漢紀四十七
『資治通鑑』第055巻 【漢紀四十七】 阏逢執徐より柔兆敦牂に至る、凡そ三年。
孝桓皇帝中延熹七年(甲辰、西暦164年)
春、二月、丙戌、邟郷忠侯黄琼、薨ず。臨終に際し、上書して曰く「臣聞く、天道は盈満を忌みて謙損を尚ぶと。故に五帝・三王は皆、教化を道に立てて、敢えて自ら専らにせず。臣、先帝の厚恩を蒙り、又、陛下の殊遇を獲、三公の位に身を置きながら、綱紀を振挙し、匡正補救する能わず、実に罪過有り。陛下、前に即位せる時、詔書に前代の教訓を引き、孝文皇帝と先帝の政令を談ずれども、今、実行するを見ず。今、朝中の大臣、相競いて珍宝を進献し、守令ら、相競いて百姓を搜刮し、互いに贈遺し、私人を用い、法令厳苛に、賦税繁重なり。天地の間、災異頻発し、百姓流離し、国庫空虚なり。これ蓋し陛下、寛縱に失し、明察せざるが故なり。願わくは陛下、臣子らの言論を認真に考え、『尚書・洪範』の告诫を採り、賢能の人を用いられ、政事を清明にせば、則ち天下、非常に幸甚なり!」と。書奏上するも、皇帝、採納せず。
三月、癸亥、郿県に隕石落つ。
夏、五月、甲申、太尉楊秉、薨ず。楊秉、清白寡欲にして、嘗て自ら称して曰く「我に三不惑有り:酒、色、財」と。楊秉の薨去後、朝廷、其の子楊賜を郎中と為す。
秋、七月、日食有り。
八月、乙丑、司徒虞延、免官せらる。衛尉劉寬を司徒と為す。劉寬は劉崎の子なり。
冬、十月、帝、長安に幸し、章陵を祭祀す。壬辰、帝、宮に還る。
十一月、帝、広成苑に幸し、校獵す。
春、二月、丙戌、邟郷忠侯黄琼、薨ず。将に葬らんとする時、四方遠近の名士、来たりて参会する者、六七千人。初め、黄琼、家に在りて教授し、徐稚、嘗て彼に経書の大義を問う。黄琼の顕貴に及ぶや、徐稚、則ち復た彼と交わらず。是に至り、徐稚、弔問に往き、祭酒を進献し、哀哭して去り、誰たるを知る者無し。衆の名士、喪事の主持人に問うに、主持人曰く「先に一書生有りて弔問に来たり、粗布の衣服を著け、哭するに哀傷極まり、其の姓名を記憶せず」と。衆曰く「必ず徐孺子なり」と。是に於いて能言弁なる陳留の人茅容を選び、軽騎して追い、路に於いて之に追い及ぶ。茅容、為に酒肉を買い、徐稚、之と共に飲食す。茅容、国家の大事を問うに、徐稚、答えず。又、農事を問うに、徐稚、乃ち答う。茅容、帰り、状を衆に告ぐ。或る者曰く「孔子曰く『之と言う可きに言わざれば、人を失う』と。然らば則ち徐孺子、人を失うに非ずや」と。太原の人郭泰曰く「然らず。徐孺子の為人、清高廉潔にして、飢うれば之に食物を与う可からず、寒ければ之に衣服を与う可からず。而して季偉の為に酒肉を飲み食うは、既に季偉を賢人と知るが故なり。国家の大事に答えざるは、其の智は及ぶ可く、其の愚は及ばざるなり」と。
郭泰、学識広博にして、善く言談す。初め洛陽に游学し、当時の人、之を知らず。陳留の人符融、一見して嘆き奇しみ、是に於いて河南尹李膺に引薦す。李膺、之と相見るや曰く「吾、人の見る所多しと雖も、郭林宗に如く者は無し。其れ聰明識見、通達開朗、高雅周密淵博、当今の華夏、能く之に比する者を見ること鮮なし」と。是に於いて之と友を結び、此れより郭泰の名声、京城に震動す。後、郷里に帰るや、士大夫、河の辺に送るに至り、車両、数千輛有り。李膺、独り郭泰と同船して河を渡る。衆の賓客、之を望み、以て神仙と為す。郭泰、天性、人を識るに善く、士人を獎掖誘導するを好み、郡国を周遊す。茅容、年齢四十有余、田野に耕し、同輩と樹の下に雨を避くるに、衆人、皆、随意に蹲坐す。茅容のみ端坐し、愈々恭敬なり。郭泰、見て之を異とし、是に於いて仮宿を請う。翌日、茅容、鶏を殺し飯を作る。郭泰、己が為に備えしと以為う。茅容、半ばを分けて母に食わせ、残りの半ばを收藏し、自ら粗劣の蔬菜を用いて客と共に飯を食う。郭泰曰く「汝、誠に賢德にして、常人の遠くに超えたり!我郭林宗、尚お三牲の供えを減じて賓客を招待す。而して汝、此の如く為すは、真に我が友なり」と。起ち、之に揖し、従いて学ぶを勧む。茅容、遂に德行高尚の人と為る。巨鹿の人孟敏、太原に客居し、瓦罐を担いで地に堕とすも、頭も回さずして去る。郭泰、見て之に原因を問うに、孟敏答えて曰く「瓦罐已に破れり。之を看ること何の用か有らん」と。郭泰、其の決断力を有すると為し、之と談話し、其の徳行品性を知り、是に於いて游学を勧む。孟敏、是に於いて当世に聞こゆ。陳留の人申屠蟠、家貧にして、雇われて漆工と為る。鄢陵の人庾乘、若くして県衙に門卒と為る。郭泰、彼等を見て奇と為し、後、皆、名士と為る。其余の人、或いは屠夫・酒販に出身し、或いは兵士に出身し、郭泰の獎掖提携に因りて名を成す者、多し。
陳国の童子魏昭、郭泰に請いて曰く「経師は遇い易く、人師は遇い難し。願わくは御側に在りて、掃洒を供せん」と。郭泰、之を許す。郭泰、嘗て身体違和し、魏昭に命じて粥を作らしむ。粥成り、端して郭泰に奉るに、郭泰、之を呵して曰く「長者の為に粥を作るに、誠心敬意ならず、人をして食う能わざらしむ」と。杯を地に投ず。魏昭、新たに粥を作り再び奉るに、郭泰、又、之を呵す。此の如きこと三たびに及び、魏昭の顔色、変わること無し。郭泰、是に於いて曰く「吾、始めは只だ汝の外貌を見るのみ。今より以後、乃ち汝の真心を知るなり」と。是に於いて之を友と為し、善く遇す。陳留の人左原、郡学の学生たり。法に因りて斥退せらる。郭泰、路に於いて之に遇い、為に酒菜を設けて之を慰安す。之に謂いて曰く「昔、顔涿聚は梁甫の大盗、段干木は晋国の大市侩にして、終に斉国の忠臣、魏国の名賢と為る。蘧瑗、顔回すら尚お過失無き能わず。況んや其余の人に於いてをや!千万、怨恨すること無く、只だ自ら省みるのみ」と。左原、其の言を受け入れて去る。或る人、郭泰の悪人と絶たざるを譏る。郭泰曰く「人もし不仁なるに、之を憎むこと過分なれば、即ち乱を出す」と。左原、後、忽ち又、怨恨を懐き、門客を聚集し、以て彼の学生に報復せんと欲す。当日、郭泰、学中に在り。左原、自ら先の言に違背せるを愧じ、是に於いて作罷して去る。後、事露見し、衆人、皆、感謝し佩服す。或る人、范滂に問いて曰く「郭林宗は何の如き人ぞ」と。范滂曰く「隠居して親情に悖らず、堅貞にして世俗に絶たず。天子、能く之を臣と為す能わず、諸侯、能く之と友と為す能わず。吾、他の者は知らず」と。郭泰、嘗て有道に薦挙せらるるも、就任せず。同郡の人宋冲、一向に其の德行を敬服し、漢の開国以来、能く之に匹敵する者を見ざるを以て、嘗て出仕を勧む。郭泰曰く「吾、夜に天象を観察し、昼に人事を考察す。上天の廃せんとする所は、人力の支撑する能わざる所なり。吾、将に悠々として日を度るのみ」と。然れども、仍お京師に周旋し、教誨誘導して止まず。徐稚、書を以て之に戒めて曰く「大樹、将に傾かんとするに、一縄の維繋する能わざる所なり。何ぞ忙忙として寧靖の時無きや」と。郭泰、感悟して曰く「謹みて此の言を拜受し、以て師と為さん」と。
済陰の黄允は、才華が秀でていることで名を知られていた。郭泰が彼に会って言った。「君は才能が高く、常人を超えている。大器を成すに足りる。四十歳を過ぎれば、名声は顕著になるだろう。しかし、その時に至ったならば、深く自らを戒めねばならない。さもなくば、それを失うことになるだろう!」その後、司徒の袁隗が姪の婿を求めようとして、黄允に会い、嘆息して言った。「このような婿を得ることができれば、それで十分だ。」黄允はこれを聞くと、妻を離縁した。妻は一族の親類を集めて別れの会を開くことを願い出た。そこで大勢の前で袖をまくり上げ、黄允の十五の隠れた醜事を数え上げてから立ち去った。黄允はこのために当時の人々から見捨てられた。初め、黄允は漢中の晋文経とともに、ともに自分の才智を恃み、遠近に名を轟かせ、招聘に応じなかった。彼らは京で病気を治療すると偽り、宾客と交際せず、公卿大夫は門生を遣わして朝晩見舞わせ、郎吏が門口に雑然と座っていても、なお会うことはできなかった。三公が招聘した人々は、常に彼らに諮問し、彼らの褒貶に従って、任用するか否かを決めていた。符融が李膺に言った。「この二人は何の行業や名声もなく、豪傑を自任し、公卿に見舞わせ、王臣を門に坐らせています。私は彼らの邪道が大義を破り、虚名が実質にそぐわないことを恐れます。特に考察すべきです。」李膺はその言を正しいとした。二人はここから次第に名声が衰え、宾客も次第に減り、十日ほどの間に、恥じ入り嘆息して逃亡した。後にともに罪によって斥けられた。陳留の仇香は、德行が純厚で寡黙であり、郷里で彼を知る者はいなかった。年四十歳の時、蒲亭の亭長となった。民の中に陳元という者がおり、母と二人で暮らしていた。母が仇香のもとに来て、陳元が不孝であると告げた。仇香は驚いて言った。「私は近頃、陳元の家を通りかかったが、庭は整えられ、耕作も時宜にかなっていた。これは悪人ではない。教化が行き届いていないだけだろう。母上は寡婦となって孤児を育て、辛苦して老いに至った。どうして一時の怒りによって、多年の勤労を捨てることができようか!ましてや母上は人の遺児を養い、彼を材たらしめることができないならば、もし死者に霊があれば、百年の後、どうして亡き人に顔向けできようか!」母は泣いて立ち上がった。仇香は自ら陳元の家に行き、彼に人倫孝道を述べ、禍福の道理で啓発した。陳元は悟り、遂に孝子となった。考城令の河内人・王奐は仇香を主簿に任命し、彼に言った。「あなたが蒲亭で、陳元に対して刑罰を用いずに感化したと聞いた。鷹鷲のような志が少し足りないのではないか?」仇香は言った。「私は鷹鷲は鸞鳳に及ばないと考えます。ですからそうしなかったのです。」王奐は言った。「枳棘の林は鸞鳳の栖まう所ではなく、百里の地は大賢の道行く所ではない。」そこで一ヶ月分の俸禄を仇香に与え、太学に入らせた。郭泰、符融が相次いで彼を訪ね、ともに宿った。翌朝、郭泰は起き上がり、床を下りて彼に拝して言った。「あなたは私の師です。私の友ではありません。」仇香は学成りて郷里に帰り、閑居する時も必ず衣服を正し、妻子は彼に仕えること、厳父に仕えるが如くであった。妻子に過ちがあれば、彼は冠を脱いで自らを責め、妻子が庭中で謝罪し思い悩むと、冠を被り、妻子は初めて堂に上がることを許された。終始、喜怒の声や色に異変を見せることはなかった。彼は招聘に応じず、家で没した。
三月、癸亥の日、鄠県に隕石が降った。夏、五月、己丑の日、京に雹が降った。荊州刺史の度尚は、諸蛮夷の部落を募って艾県城を攻撃し、大いに賊軍を破り、降伏した者は数万人に上った。桂陽の老賊、卜陽・潘鴻らは深山に逃げ込んだ。度尚は数百里にわたって追撃し、彼らの三つの営寨を破り、大量の珍宝を鹵獲した。卜陽・潘鴻の党羽はなおも多く、度尚は彼らを攻撃しようとしたが、兵士たちは驕り富み、戦意がなかった。度尚は、緩めれば戦わず、迫れば必ず逃亡すると考え、そこで宣言した。「卜陽・潘鴻は十年にわたって賊となり、攻守に習熟している。今、兵力は少なく、容易に攻められない。各郡から徴発した部隊が全て到着するのを待ち、力を合わせて攻撃しよう。」彼は軍中に命じて、兵士に狩猟を自由にさせた。兵士たちは大いに喜び、老若を問わず皆出かけた。度尚はそこで密かに腹心を遣わし、ひそかに営寨に火を放たせ、蓄積していた珍宝を全て焼き尽くした。狩人たちが戻ってきて、涙を流さない者はいなかった。度尚は一人一人を慰労し、深く自らを責めて言った。「卜陽らの財宝は、数代を富ませるに足るものだ。君たちが力を合わせようとしないだけだ。失ったものなど、何を気にするに足ろう!」衆人は皆、怒り奮い立った。度尚は馬に十分な飼料を与え、兵士を飽食させ、翌朝早く、賊軍の陣営に直進した。卜陽・潘鴻らは自らの陣営は堅固だと思い込み、もはや警戒しなかった。官兵は鋭気に乗じ、遂に賊軍を破り平定した。度尚は出兵して三年、群寇はことごとく平定され、右郷侯に封じられた。
冬、十月、壬寅の日、帝は南巡した。庚申の日、章陵に到着した。戊辰の日、雲夢に到着し、漢水に臨み、帰路に新野に到着した。当時、公卿・貴戚の車両は数万に及び、徴発の費用や労役は数えきれなかった。護駕従事の桂陽人・胡騰が上書して言った。「天子に外出というものはありません。車駕の臨む所、即ち京師です。私は、荊州刺史を司隷校尉に準じ、私自身を都官従事に準じることを請います。」帝はその言を聴き入れた。ここから紀律は厳明となり、敢えて妄りに郡県に干渉する者はいなかった。帝は南陽にあり、左右の者は皆、結託して利を謀り、詔書は多くの者を郎官に任命した。太尉の楊秉が上疏して言った。「太微星の中に集まる星宿は、郎位と名付けられています。宮中に入っては宿衛し、宮中を出ては民を治めるものです。忍び難い恩情を断ち切り、私欲を求める道を絶つべきです。」ここにおいて、郎官を任命する詔書は止められた。
護羌校尉段颎、当煎羌を攻撃し、これを破った。十二月、辛丑の日、皇帝、宮中に還る。中常侍汝陽侯唐衡、武原侯徐璜、ともに死去す。初め、侍中寇栄は、寇恂の曾孫にして、性情矜持高潔、人と交わること少なく、それにより権寵の者に憎まれ忌まれていた。寇栄の従兄の子、皇帝の妹益陽長公主を娶り、皇帝またその従孙女を後宮に入れた。皇帝の左右の者、ますますこれを憎み、ともに誣いて罪ありとし、寇栄は宗族とともに免官されて原郡に遣わされた。吏は旨に迎合し、逼迫することますます急なり。寇栄、幸免する能わざるを恐れ、朝廷に至りて自ら弁白せんとす。未だ到らざるに、刺史張敬、寇栄が擅に辺境を去るを追劾し、皇帝、詔してこれを逮捕す。寇栄、逃竄すること数年、大赦に遇えども、罪責を免れられず、積久困窮し、逃亡の中にありて上書すらく、「陛下、天を統べ物を理め、百姓の父母と為り、歯牙あるより以上、皆恩徳を蒙る。而るに我が兄弟、独り無罪を以て、専権の大臣に排せられ、青蝇の小人に共に構われ、陛下をして慈母の仁慈を忽せにせしめ、投杼の怒りを発せしむ。残酷諂諛の吏、羅網を張り、並び駆け争先し、仇敵に赴くが如く、罰は死者に延び、塚墓を掘り、厳朝をして必ず過分の罰を加えしめんと欲す。故に我、敢えて天威に触れず、私に山林に逃竄し、以て陛下の聖神の聴聞を発し、独見の明察を啓き、救うべきを救い、将に溺れんとする命を援けんと待つ。積怒、春夏に因りて息まず、積怨、歳時に因りて懈らず、遂に馳使郵駅、遠近に布告し、苛文刻薄、霜雪より酷く、我を追う者、路途を窮め、我を捕らうる者、車軌を尽くす。楚が伍員を懸けて捉え、漢が季布を追うも、これに過ぎず。我、罰を受けてより以来、三赦二贖を経、証拠なき罪は、以て免るるに足る。而るに陛下の我を痛むることますます深く、有司の我を究むることますます力め、息めば滅せられ、動けば逃亡の虜と為り、苟も生きれば窮人、終に死すれば冤鬼、天広くして以て自ら覆うこと無く、地厚くして以て自ら載すこと無く、陸地を踏めども沈淪の憂いあり、高牆を遠ざくれども鎮圧の患いあり。若し我、大悪極罪を犯し、以て原野に屍を陳べ、刀鋸を備え嘗むるに足らば、陛下、当に我が罪状を公布し、以て衆人の議論の疑惑を解くべし。我、国門に入り、肺石の上に坐し、三槐九棘をして我が罪過を評判せしめんと欲すれども、宮門九重、陷阱步步に設けられ、足を挙げれば羅網に触れ、動けば罔縄に掛かり、万乗の前に至る能わず、見信の期を得ること永遠になし。悲しむべきかな、久しく生きて何の意かあらん!忠臣、身を殺して以て君王の怒りを解き、孝子、命を殞して以て親の怨恨を安んず。故に大舜、塗廩浚井の危難を避けず、申生、姫氏の谗邪の誹謗を辞せず。我、豈にこの道を忘れて、自ら了断して以て朝廷の怒りを解かざらんや!願わくは身を以て責任を負い、陛下の兄弟の死命を恕し、我が一家に少しく後裔を有たしめ、以て陛下寛恕の恩恵を推し広めんことを。死に臨みて情状を陳べ、章に臨みて血を泣く!」皇帝、奏章を見てますます怒り、遂に寇栄を殺し、寇氏ここに衰えて廃せられ棄てられたり。
孝桓皇帝中延熹八年(乙巳、西暦一六五年)
春、正月、桓帝、中常侍左悺を遣わし、苦県に至りて老子を祭らしむ。
勃海王劉悝、平生、陰険奇怪な行いを為し、常に驕横僭越にして法度を守らず。北軍中候陳留の人史弼、密封の奏章を上せて曰く、「臣聞く、帝王の親戚に対するや、寵愛深厚なれども、必ず威厳を示し、尊貴なれども、必ず礼法を以て之を約すと。然れば則ち和睦の道興り、骨肉の恩全うせらる。臣、私かに聞く、勃海王劉悝、外には軽浮凶悍の不法の徒を集め、内には酒色の享楽に沈湎し、出入り規則無く、与に居る者、皆家族に棄てられたる子弟、朝廷に貶せられたる臣子にして、必ず羊勝、伍被の如き変故有らん。州郡の官、敢えて弾劾検挙せず、太傅国相も輔佐匡正する能わず。陛下、兄弟の情を顧み、忍びて之を制止せず、恐らくは此の如くせば、禍患蔓延し、為す害益々大ならん。請う、臣の奏章を公にし、百官に宣示し、公正に法に依りて処分せよ。法令判定し、罪確定したる後に、不忍の詔書を下し、若し臣下堅く法を以て処分せば、然る後に少しく寛恕を加えよ。此の如くせば、聖朝、親情を傷つくるの譏り無く、勃海王も亦封国の福運を享有せん。然らずんば、大獄興らんことを恐る。」桓帝、採用せず。劉悝、果たして不軌を図る。有司、廃黜を請う。桓帝、詔して之を瘿陶王に貶し、ただ一県の食邑を享有せしむ。
丙申晦、日食有り。桓帝、詔して公・卿・校尉に賢良方正の士を挙げしむ。
千秋万歳殿、火災有り。
中常侍侯覧の兄侯参、益州刺史と為り、残暴貪婪、累積したる贓款、数億を以て計う。太尉楊秉、奏上して囚車を以て侯参を京師に押送せんと請う。侯参、途中に自殺す。其の車を視るに、三百余輛、皆金銀錦帛を満載せり。楊秉、因りて奏して曰く、「臣、旧典を考うるに、宦官、本と宮禁中にて駆使に供し、夜間の看守を掌るのみ。而るに今、過分の寵信を受け、政権を執り、権柄を操る。之に依附する者は、公事に藉りて褒揚推挙し、之に違逆する者は、機会を尋ねて中傷を行なう。其の居処は王公に比し、財富は国家と敵い、飲食は極めて奢華、僕妾は綾羅を満身に纏う。中常侍侯覧の弟侯参、貪婪残暴、罪大悪極、自ら滅亡を取れり。侯覧、己が罪過の深重なるを明らかに知り、必ず疑惧の心有らん。臣、愚昧に以て、復た侯覧をして陛下に親近せしむべからずと。昔、斉懿公、邴蜀阜の父に刑刑を加え、又た閻職の妻を奪い、而して此の二人をして同じ車に乗らしめ、遂に竹中の難を致せり。侯覧、速やかに斥退せられ、虎豺の地に投ぜらるべきなり。此の如き人、恩徳を以て寛恕すべきに非ず。請う、其の官を免じ、本郡に遣わし還せ。」奏章上りて後、尚書、楊秉の属官を召して責問し曰く、「官職を設置し、職責を分配し、各々主管の事務有り。三公は朝廷の外を掌り、御史は朝廷の内を監察す。今、汝、職を越えて近侍の官員を上奏す。此れ經典に拠るか、漢の制度に拠るか?請う、公に具体に答えよ!」楊秉、属官を遣わして答えて曰く、「《春秋伝》に云う、『国君の悪人を除くは、力の及ぶ限りを尽くす』と。鄧通、懈怠無礼なりしも、申屠嘉、鄧通を召して責問し、文帝、為に申屠嘉に請いて寛恕せり。漢の旧例、三公の職責、統べ管せざる所無し。」尚書、復た責問する能わず。桓帝、已むを得ず、遂に侯覧の官を免ず。司隷校尉韓𬙂、乗じて上奏して左悺の罪悪、及び左悺の兄太僕南郷侯左称が州郡に請託し求情し、財貨を聚斂し、非違を為し、賓客放縦にして、官吏百姓を侵犯することを劾す。左悺、左称、ともに自殺す。韓𬙂、又た上奏して中常侍具瑗の兄沛国相具恭の贓罪を劾す。具恭、廷尉に押送せらる。具瑗、獄中に至りて謝罪し、東武侯の印綬を還付す。桓帝、詔して之を都郷侯に貶す。単超及び単璜、単衡等、承襲して封ぜられし者、皆郷侯に降とさる。其の子弟分封せられし者、悉く爵位と封地を剥奪せらる。劉普等、関内侯に貶せられ、尹勲等も亦爵位を奪われたり。
桓帝後宮、多くの寵愛の姫妾有り。宮女、五、六千人に及び、加うるに駆使の僕役、又た此に倍す。而して鄧皇后、尊貴の地位に依り、驕横嫉妬し、桓帝の寵愛する郭貴人と互いに讒言して相誹謗す。癸亥の日、桓帝、皇后鄧氏を廃黜し、暴室に送る。鄧氏、遂に憂鬱して死す。河南尹鄧万世、虎賁中郎将鄧会、ともに獄に下され処死せらる。
護羌校尉の段颎は罕姐羌を攻撃し、これを撃破した。
三月辛巳の日、大赦天下が行われた。
宛陵の大族である羊元群は、北海郡の官を罷免されて郷里に帰る際、貪汚枉法の罪で名声が地に落ちていた。郡の役所の便所は構造が奇巧で、彼はそれを壊して車に載せて家に持ち帰った。河南尹の李膺は上表して彼の罪を審理しようとしたが、羊元群は宦官に賄賂を贈り、李膺は結局、逆に誣告されて罪に問われた。単超の弟である単迁は山陽太守となり、犯した罪で獄に下され、廷尉の馮绲は彼を拷問の末に死なせた。宦官たちは互いに徒党を組み、共に罪名を捏造し、緊急の上奏文で馮绲を誣告した。中常侍の蘇康と管霸は、天下の良田美業を強引に横領し、州郡の役人はあえて問責しなかったが、大司農の劉祐は諸地方に文書を送り、法令に従ってこれらの田産を没収した。桓帝は激怒し、劉祐を李膺、馮绲と共に左校で労役に服させる刑に処した。
夏、四月甲寅の日、安陵の陵園にある寝殿で火災が発生した。
丁巳の日、桓帝は詔を下して、郡国における各種の礼制に合わない祭祀の場を破却させ、洛陽の王涣の祠と密県の卓茂の祠のみを残すこととした。
五月丙戌の日、太尉の楊秉が死去した。楊秉の性格は、清白廉潔で欲望が少なく、かつて「私には三つのものに惑わされないものがある。それは酒、女色、財貨である」と言った。
楊秉の死後、彼が推薦した賢良方正の士である広陵の劉瑜がようやく都に到着し、上書して言った。「宦官は并列して封土を受け、互いに後継者を立てて爵位を継承させるべきではありません。また、寵愛される女子が大量に集められ、ただ宮中に住んで食糧を浪費し、生命を傷つけ、国の資財を無駄にしています。さらに、邸宅は増え続け、技巧を尽くし、山を切り開き石を掘り、厳しい刑罰で督促しています。州郡の官府は、それぞれ事務を考課していますが、奸邪で貪汚な状況は、すべて官吏の餌となっています。百姓は憂い苦しみ、賊徒の仲間に身を投じ、官府は兵を発してその罪を討伐しています。貧困な百姓の中には、自らの首を売って賞金を得る者もおり、父兄が互いに殺し合い、妻子は親が肢解されるのを目の当たりにしています。また、陛下は親しい寵臣の家へ密かに出行し、宦官の住まいを私的に訪れることを好み、賓客たちは商売を行い、その威勢は天を衝くばかりで、そのため暴虐放縦で、為さざるはありません。願わくば、陛下は諫諍の道を広く開き、前代の歴史を広く鑑とし、諂佞邪悪な者を遠ざけ、鄭国・衛国の淫靡な音楽を捨てられれば、政事は平和に至り、美德は祥瑞の風を感応させるでしょう。」桓帝は詔して特に劉瑜を召見し、災異の兆候について尋ねた。権力者たちは劉瑜に曖昧な答えをさせようと望み、そこで他の事柄をもって策問したが、劉瑜は再び心を尽くして答え、八千字余りを書き、その言葉は以前にも増して切実であり、議郎に任命された。
荊州の兵士である朱盖らが反乱し、桂陽の賊寇である胡蘭らと共に再び桂陽を攻撃した。太守の任胤は城を棄てて逃亡し、賊衆はついに数万人に達した。彼らは転じて零陵を攻め、太守の下邳人である陳球は城を堅く守って抵抗した。零陵の地勢は低く湿っており、木を編んで城壁としていたため、郡中は人心惶惶としていた。属吏が陳球に家族を避難させるよう建議したところ、陳球は怒って言った。「太守たる私は朝廷の符節を握り、任命を受けて一郡を治めている。どうして妻子を顧みて国家の威厳を損ねることがあろうか!再びこのようなことを言う者は斬る!」そこで大木をもって弓弦を作り、羽矛を矢として、機関を動かして発射し、多くの賊寇を殺傷した。賊寇は河流を塞いで水を城に注ごうとしたが、陳球は城内で地勢を利用し、逆に河水を決壊させて賊を攻め、互いに相持すること十数日、賊寇は攻め落とせなかった。当時、度尚は召還されて都に向かっていたが、桓帝は詔して度尚を中郎将とし、歩兵騎兵二万余人を率いて陳球を救援させ、各郡の兵力を徴発して合力して討伐攻撃させ、大いに賊寇を破り、胡蘭らの首級三千余顆を斬り、また度尚を荊州刺史とした。蒼梧太守の張叙は賊寇に捕らえられ、彼と任胤は共に召還され、棄市の刑に処された。胡蘭の残党は南へ逃れて蒼梧に向かい、交趾刺史の張磐は彼らを撃破したが、賊寇は再び荊州の境内に戻った。度尚は自らが責任を負うことを恐れ、そこで偽って上奏し、蒼梧の賊寇が荊州の境内に入ったと述べたため、朝廷は張磐を召して廷尉に引き渡して审讯した。供述はまだ実証されておらず、たまたま大赦があり許されたが、張磐はあえて出獄せず、かえってより固く刑具を握っていた。獄吏が張磐に言った。「皇恩は広大ですが、あなた様は出獄なさらない。これはなぜですか。」張磐は言った。「私は地方長官の地位にありながら、度尚に誣告され、獄中で罪を受けております。事には虚実があり、法には是非があります。私は確かに無罪であり、大赦は私の罪を免ずることはできません。もし忍び込んで苟且に罪を免れれば、永遠に侵犯侮辱の恥辱を蒙り、生きては悪吏となり、死しては悪鬼となるでしょう。どうか度尚を廷尉に召喚し、当面して是非曲直を対質させ、真偽を明らかにするに足ることを願います。もし度尚が召喚されなければ、私は骨を獄の欄干の下に埋め、ついに空しく出て、冤罪を蒙ることはありません。」廷尉はその状況を上奏し、桓帝は詔して度尚を召喚した。度尚が廷尉に到ると、理屈が尽きて言葉に窮し、罪を認めて服従したが、先に功績があったために寛恕された。
閏月甲午の日、南宫の朔平署で火災が発生した。
段颎は西羌を撃破し、進軍して窮追し、山谷の間を転々とし、春から秋に至るまで、一日も戦わない日はなく、羌虜はついに敗散し、合わせて首級二万三千級を斬り、数万人を捕虜とし、降伏した者は一万余部落に及んだ。段颎は都郷侯に封ぜられた。
秋、七月、桓帝は太史大夫の陳蕃を太尉に任命した。陳蕃は太常の胡広、議郎の王暢、弛刑徒の李膺に譲ろうとしたが、桓帝は許さなかった。王暢は王龔の子であり、かつて南陽太守となり、当地に貴戚豪族が多いことを憎み、着任後、政は威猛で、大族の中に法を犯す者があれば、時に官吏を派遣して彼らの家屋を破壊し、樹木を伐採し、井戸を埋め、かまどを平らにした。功曹の張敞は記事の竹簡を差し出して諫めて言った。「文翁、召父、卓茂らの人々は、皆温和寛厚な政策をもって地方を治め、美名を後世に残しました。家を壊し木を伐ることは、このやり方はあまりに厳烈であり、悪人を懲戒しようとするものの、名声を遠くに広めることは難しいでしょう。南陽は旧都であり、畿内の侯国に属し、園陵廟宇は章陵より出で、三人の皇后は新野に生まれ、光武の中興以来、功臣将相は、世々盛んであります。私は愚昧ながら、刑罰を勤めに用いるよりも、恩徳を施すに如かず、奸邪を努めて査問するよりも、賢才を礼遇するに如かずと考えます。舜が皐陶を用いたので、不仁の者は遠ざかりました。民を教化するのは徳にあり、刑罰を用いるにあらず。」王暢は深くその建議を受け入れ、寛和な政治に改め、教化は大いに盛んに行われた。
八月戊辰の日、初めて郡国中で田を有する者に、一畝あたり賦税銭を徴収するよう命じた。
九月丁未の日、京師で地震が発生した。
冬、十月、司空の周景が免職となった。太常の劉茂を司空に任命した。劉茂は劉愷の子である。
郎中である竇武は、竇融の玄孫であり、その娘は貴人であった。采女の田聖が桓帝の寵愛を受け、桓帝は彼女を皇后に立てようとした。司隷校尉の応奉は上書して言った。「母后の地位は極めて重要であり、国家の興廃に関わります。漢は趙飛燕を皇后に立てたため、後嗣が絶えました。まさに『関雎』が求める后妃の徳を思い、五つの禁忌が忌むところを遠ざけるべきです。」太尉の陳蕃もまた、田氏は出身が卑しく、竇氏は良家であるとし、非常に固く争った。桓帝はやむを得ず、辛巳の日、竇貴人を皇后に立て、竇武を特進・城門校尉とし、槐里侯に封じた。
十一月壬子の日、黄門北寺で火災が発生した。
陳蕃は幾度も李膺、馮紲、劉祐が冤罪を被っていると進言し、寛大な処置を求め、彼らの爵位と官職を上げるよう願い出た。繰り返し述べ、その言辞は誠実で切実であり、涙を流すに至ったが、桓帝は聴き入れなかった。応奉が上疏して言った。「忠賢の臣と勇武の将は、国家の核心であり脊髄であります。私は私かに左校の弛刑徒である馮紲、劉祐、李膺らが、邪悪な臣を摘発し、法に従って彼らを処罰したのを拝見しました。陛下は明察されず、かえって誣告の訴えを弁別なく受け入れられ、そのために忠臣を大悪人と同罪にされました。春から冬に至るまで、寛恕を得られず、遠近の者が見聞きし、皆ため息しております。政事を建立する要諦は、功績を覚え過ちを忘れることにあります。ゆえに漢武帝は刑徒の中から韓安国を赦免し、漢宣帝は亡命の中から張敞を召し出しました。馮紲は先に蛮荆を討伐し、尹吉甫に相当する功績がございます。劉祐は幾度も監督の職を務め、強勢を恐れず弱さを欺かない節操がございます。李膺は幽州・并州に威名を樹立し、度遼将軍の任に恩恵を残しました。今や三方の辺境が蠢動し、朝廷の軍隊は未だ振るい立ちませぬ。李膺らを赦免し、不測の事態に備えられるよう願い上げます。」奏章が上呈されると、桓帝はついに彼らの刑罰を全て免除した。久しくして、李膺は再び司隷校尉に任命された。当時、小黄門張譲の弟の張朔が野王県令を務め、貪欲で残虐非道であり、李膺の威厳を恐れて京師に逃げ帰り、兄の家の中空の柱の中に隠れた。李膺はこの状況を知り、吏卒を率いて柱を打ち破り張朔を捕らえ、洛陽の獄に送り、口供を録し終えると、直ちに彼を殺した。張譲が桓帝に冤罪を訴え、桓帝は李膺を召し出し、なぜ先に奏上せずに誅殺したのかと詰問した。李膺が答えて言った。「昔、孔子が魯の司寇となり、任に就いて七日で少正卯を殺しました。今、私は任に就いてすでに十日、私かに時を遷らせて過ちを犯すことを恐れましたが、まさか速やかに行動したことで罪を得ようとは思いませなんだ。私は確かに自らの罪科を知り、死期は目前であります。ただ、あと五日を私に留め、元凶大悪を滅ぼし尽くしてから、鼎鑊の刑に服することを願います。これこそ私が平生より望むところであります。」桓帝は更に言うことはなく、振り返って張譲に言った。「これは汝の弟の罪である。司隷校尉に何の過ちがあろう。」そこで李膺を退出させた。これより後、全ての黄門・常侍は恭敬謹慎し、息を殺し、休暇の時にも宮省を出ようとしなかった。桓帝が怪しんでその理由を問うと、皆叩頭して涙を流し、「李校尉を恐れております」と言った。当時、朝廷は日益に混乱し、綱紀は廃れ弛緩していたが、李膺だけは風骨と裁断力を保ち、名声を以て自らを高め、士人の中で彼に受け入れられ謁見した者を、「竜門に登る」と称した。
東海相の劉寬を尚書令に召した。劉寬は劉崎の子であり、三郡の太守を歴任し、温和で仁厚、多くを寛恕し、急迫の時においても、未だかつて疾言厲色(激しい言葉や厳しい表情)があったことがなかった。吏民に過ちがあれば、ただ蒲の鞭で罰し、恥をかかせるのみで、ついに苦刑を加えなかった。父老に会うごとに、農事や郷里の言葉で彼らを慰め、若者に会うごとに、孝悌の道理で彼らを励ましたので、人々は皆心から服し感化された。
孝桓皇帝中、延熹九年(丙午、西暦一六六年)
春、正月朔日辛卯、日食があった。帝は詔を下し、公卿と郡国に至孝の人を推挙させた。太常趙典が推挙した荀爽が策問に答えて言った。「昔、聖人は天地の間の中道を確立し、これを礼と名付けました。諸々の礼の中で、婚礼が最も重要であります。陽性は純粋で施与することができ、陰体は柔順で化育することができ、礼をもって楽を調和し、陰陽の気を節度し疎通させるので、子孫の吉祥を豊かにし、長寿の福に至ることができます。夏・殷・周の末世に至り、淫乱で節度がなく、陽気は上で枯渇し、陰気は下で阻隔されたので、周公が戒めて『その時には長寿の者もいなかった』と言いました。『左伝』に『足の指を截って靴に合わせる、誰が彼を愚かと言おう、何ゆえにこのような者と比べ、欲望を追い求めて身を喪うのか』とあります。まことに痛心に堪えません。私は私かに後宮の采女が五六千人おり、従官と侍使はなおその外にいることを聞き及びました。徒らに無辜の百姓の財物を収奪し、無用の女子を養い、百姓は外で窮し、陰陽は内で阻隔され、そのために和諧の気を感動させ、災異が屡々現れております。愚昧ながら、未だ皇帝の寵幸を受けていない宮女は、全てを遣り出して婚姻させることが、まことに国家の大福であると考えます。」帝は詔して郎中を任命した。司隷と豫州に飢饉が起こり、死者は十の四・五に及び、一家全滅する者もあった。
帝は詔して張奐を大司農に召し、また皇甫規を度遼将軍に代理させた。皇甫規は自分が連続して高位にあることを以て、退避を求めようとし、幾度も病と称して上書したが、聴き入れられなかった。恰も友人の霊柩が到着し、皇甫規は境界を越えてこれを迎え、そこで門客に密かに并州刺史胡芳に告げさせ、皇甫規が擅みに軍営を離れたので、速やかに挙奏すべきだと言わせた。胡芳が言った。「威明(皇甫規の字)は官位と仕途を避けようとして、私を激発したに過ぎない。私は朝廷のために人材を愛惜すべきであり、どうしてこの小僧の計略を成就させることができようか。」そこで追及しなかった。
夏、四月、済陰・東郡・済北・平原の黄河の水が清らかになった。司徒許栩が免職された。五月、太常胡広を司徒に任命した。庚午、帝は自ら濯龍宮で老子を祭祀し、彩色の毛織物を祭壇の装飾とし、純金を嵌めた器物を用い、華蓋の座を設け、郊祭の天地の音楽を用いた。鮮卑は張奐が去ったと聞き、南匈奴と烏桓を招き結びつけて共に反乱した。六月、南匈奴・烏桓・鮮卑が多条の路から辺塞に入り、沿辺の九郡を侵略略奪した。秋、七月、鮮卑が再び辺塞に入り、東羌を誘って共に盟約し呪詛した。ここに上郡の沈氐、安定の先零などの諸部落が共に武威・張掖を侵犯し、沿辺の地域は深くその害を被った。帝は詔して再び張奐を護匈奴中郎将に任命し、九卿の秩禄を以て幽州・并州・涼州の三州および度遼・烏桓の二営を督察し、同時に刺史・二千石の官員の才能の優劣を考察させた。
初め、帝が蠡吾侯であった時、甘陵の人周福に従って学び、即位するに及んで、周福を抜擢して尚書とした。当時、同郡の人で河南尹の房植が朝廷に名望があり、郷里の人がこのために謡を作って言った。「天下の規矩は房伯武、師に因りて官印を得たるは周仲進。」両家の賓客は互いに諷刺し揣摩し合い、ここに各々徒党を立て、徐々に仇怨を形成した。これより甘陵に南北部があり、党人の議論はここから始まった。汝南太守宗資は范滂を功曹に任命し、南陽太守成□は岑晊を功曹に任命し、皆心を尽くして信任し、彼らに善行を褒め称え過ちを正させ、府衙を粛清させた。范滂は特に剛直で、悪を憎むこと仇敵の如くであった。范滂の外甥の李頌は、一向に品行がなく、中常侍唐衡が宗資に嘱託し、宗資は彼を任用して官吏とした。范滂は文書を押さえて召し出さなかった。宗資は怒りを遷し、書佐朱零を鞭打った。朱零は仰向いて言った。「范滂は清廉公正であります。今日、鞭打たれて死ぬとも、范滂に背くことはできませぬ。」宗資はようやく止めた。郡中の中程度以下の者は、彼を怨まない者はいなかった。ここに両郡の謡が作られて言った。「汝南太守は范孟博、南陽宗資はただ書に判を押すのみ。南陽太守は岑公孝、弘農成□はただ坐して嘯くのみ。」
太学の学生は三万人余りおり、郭泰と潁川の人賈彪がその首領となり、李膺・陳蕃・王暢と互いに褒め称え推重した。学府の中の言葉に言った。「天下の模範は李元礼、強暴を畏れざるは陳仲挙、天下の俊秀は王叔茂。」ここに朝廷内外は風に従い、争って人物を品評することを崇尚し、公卿より下、その貶低の議論を恐れない者はなく、急いで鞋を履き門を叩いた。
宛県に富商の張泛という者がいた。後宮と姻戚関係があり、また精巧な細工物を巧みに作り、たびたび財物で宦官に賄賂を贈ったため、高位の官職を得て、権勢に乗じて横暴にふるまった。岑晊は賊曹史の張牧と共に成瑨に張泛らを逮捕するよう勧めたが、間もなく赦免があった。成瑨はついに張泛を殺し、その宗族や賓客を逮捕して二百余人を殺し、その後で朝廷に上奏した。小黄門の晋陽人・趙津は、貪欲で横暴放縦であり、一県の大害となっていた。太原太守の平原人・劉□質は郡吏の王允に命じてこれを討伐捕縛させ、これも赦免後に殺した。そこで中常侍の侯覧は張泛の妻に上書して冤罪を訴えさせ、宦官はこれに乗じて讒言し、成瑨と劉□質を陥れた。帝は怒り、成瑨と劉□質を召喚し、ともに獄に下した。関係する官員は旨に迎合し、成瑨と劉□質は罪に当たり死罪とすべきであると上奏した。
山陽太守の翟超は郡人の張倹を東部督郵に任命した。侯覧の家は防東にあり、百姓を虐げていた。侯覧の母が死去して帰郷し、大きな墓を築いた。張倹は侯覧の罪を列挙して上奏したが、侯覧がこれに乗じて妨害し、奏章はついに届かなかった。張倹はそこで侯覧の墳墓や宅院を破壊し、その家産を没収し、詳細に状況を上奏したが、やはり帝に届かなかった。徐璜の甥の徐宣は下邳県令となり、暴虐は特に酷かった。かつて前汝南太守の李暠の娘を求めたが得られず、そこで吏卒を率いて李の家に赴き、車にその娘を載せて連れ帰り、弄んで矢で射殺した。東海相の汝南人・黄浮はこれを聞き、徐宣の家族を逮捕し、老若を問わずすべて拷問した。掾史以下の者は固く諫めたが、黄浮は言った。「徐宣は国家の賊である。今日これを殺し、明日私を死罪にしても、目を閉じるに足る。」即座に徐宣を死罪に処して屍を曝した。そこで宦官は帝に冤罪を訴え、帝は怒り、翟超と黄浮は共に髪を剃り首枷をはめられる刑に処せられ、右校に送られて労役に服した。
太尉の陳蕃と司空の劉茂は共に諫め、成□、劉□質、翟超、黄浮らの罪を寛恕するよう求めたが、帝は喜ばなかった。関係する官員は彼らを弾劾し、劉茂は再び言うことができなかった。陳蕃はそこで独り上疏して言った。「今や寇賊は外にあり、これは四肢の病です。内部の政治が治まらないのは、心腹の患いです。私は寝ても安んじられず、食しても飽くことができず、まことに陛下の側近が日に日に親しみ、忠言が日に日に疎んじられ、内部の禍患が次第に積み重なり、外部の災難がまさに深まっていることを憂えています。陛下は列侯の中から抜擢されて皇位を継がれました。小戸の家でも百万の家産があれば、子孫はなお祖先の基業を失うことを恥じます。ましてや陛下の産業は天下を兼ね、先帝から継承されたものです。それなのに懈怠して自らを軽んじようとされるのですか!もし本当に自らを愛しまれないとしても、先帝が天下を得たときの辛勤努力を思わないでよいのでしょうか。先に梁氏の五侯が天下を毒害し、上天が聖意を開き、捕らえて誅殺しました。天下の議論は、やや安定することを期待しましたが、明鑑は遠くなく、翻車は昨日のようです。ところが近習の権勢が、また互いに煽り合い結びついています。小黄門の趙津、大奸猾の張泛らは、勝手に貪欲残酷にふるまい、陛下の左右に諂っています。前太原太守の劉□質、南阳太守の成□はこれを正し殺しました。赦免後に誅殺すべきではなかったと言えども、その誠心を推し量れば、邪悪を除くにあり、陛下にとって何の恨みがあるのでしょうか!ところが小人が勢いを得て、聖聴を惑わし、ついに天威をしてこれに怒らせ、必ずや刑罰を加えられました。すでに過分であるのに、ましてや重罰を加えて死罪に処するのですか!また、前山陽太守の翟超、東海相の黄浮は、公に奉じて曲げず、邪悪を憎むこと仇敵のごとくでした。翟超は侯覧の財物を没収し、黄浮は徐宣の罪を誅しましたが、ともに刑罰を受け、赦免も寛恕も得られませんでした。侯覧の横暴を思えば、その財物を没収されたのは幸運です。徐宣の罪は、死しても余罪があります。昔、丞相の申屠嘉は鄧通を召し責め、雒陽令の董宣は公主を辱めましたが、漢文帝はその請いを順じ、光武帝は重く賞し、二人の大臣が独断で誅殺したとは聞きません。ところが今、陛下の側近の一群の宦官は、自分の同類が害されるのを憎み、やたらに互いに結託して、このような刑罰の譴責を招いています。私のこの言葉を聞けば、また泣き叫んで訴えるでしょう。陛下は深く、近習の政治に参与する源を断ち塞ぎ、尚書や朝廷の省署の士人を引き入れ受け入れ、清廉高尚な人を選び、諂い邪悪な人を斥け罷めるべきです。そうすれば上天は上で和し、大地は下で融け合い、吉祥の兆しなど、遠くにあるでしょうか。」帝は採用しなかった。宦官はこのためますます陳蕃を憎み、選挙や上奏議は、常に中詔で譴責し却下し、長史以下の者は多くこれによって罪を得たが、陳蕃は名臣であるため、害を加えることはできなかった。
平原人の襄楷は朝廷に上疏して言った。「私は、皇天は言葉を発さず、文象をもって教化を設けると聞いています。ひそかに太微・天廷の五帝の座を見ますと、金星・火星といった罰星がその中で輝いており、占いに従えば、天子の凶兆です。またともに房宿・心宿に入り、法則上は後嗣がありません。前年の冬は大寒で、鳥獣は凍え死に、魚鼈は傷つき、城辺の竹柏の葉には傷み枯れたものがありました。私は師から聞きました。『柏が傷つき竹が枯れれば、二年を出ずして、天子に応験がある。』今、春夏以来、連続して霜雹や大雨雷電がありました。これは陛下が威福をなされ、刑罰が急であることの応験です。太原太守の劉□質、南阳太守の成□は、奸邪を除くことを志し、彼らが誅殺した者は、みな人心にかなっていました。ところが陛下は宦官の讒言を受け入れ、遠くから逮捕拷問されました。三公は上書して劉□質らを哀れむよう求めましたが、採用されずに逆に厳しく譴責されました。国を憂える臣子は、これより口を閉ざすことでしょう。私は、無罪の人を殺し、賢人を誅すれば、禍は三世に及ぶと聞いています。陛下が即位されて以来、頻繁に誅殺刑罰を行われ、梁氏、寇氏、孫氏、鄧氏はみな族滅され、その連座した者はまたこの数に限りません。李雲は上書しましたが、明主は忌避すべきではありません。杜衆は死を請いましたが、実に聖朝を悟らせようとしたのです。ついに赦免も寛恕もなく、ともに残殺されました。天下の人々はその冤罪を知っています。漢朝が建って以来、今のように諫言を拒み、賢人を誅殺し、刑を用いることが深いことはありません。昔、文王はただ一人の妻で、十人の子を生みました。今、宮女は数千人いますが、生んだという報せは聞きません。徳を養い刑罰を軽くして、『螽斯』の福運を広めるべきです。春秋以来、および古代の帝王を考察しても、黄河が清んだことはありません。私は、黄河は諸侯の位であると考えます。清は陽に属し、濁は陰に属します。黄河は濁るべきなのに反って清んだのは、陰が陽に変わろうとし、諸侯が天子になろうとするものです。京房の『易伝』に言う。『河水清らかなれば、天下太平なり。』今、上天は異象を示し、大地は妖異を吐き、人間には疫病が発生し、三者が同時に現れ、しかも黄河が清んだのは、春秋の時代に麒麟が出現すべきでないのに出現したのと同じで、孔子がそれを記して異事としたものです。願わくば陛下、清閑の機を賜り、私に言いたいことを言い尽くさせてください。」奏書は呈上されたが、顧みられることはなかった。
十数日後、さらに上書して言った。「臣は聞く、殷の紂王は女色を好み、そのために妲己が現れた。葉公は竜を好み、そのために真竜が庭に遊んだと。今、黄門・常侍は宮刑を受けた者であります。陛下はこれを愛護し礼遇し、倍の寵愛を与えておられます。後継ぎの兆しが無いのは、まさにこの事によるのではありませぬか。また宮中に黄老・浮屠の祠廟を設けたと聞きます。この道は清虚無為を旨とし、無為を崇尚し、生命を好み殺生を憎み、欲望を減らし奢侈を取り除くものです。今、陛下の嗜好と欲望は除かれておらず、殺戮と刑罰は情理を超えております。これでは彼らの道に背くものであり、どうしてその福運を得られましょうか。浮屠は桑の木の下に三晩も留まらず、長く恩愛を生むことを望みません。これは精誠の極みであります。このように一を守るからこそ、道を成すことができるのです。今、陛下は淫女艶婦を抱え、天下の美を尽くし、甘美な飲食を尽くし、天下の美味を極めておられます。どうして黄老を模倣しようと望まれましょうか。」奏書が上呈されると、すぐに彼を召し出し、尚書に命じて事情を問わせた。襄楷は言った。「古来、本来宦官はおりませぬ。武帝の末年、たびたび後宮に遊幸されたため、初めてこれを置いたのです。」尚書は意に迎合し、上奏して言った。「襄楷は言辞道理を正さず、経書の義理に背き、星宿に仮託して私意を寄せ集め、陛下を誣い事実を欺きました。どうか司隷に交付して襄楷の罪法を正し、逮捕して雒陽の獄に送るよう。」帝は、襄楷の言葉は激しくまた切実であったが、いずれも天文常象の法則によるものとして、殺さなかった。しかし、なお司寇の刑に処した。永平年間以来、臣民に浮屠の術を学ぶ者はあったが、天子は好まれなかった。帝の時に至り、初めて篤く信じ好まれ、しばしば自ら祈祷祭祀を行った。ここから仏法が次第に盛んとなり、襄楷がこれを言及したのである。
符節令汝南の蔡衍、議郎劉瑜は上表して成□・劉□質を救おうとし、その言辞は非常に激しく厳しかったが、やはり罪を得て官を免じられた。成□・劉□質は遂に獄中で死んだ。成□・劉□質はかねて剛直で、経学を有し、当時に知名であった。そのため天下の人々はこれを惜しんだ。岑晊・張牧は逃亡し隠れて死を免れた。岑晊が逃亡した時、親友は争ってこれを匿った。ただ賈彪だけは門を閉じて受け入れず、当時の人は彼を恨んだ。賈彪は言った。「『左伝』に『時機を見て動き、他人に累を及ぼすな』とある。公孝(岑晊の字)は君を要して禍を招き、自ら過ちを遺したのである。すでに奮戈して対抗すること能わざるに至ったのに、どうして包み隠すことができようか。」ここにおいて人々は皆、彼の裁断の正直さを服した。賈彪はかつて新息県長となり、小民は貧しく、多くは子を養育しなかった。賈彪は厳しく制度を定め、殺人と同じ罪とした。城南に盗賊がいて人を害し、城北に婦人が子を殺す者がいた。賈彪が出て検証しようとし、掾吏は彼を城南に連れて行こうとした。賈彪は怒って言った。「賊寇が人を害するは、これ常理なり。母子相残すは、天道に背く。」そこで車を北に向けて駆け、その婦人の罪を証した。城南の賊はこれを聞き、自ら縛して自首した。数年の間に、民で子を養う者は千をもって数えられた。皆「これは賈父の生んだものなり」と言い、子に名付けて皆賈とした。
河内の人張成は、風角の占いに長け、推し測って赦免があるべきと占い、子に人を殺させた。司隷の李膺は督促して逮捕したが、間もなく赦免に遇い釈放された。李膺はますます怒り、遂に判決を下してこれを殺した。張成はかねて方術をもって宦官と交わり、帝もしばしばその占いを問うた。宦官は張成の弟子牢修に教え、上書して告発させた。「李膺らは太学の游士を養い、各郡の学生と交わり、互いに馳せ、共に部党を結び、朝廷を誹謗し、風俗を疑い乱す。」ここにおいて天子は震怒し、詔書を郡国に下し、党人を逮捕し、天下に布告して、共に憎ませるようにした。案件は三府を経たが、太尉陳蕃は拒否して言った。「今查办する者は、みな天下の声望ある者、国を憂い忠公の臣であります。これらの者は十代の過ちがあってもなお寛宥すべきであり、どうして罪名も明らかでないのに逮捕拷掠することがありましょうか。」署名を肯んじなかった。帝はますます怒り、そこで李膺らを黄門北寺獄に閉じ込め、供辞に連なった者は、太僕潁川の杜密、御史中丞陳翔および陳寔、范滂ら二百余人に及んだ。あるいは逃亡して捕まらなかった者は、懸賞で手配し、使者は四方に動き出して絶え間がなかった。陳寔は言った。「我、獄に入らずんば、衆の拠る所なし。」そこで自ら進んで囚禁を請うた。范滂が獄に至ると、獄吏が彼に言った。「凡そ罪を得て囚えられる者は、皆皋陶を祭るべし。」范滂は言った。「皋陶は、古の正直の臣なり。范滂に罪なきを知らば、天の帝の許にて我がために理を申すべし。もし我に罪あらば、これを祭りて何の益かあらん。」衆人もここにおいて中止した。陳蕃はまた上書して極諫したが、帝はその言葉の激しいのを忌み、陳蕃が召し用いるに当たらざるをもって、策書を下してその官を免じた。
当時、党人の案件に連なって逮捕された者は、みな天下の著名な賢士であった。度遼将軍皇甫規は、自ら西州の豪傑であると思い、参与できぬことを恥じ、そこで自ら上書して言った。「臣は以前、前大司農張奐を推薦しましたが、これは党人に依附するものです。また、臣は以前、論罪されて左校で輸作した時、太学生張鳳らが上書して臣のために申し立てました。これは党人の依附するところであり、臣は罪を得るべきであります。」朝廷は知りながらも問責しなかった。杜密はかねて李膺と名声品行を併称され、当時の人は彼らを李・杜と呼んだ。そのため同時に逮捕された。杜密はかつて北海相となり、春に巡行し、高密に至り、鄭玄が郷の嗇夫であるのを見て、その特殊な才能を知り、すぐに召して郡中の職務を命じ、そこで学に送り、遂に大儒となった。後に杜密は職を去って家に帰り、守令に拝謁するたびに、多く陳請託があった。同郡の人劉勝も、蜀郡から老いて郷に帰り、門を閉ざして客を謝し、何にも干渉しなかった。太守王昱は杜密に言った。「劉季陵は清高の士であり、公卿にこれを挙げる者も多い。」杜密は王昱が自分を激しているのを知り、答えて言った。「劉勝は大夫の位にあり、上賓として遇されながら、善人を知りながら挙げず、悪事を聞きながら言わず、実情を隠して己を愛し、寒蝉の如し。これ罪人なり。今、志義を行い力を尽くす賢人は、我これを挙げ、道に背き節を失う士は、我これを糾す。これによって明府の賞罰を当たらしめ、美名を揚げるも、また万分の一の用をなすにあらずや。」王昱は慚愧し、彼を厚く遇した。
九月、光禄勳周景を太尉と為す。司空劉茂は免職された。冬、十二月、光禄勳汝南の宣酆を司空と為す。越騎校尉竇武を城門校尉と為す。竇武は位にある時、多く名士を召し、自身は清廉にして悪を憎み、礼物の賄賂を受けなかった。妻子の衣食は、わずかに足るのみであった。両宮の賞賜を得れば、全て太学の諸生に施し、貧民に施した。ここにおいて衆人の称誉は彼に帰した。
匈奴と烏桓は張奐の来るを聞き、相次いで帰順降伏し、合わせて二十万人。張奐はただその首悪のみを殺し、残りは全て慰撫して受け入れた。ただ鮮卑だけは辺塞を出て去った。朝廷は檀石槐が制御できないことを憂い、使者を派遣して印綬を持たせ王に封じ、和親しようとした。檀石槐は受け入れず、かえって侵掠をますます激しくした。自らその土地を三部に分けた。右北平より東、遼東に至り、夫余・濊貊の二十余城に連なるものを東部とす。右北平より西、上谷に至る十余城を中部とす。上谷より西、敦煌・烏孫に至る二十余城を西部とす。各々大人を置いてこれを統領させた。
