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漢紀

漢紀二十一

第 21 篇

元帝永光三年(庚辰、前四一年)

1 春、二月、馮奉世、京師に還り、左将軍に転任し、関内侯の爵を賜う。

2 三月、皇子劉康を立てて済陽王と為す。

3 夏、四月、癸未、平昌考侯王接、薨ず。秋、七月、壬戌、平恩侯許嘉を以て大司馬・車騎将軍と為す。

4 冬、十一月、己丑、地震り、雨ふる。

5 塩鉄官を復す。博士弟子の員を千に置く。是の故に国用足らず、衆庶多く繇役を免れ、内府・外朝の徭役を給する能わざるなり。

永光四年(辛巳、前四〇年)

1 春、二月、天下に大赦す。

2 三月、上、雍に幸し、五畤を祠る。

3 夏、六月、甲戌、孝宣皇帝園東闕、災あり。

4 戊寅晦、日食す。上、是に於いて先に天変の応を周堪・張猛に言う者を召して責む、皆、叩頭謝す。上、因りて詔して堪の美を称し、行在所に徴し、光禄大夫と為し、秩中二千石、尚書事を領せしむ。張猛復た太中大夫・給事中と為る。中書令石顯、尚書を領す。尚書五人、皆其の党なり。堪、希に見え、常に顯に因りて事を白す。事の決する所、顯の口に在り。會、堪、疾むこと瘖を病み、言うこと能わずして卒す。顯、復た譖毀して猛をして公車に自殺せしむ。

5 初め、貢禹奏すらく「孝惠・孝景の廟、皆親尽きて宜しく毀つべし。諸郡国廟、古制に合わず、宜しく正定すべし」と。天子其の議を是とす。秋、七月、戊子、昭霊后・武哀王・昭哀后・衛思后・戾太子・戾后の園を罷む。皆祠を罷め、吏士を置き守らしむるのみ。冬、十月、乙丑、郡国の祖宗廟を罷む。

6 諸園、皆三輔に属す。渭城寿陵亭部の原に初陵を作る。詔して県邑を置かず、郡国の民を徙すことなかれと。

永光五年(壬午、前三九年)

1 春、正月、上、甘泉に幸し、泰畤を祠る。三月、河东に幸し、后土を祠る。

2 秋、颍川水出で、民を溺殺す。

3 冬、上、長楊射熊館に幸し、大いに田猟す。

4 十二月、乙酉、太上皇・孝惠皇帝の寝廟園を毀つ。韋玄成等の議を用うるなり。

5 上、儒学文辞を好み、頗る宣帝の政を改む。言事の者多く進見し、人人自ら意を得たりと為す。又、傅昭儀及び其の子済陽王康、寵愛、皇后・太子を過ぐ。太子少傅匡衡、上疏して曰く「臣、国家安危治乱の機、慎んで心を為るに在るを聞く。天命を受くるの君、業を創め、緒を垂れ、本をして万世に伝うるを務む。継体の君、心に於いて徳を述べ、功を揚ぐるを務む。昔、周成王、位を継ぎ、文・武の道を思いて其の心を養い、美功盛徳をして文・武に帰せしめ、敢えて其の名を専らにせず、故に天心歆享し、鬼神来りて祐く。陛下聖徳天覆、子愛黎庶、然るに陰陽未だ和せず、奸邪未だ禁ぜざるは、蓋し議者の未だ先帝の盛功大業を顕わさず、反りて先帝の制を以て用う可からずと為し、争いて之を改む。改むる所、或いは施行するに当たらず、復た故に復す。是を以て群臣相非し、吏民无所信。臣、国家の已に成るの業を棄て、徒に此の紛紜を為すを痛む。願わくは陛下、緒業を承け、国を治むるの体を察し、制度を遵び、功業を弘め、以て群下の心を安んぜよ。《詩》に云う『豈に爾の先を思い、祗に其の徳を修めざらんや』と。蓋し至徳の本なり。《伝》に曰く『好悪を審らかにし、情性を理め、而して王道備わる』と。情性を理むるの道、必ず己の有余を察し、其の不足を強う。聡明疏通なる者は、大察を戒め。寡聞見なる者は、壅蔽を戒め。勇猛剛強なる者は、暴を戒め。仁愛温良なる者は、断を戒め。湛静安舒なる者は、後時を戒め。広心大度なる者は、忘を戒む。必ず其の戒むべき所を審らかにし、義を以て之を節し、然る後、中和の化応じ、巧偽の徒、敢えて比周して進み求むること無きなり。願わくは陛下、戒めを加え、聖徳を崇めよ。

又、臣、家室の道、理まりて、天下の理まるを得るを聞く。故に《詩》は《国風》を始めと為し、《礼》は冠・婚を本と為す。《国風》を始めと為すは、情性を原ねて人倫を明らかにするなり。冠・婚を本と為すは、基を正して末を防ぐなり。是を故に聖王、必ず妃后の際を慎み、嫡庶の序を別ち、内に於て礼法を施す。卑賤の貴を踰えず、新の故に先んぜず、以て人情を統べ、陰気を理む。嫡子を尊び、庶子を卑しむ。嫡子、阼階に冠し、醴を用いて礼し、衆子、与に列を同じくせず、以て正体を尊び、疑を明らかにす。豈に徒に虚礼文を加うるのみならんや、心に於いて実に之に異なり、故に礼、其の心を探りて其の外貌に形わる。聖人、動静遊宴、親しむ所、物各々其の序を得ば、則ち天下自ら治まり、百姓化す。当に親しむべきを親しまず、当に尊ぶべきを尊ばず、則ち奸佞の徒、動いて機に乗じ、国を乱る。故に聖人、始めを慎み、未然を防ぎ、私恩を以て公義を害せず。《伝》に曰く『家道正しくして、天下定まる』と」と。

6 初め、武帝、宣房を塞ぎ、後、河、館陶に北決し、屯氏河を為り、東北海に入る。其の河、深広、大河と同じ。故に其の勢に順い、堤を為さず。是の歳、河、清河霊県鳴犢口に決し、屯氏河、絶ゆ。

建昭元年(癸未、前三八年)

1 春、正月、戊辰、梁国に陨石あり。

2 三月、上、雍に幸し、五畤を祠る。

3 冬、河間王元、殺人の罪ありて、廃せられ、房陵に徙す。

4 孝文太后の寝廟園を罷む。

5 皇帝が虎の檻を見物に臨幸され、後宮の妃嬪たちも皆そばに侍坐していた。一頭の熊が檻の外に逃れ出て、欄干に爪をかけて殿上に登ろうとした。左右の侍従、貴人たち、そして傅婕妤らは皆驚いて逃げた。馮婕妤だけはまっすぐに前に進み出て、熊を迎え立ち向かった。左右の侍従が熊を打ち殺した。皇帝がお尋ねになった、「人々は皆驚き恐れたのに、あなたはなぜ前に進み出て熊を迎えたのか」。馮婕妤が答えて申し上げた、「猛獣は人を捕まえるとそれで止まります。私は熊が陛下の御座所に突進するのを恐れ、身をもってそれを遮ったのです」。皇帝は嘆息してやまず、ますます彼女を敬重された。傅婕妤は恥じ入り、これ以来馮婕妤との間に隙が生じた。馮婕妤は左将軍馮奉世の娘である。

建昭二年(甲申、紀元前三七年)

1 春、正月、皇帝は出行して甘泉宮に臨幸され、泰畤で祭祀を行われた。三月、河東郡に臨幸され、后土を祭祀された。

2 夏、四月、天下に大赦を行った。

3 六月、皇子の劉興を信都王に立てた。

4 東郡の人京房が、梁の人焦延寿について『周易』を学んだ。焦延寿は常に言っていた、「我から道術を学んでついに命を落とす者は、京生であろう」と。彼の学問は災異の変化を推演することを得意とし、六十四卦を六十卦に分け、各卦が順番に値日して事務を掌り、風雨寒温を兆候として、それぞれに占いの験があった。京房がこの学問を用いることにおいて特に精妙であり、孝廉の身分によって郎官に任じられ、たびたび上疏して災異を論じ、多くが応験した。天子は彼をたいそう喜ばれ、たびたび召見して質問された。京房が答えて申し上げた、「古代の帝王は功業によって賢能を選抜したので、万物が化育し、祥瑞が応じました。末世の君主は毀誉褒貶によって人を用いたため、功業は廃れて災異を招きました。百官にそれぞれ自分の功績を考課させるべきです。そうすれば災異は静まるでしょう」。皇帝は詔を下して京房にこのことを担当させ、京房は官吏の功績を考課する法令を上奏した。皇帝は公卿朝臣たちに京房とともに温室殿で共に議するよう命じられたが、皆が京房の建議は煩瑣細かで、上下が互いに監視し合うことになり、許すことができないと考えた。皇帝の心は京房に傾いていた。当時、各部の刺史が京城に奏事に来ており、皇帝は各位の刺史を召見し、京房に彼らに官吏考課のことを講じさせられたが、刺史たちも実行不可能だと考えた。ただ御史大夫鄭弘と光禄大夫周堪だけが初めは不可としたが、後には良いとした。

当時、中書令石顯が大権を専断し、石顯の友人である五鹿充宗が尚書令を務めており、二人が共に権勢を振るっていた。京房はかつて暇な時に皇帝に召見され、皇帝にお尋ねした、「周の幽王や厲王のような君主は、なぜ国を危うく滅ぼしたのでしょうか。彼らが任用したのはどんな人々ですか」。皇帝がお答えになった、「君主が昏庸で明らかでなく、任用したのは皆、巧みに言葉を飾ってへつらう小人たちである」。京房が言った、「彼らが巧言諂媚の小人であると知って任用したのでしょうか、それとも賢能であると思って任用したのでしょうか」。皇帝がお答えになった、「賢能であると思ったのだ」。京房が言った、「それでは、今どうして彼らが不賢であると知るのでしょうか」。皇帝がお答えになった、「当時の世が乱れ、君主が危うかったからこそ知ったのだ」。京房が言った、「そうであれば、賢能を用いれば国は必ず治まり、不肖を用いれば国は必ず乱れる、これが必然の道理です。周の幽王や厲王はなぜ悟らずに、別に賢能を求めようとせず、ついに不肖を用いてあのような境地に至ったのでしょうか」。皇帝がお答えになった、「乱世に臨む君主は、それぞれ自分の臣を賢いと思っているのだ。もし皆が悟ることができたなら、天下にどうして危うく滅びる君主などいようか」。京房が言った、「斉の桓公や秦の二世も、これらの君主のことを聞き及び、それを非難し嘲笑しました。しかし彼らは豎刁や趙高を用い、政治は日に日に乱れ、盗賊は山に満ちました。なぜ周の幽王や厲王の例をもって自分の命運を占い、悟ろうとしなかったのでしょうか」。皇帝がお答えになった、「ただ道ある君主のみが、過去のことによって未来を予知できるのだ」。京房はそこで冠を脱ぎ、頭を下げて言った、「『春秋』は二百四十二年の災異を記し、万世の君主を戒めました。今、陛下が即位されて以来、日月は暗く光を失い、星辰は逆行し、山は崩れ、泉は噴き出し、地震があり、隕石が落ち、夏に霜が降り、冬に雷が鳴り、春に草木が枯れ、秋に繁茂し、霜が降りても草木が枯れず、水害、旱害、螟虫の害があり、百姓は飢え、疫病が起こり、盗賊は禁じられず、刑を受ける者が街に満ちています。『春秋』に記された災異がすべて揃っています。陛下は現在を、治まっているとお考えでしょうか、それとも乱れているとお考えでしょうか」。皇帝がお答えになった、「すでに乱れて極みに達している、何を言うことがあろうか」。京房が言った、「今、任用されている者は誰でしょうか」。皇帝がお答えになった、「そうではあるが、彼らがかの人々よりはましであることを願う。そして私は禍乱がこの数人の者にあるとは思わない」。京房が言った、「前代の君主も、皆そう考えたのです。私は後人が現在を見ることを、現在が前代を見るのと同じようにすることを恐れます」。皇帝は長く沈黙された後、ようやく言われた、「今、禍乱を引き起こしている者は誰か」。京房が言った、「賢明な君主は自ら知るべきです」。皇帝がお答えになった、「知らない。もし知っていたなら、なぜまた用いるのか」。京房が言った、「陛下が最も信任し、内廷で共に大事を謀り、天下の士人の昇進・左遷を決める者、それがその者です」。京房は指さして石顯を言った。皇帝も彼が石顯を言っていると知り、京房に言われた、「私はもうわかった」。京房は退出したが、その後、皇帝は石顯を罷免することができなかった。

臣司馬光が言う、君主の徳が清明でなければ、臣下がたとえ忠誠を尽くそうとしても、どこから手をつければよいのか。京房が孝元皇帝を開導するために用いた言葉を見よ、明らかにして徹底し、懇切極まりないと言える。しかしついに彼を悟らせることができなかった、悲しいかな。『詩経』に曰く、「面と向かって教えるだけでなく、その耳を引き寄せる。手を取って導くだけでなく、事を指し示して示す」と。また曰く、「我は諄々と教え諭すのに、汝は心ここにあらずで聞く」と。これは孝元皇帝のことである。

5 皇帝は京房に、彼の弟子の中から官吏の功績考課と事務監察に通じた者を推薦させ、試用しようとした。京房が上奏して言った、「中郎の任良・姚平を、刺史に任じて功績考課の方法を試用させたいと思います。私は殿中に名籍を通じ、奏事の職を務め、上下の隔絶を防ぎたいと存じます」。石顯と五鹿充宗は共に京房を妬み、彼を朝廷から遠ざけようとして、建議して言うには、京房を郡守として試用すべきである、と。皇帝はそこで京房を魏郡太守に任命し、功績考課の方法で郡務を治めることを許された。

京房は自ら願い出て言った、「年末に、駅伝の車に乗って都に帰り奏事いたします」。天子はこれを許された。京房は自ら、たびたび朝政を論じて大臣たちに非難され、石顯らと確執があることを知っており、皇帝の側を遠く離れたくなかったので、密封の上奏文を奉って言った、「私が出京した後、権力者に蒙蔽され、身は死に功業は成らず、ということを恐れます。それゆえ年末に駅伝の車で帰り奏事することを願い、哀れみを受けて許されました。しかし辛巳の日、陰気がまた卦象を侵し、太陽はその色を奪われました。これは上大夫が陽気を遮蔽し、皇上の御心に疑惑があることを予示しています。己卯・庚辰の間に、必ずや私を隔絶し、駅伝の車での帰京奏事をさせまいとする者がいるでしょう」。

京房が出発しないうちに、皇帝は陽平侯王鳳に命じて詔を伝えさせ、京房に駅伝の車での帰京奏事を停止させた。京房はますます恐れた。

秋、京房、新豐に至り、駅を通じて密奏を上せて言う、「臣、先に六月に『遁卦』は験(しるし)あらずと言いましたが、卦法に曰く『有道の人の去るや、寒気発して水災をなす』と。七月に至り、果たして水湧き出でました。臣の弟子姚平、臣に謂いて曰く『京房は天道を知ると謂うべきも、未だ天道を信ずと謂うべからず。京房の災異を言うこと、中らざるなし。涌水既に出づ。有道の人、逐われて死すべきなり、何をか復た言はん』と。臣、曰く『陛下、極めて仁徳、臣に特に厚し。死を言うと雖も、なお言わん』と。姚平、又曰く『京房は小忠と謂うべきも、未だ大忠と謂うべからず。昔、秦の時、趙高専権し、正先と謂う者有り、趙高を非議して死す。趙高の威勢、ここに成る。故に秦の禍乱は、正先これに由りて起こる』と。今、臣、出でて郡守と為るを得、自ら効を保つと雖も、恐らくは効を為さざるに先だちて死せん。願わくは陛下、臣をして涌水の異に応ぜしめず、正先の覆を踏ましめず、姚平の笑う所と為さしめ給わんことを」と。

京房、陕県に至り、又密奏を上せて言う、「臣、先に願いて任良をして考功法を試用せしめ、臣、内に留まるを得んことを請う。議事の者、これが己に利あらざるを知り、臣の蔽うべからざるを以て、故に曰く『弟子を遣るは師を試むるに如かず』と。臣、刺史と為るを得、又奏事すべきに当り、故に又曰く『刺史と為るは、太守と同心ならざるを恐る。太守と為すに如かず』と。是れ、臣をして絶たしむる所以なり。陛下、其の言に違わずして之に従う。是れ陰気の消散する能わず、日、光を失う所以なり。臣、朝廷を去ること漸く遠く、太陽の侵奪せらるること、益々甚だし。願わくは陛下、臣を召すを難くして、天意に違うことを軽んじ給わざらんことを。邪説、人を安んずと雖も、天気必ず変ず。故に人は欺く可きも、天は欺く可からず。願わくは陛下之を察せんことを」と。

京房、去ること一月余にして、竟に召されて獄に下さる。初め、淮陽憲王の舅張博、人となり奸巧にして行い正しからず、数、淮陽王に金銭を求め、王の為に入朝せんことを謀る。博、京房に従いて学び、女を京房に嫁す。京房、朝見する毎に、輒ち博に朝中の語り事を道う。博、是に於いて京房の説く所の機密の語を記し、京房をして王の為に入朝の奏章の草稿を作らしめ、皆、之を王に持して信と為す。石顕、之を知り、告発して「京房、張博と通謀して反逆し、政治を非議謗訕し、罪を天子に帰し、諸侯王を連累せり」とす。皆、獄に下されて死に処せられ、妻子、辺境に徙さる。鄭弘、京房と親友なるを以て罪を得、官を免ぜられて庶人と為る。

6 御史中丞陳咸、数、石顕を訕る。久しくして、槐里令朱雲と親友なるを以て、禁中の密語を漏らす。石顕、微かに之を知り、朱雲と倶に獄に下され、髠と為りて城旦に罰せらる。

石顕の威権、日を追いて盛んに、公卿已下、石顕を畏れ、歩むも敢えて歩まず、小心を為す。石顕、中書僕射牢梁、少府五鹿充宗と党を結び、凡そ附く所の者は皆寵任を得、民間に歌謡有りて唱えて曰く、「牢梁よ、石顕よ、五鹿充宗の客よ、印何ぞ累累たる、綬何ぞ若若たる」と。

石顕、心に自ら専権し、大柄を握るを知り、恐らくは天子一旦左右の親信を採りて己を間隙せんことを。是に於いて常に誠意を示し、一物を取って験と為す。石顕、嘗て命を奉じて諸官府に至り財物を徴発す。先ず自ら禀告して曰く、「恐らくは還りて宮門已に閉ざされん。詔を下して守門の吏をして開かしめんことを請う」と。皇帝之を許す。石顕、故意に夜に至りて帰り、詔を奉ずと称して門を開き宮に入る。後、果たし人有りて書を上せて「石顕、専命して詔を詐り宮門を開く」と告発す。天子聞きて、笑いて書を石顕に示す。石顕、是に於いて泣きて曰く、「陛下、過ちて小臣を私し、委任を以て之に属す。群臣、嫉まざるなく、之を陥れんと欲する者、事の類、是の如き者一つに非ず。惟だ明主のみ之を知る。愚臣、微賤の身、実に以て一人の身を以て衆心を尽くし、天下の怨みを任ずる能わず。願わくは機密の任を辞し、後宮掃除の役を受けて、死して恨み無からんことを。惟だ陛下、哀憐して裁恩し、以て小臣の命を全うせんことを」と。天子、其の言を是とし、且つ之を憐れみ、数、石顕を慰労し、加えて賞賜すること倍々、賞賜及び賂遺の価、凡そ一万万。初め、石顕、衆人の議の、己が前将軍蕭望之を殺すことを聞くを聞き、恐らくは天下の儒生の己を非議せんことを。諫大夫貢禹の経術に精通し、節操著名なるを以て、人をして貢禹に意を致さしめ、深く相結び、因りて禹を薦めて天子に上り、禹、位を九卿に歴る。石顕、之に礼するに至りて周到なり。議する者、是に於いて或いは石顕を称し、其の蕭望之を嫉み陷害せざる者と為す。石顕の変詐を用いて自ら解脱し、君の信を得ることは、皆、是の類なり。

荀悦曰く、佞臣の君を惑わすこと、甚だし。故に孔子曰く「佞を遠ざけよ」と。ただ用いざるのみに非ず、遠ざけ絶ちて其の源を塞ぐ、これ最も戒むる所なり。孔子曰く「政は、正なり」と。要道の本は、ただ己を正すにあり。公、平、直、実は、正の本なり。故に徳は必ず其の実を核し、然る後に位を授く。能は必ず其の実を核し、然る後に事を授く。功は必ず其の実を核し、然る後に賞を加う。罪は必ず其の実を核し、然る後に刑を施す。行いは必ず其の実を核し、然る後に之を貴ぶ。言は必ず其の実を核し、然る後に之を信ず。物は必ず其の実を核し、然る後に之を用う。事は必ず其の実を核し、然る後に之を修む。故に衆正積みて上に在り、万事実を下に有す。先王の道、是に過ぎず。

7 八月癸亥、光禄勲匡衡を御史大夫と為す。

8 閏月丁酉、太皇太后上官氏、崩ず。

9 冬、十一月、斉・楚の地に地震あり、大雪下り、樹木折れ、屋舎壊る。

建昭三年(乙酉、前36年)

1 夏、六月甲辰、扶陽共侯韋玄成、薨ず。

2 秋、七月、匡衡、丞相と為る。戊辰、衛尉李延寿を御史大夫と為す。

3 冬、西域都護・騎都尉北地の甘延寿、副校尉山陽の陳湯を遣わし、康居にて匈奴の郅支単于を誅殺せしむ。

初め、郅支単于、自ら大国と為し、威名遠く尊ばるるを恃み、又勝に乗じて驕り、康居王に礼を行わず、怒りて康居王の女及び貴人・百姓数百人を殺し、或いは肢解して都頼水に投ず。民を発して城を築き、日五百人を使い、二年にして始めて成る。又、使者を遣わして闔蘇・大宛等の国に責め、年に貢物せしむ。諸国、敢えて与えざるなし。漢、三たび使者を康居に遣わし、谷吉等の喪を求むるも、郅支単于、困窮して漢使を辱め、詔を受けず。同時に都護を通じて書を上せて曰く「居処困厄し、願わくは強大なる漢に帰附し、子を遣わして入侍せん」と。其の驕慢、是くの如し。

陳湯は沈着勇敢で、深謀遠慮に富み、策略に長け、奇功を立てることを好んだ。彼は甘延寿と相談して言った。「夷狄は強大な種族を畏れ従うのが、その天性である。西域はもともと匈奴に属していたが、今や郅支単于は威名を遠くに轟かせ、烏孫や大宛を侵掠し、しばしば康居のために計略を巡らせて、それらを服従させようとしている。もしこの二国を得れば、数年以内に西域の城郭諸国は危うくなる。ましてや郅支単于の兵は慓悍で、戦いを好み、たびたび勝利を得ている。長くこれを養っておけば、必ずや西域の禍患となるだろう。その地は極めて遠方にあっても、蛮夷には堅固な城郭や強力な弓矢の守りはない。もし屯田の官兵を発し、烏孫の軍を率いて、その城下に直行すれば、彼らが逃げても行くところはなく、守っても自らを保つに足りない。千載一遇の功業を、一朝のうちに成し遂げられるであろう!」甘延寿もまたその通りだと思ったが、上奏して指示を仰ごうとした。陳湯は言った。「朝廷は公卿と議するが、大事は凡庸な輩の予見するところではない。必ずや聞き入れられないだろう。」甘延寿は躊躇して従わなかった。ちょうどその時、彼が長く病にかかったため、陳湯は独断で朝廷の命を偽り、城郭諸国の軍隊と車師戊己校尉の屯田兵を征発した。甘延寿がこれを聞いて驚き起き上がり、制止しようとした。陳湯は怒り、手で剣の柄を押さえて甘延寿を叱りつけて言った。「大軍はすでに集結している。小僧、軍心を乱そうとするのか!」甘延寿はついにこれに従った。行軍の陣列を部署し、漢兵と胡兵を合わせて四万余人とした。甘延寿と陳湯は上疏して、自ら命を偽ったことを弾劾し、出兵の状況を述べ、その日のうちに兵を率いて分かれて出発し、六校に分けた。そのうち三校は南道から葱嶺を越え、大宛を経由した。残りの三校は都護が自ら率い、温宿国から出発し、北道から赤谷に入り、烏孫を経て、康居の境内に入り、阗池の西に至った。ところが康居の副王抱阗が数千騎を率いて赤谷城の東を掠め、大昆弥の民千人余りを殺害・略奪し、多くの家畜を駆り、後方から漢軍と遭遇し、さらに漢軍の後方の輜重を掠奪した。陳湯は胡兵を派遣してこれを攻撃させ、四百六十人を殺し、彼らが掠奪した百姓四百七十人を奪い返して大昆弥に還し、その馬・牛・羊は軍糧に供した。また、抱阗の貴人伊奴毒を捕らえた。康居の東部の境界に入り、軍に命じて掠奪を禁じた。密かに康居の貴人屠墨を召し出し、漢の威徳を告げ知らせ、彼と酒を飲み盟約を結び、送り返した。そのまま軍を進め、単于の城から約六十里のところで進軍を止めて営を設けた。また康居の貴人具色子の子である開牟を捕らえ、道案内とした。具色子は屠墨の母の弟であり、彼らはいずれも単于を恨んでいたため、郅支の状況を詳しく知ることができた。翌日、軍を進め、単于の城から三十里のところで進軍を止めて営を設けた。単于は使者を遣わして問うた。「漢兵は何のために来たのか。」答えていう。「単于は上書して、『居住困窮し、願わくば強大な漢に帰順し、自ら入朝して謁見したい』と言われた。天子は単于が大国を棄て、心を屈して康居に寄寓しているのを憐れみ、故に都護将軍を遣わして単于の妻子を迎えさせたのである。左右を驚かせることを恐れ、故にあえて城下には至らなかった。」使者がたびたび往復して言葉を伝えたので、甘延寿と陳湯はそこで彼らを責めて言った。「我々は単于のために遠路はるばる来たのに、今に至るまで名王や大人が将軍のもとに来て命令を受けないのは、なぜ単于が大計を軽んじ、客主の礼を失するのか!大軍は遠くから来て、人馬は疲弊し尽くし、糧食もまさに尽きようとしている。恐らく自ら帰還することは叶うまい。願わくば単于は大臣と共に、計策をよく議せられよ。」翌日、進んで郅支城の外の都頼水の辺りに至り、城から三里のところで進軍を止めて陣を布いた。望み見れば、単于の城上には五色の旗が立てられ、数百人が甲冑を着けて城に上って守っていた。また百余騎を城下に馳せ巡らせ、百余歩を城門の両側に魚鱗の陣に並べて、用兵の演習をしていた。城上の者はまた漢軍に向かって呼ばわった。「かかって来い!」百余騎が馳せて漢軍の営塁に衝かんとしたが、営塁の中の者は皆弓を引き絞ってこれに向けたため、騎兵は退却した。漢軍は官兵を遣わして城門の騎兵・歩兵を射させたところ、騎兵・歩兵は皆城内に退いた。甘延寿と陳湯は軍に命じた。「鼓の音を聞いたなら、皆城下に迫れ。四面に城を囲み、各々その持ち場を守れ。堀を掘り、城門を塞げ。盾を前にし、戟と弩を後にせよ。仰いで城楼の者を射よ。」城楼の者は下へ逃げた。土城の外には重ねて木城があり、敵は木城の中から射て、漢軍の多くを傷つけ殺した。漢軍は薪や草を運んで木城を焼いた。夜になると、数百騎が包囲を突破しようとしたが、漢軍は迎え撃って射ち、これを殺した。初め、単于は漢兵が来たと聞いて、去ろうとしたが、康居が自分を恨み、漢軍の内応をするのではないかと疑い、また烏孫などの諸国が皆出兵したと聞き、自ら行くところがないと思った。郅支はすでに城を出たが、また戻り、言った。「守るに如くはない。漢兵は遠くから来たので、長く攻めることはできない。」単于はそこで甲冑を着けて城楼に上り、数十人の閼氏・夫人も皆弓を持って城外の人を射た。城外の者は単于の鼻を射当て、多くの夫人が射殺された。単于はついに楼を下りた。真夜中を過ぎて、木城は破られ、中の者は土城に退き、城に上って叫んだ。その時、康居には万余騎がおり、十余カ所に分かれて四方に城を取り囲み、これに呼応した。夜の間に、たびたび漢軍の営塁を攻撃したが、利あらず、退却した。夜が明ける頃、四方から火が上がり、官兵は喜び、大声で叫びながら勢いに乗じて攻め、鉦や鼓の音は大地を震わせた。康居の兵は退却した。漢軍は四方から盾を押し並べて、共に土城に攻め入った。単于の男女百余人は内城に走った。漢軍は火を放ち、官兵は争って突入し、単于は傷ついて死んだ。軍候仮丞の杜勲が単于の首を斬った。漢の使節の旄二本と、谷吉らが持っていた帛書を獲た。諸々の獲られた物資は功ある者に分け与えた。合わせて閼氏・太子・名王以下一千五百一十八人を斬り、百四十五人を捕虜とし、投降した者は一千余人で、城郭諸国から徴発された十五の王に分け与えた。

建昭四年(丙戌、前35年)

1 春、正月、郅支の首級が京師に届いた。甘延寿と陳湯は上疏して言った。「臣は聞く、天下の大義は一統にあるべきで、昔には堯・舜があり、今には強大な漢があると。匈奴の呼韓邪単于はすでに北藩と自称しているが、ただ郅支単于だけが叛逆して未だ誅せられず、大夏より以西の地は、強大な漢が彼らを臣従させられないと思っている。郅支単于は百姓に惨毒を加え、大悪は上って天に通じた。臣延寿、臣湯は、義兵を率いて天誅を行い、陛下の神霊を仰ぎ、陰陽を和らげ、天氣を清明にし、陣を陥れ敵を克ち、郅支単于の首級ならびに名王以下を斬った。宜しく首級を槁街の蛮夷の邸の間に懸け、以て万里に示し、明らかに強漢を犯す者は、遠くとも必ず誅せられることを示すべきである!」丞相匡衡らは考えて言った。「春は掩埋の時であり、懸けるべきではない。」詔して十日間懸け、その後埋めた。そして郊廟に告祭し、天下を赦免した。群臣は寿を上り、酒宴を設けた。

2 六月甲申日、中山哀王劉竟が薨去した。哀王は皇帝の幼弟であり、太子と共に遊学して成長した。その薨去に際し、太子は弔問に赴いた。皇上は太子を見て、哀王を思い、悲しみに堪えなかった。太子は前に至ったが、悲しまなかった。皇上は甚だ恨んで言った。「どこに不仁の者がいて、よく宗廟を奉じ、百姓の父母となることができようか!」その時、驸馬都尉・侍中の史丹が太子家事を主管しており、皇上はこれをもって史丹を責めた。史丹は冠を脱いで謝罪して言った。「臣は確かに陛下が中山王を哀痛され、感傷に至るのを見ました。先に太子が進見すべき時、臣は密かに戒めて告げました、哭泣して陛下を傷つけてはならないと。罪は臣の身にあり、臣は死すべきです!」皇上はその言を正しいと思い、怒りはようやく解けた。

3 藍田で地震があり、山が崩れ、霸水が塞がれた。安陵の河岸が崩れ、涇水が塞がれ、涇水は逆流した。

建昭五年(丁亥、前34年)

1 春、三月、天下を赦免した。

2 夏、六月庚申日、戾園を復旧した。

3 壬申日晦日、日食が発生した。

4 秋、七月庚子日、太上皇の寝廟園、原廟、昭霊后、武哀王、昭哀后、衛思后の園を復旧した。当時、皇帝は病に臥せっており、長く癒えなかった。祖宗が咎め怒っているのだと考え、そのため全てを復旧した。ただし郡国の廟は廃止したままとした。

5 この年、済陽王劉康を山陽王に改封した。

6 匈奴の呼韓邪単于は郅支が既に誅殺されたと聞き、喜びと恐れを同時に抱いた。上書し、入朝して謁見することを願い出た。

竟寧元年(戊子、紀元前33年)

1 春、正月、匈奴の呼韓邪単于が来朝し、自ら漢朝の女婿となって親交を深めたいと述べた。皇帝は後宮の良家の女子王嫱、字は昭君を単于に賜った。単于は大いに喜び、上書して言った。「上谷から西、敦煌に至るまでの辺塞を守り、世々代々伝えていきたい。辺境の備えの官吏や兵士を撤収し、もって天子の民を休養させたい。」天子はこれを関係部署に下して議論させたところ、参与した者たちは皆、これが有利であると考えた。郎中侯応は辺境の事務に詳しく、許可すべきでないと考えた。皇帝が事情を問うと、侯応は言った。「周・秦以来、匈奴は凶暴で桀驁であり、辺境を侵犯しました。漢朝が成立してからは、特にその害が深刻でした。私は北方の辺塞が遼東に至るまで、その外側に陰山があると聞いております。東西に千里余り連なり、草木は茂り、禽獣は多く、もとは冒頓単于が依拠して拠った地であり、弓矢を製造し、寇を出しては、これが彼らの苑囿でありました。孝武皇帝の時代に至り、兵を出して征伐し、この地を奪い、彼らを沙漠の北に追いやり、辺塞の険要を築き、亭障烽燧を設け、外城を修築し、屯田戍守を置いて防備しました。そうしてようやく辺境はやや安寧を得たのです。沙漠の北は地勢が平坦で、草木は少なく、多くは砂漠であり、匈奴が侵犯しても隠れるところがほとんどありません。辺塞から南では、道は深い山谷を通り、往来は困難です。辺地の老人は言います。『匈奴が陰山を失ってから、そこを通るたびに泣かない者はいない。』もし辺塞を守る戍卒を撤去すれば、夷狄に大きな利益を示すことになり、これが不可の第一点であります。今、聖徳が広く覆い、天が匈奴を庇護し、匈奴は保全されて命を全うする恩恵を得、叩頭して臣服してまいりました。夷狄の本性は、窮すれば卑しく従い、強ければ驕り横暴になる、これが天性であります。以前すでに外城を撤去し、亭障烽燧を減らしましたが、偵察・瞭望と烽火を伝えるのに十分なだけです。古より安き時も危うきを忘れず、さらに撤去することはできません。これが第二点であります。中原には礼義教化と刑罰誅殺がありますが、愚かな民でさえも禁令を犯すことがあります。まして単于が、その部衆が約束を破らないと保証できるでしょうか。これが第三点であります。中原でさえ関隘や橋梁を設けて諸侯を制限するのは、臣下の非分の企みを断つためです。辺塞の険要を設け、屯田戍守を置くのは、単に匈奴を防ぐためだけでなく、属国や降民がもともと匈奴人であり、故旧を懐かしんで逃亡するのを憂慮するためでもあります。これが第四点であります。近来、西羌が辺塞を守り、漢人と交わりましたが、官吏や民が利益を貪り、彼らの家畜や妻子を侵犯・略奪したため、怨恨が生じ、蜂起して背きました。今、辺防の要塞を撤去すれば、軽んじて争う兆しが生じます。これが第五点であります。以前、従軍した者で戦死して帰らぬ者が多く、その子孫は貧困であり、ひとたび逃亡すれば、彼らの親族を頼ることになります。これが第六点であります。また、辺境の奴婢は憂い苦しみ、逃亡を望む者が多く、『匈奴は楽しいと聞くが、偵察・瞭望が厳しくてかなわない』と言います。それでもなお、時おり辺塞を逃げ出す者があります。これが第七点であります。盗賊は凶悪で狡猾であり、徒党を組んで法を犯します。もし彼らが行き詰まって北へ逃げ込めば、制御できなくなります。これが第八点であります。辺塞を築いてから百余年、すべて土塁を用いたわけではなく、あるものは山岩・石・木・渓谷・水門に依り、徐々に整えられ、刑徒や兵士が築造・修治し、その労力と費用は長きにわたり、数えきれません。私は、議論する者が事の始終を深く考えず、一時的な徭役・戍守の省減を望み、十年後、百年後、突然他の変故が生じ、障害や要塞が壊れ、亭障烽燧が消え失せたならば、再び屯兵を発して修繕・治理すべきこととなり、累世の功業を一朝一夕に回復できないことを憂慮します。これが第九点であります。もし戍卒を撤去し、偵察・瞭望を減らせば、単于は自ら辺塞を守り防備すると考え、必ず深く漢朝に感謝し、請願を際限なく行うでしょう。少しでもその意にかなわなければ、予測できない事態が生じます。夷狄の隙間を開き、中原の堅固を損なうことになります。これが第十点であります。これは長く最大の安寧を保ち、百蛮を威厳で服従させる長遠の策ではございません。」奏上すると、天子は詔を下した。「辺塞撤去の議論を再び行ってはならない。」車騎将軍許嘉を遣わし、口頭で単于に告諭させた。「単于は北部辺塞の官吏・兵士・屯田戍守の撤去を上書し、子孫代々辺塞を守るとされた。単于は礼義を仰ぎ慕い、民のことを深く慮っておられる。これは長遠の策であり、朕は大いに嘉する。中原の四方には関隘・橋梁・障害・要塞がすべてあり、単に塞外を防ぐためだけでなく、中原の奸邪で放縦な者が外に出て寇害をなすのを防ぐためでもあり、もって法令制度を明確にして衆の心を統一するのである。単于の意思を敬して告諭するが、朕には何の疑いもない。単于がなぜ撤去しないのかと怪しまれるので、許嘉をして単于に知らしめる。」単于は謝罪して言った。「私は愚かで大計をわきまえず、天子が幸いにも大臣を遣わして告げ知らせてくださり、非常に厚いご恩愛であります。」

当初、左伊秩訾は呼韓邪のために漢朝に帰順するよう謀り、ついにそれによって安定を得た。その後、伊秩訾が自ら功績を誇り、常に怏怏として楽しまないと讒言する者がおり、呼韓邪は彼を疑った。伊秩訾は殺されるのを恐れ、その部衆一千余人を率いて漢朝に投降し、漢朝は彼を関内侯に封じ、食邑三百戸を賜り、王の印綬を佩かせた。呼韓邪が来朝した時、伊秩訾と会い、謝罪して言った。「王は私のために深く謀ってくださり、匈奴をして今日まで安寧ならしめた。これは王の功績であり、恩徳をどうして忘れえようか。私は王の心に背き、王を去らせ、顧みて留めることもなかった。すべて私の過ちである。今、天子に申し上げ、王を王庭に帰らせたいと願う。」伊秩訾は言った。「単于は天命に依り、自ら漢朝に帰順し、安寧を得た。これは単于の神霊と天子のご加護によるものであり、私にどうして功績があろうか。既に漢朝に投降した以上、再び匈奴に戻るのは、二心を抱くことになる。私は単于のために漢朝で使者として仕えたい。命令を聞き入れることはできない。」単于は固く請うたが、許しを得られずに帰っていった。

単于は王昭君を寧胡閼氏に封じた。一人の男子を生み、名を伊屠智牙師といい、右日逐王に封じた。

2 皇太子が冠礼を行った。

3 二月、御史大夫李延寿が死去した。

4 かつて、石顕は馮奉世父子が公卿として名声高く、その娘が昭儀として後宮にいるのを見て、心の中で彼に取り入ろうと考え、「昭儀の兄である謁者の馮逡は身を修め整え、宮中で侍従するに適しています」と推薦した。天子は彼を召し出し、侍中に任命しようとした。馮逡はひそかに事を語ることを願い出た。上は馮逡が石顕の専権を言上するのを聞き、大いに怒り、馮逡を罷免して郎官に戻らせた。御史大夫が欠員となると、在位の者は多くが馮逡の兄である大鴻臚の馮野王を推挙した。上は尚書に中二千石の官員の等級を品評させたところ、馮野王の品行と才能が第一であった。上はこのことを石顕に問うと、石顕は言った。「九卿の中に馮野王に勝る者はいません。しかし馮野王は昭儀の実の兄です。私は後世、必ずや陛下が多くの賢才を越えて、後宮の親族を私して三公に任用したと考えることを恐れます。」上は言った。「良い、私はこれを見ていなかった!」そこで群臣に言った。「もし私が馮野王を三公に任用すれば、後世必ずや私が後宮の親族を私して、馮野王を例に挙げるだろう。」三月、丙寅の日、詔を下して言った。「剛強で堅固、まことに私欲がないのは、大鴻臚の馮野王である。心は明らかで弁舌に優れ、四方に使いできるのは、少府の五鹿充宗である。廉潔で節倹なのは、太子少傅の張譚である。太子少傅を以て御史大夫と為す。」

5 河南太守の九江の人、召信臣が少府となった。召信臣は以前南陽太守を務め、後に河南に転任し、政績と品行は常に第一であった。民を子のように見なし、民に利益のあることを興すのを好み、自ら耕作を励まし、溝渠を開通させ、戸口は倍増した。官吏や民は親しみ愛し、彼を「召父」と呼んだ。

6 癸未の日、孝恵皇帝の寝廟園、孝文太后、孝昭太后の寝園を復活させた。

7 かつて、中書令の石顕は自分の姉を甘延寿に嫁がせようとしたが、甘延寿は娶らなかった。郅支単于を破って帰還すると、丞相・御史も彼が皇帝の命令を僭称したことを嫌い、みな甘延寿らに功績を記さなかった。陳湯はもともと貪欲で、掠奪した財物を辺塞に入れる際、法に合わないことが多かった。司隷校尉が路上に文書を発し、官吏や兵士を拘束し、彼らを調べた。陳湯は上疏して言った。「私は官吏や兵士と共に郅支単于を誅殺し、幸いにして擒滅し、万里の外から軍を整えて帰還しました。道中に使者が迎え慰労すべきです。今、司隷がかえって逆に収捕して調べるのは、郅支のために復讐するものです!」上は直ちに官吏や兵士を解放し、県・道に命じて酒食を提供させ軍を通らせた。到着後、功績を評議するにあたり、石顕と匡衡は考えた。「甘延寿・陳湯は勝手に兵を起こし命令を僭称し、幸いにも殺されなかった。もしさらに爵位や封地を賜れば、以後、命を受けて出使する者は争って危険に乗じ、蛮夷の中で事を起こし、国に禍を招くでしょう。」皇帝は内心では甘延寿・陳湯の功績を認めたが、匡衡・石顕の議論に逆らいがたく、長く決定しなかった。

元の宗正であった劉向が書を上せて言った。「郅支単于は漢の使者・官吏・兵士数百人を囚え殺し、事は外国に広く伝わり、漢の威厳と信義を傷つけました。群臣は皆これを痛心しました。陛下は赫として怒り、彼を誅殺しようとされ、その思いは決して忘れられませんでした。西域都護の甘延寿、副校尉の陳湯は、聖上の旨を秉承し、神霊の庇護に倚り、百蛮の君長を統率し、城郭諸国の兵を調集し、生死を賭して絶遠の地に入り、ついに康居を踏み平らげ、三重の城を破り、郅支単于の旗を抜き、その首を斬り、旌旗を万里の外に掲げ、国威を崑崙山の西に宣揚し、谷吉が殺された恥を雪ぎ、昭著顕赫な功勲を建立し、万族は震え服し、恐懼しない者はありませんでした。呼韓邪単于は郅支がすでに誅殺されたのを見て、喜びかつ恐れ、漢の風化を慕い、大義に帰順し、叩頭して臣と称し、北方の藩属を守り、世々漢に臣と称することを願いました。これは千載の功勲を建立し、万世の安寧を定めたもので、群臣の功績でこれより大きいものはありません。昔、周の大夫方叔・吉甫は周宣王のために猃狁を誅殺し、百蛮は皆来帰し、その詩に言う、『戦車隆隆、声勢浩大、雷霆の如し。顕赫たる誠信の方叔、猃狁を征伐し、蛮荆聞いて畏服す。』『易経』に言う、『敵首を斬り、その同党を獲るを嘉す。』これは首悪を誅殺し、すべての従わない者が来帰することを赞美するものです。今、甘延寿・陳湯の誅殺震慑の威力は、『易経』に言う斬首、『詩経』に言う雷霆も及ばないところです。大功を評する者は小過を計らず、大美を推挙する者は細瑕を摘みません。『司馬法』に言う、『軍の賞は一月を過ぎず、』これは民が速やかに善行の利益を得ることを望むものです。これは武功を賞することを急ぎ、人才を用いることを重んじるためです。吉甫が帰還し、周は厚く賞賜し、その詩に言う、『吉甫宴飲して慶び、すでに多くの福禄を受く。鎬京より帰り、我行すでに久し。』千里の鎬京すらなお遠いとし、況んや万里をや、その辛労は極みに達しています。甘延寿・陳湯は未だ福禄の報いを得ず、かえって死を賭して功を立てた者を屈し、長く刀筆吏の議論に挫かれ、これは有功を奨励し、将士を激励する道ではありません。昔、斉の桓公は前に尊周の功あり、後に項を滅ぼす罪あり、君子は功をもって過ちを掩い、これを隠しました。弐師将軍の李広利は、五万の兵を失い、億万の銭財を費やし、四年の労苦を経て、わずかに三十匹の駿馬を得たのみで、大宛王毋寡の首を斬ったといえども、なお費えを償うに足らず、その私的な罪は多かった。孝武皇帝は万里征伐であると考え、その過ちを記さず、ここに二侯、三卿、二千石の官百余りを封賞した。今、康居国は大宛より強く、郅支の名号は大宛王より尊く、使者を殺した罪は馬を留めたより重く、而るに甘延寿・陳湯は漢の兵を煩わさず、一斗の糧を費やさず、弐師将軍に比べて、功徳は百倍に勝る。かつ常惠は欲して攻める烏孫に随い、鄭吉は自ら降る日逐王を迎え、尚且つ土地を分かち爵位を授けられた。故に威武勤労を論ずれば、方叔・吉甫より大きく、功をもって過ちを掩うを論ずれば、斉の桓公・弐師将軍に優り、近事の功を論ずれば、安遠侯鄭吉・長羅侯常惠より高い。しかるに大功が顕彰されず、小過がたびたび散布される、私は私かに痛心します! 宜しく速やかにその拘禁を解き、名籍を復し、過ちを赦して問わず、尊崇寵信して爵位を賜い、以て有功の者を奨励すべきです。」

ここに天子は詔を下して甘延寿・陳湯の罪過を赦して問わず、公卿に命じて封賞の事を議させた。議する者は軍法に依り捕斬単于の条例に従って封賞すべきと考えた。匡衡・石顕は考えた。「郅支は本来逃亡して国を失い、絶遠の地に名号を窃取したもので、真の単于ではない。」皇帝は安遠侯鄭吉の先例を採用し、千戸を封賞しようとした。匡衡・石顕はまた争った。夏、四月、戊辰の日、甘延寿を義成侯に封じ、陳湯に関内侯の爵位を賜い、食邑各三百戸、加えて黄金百斤を賜った。甘延寿を長水校尉に、陳湯を射声校尉に任命した。

この時、杜欽が書を上せて、かつて馮奉世が莎車を破った功績を追論した。皇帝は先帝の時代のことであり、再び記録しないと考えた。杜欽は前の御史大夫杜延年の子である。

荀悦評す:功業と道義を成就すれば封賞に値し、前の事を追録するのは許される。『春秋』の義理は、泉台を毀つことを憎み、中軍を撤去することを美とし、それぞれその適否に依る。仮託の詔命の事は、先王が慎重にしたところであり、已むを得ずして施行する。もし仮託の詔命が大で功績が小さければ、罪に問うことができる。仮託の詔命が小で功績が大きければ、賞することができる。功績と過失が相応ならば、これをもって可とす。その軽重を権衡して適切な処置を為す。

8 初め、太子は年少の時より経書を好み、寛厚博学、謹慎小心であった。後に酒を好み、宴飲享楽を楽しみ、上は彼に才能なしと見なした。而るに山陽王劉康は才技有り、その母傅昭儀また寵愛を受け、上は常に山陽王を後継者に立てることを意図することが有った。上は晚年多く病み、自ら政事を処理せず、音楽を好んだ。時に殿下に鞞鼓を置き、天子自ら軒檻に至り、銅丸を以て鼓を撃ち、音は急促の鼓点のリズムに合った。後宮と身邊の音楽に慣れた者は為し得る者無く、而るに山陽王もまた為すことができ、上は屡々その才能を称えた。史丹進み言う:「所謂才能とは、聡敏にして学を好み、旧きを温めて新しきを知る、皇太子は即ちこれなり。絲竹鞞鼓の間に於いて人材を選ぶならば、陳惠・李微は匡衡に勝り、相国と為るべし!」ここに於いて上は黙して笑う。

上、臥病するに及び、傅昭儀・山陽王劉康は常に身邊に在り、而して皇后・太子は進見すること少なし。上、病漸く重く、心は恍惚として安からず、屡々尚書に景帝の時に膠東王を立てし故事を問う。是の時、太子の大舅父陽平侯王鳳は衛尉・侍中と為り、皇后・太子と俱に憂え、如何とも為す無し。史丹、親近の臣として侍病するを得、上獨り臥すに及び、史丹直ちに臥室に入り、叩頭して青蒲席に伏し、涙を流して言う:「皇太子は嫡長子を以て太子と立たれ、已に十餘年、名号は百姓の心に繋がり、天下に歸心せざる者無し。臣、山陽王の一向に寵愛を受くるを見るに、今、路上に流言紛紛として、国家に為に疑いを生じ、太子の動搖せらるるの議有りと為す。果たして是の如くならば、公卿以下必ず死を以て爭い、詔令を受けじ。願わくは先ず賜死せられて、以て群臣に心跡を明らかにせん!」天子一向に仁慈にして、史丹の涙するを見るに忍びず、言は又懇切深切、心大いに感動醒悟し、喟然として嘆息して言う:「我、日々困頓衰弱し、而して太子・二子は年幼く、心中戀戀として捨て難く、又豈に念わざらんや!然れども此の如きの議無し。且つ皇后は謹慎、先帝又太子を愛し、我豈に先帝の意旨に逆らわんや!駙馬都尉何れの處より此の語を聞く?」史丹即ち退き、叩頭して言う:「愚臣、妄りに聞くところ、罪當に死に處すべし!」上、ここに於いて受け入れ、史丹に謂う:「我が病漸く重く、恐らくは自ら復すること能わじ、汝、善く輔導して太子を導き、我が意旨に違うこと勿れ。」史丹、抽泣して起身し、太子、是に因りて終に後継と確定す。而して右將軍・光禄大夫王商、中書令石顯も亦た擁護佑助して太子を助け、功有ること頗る多し。夏、五月、壬辰の日、皇帝未央宮にて崩ず。

班彪の贊に曰く:臣の外祖兄弟は元帝の侍中と為り、臣に告げて曰く:「元帝は多才多藝、史書に長じ、琴瑟を彈じ、洞簫を吹くことを能くし、自ら曲調を創製し、歌に合わせ、細かに節奏を分かち、精微の處を窮む。年少の時より儒學を好み、即位する及び、儒生を徵召任用し、政事を委ね、貢禹・薛廣德・韋玄成・匡衡相繼いで宰相と為る。而して上は文義に牽制せられ、優柔不斷、孝宣帝の基業是に因りて衰微す。然れども其の寬厚弘大、臣下を禮待し、恭敬節儉に出で、號令温文爾雅、古の風有り。」

9 匡衡奏して言う:「先に皇上の身體の不適に因り、故に復たすべての廢せられし祭祀を復すも、終に福佑を蒙ること無し。衛思后・戾太子・戾后の陵園を考うるに、親緣未だ斷絕せず。孝惠帝・孝景帝の廟は、親緣已に盡く、宜しく毀つべし。太上皇・孝文帝・孝昭太后・昭靈后・昭哀后・武哀王の祠廟に至りては、請う、すべて廢して復た祀ること無からんことを。」奏、批准せらる。

10 六月、己未の日、太子、皇帝位に即き、高廟に拜す。皇太后を太皇太后と尊び、皇后を皇太后と為す。大舅父侍中・衛尉・陽平侯王鳳を大司馬・大將軍・領尚書事と為す。

11 秋、七月、丙戌の日、孝元皇帝を渭陵に葬る。

12 大赦天下す。

丞相匡衡書を上せて曰く:「陛下は至孝の心を懷き、哀傷して先帝を思念し、心中斷絕すること能わず、遊樂射獵の宴飲無し、誠に喪事を慎重にし、遠祖を追念するに隆重にして、窮まり無し。臣、私かに願わくは陛下、天性已に孝道を具備すと雖も、仍お聖明の心を加えられんことを。《詩經》に曰く:‘孤獨憂傷、病中に在るが如し’、是れ周成王の喪期終わりし後も仍お思念哀慕し、心意未だ平靜ならざるを謂う。是れ正に文王・武王の基業を繼承し、大教化の根本を推崇する所以なり。臣又師より聞く:‘夫妻の間の關係は、百姓の生命の始め、萬種の福祿の根源なり。婚姻の禮儀正しければ、然る後に萬物順遂し、天命全うせらる。’孔子《詩經》を論ずるに、《關雎》を以て始めと為す、是れ綱紀の首要、王道教化の始めなり。上古以來、夏・商・周三代の興衰、此に由らざるは無し。願わくは陛下、得失盛衰の效驗を詳細に考察し、以て大業の根基を奠定し、德有る人を選び、聲色享樂を戒め、莊重恭敬なる者に親しみ、巧言令色の徒を遠ざけられんことを。臣聞く、《六經》は聖人が天地の本心を統攝し、善惡の歸著を彰顯し、吉凶の分界を明らかにし、人道の正理を通達し、人をして其の本性に悖らざらしむる經典なり。《論語》、《孝經》に至りては、聖人言行の重要なる準則、當に其の意旨を深く領會すべし。臣又聞く、聖明君王の自ら處する道は、動靜周旋、上天に奉じ、雙親に事え、臨朝して臣下を治め、物事を處するに皆禮節の規範有り、以て人倫の關係を彰顯す。恭敬謹慎、敬畏戰慄は、上天に事えるの儀容なり。温和恭敬、謙遜有禮は、雙親に事えるの禮節なり。端正自身、莊重嚴格は、衆人に臨むの儀態なり。恩惠を施し、和悅親切は、臣下を款待するの表情なり。一切の舉措動作、皆相應の禮儀に循い、故に外形は仁義と為り、行動は法則と為る。今、正月初一、陛下正寢に臨み、朝賀を受け、酒宴を設けて四方の賓客を款待す。《經傳》に曰く:‘君子は始めを慎む。’願わくは陛下、動靜の禮節に留意し、群臣をして盛德の光輝を仰望せしめ、以て國家の根基を奠定せば、天下は非常の幸いなり!」皇上、恭敬して其の意見を採用す。