漢紀四十
【漢紀四十】玄黓執徐の年より始まり、旃蒙大荒落の年に至るまで、凡そ十四年。
孝和皇帝の下、永元四年(壬辰、西暦92年)
春、正月、大将軍左校尉耿夔を派遣し、于除鞬に印綬を授け、中郎将任尚に命じて、符節を持ち伊吾に駐屯して護衛せしめ、南単于の先例に従って処置した。
初め、廬江の人周栄は、袁安の府に召されて任用された。袁安が上奏して竇憲・竇景を弾劾し、また北単于の擁立を争った事など、その奏章は全て周栄が起草したものであった。竇氏の門客である太尉掾の徐𬺈はこれを深く恨み、周栄を脅して言った。「君は袁公の腹心の謀臣であり、竇氏を排斥弾劾している。竇氏の家には強悍な武士や刺客が京師に満ちている。君はよく用心せよ。」周栄は言った。「我れ周栄は江淮の孤生の書生、幸いにして朝廷の官に任ぜられるを得た。たとえ竇氏に害されようとも、誠に本望である。」そこで妻子を戒めて言った。「もし卒然として横禍に遭わば、收斂することなかれ。願わくは、この区区の腐骨をもって朝廷を悟らせんことを。」
三月癸丑、司徒袁安が薨去した。
閏三月丁丑、太常丁鴻を司徒に任命した。
夏、四月丙辰、竇憲が京師に帰還した。
六月戊戌朔、日食があった。丁鴻が上疏して言った。「昔、呂氏が権を専らにし、皇統は幾んど移らんとしました。哀帝・平帝の末には、廟は血食する能いませんでした。故に、周公の親といえども、その徳に如かざれば、その勢を操るを得ないのです。今、大将軍竇憲は、その身を脩め、僭越を敢えずと雖も、而も天下の遠近、皆震慴して其の旨を承けています。刺史・二千石の初めて除かれる者は、謁辞して通を求め、符節印綬を奉じ、台の命を受くといえども、敢えて去らず、留まること数十日に及び、王室に背き、私門に向かいます。是れ君威を損ない、臣勢を盛んにするものです。人理の下に悖るは、効験天に現れ、隠微の謀ありと雖も、神は其の情を照らし、垂象して戒めを告げ、以て君を悟らしめます。微を杜ぎ漸を防ぐは易く、末を救い流を挽くは難し。人、細を忽にして大禍を成さざるはなく、恩に忍びて教えず、義に忍びて割かず、事已りてより後に、乃ちこれを来鏡と為すのです。天は剛ならざるべからず、剛ならざれば三光は明らかならず。王は強ならざるべからず、強ならざれば百僚は縦恣ならん。願わくは大変を因とし、政を改め失を匡し、以て天意に答えんことを。」
丙辰、郡国十三に地震があった。
旱魃と蝗害があった。
竇氏の父子兄弟は、並びに九卿・校尉となり、朝廷に満ちた。穰侯鄧叠、鄧叠の弟の歩兵校尉鄧磊、及びその母の元、竇憲の婿の射声校尉郭举、郭举の父の長楽少府郭璜、互いに結託した。元と郭举は皆宮中に入ることを得て、郭举は竇太后の幸を受け、遂に共に帝を殺害することを図った。帝は陰にその謀を知っていた。時に竇憲兄弟は権を専らにし、帝は内外の臣僚と親接する者なく、接する所は宦官のみであった。帝は朝廷上下、皆竇憲に附する者なくんばあらざるを知り、ただ中常侍・鉤盾令の鄭衆のみ、謹敏にして心計あり、豪党に附かず、乃ち鄭衆と共に竇憲を誅することを議した。竇憲が外に在るを以て、其の乱を為さんことを恐れ、忍んで未だ発せず。会たまたま竇憲と鄧叠と倶に京師に帰る。時に清河王劉慶は、恩遇特に渥く、常に宮中に入り宿す。帝は竇憲を誅するを将に謀らんとし、外戚伝を得んと欲すれども、左右を懼れ、敢えて求むることを得ず、乃ち劉慶に命じて、私かに千乘王劉伉に求めしめ、夜、独り之を持ち来たらしむ。又、劉慶に命じて、鄭衆に語らしめ、外戚を誅する故事を求む。庚申、帝は北宮に幸し、執金吾・五校尉に命じて兵を勒し、南・北宮を屯守せしめ、城門を閉ざし、郭璜・郭举・鄧叠・鄧磊を收捕し、皆獄に下して之を誅す。謁者僕射を遣わし、竇憲の大将軍印綬を收め、冠軍侯に改封し、竇篤・竇景・竇瑰と与に皆国に就かしむ。帝は太后の故を以て、竇憲を公然と誅するを欲せず、其の為に嚴能なる相を選び、之を督察せしむ。竇憲・竇篤・竇景、国に至り、皆逼られて自殺す。
初め、河南尹張酺は、屡々法を以て竇景を正す。竇氏の敗るるに及び、張酺が上疏して言う。「竇憲等の寵貴を被るや、群臣阿諛附会、唯恐れ及ばず、皆以て竇憲は先帝の顧命を受け、伊・呂の忠を懐くと為し、鄧夫人を文母に比することもあり。今、嚴威既に行われ、又皆以て当に死すべきと為し、其の前後を回視せず、其の本心を考衷せず。臣、夏陽侯竇瑰は、常に忠善を存し、前、臣と談論するに、節を尽くすの心有り、賓客を約束教敕し、未だ嘗て法を犯さず。臣聞く、帝王の骨肉に刑するや、三宥の義有り、厚きは薄きに過ぐるより善しと。今、議する者、瑰に嚴能なる相を選ばんと欲す。其の逼られることを恐るれば、必ず全からず。宜しく少しく寬假し、以て厚徳を崇ぶべし。」帝其の言に感ず。故に瑰のみ全うするを得。竇氏宗族・賓客、竇憲を以て官に在る者は、皆免官して本郡に帰る。
初め、班固の奴僕、嘗て醉いて洛陽令种兢を罵る。兢、因りて竇氏賓客を考訊するに会い、班固を收捕す。固、獄中に死す。固、嘗て漢書を撰するも、未だ成らず。詔して固の妹、曹寿の妻の班昭に命じ、之を継いで成さしむ。
華峤論じて曰く、班固の叙する所の事、詭激せず、抑揚せず、賄而不雜、詳而有體、讀む者に厭く有ることなく、其の名を成すに足る。固、司馬遷の是非、聖人に頗ぶる悖ると譏る。然れども其の議論は、常に死節を排し、正枉を否み、而も殺身成仁の美を叙せず。則ち其の仁を軽んじ義を篤くするも、亦た甚だしきのみ。
初め、竇憲の妻を娶るや、天下の郡国皆賀礼を致す。漢中郡も亦た当に吏を遣わすべきも、戸曹李郃、諫めて曰く。「竇将軍は后の親、徳礼を脩めずして専権驕恣なり。危亡の禍、足を企てて待つべし。願わくは府君、王室に心を向け、交をなさざらんことを。」太守、固より遣わさばんと欲す。郃、禁むる能わず。乃ち自ら行くことを請う。太守許す。郃、遂に道に逗留して以て変を観る。扶風に至り、竇憲已に国に就く。凡そ憲と交りし者は皆坐して免官せらる。漢中太守のみ連坐せず。帝、清河王劉慶に奴婢・車馬・銭帛・珍宝を賜い、其の第に充つ。慶、或いは時に疾有れば、帝、朝夕に問い、進みて膳薬を奉ずる所、恩意周洽なり。慶も亦小心恭孝、自ら以て廃黜の人と為し、尤も事を畏れて法を謹しむ。故に寵禄を保つを得たり。
帝、袁安の子袁賞を郎と為し、任隗の子任屯を歩兵校尉と為し、鄭衆を大長秋に擢ぶ。帝、功を論じて賞を行えば、鄭衆は辞することを多く受け少なし。帝是れを以て賢と為し、常に之と政事を議す。宦官の権を預かる、此れより始まる。
秋、七月己丑、太尉宋由、竇氏の党と為すに坐し、策免せられ、自殺す。
八月辛亥、司空任隗、薨ず。
癸丑の日、大司農の尹睦を太尉に任命した。太傅の鄧彪は年老いて病気のため、中枢の機要な職務を返上した。皇帝は詔を下してこれを許し、尹睦に代わって鄧彪の尚書事務の総領を命じた。
冬季、十月、己亥の日、宗正の劉方を司空に任命した。
武陵、零陵、澧中の蛮人が反乱を起こした。
護羌校尉の鄧訓が死去した。官吏、百姓、羌人、胡人が朝夕に哭礼に訪れ、その数は毎日数千人に上った。羌人や胡人の中には刀で自らを傷つける者や、犬、馬、牛、羊を殺す者もいて、「鄧使君は既に亡くなられた。我々も共に死のう」と言った。以前の部下であった烏桓の官吏や兵士たちは皆、道に駆け出し、城郭は空になるほどであった。官吏が彼らを捕らえようとしたが、彼らは聞かず、状況を校尉の徐傿に報告した。徐傿は嘆息して、「これは義のためだ」と言い、彼らを解放した。そこで家々は鄧訓のために祠廟を建て、病や痛みがあるたびに、そこに祈って福を求めた。蜀郡太守の聶尚が鄧訓に代わり護羌校尉となり、恩恵をもって諸羌を懐柔しようと考え、使者を派遣して迷唐を招き、大・小楡谷に戻って住むよう伝えた。迷唐が帰還した後、祖母の卑缺を派遣して聶尚に拝謁させた。聶尚は自ら塞下まで送り、宴を設けて送別し、通訳の田汜ら五人の使者に護送させて部落に至らせた。すると迷唐は反逆し、諸部落と共に田汜らを生きたまま肢解し、その血で盟約し呪詛し、再び金城塞を侵犯した。聶尚はこの罪により免官された。
孝和皇帝 永元五年(癸巳、西暦93年)
春季、正月、乙亥の日、明堂において祖宗を祭祀し、霊台に登り、天下に大赦を行った。
戊子の日、千乗貞王の劉伉が死去した。
辛卯の日、皇弟の劉万歳を広宗王に封じた。
甲寅の日、太傅の鄧彪が死去した。
戊午の日、隴西で地震が発生した。
夏季、四月、壬子の日、阜陵殤王の劉沖の兄である劉魴を続けて阜陵王に封じた。
九月、辛酉の日、広宗殤王の劉万歳が死去した。子がなく、封国は廃止された。
以前、竇憲は于除鞬を北単于に立てた後、彼を輔佐して北庭に帰そうと考えていたが、恰も竇憲が殺されたために中止された。于除鞬は自ら叛いて北へ帰ろうとしたため、皇帝は詔を下し、将兵長史の王輔に千余騎を率いさせ、任尚と共に追撃討伐させ、彼を斬り、その部衆を滅ぼした。耿夔が北匈奴を破った時、鮮卑はこれに乗じて転々と移動し、その地を占拠した。匈奴の残存部衆はなお十数万部落あり、皆、自らを鮮卑と称した。鮮卑はここから次第に強盛となった。
冬季、十月、辛未の日、太尉の尹睦が死去した。十一月、乙丑の日、太僕の張酺が太尉となった。張酺は尚書の張敏らと共に上奏して言った。「射声校尉の曹褒は、勝手に漢朝の礼儀を制定し、聖人の道を破壊し乱しました。刑罰を加えて誅殺すべきです。」奏章は合わせて五回に及んだ。皇帝は張酺が学問に固執し権変に通じていないことを知っていたが、その奏章を却下したものの、漢朝の礼儀はついに施行されなかった。
この年、武陵郡の軍が叛いた蛮人を撃破し、降伏させた。
梁王の劉暢は従官の卞忌と共に祭祀して福を祈った。卞忌らはへつらって言った。「神霊は、大王が天子となるべきだと申しております。」劉暢はこれに呼応して答えたため、関係する官署により上奏され、逮捕して詔獄に入れるよう求められた。皇帝はこれを許さず、ただ成武、単父の二県を削減しただけだった。劉暢は慚愧し恐懼し、上疏して深く自らを責めて言った。「臣は天性、狂妄で愚かであり、禁戒を防ぐことを知らず、自ら死罪に陥り、道理からすれば公然と死刑に処せられるべきでありました。陛下は聖徳をもって、法を枉げ、特別に寛恕して臣を赦し、臣のために汚点を被ってくださいました。臣はこのような大赦が再び得られないことを知り、自ら妻子と共に身を戒め、敢えて出入りして規則に違反せず、敢えて何らかの余計な出費をしないことを誓います。租税の収入に余剰があるならば、ただ睢陽、穀熟、虞、蒙、寧陵の五県の俸禄のみを請い、残余の食していた四県を返還いたします。臣劉暢の小妾は三十七人おりますが、子のいない者は実家に帰らせ、慎み深く規則を守る奴婢二百人を自ら選び、その他、受けていた虎賁、官騎、および諸々の工匠、鼓吹手、倉頭、奴婢、兵器弩箭、厩の中の馬は、すべて本署に返還いたします。臣劉暢は骨肉の近親でありながら、聖明な教化を乱し、清流を汚しました。生を得たからには、実に凶悪の身で再び大宮に住み、大国を享受し、官属を設置し、器物を収蔵する面目がございません。願わくば、陛下が恩恵を施し、許可を下さいますように。」皇帝は詔を下して優しく慰め、許可しなかった。
護羌校尉の貫友は、通訳の使者を派遣して諸羌の部落の間に離間策を用い、財物で彼らを誘った。そのため羌の部落は解散した。そこで兵を出塞させ、大・小楡谷において迷唐を攻撃し、斬首・捕虜八百余人、麦数万斛を収穫した。そして逢留大河に沿って城塢を築き、大船を製造し、河橋を建造し、兵を渡して迷唐を攻撃する準備をした。迷唐は部落を率いて遠くへ移住し、賜支河曲に依拠した。
単于の頓屠何が死去し、単于の宣の弟である安国が単于として立てられた。安国は当初、左賢王であり、名声は無かった。単于となった後、単于の嫡子である左谷蠡王の師子が順序により左賢王に転じた。師子は元来、勇猛で狡猾であり、智謀に富んでいた。前単于の宣と屯屠何は共にその気概と決断力を愛し、たびたび彼に兵を率いて出塞させ、北庭を襲撃させた。帰還後、賞賜を受け、天子も特に優遇した。このため国中の人々は師子を敬重し、安国に帰服しなかった。安国は師子を殺そうと考えた。新たに投降した胡人たちは、当初塞外にいた時、たびたび師子に駆逐・掠奪され、多くが彼を恨んでいた。安国はそこで投降者に計略を託し、共に謀議した。師子はその陰謀を察知し、別に五原の境界に居住し、龍庭での会議のたびに、師子は病気と称して出席しなかった。度遼将軍の皇甫棱はこのことを知り、彼を保護して派遣しなかったため、単于はますます憤懣を抱くようになった。
孝和皇帝 永元六年(甲午、西暦94年)
春季、正月、皇甫棱は免職となり、執金吾の朱徽が度遼将軍を代理することとなった。当時、単于は中郎将の杜崇と仲が悪く、上書して杜崇を告発した。杜崇は西河太守に示唆して単于の奏章を遮断させ、単于は自ら上達することができなかった。杜崇はそこで朱徽と共に上奏して言った。「南単于の安国は、旧来の胡人を遠ざけ、新たに投降した者を親しみ、左賢王の師子と左台且渠の劉利らを殺そうとしています。また、右部の投降者たちは、共に安国を脅して兵を起こし反逆しようと謀っています。西河、上郡、安定にこのため警戒と防備を命じるよう請います。」皇帝はこれを公卿に下して議させたところ、皆が考えた。「蛮夷は反覆常なく、測り知ることは難しいが、大兵を集めれば、彼らは必ずや軽挙妄動しないであろう。今まさに方略ある使者を単于の王庭に派遣し、杜崇、朱徽および西河太守と心を一つにして、その動静を観察すべきである。もし他に変事がなければ、杜崇らをして安国のもとに行かせ、その左右の大臣と会見させ、部衆の中で横暴に辺境を害する者を責め、共に罪を評定して誅殺せよ。もし命令に従わなければ、彼らに状況に応じて臨機に方略を取らせ、事が済んだ後、適宜に賞賜を施行するも、またもって百蛮を威震するに足るであろう。」皇帝はこれに従い、そこで朱徽、杜崇は兵を発してその王庭に向かった。安国は夜間に漢軍が到着したと聞き、大いに驚き、帳を棄てて逃亡した。そして兵を挙げて師子を殺そうとした。師子は事前に知り、全廬帳の人馬を率いて曼柏城に入った。安国は城下まで追跡したが、城門は閉ざされており、入ることができなかった。朱徽は官吏を派遣して諭し和解を勧めたが、安国は聞き入れなかった。城が攻め落とせなかったので、兵を率いて五原に駐屯した。杜崇、朱徽はそこで諸郡の騎兵を徴発して急追したため、人々は皆、大いに恐懼した。安国の舅である骨都侯の喜為らは、共に殺されることを恐れ、安国を殺害した。そして師子を立てて亭独尸逐侯鞮単于とした。
己卯の日、司徒の丁鴻が死去した。
二月、丁未の日、司空の劉方を司徒に任命し、太常の張奮を司空に任命した。
夏季、五月、城陽懐王の劉淑が死去した。子がなく、封国は廃止された。
秋季、七月、京師で干魃が発生した。
西域都護の班超は、亀茲・鄯善など八カ国の軍隊、合計七万余人を徴発して焉耆を討伐し、その城下に到着すると、焉耆王の広、尉犁王の汎らを陳睦の旧城に誘い出して殺害し、その首級を京師に送付した。そこで兵に掠奪を許し、五千余級の首を斬り、一万五千人を捕虜とし、焉耆の左侯である元孟を改めて焉耆王に立てた。班超は焉耆に半年間留まり、彼らを慰撫した。これにより西域の五十余国はすべて人質を送って帰順し、海辺に至るまで、四万里の彼方からも、幾重にも通訳を経て貢物を進献するようになった。
南単于の師子が即位すると、五、六百の降胡が夜間に師子を襲撃した。安集掾の王恬が護衛の兵士を率いてこれと戦い、これを撃ち破った。そこで降胡たちは互いに驚き動揺し、十五部二十余万人がすべて反逆し、前単于の屯屠何の子である薁鞮日逐王の逢侯を脅して単于に立て、官吏や民衆を殺害・掠奪し、郵亭や廬帳を焼き払い、車両や輜重を伴って朔方へ向かい、砂漠を渡って北方へ行こうとした。九月癸丑日、光禄勲の鄧鴻を車騎将軍事に仮任し、越騎校尉の馮柱、度遼将軍に仮任された朱徽と共に、左右羽林・北軍五校の兵士、ならびに郡国の迹射兵・辺兵を率いさせ、烏桓校尉の任尚には烏桓・鮮卑を率いさせ、合わせて四万人で討伐させた。当時、南単于と中郎将の杜崇は牧师城に駐屯しており、逢侯は一万余騎を率いて彼らを包囲攻撃した。冬季十一月、鄧鴻らが美稷に到着すると、逢侯はようやく包囲を解いて去り、満夷谷へ向かった。南単于は子に一万騎を率いさせ、杜崇の率いる四千騎と共に、鄧鴻らと大城塞で逢侯を追撃し、四千余級の首を斬った。任尚は鮮卑・烏桓を率いて満夷谷で逢侯を邀撃し、またも大いにこれを破り、前後合わせて一万七千余級の首を斬った。逢侯はついにその部衆を率いて塞外へ出奔し、漢軍は追撃できずに帰還した。
大司農の陳寵を廷尉に任命した。陳寵は性格が仁慈で寛厚であり、幾度も疑わしい案件を審理するにあたり、しばしば経典に付会し、必ず寛大にしようと務めたため、刻薄な風潮はこれによりやや衰えた。
帝は尚書令の江夏の人黄香を東郡太守に任命したが、黄香は辞退して言った。「郡県を統治する政治は、才能が適しておりません。どうか留まって閑散の官に充てられ、督責の小役を賜り、宮台の中での煩雑な事務を担わせてください。」帝はそこで再び黄香を尚書令に留め、俸禄を二千石に増やし、非常に親しく重用した。黄香もまた恭敬勤勉に事務を処理し、公事を家事のごとく憂えた。
孝和皇帝の下、永元七年(乙未、西暦九五年)
春季正月、鄧鴻らは軍を率いて帰還し、馮柱は虎牙営を率いて五原に留まり屯田した。鄧鴻は逗留して戦機を失した罪により、獄に下されて死んだ。後に帝は朱徽・杜崇が胡人の信頼を失い、また彼らに上書を禁じたために胡人の反乱を招いたことを知り、いずれも召し捕らえて獄に下して死なせた。夏季四月辛亥朔日、日食が起こった。
秋季七月乙巳日、易陽で地割れが起こった。
九月癸卯日、京師で地震が起こった。
楽成王の劉党は人を殺した罪により、東光・鄡の二県を削減された。
孝和皇帝の下、永元八年(丙申、西暦九六年)
春季二月、貴人の陰氏を皇后に立てた。皇后は陰識の曾孫である。
夏季四月癸亥日、楽成靖王の劉党が死去した。子の哀王劉崇が即位したが、間もなく死去し、子がなかったため、封国は廃止された。
五月、河内・陳留で蝗害が起こった。
南匈奴の右温禺犢王の烏居戦が反逆して塞外へ出奔した。秋季七月、度遼将軍の龐奮と越騎校尉の馮柱が追撃してこれを破り、その残余の部衆および諸降胡二万余人を安定・北地に移住させた。
車師後部王の涿鞮が反逆し、前部王の尉畢大を攻撃して、その妻子を捕虜とした。
九月、京師で蝗害が起こった。
冬季十月乙丑日、北海王の劉威は、劉敬王の子ではないこと、また誹謗の罪により、自殺した。
十二月辛亥日、陳敬王の劉羨が死去した。
丁巳日、南宫の宣室殿で火災が起こった。
護羌校尉の貫友が死去し、漢陽太守の史充をその後任とした。史充が到着すると、ただちに湟中の羌・胡を征発して塞外へ出て迷唐を攻撃した。迷唐は迎え撃って史充の軍を破り、数百人を殺した。史充はこれにより召還され、代郡太守の呉祉がその後任となった。
孝和皇帝の下、永元九年(丁酉、西暦九七年)
春季三月庚辰日、隴西で地震が起こった。
癸巳日、済南安王の劉康が死去した。
西域長史の王林が車師後王を攻撃し、これを殺した。
夏季四月丁卯日、楽成王の劉党の子である劉巡を楽成王に封じた。
五月、皇后の父である屯騎校尉の陰綱を呉防侯に封じ、特進の位で家に帰らせた。
六月、旱害と蝗害が起こった。
秋季八月、鮮卑が肥如を侵犯し、遼東太守の祭参は兵敗の罪により、獄に下されて死んだ。
閏月辛巳日、皇太后の竇氏が崩御した。当初、梁貴人が亡くなった後、宮廷の事務は隠密にされ、帝が梁氏の子であることを知る者はなかった。舞陰公主の子である梁扈は、従兄の梁示をして三府に奏記を差し出させ、「漢朝の旧例では、母親の家族を尊崇します。梁貴人は皇帝を生みながら、尊号を得ておりません。どうかこのことを議してください」と言わせた。太尉の張酺が事情を奏上すると、帝は感動して長く悲しみ、「あなたはどうすべきと思うか」と述べた。張酺は梁貴人の尊号を追尊し、諸舅を用いることを請うた。帝はその建議に従った。折しも梁貴人の姉で、南陽の樊調の妻である梁嫕が上書して自らを訴え、「私の父梁竦は獄中で無実の罪で死に、屍骨はいまだ埋葬されておりません。母は七十歳を過ぎ、弟の梁棠らと共に極めて遠い辺地におり、生死も不明です。どうか梁竦の朽骨を収め、母と弟が本郡に帰れるようお許しください」と言った。帝は梁嫕を召し見て、初めて梁貴人の無実の死の事情を知った。三公が上奏し、「光武帝が呂太后を貶黜した旧例に依り、竇太后の尊号を下げ、先帝と合葬すべきではありません」と請い、百官も多くが上奏した。帝は自ら筆を執って詔を下した。「竇氏は法度を守らなかったが、太后は常に自らを律していた。朕は彼女に十年間仕え、大義を深く考えれば、礼制により臣下が尊上を貶める条文はなく、恩情上は分かれるに忍びず、道義上も損なうに忍びない。前朝を考察すれば、上官太后もまた降黜されていない。再び議論してはならない。」丙申日、章徳皇后を葬った。
焼当羌の迷唐は部衆八千人を率いて隴西を侵犯し、塞内の諸羌部落を脅迫し、歩兵・騎兵を合わせて三万人を集め、隴西の軍を破り、大夏県長を殺した。帝は詔して行征西将軍の劉尚、越騎校尉の趙世を副将とし、漢兵・羌兵・胡兵合わせて三万人を率いて彼らを討伐させた。劉尚は狄道に駐屯し、趙世は枹罕に駐屯した。劉尚は司馬の寇盱に諸郡の軍を監督させ、四方から合流させた。迷唐は恐れ、老弱を数合わせに残し、自らは臨洮の南へ逃げ込んだ。劉尚らは高山まで追撃し、迷唐を大いに破り、斬首・捕虜千余人を得た。迷唐は撤退して去り、漢兵の死傷も多く、もはや追撃できず、引き返した。
九月庚申日、司徒の劉方が策書により免官され、自殺した。
甲子日、梁貴人を皇太后と追尊し、諡を恭懐とし、喪服を追って着けた。冬季十月乙酉日、梁太后とその姉の大貴人を西陵に改葬した。樊調を羽林左監に抜擢した。皇太后の父梁竦を追封し、諡を褒親愍侯と賜い、使者を派遣してその霊柩を迎え、恭懐皇后の陵墓のそばに葬った。梁竦の妻子を召し返し、梁竦の子梁棠を楽平侯に、梁棠の弟梁雍を乗氏侯に、梁雍の弟梁翟を単父侯に封じ、位はすべて特進とし、賞賜は巨万にのぼり、恩寵と栄耀は当時に並ぶ者なく、梁氏はここから栄えるようになった。
清河王劉慶は、ようやく母である宋貴人の墓参りを願い出ることができた。皇帝はこれを許し、詔を下して太官に四季の祭祀用具を供えさせた。劉慶は涙を流して言った。「生きている間は養うことができなかったが、ついに祭祀を営むことができ、私の私的な願いは満たされました!」祠堂を建てることを願い出ようとしたが、自らを恭懐梁皇后と比べる嫌疑を恐れ、敢えて言い出せず、常に側近に向かって泣き、これを終生の遺憾とした。後に上書して言った。「外祖母の王氏が年老いたので、洛陽にて治療を受けさせたい。」そこで詔を下して宋氏一族全てを京城に帰還させ、劉慶の舅である宋衍、宋俊、宋蓋、宋暹らを皆郎官に任命した。
十一月、癸卯の日、光禄勲、河南人の呂蓋を司徒に任命した。
十二月、丙寅の日、司空の張奮が罷免された。壬申の日、太僕の韓棱を司空に任命した。
西域都護、定遠侯の班超は、属官の甘英を大秦と条支に派遣し、西海の果てにまで至った。これらは前世において到達したことのない地であり、全てその地の風土人情を記録し、珍奇な物産を伝えた。安息の西部の国境に至り、海に臨んで渡ろうとした時、船頭が甘英に言った。「海は広大で、往来する者は順風に恵まれれば三ヶ月で渡れますが、もし風が遅ければ二年を要することもあります。故に海に入る者は、皆三年分の食糧を携行します。海中では故郷を恋しく思う心が起こりやすく、往々にして死ぬ者があります。」甘英はそこで止めた。
孝和皇帝の下、永元十年(戊戌、西暦九八年)
夏、五月、京城で大水が起こった。
秋、七月、己巳の日、司空の韓棱が死去した。八月、丙子の日、太常、太山人の巣堪を司空に任命した。
冬、十月、五つの州で水害が起こった。
行征西将軍の劉尚と越騎校尉の趙世は、畏縮怯懦の罪に問われ、獄に下され、官を免じられた。謁者の王信が劉尚の部隊を引き継いで枹罕に駐屯し、謁者の耿譚が趙世の軍営を引き継いで白石に駐屯した。耿譚はそこで懸賞を設け、諸部落の多くがこぞって帰順してきた。迷唐は恐れて、ついに投降を請うた。王信と耿譚は投降を受け入れ、兵を撤退させた。十二月、迷唐らは部族を率いて京城に貢物を献上した。
戊寅の日、梁節王の劉暢が死去した。当初、居巣侯の劉般が死去し、子の劉愷が爵位を継ぐべきところ、劉愷は父の遺志に従うと称し、弟の劉憲に位を譲って、自らは長く逃亡した。関係官庁は劉愷の封国を絶つよう上奏した。粛宗はその義行を賞賛し、特に寛大に扱ったが、劉愷はなおも出仕しなかった。十数年の後、関係官庁が再びこのことを上奏した。侍中の賈逵は上書して言った。「孔子は『礼譲をもって国を治めるならば、何の難しさがあろうか』と言っています。関係官庁は彼の善行を施そうとする心を考慮せず、常法をもってこれを縛ろうとするのは、恐らく譲りの風を助長し、包容寛厚の教化を成就することはできないでしょう。」皇帝はその意見を採用し、詔を下して言った。「王法は善行を尊び、人の美事を成就させる。劉憲に爵位を継がせることを許す。これは状況に応じた権宜の措置であり、以後これを例としてはならない。」そこで劉愷を召し出し、郎官に任命した。
南単于の師子が死去し、単于の長の子である檀が即位し、万氏尸逐鞮単于となった。
孝和皇帝の下、永元十一年(己亥、西暦九九年)
夏、四月、丙寅の日、大赦天下を行った。
皇帝は朝会に乗じて、諸儒生を召し見て、中大夫の魯丕と侍中の賈逵、尚書令の黄香らにいくつかの問題について互いに論難させた。皇帝は魯丕の説を非常に良いものとし、散朝後、特に衣冠を賜った。魯丕はそこで上疏して言った。「臣は聞くに、経書を講解する者は、先師の言葉を伝えるのであって、自らの見解ではありません。互いに譲り合うことはできません。譲り合えば道理が明らかにならず、ちょうど規矩や秤錘・秤杆を歪めることができないのと同じです。疑問を発する者はその根拠を明らかにしなければならず、講解する者は必ずその義理を確立しなければなりません。浮華無用の言葉は前に置かず、それゆえ精思は労せずして道術は一層顕わになります。説が異なる者は、それぞれその師承の学説を説かせ、広くその義理を考察させ、樵夫が言論によって罪を得ることがないようにし、遠方の者が独り遺漏を持つことがないようにすべきです。」
孝和皇帝の下、永元十二年(庚子、西暦一〇〇年)
夏、四月、戊辰の日、秭帰山で山崩れが起こった。
秋、七月、辛亥朔の日、日食が起こった。
九月、戊午の日、太尉の張酺が罷免された。丙寅の日、大司農の張禹を太尉に任命した。
焼当羌の首領迷唐は既に入朝していた。その余りの部衆は二千人に満たず、飢え困窮して身の置き所がなく、金城に入って居住した。皇帝は迷唐にその部衆を率いて大・小楡谷に帰還するよう命じた。迷唐は、漢朝が河橋を修築し、軍隊の往来が常ならざるものとなったため、旧地にはもはや住めず、部衆が飢えていることを口実に、遠行を肯んじなかった。護羌校尉の呉祉らは迷唐に金銀布帛を多く与え、穀物や家畜を買わせた。塞外への出発を催促すると、部衆はますます猜疑と恐れを抱いた。この年、迷唐は再び反逆し、湟中の諸部の胡人を脅して掠奪して立ち去った。王信、耿譚、呉祉は皆罪に問われて召還された。
孝和皇帝の下、永元十三年(辛丑、西暦一〇一年)
秋、八月、己亥の日、北宮の盛饌門閣で火災が起こった。
迷唐は再び賜支河曲に戻り、兵を率いて辺塞に逼った。護羌校尉の周鮪と金城太守の侯霸、および各郡の軍隊、属国の羌兵、胡兵、合わせて三万人が塞を出て允川に至った。侯霸は迷唐を撃破し、部衆は瓦解し、投降した者は六千余人に及び、それぞれ漢陽、安定、隴西に移された。迷唐はこれより衰え弱まり、遠く賜支河首に逃れ、発羌に付き従って住んだ。久しくして病死し、その子が来降したが、部衆は数十戸に満たなかった。
荊州で水害が起こった。
冬、十一月、丙辰の日、詔を下して言った。「幽州、并州、涼州は戸口が全般に少なく、辺境の徭役は重く、品行を修める良吏の昇進の道は狭い。夷狄を撫で接待するには、人が根本である。辺境の各郡でのところは、毎年孝廉一人を挙げよ。十万に満たないところは二年に一人、五万以下のところは三年に一人を挙げよ。」鮮卑が右北平を侵犯し、続いて漁陽に入った。漁陽太守がこれを撃破した。
戊辰の日、司徒の呂蓋が年老いて病のため退任した。
巫蛮人の許聖は、郡県が賦税を均等に課さなかったため、心に恨みを抱き、ついに反逆した。辛卯の日、南郡を侵犯した。
孝和皇帝の下、永元十四年(壬寅、西暦一〇二年)
春、安定郡に降伏していた羌人の焼何部落が反逆し、郡兵がこれを撃破し殲滅した。当時、西海および大・小楡谷一帯にはもはや羌人の侵擾はなく、隃麋相の曹鳳が上書して言った。「建武年間以来、西羌の法を犯す者は、常に焼当部落から始まります。その所以は、彼らが大・小楡谷に居住し、土地は肥沃で、西海の漁業と塩業の利を有し、大河を頼りに険固としているからです。また塞内の諸部落に近く、悪事を働きやすく攻め難いため、強大となり得て、常に諸部落の中で雄を称し、その権謀と勇力に依って羌人・胡人を招き誘ってきました。今や彼らは衰え困窮し、同党の援助は崩壊し、逃亡して栖み、遠く発羌に付き従っています。臣の愚見では、この機に乗じて西海郡県を再建し、両楡地区の経営を計画し、広く屯田を設け、羌人・胡人の交通の道を隔て塞ぎ、狂妄狡猾な者の窺い望む心を遏め断つべきです。同時に穀物を植えて辺地を富ませ、漕運の労役を減らせば、国家は西方の憂いを持つことはないでしょう。」皇帝はその意見を採用し、旧来の西海郡を修繕し、金城西部都尉を移して戍守させ、曹鳳を金城西部都尉に任命し、龍耆に駐屯させた。その後、屯田を増やし広げ、河沿いに屯田区を並べ、合わせて三十四部とした。この事業は成功しかけたが、永初年間に諸羌が反逆したことに遭い、遂に中止された。
三月、戊辰の日、皇帝は辟雍に臨んで郷射礼を行い、大赦天下を行った。
夏季、四月、使者を派遣し、荊州の軍隊一万余人を督率させ、道を分けて巫蛮の許聖らを討伐し、大いにこれを破った。許聖らは降伏を請い、ことごとく江夏に移住させられた。
陰皇后は非常に嫉妬深く、寵愛は次第に衰え、心中に度々恨みを抱いていた。皇后の外祖母である鄧朱は宮中に出入りしており、ある者が皇后が鄧朱と共に巫蠱の邪術を行ったと報告した。皇帝は中常侍の張慎と尚書の陳褒に命じてこの事件を審理させ、彼らは大逆不道の罪を弾劾した。鄧朱の二人の子、鄧奉と鄧毅、皇后の弟である陰輔は獄中で死んだ。六月、辛卯の日、皇后は罪により廃され、桐宮に移され、憂鬱のうちに死去した。彼女の父である特進の陰綱は自殺し、皇后の弟である陰軼、陰敞および鄧朱の家族は日南郡比景県に流された。
秋季、七月、壬子の日、常山の殤王である劉側が死去した。子がなかったため、その兄である防子侯の劉章を常山王とした。
三州で大洪水が発生した。
班超は久しく遠い異域にあり、年老いて故郷を思い、上書して帰還を求めた。言うには、「私は酒泉郡に至ることを敢えて望まず、ただ生きて玉門関に入ることを願います。今、謹んで私の子である班勇を安息国の貢物に従わせて辺塞に入らせ、私が生きている間に班勇に中原を目撃させようとします。」朝廷は長く返答しなかった。班超の妹である曹大家が上書して言うには、「蛮夷の本性は、老人に悖逆し欺侮することです。そして班超は朝夕に土に還ろうとしており、長く彼に代わる者が見られません。おそらくは奸邪の源を開き、叛逆作乱の心を滋生させることでしょう。而して朝中の卿大夫は皆、目前のことだけを顧みて、長遠の考慮を肯んじません。もし突然に暴乱が発生すれば、班超の気力はもはや心のままにならず、上では国家が累世に築いた功業を損ない、下では忠臣が竭尽全力した効力を棄てることになり、実に心を痛めることです!故に班超は万里の外から帰順の誠意を表し、自ら困苦急迫の状況を述べ、首を伸ばして仰ぎ望むこと、既に三年に及びますが、未だに審査され留意されていません。私は私的に、古は十五歳で兵役を受け、六十歳で兵役を返したと聞いております。休息の時もあり、再び職務に就くことはありませんでした。故に私は死を冒して班超のために哀憐を請い、乞うことには、班超に余年を過ごさせ、一旦生きて帰還することを得、再び朝廷の宮闕を見、国家に遠征の憂いを無くし、西域に突然の禍患を無くし、班超が永く周文王が枯骨を葬ったような恩徳、田子方が老人を憐れんだような恵愛を蒙ることを許されたいのです。」皇帝は彼女の言辞に感動され、そこで班超を召し還された。八月、班超は洛陽に到着し、射声校尉に任命された。九月、死去した。班超が召し還された時、戊己校尉の任尚が都護を代理した。任尚が班超に言うには、「君侯は外域に三十余年おられました。而して私は小人ながらあなたの後を継ぎます。責任は重く思慮は浅薄です。どうか教え諭すところがあらんことを!」班超が言うには、「私は年老い智恵衰えました。あなたは度々高位に就かれました。どうして班超の及ぶところでありましょうか!もし実に已むを得ざれば、願わくは愚昧の言を進めましょう。塞外の官吏士兵は、本来孝子順孫ではなく、皆罪過により辺防屯戍に補充されるために調べられた者です。而して蛮夷は鳥獣のような心性を懐き、教養し難く、容易に敗壞します。今、あなたの性情は厳しく急躁です。水が清すぎれば大鱼はおらず、政事が明察に過ぎれば下の和睦を得られません。寛容にして簡易にすべきであり、小さな過ちを赦し、ただ大綱を総揽するだけでよいのです。」班超が去った後、任尚は私かに自分の親しい者に言った、「私は班君が奇策を持っているだろうと思ったが、今言ったところは、ただ平常の論に過ぎなかった。」任尚は後に遂に辺境の平和を失い、班超の言った通りとなった。
当初、太傅の鄧禹はかつて人に言った、「私は百万の大軍を率いたが、未だに一人も妄りに殺したことがない。後代に必ず興る者があろう。」彼の子である護羌校尉の鄧訓には、娘がいて鄧綏といった。性情は孝順で友愛があり、書物を好み伝習し、常に昼は婦道を修め、夜は経典を誦読し、家人は彼女を「諸生」と呼んだ。叔父の鄧陔が言うには、「千人を救活した者の子孫は封賞を受けると聞いたことがある。兄の鄧訓が謁者であった時、命を受けて石臼河を修治し、毎年数千人を救活した。天道は信ずるべきであり、家族は必ず福沢を蒙るであろう。」鄧綏は後に選ばれて宮中に入り貴人となり、恭敬にして粛穆、一挙一動に法度があり、陰皇后に事え、同輩を接待し慰撫し、常に自己を克制して人に下り、宮人や僕役に至るまで、皆恩恵を加え関懷し、皇帝は非常に彼女を賞賛した。彼女はかつて病にかかり、皇帝は特命により彼女の母と兄弟に入宮して医薬の世話をさせ、日数を限らなかった。鄧貴人は辞退して言うには、「宮廷禁地は至って重要です。而して外戚をして久しく内宮に在らしむれば、上では陛下に偏私寵幸の誹りを受け、下では賤妾に知足を知らぬ毀謗を得ることになり、上下とも損害があります。実にこのようなことは望みません!」皇帝が言うには、「人は皆、度々入宮することを栄光とするのに、貴人はかえってこれを憂うるのか?」宴会の度に、衆の姫妾は競って自らを飾ったが、ただ鄧貴人だけは質素を尊び、彼女の衣服に陰皇后と同じ色のものがあれば、すぐに取り換え、同時に進見する時は、敢えて正座したり並立したりせず、歩く時は腰を曲げ身を屈めて謙卑を示し、皇帝が問うところあるごとに、常に逡巡して後退してから答え、敢えて皇后の前後に言うことはなかった。陰皇后は身長が低く、挙動に時に失儀があり、左右の侍従は口を掩って笑ったが、ただ鄧貴人だけは神情悲しみ、これを楽しみとせず、皇后のために隠し諱み、己の過失の如くにした。皇帝は鄧貴人が心を労し委屈していることを知り、嘆息して言うには、「徳行を修める辛苦、竟にこの境地に至ったのか!」後に陰皇后の寵愛は衰え、鄧貴人は召される度に、常に病を以て辞退した。当時、皇帝は度々皇子を失っており、鄧貴人は継嗣の広からざるを憂え、度々才人を選進して皇帝の心に適うようにした。陰皇后は鄧貴人の德行の称誉が日々に盛んになるのを見て、深く彼女を恨んだ。皇帝はかつて臥病し、非常に危険な状態にあった。陰皇后は密かに言うには、「我一旦意を得なば、決して鄧氏をして再び生口を留めしめじ!」鄧貴人はこれを聞き、涙を流して言うには、「我、誠心を竭して皇后に事えたるに、竟に保佑されず。今、我は皇帝に従いて死すべきなり。上は以て皇帝の恩に報い、中は以て宗族の災禍を解き、下は以て陰氏に『人彘』の誹りを有せしめざらん。」と。まさに服毒しようとしたが、宮人の趙玉が固く阻止し、そこで偽って「ちょうど使者が来て、皇上の病は既に全癒した」と言ったため、鄧貴人はようやく止めた。翌日、皇帝は果たして全癒した。陰皇后が廃されるに及び、鄧貴人は援救を求めたが、成功しなかった。皇帝は鄧貴人を皇后に立てようとしたが、鄧貴人はますます病重と称し、深く自らを隔絶した。冬季、十月、辛卯の日、詔して貴人鄧氏を皇后に立てた。鄧皇后は辞退し謙譲したが、已むを得ず、その後即位した。各郡国からの貢物は、一律に禁止を命じ、毎年ただ紙墨のみを供するに過ぎなかった。皇帝が鄧氏の家族に官爵を与えようとする度に、鄧皇后は常に哀請し謙譲したため、彼女の兄である鄧騭は皇帝の在位中、終始虎賁中郎将に過ぎなかった。
丁酉の日、司空の巣堪が免職された。
十一月、癸卯の日、大司農の沛国の人である徐防を司空に任命した。徐防は上疏し、考えを述べた。「漢朝は博士十四家を設け、甲乙科を設けて勉学の士を勧励しました。私は太学が博士弟子を試験するのを見ますに、皆、自己の見解で解説し、家法を修習せず、私かに互いに包容隠蔽し、奸邪の道を開いています。策試の度毎に、常に争論訴訟を興し、議論は紛乱し、互いに肯否を肯定否定します。孔子は『伝述して創作せず』と称し、また『我はなお史書に闕文あるを見るに及ぶ』と言いました。今、章句に依従せず、妄りに穿鑿附会し、師説に従うことを以て非とし、随意に解説することを以て理を得たりとし、道術を軽慢侮辱し、次第に風気を形成しております。実に詔書が切実に選抜を求める本意ではありません。浅薄を改めて忠厚に赴くことは、三代が常に行う道理です。専心精研し、務めて根本を求めることは、儒学の優先するところです。私は博士および甲乙科の策試は、各家の章句に依従し、五十の難題を提出して彼らを試験し、解釈の多い者を上等とし、引用の明白な者を高論とすべきであると考えます。もし先師に依従せず、義理に相互に矛盾するものがあれば、皆、錯誤と判定します。」皇帝はその意見を聴き入れた。
この年、初めて大長秋鄭衆を巢刀郷侯に封じた。
孝和皇帝の下、永元十五年(癸卯、西暦103年)
夏、四月、甲子晦日、日食があった。当時、皇帝は粛宗の先例に従い、兄弟は皆京城に留まっていた。関係部門は日食が陰気の盛ん過ぎるためであるとして、諸王を封国に送り届けるよう上奏した。皇帝は詔を下して言った。「甲子日の災異は、その責めは全て朕一人にある。諸王は幼くして、早くに父母の養育を離れ、弱冠の年に互いに養い育てられ、常に『蓼莪』『凱風』の悲しみがある。ためらい決しかねる恩情は、国典に合わないと知りつつも、しばらくはなお留め置こう。」
秋、九月、壬年の日、皇帝は南方を巡幸し、清河王、済北王、河間王の三藩王が共に従った。
四州で水害があった。
冬、十月、戊申の日、皇帝は章陵に行幸した。戊午の日、さらに雲夢に行幸した。当時、太尉張禹が留守を守っていたが、皇帝がまさに江陵に行幸しようとしていると聞き、危険な遠遊はすべきでないと考え、駅伝を通じて急ぎの上書で諫めた。皇帝は詔を下して答えた。「祭祀による陵墓の参拝は既に終えたので、南方で大江を礼祭すべきである。ちょうど卿の奏章を受け取り、漢水のほとりに至って車駕を転じて帰還することとする。」十一月、甲申の日、宮中に帰還した。
嶺南では従来から新鮮な竜眼と荔枝を貢進しており、十里ごとに駅を設け、五里ごとに哨所を設け、昼夜を問わず伝送していた。臨武県長、汝南の人唐羌が上書して言った。「私は、上位にある者は美味を以て徳とせず、下位にある者は進貢の膳食を以て功としないと聞いております。交趾の七郡が新鮮な竜眼などの物を貢進するのを見るに、鳥は驚き風は巻き起こります。南方の州郡の土地は炎熱で、悪虫や猛獣が道中絶えることなく、ついには死の危険に触れるに至ります。死んだ者は生き返ることができませんが、まだ来ていない者は救うことができます。この二つの品が殿堂に上らされたところで、必ずしも寿命を延ばすものではございません。」皇帝は詔を下した。「遠方の国の珍奇な食物は、本来宗廟に供えるための進献であるが、もし害をなすことがあれば、どこに民を愛する根本があろうか。太官に命じて、再び進献を受け入れてはならない!」
この年、初めて郡国に命じ、夏至の日に軽微な刑の案件を審理させた。
孝和皇帝の下、永元十六年(甲辰、西暦104年)
秋、七月、旱害があった。
辛酉の日、司徒魯恭が免職された。
庚午の日、光禄勲張酺を司徒とし、八月、己酉の日、張酺が死去した。
冬、十月、辛卯の日、司空徐防を司徒とし、大鴻臚陳寵を司空とした。
十一月、己丑の日、皇帝は巡幸して缑氏県に行幸し、百岯山に登った。
北匈奴が使者を派遣し、臣従を称して貢物を献じ、和親を請い、呼韓邪単于の旧約の復活を求めた。皇帝は彼らの旧礼が備わっていないと考え、応じなかったが、厚く賞賜を与え、その使者には返答しなかった。
孝和皇帝の下、元興元年(乙巳、西暦105年)
春、高句麗の王宮が遼東の辺塞に入り、六県を侵略した。夏、四月、庚午の日、天下に大赦し、年号を改めた。
秋、九月、遼東太守耿夔が高句麗を攻撃し、これを撃ち破った。冬、十二月、辛未の日、和帝が章徳前殿で崩御した。当初、和帝は皇子を失うことが前後十数回あり、後に生まれた皇子は密かに民間で養育され、群臣で知る者はなかった。和帝が崩御すると、鄧皇后が初めて民間に赴いて皇子を迎え戻した。長子の劉勝は久しく治らない疾病があり、幼子の劉隆は生まれてまだ百余日であったが、迎え立てられて皇太子となり、その夜のうちに皇帝位に即いた。皇后を皇太后と尊称し、太后が臨朝して政務を執った。当時、ちょうど大喪に見舞われ、法令制度はまだ整っておらず、宮中で一箱の大珠が失われた。太后は考えた。もし拷問して追及すれば、必ずや無実の者が冤罪を受けるであろうと。そこで自ら宮中の侍従を視察し、彼らの表情を観察したところ、珠を盗んだ者がすぐに自首して罪を認めた。また、和帝の寵愛を受けていた吉成という者が、車を御する者たちに共に巫蠱を用いて害をなしたと誣告され、掖庭に送られて拷問審理され、供述と証拠は共に明白であった。太后は、吉成は先帝の側近であり、恩徳をもって遇されてきたこと、平素にも悪言悪語がなかったことから、今になってかえってこのようなことをするのは、人の情に合わないと考えた。そこで自ら吉成を召し出して実情を確かめたところ、果たして車を御する者たちの仕業であり、衆人は皆嘆服し、太后は聖明であると称えた。
北匈奴が再び使者を敦煌に派遣し、国が貧しく礼儀を整えるに及ばないことを理由に辞し、漢の大使を派遣してくれるよう請うことを望み、そうすれば子を入朝させて侍らせると言った。太后もその使者には答えず、ただ多く賞賜を与えたのみであった。
洛陽令、広漢の人王涣は、人と為り処世は公正平正であり、明察をもって奸邪隠悪を暴き出すことができ、外見は厳格な政令を施行しながらも、内心には仁慈を抱いていた。凡そ彼が判決を下した案件については、心服しない者はなく、京師の人々は神の助けがあると考えた。この年、任地で死去し、百姓は市井にあっても路傍にあっても、嘆き涙を流さぬ者はなかった。王涣の霊柩は西の故郷へ帰る途上、弘農を経由したが、百姓は皆路傍に机や祭壇を設けて供物を捧げ、官吏がその理由を問うと、皆言った。「我々は普段米を携えて洛陽に行くが、常に官吏や兵士に奪い取られ、いつも半分を失っていた。王君が主事されてからは、もはや侵奪や冤罪を受けることはなかった。故に報いるために来て供物を捧げるのである。」洛陽の百姓は彼のために祠廟を建て、詩歌を作り、祭祀の度にこれを弾き歌って献じた。太后は詔を下した。「忠誠良善な官吏は、国家が天下を治めるためのよりどころである。彼らを求めるのは非常に辛勤を要するが、得ることは極めて稀である。今、王涣の子、王石を郎中とし、もって勤労ある者を励ますこととする。」
