後周紀二
資治通鑑 第291巻 【後周紀二】 玄黓困敦の年九月より、閼逢摂提格の年四月に至るまで、凡そ一年余り。
九月、甲寅朔日、呉越の丞相裴堅が薨去した。台州刺史呉延福をして、共に相府の事務に参与せしめた。庚午日、勅して北方边境の官吏・百姓は契丹の境内に入りて掠奪することを得ざらしむ。契丹の将高謨翰、葦筏を以て胡盧河を渡りて侵寇し、冀州に至る。成徳節度使何福進、龍捷都指揮使劉誠誨らを遣わして貝州に駐屯せしめて之を防禦せしむ。契丹、之を聞き、即ち兵を率いて北に河を渡る。其の掠め獲りし数百名の冀州の壮丁、官軍を望み、争いて喧嘩鼓譟し、契丹を撃たんと欲す。官軍敢えて応ぜず、契丹、尽く之を殺す。
蜀の山南西道節度使李廷珪、奏して周人が関中に兵を集むと為す。請うて兵を増やして備えと為さん。蜀主、奉鑾粛衛都虞候趙進を遣わして兵を率いて利州に赴かしむ。未だ幾くならずして周人が兵を集むるは北漢に備えんが為なりと聞き、乃ち兵を率いて還る。
南唐の武安節度使辺鎬、昏庸懦弱にして決断無く、湖南に在りて、政令諸司より出で、人心に叶わず。吉水の人歐陽広、書を上りて曰く、「辺鎬は将帥の才に非ず、必ず湖南を喪失せん。宜しく別に良将を選び、兵を増やして其の敗を救うべし。」と。報い無し。
南唐主、辺鎬に命じて朗州を経理治めしむ。朗州より来る者有りて、多く劉言は忠順なりと言う。辺鎬、因りて備えを為さず。南唐主、劉言を召して朝に入らしむ。劉言行かず、王逵に謂いて曰く、「南唐必ず我を討たん。奈何すべき。」王逵曰く、「武陵は江・湖の険に依り、数万の武装の士有り。安んぞ拱手して人に制せられんや!辺鎬は撫御に方無く、士民親附せず。一戦して以て之を擒にす可し。」と。劉言、猶予して未だ決せず。周行逢曰く、「機密の事は貴を迅速にす。遅緩すれば彼備えを為し、図る可からず。」と。劉言、乃ち王逵・周行逢及び牙将何敬真・張倣・蒲公益・朱全琇・宇文琼・彭万和・潘叔嗣・張文表の十人をして皆指揮使と為し、兵を部署発遣す。潘叔嗣・張文表は、皆朗州の人なり。周行逢は謀を善くし、張文表は戦を善くし、潘叔嗣は果断勇決なり。三人常に相与にして功を成し、相親しむこと甚だ密なり。
諸将、溆州の酋長苻彦通を召集して援軍と為さんと欲す。周行逢曰く、「蛮人は貪にして義無く、前年馬希萼に従いて潭州に入り、焚掠して一無し。我が軍は義を以て起ち、往きて勝たざる無し。焉んぞ此の如きの者を用いて、百姓をして残害糟蹋せしめんや。」と。乃ち已む。然れども亦た苻彦通の後患と為るを畏れ、蛮酋土団都指揮使劉某、諸部の蛮の畏るる所と為るを以て、之を西境鎮遏使と為して以て之に備う。
冬、十月、王逵ら兵を率いて分路して長沙に趨く。孫朗・曹進を以て先鋒使と為す。辺鎬、指揮使郭再誠らを遣わして兵を率いて益陽に駐屯せしめて之を禦ぐ。戊子日、王逵ら沅江を克ち、都監劉承遇を獲、副将李師徳五百人を率いて降る。壬辰日、王逵ら士卒に命じて小舟を挙げて以て蔽と為さしめ、直ちに益陽に抵り、四面より寨を斫り破りて衝入し、乃ち之を克ち、守軍二千人を殺す。辺鎬、南唐に告急す。甲午日、王逵ら橋口及び湘陰を克ち、乙未日、潭州に至る。辺鎬、城を環して自ら守る。救兵至らず、城中の兵少なし。丙申日夜、辺鎬、城を棄てて走り、官吏百姓皆潰散す。醴陵門の橋断絶し、死する者一万余人、道州刺史廖偃、乱兵に殺さる。丁酉日朝、王逵城に入り、自ら武平節度副使・権知軍府事と称し、何敬真を行軍司馬と為す。何敬真らを遣わして辺鎬を追わしむ。追い及ばず、首級五百を斬る。蒲公益、岳州を攻む。南唐の岳州刺史宋徳権走る。劉言、蒲公益を以て権知岳州事と為す。南唐の湖南諸州を守る将、長沙の陥落を聞き、相継いで走る。劉言、尽く馬氏の嶺北の旧地を復す。唯だ郴州・連州のみ南漢に帰す。
契丹の瀛州・莫州・幽州、大水有り。流民、関塞に入りて河北に散居する者数十万。契丹の州県も亦た禁ぜず。後周の主、詔して所在に命じて救済供給し之を安んぜしむ。中国の民、先に契丹に掠められし者、能く帰る者十に五、六。
丁未日、李穀、臂病久しく癒えず、三たび表を上りて職を辞するを請う。帝、中使を遣わして旨を伝えて曰く、「卿の掌る所の務めは極めて重し。朕、人を得ること難し。事功の成るに苟もせば、必ずしも朝謁を須いず。朕今便殿に在りて卿を待つ。暫く入りて見る可し。」と。李穀、金祥殿に入りて見え、面して誠款を陳ぶ。帝許さず。李穀已むを得ずして復た政を視る。李穀、筆を執りて書すること能わず。帝、詔して三司の事務繁劇を以て、命じて其の名の印を刻みて以て用いしむ。
辛亥日、勅す、「百姓の訴訟有らば、必ず先ず県・州及び観察使の処に経て決断せしめ、若し其の曲直を得ざれば、乃ち御史台及び中書省に至りて訴えるを聴す。若し自ら状を書くこと能わざれば、人に請いて代わらしむる者は、必ず代わらしむる者の姓名・住居を書せ。請託す可き者無ければ、白紙を執るを聴す。訴訟する所の者は必ず己が事たれ。私怨を挟みて他人の為に訴ふるを得ず。」と。
慶州刺史郭彦欽、性貪なり。野鶏族、羊馬多し。彦欽、故に之を擾して賂を索む。野鶏族、遂に叛き、商旅を劫掠す。帝、寧州・環州両州に命じて兵を合せて之を討たしむ。
劉言、使者を遣わして表を奉り来告す。「湖南、世々朝廷に事う。不幸、隣寇の陥る所と為る。臣、詔命を被らずと雖も、即ち義兵を糾合し、旧国の平らぐるを得たり。」と。
南唐主、辺鎬の官爵を削り、饒州に流す。初め、辺鎬、都虞候を以て查文徽に従いて建州を克つ。凡そ俘獲する所の者は皆之を全くす。建州の人、之を呼びて「辺仏子」と為す。潭州を克つに及び、市肆、営業を易易として改めず。潭州の人、之を呼びて「辺菩薩」と為す。未だ幾くならずして節度使と為るも、政事紀綱無く、唯だ日に設齋供し、大いに仏事を行い、潭州の人失望し、之を呼びて「辺和尚」と為す。
左僕射同平章事馮延巳・右僕射同平章事孫晟、表を上りて処分を請う。皆赦さる。晟、陳請すること已まず。遂に延巳と与に皆罷免せられ、本官を帯びる。
南唐主、連年出兵して功無きを以て、乃ち兵を休め民を養うを議す。或る人曰く、「願わくは陛下、数十年兵を用いざれば、少しく安んず可し。」と。南唐主曰く、「我、将に終身兵を用いざらん。豈に数十年のみならんや。」と。南唐主、歐陽広の言を思い、之を以て本県の県令と為す。
十一月、辛未日、保義節度使折従阮を静難節度使に徙し、野鶏族を討たしむ。
癸酉日、勅す、「凡そ民間毎歳の納むる牛皮、三分の二を減ぜよ。十頃の田毎に、牛皮一張を計徴す。其の餘は百姓の自ら用い及び売買するを聴す。但だ敵国に鬻ぐを禁ず。」と。此に先だち、兵興以来、民間の私に牛皮を鬻ぐを禁じ、悉く官に納れしめて価に酬いしむ。後唐の明宗の時、有司只だ塩を償うのみ。後晋の天福年間、塩も亦た与えず。後漢の法、牛皮一寸を蔵するに死罪に抵る。然れども民間日用実に之を闕く可からず。帝、素より其の弊を知る。是に至り、李穀の建議、均して田畝に攤せば、公私便なりと為す。
十二月、丙戌日、黄河、鄭州・滑州に於いて決す。使者を遣わして巡視し築塞せしむ。
甲午の日、前静難節度使の侯章が買宴のための絹一千匹、銀五百両を進献した。皇帝はこれを受け取らず、「諸侯が入朝して拝謁する際には、天子が宴を設けてねぎらうべきであり、どうして買う必要があろうか。今後はこのようなことは、すべて受け取ってはならない」と言った。
王逵は兵を率い、洞蛮と合わせて五万人で郴州を攻撃した。南漢の将潘崇徹が郴州を救援し、蚝石で遭遇した。潘崇徹は高みに登って湖南の軍を眺め、「疲弊して整然としておらず、打ち破ることができる」と言った。兵を放って攻撃し、湖南軍を大敗させ、屍は八十里にわたって連なった。
翰林学士の徐台符が、李崧を誣告した葛延遇と李澄を誅殺するよう請願した。馮道はすでに何度も赦免を経ているとして同意しなかった。王峻は徐台符の正義を賞賛し、皇帝に告げた。癸卯の日、葛延遇と李澄を逮捕し、殺した。
劉言が上表し、潭州は破壊されたので、使府を朗州に移して統治させ、また進貢や茶の販売はすべて馬氏の旧例に従うよう請願した。皇帝はこれを認めた。
南唐の江西観察使楚王馬希萼が入朝し、南唐主は彼を留めた。数年後、金陵で死去し、諡を恭孝とした。
初め、麟州の土豪楊信が自ら刺史を名乗り、後周の任命を受けた。楊信が死去し、子の楊重訓が継ぎ、州城を率いて北漢に降伏した。この時になって、各部の羌人に包囲攻撃され、再び後周に帰順し、夏州・府州に救援を求めた。
春、正月、丙辰(初五)、後周は武平留後劉言を武平節度使・制置武安及び静江等軍事・同平章事とし、王逵を武安節度使、何敬真を静江節度使、周行逢を武安行軍司馬に任命した。折従阮に詔して言った。「野雞族の中で改過自新できる者には官職を与え金銀絹帛を賞賜し、そうでなければ兵を進めて討伐せよ。」壬戌(十一日)、折従阮が奏上して言った。「酋長李万全らは詔を受け入れて誓約を立てましたが、その他の者はなお服従せず、現在討伐中です。」
前代の屯田はすべて辺境地域にあり、戍守の兵士に耕作させていた。唐の末年以来、中原に駐屯する軍が置かれ、所在の場所に営田を設けて空き地を耕作させた。その後、富裕な家を募り、賦税を納めさせて耕作させ、戸部が別に機構を設置して総管し、州県には属さなかった。ある者は丁口が多いのに徭役がなく、あるいは奸盗をかくまい隠蔽し、州県は取り調べることができなかった。後梁の太祖が淮南を攻撃した際、数千数万の牛を掠奪し、東南諸州の農民に供給し、毎年牛租を納めさせた。それから数十年を経て、牛は死んでも牛租は除かれず、民はこれを非常に苦しんだ。後周の太祖はかねてこれらの弊害を知っており、ちょうど閣門使・知青州の張凝が便利な民のための措置を上奏し、営田の事務を廃止するよう請願し、李穀もこのことを言及した。乙丑(十四日)、敕令を下した。「戸部営田の事務をすべて廃止し、その民を州県に隷属させよ。その田地・廬舎・耕牛・農具は、すべて現耕者に賜り永久的な産業とし、牛租をすべて免除せよ。」この年、戸部は三万余戸増加した。民は永久的な産業を得て、初めて家屋を修繕し木を植え、土地の収益を数倍にした。ある者が言った。「営田の中に肥沃なものがあります。売るのが良く、銭数十万緡を得て国を助けることができます。」後周の太祖は言った。「利益が民にあるのは、国にあるのと同じだ。朕はこれらの金を何に使うというのか。」
萊州刺史の葉仁魯は、後周の太祖の旧吏であり、絹一万五千匹・銭一千緡を貪欲に納めた罪で裁かれた。庚午(十九日)、死を賜った。後周の太祖は宦官を遣わして酒食を賜り、「お前は自ら国法を犯した。朕はどうすることもできない。お前の母をねぎらうべきだ」と言った。葉仁魯は感動して涙を流した。
後周の太祖は黄河の決壊を憂慮し、王峻が自ら巡視に行くことを請願し、後周の太祖は許可した。鎮寧節度使の郭栄がたびたび入朝を請願したが、王峻は彼の英明勇烈を恐れ、たびたび阻んだ。閏月、郭栄が再び入朝を請願し、ちょうど王峻が黄河のほとりにいたため、後周の太祖は許可した。
契丹が定州を侵犯し、義豊軍を包囲した。定和都指揮使の楊弘裕が夜間に敵営を襲撃し、大いに勝ち、契丹は逃走した。また鎮州を侵犯したが、本道の軍が撃退した。
丙申(十六日)、鎮寧節度使の郭栄が入朝した。元李守貞の騎士馬全乂が郭栄に従って入朝し、後周の太祖が召し見て、殿前指揮使に補任し、左右に言った。「馬全乂は仕えた主君に忠実である。以前河中において、たびたび我が軍を挫いた。お前たちは彼に倣うべきである。」王峻は郭栄の入朝を聞き、急いで黄河のほとりから戻り、戊戌(十八日)、大梁に到着した。
雄武節度使の高允権が死去した。その子の牙内指揮使高紹基が父の職位を継承しようと図り、高允権が病気であると偽り、上表して自ら軍府の事務を執ると称した。観察判官の李彬が切に諫めたため、高紹基は怒り、李彬を斬り、辛丑(二十一日)、李彬が謀反したと奏上した。
王峻が固く藩鎮を兼領することを請願し、後周の太祖はやむを得ず、壬寅(二十二日)、王峻を平盧節度使に兼ねさせた。
高紹基がたびたび諸部族が辺境を侵犯したと奏報し、職位を継承できることを望んだ。後周の太祖は六宅使の張仁謙を延州に派遣して巡視検査させた。高紹基は隠しきれず、ようやく父の喪を発した。
戊申(二十八日)、折従阮が野雞族の二十一個の部族を降伏させたと奏報した。
南唐の草澤の者邵棠が上言した。「近頃淮上を遊歴し、周主が恭敬節倹で、徳政を増し修めていると聞きました。我が軍は先ごろ潭州・朗州で打ち破られました。彼が南征の意図を持つことを恐れ、これに備えるべきです。」
初め、王逵が潭州を攻略した後、指揮使の何敬真を静江節度副使、朱全琇を武安節度副使、張文表を武平節度副使、周行逢を武安行軍司馬に任命した。何敬真と朱全琇はそれぞれ牙兵を設置し、王逵と分庁して事務を処理し、官吏や民は誰に従うべきかわからなかった。宴飲のたびごとに、諸将は酒に乗じて騒ぎ、市井のごとく乱れ、もはや上下の区別がなくなり、ただ周行逢と張文表だけが王逵に礼を尽くして仕え、王逵は彼らを親しく愛した。何敬真は王逵と仲違いし、朗州に帰ることを告げ、また劉言に仕えることもできず、朱全琇と共に乱を謀った。劉言はかねて王逵の強盛を恐れ、王逵が何敬真を遣わして自分を窺わせていると疑い、討伐しようとした。王逵はこれを聞き、非常に恐れた。周行逢が言った。「劉言はかねて我々と心を同じくせず、何敬真・朱全琇はあなたの下にいるのを恥じています。あなたは早く彼らを図るべきです。」王逵は喜んで言った。「あなたと共に凶党を除き去り、共に潭州・朗州を治めれば、何を憂えることがあろう。」ちょうど南漢が全州・道州・永州を侵犯したため、周行逢が請願した。「自ら朗州に行き劉言を説得し、何敬真・朱全琇を南征に派遣させ、彼らが長沙に到着したら、計略で捕らえることは掌中の物の如くです。」王逵は従った。周行逢は朗州に行き、劉言は何敬真を南面行営招討使、朱全琇を先鋒使に任命し、牙兵百余人を率いて潭州の軍と合流し南漢を防がせた。二人は長沙に到着し、王逵は城の郊外に出迎え、互いに会って非常に喜び、連日宴飲し、多く美妓を用いて彼らを誘惑したため、何敬真はここに滞留して前進しなかった。朗州指揮使の李仲遷は部兵三千人を率いて長らく潭州に戍守していたが、何敬真は彼を先に発たせ、嶺北に向かわせた。都頭の符会らは兵士の帰郷を思う気持ちに乗じ、李仲遷を脅して勝手に朗州に帰還させた。王逵は何敬真が酔っているのに乗じ、人を遣わして劉言の使者を装い、何敬真を責めて言った。「南寇が深く侵入しているのに、早急に防がず専ら荒淫宴飲にふけっている。太師の命令で、あなたを鎖に繋いで西府に送る。」そこで彼を捕らえて獄に入れた。朱全琇は逃走し、兵を派して追捕した。二月、辛亥朔(初一)、何敬真を斬って示衆した。まもなく、朱全琇とその党十余人を捕らえ、すべて斬った。
癸丑(初三)、鎮寧節度使の郭栄は澶州に帰った。
初め、契丹主の耶律徳光が北に返る際、後晋の伝国宝璽を携えて行った。この時になって、玉を用いて二つの宝璽を新たに作った。
王逵は使者を遣わし、何敬真を斬ったことを劉言に報告した。劉言はやむを得ず、庚申(初十)、符会ら数人を斬った。
枢密使・平盧節度使・同平章事の王峻は、晚年になるに従いさらに傲慢不遜となり、端明殿学士の顔衎と枢密直学士の陳観を范質や李谷に代えて宰相とするよう奏請した。後周の太祖は「宰相の進退は軽々しく決めるわけにはいかない。朕がもう一度考えてみよう」と言った。王峻は理由を力説し、言葉は次第に不遜となり、日は既に正午を過ぎ、後周の太祖はまだ食事を取っていなかったが、王峻は論争をやめなかった。後周の太祖は「今は寒食の節句である。休暇が終わるのを待って、お前の言う通りに上奏しよう」と言った。王峻はようやく下がった。
癸亥(十三日)、後周の太祖は宰相と枢密使を緊急に宮中に召し、王峻を別の場所に幽閉した。後周の太祖は馮道らに会うと、涙を流して言った。「王峻は朕をあまりにも欺き辱めた。大臣をすべて追放し、朕の手足を切り落とそうとしている。朕にはただ一人の息子がいるが、彼はことさらに離間し妨害し、一時的に朝廷に来させただけで、すでに怨恨を抱いている。枢機を自ら掌握し、宰相を兼ねながら、なおも重鎮を求める道理があろうか!彼の志趣を見るに、満足することは遥かにない。このように君主を眼中に置かず、誰が耐えられようか!」甲子(十四日)、王峻を商州司馬に左遷した。制書の文辞はおおよそ次のように言っていた。「群臣を魚肉と見なし、朕が身を幼い子のように扱う。」後周の太祖は、邺都留守の王殷が心中不安になるのを心配し、王殷の子である尚食使の王承誨を王殷のところに遣わし、王峻が罪を得た理由を告げさせた。王峻は商州に到着し、腹病にかかったが、後周の太祖はなおも彼を憐れみ、その妻を遣わして見舞わせたが、まもなく死去した。
後周の太祖は折従阮に命じて兵を分けて延州に駐屯させた。高紹基はようやく恐れ、たびたび貢物を献上した。また供奉官の張懐貞に命じて禁兵の両指揮を率いて鄜州と延州に駐屯させた。高紹基はそこで軍府の事務をすべて副使の張匡図に委ねた。甲戌(二十四日)、客省使の向訓を延州の権知(臨時長官)に任命した。
三月、甲申(初四)、鎮寧節度使の郭栄を開封尹・晋王に任命した。丙戌(初六)、枢密副使の鄭仁誨を鎮寧節度使に任命した。
初め、殺牛族と野鶏族は仲が悪く、官軍が野鶏族を討伐すると聞き、糧食を贈って迎え入れたが、官軍はその財物や家畜を貪って略奪した。そのため殺牛族は反乱を起こし、野鶏族と連合し、包山で寧州刺史の張建武を破った。後周の太祖は、郭彦欽が各部の胡人を擾乱し、彼らをして乱を起こさせたとして、彼を罷免し自宅に蟄居させた。
初め、解州刺史の浚儀人・郭元昭と榷塩使の李温玉は仲が悪く、李温玉の娘婿である魏仁浦は枢密主事であったため、郭元昭は魏仁浦が彼をかばっていると疑った。ちょうど李守貞が反乱を起こし、李温玉には河中にいる子がいたため、郭元昭は李温玉を捕らえ、彼が反乱を企てたと上奏し、事は魏仁浦にも連座した。後周の太祖は当時枢密使であり、それが誣告であると知り、釈放して追及しなかった。この時になって、魏仁浦は枢密承旨となり、郭元昭は任期を終えて京に帰り、非常に恐れ、洛陽を通りかかった際に、その事情を魏仁浦の弟である魏仁濣に告げた。魏仁濣は言った。「我が兄は平生人と怨みを結ばない。ましてや私怨のために公を害するようなことをするだろうか!」京に到着後、丁亥(初七)、魏仁浦は後周の太祖に報告し、郭元昭を慶州刺史に任命した。
己丑(初九)、棣州団練使の太原人・王仁鎬を宣徽北院使兼枢密副使に任命した。
南唐の主はまた左僕射の馮延己を同平章事に任命した。
周行逢は武平節度副使の張倣を嫌い、王逵に言った。「何敬真は張倣の親類です。刑に臨む際に後事を張倣に託しましたので、あなたは彼を警戒すべきです。」夏、四月、庚申(十一日)、王逵は張倣を招いて酒を飲ませ、酔わせた後に殺害した。
丙寅(十七日)、帰徳節度使兼侍中の常思が入朝し、戊辰(十九日)、平盧節度使に異動となった。出発しようとした際に、上奏して言った。「臣は宋州において、民間に四万余両の生糸を貸し付けておりました。謹んでこれを上納いたしますので、徴収をお願いいたします。」後周の太祖はうなずいた。五月、丁亥(初八)、宋州に張り紙を掲示し、常思が貸し付けた生糸はすべて免除し、すでに納めたものは百姓に返還するよう命じたが、常思に恥じる色はなかった。
唐朝の末年以来、各地の学校は廃れていた。蜀人の毋昭裔は私財百万両を投じて学館を建造し、また木版印刷で『九経』を出版するよう請願した。蜀の主はこれに従った。これにより蜀の地では文学が再び盛んになった。
六月、壬子(初四)、滄州から、契丹の知盧台軍事である范陽人・張蔵英が投降してきたと奏上があった。
初め、後唐の明宗の時代、宰相の馮道と李愚が、国子監の判官である田敏に命じて『九経』を校正させ、木版印刷して販売するよう請願し、朝廷はこれに従った。丁巳(初九)、版木が完成し、献上された。これにより、乱世ではあったが、『九経』は広く流布することとなった。
王逵は周行逢に命じて潭州の事務を執り行わせ、自ら軍を率いて朗州を襲撃し、攻略した。指揮使の鄭珓を殺し、武安節度使・同平章事の劉言を捕らえ、別館に幽閉した。
秋、七月、王殷は三度にわたり上表して入朝を請うたが、後周の太祖はその誠意を疑い、使者を遣わして阻止した。
南唐は大旱魃に見舞われ、井戸や泉は涸れ、淮水は徒歩で渡れるほどになり、飢えた民が淮水を渡って北方へ向かう者が絶え間なく、濠州と寿州は兵を出してこれを防ごうとしたが、民は兵士と戦って北方へやって来た。後周の太祖はこれを聞いて言った。「彼の民も我が民も同じである。彼らが米を買って淮水を渡るのを認めよ。」南唐の人はそこで倉庫を築き、大量の米を買い入れて軍に供給した。八月、己未(十二日)、南唐の百姓が人や獣の背に米を負って運ぶ場合は許可し、舟車で運搬する場合は許可しないとの詔を下した。
王逵は使者を遣わして上表し、偽って「劉言は朗州を率いて南唐に投降しようと図り、また潭州を攻撃しようとしましたが、その部衆が従わなかったため、廃して囚えました。臣はすでに朗州に到着し、軍府を慰撫し終えました。」と述べ、また使府の治所を再び潭州に戻すよう請願した。甲戌(二十七日)、通事舎人の翟光裔を湖南に派遣して宣慰・安撫させ、その請願に従った。王逵は長沙に戻り、周行逢に朗州の事務を執り行わせ、また潘叔嗣に命じて朗州で劉言を殺させた。
九月、己亥(二十二日)、武成節度使の白重賛が黄河の決壊を塞き止めたと上奏した。
契丹が楽寿を侵犯した。斉州の戍兵である右保寧都頭の劉彦章が都監の杜延熙を殺害し、契丹に内応しようと図ったが、成功せず、その党与とともに処刑された。
南漢の主は、その子の劉継興を衛王に、劉璿興を桂王に、劉慶興を荆王に、劉保興を禎王に、劉崇興を梅王に封じた。
東は青州・徐州から、南は安州・復州に至り、西は丹州・慈州、北は貝州・鎮州に至るまで、いずれも大水に見舞われた。
後周の太祖は秋に入ってから風痺の病にかかり、飲食や歩行に支障を来すようになった。方術の士は財物を散じて災いを消すべきだと言った。後周の太祖は南郊で天を祭ろうと考えたが、また後梁以来、郊祭は常に洛陽で行われていたため、これに躊躇した。執政の者たちは言った。「天子のおわす都で百神を祭ることができます。どうして必ずしも洛陽でなければならないのでしょうか!」そこで、ようやく圜丘と社稷壇を築き、大梁に太廟を建造することになった。癸亥(十七日)、馮道を洛陽に派遣し、太廟と社稷の神主を迎えさせた。
南唐は大赦を行った。冬、十一月、己丑(十三日)、太常が洛陽に倣って四郊の諸壇を築くよう請願し、後周の太祖はこれに従った。十二月、丁未朔(初一)、神主が大梁に到着し、後周の太祖は西郊でこれを迎え、太廟に合祀した。
邺都留守・天雄節度使兼侍衛親軍都指揮使・同平章事の王殷は、功績に頼って専横を極め、河北の鎮戍兵で勅令によって処置すべきものも、王殷は直接帖文を用いて施行し、また民衆から盛んに金品を搾取した。後周の太祖はこれを聞いて不興に思い、人を遣わして「卿は国と一体をなす。邺都の倉庫は非常に豊かである。卿が用いたいと思うならば取るがよい。どうして金がないことを心配する必要があろうか!」と言った。成徳節度使の何福進はかねてより王殷を憎んでおり、甲子(十八日)、何福進は入朝し、密かに王殷の陰謀を後周の太祖に報告した。後周の太祖はこれにより王殷を疑うようになった。乙丑(十九日)、王殷が入朝し、詔して王殷を留めて京城内外の巡検に充てた。
戊辰(二十二日)、府州防御使の折徳扆が、北漢の将である喬贇が侵入してきたが、これを撃退したと上奏した。
王殷は出入りのたびに、常に数百人の従者を従えていた。王殷は甲冑や兵器を支給して巡回警備に備えたいと願い出たが、後周の太祖はこれに難色を示した。当時、後周の太祖は体調が優れず、郊祀を行おうとしていたが、王殷は主君を威圧する勢いを背景に側近に控え、人々は内心で彼を恐れていた。壬申(二十六日)、後周の太祖は病身を押して滋徳殿に臨み、王殷が入殿して安否を問うたところ、これを捕らえた。詔を下して、王殷が郊祀の日に謀反を企てたと誣告し、登州に流罪とし、城外に出たところで殺害した。鎮寧節度使の鄭仁誨に命じて鄴都に向かわせて慰撫させた。鄭仁誨は王殷の家財を欲しがり、勝手に王殷の子を殺し、その家族を登州に移住させた。
南唐の祠部郎中・知制誥の徐鉉が上言して、貢挙が設けられたばかりで、すぐに廃止すべきではないと述べたため、再び実施することとなった。
以前、楚州刺史の田敬洙が白水塘を修築して田地を灌漑し、辺境を充実させるよう請願し、馮延己はこれが有利だと考えた。李徳明はそこで、広大な荒地を大いに開墾して屯田とし、各地の廃れた渠や塘を修復するよう求めた。官吏はこれに乗じて侵奪を行い、大規模な労役を起こし、多くの民田を奪い、百姓は憂愁怨恨に耐えても訴える場所がなかった。徐鉉がこの状況を南唐の主に報告すると、南唐の主は徐鉉に巡察を命じ、徐鉉は民田を登記して全て元の所有者に返還した。ある者が徐鉉が勝手に威権を振るったと誣告したため、南唐の主は怒り、徐鉉を舒州に流した。しかし白水塘は結局完成しなかった。
南唐の主はさらに少府監の馮延魯に命じて各州を巡察慰撫させたが、右拾遺の徐鍇が上表して、馮延魯は無能で罪多く、行動が軽率浅薄であり、使者として派遣されるべきではないと述べた。南唐の主は怒り、徐鍇を校書郎・分司東都に左遷した。徐鍇は徐鉉の弟である。
道州盤容洞の蛮酋長盤崇が部衆を集め、自ら盤容州都統と称し、たびたび郴州や道州に侵攻した。
乙亥(二十九日)、後周の太祖は太廟に祭祀を行い、冕冠を着用し、左右に支えられて階段を登り、一室に至って酒を注ぎ祭り、うつむいて拝礼できずに退き、晋王の郭榮に命じて礼儀を完遂させた。その夜、南郊に宿泊し、病状は特に重く、ほとんど救えない状態であったが、夜半にようやく少し良くなった。
春、正月、初一日の丙子、皇帝は圜丘で天を祭り、かろうじて頭を上げて敬意を示すのみで、酒爵や幣帛などの儀式は全て関係部署が代行した。大赦を天下に行い、年号を改めた。蜀の領内との通商を許可した。
初三日の戊寅、鄴都の建置を廃止し、天雄軍のみとした。
初五日の庚辰、晋王の郭榮を侍中兼任とし、内外の兵馬事務を判理させた。当時、群臣は皇帝にほとんど面会できず、朝廷内外は皆恐怖したが、晋王が軍を掌握したと聞き、人心はようやく少し落ち着いた。
軍士の間に、郊祀の賞賜が唐明宗の時より少ないという流言があり、皇帝はこれを聞いて、初七日の壬午、諸将を寝殿に集めて叱責して言った。「朕は即位以来、粗衣をまとい粗食を食べ、一心にただ軍隊を養うことだけを考えてきた。府庫の蓄えや四方からの貢賦は、軍隊を養う以外に余剰はほとんどない。お前たちはそれを知らぬのか!今や凶徒を放縦にして勝手に口を開かせ、君主の倹約を顧みず、国家の貧しさを察せず、また自分に何の功績があって賞を受けるかを考えず、ただ恨むことだけを知っている。これはお前たちにとって妥当なことか!」諸将は皆恐れ入って謝罪し、退いてから、造語して騒ぐ者を探し出して殺し、流言はようやく収まった。
当初、皇帝が鄴都にいた時、小吏の曹翰の才能を特に愛し、晋王の郭榮に仕えさせた。郭榮が澶州を鎮守していた時、曹翰を牙将に任命した。郭榮が入朝して開封尹となった時、別に曹翰を召し出さなかったが、曹翰自ら来訪し、郭榮は怪しんだ。曹翰は内密に進言するよう願い出て言った。「大王は国家の儲君です。今、主上が病に臥せっておられます。大王は宮中に入って医薬に侍るべきであり、なぜ外で政事を処理しておられるのですか!」郭榮は悟り、その日のうちに宮中に入って宿泊した。
十一日の丙戌、皇帝の病が重くなり、各司の細務を停止し、全て奏報する必要はなく、大事があれば晋王の郭榮が旨を稟告してから宣布執行することとした。
鎮寧節度使の鄭仁誨を枢密使・同平章事に任命した。
十三日の戊子、義武留後の孫行友、保義留後の韓通、朔方留後の馮継業をいずれも節度使とした。韓通は太原の人である。
皇帝はたびたび晋王に告げて言った。「昔、私が西征した時、唐の十八陵が全て盗掘されていないものはないのを見た。これには別の理由はなく、ただ中に金玉が多く埋蔵されていたからだ。私が死んだら、紙の衣を着せ、瓦の棺に納めよ。速やかに墓を造営し、長く宮中に留めるな。墓穴には石を使わず、磚で代用せよ。工匠や役夫は皆公平に雇い、百姓を煩わすな。埋葬が終わったら、陵墓に近い百姓三十戸を募り、その雑役を免除して、陵墓を守らせよ。下宮を建てず、守陵の宮女を置かず、石の羊、虎、人、馬を作らず、ただ陵墓の前に石碑を一つ刻み、『周天子は平生倹約を好み、遺命により紙衣・瓦棺を用いる。継位の天子はあえて違えない』と書け。もしお前が私の言葉に背けば、私はお前を加護しないぞ!」また言った。「李洪義には節鉞を授けるべきだ。魏仁浦は枢密院から離してはならない。」
十五日の庚寅、詔を下して前登州刺史の周訓らに黄河の決壊箇所を塞ぐよう命じた。それ以前、黄河は霊河、魚池、酸棗、陽武、常楽駅、河陰、六明鎮、原武の計八箇所で決壊していた。この時になってそれぞれ使者を派遣して塞がせた。
皇帝は急いで制書を起草させ、端明殿学士・戸部侍郎の王溥を中書侍郎・同平章事に任命した。十七日の壬辰、制書を宣布し終えると、左右の近臣がこれを皇帝に報告し、皇帝は言った。「私は遺憾はない!」枢密副使の王仁鎬を永興節度使に任命し、殿前都指揮使の李重進を武信節度使兼任に、馬軍都指揮使の樊愛能を武定節度使兼任に、歩軍都指揮使の何徽を昭武節度使兼任に任命した。李重進は年齢が晋王の郭榮より上であり、皇帝は彼を宮中に召し、後事を託し、さらに郭榮に拝謁させて君臣の名分を確定させた。その日、皇帝は滋徳殿で崩御したが、喪を秘して発しなかった。二十日の乙未、遺詔を宣布した。二十一日の丙申、晋王が即位した。
当初、静海節度使の呉権が亡くなり、子の呉昌岌が継いだ。呉昌岌が亡くなり、弟の呉昌文が継いだ。この月になって、ようやく南漢に任命を求め、南漢は呉昌文を静海節度使兼安南都護とした。
北漢の主は後周の太祖が亡くなったと聞き、非常に喜び、大規模な侵攻を謀り、使者を派遣して契丹に援兵を求めた。二月、契丹はその武定節度使・政事令の楊兗に一万余りの騎兵を率いさせて晋陽に向かわせた。北漢の主は自ら三万の軍隊を率い、義成節度使の白従暉を行軍都部署に、武寧節度使の張元徽を前鋒都指揮使に任命し、契丹軍と共に団柏から南進して潞州に向かった。
蜀の左匡聖馬歩都指揮使・保寧節度使の安思謙は、張業を誣告して殺害し、趙廷隱を廃し、蜀人は皆彼を憎んだ。蜀主は彼に兵を率いて王景崇を救援させたが、安思謙は逗留して進まず、功績がなく、内心で恥じ恐れ、自ら安んじることができなかった。張業が殺されて以来、宮門の守衛はますます厳重になり、安思謙はこれが自分を疑っているのだと思い、言葉に不遜なものが多くなった。安思謙は宿衛を掌管し、しばしば兵士を殺して威厳を示した。蜀主が衛士を検閲した際、年はなお壮んであるのに安思謙が斥けた者があり、また留めて名簿に編入した者を安思謙が殺したため、蜀主は心の中で不平に思った。安思謙には三人の子、安扆、安嗣、安裔がおり、父の権勢に頼って暴虐横暴に振る舞い、国人の禍患となっていた。翰林使の王藻がたびたび安思謙が怨みを抱き、まさに反逆しようとしていると進言した。二十四日の丁巳、安思謙が入朝すると、蜀主は壮士に命じてこれを撃ち殺させ、三人の子も共に殺した。王藻もまた、勝手に辺境の奏報を開封した罪で、共に殺された。
北漢の軍は梁侯駅に駐屯し、昭義節度使の李筠は部将の穆令均に歩兵騎兵二千人を率いて迎撃させ、自らは大軍を率いて太平駅に陣を敷いた。張元徽は穆令均と交戦し、偽って敗れて退き、穆令均が追撃すると伏兵が発し、穆令均を殺し、士卒千余人を捕虜とし斬った。李筠は上党に逃げ帰り、城に拠って自ら守った。李筠はすなわち李栄であり、皇帝の諱を避けて改めたものである。
後周の世宗は北漢主が侵攻してきたと聞き、自ら兵を率いて防ごうとしたが、群臣は皆言った。「劉崇は平陽から逃げ去って以来、勢力は窮迫し、士気は沮喪しております。必ずや自ら来ることはありますまい。陛下は即位されたばかりで、先帝を葬る日も遠くなく、人心は動揺しやすく、軽々しく動くべきではありません。将帥に命じて防がせるべきです。」世宗は言った。「劉崇は我に大喪があることを幸いとし、我が若年で新たに立ったことを軽んじ、天下を併呑する野望を抱いている。今回、彼は必ず自ら来るであろう。朕、行かざるを得ない。」馮道が執拗に諫止したが、世宗は言った。「昔、唐太宗は天下を平定するに、嘗て自ら出征せざるはなかった。朕、どうして安閑としていられよう!」馮道は言った。「陛下が唐太宗となれるかどうか、知りませぬ。」世宗は言った。「我が兵力の強大をもってすれば、劉崇を破ることは、大山が卵を砕くが如きものだ。」馮道は言った。「陛下がその山となれるかどうか、知りませぬ。」世宗は不快に思った。ただ王溥のみが世宗の出征を勧め、世宗はこれに従った。
三月初一乙亥朔日、蜀主は捧聖・控鶴都指揮使兼中書令の孫漢韶を武信節度使に加え、爵位を楽安郡王と賜い、その軍職を罷免した。蜀主は安思謙の跋扈を戒め、山南西道節度使の李廷珪ら十人に命じて禁軍をそれぞれ管掌させた。
北漢軍は勝に乗じて潞州に迫った。初三丁丑日、詔して天雄節度使の符彦卿に兵を率いて磁州固鎮から出撃させ、北漢軍の背後を攻撃せしめ、鎮寧節度使の郭崇を副将とした。また詔して河中節度使の王彦超に兵を率いて晋州から東に向かわせ、北漢軍を邀撃せしめ、保義節度使の韓通を副将とした。また馬軍都指揮使・寧江節度使の樊愛能、歩軍都指揮使・清淮節度使の何徽、義成節度使の白重贊、鄭州防御使の史彦超、前耀州団練使の符彦能に命じて兵を率いて先に沢州に赴かせ、宣徽使の向訓を監軍とした。白重贊は憲州の人である。
初七辛巳日、大赦を下した。
初九癸未日、世宗は馮道に命じて先帝の霊柩を山陵に送らせ、鄭仁誨を東京留守に任じた。
十一日乙酉日、世宗は大梁を出発した。十六日庚寅日、懐州に到着した。世宗は兼行して速やかに進もうと欲した。控鶴都指揮使・真定人の趙晁は密かに通事舎人の鄭好謙に言った。「賊軍の勢いは盛んである。重々しくしてこれを挫くべきだ。」鄭好謙はこの言葉を世宗に報告した。世宗は怒って言った。「お前はどうしてこのような言葉を口にしたのか!必ずや人に指図されたのだ。その人を言い出せば命は助けよう、さもなくば必ず死罪に処す。」鄭好謙はありのままに答え、世宗は彼と趙晁とを共に懐州の獄に囚えた。十八日壬辰日、世宗は沢州を経過し、州城の東北に宿営した。
北漢主は世宗の到来を知らず、潞州を過ぎてこれを攻めず、兵を率いて南に進んだ。この日の夕方、軍は高平の南に駐屯した。十九日癸巳日、前鋒は北漢軍と遭遇し、攻撃を加え、北漢軍は退却した。世宗は彼らが逃げ去ることを恐れ、諸軍を促して迅速に前進させた。北漢主は中軍を巴公原に布陣し、張元徽の軍は東に、楊兖の軍は西にあり、陣勢はかなり整然としていた。当時、河陽節度使の劉詞が率いる後軍はまだ到着しておらず、衆人の心は危険と恐怖を感じていたが、世宗の志気はますます鋭く、白重贊と侍衛馬歩都虞候の李重進に命じて左軍を率いて西に陣取らせ、樊愛能・何徽に右軍を率いて東に陣取らせ、向訓・史彦超に精鋭騎兵を率いて中央に陣取らせ、殿前都指揮使の張永徳に禁兵を率いて世宗を守らせた。世宗は馬に乗り甲冑を身に着け、自ら陣頭に臨んで督戦した。北漢主は周軍の人数が少ないのを見て、契丹を召し寄せたことを後悔し、諸将に言った。「我、独り漢軍を用いるだけで彼らを破ることができる。何ぞ契丹を用いるに及ばん!今日、周軍を攻略するのみならず、契丹をも心服させることができよう。」諸将は皆、正しいと考えた。楊兖は馬を駆って進み周軍を観察し、退いて北漢主に言った。「これは強敵です。軽々しく攻めてはなりませぬ!」北漢主は鬚を撫でながら言った。「時機は逃すべからず。願わくば卿は言うな。我が戦うのを見よ。」楊兖は黙して語らず、心中不快に思った。当時、東北の風が大いに吹いていたが、やがて忽ち南風に変わった。北漢の副枢密使・王延嗣は司天監の李義に命じて北漢主に報告させた。「今、戦うべし。」北漢主はこれに従った。枢密直学士の王得中は馬の轡を引いて諫めて言った。「李義は斬るべきです!風勢のこのようなこと、どうして我を助けるものでありましょう!」北漢主は言った。「我が主意は既に定まった。老書生、妄りに言うな。再び言えば、汝を殺す!」東軍を指揮して先に攻撃させ、張元徽は一千騎を率いて周軍の右軍を攻撃した。
交戦することしばし、樊愛能・何徽は騎兵を率いて先に逃走し、右軍は潰敗した。歩兵一千余人は鎧を脱ぎ去り万歳を叫び、北漢に投降した。世宗は軍勢の危急なるを見て、自ら親兵を率いて矢石を冒して督戦した。当時、宋太祖皇帝(趙匡胤)は宿衛の将として、同僚に言った。「君主かくの如く危うきに、我らどうして力を尽くして死せざるを得よう!」また張永徳に言った。「賊軍は驕っている。全力で戦えばこれを破ることができる!卿の部下には左手で弓を射るを善くする者が多い。卿は兵を率いて高き所から西に出撃し左翼とせよ。我は兵を率いて右翼としてこれを攻める。国家の安危、この一挙に在り!」張永徳はこれに従い、それぞれ二千人を率いて進戦した。宋太祖皇帝は身先士卒となり、馬を駆って敵の前鋒に衝撃し、士卒は死を決して戦い、一をもって百に当たらざるはなく、北漢兵は紛紛として潰退した。内殿直・夏津人の馬仁瑀は衆人に言った。「天子をして敵の攻撃を受けしむるに至らしめ、我らこれらの者を何とせん!」馬を躍らせ弓を引き、大声に呼号し、連ねて数十人を殺し、士気はますます奮い立った。殿前右番行首の馬全乂は世宗に言った。「賊軍の勢いは既に尽き、まさに我らに擒にされんとしております。願わくば陛下、馬の轡を控えて動かず、徐ろに諸将がこれを破るのを御覧下さい。」即ち数百騎を率いて敵陣に突入した。
北漢主は世宗が自ら陣頭に臨むを知り、張元徽を褒賞し、勝に乗じて進兵するよう促した。張元徽は前進して陣を攻めたが、戦馬が倒れ、周兵に殺された。張元徽は北漢の猛将であり、北漢軍はこのため士气衰えた。当時、南風はますます強く、周兵は争って奮撃し、北漢兵は大敗し、北漢主は自ら紅旗を挙げて兵を収めようとしたが、止めることができなかった。楊兖は周兵の強大を畏れ、敢えて救援せず、かつ北漢主の言葉を恨み、全軍を率いて撤退した。
樊愛能・何徽は数千騎を率いて南に逃走し、弓弦を引き、刀刃を露わにし、輜重を掠奪し、役夫は驚き逃走し、損失は多かった。世宗は近臣と親軍の軍校を遣わして追い、諭し止めさせたが、詔に従う者はおらず、使者はあるいは軍士に殺され、軍士はまた言い放った。「契丹の大軍が到来し、官軍は大敗した。残りの者は既に敵に投降した。」劉詞は道中で樊愛能らに遇い、樊愛能らは彼を止めたが、劉詞は聴かず、兵を率いて北上した。当時、北漢主はなお残余の兵一万余人を有し、山澗に拠って陣を布いていた。夕暮れ時、劉詞が到着し、また諸軍と共にこれを攻め、北漢兵は再び敗れ、王延嗣を殺し、高平に追い、屍は山谷に満ち、棄てられた皇帝の用具・輜重・器械・諸々の家畜は数えきれなかった。その夜、世宗は野外に宿営し、投降した歩兵を得た者を、ことごとく殺した。樊愛能らは周軍の大勝を聞き、士卒と共に徐ろに帰り、あるいは明け方に至るまで到着しない者もいた。二十一日甲午日、高平で軍を休め、北漢の降兵数千人を選んで効順指揮と編成し、前武勝行軍司馬の唐景思に命じてこれを率いさせ、淮上を戍らせ、その余の二千余人には物資と服装を与えて放った。李穀は乱兵に迫られ、密かに山谷の中に隠れ、数日を経てようやく出てきた。二十四日丁酉日、世宗は潞州に到着した。
北漢主は高平から粗末な布衣をまとい、笠をかぶり、契丹から贈られた黄鬃馬に騎り、百余騎を率いて雕窠嶺から逃げ帰った。夜間に道に迷い、村民を捕らえて案内役としたが、その案内役は誤って晋州へと導き、百余里も進んでから誤りに気づき、案内役を斬り捨てた。昼夜を徹して北へ逃げ、到着する先々で、食事を得ても箸を取る間もなく、時に周の兵が追撃してきたとの噂を聞けば、慌てて逃走した。北漢主は老衰して疲弊し、馬にうつ伏せになり、昼夜を走り続け、ほとんど持ちこたえられず、辛うじて晋陽に入ることができた。
世宗は樊愛能らを誅殺して軍政を整えようと考えたが、決断を躊躇していた。二十六日己亥、昼間に陣営の帳の中で横になり、張永德がそばに侍っていた。世宗がこの件を彼に問うと、張永德は答えて言った。「樊愛能らは元より大功なく、節鉞の位に甘んじるのも恥ずべきことです。敵を見れば先ず逃げ出し、死しても罪を償うに足りません。ましてや陛下はまさに天下を平定せんとしておられます。もし軍法が確立されなければ、たとえ熊羆のような勇士や百万の大軍があっても、どうして用いることができましょうか!」世宗は枕を地面に投げつけ、大声で褒め称えた。すぐに樊愛能、何徽ならびにその麾下の軍使以上七十余人を逮捕した。彼らを責めて言った。「お前たちは皆、数朝に仕えた老将であり、戦えないわけではない。今、風を見て逃げ出したのは、他に理由があるわけではない。まさに我を奇貨として、劉崇に売り渡そうとしたのだ!」と。ことごとく斬首に処した。世宗は何徽がかつて晋州を守って功績があったため、彼の死を免そうと考えたが、すぐに軍法は廃棄できないと考え、やはり併せて誅殺し、棺を与えて葬るに帰した。これにより、驕慢な将や怠惰な兵士たちは初めて畏怖を知り、もはや姑息な政策は行われなくなった。二十七日庚子、高平の戦いの功績を賞し、李重進を忠武節度使兼務、向訓を義成節度使兼務、張永德を武信節度使兼務、史彦超を鎮国節度使に任命した。張永德は力強く宋太祖皇帝の智勇を称賛し、世宗は宋太祖皇帝を殿前都虞候に抜擢し、厳州刺史を兼任させ、馬仁瑀を控鶴弓箭直指揮使、馬全乂を散員指揮使に任命した。その他の将校で昇進し官を授けられた者は数十人に及び、兵士の中には一軍を統率する地位に抜擢された者もいた。囚われていた趙晁は釈放された。
北漢主は散兵を集め、鎧や兵器を修理し、城壁や堀を整えて周軍に備えた。楊兖はその部衆を率いて北の代州に駐屯し、北漢主は王得中を遣わして楊兖を送らせ、ついでに契丹に救援を要請した。契丹主は王得中を帰して返答させ、兵を出して晋陽を救援することを約束した。二十九日壬寅、符彦卿を河東行営都部署兼知太原行府事、郭崇を副将、向訓を都監、李重進を馬歩都虞候、史彦超を先鋒都指揮使に任命し、歩兵騎兵二万人を率いて潞州から出発させた。また詔を下して王彦超、韓通を陰地関から進入させ、符彦卿と合流して前進させ、さらに劉詞を随駕部署、保大節度使白重贅を副将とした。
漢の昭聖皇太后李氏が西宮で崩御した。
夏、四月、北漢の盂県が降伏した。符彦卿の軍は晋陽城下に到達し、王彦超は汾州を攻め、北漢の防禦使董希顔が降伏した。世宗は莱州防禦使康延沼を遣わして遼州を攻め、密州防禦使田瓊に沁州を攻めさせたが、いずれも攻略できなかった。供備庫副使太原人の李謙溥が単騎で遼州刺史張漢超を説得し、張漢超はすぐに降伏した。
十三日乙卯、聖神恭粛文武孝皇帝を嵩陵に葬り、廟号を太祖とした。
南漢主は高王劉弘邈を雄武節度使に任命し、邕州を鎮守させた。劉弘邈は、斉王と鎮王が相次いで邕州で死んだため、固く辞退し、宮中での宿衛を願い出たが、南漢主は許さなかった。任地に到着すると、政務を僚属に委ね、日々酒を飲み、鬼神に祈った。ある者が上書して劉弘邈が謀反を企てていると誣告したため、十七日戊午、南漢主は甘泉宮使林延遇を遣わし、毒酒を賜って殺した。
初め、世宗は符彦卿らを北征に派遣したが、ただ晋陽城下で兵威を示すことを考え、攻め取ることは議していなかった。北漢の領内に入ると、民衆は争って食物をもって周軍を迎え、劉氏の賦税や徭役の重さを訴え、軍需を供給して晋陽攻略に加わりたいと願い出て、北漢の州県は相次いで降伏した。世宗はこれを聞き、初めて併呑の意図を持つようになった。使者を遣わして諸将と協議させたが、諸将は皆「糧食が不足しています。ひとまず軍を撤退させ、次の挙兵を待ちましょう」と言った。世宗は聞き入れなかった。ほどなく諸軍数十万人が太原城下に集結し、軍士たちは掠奪を免れず、北漢の民は失望し、次第に山谷に拠って自衛するようになった。世宗はこれを聞き、急ぎ詔を下して掠奪を禁じ、農民を慰撫し、当年の租税のみを徴収し、また民衆に穀物を納めさせ、その量に応じて官位を授け、さらに沢州、潞州、晋州、絳州、慈州、隰州および山東近辺の諸州の民衆を徴発して糧食を輸送させ、軍に供給した。十八日己未、李谷を太原に派遣し、糧草の計算と計画を担当させた。
十九日庚申、太師・中書令の瀛文懿王馮道が死去した。馮道は若い頃から孝行と慎み深さで知られ、唐の荘宗の時代に高位にのぼり、その後数朝にわたって将、相、三公、三師の位を離れなかった。その人は清廉で質素、寛容で度量が大きく、人々はその喜怒を推し量ることができず、滑稽で機知に富み、時勢に従って人に取り入った。かつて『長楽老叙』を著し、歴朝で受けた栄誉を自ら述べ、当時の人々は往々にして徳行や器量をもって彼を重んじた。
欧陽修は論じて言う。「礼儀廉恥は、国家の四本の柱である。四本の柱が立たなければ、国家は滅びる。」礼儀は人を治める大法であり、廉恥は身を立てる大節である。ましてや大臣でありながら廉恥がないならば、天下にどうして乱れがなく、国家にどうして滅びることがあろうか!私は馮道の『長楽老叙』を読んで、彼が自ら述べて栄誉とするのを見て、まさに廉恥のない者と言うべきであり、そうであれば天下国家の状況もこれによって知ることができる。私は五代の時代に、節操を全うした士人三人、国のために死んだ臣下十五人を見つけたが、いずれも武夫や戦卒であり、まさに儒者の中にこうした者がいなかったのだろうか?あるいは高風亮節の士人が、世の乱れを嫌い、その時代を鄙んで出てこなかっただけなのだろうか?それとも天下を治める君主が彼らの顧みるに足らず、彼らを招くことができなかったのだろうか?私はかつて五代の頃に王凝という者がいたと聞いた。家は青州・斉州の間にあり、虢州司戸参軍となり、病のため任地で死去した。王凝の家はもともと貧しく、一人の子はまだ幼く、その妻李氏は子を連れ、王凝の遺骸を背負って故郷に帰ろうとし、東のかた開封を過ぎて宿舎に泊まろうとしたが、主人は受け入れなかった。李氏は日が暮れたのを見て立ち去ろうとせず、主人は彼女の腕を掴んで追い出した。李氏は天を仰いで大声で泣き叫んだ。「私は婦人として節操を守ることができず、この手が人に掴まれてしまった!」そう言って斧を取って自ら腕を切り落とした。これを見た人々は嘆息し涙を流した。開封尹はこれを聞き、朝廷に報告し、李氏を手厚く撫恤し、主人を鞭打った。ああ!士人が自らを愛さず恥を忍んで生き長らえる者は、李氏の風節を聞けば、少しは恥を知るべきであろう!
臣司馬光が言うには、天地は位分を設け、聖人はこれに倣って礼法を制定し、内には夫婦があり、外には君臣がある。婦人は夫に従い、終身改めず、臣子は君主に仕え、死に至るまで二心がない。これこそ人道の大倫である。もしこれを廃すれば、禍乱はこれより大きなものはない!范質は馮道の德行は淳厚で古人に師法し、才能は宏大で器量は広く、朝代が変遷しても人々は彼に閑語せず、大山のように屹立して動かし難いと称賛した。臣は愚かにも、正しい女は二人の夫に従わず、忠臣は二人の君主に仕えないと考える。女として正しくなければ、たとえ華麗な容貌や精巧な織物の技術があっても、称賛するに値しない。臣として忠実でなければ、たとえ多くの才智や優れた政績があっても、尊重するに値しない。なぜならば、大節がすでに損なわれているからである。馮道は宰相となり、五つの朝代、八つの姓氏を経て、まるで旅館が客を過ごすかのように、朝には仇敵であり、夕べには君臣となり、顔を変え言葉を変え、全く恥じる心がなかった。大節がこのようなのに、たとえ小さな善があっても、どこに称える価値があろうか!ある人は言う、唐が滅んでから群雄が相争い、帝王の興廃は長くて十数年、短くて二三年であり、たとえ忠義や知恵ある者でも、どうすることもできなかった。その時、臣節を失った者は馮道一人ではなく、どうして独り馮道だけを責められようか!臣は愚かにも、忠臣は国を家のように憂い、危険を見れば命を捧げ、君主に過ちがあれば力強く諫め、国が滅びれば節義を全うして死ぬと考える。知恵ある者は国に道があれば現れ、国に道がなければ隠れ、あるいは山林に身を隠し、あるいは低い官職で悠々自適とする。今、馮道は尊貴で寵愛は三師の冠たるもの、権力と地位は諸相の首にあり、国が存在する時は模倣的で拱手して黙し、官位を盗み俸禄を空しく食み、国が滅びる時は身を全うし禍を免れることを図り、新君を迎え拝謁し勧進した。君主が次々と興亡する中、馮道は富貴そのままであり、これはまさに奸臣の中でも最も突出した者であり、どうして他の者と同列に論じられようか!ある人は言う、馮道は乱世の中で身を全うし禍を遠ざけることができた、これも賢者と言える。臣は君子には身を殺して仁を成す者はあっても、生を求めて仁を害する者はいないと考え、どうして専ら身を全うし禍を遠ざけることを賢とするのか!そうであるならば、盗跖は病で死に、子路は肉醬にされたが、いったいどちらが賢なのか。しかしこれは馮道の過ちだけではなく、当時の君主にも責任がある。なぜならば、貞節でない女は、中程度の士人でも妻にすることは恥ずかしい。忠実でない者は、中程度の君主でも臣として用いることを恥ずかしい。馮道は前朝で宰相となり、忠と言えば君主に背き仇敵に仕え、智と言えば国家社稷は廃墟となった。後の君主は、彼を殺さず、捨てず、再び宰相として用いた。彼がどうして我に忠義を尽くし、我のために用いられようか!ゆえに言う、馮道の過ちだけではなく、当時の君主の責任でもある!
二十日辛酉、符彦卿が上奏し、北漢の憲州刺史太原人韓光願、嵐州刺史郭言がともに城を挙げて降伏した。初め、符彦卿に娘がおり、李守貞の子李崇訓に嫁いでいた。相者が彼女を見て「富貴にして天下の人の母となるであろう」と言った。李守貞は喜んで言った。「我が子の嫁でさえ天下の母となれる、ましてや我においてをや」と。そこで造反の決意は固まった。敗れるに及び、李崇訓はまず自分の弟妹を殺し、次いで符氏に及ぼうとした。符氏は帷幕の下に隠れ、李崇訓は慌てて彼女を見つけられず、自殺した。乱兵が入ると、符氏は堂に安坐し、乱兵を叱って言った。「我が父は郭公と兄弟である。お前たちは無礼をするな」と。後周の太祖は使者を遣わして彼女を符彦卿のもとに送り返した。世宗が澶州を鎮守していた時、太祖は世宗のために彼女を娶った。二十一日壬戌、皇后に立てられた。皇后は性情温和で聡明かつ明断であり、世宗は非常に敬重した。
王彦超、韓通が石州を攻め、陥落させ、刺史安彦進を捕らえた。二十二日癸亥、沁州刺史李廷誨が降伏した。二十九日庚午、世宗は潞州を出発し、晋陽に向かった。
八月初一癸酉、北漢の忻州監軍李勍が刺史趙皋と契丹の通事楊耨姑を殺し、城を挙げて降伏した。李勍を忻州刺史に任命した。
王逵が上表し、使府の治所を朗州に戻すことを請うた。
