人朱弘昭を東川副使とした。李厳の母は賢明で、李厳に言った。「汝は先に蜀を滅ぼす謀を発したが、今日再び行けば、必ず死をもって蜀人に謝罪することになろう。」

旧制では、吏部が告身を発給する際、先ず当事者に朱膠綾軸の銭を納めさせていた。喪乱以来、貧しい者はただ敕牒のみを受け取り、多くは告身を受け取らなかった。十一月、甲戌(二十一日)、吏部侍郎劉岳が上言した。「告身には褒貶訓戒の辞があり、どうして当事者が初めからそれを見ないことがありましょうか。」皇帝は敕して、文班の丞・郎・給・諫、武班の大将軍以上には、告身を賜うべきとした。その後、執政大臣が議し、朱膠綾軸の費用は多くないとし、朝廷が官禄を授けるのに、どうしてこの小費を惜しむことがありましょうか。そこで上奏した。「凡そ官職を任命する際、もはや銭を納めさせず、すべて告身を賜う。」この時、任命される正員官の他に、余りの試銜・帖号はただ軍中の将を寵激するために用いるのみであったが、長興以後、任命が次第に増え、ついには軍中の士卒、使・州・鎮・戍の胥吏に至るまで、皆銀青階及び憲官を得、毎年賜わる告身は万を数えるに至った。

閩王王延翰は兄弟を廃し、襲位してからわずか一ヶ月で、その弟王延鈞を追放して泉州刺史とした。王延翰は多くの民女を選んで後宮を充実させ、採選は止まなかった。王延鈞は上書して極力諫めたが、王延翰は怒り、これによって隙が生じた。父王審知の養子王延禀は建州刺史であり、王延翰は書を送って采選させたが、王延禀の返書は不敬であり、これにも隙が生じた。十二月、王延禀と王延鈞は兵を合わせて福州を襲撃した。王延禀は順流に先んじて到着し、福州指揮使陳陶は衆を率いて抵抗したが、兵敗れ、陳陶は自殺した。その夜、王延禀は壮士百余人を率いて西門に直行し、梯子をかけて城に入り、門を守る者を捕らえ、倉庫を開けて兵器を取り出した。寝門に至ると、王延翰は驚いて別室に隠れた。辛卯(初九)の朝、王延禀は彼を捕らえ、その罪悪を公布し、かつ王延翰が妻崔氏と共に先王を殺したと言い、官吏百姓に告諭し、紫宸門の外で彼を殺した。同日、王延鈞は城南に到着し、王延禀は門を開けて彼を迎え入れ、王延鈞を推して威武留後とした。

癸巳(十一日)、盧文進を義成節度使・同平章事に任命した。

庚子(十八日)、皇子李従栄を天雄節度使・同平章事に任命した。

趙季良らは蜀地の金帛十億を洛陽に運んだ。当時朝廷はまさに欠乏しており、これによって補給された。

この年、呉越王銭鏐は中原の喪乱により朝廷の命令が通じず、改元して宝正とした。その後再び中原と通じたため、避けて称さなかった。

春季、正月、癸丑朔(初一)、後唐帝は名を李亶と改めた。

孟知祥は李厳が自分の軍隊を監督しに来ると聞いて、非常に嫌った。ある者が上奏して李厳の来訪を阻止するよう建議したが、孟知祥は言った。「どうして必ずしもそうする必要があろうか。我には彼を処する方法がある。」そこで官吏を綿州と剣州に派遣して迎えさせた。折悪しく武信節度使の李紹文が死去したため、孟知祥はかつて密詔を受け、状況に応じて事を処することを許されたと自称し、壬戌(十日)、西川節度副使・内外馬歩軍都指揮使の李敬周を遂州留後に任命し、出発を促した後、ようやく上表して朝廷に報告した。李厳は先に使者を成都に派遣した。孟知祥は自ら李厳に対して旧恩があると考え、彼が恐れて自ら引き返すことを望み、大いに甲兵を陳列して見せたが、李厳は意に介さなかった。

安重誨は、孔循が幼少より宮中に仕え、朝廷の典章制度に通じ、また朝中の官員の品行や才能を知っていると考え、その言葉を大いに信じていた。豆盧革と韋説が罪を得た後、朝廷は宰相の選任を協議した。孔循の意見は河北の人を用いることを望まず、以前に鄭玨を推薦し、さらに太常卿の崔協を推薦した。任圜は御史大夫の李琪を用いることを望んだ。鄭玨はかねてより李琪を憎んでいたため、孔循は力強くこれを阻止し、安重誨に言った。「李琪に文才がないわけではないが、廉潔さが足りない。宰相はただ端重で穏やかで器量があれば、百官の模範となるに足る。」別の日、皇帝の前で協議した際、皇帝が誰が宰相にふさわしいかと問うと、安重誨は崔協であると答えた。任圜が言った。「安重誨は朝中の人物に詳しくなく、人に欺かれている。崔協は名門の後れではあるが、知っている文字は少ない。私はすでに学問がなく恥じて宰相の座にあるのに、どうしてさらに崔協を加えて、天下の人々に笑わせることができようか!」皇帝は言った。「宰相は重任である。あなたたちはもう一度よく協議せよ。私は河東にいた時、馮書記(馮道)が多才博学で、世と争わないのを見た。この人は宰相となることができる。」退朝後、孔循は礼拝もせず、袖を払ってまっすぐに出て行き、言った。「天下の事は、一つは任圜、二つは任圜、任圜など何者だ!もし崔協が急死すればそれまでだが、死ななければ必ず宰相にさせねばならない。」そこで病と称して数日間出仕せず、皇帝は安重誨を派遣して勧め諭させ、ようやく出仕した。安重誨は密かに任圜に言った。「今、まさに人が不足している。崔協をひとまず数合わせに用いるのは、よかろうか?」任圜は言った。「あなたは李琪を捨てて崔協を宰相とする。これはまるで蘇合香丸を捨てて、糞転がしが転がす糞玉を取るようなものだ。」孔循は安重誨と共に事を処理し、毎日李琪の悪口を言い、崔協を称賛した。癸亥(十一日)、ついに端明殿学士の馮道と崔協を共に中書侍郎・同平章事に任命した。崔協は崔邠の曾孫である。

戊辰(十六日)、王延禀は建州に帰り、王延鈞はこれを見送った。別れに臨んで、王延禀は王延鈞に言った。「しっかりと先人の基業を守り、老兄である私が再び南下する手間をかけさせるな。」王延鈞は恭しく謝罪したが、その顔色は既に変わっていた。

庚午(十八日)、初めて天下の地方長官に、十日ごとに自ら獄につながれた囚人を審問するよう命じた。

孟知祥は李厳に対する礼遇を極めて厚くした。ある日、李厳が孟知祥を訪ねると、孟知祥は彼に言った。「あなたは以前、命を受けて王衍のもとに使いし、帰国後、出兵して蜀を伐つよう請願した。荘宗はあなたの言葉を用いたが、その結果、両国は共に滅亡した。今、あなたはまた来た。蜀の人々は皆、恐れている。しかも天下はすでに監軍を廃止しているのに、あなたは独りで来て我が軍隊を監督する。これはどういうことか?」李厳は恐れおののいて許しを乞うた。孟知祥は言った。「人々の怒りは止め難い。」そこで揖をして退出させ、彼を殺した。また左廂馬歩都虞候の丁知俊を召し出した。丁知俊は非常に恐れた。孟知祥は李厳の死体を指さして彼に言った。「以前、李厳が使者として赴いた時、あなたはその副使であった。ならば旧友でもある。私に代わってこれを葬れ。」そこで上奏して誣告した。「李厳は聖旨を偽り、私に代わって上京すると称し、また勝手に将士に厚い賞与を約束しました。私は既に勝手にこれを殺しました。」内八作使の楊令芝は用事があって蜀に入り、鹿頭関に至り、李厳の死を聞いて逃げ帰った。朱弘昭は東川にあり、これを聞いてまた非常に恐れ、洛陽に帰ることを謀った。折悪しく軍務があり、董璋が彼に入朝して奏報させるよう命じた。朱弘昭は偽って辞退した後、出発したため、難を免れることができた。

癸酉(二十一日)、皇子の李従厚を同平章事とし、河南尹を兼任させ、六軍諸衛事を判任させた。李従厚は李従栄の同母弟である。李従栄はこれを聞いて、大いに不満に思った。

己卯(二十七日)、枢密使の安重誨に侍中を加え、孔循を同平章事とした。

呉国の馬軍都指揮使の柴再用が軍服のまま朝に入った。御史がこれを弾劾したが、柴再用は功績を恃んで服従しなかった。侍中の徐知誥は、あえて便殿で誤って皇帝に請安し、退朝後、自ら弾劾した。呉王は詔して優遇し、追及しなかった。徐知誥は固執して一月分の俸禄を罰するよう求めた。これ以降、朝廷の内外は皆、畏敬した。

契丹は年号を天顕と改め、その君主の阿保機を木葉山に葬った。述律太后の左右に狡猾な者がいると、太后は彼らに言った。「私に代わって先帝に伝言せよ。」墓地に至ると彼らを殺し、前後して殺した者は数百に及んだ。最後に、平州人の趙思温が行くべきところとなった。趙思温は行こうとしなかった。太后は言った。「あなたは先帝に仕えてかつて親しかった。なぜ行かないのか?」答えて言った。「親しさは太后には及びません。太后が行かれるならば、臣はその後に行きましょう。」太后は言った。「私も先帝に従って地下に行かないわけではないが、ただ嗣子が幼弱で、国に君主がないことを慮って、行くことができないのだ。」そこで片腕を斬り、人に命じて墓中に置かせた。趙思温もこれによって死を免れた。

後唐帝は冀州刺史の烏震が三度兵を率いて糧を幽州に運んだことから、二月、戊子(七日)、烏震を河北道副招討とし、寧国節度使を兼任させ、盧台軍に駐屯させた。泰寧節度使・同平章事の房知温に代わって兗州に帰らせた。

庚寅(九日)、保義節度使の石敬瑭に六軍諸衛副使を兼任させた。

丙申(十五日)、従馬直指揮使の郭従謙を景州刺史とした。彼が到任した後、使者を派遣してその一家を皆殺しにした。

高季興は三州を得た後、朝廷に刺史を任命せず、自ら子弟を用いることを請うたが、朝廷は応じなかった。夔州刺史の潘炕が罷官するに及び、高季興は兵を派遣して突然州城に侵入し、守兵を殺して占拠した。朝廷は奉聖指揮使の西方鄴を夔州刺史としたが、高季興はこれを受け入れなかった。また兵を派遣して涪州を襲撃したが、攻略できなかった。魏王の李継岌は押牙の韓珙らを派遣して蜀の珍宝貨物四十万を護送させ、長江を下らせた。高季興は峡口で韓珙らを殺し、全ての財物を奪い取った。朝廷がこれを責めると、答えて言った。「韓珙らの船は峡を下り、数千里を経ました。彼らが船を覆して溺死した原因を知りたければ、水神に問うべきです。」後唐帝は大いに怒り、壬寅(二十一日)、詔して高季興の官爵を削奪し、山南東道節度使の劉訓を南面招討使・知荊南行府事とし、忠武節度使の夏魯奇を副招討使とし、歩兵騎兵四万人を率いてこれを討伐させた。東川節度使の董璋は東南面招討使を兼任し、新任の夔州刺史の西方鄴を副使とし、蜀兵を率いて峡を下らせ、湖南の軍隊と合流して三面から攻撃させた。

三月、甲寅(三日)、李敬周を武信留後とした。

丙辰(五日)、初めて監牧を設置し、国家の馬を繁殖させた。

そもそも荘宗が梁を攻略した時、その力は魏州の牙兵に依拠していた。彼が滅亡するに及んで、皇甫暉や張破敗の叛乱もまたここから起こったのである。趙在礼は滑州に異動を命じられたが、任地に赴かず、実際にはその部下に制御されていた。趙在礼は自ら災いを逃れようと図り、密かに腹心を京師に派遣して移鎮を請願した。そこで後唐帝は皇甫暉を陳州刺史、趙進を貝州刺史、趙在礼を横海節度使に任命した。また皇子の李従栄に鄴都を鎮守させ、宣徽北院使の范延光に兵を率いてこれを護送させ、鄴都の軍事を処置させることとした。そこで奉節等九指揮の兵三千五百人を引き抜き、軍校の龍晊に率いさせて盧台軍に戍らせ契丹に備えさせたが、鎧や兵器は与えず、ただ長竿に旗を掲げて隊伍を区別させたのみであった。そのため兵士たちは皆うつむいて去って行った。途中で孟知祥が李厳を殺したと聞き、軍中で議論が沸き起こり、既に流言が飛び交っていた。盧台に到着すると、折悪しく朝廷が序列を無視して烏震を副招討使に抜擢したため、流言はますます盛んになった。房知温は烏震が突然自分に取って代わったことを恨み、烏震が到着してもまだ印信の引き継ぎを行っていなかった。壬申(二十一日)、烏震は東寨に房知温と諸道先鋒馬軍都指揮使・斉州防御使の安審通を招いて宴を催した。房知温は龍晊の率いる兵士を誘惑して宴席で烏震を殺させ、その兵士たちは営外で騒ぎ立てた。安審通は身を逃れ、船を奪って黄河を渡り、騎兵を率いて動かなかった。房知温は事が成功しないことを恐れ、また馬に飛び乗って門を出ようとした。兵士たちはその馬の手綱を引いて言った。「あなたは兵士たちの主となるべきです。どこへ行かれるのですか。」房知温は彼らを欺いて言った。「騎兵はみな河西にいる。彼らを集めなければ、歩兵だけではどうして事を成し遂げられよう。」そこで馬を躍らせて船に飛び乗り黄河を渡り、安審通と合流して乱兵を攻撃することを謀った。乱兵はついに南へ進んだ。騎兵はゆっくりとその後を追い、隊伍は整然としていた。乱兵たちは互いに顔を見合わせ、顔色を変え、松明を掲げて夜間に進軍し、荒れ果てた沼沢の中で疲れ果てた。翌朝、騎兵が四方から包囲攻撃し、乱兵はほとんど全滅した。残った者たちは元の営寨へ逃げ戻ったが、安審通は既にそれを焼き払っており、乱兵は進退窮まって潰走した。草むらや溝に隠れて死を免れた者は、十分の一、二にも満たなかった。范延光は淇門に帰還したが、盧台の兵変を聞き、滑州の兵を発して再び鄴都に戻り、乱兵の逃亡に備えた。

後唐帝は客省使の李仁矩を西川に派遣し、詔令を伝えて孟知祥及び官吏・百姓を慰撫させた。甲戌(二十三日)、成都に到着した。

劉訓の軍が荊南に到着すると、楚王の馬殷は都指揮使の許徳勲らに水軍を率いさせて岳州に駐屯させた。高季興は塁を堅く守って出撃せず、呉国に救援を求めた。呉国は水軍を派遣してこれを援助した。

夏、四月、庚寅(初九)、勅令により盧台の乱兵の営中の家族は全て斬刑に処せられた。勅令が鄴都に到着すると、九指揮の営門を閉ざし、三千五百家、総勢一万余人を石灰窑に追い立てて全て殺害した。永済渠はそのために赤く染まった。朝廷は房知温が最初に乱を起こしたことを知ってはいたが、反側する者の心を慰撫するため、癸巳(十二日)、房知温に兼侍中を加えた。

これに先立ち、孟知祥は牙内指揮使の文水人・武漳を晋陽に派遣し、その妻の瓊華長公主と子の李仁贊を迎えさせた。鳳翔に至った時、李従曮は孟知祥が李厳を殺したと聞き、彼らを阻止して朝廷に報告した。後唐帝は彼らを蜀に帰すよう命じ、丙申(十五日)、成都に到着した。

塩鉄判官の趙季良は孟知祥と旧交があり、孟知祥は上奏して趙季良を副使に留めることを求めた。朝廷はやむを得ず、丁酉(十六日)、趙季良を西川節度副使に任命した。李昊は蜀に帰り、孟知祥は彼を観察推官に任命した。

江陵は地勢が低く湿気が多く、また長雨が続いて食糧の補給路が絶え、将士は疾病にかかり、劉訓も病床に臥せった。癸卯(二十二日)、後唐帝は枢密使の孔循を派遣して視察させ、併せて攻戦の策略を審査させた。

五月、癸丑(初三)、威武留後の王延鈞を本道節度使・守中書令・琅邪王に任命した。

孔循は江陵に到着したが、攻め落とせず、人を城内に派遣して高季興を説得して降伏させようとした。高季興は不遜な言葉を発した。丙寅(十六日)、使者を派遣して湖南行営に夏衣一万套を賜った。丁卯(十七日)、また使者を派遣して楚王の馬殷に鞍馬と玉帯を賜い、行営に糧草を運送するよう督促したが、結局得られなかった。庚午(二十日)、劉訓らに兵を率いて帰還するよう詔を下した。

楚王の馬殷は中軍使の史光憲を入朝させて貢物を献上させた。後唐帝は彼に駿馬十匹、美女二人を賜った。江陵を通過した時、高季興は史光憲を捕らえてこれらの賜り物を奪い、かつ全鎮を挙げて呉国に帰順することを請うた。徐温は言った。「国を治めるには実際の効果を追求して虚名を捨てるべきである。高氏は唐に事えること久しい。洛陽は江陵から遠くなく、唐の歩兵騎兵が襲撃するのは容易である。我々が水軍で逆流して救援するのは難しい。既に人の臣として救援できず、彼を危亡に陥れて、恥じる心がないと言えようか。」そこでその貢物は受け入れたが、その称臣は辞退し、唐に帰順するままに任せた。

任圜は性格が剛直で、かつ後唐帝との旧交に依拠し、事を敢行したため、権貴の寵臣たちの多くがこれを嫉妬した。旧制では、館券は戸部が発行していたが、安重誨が内廷から発行するよう請い、任圜と皇帝の前で論争し、何度も繰り返し、言葉や表情は激しかった。皇帝が退朝した後、宮女が皇帝に問うた。「先ほど安重誨と事を争っていたのは誰でございますか。」皇帝は言った。「宰相である。」宮女は言った。「私はかつて長安の宮中におりましたが、宰相や枢密が奏事してこのように振る舞うのを見たことがございません。おそらくはあなた様を軽んじているのでございましょう。」皇帝はますます不機嫌になり、最終的に安重誨の建議に従った。任圜はこれによって三司の職務を罷免されることを請い、詔により枢密承旨の孟鵠を三司副使に充てて暫時三司を判理させた。孟鵠は魏州の人である。

六月、庚辰(初一)、太子詹事の温輦が太子を立てることを請うた。

丙戌(初七)、門下侍郎・同平章事の任圜は罷免されて太子少保となった。

己丑(初十)、宣徽北院使の張延朗に三司を判理させることとした。

壬辰(十三日)、劉訓を檀州刺史に左遷した。

丙申(十七日)、楚王の馬殷を楚国王に封じた。

西方鄴は峡中で荊南の水軍を撃破し、更に夔州・忠州・万州の三州を奪取した。