モバイルで快適に読む 『資治通鑑』アプリ:全文検索、しおり、読み上げ、オフライン
テーマ
文字サイズ 18
後周紀

後周紀四

第 4 篇

資治通鑑 第293巻

【後周紀四】 柔兆執徐(丙辰年)三月より始まり、強圉大荒落(丁巳年)にて終わる。通算一年余り。

世宗睿武孝文皇帝中 顕徳三年(丙辰、西暦956年)

三月、甲午朔日(初一)、皇上は水寨を巡視し、淝橋に至った。自ら一塊の石を取り、馬に騎乗したままそれを携えて水寨に送り、砲石に供した。従駕の官員らは橋を渡る際、一人につき連続して石を一塊ずつ運んだ。

太祖皇帝(趙匡胤)は皮船に乗って寿春城の外の壕の中に入った。城上から連弩を発射してこれを射た。矢は屋根の垂木のように大きかった。牙将・館陶人の張琼は即座に身をもってこれを蔽い、矢は張琼の腿に命中した。張琼は昏倒したが、やがて蘇生した。矢の先端は骨に深く達し、抜くことができなかった。張琼は大杯の酒を飲み、人に命じて骨を砕かせて矢尻を抜き出させた。出血すること数升、神色は依然として自若としていた。

南唐国主はまた、右僕射の孫晟を司空に任命し、彼を礼部尚書の王崇質と共に派遣し、表章を捧げて入朝して拝謁させた。表章にはこう述べられていた。「天祐年間以来、天下は分崩し、ある者は一方に割拠し、ある者は改めて王朝を立てました。臣は先人の基業を継ぎ、江南の地を領有しておりますが、烏の棲み処が定まらぬのを見て、いずれに依拠すべきかを知りませぬ。今や天命は既に帰する所あり、声威教化は四方に遠く及びます。願わくば、両浙・湖南に準じて、恭しく正朔を遵奉し、謹んで疆土を守り、征伐の威勢を収め、後れて臣従する罪を赦されんことを。この小国をして先駆けとなし、外藩の臣たらしめば、遠方を撫でる恩徳、誰か心服せざらんや。」と。また、黄金千両、銀十万両、綾羅緞子二千匹を進献した。孫晟は馮延己に言った。「今回の使者は左相(馮延己)が行くべきである。私が辞退すれば、先帝に背くことになる。」出発後、死を免れ難きを知り、夜半に嘆息して王崇質に言った。「君の家には百人の家族がいる。自ら計らうべきだ。私は熟考の上、ついに永陵(南唐先主李昪の陵墓)の一捧の土を裏切ることはない。その他は知らぬ。」と。

南漢の甘泉宮使・林延遇は、陰険で謀略に富み、南漢主はこれに依り頼み信任した。諸弟を誅殺したのは、全て林延遇の謀略であった。乙未日(初二)、林延遇が死去し、南漢の国人は互いに慶賀した。林延遇が病重かった時、内給事の龔澄枢を推挙して自らの後任とさせた。南漢主は即日、龔澄枢を抜擢して承宣院と内侍省を掌管させた。龔澄枢は番禺の人である。

光・舒・黄招安巡検使・行光州刺史の何超は、安・随・申・蔡四州の軍数万人を率いて光州を攻撃した。丙申日(初三)、何超は南唐の光州刺史・張紹が城を棄てて逃亡し、都監の張承翰が城を献じて投降したと奏上した。

丁酉日(初四)、行舒州刺史の郭令図が舒州を攻め取った。南唐の蕲州将・李福は知州の王承巂を殺害し、全州を率いて来降した。朝廷は六宅使の斉蔵珍を派遣して黄州を攻撃させた。彰武留后の李彦𫖳は、生来貪欲で暴虐であり、管轄区内の百姓と羌胡が乱を起こし、これを攻撃した。皇上は李彦𫖳を召喚して帰朝させた。

秦州・鳳州が平定された時、皇上は捕虜とした蜀の兵士を赦免して軍籍に編入し、淮南征討に従わせたところ、彼らはまた逃亡して南唐に投降した。癸卯日(初十)、南唐主は表を上奏して百五十人を進献した。皇上は命じて全てを斬首させた。

舒州の人が郭令図を駆逐した。鉄騎都指揮使・洛陽人の王審琦は軽騎兵を選抜して夜襲し舒州を再び奪取し、郭令図はようやく帰還することができた。

馬希崇および王延政の子・王継沂は皆揚州にいた。皇上は詔して彼らを慰問した。

丙午日(十三日)、孫晟らが皇上の駐屯地に到着した。庚戌日(十七日)、皇上は中使を遣わして孫晟を寿春城下に連れて行き、劉仁瞻に会わせて招降させた。劉仁瞻は孫晟を見ると、戎服のまま城上で跪拝した。孫晟は劉仁瞻に言った。「君は国家の厚恩を受けている。門を開いて寇を入れてはならぬ。」皇上はこれを聞いて非常に怒った。孫晟が言った。「臣は南唐の宰相である。どうして節度使に外叛を教えることができましょうか。」皇上はそこで彼を釈放した。

南唐主は李徳明と孫晟を遣わして、皇上に帝号を除き、寿・濠・泗・楚・光・海の六州の地を割譲し、且つ毎年黄金・絹帛百万を進貢することを請い、これによって戦争を止めることを求めた。皇上は淮南の地が既に後周の手に半数帰していること、諸将の捷報が毎日届くことから、長江以北の地を全て得ることを欲し、許可しなかった。李徳明は後周の軍勢が日増しに進むのを見て、上奏した。「唐主は陛下の兵力の斯くも強大なるを知りませぬ。願わくば臣に五日間の猶予を賜い、帰って唐主に報告し、長江以北の地をことごとく献じさせんことを。」皇上はそこでこれを許した。孫晟は機会に乗じて王崇質を李徳明と共に帰らせるよう奏請した。皇上は供奉官の安弘道を派遣して李徳明らを金陵に送らせ、南唐主に賜った詔書には、大要こう述べられていた。「ただ帝号を保存するならば、何ぞ長久の関係を保つに妨げあらん。もし事大国の心を堅うすれば、ついに人を窮地に追い込むことはせじ。」また、「諸州郡が全て帰附するを待ちて、大軍は即座に撤退せん。言はここに至りて、更に多言せず。もし然らずとせば、請う、此より絶つことを。」と。また、南唐の将相に書を賜い、細かに議してより答えるよう命じた。南唐主はまた表を上って謝罪した。

李徳明は力めて皇上の威徳及び軍隊の強盛なるを称え、南唐主に長江以北の地を割譲するよう勧めた。南唐主は喜ばなかった。宋斉丘は、割地は益無く、李徳明は軽薄であり、言は多く誇大で実を伴わぬとし、南唐の国人も彼を信じなかった。枢密使の陳覚と副使の李征古は、かねてより李徳明と孫晟を憎み、王崇質に言葉を変えさせ、そこで唐主に讒言した。「李徳明は国家を売りて私利を図る。」唐主は大いに怒り、李徳明を市朝に斬らせた。

呉程は常州を攻撃し、その外城を破り、南唐の常州団練使・趙仁沢を捕虜として銭唐に送った。趙仁沢は呉越王・銭弘俶に拝せず、盟約に背くことを責めた。銭弘俶は怒り、その口を耳の辺りまで裂いた。元徳昭はその忠義を憐れみ、良薬を施して、死を免れさせた。

南唐主は、呉越の軍が常州に在るため、潤州を侵逼することを恐れ、宣・潤大都督・燕王・銭弘冀が若く、軍事に熟せざることを案じ、彼を金陵に召還した。部将の趙鐸は銭弘冀に言った。「大王は元帥にして、衆心の依る所なり。もし擅に退縮して帰らば、統率する所の軍は必ず乱れん。」銭弘冀はその言を是とし、召還を辞退して受けず、諸将を部署し、戦守の備えを為した。龍武都虞候・柴克宏は、柴再の子である。人となり沈黙にして寡言、施しを好み、家産を営まず、宮廷の警衛を掌るといえども、日々賓客と博戯・囲碁・飲酒し、軍事を語らず、当時の人は彼を将帥の器に非ずとなした。この時に至り、ある人が柴克宏は久しく昇進せずと説き、南唐主は彼を撫州刺史に任命した。柴克宏は戦場にて死を遂げんことを請い、その母もまた表を上り、柴克宏は父の風範有り、将と為すべし、もし任に堪えずんば、家族を共に誅せらるるも甘んじて受く、と述べた。南唐主はそこで柴克宏を右武衛将軍に任命し、軍を率いて袁州刺史・陸孟俊と合流し常州を救援させた。

当時、南唐の精鋭部隊は全て長江以北にあり、柴克宏の率いる数千人は皆老弱の兵で、枢密使李征古はさらに腐り虫食われた鎧や兵器を彼らに支給した。柴克宏が李征古に申し立てると、李征古は傲慢に罵り、皆が憤慨したが、柴克宏は平然としていた。潤州に到着すると、李征古は使者を派遣して彼を呼び戻し、神衛統軍朱匡業を後任としようとした。燕王銭弘冀は柴克宏に言った。「あなたはただ前進して戦いなさい。私が自ら上奏して論じよう。」そこで上表して、柴克宏の才略は成功を収めることができ、常州は危機に瀕しており、途中で主将を交代するのは適切ではないと述べた。柴克宏は軍を率いて常州へ直行した。李征古は再び使者を派遣して彼を呼び戻そうとしたが、柴克宏は言った。「私は日数を計算して敵を撃破できる。お前が私を呼び戻しに来るのは、必ずや奸人だ!」と命じて使者を斬らせた。使者は言った。「私は李枢密の命を受けて来たのだ。」柴克宏は言った。「たとえ李枢密が自ら来ようとも、私が斬るのだ!」

当初、鮑修讓と羅晟は福州にいた時、呉程と確執があったが、この時になって呉程が彼らを抑圧したため、両名は皆恨みを抱いていた。それより先に、南唐主は中書舎人の喬匡舜を呉越に使者として派遣した。壬子の日(十九日)、柴克宏は常州に到着し、帳幕で船を覆い、甲士を船中に隠し、喬匡舜を迎えると称した。呉越の巡邏兵がこれを報告すると、呉程は言った。「両軍が交戦中であっても、使者はその間を往来できる。みだりに疑ってはならない。」南唐兵が上陸し、真っ直ぐに呉越軍営に迫った。羅晟は全力で戦わず、彼らを放任して呉程の軍帳に突入させたため、呉程は辛うじて自身だけが逃れた。柴克宏は呉越軍を大敗させ、首級一万を斬った。朱匡業が行営に到着すると、柴克宏は彼に対して非常に恭しく振る舞った。呉程は銭唐に帰り、呉越王銭弘俶は彼の全ての官職を剥奪した。

甲寅の日(二十一日)、蜀主は捧聖控鶴都指揮使李廷珪を左右衛聖諸軍馬歩都指揮使に任命し、衛聖・匡聖の歩騎を分けて左右十軍とし、武定節度使呂彦琦らを軍使に任命し、李廷珪に総管させた。これは趙廷隱の職任と同様であった。

当初、柴克宏は宣州巡検使を務めていたが、任に就いたばかりの時、城壁や堀は修繕されておらず、器械は全て欠損していた。官吏が言った。「田𫖳、王茂章、李遇が相次いで叛乱を起こして以来、後任の者は誰もこれらを修治しようとしません。」柴克宏は言った。「時代が変われば事柄も異なる。どうしてそのような理屈があろうか!」全てを修繕し終えた。そのため路彦銖が宣州を攻撃したが攻略できず、呉程の敗戦を聞いて、乙卯の日(二十二日)、軍を率いて撤退した。南唐主は柴克宏を奉化節度使に任命した。柴克宏はまた兵を率いて寿州を救援するよう願い出たが、到着しないうちに死去した。

河陽節度使白重賛は、天子が南征しているため、北漢が隙に乗じて侵入することを憂慮し、守城の設備を修繕して整え、さらに西京に援兵を要請した。西京留守王晏は当初援兵を与えなかったが、後に事態が非常時になる可能性を考慮し、自ら軍を率いて河陽に赴いた。白重賛は王晏が詔勅を受けずに自ら来たため、彼を拒否して受け入れず、人を遣わして言った。「令公は以前陝州に在任された際、すでに大功を立てられました。河陽は小城であり、ご足労いただくまでもありません。」王晏は恥じて帰還した。孟州・洛州の民衆は、数日間にわたって驚き騒ぎが収まらなかった。

南唐主は諸道兵馬元帥斉王李景達に命じて軍を率いて後周に抵抗させ、陳覚を監軍使、前武安節度使辺鎬を応援都軍使に任命した。中書舎人韓熙載は上書して言った。「信任について言えば、親王ほど信頼できるものはなく、重要性について言えば、元帥ほど重要なものはありません。どうして監軍使を設置する必要がありましょうか!」南唐主は聞き入れなかった。鴻臚卿潘承祐を泉州・建州に派遣して骁勇の者を募らせた。潘承祐は前永安節度使許文稹、静江指揮使陳徳誠、建州の人鄭彦華、林仁肇を推薦した。南唐主は許文稹を西面行営応援使に任命し、鄭彦華と林仁肇はいずれも将領となった。林仁肇は林仁翰の弟である。

夏四月、甲子の日、侍衛新軍都指揮使・帰徳節度使李重進を廬州・寿州等州招討使に任命し、武寧節度使武行徳を濠州城下都部署に任命した。

南唐の右衛将軍陸孟俊は常州から一万あまりの兵を率いて泰州に向かった。後周の軍は逃走し、陸孟俊は再び泰州を奪い、陳徳誠を派遣して泰州を守らせた。陸孟俊は揚州を攻撃し、蜀岡に駐屯した。韓令坤は揚州を放棄して逃走した。後周の世宗は張永徳に命じて軍を率いて彼を救援させ、韓令坤は再び揚州に入った。世宗はさらに太祖皇帝に命じて軍を率いて六合に駐屯させた。太祖皇帝は命じて言った。「揚州の兵で六合を通過する者があれば、その足を切断せよ!」韓令坤はこれによりようやく固守の決意を固めた。

世宗は自ら寿春に来て以来、諸軍に命じて昼夜攻城させたが、長期間攻略できなかった。折悪しく大雨が降り、軍営の中に水が数尺も溜まり、攻城器械や兵士の損害が多く、糧食の輸送も途絶えがちになり、李徳明は期限を過ぎても到着しなかったため、帰還を議した。ある者が世宗に、東へ向かって濠州に行き、寿州はすでに陥落したと揚言するよう勧めた。世宗はこの建議を聞き入れた。己巳の日、世宗は寿春から淮河に沿って東へ進み、乙亥の日、濠州に到着した。

韓令坤は城東で南唐軍を破り、陸孟俊を擒えた。当初、陸孟俊が馬希萼を廃して馬希崇を立てた時、元舒州刺史楊昭恽の一族を滅ぼし、その財産を奪った。楊家には美しい娘がおり、馬希崇に献上された。韓令坤が揚州に入ると、馬希崇は楊氏を韓令坤に贈り、韓令坤は彼女を寵愛した。陸孟俊を擒えた後、彼を刑具に掛けて世宗のもとへ送ろうとした。楊氏が簾の後ろにいて、突然胸を打って痛哭した。韓令坤が驚いて問うと、彼女は答えて言った。「陸孟俊はかつて潭州で、妾の一族二百人を殺しました。今彼を見ましたので、どうか命を償って復讐させてください。」韓令坤はそこで陸孟俊を殺した。

南唐の斉王李景達は二万の兵を率いて瓜歩から長江を渡り、六合から二十数里のところに陣営を設けて、進まなかった。諸将は攻撃しようとしたが、太祖皇帝は言った。「彼らが陣営を設けて自らを固めるのは、我々を恐れているからだ。今我が軍の兵力は二千に満たない。もし攻撃に向かえば、彼らに我々の兵力の少なさを見せることになる。彼らが攻めて来るのを待ってから攻撃すれば、必ず打ち破ることができる!」数日後、南唐が兵を出して六合に向かって来た。太祖皇帝は奮撃し、南唐軍を大敗させ、殺傷・捕虜は五千人近くに上った。残兵はなお一万余人おり、逃げて長江を渡る際、船を争って溺死した者が非常に多く、南唐の精鋭兵は全て失われた。

この戦いで、全力で戦おうとしない兵士がいた。太祖皇帝は督戦を装い、剣で彼らの皮の斗笠を斬った。翌日、全ての皮の斗笠を調べると、数十人の斗笠に剣の跡があった。全員を斬首し、これ以降、部下の兵士で死力を尽くさない者はいなかった。それより先に、南唐主は揚州が失陥したと聞き、周辺に命じて兵を出して揚州を奪還させた。己卯の日、韓令坤は湾頭堰で楚州の一万余りの兵を破り、漣州刺史秦進崇を擒えたと奏上した。張永徳は曲溪堰で泗州の一万余りの兵を破ったと奏上した。

丙戌の日、宣徽南院使向訓を淮南節度使兼沿江招討使に任命した。渦口から新しく造った浮橋が完成したと奏上があった。丁亥の日、世宗は濠州から渦口へ向かった。世宗は意気盛んで、自ら揚州に行こうとしたが、范質らは兵士が疲弊し食料が不足しているとして、泣いて諫めたため中止した。世宗はかつて翰林学士竇儀を怒り、殺そうとしたことがあった。范質が宮中に入って彼を救おうとした。世宗は遠くから彼を見て、その意図を悟り、すぐに立ち上がって避けた。范質は急ぎ足で前に進みひれ伏し、頭を地に打ち付けて諫めて言った。「竇儀の罪は死に値するものではありません。臣は宰相でありながら、陛下に近臣を枉殺させようとしており、その罪は全て臣にあります。」そして泣き出した。世宗の怒りは解け、遂に竇儀を釈放した。

北漢は神武帝を交城の北山に葬り、廟号を世祖とした。

五月、壬辰朔の日、渦口を鎮淮軍に設置した。

丙申の日、南唐の永安節度使・陳誨は南台江にて福州兵を破り、捕虜と斬首は千人を超えた。南唐の主は永安軍を改めて忠義軍と名付けた。陳誨は陳徳誠の父である。

戊戌の日、世宗は侍衛親軍都指揮使・李重進らを留めて寿州を包囲させ、自らは渦口から北へ帰還し、乙卯の日、大梁に到着した。

六月、壬申の日、淮南各州の在監囚人を赦免し、李氏の不合理な賦税徭役を廃止した。事情が民に不利なものは、地方長官に委ねて朝廷に上奏させた。

侍衛歩軍都指揮使・彰信節度使・李継勲は寿州城の南に営寨を築いた。南唐の劉仁瞻は李継勲に備えがないと偵知し、兵を出してこれを攻撃し、兵士数百人を殺し、その攻城具を焼き払った。

南唐の駕部員外郎・朱元は政事を奏上する機会に乗じて用兵の方略を論じた。南唐の主は彼に才能があると認め、軍を率いて長江以北の各州を回復するよう命じた。

秋、七月、辛卯朔の日、周行逢を武平節度使とし、武安・静江等の軍事を制置させた。周行逢は湖・湘地区を兼管した後、先人の弊政を矯正し、民事を心を込めて処理し、馬氏の横暴な徴税をことごとく廃止した。貪欲な官吏や奸猾な民で民衆の害となる者は、すべて排除し、廉潔公平な官吏を選んで刺史・県令とした。朗州の民は夷人と雑居し、劉言・王逵の旧来の将兵は多くが驕横であったが、周行逢は一律に法で処罰し、一切寛恕しなかったため、人々は怨みかつ恐れた。ある大将がその同党十数人と謀反を企てた。周行逢はこのことを知り、大いに諸将を召集し、座中で彼らを捕らえた。叱責して言うには「我は粗衣粗食に甘んじ、倉庫を充実させてきたのは、まさに汝らのためである。何の不義があって叛こうとするのか!今日の宴は、汝らとの訣別である!」即座に棍棒で打ち殺し、座中の者は両脚を震わせた。周行逢は「諸君に罪はない。それぞれ自ら安心せよ」と言い、愉快に酒を飲んで終えた。周行逢は多く権謀術数を有し、隠れた奸邪を見抜くのに巧みで、将兵に謀反や叛逃亡の企てがあれば、必ず先に察知して捕らえ殺したため、その部下は皆彼を畏れた。しかし彼は生来猜疑心が強く残忍で、しばしば人を分派して秘密裏に各州の事務を偵察させた。邵州に派遣された者は、報告すべき事がなく、「刺史の劉光委がたびたび宴会を開いております」とだけ言った。周行逢は「劉光委がたびたび衆を集めて酒宴を開くのは、我を害そうとしているのか!」と言い、直ちに召し返して殺した。親衛指揮使・衡州刺史・張文表は罪を招くことを恐れ、自分の治所に帰ることを請うた。周行逢はこれを許した。張文表は節句ごとに進献する贈り物が非常に豊かで、かつ謹んで周行逢の側近に仕えたため、かろうじて禍を免れた。周行逢の妻・邠国夫人・鄧氏は、容貌は醜いが剛強果断で、生計を営むのに巧みであり、かつて周行逢に法が厳しすぎて人は親しみ寄り付かないと諫めたことがあった。周行逢は怒って「お前ごとき女が何を知る!」と言った。鄧氏は不快に思い、そこで郷村の別荘に行って田園を管理するよう請い、以降官府の舎には戻らなかった。周行逢はたびたび人を遣って迎えさせたが、彼女は戻らなかった。ある日、彼女は自ら僮僕を率いて租税を納めに来た。周行逢は彼女に会い、「私は節度使である。夫人は何ゆえにこのように自ら苦労するのか」と言った。鄧氏は「租税は官の財物でございます。あなたが節度使でありながら、まず租税を納めなければ、何をもって部下の模範となりましょうか。それにあなたはかつて里正を務め、人のために租税を納めて鞭打ちを免れた頃を覚えておられないのですか」と言った。周行逢は彼女と共に帰ろうとしたが、彼女は肯かず、「あなたの誅殺はあまりに過酷です。私は常に万一変事が起きることを恐れており、郷村の別荘は逃げ隠れしやすいからでございます」と言った。周行逢は恥じ入り怒ったが、その僚属が「夫人の言葉は正しい。あなたは採用されるべきです」と言った。

周行逢の女婿・唐徳は官職に補任されるよう請うた。周行逢は「汝の才能は官職に堪えない。今私が私情で汝を遇することはできよう。しかし汝が官に就いて政績がなければ、私が私情のために法を枉げて汝を許すことはできず、そうなれば親戚としての恩情も絶たれる」と言い、牛と農具を与えて追い返した。

周行逢は若い頃、かつて事件に連座して顔に刺青を施され、辰州の銅坑で労役に服したことがあった。ある人が周行逢に「あなたの顔には刺青があります。恐らく朝廷の使者に笑われるでしょう。薬でそれを取り除くようお勧めします」と言った。周行逢は「我は漢の黥布が英雄となるのを妨げなかったと聞く。我に何の恥があるのか」と言った。

劉言・王逵以来、たびたび兵を起こし、将吏で功績を積んだ者や懐柔された蛮夷の首領で、検校官が三公に達した者は千をもって数えるほどであった。かつての天策府学士・徐仲雅は、馬希広が廃されて以降、門を閉ざして出仕しなかった。周行逢は彼を慕い、節度判官に任命した。徐仲雅は「周行逢はかつて我に仕えた者だ。どうして我がその幕僚となれようか」と言い、病を理由に辞して赴任しなかった。周行逢は逼迫脅迫して強く召し出し、面会して公文を授けたが、彼はついに辞退して受けなかった。周行逢は怒り、彼を邵州に流したが、間もなく呼び戻した。ちょうど周行逢の誕生日に当たり、各道はそれぞれ使者を派遣して祝賀に来た。周行逢は顔に驕りの色を浮かべ、徐仲雅に「我が三鎮を兼管して以来、四隣も我を恐れるか」と言った。徐仲雅は「侍中、あなたの境内は、天が太保で満ち、地が司空で溢れております。四隣がどうして恐れないことがありましょうか」と言った。周行逢は再び彼を邵州に流したが、最終的に屈服させることはできなかった。ある僧・仁及という者がおり、周行逢の信任を得て、軍府の事務にすべて参与し、また検校司空の官を加えられ、数人の妻を娶り、出入りする際の先導や随従は王公のようであった。

辛亥の日、宣懿皇后・符氏が亡くなった。

南唐の将・朱元は舒州を攻め取り、刺史・郭令図は城を棄てて逃げた。李平は蕲州を攻め取った。南唐の主は朱元を舒州団練使、李平を蕲州刺史に任命した。朱元はまた和州を攻め取った。

当初、南唐人は茶・塩を用いて強制的に民に交換させ、その糧食・布帛を徴収し、これを「博征」と称した。また淮南で営田を興し、民はそれを非常に苦しめられた。後周の軍が到来すると、民は我先に牛肉・美酒を献じて迎え労った。しかし後周の将帥は民を恤まず、もっぱら捕虜や掠奪に専念し、民を泥土や草芥のように見なした。民は皆失望し、山林湖沢に集まって堡塁を築いて自ら固守し、農具を武器とし、紙を積んで鎧とし、当時の人々は彼らを「白甲軍」と呼んだ。後周の軍は彼らを征討したが、たびたび敗れ、先に奪取した南唐の各州の多くはまた南唐に占領された。南唐の援兵は紫金山に駐屯し、寿春城内の烽火と互いに呼応した。淮南節度使・向訓は上奏して、広陵の兵力を率いて合力して寿春を攻め、城を陥落させた後、さらに進取を図るよう請うた。世宗は詔してこれを許可した。向訓は府庫を封印して揚州の主管官に委ね、揚州の牙将に命じて城中をそれぞれ巡察させ、秋毫も犯さなかった。揚州の民は感激して喜び、軍が帰還する際、ある者は乾糧や食物を背負って彼らを送った。滁州の守将も城を棄てて去り、皆軍を率いて寿春に急行した。

南唐の将たちは険要の地を占拠して周軍を阻止するよう請うたが、宋斉丘は「もしそうすれば、双方の恨みはさらに深まる。彼らを通過させ、恩をもって敵に臨めば、戦争は解決しやすくなろう」と言った。そこで諸将にそれぞれ守備させ、擅自に兵を出して周軍を攻撃することを禁じた。このため寿春の包囲はますます危急となった。斉王・李景達は濠州に駐軍し、遠くから寿州に声援を送ったが、軍政の大権はすべて陳覚が掌握し、李景達はただ文書の末尾に署名するのみであった。彼は五万の軍を擁しながら決戦の意図はなく、将吏は皆陳覚を恐れ、誰も発言する者がいなかった。

八月、戊辰の日、端明殿学士・王朴、司天少監・王処訥は『顕徳欽天暦』を編纂し、皇帝に進献した。皇帝は詔して、明年から施行するよう命じた。

殿前都指揮使・義成節度使の張永徳は下蔡に駐屯し、南唐の将林仁肇が水陸の軍を率いて寿春を救援した。張永徳がこれと戦うと、林仁肇は船に柴草を満載し、風に乗って火を放ち、下蔡の浮橋を焼き払おうとした。まもなく風向きが変わり、南唐軍は敗れて撤退した。張永徳は千余尺の鉄鎖を作り、浮橋から十余歩のところで淮河の水流を横に断ち切り、巨大な木で繋ぎ止めた。これにより南唐軍は近づくことができなくなった。

九月、丙午の日、端明殿学士・左散騎常侍・開封府事務代理の王朴を戸部侍郎とし、枢密副使を兼任させた。

冬、十月、癸酉の日、李重進が南唐人は盛唐を侵犯し、鉄騎都指揮使の王彦升らがこれを撃破し、斬首三千余級と上奏した。王彦升は蜀の人である。

丙子の日、皇帝は侍従の大臣に言った。「近代の朝廷は食糧や布帛を徴収するにあたり、多くが収穫や機織りの完了を待たなかった。」そこで三司に詔を下し、以来、夏税は六月から、秋税は十月から徴収を始めることとした。民間はこれを非常に便利とした。

山南東道節度使・守太尉兼中書令の安審琦は襄州に十余年鎮守し、この時に入朝し、守太師に任命され、その後、鎮守地に帰された。出発した後、皇帝は宰相に問うた。「卿らは彼を見送ったか?」答えた。「城南まで送りました。安審琦は聖上の恩徳に深く感謝しておりました。」皇帝は言った。「近代の朝廷は多くが誠実をもって諸侯に臨まず、諸侯はたとえ忠誠を尽くそうとしても、その道がなかった。君主がただ信義を失わなければ、諸侯が心を寄せないことをどうして憂えようか。」

壬午の日、張永徳が下蔡で南唐軍を破ったと上奏した。この時、南唐が再び水軍をもって張永徳を攻撃したため、張永徳は夜間に泳ぎの巧みな者に命じて彼らの船の下に潜らせ、鉄鎖で船を繋ぎ、その後兵を派遣して攻撃した。船は進退できず、溺死者が多かった。張永徳は金帯を解いて泳ぎの巧みな者に賞与した。

甲申の日、太祖皇帝(趙匡胤)を定国節度使兼殿前都指揮使に任命した。太祖皇帝は表を上奏し、渭州軍事判官の趙普を節度推官に推薦した。

張永徳と李重進は仲が悪く、張永徳は密かに表を上奏し、李重進に異心があると述べたが、皇帝は信じなかった。当時、両将はそれぞれ重兵を擁し、衆人の心は憂慮と恐れに満ちていた。ある日、李重進が単独で馬に乗り張永徳の軍営に到り、雍容に宴を共にし、張永徳に言った。「私はあなたと幸いにも至親として共に将帥となりました。どうしてこのように互いに猜疑し合うのでしょうか。」張永徳の心はようやく解け、衆人の心も安らかになった。南唐国主はこれを聞き、蠟書をもって李重進に送り、厚利で誘惑した。その手紙にはすべて誹謗と離間の言葉が記されており、李重進はその手紙を上奏した。

初め、南唐の使者孫晟と鍾謨は皇帝に従い大梁に至り、皇帝は彼らを厚く遇し、朝会のたびに中書省の官員の後に列させた。しばしば召し出しては醇酒を賜り、南唐の情況を尋ねた。孫晟はただ「南唐国主は陛下の神武を畏れ、陛下に仕えるに二心はございません」とだけ言った。南唐の蠟書を得るに及んで、皇帝は非常に怒り、孫晟を召し出し、その回答が実を帯びていないと責めた。孫晟は神色厳粛に直言して抗弁し、ただ死を求めた。皇帝が南唐の虚実を問うも、彼は黙して答えなかった。十一月、乙巳の日、皇帝は都承旨の曹翰に命じて孫晟を右軍巡院に送らせ、再び皇帝の意をもって問わせた。曹翰は彼と数巡酒を飲み、雍容に問うたが、孫晟は終に言わなかった。曹翰はそこで彼に言った。「敕令あり。相公に死を賜う。」孫晟は神色安らかに、鞋と笏板を請い、衣冠を整え、南に向かって再拝して言った。「臣、謹んで死を以て国に報いん。」そして刑に処された。その従者百余りも共に殺され、鍾謨は耀州司馬に左遷された。ほどなく皇帝は孫晟の忠節を憐れみ、彼を殺したことを悔い、鍾謨を召し出し、衛尉少卿に任命した。

皇帝は華山の隠士・真源人の陳摶を召し出し、飛昇や錬金の術について問うた。陳摶は答えた。「陛下は天子の身であり、天下を治めるを以て要務とすべきです。どうしてこれらを要しましょうか。」戊申の日、山に帰し、州県の長官に時に応じて彼を訪ねるよう詔を下した。

十二月、壬申の日、張永徳を殿前都点検に任命した。

それぞれ中使に命じ、陳・蔡・宋・亳・穎・兗・曹・単等の州の丁壮数万人を発し、下蔡の城を築かせた。

この年、南唐国主は詔を下し、淮南の営田で民に害が特に大きいものを廃止した。兵部郎中陳処堯に厚い礼物を持たせ、海を渡って契丹に出兵を請わせた。契丹は彼のために出兵できず、かつ陳処堯を留めて帰さなかった。陳処堯は剛直で弁舌に優れ、久しくして心中に憤りを抱き、たびたび面と向かって契丹国主を責めたが、契丹国主も彼を咎めなかった。

蜀の陵州・栄州の獠人が叛き、弓箭庫使の趙季文が討って平定した。

呉越王銭弘俶は境内の民を徴発して魚を捕らせ、騒擾や労役が多く、明州刺史銭弘億は自ら筆を執って上疏し、懇切に諫めたため、遂に中止した。

世宗睿武孝文皇帝中 顕徳四年(丁巳、九五七年)

春、正月、己丑朔の日、北漢は大赦し、年号を天会と改めた。翰林学士衛融を中書侍郎・同平章事とし、内客省使段恒を枢密使とした。

宰相はたびたび皇子を王に立てるよう請うた。皇帝は言った。「諸子は皆なお幼く、かつ功臣の子にはまだ恩が与えられていない。それなのに独り先に我が子に爵を封ずれば、彼らは自ら心安らかであり得ようか。」

周軍は寿春を包囲し、連年攻め落とせず、城中の食糧も尽きた。斉王李景達は濠州から応援使・永安節度使許文稹、都軍使辺鎬、北面招討使朱元に数万の兵を率いさせ、淮河を遡って救援に向かわせ、紫金山に駐屯させた。十余の寨を連珠のように並べ、城中とは昼夜烽火をもって呼応し、さらに甬道を築いて寿春に達せしめ、糧食を城中に運び入れようとし、その長さは数十里に及んだ。寿春に至らんとした時、李重進が邀撃し、大いにこれを破り、五千人を殺し、二つの寨を奪い取った。丁未の日、李重進は捷報を上奏した。戊申の日、皇帝は詔を下し、来月自ら淮河上に親征すると言った。劉仁瞻は辺鎬に城を守らせ、自ら軍を率いて決戦するよう請うたが、斉王李景達は許さず、劉仁瞻は憤懣憂鬱のまま病に陥った。その幼子劉崇諫が夜間に船で淮河を北岸に渡ろうとし、小校に捕らえられた。劉仁瞻は命じて腰斬せしめ、左右の者で敢えて救う者はなく、監軍使周廷構が中門で泣いて助命を請うたが、劉仁瞻は許さなかった。周廷構はまた人を遣わして夫人に助命を請うた。夫人は言った。「私は崇諫を愛さないわけではない。しかし軍法は私情によって曲げられず、名節は虧かれるべきではない。もし彼を許せば、劉家は忠ならざる家門となり、私と夫は何の面があって将士たちに顔を向けられようか。」急ぎ命じて斬らせ、その後、彼のために喪を営ませた。将士たちは皆、感じて涙を流した。

論ずる者は南唐の援軍がなお強大であるとし、多くが兵を撤収するよう請うたが、皇帝はこれに決断できずにいた。李谷は病に臥していた。二月、丙寅の日、皇帝は范質と王溥を遣わして彼の家に行き、ともに謀らせた。李谷は上疏し、次のように述べた。「寿春は危急困頓し、陥落は早晩の間にあります。もし陛下が親征されれば、将士は争って奮い立ち、援軍は驚愕し、城中は必ず滅びることを知り、必ずや攻め落とせましょう。」皇帝は大いに喜んだ。

庚午の日、詔を下して関係官庁に祭器や祭玉などを新たに作らせ、国子博士聶崇義に命じて制度を討論研究させ、図を作らせた。

甲戌の日、王朴を東京留守兼開封府事務管理に任命し、三司使張美を大内都検、侍衛都虞候韓通を京城内外都検とした。乙亥の日、皇帝は大梁を出発した。これに先立ち、周と南唐が戦い、南唐の水軍は精鋭で機敏であり、周人は対抗できず、皇帝は常にこれを遺憾に思っていた。寿春から帰還後、大梁城西の汴水のほとりに数百艘の戦艦を建造し、南唐の降卒に北方人への水戦の訓練を命じ、数ヶ月の後、周軍の水軍は縦横無尽に出入りし、ほとんど南唐軍を凌駕した。この時、右驍衛大将軍王環に命じて数千の水軍を率い、閔河から潁水を経て淮河に入らせた。南唐人これを見て大いに驚愕した。

乙酉の日、皇帝は下蔡に到着した。三月、己丑の夜、皇帝は淮河を渡り、寿春城下に到着した。庚寅の朝、皇帝は自ら鎧を着け、紫金山の南に軍を駐屯させ、太祖皇帝に命じて南唐の前鋒営塁と山北の一つの営塁を攻撃させ、いずれも破り、三千余人を斬獲し、その甬道を断ち、ここにおいて南唐軍は首尾相救うことができなくなった。夕方に至り、皇帝は兵を分けて諸営塁を守らせ、下蔡に帰還した。

南唐の朱元は戦功を恃み、元帥の調度にしばしば逆らった。陳覚は朱元と仲違いしており、たびたび上表して朱元は変わりやすく、兵を率いさせるべきではないと述べた。南唐国主は武昌節度使楊守忠を派遣して彼の代わりとさせた。楊守忠が濠州に到着すると、陳覚は斉王李景達の命と称し、朱元を濠州に召して事を議し、その兵権を奪おうとした。朱元はこれを聞き、大いに怒り、自殺しようとした。その門客の宋という者が朱元を諫めて言った、「大丈夫たる者、どこに行っても富貴を求められよう。何ぞ妻子のために死するに及ばんや」。辛卯の夜、朱元は先鋒壕寨使朱仁裕らと共に全営一万余人を率いて投降した。副将時厚卿は従わず、朱元はこれを殺した。

世宗は後唐の残兵が淮水に沿って東方に潰走することを憂慮し、急ぎ虎捷左厢都指揮使趙晁に命じて数千の水軍を率い、淮水に沿って下らせた。壬辰の朝、世宗は趙步に駐軍し、諸将は後唐の紫金山寨を攻撃し、大いにこれを破り、殺傷・捕虜は一万余人、許文稹、辺鎬、楊守忠を擒えた。残兵は果たして淮水に沿って東方に逃走し、世宗は趙步から数百騎を率いて北岸に沿って追撃し、諸将は歩兵・騎兵を率いて南岸に沿って追撃し、水軍は淮水の中央を順流して下り、後唐兵の戦死・溺死・投降した者はおよそ四万人、船艦・食糧・器械を十万計で鹵獲した。申の時、世宗は疾駆して荊山洪に至り、趙步から二百余里の距離であった。当夜、鎮淮軍に駐屯した。癸酉の日、従者の官員がようやく到着した。劉仁瞻は援軍の敗報を聞き、咽喉を扼して嘆息した。甲午の日、近隣の県邑から数千人の丁夫を徴発して鎮淮軍城を築かせ、二つの城を建造して淮水を挟み、下蔡の浮橋を両城の間に移設し、濠州・寿州の応援の道を扼守した。折から淮水が増水し、後唐の濠州都監彭城人郭廷謂は水軍を率いて淮水を遡上し、その不意を衝いて浮橋を焼却しようとした。右龍武統軍趙匡贊がこれを察知し、伏兵を設けて邀撃し、これを破った。

後唐の斉王李景達と陳覚はいずれも濠州から金陵に逃げ帰り、ただ静江指揮使陳徳誠のみが全軍を率いて帰還した。

戊戌の日、淮南節度使向訓を武寧節度使・淮南道行営都監とし、軍を率いて鎮淮軍を戍守させた。

己亥の日、世宗は鎮淮軍から再び下蔡に赴いた。庚子の日、劉仁瞻に詔書を賜い、自ら禍福を選択させた。

後唐主は自ら諸将を督率して後周に対抗することを議したが、中書舎人喬匡舜が上疏して懇切に諫めた。後唐主は彼が士気を沮喪させたとし、撫州に流した。後唐主は神衛統軍朱匡業、劉存忠に守禦の策について問うた。朱匡業は羅隠の詩を誦して言った、「時来たれば天地も力を同じくし、運去れば英雄も自ら由ならず」。劉存忠は朱匡業の言を是とした。後唐主は怒り、朱匡業を撫州副使に貶め、劉存忠を饒州に流した。その後まもなく、後唐主はついに自ら出兵する勇気がなかった。

甲辰の日、世宗は寿春城北で兵力を炫耀した。後唐の清淮節度使兼侍中劉仁瞻は病重く、人事不省となった。丙午の日、監軍使周廷構、営田副使孫羽らは劉仁瞻の表章を偽造し、使者を派遣して表章を捧げて投降してきた。丁未の日、世宗は劉仁瞻に詔書を賜い、閣門使万年人張保続を派遣して城に入り宣旨告諭させた。劉仁瞻の子劉崇譲はまた城を出て謝罪した。戊申の日、世宗は大いに軍隊を陳列し、寿春城北で投降を受け入れた。周廷構らは劉仁瞻を輿に乗せて城から出した。劉仁瞻は横たわって起き上がることができなかった。世宗は慰労し賞賜し、また城に入れて養病させた。

庚戌の日、寿州の治所を下蔡に移し、州内の死刑以下の罪囚を赦免した。州民のうち、後唐の文書を受け取って山林に集結していた者たちには、すべて本業に復させるよう命じ、もはや罪に問わなかった。かつて彼らに殺傷された者がいても、恨みや訴訟を起こしてはならなかった。以前の政令で民に不利なものがあれば、本州に逐条上奏するよう命じた。辛亥の日、劉仁瞻を天平節度使兼中書令とし、制書の文辞はおおむね次のように言った、「その事える君に忠を尽くし、節操を保ち虧くることなし。前代の名臣も、幾人か比肩し得よう。朕叛逆を討ち、汝の如き忠臣を得ること多し」。同日、劉仁瞻は死去し、位を追賜して彭城郡王とした。後唐主もこれを聞き、追贈して太師とした。世宗はまた清淮軍を忠正軍と改め、劉仁瞻の節操を表彰し、右羽林統軍楊信を忠正節度使・同平章事とした。

前任許州司馬韓倫は、侍衛馬軍都指揮使韓令坤の父である。韓令坤は鎮安節度使を兼任し、韓倫は陳州に居住し、政事に干渉し、貪汚不法で、公家私人の禍患となり、人に告訴された。韓令坤はたびたび泣いてその赦免を求めた。癸丑の日、詔して韓倫の死罪を免じ、沙門島に流した。韓倫は後に赦免を得て帰還し、洛陽に居住し、光禄卿退休の柴守礼ならびに当時の将相王溥、王晏、王彦超の父らと交際し、勢いを恃んで横行し、洛陽の人々は彼らを畏れ、「十阿父」と称した。世宗はすでに太祖の後嗣となっていたため、柴守礼が世宗の実父であることを言う者はなく、ただ大舅として待遇し、厚い俸禄を与えたが、彼は一度も大梁に来ることはなかった。柴守礼はかつて小忿により人を殺したことがあり、関係官憲はあえて追究せず、世宗も知ってはいたが問わなかった。

詔して寿州の倉を開き飢民を救済した。丙辰の日、世宗は北帰した。夏四月、己巳の日、大梁に到着した。

詔して永福殿を修建し、宦官孫延希にこの工事を監督させた。丁丑の日、世宗は工事現場に臨み、役夫の中に木片を削って杓子とし、瓦片の中で食事をしている者を見て、大いに怒り、孫延希を市で斬首した。

世宗が秦州・鳳州を攻略した時、数千の蜀兵を編成して懐恩軍とした。乙亥の日、懐恩軍指揮使蕭知遠らに命じて将士八百余人を率いて西方に帰還させた。壬午の日、李穀は病を抱えて入朝し拝謁した。世宗は彼に跪拝を命じず、御座の旁らに坐らせた。李穀は俸禄と官職を固辞したが、世宗は許さなかった。

甲申の日、江南から投降した兵士を六軍・三十指揮に分け、懐徳軍と号した。

乙酉の日、詔して汴水を疏渫して北に流し五丈河に入れ、ここにおいて斉・魯一帯の船はすべて大梁に直航できるようになった。

五月、丁酉の日、太祖皇帝(趙匡胤)に義成節度使を兼任させた。

詔して律令の文字は古奥にして理解し難く、格勅は繁雑にして統一を欠くと考え、侍御史知雑事張湜らに訓釈させ、詳細に制定して『刑統』とした。

後唐の郭廷謂は水軍を率いて渦口の浮橋を断ち、また定遠で武寧節度使武行徳を襲撃して破り、武行徳はかろうじて一命を取り留めた。後唐主は郭廷謂を滁州団練使とし、上淮水陸応援使を充てさせた。

蜀の人々の多くは、左右衛聖馬歩都指揮使・保寧節度使・同平章事の李廷珪が将として戦いに敗れたため、もはや軍隊を統率すべきではないと述べ、李廷珪自身も辞職を願い出た。六月乙丑の日、蜀の主は李廷珪に検校太尉の官を加え、その軍職を解いた。李太后は、軍隊を統率する者の中に不適任な者が多いため、蜀の主に言った。「私は以前、唐の荘宗が黄河を渡って梁と戦ったことや、先帝が太原にいた時、二つの蜀を平定したのを見ましたが、諸将に大きな功績がなければ、軍隊を統率することは許されず、それゆえ兵士たちは畏れ従いました。今や王昭遠は僕役の出身であり、伊審征、韓保貞、趙崇鈞はいずれも富貴の家の乳臭未乾の小僧で、これまで軍務に習熟しておらず、ただ旧来の恩情によってのみ人々の上に置かれ、平素誰が彼らを諫めることがありましょうか。ひとたび国境に事が起これば、彼らはどうして大敵に耐えられましょうか。私の見るところ、ただ高彦俦のみが太原の旧人であり、ついにあなたを裏切ることはないでしょう。その他の者は、用いるに足る者はいません。」蜀の主は聞き入れなかった。

丁丑の日、前華州刺史の王祚を潁州団練使に任命した。王祚は王溥の父である。王溥が宰相であった時、王祚に客があると、王溥はしばしば朝服を着て傍らに侍立した。客は座っていても落ち着かず、王祚は言った。「豚狗のごとき者、あなたがたが彼のために立ち上がるには及ばない。」

秋七月丁亥の日、世宗は定遠軍と寿春城南の敗戦を処理し、武寧節度使兼中書令の武行徳を左衛上将軍に、河陽節度使の李継勲を右衛大将軍にした。

北漢の主は初めて七廟を建立した。

司空兼門下侍郎・同平章事の李穀は病で臥床すること二年、合わせて九度の上表を重ねて辞職を願ったため、八月乙亥の日、その宰相の職を罷免し、原官を保たせ、月に一度、輿に乗って便殿に参内し、政事の議論に参与するよう命じた。

枢密副使・戸部侍郎の王朴を検校太保とし、枢密使に充てた。

懐恩軍が成都に到着し、蜀の主は梓州別駕の胡立ら八十人を東に送り返し、謝意を記した書簡を添えて、通好を願い出た。癸未の日、胡立らは大梁に到着した。世宗は蜀の主が対等の礼を用いたため、これに返答しなかった。蜀の主はこれを聞いて怒り、言った。「朕が天子として郊外で天地を祀る時、お前はまだ賊をしていたというのに、よくもこのようなことを!」

九月、中書舎人の竇儼は上疏して、関係諸官に命じて古今の礼儀を議論させ、『大周通礼』を制作し、音律を考訂校正して『大周正楽』を制作するよう求めた。また言った。「国家を治める根本は、人材を選抜することより重要なものはなく、人材選抜の重点は、宰相より優先すべきものはありません。唐末以来、名位爵号が軽々しく用いられ、輔佐大臣に任じられたかと思うと、すぐに三公や僕射の官を兼ねました。それゆえ彼らは、官職を得ていない時は、争い追い求めることを心がけ、官職を得た後は、沈黙を守ることを務めとしました。ただ機密や繁雑な政務から逃れ、崇高で尊い官職を守り、林亭の間に逍遥して、宗族を保全することだけを考えています。どうか現任の宰相に命じて、南宮の三品、両省の給事中・中書舎人以上の官の中から、それぞれ知己を推薦させてください。もし陛下が平素その賢能をご存知ならば、自然に抜擢任用することができます。もしまだご存知でなければ、ひとまずその本官のまま、一時的に政務を執らせてください。一年のうちに、その政績を観察し、もし確かに能力が有るならば、その官がすでに高ければ平章事に任じ、官が高くなければさらに少し官を昇進させ、一時的に政務を執らせるのは従来通りとします。もし不適任ならば、その政務を罷免し、推薦者の責任を追及してください。また、朝廷の官列の中には、官位はあっても職事のない者が半数以上います。どうかその才能器量を量って、地方の官職を授け、政事で試し、帰還した後は元の官級で任用し考課し、その治績を調べ、能力があれば昇進させ、無能ならば罷免してください。」また次のように請うた。「盗賊に互いに密告させ、密告された者の家財の半分を密告者に賞与として与えさせてください。あるいは親族が首領となっている場合は、その仲間を追及し、密告された首領は赦免してください。そうすれば、盗賊は集まることができなくなります。また、新鄭の郷村に義営を組織し、それぞれに将佐を設け、一家が盗賊をすれば、その村全体を連座させ、一家が盗賊に遭えば、その村の一将を罰してください。盗賊が発生するたびに、鼓を打ち火を挙げれば、壮丁たちは雲のように集まり、盗賊は少なく民は多いため、逃れることはできません。それゆえ隣県には盗賊が満ちているのに、ただこの一県の境内だけは清平です。どうか他の県にもこの方法を倣わせてください。これもまた盗賊を止める一つの方法です。また、歴代以来、度々詔を下し、民に広く田を耕させることを許し、元の賦税だけを納めさせましたが、彼らが既に耕作した後、関係官は田の面積に従って賦税を増やしたため、民は皆疑い恐れて、田地は開かれませんでした。国を治める上で最も重要なことは、誠実さを厚くすることより他にはありません。誠実さが確立されれば、田地が広がらないことはなく、田地が広がれば穀物が多くなり、穀物が多くなれば、民に蓄えられることは官府に蓄えられるのと同じです。」また言った。「陛下は南方の江淮を討伐し、一度の行動で八州を得、再び出兵して寿春を平定し、威霊の及ぶところ、前に強敵はありません。今や多をもって少を撃ち、治をもって乱を討つのは、形勢上勝てないことはありません。ただ行動は迅速を貴びます。そうすれば、かの地の民は捕虜となり斬首される災いを免れ、こちらの民は輸送の苦労を止めることができるでしょう。」世宗は上疏を見て、非常に良いと考えた。竇儼は竇儀の弟である。

冬十月戊午の日、賢良方正能直言極諫、経学優深可為師法、詳閑吏理達於教化の各科を設けた。

癸亥の日、北漢の麟州刺史楊重訓が城ごと降伏し、麟州防御使に任命した。

己巳の日、王朴を東京留守とし、状況に応じて事を処理することを許した。三司使の張美を大内都点検に充てた。

壬申の日、世宗は大梁を出発した。十一月丙戌の日、鎮淮軍に到着し、この日の夜五更に淮河を渡った。丁亥の日、濠州城の西に到着した。濠州の東北十八里に一つの砂浜があり、南唐人はその上に柵を設け、河水を巡らせて自らを固守し、周軍は必ず水を渡れないと考えていた。戊子の日、世宗は自らこれを攻め、内殿直の康保裔に命じて、鎧を着た兵士数百人を率い、駱駝に乗って水を渡らせ、太祖皇帝が騎兵を率いてその後を続け、ついにこれを攻略した。李重進は濠州の南関城を破った。癸巳の日、世宗は自ら濠州を攻め、王審琦はその水寨を攻略した。南唐人は城北に数百艘の戦船を集め、また淮水の中に巨大な木を立てて周軍を阻もうとした。世宗は水軍に命じて攻撃させ、その木を抜き、戦船七十余艘を焼き、首級二千余を斬り、またその羊馬城を攻略し、城中は震え恐れた。丙申の夜、南唐の濠州団練使郭廷謂は上表して言った。「臣の家族は江南にあります。今もし突然降伏すれば、恐らく南唐に族滅されるでしょう。どうかまず使者を金陵に派遣して報告し、命令を聞いてから、城を出て降伏することを許してください。」世宗はこれを許した。辛丑の日、世宗は南唐が数百艘の戦船を泗水の東に有し、濠州を救援しようとしていると聞いた。自ら軍隊を率いて夜に出発し、水陸両路から彼らを攻撃した。癸卯の日、洞口で南唐軍を大いに破り、首級五千余を斬り、兵二千余人を降伏させ、ついに鼓を進めて東に向かい、至る所を攻略した。乙巳の日、泗州城下に到着し、太祖皇帝がまず城南を攻め、ついに城門を焼き、水寨と月城を破った。世宗は月城の楼上に宿営し、将士を督促して城を攻めさせた。

北漢主は即位以来、国内を安定させることに忙しく、対外征伐を行う暇はなかった。この月、契丹はその大同節度使・侍中崔勳を派遣し、軍を率いて北漢と合流させ、共に侵攻しようとした。北漢主は忠武節度使・を派遣し、軍を率いて彼らと兵を合わせ、南へ潞州に侵攻し、その城下に至って帰還した。北漢主は契丹が頼りにならないことを知っていたが、突然彼らと関係を断つこともできず、崔勳に贈る礼物は非常に手厚いものであった。

十二月、乙卯、南唐の泗州守将范再遇が城ごと降伏した。世宗は范再遇を宿州団練使に任命した。世宗は自ら泗州城下に到り、軍中に命じて薪を刈る者も百姓の田を侵してはならないと禁じた。百姓は皆感激し喜び、争って草や糧食を献上した。泗州を攻略した後も、敢えて城に勝手に入る兵士は一人もいなかった。世宗は南唐の戦船数百艘が洞口に停泊していると聞き、騎兵を派遣して偵察させた。南唐軍は清口に退却して守った。戊午の早朝、世宗は自ら親軍を率いて淮河北岸から進軍し、太祖皇帝に歩兵騎兵を率いて淮河南岸から進軍するよう命じた。諸将は水軍を率いて淮河中流から進軍し、共に南唐軍を追撃した。当時、淮河沿岸には長らく通行人がおらず、葦は織物のように茂り、泥沼や溝が多かったが、兵士たちは勝利の勢いに乗って水を渡り争って前進し、皆疲れを忘れた。庚申、南唐軍に追いつき、戦いながら前進し、金鼓の音は数十里にまで響いた。辛酉、楚州西北に至り、南唐軍を大いに破った。南唐軍の中には淮河に沿って東へ逃走する者があり、世宗は自ら彼らを追撃し、太祖皇帝が先鋒となり、六十里を行軍し、その保義節度使・濠泗楚海都应援使陳承昭を捕らえて帰還した。鹵獲した戦船は、焼き沈めた後もなお三百余艘を得、兵士は殺され溺れた後もなお七千余人を得た。南唐の淮河上の戦船は、ここに至って全て失われた。

郭廷謂の使者が金陵から帰り、南唐が救援できないことを知った。彼は録事参軍鄱陽人の李延邹に命じて降伏の表文を起草させた。李延邹は忠義をもって彼を責めた。郭廷謂は武力で脅したが、李延邹は筆を投げて言った。「大丈夫、ついに国に背くことはない。反臣のために降伏の表文を起草するなど!」郭廷謂は彼を殺し、濠州ごと降伏した。兵士一万人、糧食数万斛を得た。南唐主は李延邹の子に官職を賜った。

壬戌、世宗は淮河を渡り、楚州に到り、城西北に陣営を設けた。

乙丑、南唐の雄武軍使・知漣水県事崔万迪が降伏した。

丙寅、郭廷謂を亳州防御使に任命した。

戊辰、世宗は楚州を攻め、その月城を攻略した。

庚午、郭廷謂が行宮に拝謁した。世宗は言った。「朕が南征して以来、江南の諸将は敗亡が相次いだ。ただお前だけがよく渦口の浮橋を断ち、定遠寨を破り、国家に報いるに足ることをした。濠州のような小城は、李璟自身に守らせても、守りきれるものか!」彼に命じて濠州の軍を率いて天長を攻めさせた。世宗は鉄騎左厢都指揮使武守琦を派遣し、騎兵数百人を率いて揚州に急行させ、高郵に至った。南唐人は揚州の官衙や民家を全て焼き払い、百姓を駆り立てて南へ長江を渡らせた。数日後、周軍が到着した時、城中には年老いた病弱な者十数人しか残っていなかった。癸酉、武守琦がこれを報告した。世宗は泰州に備えがないと聞き、軍を派遣して襲撃させ、丁丑、泰州を攻略した。

南漢の中書侍郎・同平章事盧膺が死去した。

南漢主は南唐が度々敗れたと聞き、憂色を顔に表した。使者を周朝に派遣して貢物を献上しようとしたが、湖南に阻まれた。そこで戦艦を建造し、武備を整えた。程なくして酒に溺れ、言った。「我が身が禍を免れることができれば、それで幸いである。どうして後世のことなど考える暇があろうか!」

南唐の使者陳処堯は契丹にあり、契丹主に請うて南へ太原に遊歴することを許された。北漢主は厚い礼をもって遇した。数日滞在し、北へ帰還したが、ついに契丹で死んだ。