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漢紀

漢紀二十五

第 25 篇

『資治通鑑』第033巻

【漢紀二十五】 閼逢摂提格の年より始まり、旃蒙単閼の年にて終わる。都合二年。

孝成皇帝 下 綏和二年(甲寅年、紀元前七年)

春、正月、皇上、行幸して甘泉宮に臨み、泰畤に祭祀を行った。

二月、壬子の日、丞相翟方進が薨去した。時に火星(熒惑)は心宿の天域に留まっており、丞相府の議曹平陵人、李尋が翟方進に奏記を奉り、言うには「災変の急なること此くの如く、大責の重きこと日に加わる。どうしてただ貶斥放逐の罰を被ることをのみ望むべきか。府中三百余人、その中より節を尽くし、危険を転ずるに足る者を選び、共に忠節を尽くすことを願う」と。翟方進は之を憂え、為す所を知らなかった。ちょうど郎官の贲麗が星象に長けており、大臣がこの災いを引き受けるべきであると述べた。皇上、是に於いて翟方進を召見した。翟方進、府に帰り、未だ自殺するに及ばず、皇上は策書を賜り、政事の治まらざるを責め、災害の同時に至り、百姓の困窮せるを述べ、曰く「汝の位を退けんと欲するも、忍びず。尚書令をして上尊酒十石、養牛一頭を賜わしむ。汝、よく考えよ」と。翟方進は即日自殺した。皇上は此事を秘し、九卿をして策書を奉じて印綬を贈らせ、天子の棺と喪葬の具を賜い、少府に帷帳等の物を供給せしめ、堂の柱、閾には全て白布を裹ませた。天子、自ら臨みて弔問すること数回、礼遇と賞賜は他の丞相の旧例と異なった。

臣 司馬光 評して曰く、晏嬰は言った「天命は変わらず、その命令を改めない」と。禍福の来たるや、どうして移すことができようか。昔、楚昭王と宋景公は、卿相に災いを移すことを忍ばず、「心腹の疾を、四肢に移して何の益かある」と言った。たとえ災いが移せたとしても、仁徳の君主は尚かつ之を為さない。況や移せざるをや。もし翟方進が罪死に当たらざるに誅せられ、以て大変を承けしむるならば、是れ天を欺く也。翟方進に罪ありて刑に当たるに、其の死を隠して厚く葬るならば、是れ世を欺く也。孝成皇帝、天と世とを欺かんと欲して、終に益無し。是れ天命を知らざる者と謂うべきか。

三月、皇上、行幸して河東に臨み、后土神を祭祀した。

丙戌の日、皇帝、未央宮にて崩じた。

皇帝、常に身体強壮にして、疾病無し。時に、楚思王 劉衍、梁王 劉立が朝見に来たり、翌朝、辞別して去るべきところ、皇上は白虎殿の帷帳に宿された。又、左将軍孔光を丞相にせんと欲し、既に侯の印信を刻み、贊辞を書き終えていた。黄昏の夜、皇上は尚ほ平安なりしが、明け方に近く、袴袜を着け起き上がらんとして、忽ち衣物を落とし、言うこと能わず、昼の漏刻上十刻にて崩じた。民間に喧噪あり、皆趙昭儀に罪を帰した。皇太后、詔して大司馬王莽に命じ、御史・丞相・廷尉と共に会審し、皇帝の起居及び発病の状況を問いただす。趙昭儀は自殺した。

班彪 評して曰く、我が姑は後宮にて婕妤を充て、父・兄弟は宮中に侍し、屡々我に言う「成帝は儀容を飾るに善く、車に登る時は端正に立ち、顧みて内を視ず、急に語らず、自ら指画せず、朝に臨む時は深沈静黙にして、尊厳神の如し。是れ儀態荘重にして、天子の威儀有る者と謂うべし。博く古今を覧、直言を容れ、公卿の奏議は称述に値す。太平の世に遭い、上下和睦す。然れども酒色に溺れ、趙氏内宮に乱をなし、外戚権を擅にし、之を言えば嘆息す」と。建始以来、王氏始めて国命を執り、哀帝・平帝在位短く、王莽遂に位を簒う。蓋し其の威福は久しく、漸くして積み成るものなり。

是の日、孔光は先帝の霊前にて丞相・博山侯の印綬を拝受した。

富平侯 張放、皇帝の崩御を聞き、思慕の余り哭して死した。

荀悦 評して曰く、張放は愛せざるに非ざるも、忠なる者にあらず。故に愛して忠ならざるは、仁の害なり。

皇太后、詔して、長安の南郊天祭・北郊地祭の礼儀は旧の如くせよ。

夏、四月、丙午の日、太子、皇帝位に即き、高祖廟を拝謁す。皇太后を太皇太后と尊び、皇后を皇太后と為す。大赦天下。

哀帝、即位するや、自ら節倹を実践し、諸々の費用を減省し、政事は全て自己の決断するところと為し、朝廷上下、大治を期して一致した。

己卯の日、孝成皇帝を延陵に葬る。

太皇太后、傅太后・丁姬に命じ、十日毎に一度未央宮に到らしむ。

詔有りて丞相・大司空に問う「定陶共王太后は何処に居住すべきか」。丞相孔光、常に傅太后の剛強暴戻にして、機略に長ずるを聞き、皇帝が襁褓の時より養育教導して成人に至らしめ、皇帝の即位するを得たるも、其の力有り。孔光、心に傅太后の政事に干与するを恐れ、彼女をして皇帝と朝夕接近せしむるを欲せず、建議して曰く「定陶太后は別に宮室を建造すべし」と。大司空何武、曰く「北宮に居住するを得べし」と。皇上、何武の言に従う。北宮には紫房復道有りて未央宮に通ず。傅太后果して復道より朝夕皇帝の住所に到り、尊号を称することを請い、其の親族を顕貴ならしめ、皇上をして正道に従う能わざらしめんと欲す。高昌侯 董宏、旨に迎合し、奏書を上りて曰く「秦の荘襄王の母は本夏氏にして、華陽夫人に養われて子と為る。荘襄王の即位に及び、両人共に太后と称す。定陶共王后を帝太后と立てるべし」と。事、有司に下され、大司馬王莽、左将軍・関内侯・領尚書事 師丹、董宏を弾劾して奏す「皇太后は最も尊き称号にして、天下は統一すと知りながら、滅亡せる秦の譬えを引き、聖朝を誤らんとす。是れ言うべきに非ず、大不道の罪に当たる」と。皇上、新たに即位し、謙譲して、王莽・師丹の言を採り、董宏を罷免して平民と為す。傅太后大いに怒り、皇上に求め、必ず尊号を称せんとす。皇上、是に於いて太皇太后に禀告し、詔を下して定陶恭王を恭皇と尊ぶことを命ず。

五月、丙戌の日、皇后傅氏を立てる。傅太后の従弟、傅晏の女なり。

詔して曰く「《春秋》に曰く、母は子に因りて尊しと。定陶太后を恭皇太后と尊び、丁姬を恭皇后と為し、各々左右詹事を置き、食邑は長信宮・中宮の如くせよ」と。傅太后の父を崇祖侯と追尊し、丁姬の父を褒徳侯と為す。舅丁明を陽安侯と封じ、舅の子丁満を平周侯と為し、皇后の父傅晏を孔郷侯と為し、皇太后の弟・侍中・光禄大夫趙欽を新城侯と為す。太皇太后、詔して大司馬王莽に命じ、府第に帰りて皇帝の外戚を避けよ。王莽、奏疏を上りて退休を請う。皇帝、尚書令を遣わし詔を下して王莽を起用し、又、丞相孔光・大司空何武・左将軍師丹・衛尉傅喜をして太皇太后に禀告せしむ「皇帝、太后の詔を聞き、甚だ悲しむ。大司馬、もし起用せられずんば、皇帝、敢えて政事を処理せず」と。太后、是に於いて又王莽に命じて政務を処理せしむ。

成帝の時、鄭国の音楽は特に盛んで、黄門の名倡丙強・景武の輩は富貴顕揚して世に在り、貴戚に至っては君主と女楽を争うこと有り。皇帝、定陶王の時より此れを憎悪し、又、生来音楽を好まず。六月、詔して曰く「孔子、言うにあらずや『鄭声を放て、鄭声は淫なり』と。楽府の官を罷むべし。郊祭の音楽及び古の兵法武楽の《経》に在る者、鄭・衛の声に非ざる者は、条上して別に他の官に属せしめよ」と。罷められたる者は総て半数を過ぐ。然れども百姓は久しく浸染し、又、雅楽を制作して以て之を変ずる無く、豪富吏民は依然として音楽に沈溺すること故の如し。

王莽は、中塁校尉の劉歆に才能と品行があると推薦し、侍中に任命し、徐々に昇進させて光禄大夫とし、顕貴で寵愛を受けるようにした。名を劉秀と改めさせた。皇帝はまた劉秀に命じて『五経』を主管させ、父の未完成の事業を完成させた。劉秀はそこで諸書を総覧し、『七略』を奏上した。それには『輯略』、『六芸略』、『諸子略』、『詩賦略』、『兵書略』、『術数略』、『方技略』があった。書籍は総じて六略、三十八種、五百九十六家、一万三千二百六十九巻であった。そのうち諸子を叙述するにあたり、九流に分けた。すなわち儒、道、陰陽、法、名、墨、縦横、雑、農と呼び、次のように考えた。「九家はすべて王道がすでに衰微し、諸侯が武力で互いに征伐し合い、当時の君主の好悪がそれぞれ異なったことから兴起した。よって九家の学説は蜂起し同時に興り、各自一端を引用し、自分の得意とするものを推崇し、これをもって奔走遊説し、諸侯に迎合した。その言説は異なるとはいえ、水火が互いに剋するように、また互いに生成し合う。仁と義、敬と和は、相反しながらも互いに成就する。『易経』に言う。『天下は殊途同帰、各種の思慮は一致に帰す』と。今、異なる学派は自分の長所を推挙し、思慮を尽くしてその主旨を明らかにする。たとえ蔽塞や短所があるとしても、その主要な帰趨を総合すれば、これも『六経』の支流と末裔である。仮にこれらの人々が明王聖主に出会い、折中調和を得れば、みな輔佐の才となる。孔子の言葉に『礼制が失われれば民間に求めよ』とある。今、聖人の時代から遠く離れ、道術は残缺し廃棄されており、求めるべき場所がない。あの九家の学説は、民間より優れているではないか!もし『六芸』の学問を修め、この九家の言論を観覧し、短所を捨て長所を取れば、天下万方の方略を通暁することができるであろう。」

河間恵王の劉良は、献王の德行を修養することができ、その母の太后が死去した際、礼制に従って服喪した。詔を下して一万戸を加封し、宗室の模範とした。

初め、董仲舒は漢武帝を説得し、「秦は商鞅の法令を用い、井田制を廃止し、百姓が土地を売買するのを許した。その結果、富者の田は縦横に連なり、貧者は立ち錐の余地もなく、城邑には君主のように尊貴な者がおり、郷里には公侯のように富裕な者がいる。小民がどうして困苦しないことがあろうか!古代の井田法は、にわかに実施するのが難しいとしても、やや古制に近づけ、百姓が占める田の数量を制限して不足を補い、兼併の道を塞ぐべきである。奴婢制度を廃止し、擅殺の威権を取り消す。賦税を軽減し、徭役を減らし、民力を寛裕にし、その後ようやく善治を実現できる。」と言った。皇帝が即位するに及んで、師丹がまた建議して言った。「今、数世代にわたって太平が続き、豪富な官吏や百姓の資産は数万万に達し、貧窮で弱小な者はますます困苦している。やや制限を加えるべきである。」天子はその建議を大臣に下して議論させ、丞相の孔光、大司空の何武が奏上して請求した。「諸侯王、列侯、公主が占める田はそれぞれ規定を設けること。関内侯、官吏、百姓が占める田はみな三十頃を超えてはならない。奴婢は三十人を超えてはならない。期限は三年とする。違反した者は田産を官府に没収する。」当時、田宅や奴婢の価格はこれによって低下したが、貴戚や皇帝の側近はみな便利とせず、そこで詔書を下して言った。「しばらく後を待つこととしよう。」この事はそのまま搁置されて実施されなかった。また詔を斉の三服官に下して言った。「各官署が織造する綺繡など、完成が難しく女工を損なうものは、すべて停止し、制作して輸送してはならない。任子令および誹謗诋欺の法令を廃止する。掖庭の宮女で年齢が三十歳以下の者は、嫁に出し、官奴婢で五十歳以上の者は、平民とする。官吏で三百石以下の俸禄を増額する。」

皇帝は未央宮で酒宴を設け、内者令が傅太后のために帷帳を敷き、座位を太皇太后の座位の隣に設けた。大司馬の王莽が巡視検査し、内者令を責めて言った。「定陶太后は、藩王の妾である。どうして至尊と並べることができようか!」帷帳を撤去し、別に座位を設けた。傅太后はこの事を聞いて、非常に怒り、宴会に参加しようとせず、王莽に対して極めて怨恨を抱いた。王莽はまた辞職を願い出た。秋、七月、丁卯の日、皇帝は王莽に黄金五百斤、安車と四頭立ての馬車を賜り、職を免じて家に帰らせた。公卿大夫の多くが王莽を称賛したので、皇帝はそこで恩寵を加え、中黄門を設置し、王莽の家に供差し出し、十日ごとに一度餐を賜った。また詔を下して、曲陽侯の王根、安陽侯の王舜、新都侯の王莽、丞相の孔光、大司空の何武に加増する食邑の戸数をそれぞれ差をつけて与えた。王莽を特進、給事中に任命し、毎月朔日と十五日に朝参し、朝見の礼儀は三公に同じくするものとした。また紅陽侯の王立を京师に帰らせた。

傅太后の従弟の右将軍の傅喜は、学問を好み、志操品行があった。王莽が罷退された後、人々は期待を傅喜に寄せた。初め、皇帝が外戚に官爵を封じ賜った時、ただ傅喜だけが謙虚を保ち、病と称して出仕しなかった。傅太后が初めて政事に関与するようになると、彼はたびたび諫めた。このため傅太后は傅喜に輔政させたくなかった。庚午の日、左将軍の師丹を大司馬に任命し、高郷亭侯に封じた。傅喜に黄金百斤を賜い、右将軍の印綬を収め、光禄大夫として養病させた。光禄勲の淮陽の人彭宣を右将軍に任命した。大司空の何武、尚書令の唐林がともに上書して言った。「傅喜の品行道義は修潔で、忠誠をもって国を憂え、朝廷内の輔佐の臣であります。今、病気のために一旦遣送して家に帰せば、人々は失望し、みな言うでしょう。『傅氏の賢徳な子が、定陶太后の意向に合わない議論をしたために、貶退されたのだ』と。百官は国のために遺憾に思わない者はおりません。忠臣は、社稷の衛士であります。魯国は季友によって治乱し、楚国は子玉によって軽重が決まり、魏国は無忌によって敵を退け、項氏は范増によって存亡しました。百万の衆は、一人の賢人に及びません。それゆえ秦は千金を用いて廉頗を離間し、漢は黄金を散じて亜父を疏んじました。傅喜が朝廷にいることは、陛下の光輝であり、また傅氏興廃の鍵であります。」皇帝も彼を重んじていたので、まもなく再び進用した。

建平侯の杜業が上書して、曲陽侯の王根、高陽侯の薛宣、安昌侯の張禹を誹謗し、あわせて朱博を推薦した。皇帝は若い時から王氏が驕横であることを知っており、心中不満であったが、即位したばかりであったため、しばらく優遇していた。一か月余りして、司隸校尉の解光が上奏した。「曲陽侯は、先帝の陵墓が未だ完成しないうちに、公然と元掖庭女楽の五官殷厳、王飛君らを聘娶し、酒を設け歌舞を催しました。また王根の兄の子の成都侯の王況も、元掖庭の貴人を妻として聘娶し、いずれも人臣の礼にかなわず、大不敬、大逆不道であります!」そこで天子が言った。「先帝は王根、王況父子を待遇すること、極めて厚かった。今、彼らは恩を背き義を忘れた!」王根はかつて社稷を建てる策を立てた功があったため、封国に遣送し、王況の爵位を免じ、庶人に落とし、原籍に帰らせた。王根と王況の父王商が推薦し抜擢した官員は、すべて罷免した。

九月、庚申の日、地震が発生し、京师から北部の辺郡国三十数か所に及び、城郭を破壊し、合わせて四百余人が圧死した。皇帝は災異によって待詔の李尋に問うた。李尋が答えて言った。「太陽は、衆陽の長であり、人君の表征であります。君主が道徳を修明しなければ、太陽は常度を失い、昏暗で光明がありません。近頃、太陽は特に明るくなく、光芒は侵奪されて色を失い、邪気が現れて日珥となり、虹がたびたび現れます。小臣は朝廷内部の事を知りませんが、私かに太陽から陛下を観察しますに、志操は初めて即位された時よりも減衰することが多くなっています。願わくば、陛下は乾剛の徳を秉持し、意志を堅固にし、法度を遵守し、婦人や邪臣の姿態を聞き入れないでください。あの保母や乳母の甘言悲辞による請託は、固く拒否して聞き入れないでください。大義に勉め、小さな不忍の心を断ち切ってください。まことに已むを得ないところがあれば、財物を賜うことはできても、私的に官位を与えてはなりません。これは確かに皇天の禁忌であります。」

「臣聞き及ぶところ、月は衆陰の長であり、后妃・大臣・諸侯の象徴であります。近頃、月にたびたび変異が生じておりますが、これは母后が朝政を乱し、陰陽ともに損傷を受け、両者にとって不利であることを示しております。外臣は朝廷の事情を知らず、私かに天象を信じておりますが、そうであれば近臣はすでに頼りにならなくなっております。願わくば陛下みずから賢士を求め、己の嫌う者を無理に用いず、もって社稷を尊び、本朝を強くされますように。

「臣聞き及ぶところ、五行は水を根本とし、水は平準を表します。王道が公正で明らかに整えば、百川は治まり、脈絡は通じますが、偏り私して綱紀を失えば、水は溢れ出て災いをもたらします。今、汝水・潁水が氾濫し、雨水とともに民の害となっております。これはまさに『詩経』のいう『百川沸騰す』であり、その罪は皇甫卿士の類にあります。願わくば陛下、外戚の大臣を少々抑えられますように。

「臣聞き及ぶところ、地道は柔和で静か、これ陰の常理であります。近頃、関東の地でたびたび地震が起こっております。陽を高め陰を抑えて過ちを補い、志を固めて威権を立て、私門の道を断ち、英才を選び用い、不適任な者を退け、もって本朝を強くされるべきであります。本朝が強ければ、精神はもって敵をはね返すに足り、本朝が弱ければ災いを招き、邪な謀に侮られます。かつて淮南王が謀反を企てた時、彼が恐れたのは汲黯だけで、公孫弘らのごときは取るに足らぬものとみなしたと聞きます。公孫弘は漢の名相であり、今の世に比べる者もないほどでありながら、なお軽んじられたのです。ましてや公孫弘のごとき者すらいない場合、なおさらであります。ゆえに朝廷に賢人がいなければ、賊乱の者に軽んじられる、これは自然の道理であります。」

騎都尉の平当は、河堤の管理を命じられ、上奏して言った。「九河は今やみな埋もれて消えてしまいました。経義によれば、治水には河道を疎通させ、川底を深く掘る方法はあっても、堤防を築いて塞ぐという記載はありません。黄河は魏郡から東にかけてたびたび氾濫し決壊しておりますが、水勢の痕跡ははっきりせず、四海の民を欺くことはできません。広く河を疎通させる者を求めるべきであります。」上はその言を聴き入れた。

待詔の賈譲が上奏して言った。「黄河の治め方には、上・中・下の三つの策がございます。古の国を建て民を置くにあたり、疆界を分かち土地を治めるには、必ず河川や湖沼の容るべき地を残し、水流の及ばぬ区域を見積もりました。大河には堤防を築かず、小水は入り込み、低いところには陂塘を築いて、水を蓄える沼沢とし、秋の洪水が留まり休む場所を持たせ、左右に漂う水流を広く緩やかにして急ならざらしめました。土地に河があるのは、人の口のあるがごとし。土地を治めて河を塞ぐのは、嬰児の泣くのを止めんとしてその口を塞ぐに等しく、一時的に止まっても、その死はすぐにやってまいります。ゆえに『治水に善き者は、これを疎通させて流れを暢にし、民を治めるに善き者は、言路を開いて語らしむ』と申します。堤防の築造は、近くは戦国時代に始まり、すべての河を塞き止めて、各々自らの利益を図りました。斉は趙・魏と黄河を境にし、趙・魏は山に近く、斉は地勢が低かったため、堤防を黄河から二十五里のところに築き、河水が東に斉の堤防に衝き当たれば西に趙・魏へと氾濫しました。趙・魏もまた堤防を築き、黄河から二十五里のところに設けました。水勢に正対しているわけではありませんが、水にはなお漂う場所がありました。洪水が時に応じて到来し、また退けば、堆積した肥沃な土壌が残り、民はこの土地を耕しました。時に久しく災害がなければ、次第に家屋を築き、ついに集落を成しました。大水が突然到来し、すべてを押し流せば、再び堤防を築いて自らを救い、次第に元の城郭を離れ、水を干してその中に住み、水没するのも当然のことでありました。今の堤防は、狭いところでは水流から数百歩、遠いところでは数里の距離にあり、もとの大堤の内側にさらに数重あり、民はその中に住んでおります。これらはみな前の時代に押し出された土地であります。黄河は河内郡の黎陽から魏郡の昭陽に至るまで、東西の岸に石堤が互いにあり、水流を逼迫して旋回させ、百余里の間に黄河は二度西に三度東に流れ、このような逼迫障害を受けて、安らかでありえません。今、上策を実行するならば、冀州の水勢に正対する民を移し、黎陽の遮害亭で堤防を決壊させ、黄河の水を北に放って海に入れます。黄河の西は大山に迫り、東は金堤に迫るため、水勢は遠くに氾濫せず、一月のうちに自然と安定いたしましょう。反対する者は『もしそうすれば、壊される城郭・田舎・墳墓は数万に及び、民は怨むであろう』と言うでしょう。昔、大禹が水を治めた時、山陵が道を塞ぐものはこれを壊し、ゆえに龍門を開き、伊闕を辟き、厎柱を劈き、碣石を破り、天地の自然の形を断ち壊しましたが、これらは人力の造るものに過ぎず、何を言うに足りましょうか。今、黄河に近い十の郡では、毎年の堤防を治める費用が凡そ万万に近く、黄河の大決口に及んでは、被る損害は数えきれません。もし数年分の黄河治水の費用を取り、移す民の安置に充て、古の聖人の方法に従い、山川の位置を定め、神と民とを各々適切な場所に置いて互いに妨げなければ、ましてや大汉の王朝は疆土万里、どうして河水と咫尺の地を争うことがありましょうか。この功業がひとたび成れば、黄河は安定し民は安らぎ、千年にわたり禍いなく、ゆえに上策と申します。冀州の地に多くの漕渠を開き、民がもって田を灌漑し、水勢を分散させ弱めるに至っては、聖人の方法とはいえませんが、災いを補う策ではあります。淇口から東に石堤を築き、多くの水門を設けることができます。恐らく議論する者は黄河は大河ゆえに制御し難いと疑うでしょうが、滎陽の漕渠はこれを証するに足ります。冀州の渠道の源はすべてこれらの水門に依存し、各渠道はあたかも支流のごとく水を引きます。干ばつの時には東方の低いところの水門を開き、冀州を灌漑し、大水の時には西方の高いところの水門を開き、黄河の水を分流すれば、民の田は正しく治められ、河堤もまた築かれましょう。これはまさに国を富ませ民を安んじ、利を興し害を除く策であり、数百年を保つことができます。ゆえに中策と申します。旧堤を修繕し補強し、低いものを高くし薄いものを厚くするに至っては、民を労し財を費やして限りなく、しかもたびたび災害を被る、これは最も下の策であります。」

孔光・何武が上奏して言った。「宗廟において、順次廟を廃する順序は時に応じて定めるべきであります。願わくば群臣と共に議することを請う。」そこで光禄勲の彭宣ら五十三人はみな、「孝武皇帝は功業が赫々たるものの、親縁の関係はすでに尽きており、廟を廃すべきであります」と考えた。太僕の王舜・中壘校尉の劉歆が議論して言った。「『礼』に、天子は七廟ありと定められております。七廟は正常な法定の数であり、常数とすることができます。『宗』はこの数の中に含まれず、『宗』は変通の做法であります。もし功德があれば尊んで『宗』とし、予め数を定めることはできません。臣愚かながら考えるに、孝武皇帝の功業はこのように赫々たるものであり、孝宣皇帝はまたこのようにその廟号を尊び確立されました。廟を廃すべきではありません。」上は彼らの議論を覧て、詔を下して言った。「太僕王舜・中壘校尉劉歆の議論を採用する。」

何武の継母は蜀郡におり、彼は役人を遣わして迎えに行かせた。折しも成帝が崩御し、役人は道中に盗賊がいるのを恐れ、継母はそのまま当地に留まった。側近の人々は何武が母に対する侍養の誠意を欠くと非難し、皇帝も大臣を交代させようと考えていた。冬季、十月、詔勅を下して何武の官職を策免し、列侯の身分で封国に帰らせた。癸酉の日、師丹を大司空に任命した。師丹は、皇帝が成帝の政令を多く匡正・変更しているのを見て、上書して言った。「古の君王は喪中には言葉を発せず、政事は冢宰に任せ、三年の間は父の政策を変えませんでした。先に先帝の霊柩がまだ殿堂にある中で、臣下や親族に爵位や官位を封賞し、いずれも顕著に貴顕で寵愛され、舅を陽乡侯に封じ、皇后の尊号も定まらぬうちに、その父を予め孔乡侯に封じました。侍中王邑、射声校尉王邯らを外に移しました。詔書が相次いで下り、政事を変動させ、急激で漸進がありません。臣は大義を明確に述べることができないばかりか、再三にわたって爵位を固辞することもできず、徒らに封侯を甘受し、陛下の過ちを増やしました。近来、郡国で地震や水害が頻発し、水流が民を溺死させ、日月は明るさを欠き、五星の運行は順序を失っています。これらはすべて措置が不当で、号令が定まらず、法度が乱れ、陰陽が混濁している応験です。

「臣が私かに考えますに、人に子がなければ、たとえ年が六、七十歳に達しても、なお広く子を求めるものです。孝成皇帝は天命を深く洞察し、至徳を明らかにし、壮年のうちに自らを克制して、陛下を後継者に立てました。先帝が急に崩御され、陛下が帝位を継承され、天下は安寧で、百姓は恐れません。これは先帝の聖徳であり、天人の功業にかなうべきものです。臣は『天威は咫尺の間にある』と聞いております。願わくば陛下が先帝が陛下を立てられた御心を深く考え、自らを克制して実践され、群臣の従順な教化を観察されますよう。天下は陛下の家であり、皇親国戚がどうして富貴を憂うことがありましょうか。このように急激に行うべきではなく、これでは長く続きません。」師丹の奏上は数十回に及び、その多くは恳切で率直な内容であった。

傅太后の従弟である傅迁は皇帝の側近にあり、特に奸邪で不正であり、皇帝はこれを嫌い、その官職を免じて原郡に送還した。傅太后は大いに怒り、皇帝はやむを得ず、再び傅迁を留めた。丞相孔光と大司空師丹は奏上して言った。「詔書が前後で相反し、天下の人が疑惑し、従うところを知りません。臣は傅迁を原郡に送還し、奸党を除くことを請います。」結局傅迁は送還されず、再び侍中となり、皇帝が傅太后に迫られたのは、すべてこの類いのことであった。

議郎の耿育が上書して陳湯の冤罪を訴えて言った。「甘延寿と陳湯は、聖明なる大漢のために深遠で強大な威勢を弘揚し、国家の多年の恥辱を雪ぎ、極遠の地で束縛を受けぬ君主を討伐し、万里の彼方で服従し難い敵虜を捕らえました。どうしてこれに比べられるものがありましょうか!先帝は彼らを賞賛し、明詔を連ねて下し、その功績を顕彰し、年号を改め、暦法を記録し、無窮に伝えられました。これに応じて、南郡は白虎を献じ、边境には警戒や備えがありませんでした。折しも先帝が病床に臥せられましたが、なお臨終の際にこのことを忘れず、たびたび尚書を遣わして丞相に問責し、彼らの功績を記録するよう促されました。ただ丞相の匡衡だけが排斥して認めず、甘延寿と陳湯にわずか数百戸を封じたのみで、これが功臣や戦士が失望した理由です。孝成皇帝は既に築かれた基業を継承し、征伐の威勢に依って、軍を用いることなく、国家は無事でしたが、大臣は奸邪で不正であり、君主の威権を独り占めしようとし、有功の者を排斥嫉妬し、陳湯を孤独に冤罪で拘禁させ、自ら弁明することを許さず、ついに無罪でありながら年老いて棄てられました。敦煌はまさに西域の通道に当たり、威名を遠くに顕わし、敵寇に勝つことのできる臣子が、たちまちのうちに身に禍を受け、さらに郅支単于の残存する敵虜に嘲笑されるのは、実に悲しむべきことです!今日に至るまで、外族に使いする使者は、誰も郅支単于を誅殺したことを述べて漢の強盛を宣揚しない者はありません。他人の功績を利用して敵を威嚇しながら、その人の身を棄てて讒言する者を快からせるのは、どうして心を痛めないことがありましょうか!ましてや安い時には危険を忘れず、盛んの時には必ず衰えを慮るべきです。今、国家には文帝が長年節倹して蓄積した富饒の備えがもともとなく、武帝のような招き延べて梟雄の敵虜を捕らえることのできる臣子もなく、ただ一人の陳湯がいるのみです!仮に後世の君主が陛下のようでなければ、なお国家がその功績を追録し、その墓に土を盛り碑を建てて、後人を励ますことを望むでしょう。陳湯は幸いに聖明の時代に身を置き、功績を立ててからまだ久しくないのに、かえって奸邪な臣子の言葉を聴いて彼を鞭打ち遠方に追放し、逃亡流窜させ、死して葬られる地もなくなりました。遠見のある人士は、誰もが思量し、陳湯の功績は幾世代にも及ばず、陳湯の過ちは人の常として誰にでもあることであり、陳湯でさえこのようであるなら、たとえ再び人が身を粉にし骨を砕き、形体を露わにしても、なお口舌に制御され、嫉妬する臣子に縛られるのみである、と考えます。これが臣が国家のために特に憂慮する所以です。」奏章が上がり、天子は陳湯を長安に帰らせ、陳湯はついに長安で死んだ。

孝哀皇帝上

孝哀皇帝上 建平元年(乙卯、紀元前六年)

春季、正月、北地郡に十六の隕石が落ちた。

天下に大赦を行った。

司隸校尉の解光が上奏した。「私は、許美人と元中宮史の曹宮が、いずれも孝成皇帝の寵愛を受け、子を産んだと聞き及んでおります。しかし、その子たちは生まれた後、行方不明になりました。私は官吏を派遣して調査させましたところ、いずれも実情が明らかになりました。元延元年、曹宮が妊娠しました。同年十月、曹宮は掖庭の牛官令の舎で分娩しました。中黄門の田客が詔書の記録を持って掖庭獄丞の籍武のもとに来て、曹宮を暴室の獄に収監するよう命じ、『子が男か女か、誰の子かを尋ねるな』と言いました。曹宮は言いました。『わが子の胎盤を大切に保管してください。丞殿、これがどのような子か、ご存知のはずです』。三日後、田客が再び詔書の記録を持って籍武のもとに来て、『子は死んだか』と尋ねました。籍武は『死んでおりません』と答えました。田客は『陛下と昭儀は大変お怒りだ。なぜ殺さないのか』と言いました。籍武は頭を地に擦りつけて泣きながら言いました。『子を殺さなければ、自分が死ぬことは分かっている。子を殺しても、やはり死ぬのだ』。そこで田客を通して密封の上奏文を差し出し、『陛下にはまだ後継ぎがおられません。子が貴いか賤しいかに関わらず、どうかお心に留められますように』と述べました。上奏文が差し出されると、田客が再び特に詔書の記録を持って子を取りに行き、中黄門の王舜に渡しました。王舜は詔命を受けて、子を宮中に連れて行き、乳母を選び、『子を大切に育てよ。褒美があろう。しかし、決して漏らしてはならぬ』と戒めました。王舜は官婢の張弃を乳母に選びました。三日後、田客が再び詔書の記録と毒薬を持って来て、曹宮に飲ませました。曹宮は言いました。『なるほど、姉妹に天下を独り占めさせようというのだな。わが子は男の子で、額に濃い髪があり、孝元皇帝によく似ている。今、子はどこにいるのか。もう殺されてしまったのか。どうして長信宮(太后)にこのことを知らせることができようか』。そして毒薬を飲んで死にました。張弃が子を養うこと十一天、宮長の李南が詔書を持って子を連れ去り、どこに置いたかは知られていません。許美人は元延二年に妊娠し、十一月に分娩しました。趙昭儀は成帝に言いました。『陛下は常に私を欺いて、中宮(皇后の宮)から来たとおっしゃる。中宮から来たのなら、許美人の子はどこから来たのか。まさか許氏が再び皇后に立てられようとしているのか』。彼女は恨みやまず、自ら手で自身を打ち、頭を壁や門や柱に打ち付け、寝台から自ら地面に転がり落ち、泣いて食事を取ろうとせず、『今、あなたは私をどうしようというのか。私は家に帰りたい』と言いました。成帝は『私は特にあなたにこのことを告げたのに、あなたは逆に怒るとは、まったくもって道理が分からない』と言いました。成帝も食事を取りませんでした。趙昭儀は言いました。『陛下ご自身が何が起こっているかご存じなのに、食べないで何になりましょう。陛下はかつておっしゃいました。「誓ってあなたを裏切らない」と。今、許美人が子を産んだことで、誓いを破られた。これはどういうことですか』。成帝は『私は趙氏と約束した。だから許氏を立てず、天下に趙氏に勝る者をいなくするとした。あなたは心配するな』と言いました。後に詔勅を下して中黄門の靳严に許美人のもとから子を連れ去らせ、葦で編んだ箱に入れ、装飾室の簾の南側に置きました。成帝と趙昭儀が座り、御者(侍従)の于客子に箱の封を解かせましたが、まだ解き終わらないうちに、成帝は于客子と御者を退去させ、自ら戸を閉め、ただ趙昭儀だけを中に残しました。しばらくして戸が開き、于客子を呼び寄せて再び箱に封をさせ、詔書の記録を持たせて中黄門の吴恭に籍武のもとへ届けさせ、『籍武に告げよ。箱の中には死んだ子がいる。人目につかない場所に埋め、誰にも知られぬようにせよ』と命じました。籍武は獄の楼の壁の下に穴を掘り、子を埋めました。その他、毒薬で害されたり、堕胎されたりしたものは数え切れず、これらはすべて四月丙辰日の大赦令の前のことです。私は謹んで事実を調べます。永光三年、男子の忠らが長陵の傅夫人の墓を発掘しました。この事件は大赦を経ましたが、孝元皇帝は詔勅を下して『これは朕が赦すべきではない罪である』と言われました。そこで徹底的に追及し、すべての罪人が法に服しました。天下の人々は処置が妥当であると考えました。趙昭儀は聖朝を乱し、自ら後継者を殺害しました。その親族は天の罰を受けるべきです。ところが、彼女の同母の兄弟姉妹の親族は皆、高位にあり、宮廷に近づき、群臣は心を寒くしております。どうかこの件を徹底的に調査されますように」と。丞相以下の官員が協議して法に照らして処罰することを決め、成帝はそこで新成侯の趙欽と、趙欽の甥である成陽侯の趙䜣の爵位を剥奪し、平民に落とし、その家族を遼西郡に流刑に処した。

議郎の耿育が上奏文を奉った。「私は、後継者が正統を失い、嫡子を廃して庶子を立てることは、聖人が定めた法規の禁令であり、古今において最も重要な戒めであると聞いております。しかしながら、太伯は季歴が嫡子となるべきを見て、退いて回避し、固く譲り、身を呉・越の地に託しました。これは権変の策であり、常規に従わぬものでしたが、ついに王季に位を継がせ、聖明なる後継者を尊び、ついに天下を有し、子孫がその基業を七八百年にわたって継承し、その功績は三王の上にあり、道徳は最も完備しており、故に尊号は太王にまで及びました。ゆえに、世には必ず非常の変事があり、その後にはじめて非常の謀略があるのです。孝成皇帝は、ご自身で後継者が適時に定められていないことを知り、まだ皇子はいないが、ご自身が崩御された後、国家が維持できないことを考慮され、権柄は重く、女主に制せられ、女主が驕り横暴になれば貪欲に限りがなく、少主が幼く柔弱であれば大臣が言うことを聞かず、世に周公のように抱き支える輔佐の臣がいなければ、恐らく社稷を危うくし、天下を傾け乱すであろうと案じられました。陛下には賢聖で達観した明敏な徳、仁孝で慈愛のある情がおありであり、独断の見解をお持ちで、内心で自らご決断されました。それゆえ、後宮の妃嬪が子を産んで継承する漸進の道を廃し、微弱な後代の禍の根源を断ち切り、皇位を陛下に伝えて宗廟を安定させようとされたのです。愚臣は、安危を深く考え、堅固な計略を立てることができず、また聖徳を推し量り、先帝の志を述べることもできず、かえって宮中のことや私的な秘密を露わにし、先帝を惑わし傾けた過ちを誣い、寵姫の妬みによる殺害の結果を作り出し、大いに賢聖の遠大な見識を失わせ、先帝の憂国の本意に背くものであります。大徳は世俗に拘泥せず、大功は衆人に迎合しません。これこそ、孝成皇帝が深く考え、はるかに多くの臣下を超えておられた所以であり、陛下の聖徳は盛大で茂り、皇天の意にかなうものであり、これが当世の凡庸で浅はかな臣下の及ぶところでありましょうか。それに、君父の美徳を褒め広め順うこと、過去の過ちを匡し正し補い除くことは、古今の通義であります。事が起こった時に固く諫めず、未然に防ぐことをせず、それぞれが阿諛迎合して身の安全と媚びを求めた。そして先帝が崩御された後、尊号がすでに定まり、万事がすでに終わってから、挽回不可能なことを追及し、隠された過ちを暴くことは、私が深く心を痛めるところであります。どうか陛下、この件を関係の役所に下して審議させ、もし私の言う通りであれば、天下に宣布し、皆に先帝の聖意の由って来たるところを知らしめられますように。さもなければ、ただで誹謗中傷を上は先帝の陵墓に及ぼし、下は後世に伝え、遠くは四方の蛮夷にまで至り、近くは海内に広めることになり、これは決して先帝が後嗣を託された本意ではありません。孝子はよく父の志を継ぎ、よく人の事業を成就するものです。どうか陛下、明察されますように」。成帝もまた太子が趙太后の助力をかなり得ていたと考え、ついにこの件を追及しなかった。傅太后は趙太后に感謝し、趙太后もまた傅太后に心を寄せた。それゆえ、太皇太后と王氏は皆、彼女たちを恨んだ。

丁酉の日、光禄大夫の傅喜を大司馬とし、高武侯に封じた。

秋、九月、甲辰の日、虞県に二つの隕石が落下した。郎中令の泠褒と黄門郎の段犹らが再び上奏した。「定陶共皇太后、共皇后は、もはや定陶という藩国の名称をもって尊号を冠すべきではありません。車馬や衣服はすべて皇太后の規制に従わせ、二千石以下の官吏を設置し、各々その職務を司らせるべきです。また、共皇のために都に廟を建立すべきです。」成帝はこの建議をまた群臣に下して議論させた。群臣の多くは旨に従い、「母は子によって尊くなるのですから、尊号を設けて孝道を厚くすべきです」と言った。ただ丞相の孔光、大司馬の傅喜、大司空の師丹のみが不可とした。師丹が言うには、「聖王は礼法を制定するに、天地を法とします。尊卑の区別は、天地の位を正しくするためのもので、混乱してはなりません。今、定陶共皇太后、共皇后を『定陶共』と号するのは、母が子に従い、妻が夫に従う意義です。官署を設置し官吏を置き、車馬や服飾を太皇太后と等しくすることは、『尊に二つ上なし』の意義を明らかにするものではありません。定陶共皇の号と諡はすでに先に定められており、道理に基づき改めることはできません。礼に曰く、『父は士、子は天子、祭は天子の礼を用いるが、尸の服は士の服を着せる』と。子に父を尊封する道理はなく、父母を尊敬するためのものです。人の後を継ぐ者はその人の子となるので、後とされた者のために斬衰三年を服し、自分の父母への服を一周年に減じるのは、本祖を尊び、正統を重んじることを明らかにするためです。孝成皇帝の聖恩は深遠で、故に共王のために後を立て、祭祀を奉じさせ、共皇を長く一国の太祖とし、万世にわたって毀たず、恩義はすでに完備しています。陛下は既に先帝の後を継ぎ、大宗を重んじ、宗廟、天地、社稷の祭祀を奉じ承けられるのですから、道理に基づき、もはや定陶共皇の祭祀をその廟に入れて供奉することはできません。今、都に廟を建立し、臣下に祭祀させようとするのは、主祭者がないことになります。また、親縁関係が尽きれば廟は毀たれるべきです。一国の太祖として毀たれない祭祀を空しく廃し、主祭者がなく毀たれるべき不正の礼を採用するのは、共皇を尊崇し厚遇する方法ではありません。」師丹はこれにより次第に成帝の意にかなわなくなった。

折しも上書する者があった。「古くは亀の甲や貝殻を貨幣としましたが、今は銭を用いてこれに代えています。民はこれにより貧しくなっておりますので、幣制を改めるべきです。」成帝はこのことを師丹に問うたところ、師丹は改めるべきと答えた。奏章を関係官府に下して議論させたところ、皆、銭を用いることは久しく、にわかに変えるのは難しいとした。師丹は年老いており、以前に自分が言ったことを忘れ、また公卿の論議に従った。また、師丹は属吏に奏章を書かせたが、属吏がひそかに草稿を写した。丁氏、傅氏の家の子弟がこれを聞きつけ、人に命じて「師丹が密封の奏章を差し出す途中、道行く人がその奏章の草稿を手にしていた」と告発させた。成帝はこのことを将軍や中朝官に問うたところ、皆、「忠臣は公に諫めません。大臣の奏事は漏らすべきではありません。廷尉に付すべきです」と答えた。事は廷尉に付され、師丹は大不敬の罪で弾劾された。事はまだ決着していなかったが、給事中、博士の申咸と炔钦が上書した。「師丹の経学と行いは並ぶ者がなく、近世の大臣で師丹のような者はほとんどおりません。彼は憤懣を発散し、密封の奏章を上呈しましたが、深く遠くを思慮する暇がなく、主簿に書かせたのです。漏洩の過ちは師丹にはありません。これを理由に彼を貶めれば、恐らく衆人の心を服させることはできないでしょう。」成帝は申咸と炔钦の俸禄をそれぞれ二等下げた。そこで策書を下して師丹の官職を免じた。「朕は汝が地位は尊く責任は重いと考慮していたが、汝は心に奸計を抱き国を惑わせ、進退は命令に背き、言辞は反覆変転した。朕は深く汝を恥じる!汝がかつて傅太后に依託していたため、法によって審理するに忍びず、汝は大司空、高楽侯の印綬を差し出し、免職して帰宅せよ!」

尚書令の唐林が上書した。「私は罷免された大司空の王丹の策書を見ましたが、まことに深く痛切です!君子が文章を作るには、賢者のために避けることがあります。王丹の経学は当世の儒者の師宗であり、德行は国の元老であり、自ら皇上の師傅となり、三公の位にありました。彼の犯した過ちはごく小さく、天下の人々は彼に大過があるのを見ておりません。事は既に過ぎ去り、爵位を免じる罰は重すぎます。都の識者は皆、王丹の爵位と封地を復し、朝請に奉ぜしめるべきと考えております。願わくば陛下、ご裁定の際に衆人の心を体察され、もって師傅の臣の地位を慰め復されますように!」皇上は唐林の言に従い、詔を下して王丹に関内侯の爵位を賜った。

皇上は杜業の建議を採用し、朱博を召し出し、家から出て光禄大夫とし、また京兆尹に昇進させた。冬、十月、壬午の日、朱博を大司空とした。

中山王の劉箕子は幼少時に眼病を患い、祖母の馮太后が自ら養育し、たびたび祈祷祭祀を行って災いを消そうとした。皇上は中郎謁者の張由を派遣し、医者を率いて治療させた。張由はかねてより狂易病を患っており、発病すると怒って立ち去り、西に向かって長安に戻った。尚書が簿冊に従って張由の無断離脱の状況を責問したところ、張由は恐れ、そこで讒言して中山太后が皇上と傅太后を呪詛したと告げた。傅太后はかつて馮太后と共に元帝に仕え、常に恨みを抱いていた。そこで御史の丁玄を派遣して査問させたが、数十日経っても何も明らかにならなかった。また中謁者令の史立を派遣して審理させた。史立は傅太后の指図を受け、封侯を得ようと望み、馮太后の妹の馮習と弟の妻の君之を尋問し、連座して数十人を処刑し、讒言して上奏した。「呪詛し、皇上を殺害して中山王を帝に立てようと謀った。」馮太后を責問したが、彼女は罪を認めようとしなかった。史立が言った。「かつて熊が殿に登った時、どれほど勇敢であったか、今どうしてこれほど臆病なのか!」馮太后は振り返って左右の人に言った。「これは宮中の言葉であり、前朝の事柄である。官吏がどうして知るはずがあろう。これは私を陥れ、罪を認めさせようとしているのだ!」そこで毒を飲んで自殺した。宜郷侯の馮参、君之、馮習の夫とその子らで連座すべき者は、ある者は自殺し、ある者は処刑され、合わせて十七人が死んだ。衆人は皆、同情しない者はなかった。

司隷の孫宝が上奏して馮氏の事件の再審理を求めた。傅太后は大いに怒り、「皇上は司隷を設置し、もっぱら私を監察させるためである!馮氏の謀反の事は明白であるのに、孫宝はそれを暴き立てて私の悪行を宣揚しようとしている。私は彼を処罰すべきである!」と言った。皇上はそこで傅太后の意に従い、孫宝を獄に下した。尚書僕射の唐林が孫宝のために争ったが、皇上は唐林が党を結び私を営んでいると考え、敦煌魚沢障候に左遷した。大司馬の傅喜、光禄大夫の龔勝が固く争ったため、皇上は彼らのために太后に説明し、孫宝を釈放し、その官職を復した。張由は率先して告発したため、関内侯の爵位を賜り、史立は中太僕に昇進した。