魏紀一
起自困敦之年,至玄黓摄提格之年,凡三年。
世祖文皇帝黄初元年(庚子,西暦二二〇年)
一、春、正月、魏武王曹操、洛陽に至る。庚子、薨ず。武王は人を見るに明らかで、察するに優れ、虚偽に惑わされ難かりき。奇才を識別し抜擢するに、微賤より出づるを拘らず、才能に従ひて用ゐ、皆その用を発揮せしむ。敵と対陣する時は、神色安閑として、戦を欲せざるが如くなりしも、機会を決し、勝ちに乗じて追撃するに至りては、気勢充満す。功労有りて賞すべき者には、千金を費やすも惜しまず。功労無くして賞を望む者には、一毫も与へず。法を執ること厳切にして、犯す者あれば必ず死に処す。時に囚人に対して涙することあれども、遂に赦さず。性、節倹を好み、華麗を喜ばず。故に群雄を刈り取り、天下をほぼ平定するを得たり。
時に太子曹丕は鄴城に在り。軍中騒動安んぜず。百官、喪を秘して発さざるを欲す。諫議大夫賈逵、事は秘すべからずと謂ひ、乃ち喪を発す。或る者は、諸城の守将をして、悉く譙県・沛県の人を用ゐるべきを言ふ。魏郡太守広陵の徐宣、声を厲して曰はく、「今、遠近一統し、人人、効忠の心を懐く。何ぞ必ずしも譙・沛の人に専ら用ゐて、久しく宮中の衛士たる者の忠心を沮むることを為さんや」と。乃ち止む。青州兵、擅に鼓を撃ちて相呼び去る。衆、之を禁ずべき、聴かざれば之を討つべきを謂ふ。賈逵曰はく、「不可なり」と。乃ち為に長檄を作り、沿途の地をして其の糧食を供給せしむ。鄢陵侯曹彰、長安より来りて喪に奔る。賈逵に先王の印綬の在る所を問ふ。逵、正色して曰はく、「国家、既に儲君有り。先王の印綬は、君侯の問ふべき所に非ず」と。凶問、鄴城に至る。太子曹丕、痛哭して止まず。中庶子司馬孚、諫めて曰はく、「君王、崩じ、天下、殿下に倚りて主と為る。上は宗廟の為に、下は万国の為に、何ぞ匹夫の孝を効ふべけんや」と。太子、久しく哭して乃ち止み、曰はく、「卿の言、是なり」と。時に群臣、初めて魏王の薨を聞き、聚まりて哭し、復た行列秩序無し。司馬孚、朝堂に於て声を厲して曰はく、「今、君王、崩じ、天下震動す。早く嗣君を立て、以て万国を鎮撫すべきに、唯だ哭するのみか」と。乃ち群臣をして哭を止め、禁衛を設け、喪事を辦ぜしむ。司馬孚は、司馬懿の弟なり。群臣、太子の即位は、詔命を待つべきを以てす。尚書陳矯曰はく、「魏王、外に薨じ、天下惶懼す。太子、哀を割きて位に即き、以て遠近の望を繋ぐべし。且つ愛子在側に在り、彼此変を生ずるあらば、則ち国家危し」と。即ち官備の儀礼を辦じ、一日の内に悉く具はる。翌朝、王后の命を以て、太子を策して魏王位に即かしめ、大赦す。漢献帝、即ち御史大夫華歆を遣はし、策書詔命を捧げて、太子に丞相印綬・魏王印綬を授け、冀州牧を兼領せしむ。乃ち王后を尊びて王太后と為す。
二、年号を改めて延康と為す。
三、二月、丁未朔、日食有り。
四、壬戌、太中大夫賈詡を太尉と為し、御史大夫華歆を相国と為し、大理王朗を御史大夫と為す。
五、丁卯、武王を高陵に葬る。
六、魏王曹丕の弟鄢陵侯曹彰等、皆其の封国に還る。臨菑侯曹植の国謁者灌均、魏王の意に迎合して奏すらく、「臨菑侯曹植、酒に酔ひて行い狂傲、使者を脅劫す」と。魏王、曹植を貶して安郷侯と為し、右刺奸掾沛国の丁儀及び其の弟黄門侍郎丁廙、并びに其の家の男口を誅す。皆曹植の党なり。
魚豢、論じて曰はく、諺に曰はく、「貧窮なれば学ばずして節倹、卑下なれば学ばずして恭敬」と。是れ人の性の異なるに非ず、勢の然らしむる所なり。假令、太祖曹操、早先に曹植等を防遏し得ば、則ち此の賢才の心意、焉んぞ非望を生ぜんや。曹彰、怨恨を懐くも、尚ほ未だ大なる咎を為さず。曹植に至りては、豈に風波を興す能はんや。乃ち楊修をして曹植に附するを以て害せられ、丁儀をして曹植の意に迎合するを以て族滅せしむ。悲しむべきかな。
七、始めて散騎常侍・散騎侍郎各四人を置く。宦官の官職を署令を過ぐることを得ざるを制す。金策を作り、石室に蔵む。時に侍中・常侍を選抜せんと欲す。魏王の左右の旧人、主管の官に示唆し、即ち直に之を用ゐ、他の人を選用せざらんと欲す。司馬孚曰はく、「今、嗣君位に即きたばかり、当に海内の英才賢士を進用すべきに、何ぞ此の機会に乗じて、自ら相推薦挙用せんと欲するか。官、其人を失へば、官を得る者も亦た尊ぶに足らず」と。乃ち他の人を改選す。
八、尚書陳群、朝廷の選官、能く人才を悉くせざるを以て、乃ち九品官人の法を立て、各州郡に中正を置き、人物を評定し、其の高下を分つ。
九、夏、五月、戊寅、漢献帝、魏王の祖父太尉曹嵩を追尊して太王と為し、夫人丁氏を太王后と為す。
十、魏王、安定太守鄒岐を以て涼州刺史と為す。西平の曲演、近郡を連ねて叛き、岐を拒む。張掖の張進、太守杜通を執へ、酒泉の黄華、太守辛機を受けず、皆自称して太守と為り、演に応ず。武威の三種の胡、又叛く。武威太守毋丘興、金城太守・護羌校尉扶風の蘇則に告急す。則、将に之を救はんとす。郡中人、皆な賊勢方に盛んなり、大軍の来るを待つべきを謂ふ。時に将軍郝昭・魏平、先に金城に駐屯し、詔を受けて西河を渡るを得ず。則、乃ち郡の重要官吏及び郝昭等に会し、議して曰はく、「今、賊勢盛んなりと雖も、皆新たに聚合したる者、或いは脅されて従ふ者にして、必ずしも同心ならず。其の隙に乗じて之を撃たば、善悪必ず分離す。分離すれば、則ち我に帰す。我、力を増し、彼、力を弱めん。兵衆を増す実益を得、又倍の気勢有り。之を率ゐて進討せば、敵を破るは必せり。若し大軍を待たば、日を曠して久しく、善人、帰する所無く、必ず悪人と結ばん。善悪一たび結べば、其の勢、分離し難し。詔命有りと雖も、之に違ひて権に順ひ、専断するも亦可なり」と。郝昭等、之に従ふ。乃ち兵を発して武威を救ひ、三種の胡を降し、毋丘興と共に張掖に於て張進を攻む。曲演、之を聞き、歩騎三千を率ゐて則を迎ふ。口には官軍を助くると称すれども、実は変を起こさんと欲す。則、之を誘ひて斬り、其の首を梟し、其の党、皆散走す。則、乃ち諸軍と共に張掖を囲み、城を破り、張進を斬る。黄華、恐懼して降を請ふ。河西、平定す。
当初、敦煌太守の馬艾が任地で死去すると、郡中の者たちは功曹の張恭を推挙して長史の事務を代理させた。張恭はその子の張就を朝廷に派遣して太守の任命を求めた。折しも黄華と張進が反乱を起こし、敦煌と連合しようとして張就を捕らえ、刀で脅した。張就は終始屈せず、密かに張恭に手紙を送って言った。「父上は敦煌を統率し、忠義は明らかであります。どうして私が困窮の境遇にあるからといって心を変えられることがありましょうか。今や大軍が間もなく到着します。ただ速やかに出兵して敵を牽制するのみです。どうか子に対する私愛のゆえに、私を九泉の下で遺憾の念を抱かせないでください。」張恭は即座に兵を率いて酒泉を攻撃し、別に二百名の鉄騎および属官を派遣し、酒泉北部の辺塞に沿って東へ進み、新任の太守尹奉を迎えた。黄華は張進を救援しようとしたが、西では張恭の軍を警戒し、その背後を攻撃されることを恐れたため、救援に向かうことができずに降伏した。張就はついに無事であり、尹奉は郡に赴任することができ、朝廷は詔を下して張恭に関内侯の爵位を賜った。
11 六月、庚午の日、魏王曹丕は軍を率いて南方へ巡視に向かった。
12 秋七月、孫権は使者を派遣して朝貢した。
13 蜀漢の将軍孟達は上庸に駐屯し、副軍中郎将の劉封と仲が良くなかった。劉封が孟達を侵犯し陵辱したため、孟達は部属四千余家を率いて降伏した。孟達の風采や挙措は才気があり見るべきものがあったので、魏王は非常にこれを重んじ愛し、自らと同じ車に乗せ、孟達を散騎常侍、建武将軍に任命し、平陽亭侯に封じた。房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新城郡とし、孟達に新城太守を兼任させ、西南方面の重任を委ねた。行軍長史の劉曄は言った。「孟達は苟且に求める心があり、しかも才能に恃み権謀術数を好みます。必ずや恩義に感じることはありません。新城郡は孫呉・蜀漢と接しており、もし変事が起これば国家の禍いとなりましょう。」魏王は聞き入れなかった。征南将軍夏侯尚・右将軍徐晃を派遣し、孟達と共に劉封を襲撃させた。上庸太守申耽は劉封に背いて降伏し、劉封は敗れて成都に逃げ帰った。
当初、劉封はもともと羅侯寇氏の子であり、漢中王劉備が剛に荊州に至った時、後継ぎがいなかったため養子とした。諸葛亮は劉封が剛強で勇猛であり、劉備の死後にはついに制御し難いであろうことを憂慮し、漢中王劉備にこの機会に除くよう勧めた。そこで劉封に自殺を賜った。
14 武都氐王の楊僕は本族の部落を率いて内属した。
15 甲午の日、魏王は譙県に滞在し、城東で六軍および譙県の父老・郷親たちのために大いに宴を設け、歌舞や雑技・百戯を催し、官吏や民衆は進み出て寿を祝い、日が暮れてから終わった。
孫盛が言う。三年の喪期は、天子より庶民に至るまで同じである。故に夏・殷・周の三代の末、七雄が争覇した衰微の時期においても、十日半月のうちに斬衰の喪服を廃し、哭祭して帰った後に麻衣や喪杖を脱ぎ去るようなことはなかった。漢の文帝に至り、古代の制度を改め、人倫道徳の綱紀は一挙に廃棄された。これは既に当時の道徳を薄くし、百代の風気を頽敗させたのである。魏王曹丕は漢の制度に追従し、重大な喪礼を廃し、最も重大な哀痛の中にあって宴飲享楽を設け、基業を継承する初めにあって王道教化の基盤を壊し、禅譲を受けるに及んでは公然と二女子を納れた。これにより魏王の寿命が長からず、魏国の国運の期限もまた短いことを知ることができる。
16 魏王は丞相祭酒の賈逵を豫州刺史に任命した。当時天下は平定したばかりで、刺史の多くは郡守を統轄することができなかった。賈逵は言った。「州官はもとより六条の詔書をもって二千石以下の官員を監察するものである。故にその考状はすべて明厳で幹能、鷹の飛揚するが如く、督察の才ありと言い、安静寬厚仁愛、和楽平易の徳ありとは言わない。今、地方長官は法令を怠り、盗賊は公然と横行し、州官は知りながら糾挙しない。天下どうして公平を得られようか。」逢迎放縦で法令を守らない二千石以下の官員に対しては、すべて検挙上奏して罷免した。外には軍備を整え、内には民政を治め、陂塘田地を興修し、運輸の渠道を通じ、官吏・民衆ともにこれを称えた。魏王は言った。「賈逵はまことの刺史である。」天下に公告を発し、豫州を以て模範とすべきものとした。賈逵に関内侯の爵位を賜った。
左中郎将の李伏、太史丞の許芝が上表して言った。「魏は漢に代わるべきであり、これは図讖・緯書に示され、そのような事は非常に多くあります。」群臣はそこで上表して魏王に上天と民衆の期待に順応するよう勧めたが、魏王は応じなかった。
冬十月、乙卯の日、漢の献帝は高祖の廟で祭祀を行い祈り、行御史大夫の張音を遣わし符節を持ち、玉璽・綬帯および詔書冊命を捧げさせ、帝位を魏に禅譲した。魏王は三度上書して辞譲し、そこで繁陽に祭壇を築き、辛未の日、壇に登って玉璽と綬帯を受け、皇帝の位に即き、燎祭を行って天地・山嶽河川を祭り、年号を改め、大赦を施した。
十一月、癸酉の日、漢の献帝を山陽公と尊び、漢の正朔を用い、天子の礼楽を用いることを許した。山陽公の四子を列侯に封じた。太王を太皇帝と追尊し、武王を武皇帝とし、廟号を太祖とした。王太后を皇太后と尊んだ。漢の諸侯王を崇徳侯に降し、列侯を関中侯に降した。群臣の封爵・昇進はそれぞれ等級が異なった。相国を司徒と改め、御史大夫を司空とした。山陽公は二女を魏帝に進めて嬪妃とした。
魏帝は正朔を改めようとした。侍中辛毗が言った。「魏氏は舜・禹の統緒に従い、上天に順い民心に合っています。殷の湯王・周の武王に至っては、戦争征伐によって天下を平定したからこそ、正朔を改めたのです。孔子は『夏の暦を施行せよ』と言い、『左伝』は『夏の暦数は上天の正道にかなう』と言っています。どうして必ずしもこれに反することがありましょうか。」魏帝はその言を是とし、これに従った。当時、群臣は一斉に魏朝の恩徳を称え、多くは前朝を卑しめた。ただ散騎常侍の衛臻のみが禅譲授受の道理を明らかにし、漢朝の美徳を称賛した。魏帝はしばしば衛臻を見て言った。「天下の珍宝は、山陽公と共に享有すべきである。」魏帝は太后の父母を追封しようとした。尚書陳群が上奏して言った。「陛下は聖明の大徳をもって天命に順応し帝位を受け、創業して制度を改革されました。永遠に後世の模範とすべきです。典籍の記載を考察するに、婦女に土地を分封し爵位を賜る制度はありません。礼法典籍において、婦女は夫の爵位に従うものです。秦朝は古代の法度に背き、漢朝はこれを踏襲しました。これは先王の良い典制ではありません。」魏帝は言った。「この議論は正しい。やはり施行しないことにしよう。」そこでこれを制度と定め、台閣の中に収めた。
十二月、洛陽宮の造営を始めた。戊午の日、魏帝は洛陽に向かった。
魏帝は侍中蘇則に言った。「先ごろ酒泉・張掖を破り、西域が使者を敦煌に派遣し、直径一寸の大珠を進献した。再び使者を派遣して購入することができるか。」蘇則は答えて言った。「もし陛下の教化が中原に行き渡り、恩徳が沙漠辺塞に流布すれば、求めるまでもなく自然に送られて来ましょう。もし求めて得るならば、それもまた貴ぶに足りません。」魏帝は黙した。
魏帝は東中郎将の蔣济を召して散騎常侍とした。当時、詔書があり征南将軍夏侯尚に賜って言った。「汝は心腹の重将である。特にこれを委任する。威福を作すことを得、人を殺すことも生かすこともできる。」夏侯尚は詔書を蔣济に見せた。蔣济が到着すると、魏帝は彼に聞き見たところを尋ねた。蔣济は答えて言った。「他の良いことはありません。ただ亡国の言葉を見たのみです。」魏帝は怒って顔色を変え、その理由を問うた。蔣济は詳しく答え、続けて言った。「『威福を作す』とは、『尚書』が明らかに戒めています。天子に戯言はありません。古人はこれに甚だ慎重でした。どうか陛下は明らかにしてください。」魏帝はすぐに人を遣わして先の詔書を追い返させた。
魏帝は冀州の兵士の家族十万戸を移住させて河南を充実させようとした。当時は天候が乾燥し、蝗の災害も起こり、民衆は飢えていた。諸部門はこれを行うべきでないと考えたが、魏帝の意志は非常に固かった。侍中の辛毗は朝中の大臣と共に謁見を求めた。魏帝は彼らが諫言しようとしていることを知り、厳しい表情で待ち構えたため、皆は敢えて口を開けなかった。辛毗が言った。「陛下は兵士の家族を移住させようとなさっていますが、この計画はどのようにしてお考えになったのですか?」魏帝が言った。「汝は我がこれを移すのが間違いだと思うか?」辛毗が言った。「私は確かに間違いだと思います。」魏帝が言った。「我は汝と協議しない。」辛毗が言った。「陛下は私を無能と思われず、側に置き、謀議の官の列に加えてくださいました。どうして私と協議なさらないのでしょう!私の申し上げることは私事ではなく、国家のためのことです。どうして私に怒りを向けられるのですか!」魏帝は答えず、立ち上がって内室に入った。辛毗は追いかけてその衣の襟を掴んだ。魏帝は勢いよく衣服を振り払って振り返らず、長い時間が経ってから出てきて言った。「佐治よ、なぜそんなに急に迫るのか!」辛毗が言った。「今、移住させれば、民心を失うばかりか、彼らに与える食糧もありません。ですから私は敢えて極力諫め争わざるを得ません。」魏帝はそこで半分だけ移住させることにした。魏帝はかつて外出して雉を射たことがあり、群臣を振り返って言った。「雉を射るのは実に楽しい!」辛毗が答えて言った。「陛下にとっては楽しくとも、臣下にとっては辛苦でございます。」魏帝は黙り込み、その後はめったに外出して狩猟をしなくなった。
文帝二年(辛丑年、西暦221年)
春、正月、議郎の孔羡を宗聖侯とし、孔子の祭祀を司らせた。
三月、遼東太守の公孫恭を車騎将軍に加えた。
再び五銖銭の使用を開始した。
蜀中に漢献帝が既に害されたとの噂が流れ、漢中王は喪を発し、喪服を着け、追諡して孝愍皇帝とした。群臣はこぞって祥瑞の符兆を語り、漢中王に帝位に就くよう勧めた。前部司馬の費詩は上疏して言った。「殿下方々は曹操父子が君主を逼り帝位を簒奪したために、万里の外に流亡し、士衆を集め、逆賊を討とうと準備なさっております。今、大敵が未だ攻略されていないのに先に自ら帝位に就けば、人心が疑念を抱くのではないかと恐れます。昔、高祖は楚の人と約し、先に秦を破った者を王とするとしました。咸陽を陥れ、子嬰を捕らえた時でさえ、なお譲る心を持っておられました。況や、殿下方々が未だ門庭を出でずして、自ら帝位に就こうとなさるなど!愚臣は確かに殿下方々がこれを為されるべきではないと考えます。」漢中王は喜ばず、費詩を左遷して部永昌従事とした。夏、四月、丙午の日、漢中王は武担山の南で皇帝の位に即き、大赦を行い、年号を章武と改めた。諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とした。
臣司馬光が言う。天が民を生み出した時、その勢いだけでは自ら治めることができず、必ず共に一人の君主を戴いてこれを治めさせる。もし暴虐を禁じ、禍害を除いてその命を全うさせ、善行を賞し、悪行を罰して混乱させなければ、これを君主と呼ぶことができる。故に、夏・殷・周の三代以前、海内の諸侯は何万国もあり、人民と社稷を持つ者は全て君と称された。万国を合わせてこれに君臨し、法度を定め、号令を発布すれば、天下に敢えて従わない者はなく、これを王と称した。王の徳が衰えた後、強国が諸侯を率いて天子を尊奉する者を、霸と称した。故に古来より天下に道が無く、諸侯が強力に争い、あるいは歴代王のいない者も、元より多かった。秦は書を焚き儒を坑し、漢が興り、学者たちは五徳の相生・相克を推し始め、秦は閏位であり、木徳と火徳の間にあって、霸であって王ではなく、ここに正統と閏位の論が興った。漢が傾覆し、三国が鼎立した。晋が統制を失い、五胡が雲のように乱れ、宋・魏以下、南北が分治し、それぞれ国史を持ち、互いに排斥し貶め、南方は北方を索虜と呼び、北方は南方を島夷と呼んだ。朱氏が唐に代わり、四方が分裂し、朱邪が汴梁に入り、王莽の新朝に準えられ、暦法と紀年は全て捨てられて計算されなかった。これは全て私心による偏頗な言葉であり、大公無私の通論ではない。臣は愚鈍で、前代の正統と閏位を識別するには足りませんが、私考では、もし九州を合わせて一統にできなければ、皆天子の名義を持ちながら、天子の実は無い。華夏と夷狄の仁厚・残暴、大小・強弱は時に異なるが、大要は古代の列国と異なるところが無く、どうして一国だけを特に尊崇・賞賛して正統と称し、その他を全て僭越・偽冒とするのであろうか!もし上から伝え受け継がれるものを正統とすれば、陳氏はどこから受け、拓跋氏はどこから受けたのか?もし中原華夏を占めるものを正統とすれば、劉淵・石勒・慕容皝・苻堅・姚萇・赫連勃勃の得た土地は、皆五帝・三王の旧都である。もし道徳あるものを正統とすれば、小国にも必ず賢明な君主がおり、夏・殷・周三代の末年にも、邪僻な君主が無かったわけではあるまい!故に正統と閏位の論は、古より今に至るまで、その義理を貫き通し、確固として人をして考えを変えさせないものは無い。臣が今叙述する所は、ただ国の興衰を述べ、民の憂楽を著録し、観る者に自らその中の善悪得失を選ばせ、勧め戒めとさせることを欲するのみで、『春秋』の如く褒貶の法則を設け、乱世を撥ねて正道に返すようなものではない。正統と閏位の問題は、臣の敢えて知る所ではなく、ただその功業の事実に拠って述べるのみである。周・秦・漢・晋・隋・唐は、皆かつて九州を統一し、位を子孫に伝え、子孫が微弱で流亡しても、なお祖宗の基業を継ぎ、復興の望みがあり、四方に彼らと争う者は、皆その元の臣下であったので、完全に天子の制度を以てこれを統治した。その他の土地が相等しく、徳が斉しく、統一できず、名号に差が無く、本来君臣の関係ではないものは、全て列国の制度を以てこれに当て、互いに勢いが均衡して、増減・軽重はなく、事実に背かず、最も公正に近いことを望む。しかし天下が分裂する時には、年・時・月・日を以て事の先後を記録しないわけにはいかない。漢が魏に位を伝え、晋がこれを受け、晋が宋に伝え陳に至り、隋がこれを取り、唐が梁に伝え周に至り、大宋がこれを継いだので、やむを得ず魏・晋・宋・斉・梁・陳・後梁・後唐・後晋・後漢・後周の年号を取り、各国の事を記録するのであり、これを尊び、他を貶めて、正統と閏位の区別があるのではない。昭烈帝の漢は、中山靖王の後裔と称するが、族属は疎遠で、その世系の数と名位を記録できず、宋高祖が楚元王の後裔と自称し、南唐烈祖が呉王恪の後裔と自称するのと同じで、是非は弁別し難く、故に敢えて光武帝や晋元帝に準えることをせず、彼に漢の遺統を継がせることをしなかった。
孫権は公安から鄂に都を移し、鄂の名を武昌と改めた。
五月、辛巳の日、漢主は夫人の呉氏を皇后と立てた。皇后は偏将軍の呉懿の妹で、元劉璋の兄の劉瑁の妻であった。子の劉禅を皇太子と立てた。車騎将軍の張飛の娘を太子妃に迎えた。
太祖が鄴城に入った時、文帝は五官中郎将であり、袁熙の妻である中山人の甄氏が容貌美麗であるのを見て心に愛慕し、太祖が彼のためにこれを娶らせ、子の曹叡を生んだ。文帝が皇帝の位に即くと、安平人の郭貴嬪が寵愛を受け、甄夫人は鄴城に留まり文帝に会えなかった。彼女は心に失意を抱き、怨みの言葉を口にした。郭貴嬪が文帝に讒言し、文帝は大いに怒った。六月丁卯の日、文帝は使者を遣わして甄夫人に自害を命じた。
文帝は宗廟が鄴城にあるため、洛陽の建始殿で太祖を祭祀し、家人の祭祀の礼を用いた。
9 戊辰の晦日、日食が発生した。関係する役所が上奏し、太尉を罷免するよう求めたが、文帝は詔を下して言った:「災異の発生は、天子を戒めるためのものである。それなのに、その過ちを大臣に帰するのは、どうして夏禹や商湯が自らを責めた本来の意味にかなうだろうか!百官に命じ、それぞれ敬んで自らの職務を全うせよ。今後、天地の間に災異が再びあっても、三公を弾劾してはならない。」
10 漢主・劉備は、その子の劉永を魯王とし、劉理を梁王に立てた。
11 漢主は関羽の死を恥辱と感じ、孫権を討とうと準備した。翊軍将軍・趙雲が言った:「国の敵は曹操であり、孫権ではありません。もし先に魏を滅ぼせば、孫権は自然に従います。今、曹操はすでに死にましたが、その子の曹丕が帝位を篡奪しました。民心に従い、早急に関中を図り、黄河・渭水の上流を占拠して凶悪な逆賊を討つべきです。関東の忠義の士は必ずや食糧を携え、馬を駆って王師を迎えるでしょう。魏を顧みず、先に呉と交戦すべきではありません。兵勢が一旦衝突すれば、すぐには終わりません。これは上策ではありません。」群臣の中で諫める者が多かったが、漢主は皆、聞き入れなかった。広漢の隠士・秦宓が天時は必ず不利であると述べたため、獄に下されて囚われ、後にようやく赦免されて放たれた。
当初、車騎将軍・張飛は、その雄壮で威猛なこと、関羽に次ぐものであった。関羽は兵卒をよく扱ったが士大夫には傲慢であり、張飛は君子を敬愛し礼遇したが軍人を顧みなかった。漢主は常に張飛を戒めて言った:「お前は刑を用いて人を殺すことがすでに過ぎ、また毎日のように健児を鞭打ちながら、彼らを側に置いている。これは禍を招く行為である。」張飛はなおも改めなかった。漢主が孫権を討とうとした時、張飛は一万人を率いて閬中から江州に向かい合流するはずであった。出発の間際、その帳下の将・張達と范彊が張飛を殺し、その首を携えて流れに沿って下り、孫権のもとに奔った。漢主は張飛の営都督が表章を上奏したのを聞き、「ああ、張飛が死んだか!」と言った。
陳寿は評して言う:関羽と張飛は、皆、万人の敵に当たる勇力を持つと称され、当世の虎将であった。関羽は曹操の恩に報い、張飛は厳顔を義によって放った。いずれも国士の風格を備えていた。しかし、関羽は剛腹で自らを恃み驕り高ぶり、張飛は暴虐で恩恵を施さず、自らの短所によって失敗を招いた。これは道理の常である。
12 秋七月、漢主は自ら諸軍を率いて孫権を攻撃した。孫権は使者を遣わして漢に和を求めた。南郡太守・諸葛瑾が漢主に手紙を送って言った:「陛下は関羽の親情を、先帝と比べてどちらとお考えですか?荊州の大小を、天下と比べてどちらとお考えですか?同じく恨むべきこととして、どちらを先にし、どちらを後にするべきでしょうか?これらの道理を悟れば、事は手のひらを返すように容易です。」漢主は聞き入れなかった。当時、諸葛瑾が別に親しい者を遣わして漢主と通じていると言う者があった。孫権は言った:「私と子瑜(諸葛瑾)は、生死を共にするとの不変の誓いがある。子瑜が私を裏切ることはなく、それは私が子瑜を裏切らないのと同じである。」しかし、誹謗の言葉が外部に流れたため、陸遜が上表して、諸葛瑾に必ずそのような事はないから、何か示すことで彼の疑いを晴らすべきだと述べた。孫権は返答して言った:「子瑜は我と長年共に事をなし、恩情は骨肉の如く、互いに深く理解し合っている。その人の為人は、道義に合わないことは行わず、道義に合わないことは言わない。劉備がかつて孔明を呉に遣わした時、私は子瑜に言った:『君と孔明は同胞の兄弟であり、弟が兄に従うのは、義理の上で順当である。なぜ孔明を留めないのか?孔明がもし留まって君に従えば、私は劉備に手紙を書いて説明する。これはただ人の意に任せるだけのことである。』子瑜は私に答えて言った:『弟の諸葛亮はすでに人に身を委ねています。名分が定まった以上、道義によって二心を持つことはできません。弟が留まらないのは、私が彼のもとに奔らないのと同じです。』その言葉は神明をも動かすに足る。今、どうしてそんなことがあり得ようか!先日、偽りの文書を受け取った時、私はすぐに封じて子瑜に見せ、自ら手紙を書いて彼に送った。私と子瑜は、いわば神交であり、外部の者の言葉が離間できるものではない。君の心意気は誠に篤いと知ったので、君の表章を封じて子瑜に見せ、君の思いを知らしめたのである。」
漢主は将軍・呉班と馮習を派遣し、巫県で孫権の将・李異や劉阿らを破らせ、秭帰に進軍した。兵力は四万余人であった。武陵の蛮夷は皆、使者を遣わして出兵を願い出た。孫権は鎮西将軍・陸遜を大都督・仮節に任命し、将軍の朱然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、鮮于丹、孫桓ら五万人を督率して防戦させた。
13 皇帝の弟である鄢陵侯・曹彰、宛侯・曹拠、魯陽侯・曹宇、譙侯・曹林、賛侯・曹兖、襄邑侯・曹峻、弘農侯・曹干、寿春侯・曹彪、歴城侯・曹徽、平輿侯・曹茂は、皆、爵位を進めて公とされた。安郷侯・曹植は鄄城侯に改封された。
14 陵雲台が築かれた。
15 当初、文帝は詔を下して群臣に、劉備が関羽のために出兵して孫権に復讐するかどうかを推測させた。人々は皆、議論して言った:「蜀は小国であり、名将は関羽のみである。関羽はすでに死に、軍は破られ、国内は憂慮と恐れに満ちている。出兵する理由はない。」ただ侍中・劉曄だけが言った:「蜀は狭小で衰弱しているとはいえ、劉備の計略は威武によって自らを強く見せようとするものであり、勢い軍を用いて力が余っていることを示すでしょう。ましてや関羽と劉備は、道義上は君臣であり、恩情は父子のようです。関羽が死んだのに、彼のために兵を挙げて復讐することができなければ、終始の名分において欠けるところがあるでしょう。」
八月、孫権は使者を遣わして魏に臣従を称し、言葉を低くして表章を差し出し、于禁らを送り返した。朝臣は皆、祝賀に来たが、ただ劉曄だけが言った:「孫権が理由もなく降伏を請うのは、必ず内部に緊急の事情があるからです。孫権は先に関羽を襲撃して殺しました。劉備は必ず大挙して兵を起こし、彼を討つでしょう。外に強い敵があり、人々の心は安らかでなく、また魏がその隙に乗じて攻撃するのを恐れています。それゆえ、土地を献じて降伏を請うことで、一つには魏の軍を退け、二つには魏の援助を借りて、自らの勢いを強め、敵を惑わそうとしているに過ぎません。天下は三分され、魏はその十分の八を占めています。呉と蜀はそれぞれ一州を守り、山河の険阻に頼り、急があれば互いに救援する。これが小国の利益です。今、彼らが逆に互いに攻撃し合うのは、天が彼らを滅ぼそうとしているのです。大挙して兵を起こし、直接長江を渡って呉を襲うべきです。蜀が外から攻め、我々が内から襲えば、呉の滅亡は十日半月を超えません。呉が滅びれば、蜀は孤立します。もし呉の半分を蜀に割譲しても、蜀は元来長くは存続できません。ましてや蜀が得るのは呉の外側であり、我々が得るのは呉の内側なのです!」文帝は言った:「人が臣従を称して降伏してきたのに、それを攻撃するのは、天下から来帰しようとする者の心を疑わせることになる。ひとまず呉の降伏を受け入れ、蜀の後方を襲う方がよい。」劉曄は答えて言った:「蜀は遠く、呉は近いです。また、魏が攻めてくると聞けば、蜀は軍を引き返すでしょう。それを止めることはできません。今、劉備はすでに怒り、兵を起こして呉を攻めています。我々が呉を攻めると聞けば、呉が必ず滅びると知り、喜んで進軍し、我々と呉の土地の分割を争うでしょう。必ずや考えを変え、怒りを抑えて呉を救援することはありません。」文帝は聞き入れず、ついに呉の降伏を受け入れた。
于禁は、鬚髪は雪のように白く、顔色は憔悴していた。文帝に謁見し、涙を流して叩頭した。文帝は荀林父や孟明視の故事をもって彼を慰め、安遠将軍に任命し、北の鄴城に行って高陵を拝謁させた。文帝はあらかじめ陵屋の中に、関羽が勝ち、龐徳が怒り、于禁が降伏して服罪する場面を描かせていた。于禁はそれを見て、慚愧し憤り、発病して死んだ。
臣・司馬光は言う:于禁は数万の軍隊を率い、敗れて節に死ぬことができず、生きて敵に降り、後に帰ってきた。文帝は彼を廃することもできたし、殺すこともできた。しかし、陵屋に絵を描いて彼を辱めたのは、君主の行為ではない!
16 丁巳の日、太常の邢貞を派遣し、策命を持たせて孫権を呉王に任じ、九錫を加えて賜った。劉曄が言った。「それはなりません。先帝は天下を征伐し、十分の八の土地を併合し、威は海内に震い渡りました。陛下は禅譲を受けて皇帝の位に即かれ、徳は天地に合い、名声は四方に伝わっています。孫権は雄才大略を持つとはいえ、かつての漢朝の票騎将軍、南昌侯に過ぎず、官職は軽く、地位は卑しいものです。士民は魏を恐れる心があり、無理に彼らに謀らせることはできません。やむを得ずその投降を受け入れるなら、将軍の名号を進め、十万戸の侯に封じるのがよく、すぐに王に封じるべきではありません。王位は天子に一階の差しかなく、その礼儀、俸禄、車服などは天子と混ざり合うことになります。彼はただの侯であり、江南の士民にはまだ君臣の名分がありません。我々が彼の偽りの降伏を信じて封じ立て、位号を高め、君臣の関係を定めるのは、虎に翼を授けるようなものです。孫権は王位を受けた後、蜀の兵を退けた後、外には礼を尽くして魏に事え、国内にそれを知らしめ、内には無礼を行って陛下を怒らせるでしょう。陛下が赫然として怒り、兵を起こして討伐すれば、彼はゆっくりとその民に告げて言うでしょう。『我は身を委ねて魏に事え、珍貨重宝を惜しまず、時に応じて貢ぎ、臣の礼を失わなかったのに、魏が理由なく我を攻めるのは、必ずや我が国を残害し、我が民を捕らえて奴婢とせんとするものだ』と。呉の民はその言葉を信じない理由がありません。その言葉を信じて感動し怒れば、上下心を一つにし、戦闘力は十倍に増すでしょう。」文帝はまた聞き入れなかった。諸将は呉が内附したため、皆弛緩したが、征南大将軍の夏侯尚だけがますます攻守の装備を整えた。山陽人の曹偉は、もとより才名があり、呉が藩と称するのを聞き、平民の身分で呉王と通じて賄賂を求め、京師の人と交結しようとした。文帝はこれを聞いて彼を殺した。
17 呉はまた武昌に城を築いた。
18 初め、文帝は楊彪を太尉に任じようとしたが、楊彪は辞退して言った。「私はかつて漢朝の三公を務め、世の衰乱に遭い、一つの功も立てられませんでした。もし再び魏の臣となるならば、国の選官にとっても、栄誉とはなりません。」文帝はそこでやめた。冬十月己亥の日、公卿が朔日の朝に会する時、併せて楊彪を引見し、客礼をもって遇した。延年杖、憑几を賜い、布単衣と皮弁を着けて朝見することを許し、光禄大夫に任じ、俸禄は中二千石とし、朝見の際は三公の下に位し、また門前に行馬を設置し、吏卒を配置して、優遇と尊崇を示すよう命じた。楊彪は八十四歳で没した。
19 穀価が高騰したため、五銖銭を廃止した。
20 涼州の盧水胡の治元多らが造反し、河西地域は大いに乱れた。文帝は鄒岐を召還し、京兆尹の張既を涼州刺史に任じ、護軍の夏侯儒、将軍の費曜らを派遣して後に従わせた。胡の騎兵七千余騎が鹯陰口で張既を遮ったが、張既は鹯陰から進軍すると揚言し、密かに且次県から兵を出して武威に向かった。胡人は彼を神人と思い、顕美県に撤退した。張既が武威を占拠すると、費曜がようやく到着し、夏侯儒らはまだ到着していなかった。張既は将士を慰労賞賜し、進軍して胡人を攻撃しようとしたが、諸将は言った。「兵士は疲弊し、敵軍の士気は盛んで、争鋒するのは難しい。」張既は言った。「今、軍中に現糧はなく、敵の物資に頼って補給せねばならない。もし敵軍が我々の集結を見て、深山に退いて守れば、追撃するには道が険しく糧が絶え、撤兵すれば彼らが出て遮り略奪する。これでは戦いは終わらず、いわゆる『一日敵を逃がせば、禍は幾代にも及ぶ』というものだ。」そこで顕美に進軍した。十一月、胡の騎兵数千人が、大風に乗って火を放ち営を焼こうとし、将士は皆恐怖した。張既は夜に精兵三千人を伏せ、参軍の成公英に一千余騎を率いさせて挑戦させ、偽って撤退するよう命じた。胡人は果たして争って追い、張既は伏兵を発してその退路を断ち、前後から挟撃し、大いに胡人を破り、斬首と捕虜は数万に及び、河西地域はことごとく平定された。
その後、西平人の曲光が造反し、郡守を殺害した。諸将は彼を攻撃しようとしたが、張既は言った。「曲光らだけが造反し、郡中の百姓は必ずしも皆従っているわけではない。もしすぐに大軍で臨めば、官吏百姓、羌人、胡人は朝廷が是非を弁えないと思い、かえって互いに結束させ、虎に翼を授けることになる。曲光らは羌人、胡人を援軍にしようとしている。今、先に羌人、胡人に略奪攻撃させ、重い賞賜で募り、捕獲した財物はすべて彼らに分け与える。外にはその勢いを挫き、内にはその同盟を離間すれば、必ず戦わずして平定できるだろう。」そこで文告を発して諸羌の部落に告げ、曲光らに連座した者は赦免し、賊の首領を斬って首級を送った者には封賞を与えるとした。すると曲光の部党は曲光を斬って首級を送り、残りの者は皆安堵して従来のまま暮らした。
21 邢貞が呉に到着すると、呉人は呉王が上将軍、九州伯と称すべきで、魏の封号を受けるべきではないと考えた。呉王は言った。「九州伯は、古代にも聞いたことがない。昔、沛公も項羽の封号を受けて漢王となった。これは時に応じたまでで、何の損があろうか!」そこで封号を受けた。呉王は都亭に出て邢貞を待ったが、邢貞は門に入る時、車を下りなかった。張昭が邢貞に言った。「礼儀に恭敬を欠くことはなく、法令に執行を欠くことはない。それなのに汝は妄りに尊大をなす。江南が弱小で、寸鉄もないからだと思うのか!」邢貞はすぐに急いで車を下りた。中郎将の琅邪人徐盛は大いに憤慨し、同僚を振り返って言った。「我らは奮い身を顧みず、国家のために許昌、洛陽を併呑し、巴蜀を占拠することもできずに、君主に邢貞と盟を結ばせるとは、恥辱ではないか!」言い終えて涙が顔を伝った。邢貞はこれを聞き、その従者に言った。「江東の将相はこのようである。長く人の下にいることはあるまい。」
呉王は中大夫の南陽人趙咨を派遣して入朝させ、謝意を表させた。文帝が問うて言った。「呉王はどのような君主か。」趙咨が答えて言った。「聡明、仁愛、智慧、雄才大略の君主です。」文帝が詳細を問うと、答えた。「凡人の中から魯肅を用いたのは、その聡明です。行伍の中から呂蒙を抜擢したのは、その明智です。于禁を捕らえて害を加えなかったのは、その仁愛です。荊州を奪って兵を血で汚さなかったのは、その智慧です。三州を占拠して天下に虎視するのは、その雄才です。身を屈して陛下に事えるのは、その謀略です。」文帝が言った。「呉王は学問をよく知るか。」趙咨が言った。「呉王は戦船万艘、甲冑の兵百万を有し、賢能を用い、志は経営謀略にあり、暇な時があっても、経書史伝を広く読み、史籍を閲し、奇聞異事を採り集め、書生がただ章句を拾うだけのようではありません。」文帝が言った。「呉は征伐できるか。」趙咨が答えて言った。「大国には征伐の軍があり、小国には防御の固めがあります。」文帝が言った。「呉は魏を恐れるか。」答えて言った。「甲冑百万を帯び、長江、漢水を城濠とし、何を恐れることがありましょう。」文帝が言った。「呉には大夫のような者が幾人いるか。」答えて言った。「聡明特出の者は、八九十人おります。私のような者は、車に載せ、斗で量るほどで、数えきれません。」
文帝は使者を呉に派遣し、雀頭香、大貝、明珠、象牙、犀角、玳瑁、孔雀、翡翠、斗鴨、長鳴鶏を求めた。呉の群臣は言った。「荊州、揚州の進貢には、定まった礼儀制度があります。魏の求めるこれらの珍玩の物は、礼法に合わず、与えるべきではありません。」呉王は言った。「我々は西北に戦事を抱えており、江南の百姓は、君主に頼って生きている。彼らの求めるものは、我々にとっては瓦礫や石ころに過ぎず、何を惜しむことがあろう。しかも彼らは喪中にありながら、これらの物を求める。どうして彼らと礼儀を語ることができようか!」そこでことごとく準備して与えた。
22 呉王はその子孫登を太子とし、師友を精選して、南郡太守諸葛瑾の子諸葛恪、綏遠将軍張昭の子張休、大理呉郡人顧雍の子顧譚、偏将軍廬江人陳武の子陳表を、いずれも中庶子とし、宮中に入っては『詩経』『書経』を講じ、外出しては騎射に従わせ、「四友」と称した。孫登は僚属を接待するに当たり、おおむね平民の礼を用いた。
23 十二月、文帝は東方に巡幸した。
24 文帝は呉王の子孫登に万戸侯を封じようとしたが、呉王は孫登が幼いことを理由に、上書して辞退し受けなかった。また、西曹掾呉郡人沈珩を朝に入れて謝意を伝えさせ、あわせて地方の特産品を進献した。文帝が彼に問うた、「呉国は魏国が東方に進攻するのを嫌うか」。沈珩が答えた、「嫌いません」。文帝が言った、「なぜか」。答えて言った、「旧来の盟約を信守し、双方が和好しているからであります。もし魏国が盟約に背くならば、我々は自然と備えがございます」。文帝がまた問うた、「太子が来ると聞いたが、本当か」。沈珩が言った、「私は東呉の朝廷において、朝会の折には座に加わらず、宴には参列しませんでした。このような議論は、聞いたことがございません」。文帝はその答えを善しとした。
呉王は武昌の臨釣台で酒を飲み、大いに酔って、人に水を洒(そそ)がせて群臣に言った、「今日は思い切り飲み明かそう、ただ酔い潰れて台中に倒れるに至って、初めて止めるぞ」。張昭は顔色を正し、一言も発せず、門外に出て車中に座った。呉王は人を遣わして張昭を呼び戻し、言った、「ただ皆で共に楽しもうとしただけだ。卿はなぜ怒るのか」。張昭が答えて言った、「昔、商の紂王は酒池肉林を造り、徹夜で酒を飲みました。当時もそれを楽しみと思い、悪行とは思いませんでした」。呉王は黙然として恥じ入り、そこで酒宴をやめた。
呉王は群臣と酒を飲み、自ら立ち上がって酒を勧めた。虞翻は地に伏し、酔って杯を持てないふりをした。呉王が去った後、虞翻はまた起き上がった。呉王は大いに怒り、剣を手にして彼を殺そうとした。座に侍る者たちは、驚き慌てるよりほかなかった。ただ大司農劉基だけが立ち上がって呉王を抱き止め、諫めて言った、「大王は酒を三杯召し上がった後に、自ら賢士を殺されます。たとえ虞翻に罪があったとしても、天下の人々に誰がそれを知りましょうか。それに大王は賢才を容れ、衆人を養うことができるがゆえに、天下の人々は風に望むように帰順しております。今、一朝にしてそれを棄てるなど、どうしてできましょうか」。呉王が言った、「曹孟徳でさえ孔文挙を殺した。私が虞翻に対して何を憚ることがあろう」。劉基が言った、「孟徳は軽々しく士人を殺し、天下の人々は皆それを非難しました。大王は自ら徳義を推し進め、堯・舜と肩を並べる興隆を志しておられます。どうして自らを彼と比べることができましょうか」。虞翻はこれによって死を免れた。呉王はそこで左右に戒めて言った、「今後、私が酒の勢いで人を殺せと言っても、皆殺してはならぬ」。劉基は劉繇の子である。
25 初め、太祖曹操が蹋頓を破った後、烏桓は次第に衰え、鮮卑の首領歩度根・軻比能・素利・弥加・厥機らは閻柔を通じて貢物を送り、互市を請うた。太祖は皆上表して彼らを王に封じた。軻比能は元来鮮卑の小部落であったが、勇猛剛健で廉潔公正であったため部衆に信服され、そのために他の部落を威服し、最も強盛であった。雲中・五原から東は遼水に至るまで、皆鮮卑の領地であり、軻比能は素利・弥加と地を分かち統治し、それぞれに境界があった。軻比能の部落は辺塞に近く、中原から多くの逃亡者が彼に帰順した。素利らは遼西・右北平・漁陽の塞外にあり、道のりが遠かったため、辺患とはならなかった。文帝は平虜校尉牽招を護鮮卑校尉とし、南陽太守田豫を護烏桓校尉として、辺境を鎮め撫でさせた。
文帝三年(壬寅年、公元222年)
1 春正月、丙寅朔の日、日食があった。
2 庚午の日、文帝は許昌に行幸した。
3 詔して言った、「今の計吏・孝廉は、すなわち古の貢士である。もし年齢を限ってから人材を選ぶならば、呂尚・周晋は昔に顕われることはなかったであろう。各郡国に命じて人材を選抜せよ、老幼に拘泥することなかれ。儒生は経術に通暁し、官吏は法令条文に通達し、到任後はいずれも試用せよ。関係の官は、実情に従って選抜しない者を糾察せよ。」
4 二月、鄯善・亀茲・于闐の王がそれぞれ使者を遣わして貢物を献じた。これより以後、西域は再び中原と通じ、戊己校尉が設置された。
5 漢主劉備は秭帰から進軍して呉国を攻撃しようとし、治中従事黄権が諫めて言った、「呉人は戦いに巧みであり、しかも水軍は流れに乗って下ります。進むのは易しく退くのは困難です。私は先鋒となって敵を防ぎ、陛下は後方で坐して統率されるのがよろしいでしょう」。漢主は聴かず、黄権を鎮北将軍とし、江北の諸軍を督率させた。自らは諸将を率い、江南から山に沿い嶺を越えて、夷道の猇亭に駐屯した。呉国の将たちは皆迎え撃とうとした。陸遜が言った、「劉備は全軍を率いて東下し、その鋭気は盛んであります。しかも高きに拠り険しきを扼しており、容易に攻めることはできません。たとえ攻めて得ることがあっても、全てを勝ち取るのは難しく、もし失利すれば我が方の大局を損ないます。これは小事ではございません。今はただ将士を奨励し、広く計略を施し、彼らの変化を観るべきです。もしここが平原の広野であれば、なお奔走追逐の憂いがありましょう。今、彼らは山に沿って進軍し、兵力を展開できません。自然に樹木山石の間に疲弊するでしょう。我々はゆっくりと彼らの隙を窺えばよいのです」。諸将は理解せず、陸遜が劉備を恐れていると思い、それぞれ心中に憤りを抱いた。
漢軍は佷山から武陵に通じる道を開き、侍中襄陽人馬良を遣わし、金銀錦緞をもって五谿の諸蛮夷部落に賞賜し、官爵を授けた。
6 三月乙丑の日、皇子斉公曹叡を平原王とし、皇弟鄢陵公曹彰らを皆王に進爵した。甲戌の日、皇子曹霖を河東王とした。
7 甲午の日、皇帝は襄邑に行幸した。
8 夏四月戊申の日、鄄城侯曹植を鄄城王とした。この時、諸侯王はみな寄居地の虚名のみ有して実権はなく、各王国にはそれぞれ百余名の老兵が守備として置かれた。京城とは千里の外に隔絶され、天子に朝見したり聘問の往来をすることは許されず、朝廷は防輔と監国の官を設置して彼らを監視した。諸侯王は王侯の称号を有しながらも、その地位は平民に等しく、普通の百姓になりたくとも叶わなかった。法令は厳格かつ苛酷で、諸侯王の過失や罪悪は日々上奏された。ただ北海王曹衮のみは慎み深く学問を好み、未だかつて過失がなかった。文学と防輔官が互いに相談して言った、「我々は王の動静を監察する命を受けており、過失があれば上奏すべきだが、善行があればまた報告すべきである」。そこで共に上表して曹衮の美德を陳述した。曹衮はこれを聞いて、非常に驚き恐れ、文学官を責めて言った、「身を修め自らを守ることは、ただ平常人の行いに過ぎない。しかるに諸君はこれを朝廷に報告する。これはかえって我が負担と牽累を増すものである。また善行があるならば、知られることを憂える必要があろうか。急いで共にこのようなことをするのは、我にとって有益なことではない。」
9 癸亥の日、皇帝は許昌に帰った。
10 五月、江南の八郡を荊州とし、江北の諸郡を郢州とした。
11 蜀漢の軍は巫峡、建平から連営して夷陵の境に至り、数十の軍屯を設け、馮習を大督とし、張南を前部督とした。正月から呉軍と対抗し、六月に至るも勝敗は決しなかった。蜀漢の君主劉備は呉班を派遣し、数千人を率いて平地上に営寨を築かせた。呉軍の将たちは皆、これを攻撃しようとしたが、陸遜は「これには必ず詐りがある。しばらく様子を見よ」と言った。劉備は自分の計略が功を奏さないと知り、八千の伏兵を率いて山谷から出てきた。陸遜は「我が諸君の呉班攻撃の意見に従わなかったのは、彼に必ず巧みな詐りがあると推測したからである」と言った。陸遜は呉王孫権に上疏して言った。「夷陵は戦略上の要地であり、国家の門戸であります。容易に奪取できるが、容易に失うこともあります。これを失えば、一郡の土地を失うだけでなく、荊州も憂慮すべきものとなります。今、この地を争うにあたり、必ず成功させねばなりません。劉備は天理に背き、自らの巣を守らず、敢えて自ら死にに来ました。私は無才ではありますが、陛下の神威に依り、順をもって逆を討てば、彼らを破るのは目前であり、憂慮することはありません。私は当初、彼らが水陸併進することを恐れましたが、今や彼らは船を捨てて陸路に変わり、あちこちに営を結んでいます。その布陣を観察するに、必ず他に変事はありませぬ。どうか陛下は高枕して、ご心配には及びませぬ。」
閏六月、陸遜は蜀漢軍を攻撃しようとした。諸将は皆言った。「劉備を攻めるならば初期に行うべきでした。今や彼らを深く五六百里も入れ、七八ヶ月も相持し、かの要地は全て固く守られています。彼らを攻撃しても利はありませぬ。」陸遜は言った。「劉備は狡猾な敵であり、経験したことも多い。彼の軍が剛に集結した時は、思慮が細かく集中しており、触れることはできなかった。今や彼らは久しく留まり、我々の利を得ず、兵は疲れ、志気は沮喪し、もはや策を考えることもできぬ。この敵を挟撃するのは、正に今日である。」そこでまず一つの営寨を攻撃したが、勝てなかった。諸将は皆言った。「ただ兵を無駄に損するのみである!」陸遜は言った。「私は既に彼らを破る方法を知った。」そこで全員に茅草一把を持たせ、火攻めを用いて営寨を陥れた。一旦戦勢が形成されると、全軍を率いて同時に一斉に攻撃し、張南、馮習及び胡王沙摩柯らの首級を斬り、彼らの四十余りの営寨を破った。蜀漢の将杜路、劉寧らは行き詰まり、降伏を請うた。
劉備は馬鞍山に登り、軍を巡らせて自らを守らせた。陸遜は各部隊を督し、四面から包囲攻撃した。蜀軍は土崩瓦解し、死傷者は数万に上った。劉備は夜間に逃走し、駅人が自ら焼かれた鎧や兵器を担いで殿軍となり、ようやく白帝城に逃げ入った。彼の船、器械、水軍および歩兵の物資は、一時にほとんど全てを失い、屍は江面を埋めて流れ下った。劉備は非常に慚愧し憤って言った。「我、竟に陸遜に挫かれ辱められた。天意ならずや!」将軍義陽人傅肜は後衛を務め、部下は全て戦死したが、傅肜の気勢はますます激しくなった。呉軍は彼に降伏を勧めたが、傅肜は罵って言った。「呉の犬め、漢の将軍が降伏する理があるか!」遂に戦死した。従事祭酒程畿は江に沿って逆流して撤退したが、部下が言った。「後ろの追兵が迫っています。舫を解いて軽装で進むべきです。」程畿は言った。「我、軍中にあって、敵の逃げ兵となる習慣はない。」同じく戦死した。
初め、呉の安東中郎将孫桓は夷道で別に蜀漢の先鋒部隊を攻撃し、蜀軍に包囲され、陸遜に救援を求めた。陸遜は「まだ駄目だ」と言った。諸将は言った。「孫安東は公族であり、包囲されて既に危急です。なぜ救わないのですか!」陸遜は言った。「安東は将士の心を深く得ており、城は堅固で、食料も十分です。憂えることはありません。我が計略が展開すれば、安東を救わなくとも、安東は自ら解囲されるでしょう。」戦略が大規模に実施されるに及び、蜀軍は果たして奔逃潰敗した。孫桓は後に陸遜に会って言った。「先に確かにあなたが救援に来ないのを恨んでいました。今日に至って、初めてあなたの調度に自ら方法があったことを知りました。」
初め、陸遜が大都督となった時、諸将の中には孫策時代の旧将もいれば、公室貴戚もおり、それぞれ驕り恃み、命令に従おうとしなかった。陸遜は剣を按じて言った。「劉備は天下に知名であり、曹操でさえ彼を懼れた。今や彼は国境にいる。これは強大な敵である。諸君は皆、国の恩に浴している。和睦して共にこの敵を滅ぼし、国家の与えた恩遇に報いるべきであるのに、互いに従わないのは何故か。我は書生ではあるが、主上から命を受けた。国家が諸君に屈して我が指揮に従わせるのは、我に取るべきところがあり、忍辱負重できるからである。各自が己の職責を担うべきであり、どうして辞退できようか!軍令には常規があり、犯してはならぬ!」劉備を破るに及び、計略の多くは陸遜から出た。諸将はようやく心服した。呉王孫権はこれを聞いて言った。「あなたは当初、なぜ指揮に従わない将たちを報告しなかったのか?」陸遜は答えて言った。「我は恩を深く受けております。これらの将たちはある者は心腹となり、ある者は爪牙となり、あるいは功臣であり、皆国家が共に大事を成すべき者たちです。私は私かに藺相如や寇恂が互いに譲り合った義挙を慕い、国家の大事を成就しようとしたのです。」孫権は大笑し称賛し、陸遜を輔国将軍に加え、荊州牧を兼任させ、江陵侯に改封した。
初め、諸葛亮と尚書令法正は好尚を異にしていたが、公義をもって互いに重んじ合うことができ、諸葛亮は常に法正の智術を賞賛していた。劉備が呉を征伐して敗れた時、法正は既に亡くなっていた。諸葛亮は嘆息して言った。「孝直(法正)がもし生きていれば、必ず主上の東行を止められたであろう。たとえ東行しても、必ずやここまでの敗北には至らなかったであろう。」劉備は白帝城にいた。徐盛、潘璋、宋謙らはそれぞれ争って上表し「劉備は必ず擒えられます。どうか再び攻撃を」と言った。呉王孫権はこれについて陸遜に尋ねた。陸遜と朱然、駱統は上書して言った。「曹丕は大いに士衆を集め、表面は我々が劉備を討つのを助けると偽っていますが、内心には実に奸計があります。謹んで直ちに撤兵することを決断されますよう。」
初め、魏の文帝曹丕は蜀軍が柵を立てて連営すること七百余里と聞き、群臣に言った。「劉備は兵法を知らぬ。七百里連営してどうして敵に抗うことができるか!『草木が生い茂り、地形が複雑で険阻な場所に軍を置けば、敵に擒えられる』、これは兵家の大忌である。孫権の捷報はすぐに届くであろう。」七日後、呉軍が蜀軍を破った文書が届いた。
12 秋七月、冀州に大蝗害が発生し、飢饉となった。
13 劉備が敗走した後、黄権は長江北岸にあり、道路が絶たれて戻ることができず、八月、その部衆を率いて降伏した。蜀漢の関係部署は黄権の妻子を逮捕するよう求めたが、劉備は「我が黄権を負ったのであり、黄権が我を負ったのではない」と言い、彼らを以前と同様に遇した。魏の文帝曹丕は黄権に言った。「汝は叛逆を背き、朝廷に順う。陳平や韓信に従おうとするのか?」黄権は答えて言った。「臣は過分に劉備の厚遇を受けました。呉に降ることはできず、蜀に戻る道もなく、天命に帰順したまでです。それに敗軍の将、死を免れるだけで幸運であり、どうして古人を慕うことがありましょうか!」曹丕はその答えを善しとし、彼を鎮南将軍とし、育陽侯に封じ、侍中を加え、同車に乗らせた。蜀漢からの降人の中に、蜀漢が黄権の妻子を誅殺したと言う者がいた。曹丕は詔を下して黄権に喪を発させようとした。黄権は言った。「臣は劉備、諸葛亮と推心置腹し、誠をもって相対しました。彼らは臣の本心を理解しております。私は私かにその報せが真実でないと疑います。しばらくお待ちください。」後に確かな知らせを得ると、果たして彼の言った通りであった。馬良も五谿で戦死した。
14 九月甲午の日、詔を下して言った。「婦人が政事に干渉することは、禍乱の根本である。今後、群臣は太后に奏事してはならず、后族の家は輔政の職に就くことを許さず、また功なくして封爵を受けてはならない。この詔令を後世に伝え、もしこれに背く者がいれば、天下の人々が共にこれを誅殺せよ。」卞太后は外戚の親族に会うたびに、良い顔色を見せず、常に言った。「生活は節約あるべきで、賞賜を当てにし、自らの安逸を思い計るべきではない。外の人は私が彼らにあまりに酷薄であると怪しむだろうが、これは私に自ら常度があるからである。私は武帝に四五十年仕え、質素な暮らしを長く続けてきたので、自らを変えて奢侈にすることはできない。法を犯す者があれば、私はなお罪を一等重くすることができるのであって、銭や穀物の恩恵による寛貸を当てにしてはならない。」
15 魏の文帝曹丕は郭貴嫔を皇后に立てようとした。中郎の棧潜が上疏して言った。「后妃の德行は、国家の盛衰治乱が生じる根源であります。故に聖明叡智の君主は元妃を慎重に選び、必ず先代の世族の家の娘を取って、賢淑な者を選び、六宮を統率させ、宗廟を虔誠に祭祀させます。『易経』に曰く『家道正しくして天下定まる』と。内より外に及ぶ、これが先王の美しい典章制度であります。『春秋』には宗人釁夏の言葉を記して曰く『妾を以て夫人とする礼は無し』と。斉の桓公は葵丘で盟誓し、また曰く『妾を以て妻とするなかれ』と。今、後宮で寵愛を受ける妃嬪は、地位が常に皇帝に次ぎます。もし寵愛によって皇后に冊立すれば、卑しい者が突然に貴くなることになり、臣は後世に下が上を陵し上下の秩序を失い、礼に合わない風気を開き、禍乱が上から始まることを恐れます。」曹丕は聞き従わなかった。庚子の日、皇后郭氏を立てた。
16 当初、呉の王孫権は于禁の護軍浩周、軍司馬東里衮を派遣して魏の文帝に朝見させ、自分の誠意を述べさせ、その言辞は非常に恭敬で切実であった。文帝は浩周らに問うた。「孫権は信頼できるか。」浩周は孫権が必ず臣従すると考えたが、東里衮は必ずしも臣従するとは限らないと考えた。文帝は浩周の言葉に満足し、彼には状況を理解する根拠があると思ったので、孫権を呉王に立て、また浩周を呉に使者として派遣した。浩周は呉王に言った。「陛下は大王が子を入朝させて侍奉することを信じられません。我が浩周は一族百口の命を以て保証します。」呉王はこれに感動して涙を流し、衣襟を濡らし、天を指さして誓った。浩周が帰還した後、呉王が子を入朝させて侍奉することは実現せず、多くの空言を述べただけであった。文帝は侍中辛毗、尚書桓階を派遣して呉王と盟を結び誓わせ、かつ人質の子を送るよう要求しようとしたが、呉王は辞退して受け入れなかった。文帝は大いに怒り、これを討伐しようとした。劉曄が言った。「彼はようやく志を得て、上下心を一つにしており、かつ江河湖泊の険阻に依っていますから、恐らく急には制服できないでしょう。」文帝は聞き従わなかった。
九月、征東大将軍曹休、前将軍張遼、鎮東将軍臧霸に洞口に出兵させ、大将軍曹仁に濡須に出兵させ、上軍大将軍曹真、征南大将軍夏侯尚、左将軍張郃、右将軍徐晃に南郡を包囲させた。呉の建威将軍呂範は五軍を統率し、水軍で曹休らを防ぎ、左将軍諸葛瑾、平北将軍潘璋、将軍楊粲は南郡を救援し、裨将軍朱桓は濡須督として曹仁を防いだ。
17 冬十月甲子の日、魏の文帝は首陽山の東で寿陵の区域を定め、喪葬に関する制度の詔を書き記し、必ず節約薄葬に従い、金銀玉器を収蔵せず、全て陶瓦の器具を用いることとした。この詔令を宗廟に収め、副本を尚書、秘書、三公府に置くよう命じた。
18 呉王は揚越の地域の蛮夷がまだ多く平定帰服していないため、卑しい言葉で上書し、自らの過ちを改めることを請うた。「もし我が罪過が除き難く、必ず寛恕されないならば、我は拠有する土地と人民を奉還し、交州に寄寓して余生を終えるべきでありましょう。」また浩周に手紙を送って言った。「子の孫登のために宗室に婚を求めたい。」また言った。「孫登は年が幼少なので、孫長緒、張子布をして孫登に随伴させて共に来させたい。」文帝は返答して言った。「朕と汝の間は、君臣の大義が既に定まっている。どうして労師動衆して遠く江漢に赴くことを楽しもうか!もし孫登が朝に到着すれば、我は夕方には軍を召し還そう。」そこで呉王は年号を黄武と改め、長江に沿って守りを固めた。
文帝は許昌から南征し、郢州を復して荊州とした。十一月辛丑の日、文帝は宛城に到着した。曹休は洞口にあり、自ら上奏して言った。「精鋭の部隊を率いて虎の如く江南に歩み入り、敵に依って物資を獲て、事は必ず勝利を得られるでしょう。もし我に才能がなくとも、我を顧みるに及ばず。」文帝は曹休がやむなく渡江することを憂い、駅馬の急使を遣ってこれを制止した。侍中董昭が傍らに侍して言った。「私は私かに陛下の面に憂色のあるを見ました。それは恐らく曹休が渡江しようとすることにありましょうか。今、渡江することは、人情皆困難とする所です。たとえ曹休にこの志があっても、その勢い独りで行動することはできず、必ず諸将に依らねばなりません。臧霸らは既に富み且つ貴く、他に望むところはなく、ただ天年を安んじ、禄位を守ろうと欲するのみです。どうして危険を冒して死地に身を投じ、以て僥倖を求めましょうか!もし臧霸らが進まなければ、曹休の意志は自ずから沮喪するでしょう。臣は恐れます、陛下がたとえ渡江を命ずる詔書を下されても、彼らは必ず猶豫し、必ずしも命に従わないでしょう。」間もなく、暴風が呉の呂範らの船の繋索を断ち、まっすぐに曹休らの営寨に漂着した。魏軍は斬首捕虜を得ること数千人、呉軍は潰散した。文帝はこれを聞き、諸軍に速やかに渡江するよう命じた。軍がまだ進発するに及ばないうちに、呉の救援船が到着し、軍を収めて江南に退いた。曹休は臧霸に追撃させたが、戦いは不利で、将軍尹盧が戦死した。
19 庚申の日、月末であり、日食があった。
20 呉王は太中大夫鄭泉を漢国(蜀漢)に使者として派遣し、漢の太中大夫宗瑋が答礼に訪れ、呉と漢は再び交わりを回復した。
21 漢の主(劉備)は魏の大軍が出動したと聞き、陸遜に手紙を送って言った。「曹賊は今や長江・漢水に至っている。我は再び東進しようと考える。将軍は我にそれができると思うか。」陸遜は答えて言った。「ただ恐れるのは、殿の軍が敗れたばかりで、傷がまだ癒えておらず、ようやく呉と通好を求めておられることです。当分は自ら休養整頓されるべきで、兵を興す余力はありません。もし自ら量らず、再び敗残の兵を率いて遠路はるばる死にに来ようとされるならば、逃れるところはありません。」
22 漢の漢嘉太守黄元が反乱した。
23 呉の将軍孫盛は一万人を率いて江陵中洲に拠り、南郡の外援とした。
