漢紀四十四
『資治通鑑』第052巻 【漢紀四十四】 甲戌年(西暦134年)より乙亥年(西暦135年)に至る、凡そ十二年。
孝顺皇帝 陽嘉三年(甲戌、西暦134年)
夏四月、車師後部の司馬、後王の加特奴等を率い、闾吾陸谷に於いて北匈奴を襲撃し、大いに之を破る。単于の母を獲る。
五月戊戌、詔して、春夏連続して旱魃なるを以て、天下に大赦す。帝自ら露坐し、徳陽殿の東廂に於いて雨を祈る。尚書の周挙、学識深きを以て、特に之を策問す。挙、対えて曰く、「臣聞く、陰陽乖隔すれば、則ち二気塞がると。陛下、文帝・光武帝の法度を廃し、亡秦の奢侈の欲に循い、内に怨女を積み、外に旷夫有り。旱魃以来、累年已に経、陛下に改過の効有るを聞かず、徒に至尊を風塵に暴露するも、実に益無し。陛下、外飾を務め、内実を究めず、是れ猶お樹に登りて魚を求め、却きて歩み進まんと欲するが如し。誠に宜しく信を敦くし、政事を改め、徳を崇び、惑いを変じ、後宮の幸せざる者を出し、太官の過度の膳費を除くべし。《易・伝》に曰く、『陽惑えば、上天一日を以て改めず』と。願わくは陛下、留心して裁察せよ」と。帝、又挙を召し、面して政事の得失を問う。挙、対えて曰く、「宜しく慎んで選挙し、貪汚を屏除し、奸佞を遠ざくべし」と。帝曰く、「貪汚・奸佞たる者は誰か」と。挙、対えて曰く、「臣、州郡の下より擢ばれて機密を掌るも、以て群臣を弁ずるに足らず。然れども公卿大臣、数々直言有る者は、忠貞なる者なり。阿諛苟合する者は、奸佞なる者なり」と。
太史令の張衡も亦奏疏を上せて曰く、「前年、京師地震し、地裂く。地裂くは、威権分散の徴なり。地震するは、民人驚擾の徴なり。臣、私かに恐る、陛下の聖思、倦厭し、政令、専断に由らず、恩恵、割愛に忍びず、衆と威権を共にせんと。威権は分散すべからず、恩徳は共用すべからず。願わくは陛下、考察古制、循行旧例を思し、刑爵八柄、天より出づるを以てする毋からんことを。斯の後にして神霊の望、塞がり、災禍、消え去りて復た降らざらん」と。衡、又、漢の中興以来、儒生、競いて図讖・緯書を学ぶを以て、奏疏して曰く、「《春秋元命包》に公輸班と墨翟と有り、其の事、戦国に見ゆ。又、別に益州有りと曰うも、益州の置かるるは漢に在り。又、劉向・劉歆父子、中秘を校し、九流を審定するも、亦《讖録》無し。此に由りて之を観れば、則ち《図讖》は哀・平の際に成り、皆な虚妄の徒、以て世人を欺き、利を取る者にして、欺罔明白なるも、之を糾禁する者無し。況や律歴・卦候・九宮・風角の学、屡々征験有るも、世、学ばずして、競いて不占の書を称す。是れ猶お画工、狗馬を厭い、鬼怪を好むが如し。実に是れ実物は難くして、虚偽は窮まり無きが故なり。宜しく《図讖》を收藏し、一切禁絶すべし。斯に於いて朱紫、混淆せず、典籍、瑕無からん」と。
秋七月、鍾羌の良封等、復た隴西・漢陽を寇す。詔して、前校尉の馬賢を以て謁者と為し、諸羌を鎮撫す。
冬十月、護羌校尉の馬続、兵を遣わして良封を攻め、之を破る。
十一月壬寅、司徒の劉崎、司空の孔扶、免ぜらる。周挙の言を納れたるなり。乙巳、大司農の黄尚を以て司徒と為し、光禄勲の河東の人王卓を以て司空と為す。
耿貴人、屡々耿氏の為に請う。帝、遂に詔して、耿宝の子の箕を以て牟平侯に封ず。
孝顺皇帝 陽嘉四年(乙亥、西暦135年)
春、北匈奴の呼衍王、車師後部を寇す。帝、敦煌太守に命じて兵を発し救援せしむるも、勝つを得ず。
二月丙子、始めて宦官の養子を以て爵を嗣ぐを聴す。初め、帝の位を復するに当たり、宦官の力に頼る。故に宦官、寵幸を得て、政事に与る。御史の張綱、上書して曰く、「臣、文帝・明帝の二帝を察するに、徳化、特に盛んにして、中官常侍、僅かに二人、近臣寵幸の賞賜、僅かに数金、費用を惜しみ、百姓を重んず。故に家々、充足す。然るに頃者、労無き小人、皆な官爵を得、是れ百姓を愛し、国家の大器を重んじ、天道に順うの道に非ず」と。奏上するも、帝、省みず。綱は張皓の子なり。
旱あり。
謁者の馬賢、鍾羌を攻め、大いに之を破る。
夏四月甲子、太尉の施延、免ぜらる。戊寅、執金吾の梁商を以て大将軍と為し、故の太尉の寵参を以て太尉と為す。商、病と称し、将に一歳、朝せず。帝、太常の桓焉を遣わし、策を奉じて邸に就きて命ず。商、乃ち朝に至りて命を受く。商、少くして経伝に通じ、恭謙好礼、賢を愛し、漢陽の人巨覧、上党の人陳龟を掾属と為し、李固を従事中郎と為し、楊倫を長史と為す。李固、商の柔和自守、能く整頓裁断する無きを以て、乃ち商に書を遺して曰く、「数年以来、災怪、屡々見る。孔子曰く、『智者、変を見て思う、其の徴を。愚者、怪を見て諱む、其の名を』と。天道、親無く、惟れ徳を是れ輔く。誠に朝廷をして粛然たらしめ、道義、行わるるを得、忠信、立つを得ば、明公、伯成子高の高きに踵き、不朽の誉れを全うせん。豈に此れ外戚の凡庸、栄華に沈湎し、位を貪る者と同日に語らんや」と。商、其の言を用いず。
秋、閏八月丁亥朔、日食有り。
冬十月、烏桓、雲中を寇す。度遼将軍の耿曄、之を追撃するも、勝つを得ず。十一月、烏桓、蘭池城に於いて耿曄を囲む。朝廷、兵数千を遣わして救援し、烏桓、乃ち退く。
十二月甲寅、京師、地震す。
孝顺皇帝 永和元年(丙子、西暦136年)
春正月己巳、改元し、大赦す。
冬十月丁亥、承福殿、火災有り。
十一月丙子、太尉の寵参、罷めらる。
十二月、像林蛮夷、反く。
乙巳、故の司空の王龚を以て太尉と為す。
王龚、宦官の専権を憎み、上書して其の罪状を極陳す。諸黄門、客をして龚を告げ罪あらしむ。帝、龚に命じて即ち自ら実状を陳さしむ。李固、梁商に書を遺して曰く、「王公、堅貞の節を以て、横に讒佞の害を受く。衆聞き、歎息戦慄せざるは莫し。三公、尊崇の位、府に之を訴うる理無く、感慨有るに及び、即ち引咎自尽す。故に旧例、大罪無ければ、至りて詰問せられず。王公、若し卒に他変有らば、則ち朝廷、賢を害するの名を蒙り、群臣、救護の節を失わん。諺に曰く、『善人遭難、飢えて食を遑れず』と。是れ其の時なり」と。商、即ち帝に言上し、事乃ち解く。
この年、執金吾の梁冀を河南尹に任命した。梁冀は生来酒を好み、放蕩に遊び、自らを放纵し、在職中は多くの凶暴な行いをし、法度を守らなかった。彼の父である梁商が親しくしていた門客の洛陽令呂放がその状況を梁商に告げたため、梁商は梁冀を責めた。梁冀は人を遣って路上で呂放を刺殺したが、さらに梁商が知ることを恐れ、そこで嫌疑を呂放の仇に転嫁し、呂放の弟である呂禹を洛陽令に任命するよう願い出て、彼に凶手を捕らえさせた。その結果、呂禹は呂放の宗族、親戚、賓客の一百余人をことごとく族滅させた。
武陵太守が上書し、蛮夷は皆服従したので、漢人に準じて租賦を増やすことができると述べた。議論に参加した人々は皆、実行可能だと考えた。尚書令の虞詡は言った:「古来より聖王は、異族の習俗を持つ者を臣属とはしなかった。先帝の旧例では、貢賦の多寡は、由来すでに久しい。今、突然に増やせば、必ず怨恨と反逆を引き起こすだろう。得られるものを計算しても、費やすものを補うには足らず、必ず後になって後悔することになるだろう。」皇帝は聞き入れなかった。澧中、溇中の蛮夷は果たして、貢布が旧約に合わないとして争い、ついに郷吏を殺し、全族で反逆した。
孝順皇帝の下、永和二年(丁丑、西暦137年)
春季、武陵蛮の二万人が充城を包囲し、八千人夷道を侵犯した。
二月、広漢属国都尉が白馬羌を破った。
皇帝は武陵太守の李進を遣わして反逆した蛮夷を攻撃させ、これを破り平定させた。李進はそこで賢良な官吏を選び、蛮夷を撫慰し、郡境はこうして安定した。
三月、乙卯の日、司空の王卓が死去した。丁丑の日、光禄勲の郭虔を司空に任命した。
夏季、四月、丙申の日、京城に地震があった。
五月、癸丑の日、山陽君の宋娥が、奸邪との結託、誣告不実の罪を犯したとして、印綬を収められ、故郷に送り返された。黄龍、楊佗、孟叔、李建、張賢、史泛、王道、李元、李剛らの九人の侯爵は、宋娥と互いに賄賂を贈り合い、高官を求め、食邑を増やした罪により、共にそれぞれの封国に送られ、租税の四分の一を削減された。
像林蛮の区怜らが県衙を攻撃し、県中の官吏を殺した。交趾刺史の樊演は交趾、九真の兵一万余人を徴発して救援に向かわせたが、兵士たちは遠征を恐れ、秋季、七月、両郡の兵が反逆し、彼らの官府を攻撃した。官府は何とか反逆兵を破ったものの、蛮夷の勢力はかえってより盛んになった。
冬季、十月、甲申の日、皇帝は長安に行幸した。扶風人の田弱が同郡の法真を推薦し、彼は内学・外学に博通し、隠棲して官に就こうとしないので、召し出して官職を授けるべきだと述べた。皇帝は虚心に彼を招こうと欲し、前後四度召し出したが、彼はついに屈しなかった。彼の友人の郭正は称えて言った:「法真の名声は聞くことができるが、その身体は見るに難しい。彼は名声を避けたが、名声は彼に従い、彼は名声を避けたが、名声は彼を追う。まさに百代の人の師表というべきである!」法真は法雄の子である。
丁卯の日、京城に地震があった。
太尉の王龔は、中常侍の張昉らが国家の大権を専擅していることから、上奏して彼らを誅殺しようと願った。宗族の親族の中に、楊震の遭難をもって諫める者がいたため、王龔はそこでやめた。
十二月、乙亥の日、皇帝は長安から京城に帰還した。
孝順皇帝の下、永和三年(戊寅、西暦138年)
春季、二月、乙亥の日、京城洛陽ならびに金城郡、隴西郡に地震があり、二郡では山崩れもあった。
夏季、閏四月、己酉の日、京城洛陽に地震があった。
五月、呉郡の郡丞の羊珍が造反し、郡府を攻撃した。太守の王衡がこれを撃破し斬殺した。
侍御史の賈昌は州郡と力を合わせて区怜らを討伐したが、勝つことができず、かえって彼らに包囲された。一年余り経ち、軍隊の糧食が続かなくなった。順帝は公卿百官ならびに大将軍、太尉、司徒、司空の四府の属官を集め、対策を諮問した。皆は大将を派遣し、荊州、揚州、兗州、豫州の四州の四万の兵を徴発して救援に赴かせるよう建議した。李固は反論して言った:「もし荊州、揚州に戦事がなければ、彼らを徴発することは可能であろう。しかし今、この二州の盗賊は磐石のように盤踞して散らず、武陵郡と南郡の蛮夷は未だ撫慰されておらず、長沙郡、桂陽郡の民は度々徴発され、もし再び彼らを驚かし擾せば、必ず新たな禍患を生み出すだろう。これは実行できない第一条の理由である。また、兗州、豫州の人は突然徴発され、万里を遠行し、帰還の期日なく、詔書はまた催逼緊迫している。必ずや叛変逃亡を引き起こすだろう。これは実行できない第二条の理由である。南方の州郡は水土が湿熱であり、加えて瘴気があり、死亡する者は十人中四五人は必ずいる。これは実行できない第三条の理由である。万里を遠渉し、兵士は疲弊しきって、嶺南に到着する頃には、もはや戦う力はない。これは実行できない第四条の理由である。軍隊の行軍は一日三十里を標準とするが、日南郡までの距離は九千余里あり、三百日を要して到着する。一人一日の口粮を五升として計算すれば、大米六十万斛を必要とし、将領、官吏ならびに驢馬の食料はなお計上せず、ただ兵士が鎧冑を負いて自らそこに行くだけで、費用はすでにこのように巨大である。これは実行できない第五条の理由である。仮に軍隊が駐地に到着しても、死亡は必ず多く、すでに敵を防ぐに足りなければ、また再び徴発しなければならず、これはちょうど心腹の肉を割いて四肢を補うようなものである。これは実行できない第六条の理由である。九真郡と日南郡は千里も隔たっており、当地の官吏百姓を徴発するにも耐えられないのに、ましてや四州の兵士をして苦しめ、万里の艱難に奔赴させるというのか!これは実行できない第七条の理由である。昔、中郎将の尹就が益州の叛羌を討伐した時、益州に諺があった:『羌人が来るのはまだ我慢できるが、尹就が来れば我を殺す』と。後に尹就は召還され、軍隊を刺史の張喬に委ねた。張喬は元からの将領や官吏に依拠し、十日から一ヶ月の間に叛羌を撃破した。これこそ、将を派遣するのが無益であり、州郡の官吏が重責を担えることの証明である。宜しく別に勇略と仁愛があり、将帥に堪え得る者を選び、刺史、太守に任命し、彼らをして全て交趾に駐屯させるべきである。今、日南郡は兵力が薄く、糧草がなく、防守も足らず、攻撃もできず、その官吏百姓を全て移転させ、北に交趾に安置し、事態が平定するのを待って、改めて彼らに本拠に帰るよう命じるべきである。同時に蛮夷を募り、互いに攻撃させ、金銀布帛を運んで彼らの資財とし、もし反間を行い、敵の首領を斬獲する者があれば、侯に封じ土を賜う賞を約束すべきである。前并州刺史の長沙人祝良は、生来勇敢果断であり、また南陽人の張喬は、先に益州で敵を破った功績があり、いずれも任用すべし。昔、太宗(漢文帝)はその場で魏尚を雲中太守に封じ、哀帝はすぐに龔舍を泰山太守に任命した。今もまたすぐに祝良らを任命し、彼らに赴任の途上で就職させるべきである。」四府は皆李固の建議に従い、すぐに祝良を九真太守に、張喬を交趾刺史に任命した。張喬が到任すると、誠意を披瀝し、撫慰誘導し、叛軍は全て投降または解散した。祝良は九真に到着すると、独り一輌の車に乗って賊の営地に入り、計略を設け、威信をもって招撫し、投降した者は数万人に及び、皆祝良のために官署を築いた。ここにおいて嶺南の地はまた平定された。
秋季、八月、己未の日、司徒の黄尚は免職された。九月、己酉の日、光禄勲・長沙人の劉寿を司徒に任命した。丙戌の日、大将軍・三公にそれぞれ剛毅・武猛・謀略があり将帥に堪えうる者二人を、特進・九卿・校尉には各一人を挙げるよう命じた。初め、尚書令の左雄が冀州刺史の周挙を尚書に推挙した。程なく左雄は司隷校尉となり、また前冀州刺史の馮直を将帥に推挙した。馮直はかつて汚職で罪を得ていたため、周挙はこれにより左雄を弾劾した。左雄が言うには、「詔書は我に武猛の者を選抜せよと命じたもので、清高な士を選べと言ったのではない」と。周挙が言うには、「詔書はあなたに武猛の者を選抜せよと命じたもので、汚職者を選べと言ったのではありません」と。左雄が言うには、「あなたを推挙したのは、まさに我を誇るためだ」と。周挙が言うには、「昔、趙宣子(趙盾)が韓厥を司馬に任命したところ、韓厥は軍法により趙宣子の僕を斬りました。趙宣子は諸大夫に言いました。『諸君は我を祝ってよい!我が選んだ韓厥はその職務に堪えている』と。今、あなたは我を不才と見なさず、誤って朝廷に引き上げてくださいました。私はあえてあなたに阿諛してあなたを辱めようとは思いません。思いもよらぬことに、あなたの考えは趙宣子とは異なります」と。左雄は喜び、謝罪して言った。「私はかつて馮直の父の部下であり、また馮直と親しく交わっていました。今、あなたがこの事で我を弾劾したのは、我の過ちです」と。天下の人々はこれによりさらに周挙を敬重した。当時、宦官たちは互いに恩寵と権勢を誇示し合っていたが、ただ大長秋の良賀のみが清廉で節倹、謙虚で温厚であった。詔書が武猛の者を挙げるよう命じた時、良賀だけは一人も挙げなかった。皇帝がその理由を問うと、彼は答えた。「私は草野の民間の出で、宮中で育ちました。人を見る明もなく、士人と交際したこともありません。昔、衛鞅(商鞅)は景監を通じてようやく謁見し、識者は彼に良い末路がないと知りました。今、私が推挙した者が得るのは栄光ではなく恥辱です。ゆえにあえて推挙しません」と。皇帝はこれにより彼を賞した。
冬季、十月、焼当羌の那離らが三千余騎を率いて金城郡を侵犯し、校尉の馬賢がこれを撃破した。
十二月、戊戌の朔日、日食があった。
大将軍の梁商は、小黄門・南陽人の曹節らが宮中で権勢を振るっているため、自分の子の梁冀・梁不疑を遣わして彼らと交友を結ばせた。ところが宦官たちは梁商が寵愛を受けているのを妬み、かえって彼を陥れようとした。中常侍の張逵・蘧政・楊定らは左右の近臣と共謀し、共に梁商および中常侍の曹騰・孟賁を誣告して言った。「彼らは諸王を召し寄せ、廃立を図っています。梁商らを逮捕して罪を問うてください」と。順帝は言った。「大将軍父子は我の親しい者であり、曹騰・孟賁は我の愛する者である。必ずやこのようなことはない。ただ、お前たちが一緒に彼らを妬んでいるだけだ」と。張逵らは自分の言葉が用いられないことを知り、追及されるのを恐れて、退出し、偽りの詔書を作って宮中で曹騰・孟賁を逮捕した。順帝はこれを聞いて大いに怒り、宦官の李歙に命じて急ぎ曹騰・孟賁を呼び寄せ、解放させた。そして張逵らを逮捕し、獄に下した。
孝順皇帝下 永和四年(己卯、一三九年)
春季、正月、庚辰の日、張逵らは処刑された。この事件は弘農太守の張鳳、安平相の楊皓にまで連座し、彼らもまた処刑された。供述に連なる者たちは、在職中の多くの大臣にまで及んだ。梁商は無実の者が多くなるのを恐れ、上疏して言った。「『春秋』の義理は、功績は主将に帰し、罪は首謀者のみを問うものです。大獄が起こると、無実の者が多く、死刑囚は長く拘禁され、微細な過ちも大罪となります。これは祥和の気に順応し、公平に政を行い、教化を成就する道ではありません。早期に結審し、逮捕の煩わしさを止めるべきです」と。順帝はその意見を採用し、直接罪のある者のみを処罰した。二月、順帝は梁商の小兒子・虎賁中郎将の梁不疑を歩兵校尉に任命した。梁商は上書して辞退し言った。「梁不疑はまだ幼子であり、誤って成人の職位に就いております。昔、晏平仲(晏嬰)は鄁殿の賞を辞退して富を保ち、公儀休は送られた魚を受け取らずに地位を安定させました。私は才能はありませんが、聖明の世にあって福禄を保ちたいと願います」と。順帝はそこで梁不疑を侍中・奉車都尉に任命した。
三月、乙亥の日、京師洛陽で地震があった。
焼当羌の那離らが再び反乱した。夏季、四月、癸卯の日、護羌校尉の馬賢が討伐しこれを斬り、首級一千二百余級を得た。
戊午の日、天下に大赦を行った。
五月、戊胡の日、故済北恵王の子・劉安を済北王に封じた。
秋季、八月、太原郡で旱害があった。
孝順皇帝下 永和五年(庚辰、一四〇年)
春季、二月、戊申の日、京師洛陽で地震があった。南匈奴の句龍王・吾斯、車紐らが反乱し、西河郡を侵犯した。彼らは右賢王を招き寄せ、兵を合わせて美稷を包囲し、朔方・代郡の長吏を殺害した。夏季、五月、度遼将軍の馬続と中郎将の梁并らは辺境の軍隊および羌人・胡人合わせて二万余人を発し、奇襲をかけてこれを撃破した。吾斯らは再び兵を集め、城邑を陥れた。天子は使者を遣わして匈奴単于を責めた。単于はもともと謀に参与しておらず、そこで冠を脱ぎ営帳を出て、梁并のもとへ謝罪に行った。梁并は病気のため召還され、五原太守の陳亀が代わって中郎将となった。陳亀は単于が部下を統御できないと考え、単于とその弟の左賢王をともに自殺に追い込んだ。陳亀はまた単于の近親を内郡に移そうとしたため、既に投降していた者たちはますます疑心を抱いた。陳亀はこれにより罪を得て獄に下され、免官された。
大将軍の梁商が上奏して言った。「匈奴の反乱は、自らの罪が極めて重いことを知っています。窮した鳥や困った獣もなお命を惜しむことを知っています。まして匈奴の種族は多く、すべてを滅ぼすことはできません。今、輸送の物資は日々増加し、三軍は疲弊困苦し、内地を空虚にして辺境を供給するのは、中国の利益ではありません。度遼将軍の馬続は、かねてより謀略があり、長く辺防の事務を主管し、用兵の要訣に深く通じています。馬続の書簡を受け取るたびに、その謀は我と合致します。馬続に命じて深く堀を掘り高く塁を築かせ、恩徳と信義で招降し、懸賞を宣布し、期限を明示すべきです。そうすれば、それらの醜類は降伏し、国家は太平を取り戻すでしょう」と。皇帝はその建議に従い、そこで詔して馬続に反乱した胡虜を招降するよう命じた。梁商はまた馬続らに書簡を送って言った。「中国は安定しており、久しく戦陣に慣れていません。精鋭の騎兵が野戦で会戦し、鋒を交え矢を射合い、一時に勝敗を決するのは、戎狄の長所であり、中国の短所です。強弩で城を守り、堅固な塁を固めて守り、敵の疲弊を待つのは、中国の長所であり、戎狄の短所です。まず自らの長所を発揮して敵の変化を観察し、懸賞を設け、帰順すれば罪を免ずると宣布し、小功を貪って大計を乱してはなりません」と。そこで右賢王の部属・抑鞮ら一万三千人が皆馬続のもとに投降した。
己丑の晦日、日食があった。
初め、那離らが平定された後、朝廷は来機を并州刺史、劉秉を涼州刺史に任命した。来機らは天性残酷で、多くを侵掠徴発した。そこで且凍・傅難らの部族羌が反乱し、金城郡を攻撃し、雑種の羌人・胡人と共に大いに三輔地区を掠奪し、地方長官を殺害した。来機、劉秉はともに罪を得て召還された。そこで朝廷は馬賢を征西将軍とし、騎都尉の耿叔を副将とし、左右羽林軍・五校尉営の兵および各州郡の軍合わせて十万人を率いさせ、漢陽郡に駐屯させた。
九月、扶風郡・漢陽郡に命じて隴道に三百の堡塁を築かせ、屯兵を設置した。
辛未の日、太尉の王龔は年老い病のため免職された。
且凍羌は武都郡を侵犯し、隴関を焼いた。
壬午の日、太常の桓焉を太尉に任命した。
匈奴の句龍王・吾斯らは車紐を単于に擁立し、東は烏桓と結び、西は羌人や胡人など数万人を集め、京兆虎牙営を破り、上郡都尉と軍司馬を殺害した後、并州・涼州・幽州・冀州の四州を侵略・略奪した。そこで朝廷は西河郡の治所を離石に移し、上郡の治所を夏陽に、朔方郡の治所を五原に移した。十二月、使匈奴中郎将・張耽に幽州・烏桓の各郡営兵を率いさせ、車紐らを攻撃させ、馬邑で交戦し、三千級を斬首し、多くの人口を捕虜とした。車紐は降伏を求めたが、吾斯は依然としてその部曲を率いて烏桓と共に侵略・略奪した。
初め、皇帝は馬賢に西羌を討伐するよう命じたが、大将軍・梁商は馬賢は老いており、太中大夫・宋漢を用いる方が良いと考えたが、皇帝は聞き入れなかった。宋漢は宋由の子である。馬賢は軍中に到着した後、停滞して進まなかった。武都太守・馬融は上疏して言った:「今、諸々の羌人が互いに掠め合っています。彼らが未だ連合しないうちに、迅速に軍隊を派遣して深く侵入し、その支党を撃破すべきです。しかし馬賢らはあちこちに留まり遅延しています。羌人・胡人は百里の外で塵を見、千里の外で音を聞きます。今、彼らは逃げ隠れして回避しており、もし背後から奇襲すれば、必ず三輔の地を侵犯し、民衆の大きな害となるでしょう。私は馬賢が許さないところのものを願い出ます。関東の兵五千人を用い、ただ一つの部隊の番号を借り、全力で率いて激励し、根を固く張って守り、自ら先頭に立ちます。三十日以内に、必ず彼らを撃破できるでしょう。また、私は呉起が将となった時、暑い日には傘蓋を張らず、寒い日には皮裘を着なかったと聞いています。今、馬賢は野外に駐屯しながら帷幕を張り、珍味佳肴が並び、子や妾が侍っており、その行いは古人とは逆です。私は馬賢らがただ一城の守りに専念し、西に進攻すると称しながら羌人が東から出撃することを恐れます。ましてやその将士は駆使に耐えず、必ず高克のような潰走・叛変の事変が起こるでしょう。」安定の人・皇甫規もまた馬賢が軍事を顧みず、その必敗を審らかに知り、上書して事情を説明した。朝廷はいずれも聞き入れなかった。
孝順皇帝下 永和六年(辛巳、西暦141年)
春、正月、丙子の日、征西将軍・馬賢は且凍羌と射姑山で交戦し、馬賢の軍は敗れた。馬賢とその二人の子は共に戦死し、東羌と西羌はついに大規模に連合した。閏月、鞏唐羌が隴西郡を侵犯し、その後三輔の地に至り、皇園の陵墓を焼き、官吏や民衆を殺害・略奪した。
二月、丁巳の日、異星が営室星宿の付近に現れた。
三月、上巳の日、大将軍・梁商は大規模に賓客を宴し、洛水の辺で宴を設けた。酒宴が終わりに近づくと、続いて『薤露』の歌を演奏した。従事中郎・周举がこれを聞いて嘆息して言った:「これはいわゆる哀楽が時宜にかなわず、これはあるべき場所ではない。災禍がまさに降りかかろうとしているのだろう!」
武都太守・趙冲は鞏唐羌を追撃し、四百余級を斬首し、二千余人を降伏させた。皇帝は詔を下して趙冲に河西四郡の軍隊を督率させ、節度を担任させた。
安定郡の上計掾・皇甫規が上疏して言った:「私は年来、たびたび申し述べるべき事柄を陳述してきました。羌戎がまだ行動を起こさない時に、私は彼らが反逆するであろうと予測しました。馬賢が兵を出し始めた時、私は彼が必ず敗れるであろうと知っていました。これらの偶然言い当てた言葉は、調査・検証することができます。私は常に考えます。馬賢らは軍隊を擁して四年、成功せず、遠征の軍隊の費用は百億に近く、これらの財貨は平民百姓から出て、奸吏の手に流れ込みました。それゆえ江湖一帯の民衆は、群れを成して盗賊となり、青州・徐州では飢饉が起こり、民は子を背負い流亡離散しました。羌戎の敗北・反逆は、太平の世によるものではなく、すべて辺境の将が安撫・統御を失い、平穏な時に侵凌・暴虐を加え、小利を貪れば大害を招き、わずかな戦功があれば虚偽の斬首数を報告し、軍が敗れれば隠蔽して報告しなかったからです。兵士は労苦し怨恨し、狡猾な官吏に苦しめられ、進んでは痛快に戦って功を求めることができず、退いては温飽して命を全うすることができず、溝渠の中で餓死し、屍骨は原野に露わになっています。ただ王師の出征を見るのみで、凱旋の声を聞くことはありません。部落の首領たちは血を流して悲憤し、驚き恐れて事変を起こし、それゆえ安定は長く続かず、一旦反逆すれば数年も続くのです。これが私が手を打ち胸を打ってさらに嘆息する理由です!どうか私に二営、二郡に駐屯し列坐して食する兵五千人を借り、その不意を突き、趙冲と互いに呼応し、首尾を連携させてください。土地山川については、私は熟知しています。軍事の形勢の便利・機巧については、私はすでに経験しています。こうすれば、方寸の官印や一尺の帛の賞賜を必要とせず、上は禍患を取り除き、下は投降を受け入れることができます。もし私が若く、官職が低く、任用に足りないとお考えなら、それらの敗れた将たちは、官爵が高くなく、年齢が老いていたわけではありません。私は至極の忠誠を抱き、死を冒して陳述します!」皇帝は採用しなかった。
庚子の日、司空・郭虔が免職された。丙午の日、太僕・趙戒を司空に任命した。
夏、使匈奴中郎将・張耽と度遼将軍・馬続が鮮卑の軍隊を率いて谷城に至り、通天山で烏桓を攻撃し、大いに烏桓を破った。
鞏唐羌が北地郡を侵犯した。北地太守・賈福と趙冲は彼らを攻撃したが、勝利できなかった。
秋、八月、乗氏忠侯・梁商が病重く、子の梁冀らに告げて言った:「私は生きている間に朝廷を補佐することができなかった。死んでどうして国庫を費やすことができよう!衣服・被褥・飯含・玉匣・珠貝のようなものは、枯骨に何の益がある!百官が煩わしく干渉し、路上に華麗さが溢れ、ただ塵土の汚れを増すだけだ。全て辞謝して受け取ってはならない。」丙辰の日、梁商が死去した。皇帝は自ら弔問に臨んだ。梁冀らは父の教えに従おうとしたが、朝廷は同意せず、東園秘器・銀鏤・黄腸・玉匣を賜った。葬儀の際には、軽車・甲士を賜り、皇后が自ら葬送した。皇帝は宣陽亭に至り、車騎の隊伍を遥かに見送った。壬戌の日、河南尹・乗氏侯・梁冀を大将軍に任命し、梁冀の弟の侍中・梁不疑を河南尹に任命した。
臣・司馬光は言う:漢の成帝は賢能の俊傑を選抜任用できず、朝政を舅の家に委ねた。これは昏聵と言える。しかし彼はなお王立に才能がないことを知り、用いずに退けた。漢の順帝は大権を引き寄せ、后族に委ねた。梁冀は愚頑凶暴で、すでに露わになっていたのに、その父の職位を継がせ、ついに悖逆作乱し、漢朝を傾覆させた。成帝と比べれば、昏聵はさらに甚だしい!
初め、梁商が病重い時、皇帝が自ら見舞い、遺言を尋ねた。梁商は答えて言った:「私の従事中郎・周举は、清高忠正で、重責を担うことができます。」そこで周举を諫議大夫に任命した。
九月、諸々の羌族の部落が武威郡を侵犯した。
辛亥晦の日、日食が発生した。
冬、十月、癸丑の日、羌人の侵犯が至る所に及び、涼州の地は震動・恐懼し、再び安定郡の治所を扶風に移し、北地郡の治所を馮翊に移した。十一月、庚子の日、執金吾・張喬に車騎将軍事を代理させ、一万五千の軍隊を率いて三輔の地に駐屯させた。
荊州の盗賊が起こり、多年平定できなかった。朝廷は大将軍従事中郎・李固を荊州刺史に任命した。李固が到任すると、官吏を派遣して境内の民衆を慰問し、盗賊の以前の罪を赦し、新たにやり直させた。そこで賊帥・夏密らはその頭目・党羽六百余人を率いて自ら縛り投降した。李固は皆を寛恕し、送り返し、互いに招集させ、法令を宣布させた。半年のうちに、残りの党羽は全て投降し、州内は清平となった。李固は上奏して南陽太守・高賜らの賍汚を弾劾した。高賜らは多額の金で大将軍・梁冀に賄賂を贈り、梁冀は彼らのために千里伝書で緊急に情状を求めたが、李固は追及を堅持していっそう急迫させた。梁冀はついに李固を泰山太守に転任させた。当時、泰山の盗賊は多年にわたり集まっており、郡中には常に千人の兵が追討していたが、制服できなかった。李固が到任すると、全て罷免・解散して郷里に帰して農事に従事させ、ただ戦える者百余人だけを選び残し、恩徳と信義で招き誘った。一年足らずで、盗賊は皆平定・離散した。
孝順皇帝下 漢安元年(壬午、西暦142年)
春、正月、癸巳日、大赦天下、年号を改める。
秋、八月、南匈奴の句龙吾斯、薁鞬、台耆ら、再び叛き、并州を寇す。
丁卯日、侍中河内人のの栾巴、张纲、郭遵、刘班を遣わし、州郡を分巡し、賢良を表彰し、忠勤を顕揚せしむ。貪汚にして罪ある者は、刺史、二千石は即時に駅馬を以て上聞し、墨綬以下の吏は便に收捕せよ。杜乔ら命を受けて発す、独り张纲、洛阳都亭に車輪を埋めて曰く、「豺狼当道すること、何ぞ狐狸を問わんや。」と。即ち劾奏す。「大将軍梁冀、河南尹梁不疑、外戚を以て、鴻恩を蒙り、阿衡の任を居る。而して専肆貪叨、恣肆無極、多くの諂諛を以て忠良を害す。誠に天威の赦す所に非ず、大辟の加うべき罪なり。謹んで其の無君の心の十五事を列するは、皆な臣子の所を切歯す。」と。奏を上るや、京師震悚す。時に皇后方に寵を擅にし、梁氏姻戚、朝に満つ。帝、张纲の言の正しきを知るも、用ゆる能わず。杜乔、兗州に至り、表して泰山太守李固の政績を天下第一と為す。帝、李固を召して将作大匠と為す。八使の所劾奏する者、多くは梁冀及び宦官の親党なり。互いに請救し、事皆な寝めらる。侍御史河南人の种暠、之に憤り、復た案行す。廷尉吴雄、将作大匠李固も亦た上書す。「八使の所糾の罪、宜しく誅罰を急ぐべし。」と。帝乃ち八使の奏章を下し、令して考正せしむ。
梁冀、张纲を恨み、以て中傷せんと欲す。時に広陵の賊张婴、揚・徐の間で寇乱すること十余年、二千石制する能わず。梁冀、乃ち张纲を広陵太守と為す。前の太守多く兵を請うも、独り张纲、単車に請う。任に到り、径ちに婴の塁に詣る。婴、大いに驚き、遽かに逃れて塁を閉づ。纲、門外に吏兵を散じ、独り十余の親吏を留め、書を以て婴に暁諭し、請いて相見る。婴、纲の誠至なるを見、乃ち出でて拝す。纲、上座に延き、之を譬す。「前後の二千石、多く肆貪暴、故に公等をして憤恨し相聚からしむ。二千石誠に有罪、然れども公等の為す所も亦た義に非ず。今、主上仁聖、文徳を以て叛を服せんと欲す。故に太守を遣わし、爵禄を以て栄を示し、刑罰を加えず。今、正に禍を転じて福と為すの時なり。若し聞義して服せずんば、天子赫怒、荆・揚・兗・豫の大兵雲合し、身首横分、子孫絶えん。二者、爾れ深く之を計れ。」と。婴、泣して曰く、「荒裔の愚民、自ら通達する能わず、侵枉に堪えず、復た相聚りて苟且に生きる、魚の釜の中に游ぐが如く、久しきを知る能わず、但だ息を須臾に延ぶるのみ。今、明府の言を聞くは、乃ち我等の更生の時なり。」と。乃ち辞して塁に還る。明日、その部万余人と妻子とを率いて面縛して降る。纲、単車、婴の塁に入り、大いに会を為し、酒楽を縦にし、部衆を散じ、任せて去就せしむ。親しく其の宅を為り、田を相し、子弟の吏を欲する者、皆な召し用う。人々悦服、南州晏然なり。朝廷論功、封爵すべきも、梁冀之を沮む。纲、郡に在ること一歳にして卒す。婴ら五百余人、喪服を為し、犍为に送り、土を負いて冢を成す。詔して其の子続を郎中と為し、銭百万を賜う。
是の時、二千石長吏の善政有る者、洛阳令渤海人の任峻、冀州刺史京兆人のの吴祐の如きあり。洛阳令、王涣の後、皆な称職せず。任峻、文武の吏を选用し、各其の能を尽くし、発姦して稽せず、百姓畏吏せず、其の威禁、王涣よりは厳なり。然れども文理は之に及ばず。苏章、冀州刺史と為る。故人の清河太守有り、章、部を行く時、其の姦臧を案ぜんと欲す。乃ち故人の為に酒肴を設け、平生の好を陳べ、甚だ歓洽たり。太守喜びて曰く、「人皆な一つの天有るも、我独り二天有り。」と。章曰く、「今夕、苏孺文、故人と飲むは、私恩なり。明日、冀州刺史の案事は、公法なり。」と。遂に挙正す。州境粛然たり。後、権貴を忤えて旨を失し、坐して免ぜらる。時に天下日を以て滋に衰え、民多く愁苦す。論者日夜、章を称す。朝廷竟に復た用ゆる能わず。吴祐、胶东相と為る。政、仁簡を尚ぶ。民の欺くを忍びざる所と為す。啬夫の孙性、私かに民の銭を賦し、衣を市いて父に進む。父、得て怒りて曰く、「君の如き長有りて、何ぞ忍びて之を欺かん。」と。之に迫りて還りて首服せしむ。性、慚懼し、閤に詣り、衣を以て自首す。祐、左右を屏け、故を問う。性、具に父の言を陳ず。祐曰く、「爾れ、父の故を以て名を汚す。所謂『其の過ちを観て、仁を知る』なり。」と。使して父に謝せしめ、衣還す。
冬、十月、辛未日、太尉桓焉、司徒刘寿、免ぜらる。
罕羌の部落五千余戸、赵冲に詣り降る。唯だ焼何種、参䜌に拠りて降らず。甲戌日、张乔の屯軍を罷む。
十一月、壬午日、司隶校尉下邳人の赵峻を太尉と為し、大司农胡広を司徒と為す。
孝顺皇帝下 汉安二年(癸未、西暦143年)
夏、四月、庚戌日、护羌校尉赵冲、汉阳太守张贡と参䜌に於いて焼当羌を撃ち、之を破る。
六月、丙寅日、南匈奴守义王兜楼储を立てて呼兰若尸逐就単于と為す。時に兜楼储、京师に在り。帝、殿前に臨み、印綬を授け、殿に引見し、車馬、器物、服飾、金帛甚だ厚く賜う。詔して太常、大鸿臚をして、諸国侍子をして広陽城門の外に饗会し、宴楽、角抵、百戯を為さしむ。
冬、閏十月、赵冲、阿阳に於いて焼当羌を撃ち、之を破る。
十一月、匈奴中郎将扶風人の马寔を遣わし、人をして句龙吾斯を刺殺せしむ。
凉州、九月以来、地震百八十回、山谷坼裂し、城郭、寺廟を壊し、民の圧死する者甚だ多し。
尚书令黄琼、先に左雄の上奏せる孝廉の選挙の法は、専ら儒学、文吏を用うるのみにして、取士の義に闕くる有りとし、乃ち孝悌及び能く政事を為すの二科を加え、四科と為す。帝、之を聴く。
孝顺皇帝下 建康元年(甲申、西暦144年)
春、护羌从事马玄、羌に誘われ、羌を率いて塞を出づ。领护羌校尉卫琚、馬玄らを追撃し、首八百余級を斬る。赵冲、復た叛羌を追いて建威の鹯阴河に至る。軍渡り畢り、其の率いる降胡六百余人叛く。冲、数百人を率いて追う。羌の伏兵に遇い、戦いて死す。冲、死すと雖も、前後の斬獲甚だ多く、羌は是に由りて衰う。詔して冲の子を義阳亭侯と為す。
夏、四月、使匈奴中郎将马寔、南匈奴左部を攻め、之を破る。是に於いて胡、羌、烏桓皆な马寔に詣り降る。
辛巳の日、皇子の劉炳を太子と立て、年号を改め、天下に大赦を下した。太子は承光宮に居住し、皇帝は侍御史の种暠を派遣して太子の家事を監察させた。中常侍の高梵が宮中から車を出して太子を迎えに来たが、当時太傅の杜喬らは疑って従おうとしなかったが未だ決定していなかった。种暠は佩剣を手に車の前に立ちはだかって言った。「太子は国の儲君であり、百姓の命に関わる存在である。今、常侍が来たが、詔書や符信がない。どうして奸邪の者でないと分かるのか?今日はただ死あるのみである!」高梵は理屈に窮して答えられず、馬を駆って宮中に帰り上奏した。詔書の返答があって後、太子はようやく出発することができた。杜喬は退いて嘆息し、种暠が事に臨んで惑わなかったことを恥じ入った。皇帝もその沈着を褒め、長く称賛した。
揚州・徐州の盗賊が相次いで蜂起し、互いに連携して数年続いた。秋、八月、九江人の范容・周生らが城邑を攻め掠め、兵を集めて歴陽に拠り、長江・淮河一帯の大きな禍患となった。朝廷は御史中丞の馮緄を派遣し、州郡の軍隊を督率してこれを討伐させた。
庚午の日、皇帝は玉堂前殿で崩御した。太子が皇帝位に即き、年はわずか二歳であった。皇后を皇太后と尊称した。太后が朝政を臨んだ。
丁丑の日、太尉の趙峻を太傅とし、大司農の李固を太尉とし、尚書事務を総領することを参与させた。
九月、丙午の日、孝顺皇帝を憲陵に葬り、廟号を敬宗とした。
同日、京師および太原・雁門で地震があった。
庚戌の日、賢良方正の士を挙げる詔を下し、策問を行った。皇甫規が答えて言った。「臣は考えますに、孝顺皇帝は初め王政に勤め、四方の綱紀を整え、ほとんど天下を安定させました。後に奸邪の人に遭い、威権は側近に分取され、彼らは賄賂を受け取り官爵を売り、門客が交錯し、天下は乱れ、百姓は乱に從うことを帰するが如く、官府と百姓はともに枯渇し、上下ともに空虚で貧困となりました。陛下は天地の徳を兼ね備え、聡明で哲明、純正で盛ん、摂政の初めに、忠誠で正直な人を抜擢任用し、その他の綱紀法度は多く改められ、遠近の人々は一様に太平を望みました。しかしながら災異が止まず、寇賊が横行するのは、おそらく奸臣の権勢が重いからです。その中でも特に行状の悪い常侍は、速やかに貶斥追放し、凶悪な党羽を除き、その財貨賄賂を没収して、痛恨の念を鎮め、上天の警告に応えるべきです。大将軍梁冀・河南尹梁不疑もまた、謙遜の節操を増進修養し、儒学をもって自らを輔佐し、遊楽不急の事を省き、府第の無用の装飾を削減すべきです。君主は船、百姓は水、群臣は船に乗る者、将軍兄弟は櫂を漕ぐ者です。もし心を平らかにし気を静めて、力を尽くし、百姓を渡すことができれば、これが所謂福です。もし懈怠弛緩すれば、波濤の中に沈むでしょう。どうして慎まないことがありましょうか!徳行と俸禄が釣り合わないのは、ちょうど壁の脚を穿って高さを増すようなもので、どうして力を量り、功を審らかにし、安穩を求める道でありましょうか!すべて老獪な奸悪・酒徒・戲客は、皆貶斥すべきで、不軌の者を戒めるためです。梁冀らに賢人を得る福と、人材を失う禍を深く考えさせるべきです。」梁冀はこれに大いに怒り、皇甫規を下等と評し、郎中に任命した。皇甫規は病と称し、官を免ぜられ郷里に帰った。州郡の役人は梁冀の意を承け、ほとんど彼を死に至らしめようと三度に及び、ついに長く家に廃され、十余年に及んだ。
揚州刺史の尹耀・九江太守の鄧顕が歴陽で范容らを討伐し、戦死した。
冬、十月、日南の蛮夷がまた反叛し、県城を攻め焼いた。交趾刺史の九江人夏方が招撫して降伏させた。
十一月、九江の盗賊徐鳳・馬勉らが城邑を攻め焼いた。徐鳳は無上将軍を自称し、馬勉は皇帝を自称し、当塗山中に営寨を築き、年号を建て、百官を置いた。
十二月、九江の賊寇黄虎らが合肥を攻めた。
この年、群盗が憲陵を発掘した。
漢孝冲皇帝
孝顺皇帝の下 永嘉元年(乙酉年、西暦145年)
春、正月、戊戌の日、皇帝は玉堂前殿で崩御した。梁太后は揚州・徐州の盗賊が盛んであるため、召し寄せた諸王侯が揃うのを待ってから発喪しようとした。太尉の李固が言った。「皇帝は幼いと言えども、なお天下の父です。今崩御され、人神ともに感動するところ、どうして子がかえって共に隠し蔽う理がありましょうか!昔、秦始皇の沙丘における密謀や、近くは北郷侯の事が、いずれも秘して発喪しなかったのは、天下の大忌であり、万にしても行うべからざることです!」太后はこれに従い、即ち夕方に発喪した。清河王の劉蒜および渤海孝王の劉鴻の子の劉纘を召し寄せて、皆京師に至らせた。劉蒜の父は清河恭王の劉延平である。劉延平と劉鴻はともに楽安夷王の劉寵の子であり、千乗貞王の劉伉の孫である。清河王は人となり荘重で、挙動に法度があり、公卿は皆彼に心を寄せた。李固は大将軍梁冀に言った。「今、皇帝を立てるべきで、年長で高明有徳、自ら政事を処理できる者を選ぶべきです。将軍が審らかに詳細に大計を考え、周勃・霍光が漢文帝・漢宣帝を立てた故事を考察し、鄧氏・閻氏が幼弱を貪ったことを戒めとされることを望みます!」梁冀は従わず、太后と宮中で策を定めた。丙辰の日、梁冀は符節を持ち、諸侯王の青蓋車を用いて劉纘を迎え入れ南宫に入れた。丁巳の日、建平侯に封じた。同日、皇帝位に即き、年は八歳であった。劉蒜は罷免されて封国に帰った。
山陵を選ぼうとしたとき、李固が言った。「今、ところどころに寇賊があり、軍費の支出は巨額で、新たに憲陵を造営したばかりで、賦税の徴発は一度にとどまりません。皇帝はなお幼少です。憲陵の茔地内に陵墓を造り、康陵の制度に従うべきです。」太后はこれに従った。己未の日、孝冲皇帝を懐陵に葬った。
太后は政事を宰相輔臣に委ね、李固の言うところは、太后は多く従い、悪を行う黄門宦官は一概に斥退放逐され、天下の人々は太平を望んだ。しかしながら梁冀は非常にこれを妬んだ。初め、順帝の時に任命された官員は多くが順序に従わなかった。李固が主事するに及び、上奏して免官した者が百余人に及んだ。これらの人々は既に怨恨し、また梁冀の意に迎合しようと望み、共に匿名の誣告奏章を作り、李固を誣告して言った。「太尉李固は、公に仮託して私利を図り、正道に依って邪僻を行い、皇室の近親を離間し、自ら党羽を培っている。大行皇帝の柩を停めて葬るを待つに、路人さえも面を掩いて泣いているのに、ただ李固だけは脂粉を塗り、容貌を飾り、頭を搔き姿を作り、徘徊俯仰し、緩歩漫歩して、全く悲痛哀傷の心がない。山陵が未だ成らざるに、旧政に違背して改変し、好事は己に帰し、過失は君主に帰す。近臣を斥逐し、彼らに侍奉送葬を許さない。威福を作すこと、李固より甚だしい者はない!子の罪は父を累するより大なるものはなく、臣の悪は君を毀るより深いものはない。李固の過ち罪孽は、事に按じて死刑に当たる。」奏章が上呈され、梁冀はそれをもって太后に報告し、太后に奏章を関係部門に下すよう求めた。太后は従わなかった。
広陵の賊寇張嬰がまた数千人を集めて反叛し、広陵に拠った。
二月、乙酉の日、天下に大赦を下した。
西羌の叛乱は多年に及び、八十余億銭を費やした。諸将は多く軍糧を截留克減し、私かに中飽私囊し、皆珍宝をもって皇帝の側近を賄賂した。上下に放縦で、軍事を顧みず、兵士が善終を得ない者は、白骨が野に相望んだ。左馮翊の梁并は恩徳信義をもって叛羌を招撫誘降した。離湳・狐奴ら五万余戸が皆梁并の所に降り、隴右はまた安定に復した。
太后は、徐州・揚州の盗賊がますます猖獗を極めたため、広く将帥を求めた。三公は涿県の県令である北海の滕撫が文武の才能あると推挙した。詔を下して滕撫を九江都尉に任命し、中郎将の趙序と共に馮緄を助け、州郡の兵数万人を集めて共同で討伐させた。また、広く懸賞をかけて募兵し、賞銭と食邑にはそれぞれ等差を設けた。さらに、太尉の李固を派遣することも議されたが、まだ出発していなかった。三月、滕撫らは進軍して諸々の賊を攻撃し、大いにこれを破り、馬勉・范容・周生ら一千五百人を斬った。徐鳳は残党を率いて東城県に放火した。夏、五月、下邳人の謝安が募兵に応じ、その宗族・親族を率いて伏兵を設け、徐鳳を攻撃してこれを斬った。謝安を平郷侯に封じた。滕撫を中郎将に任命し、揚州・徐州二州の事務を督管させた。
丙辰の日、詔を下して言った:「孝殇皇帝は即位して一年を超え、君臣の礼制はすでに完成した。孝安皇帝は統業を継承したが、前代は恭陵を康陵の上に位させ、先後が超越し、秩序を失った。今、これを改正すべきである。」
六月、鮮卑が代郡を侵犯した。
秋、廬江の盗賊が尋陽を攻撃し、また盱台を攻撃した。滕撫は司馬の王章を派遣してこれを撃破した。
九月、庚戌の日、太傅の趙峻が死去した。
滕撫は進軍して張嬰を攻撃した。冬、十一月、丙午の日、張嬰を撃破し、斬獲した者は一千余人に及んだ。丁未の日、中郎将の趙序は怯懦で敵を畏れ、斬首の数を虚偽報告した罪により、棄市の刑に処された。
歴陽の賊寇・華孟は自ら黒帝と称し、九江太守の楊岑を攻撃して殺した。滕撫は進軍してこれを攻撃し、撃破して華孟ら三千八百人を斬り、七百余人を捕虜とした。ここにおいて東南は完全に平定され、軍を整えて帰還した。滕撫を左馮翊に任命した。
永昌太守の劉君世は、黄金で蛇を鋳造し、大將軍の梁冀に献上しようとした。益州刺史の种暠がこれを摘発して逮捕し、駅伝で速やかに上奏した。梁冀はこのため种暠を恨んだ。折しも巴郡人の服直が党羽数百人を集め、自ら天王と称した。种暠と太守の応承がこれを討伐・捕縛しようとしたが、勝利できず、官吏や民衆に多くの死傷者が出た。梁冀はこれに乗じて彼らを陥れ、种暠と応承を逮捕するよう命じた。李固は上疏して言った:「臣は聞くところによれば、討伐・捕縛の際に生じた死傷は、本来种暠・応承の本意ではなく、実に県吏が法律を恐れ罪を責められるのを懼れ、追及が過酷に過ぎたために、この不幸を招いたものです。近頃、盗賊が群れをなして起こり、各地に絶えることがありません。种暠・応承は、まず大悪を摘発したことによって相次いで罪に問われれば、臣は州県の検挙・摘発の意欲が挫かれ、かえって共に隠蔽し合い、もはや尽力する者がいなくなることを恐れます。」太后は奏章を覧て、そこで种暠・応承の罪を赦し、官職を免じるのみに留めた。金の蛇は司農府に送られた。梁冀は大司農の杜喬に借りて観ようとしたが、杜喬は彼に与えなかった。梁冀の幼い娘が亡くなり、公卿に喪礼に参列するよう命じたが、杜喬だけが行かず、梁冀はこのため恨みを抱いた。
