魏紀五
資治通鑑 第073巻
【魏紀五】 乙卯年より丁巳年に至る、凡そ三年。
春、正月、戊子の日、大将軍司馬懿を太尉と為す。
丁巳の日、皇太后郭氏、崩ず。帝、数々太后に甄后の死する所以を問う。是に由りて太后憂懼して死す。
漢の楊儀、魏延を殺し、自ら大功有りと謂い、当に諸葛亮に代わりて朝政を執るべきと為す。然れども諸葛亮、平生、陰かに指示し、楊儀は心胸狭隘にして急躁なりと為し、意は蔣琬をして継がしめんとす。儀、成都に還り、中軍師と為され、実に統領する所の職無く、但だ優游するのみ。初め、儀、昭烈帝の下に尚書と為り、蔣琬は時に尚書郎と為る。後に、倶に丞相参軍・長史と為るも、儀、毎に征行に従い、最も繁劇を荷う。自ら資序、琬に深く、才能、琬に過ぐと為し、是に於いて怨憤、辞色に現れ、歎咤、心に発す。時に人、其の言語節を制さざるを畏れ、敢えて近づく者無し。唯だ後軍師費禕、往きて慰問す。儀、禕に怨恨を発し、前後、言を縦にすること多し。又禕に謂いて曰く、「向し丞相没するの時、吾若し全軍を挙げて魏に往かば、豈に今日の落魄に至らんや。追悔、復た及ぶ可からず。」禕、密かに其の言を上表す。漢の後主、儀をして庶人に為し、漢嘉郡に徙す。儀、徙所に至り、復た誹謗を上書し、辞旨激切なり。乃ち郡に下して儀を收む。儀、自殺す。
三月、庚寅の日、文徳皇后を葬る。
夏、四月、漢の後主、蔣琬をして大将軍・録尚書事と為す。費禕、琬に代わりて尚書令と為る。
帝、好みて土功を為す。既に許昌宮を建て、復た洛陽宮を治め、昭陽殿・太極殿を起造し、総章観を築く、高さ十余丈。力役、息まず、農桑、停滞す。司空陳群、上奏して曰く、「昔、大禹、唐・虞の盛を継ぐも、尚お卑宮室・悪衣服を以てす。況んや今、戦乱の後、民人、極めて少く、漢の文・景の時に比ぶれば、大郡に過ぎず。加うるに辺境に事有り、将士、労苦す。若し水旱の災有らば、国家の深憂と為らん。昔、劉備、成都より白水に至り、多く伝舎を立て、人を費やし、太祖、其の民を労するを知る。今、中国の力役、繁重にして、正に是れ呉・蜀の利と為る所なり。此れ安危の機なり。願わくは陛下、深く思慮せよ。」帝、答えて曰く、「王者の業と宮室の作とは、宜しく並び行うべきなり。賊を滅するの後、但だ守備を罷むるのみ。豈に復た興作せんや。是れ固より君人の職、蕭何の大略なり。」群曰く、「昔、漢高祖、只だ項羽と天下を争うのみ。羽、滅びて、宮室、焼かれ、是に於いて蕭何、武庫・太倉を造る、皆、急務なり。然るに高祖、猶お其の壮麗を責む。今、二賊、未だ平かならず、誠に古と同ず可からず。人の為す所の事、欲せざる所莫し。況んや天子、敢えて逆う者無し。往に武庫を毀たんと欲すれば、毁つ可からずと謂い、後に置かんと欲すれば、置く可からずと謂う。若し必ず作らんと欲せば、固より臣下の数言の能く回す所に非ず。若し少しく留意し、断然として意を回せば、亦た臣下の能く及ぶ所に非ず。漢明帝、徳陽殿を作らんと欲するも、鍾離意、諫めて、今、其の言を聴き、後に復た作る。殿、成りて、明帝、群臣に謂いて曰く、『鍾離尚書在り。若し在らざれば、此の殿、成らざるなり。』帝王、豈に一臣を恐れんや。実に百姓を為るなり。今、臣下、能く聖徳を少しく止むるに及ばず、鍾離意に遠く及ばず。」帝、是に由りて少しく省減す。
帝、内寵に耽り、嬪嬙の禄秩、百官の数に比し、貴人已下、庭を洒掃する者に至るまで、凡そ数千人。知書信愛の女六人を選び、女尚書と為し、尚書省の奏事を典らしめ、可否を裁決せしむ。廷尉高柔、上奏して曰く、「昔、漢文帝、十家の資を惜しみ、小台の娯を営まざるも、霍去病、匈奴の患を憂い、第宅の営に暇あらず。況んや今、費やす所、百金に止まらず、憂うる所、北狄に止まらんや。可くば粗だ現有の営建を成して、以て朝宴の礼を備え、然る後に力役を罷め、以て百姓を休息せよ。呉・蜀の二方、平定するを俟ち、徐ろに興作すべし。《周礼》、天子后妃已下百二十人、嬪嬙の儀、已に盛んなり。私に聞く、後宮の数、或いは此の過ぎ有りと。聖嗣、蕃昌ならざるは、是れ蓋し此に由る。愚かに淑女を択び、以て内官の員を充たし、其の余をして悉く家に遣わし、以て精を養い専静を貴ばしめば、則ち《螽斯》の徴、復た可なり。」帝、報じて曰く、「卿、忠言を納る。其の他の意見、復た上聞すべし。」時に、狩猟の法、厳しく、禁地の鹿を殺す者は死に、財物を没収し、能く告げたる者には、厚く賞す。柔、又上奏して曰く、「近年已来、百姓、諸役に供し、親田する者、少なし。近く又狩猟の禁有り、群鹿、暴戯し、稼穡を残食し、所為、害無く、所損、算す可からず。百姓、雖障を設け、力能く禦ぐ無し。乃至荥陽の左右、周囲数百里、歳略収無し。今、天下、生養する者少く、麋鹿の損耗多し。卒に戦伐・災害有らば、将に応ずる無からん。願わくは陛下、寛く禁を解き、民の捕獲を聴し、然る後に禁を除かば、則ち百姓、永く済い、莫しくも歓ばざらんや。」
帝、又北芒山を平らげ、其上に台観を起し、以て孟津を望まんと欲す。衛尉辛毗、諫めて曰く、「天地の性、高きをして高からしめ、低きをして低からしむ。今、其の道に反くは、義に非ざるのみ。又、人を費やし、民、堪えず。且つ九河、氾濫し、水潦、害を為さば、而も丘陵、皆な夷らに、将に何を以て禦がん。」帝、是に由りて止む。
少府楊阜が上奏した。「陛下は武皇帝(曹操)が切り開いた大業を継承し、文皇帝(曹丕)が成し遂げた根本を堅く守っておられます。まさに古代の聖賢の善政を思い、末世の放漫な悪政を全面的に観察されるべきです。かつて桓帝や霊帝が高祖の法度や文帝・景帝の恭倹を廃さなかったならば、太祖(曹操)が神武の才をお持ちでも、どこにそれを発揮できたでしょうか。まして陛下がどうしてこのような尊い地位におられることができましょうか。今、呉・蜀は平定されておらず、軍は外にあり、すべての修繕工事について、陛下にはぜひとも節約されますよう願います。」皇帝は詔を下して褒めて答えた。
楊阜はまた上奏した。「尭は茅葺きの家を尊び、万国が安んじました。禹は居室を簡素にし、天下が楽しんで業としました。殷や周の時代に至っては、ある宮室の階段は高さ三尺、広さは九筵を基準としました。夏の桀は璇室や象廊を築き、殷の紂は傾宮や鹿台を築いて、そのために国を失いました。楚の霊王は章華台を築いて自ら禍に遭い、秦の始皇帝は阿房宮を築いて二世で滅びました。万民の力を顧みず、ただ耳目の欲を満たそうとするならば、滅びないものはありません。陛下は尭・舜・禹・湯・文王・武王を模範とし、夏桀・殷紂・楚霊王・秦始皇帝を深く戒めとされるべきです。それなのに自ら安逸を図り、ただ宮台を飾るだけでは、必ずや顛覆・危亡の禍いが起こりましょう。国君は元首、臣子は股肱であり、存亡は一体、得失は同じです。臣はたとえ愚鈍で臆病でも、どうして諍臣の責務を忘れられましょうか。言葉が誠実でなければ、陛下を感動させ覚醒させるには足りません。陛下が臣の言葉を採用されなければ、恐らく皇祖・烈考の基業は地に墜ちることでしょう。もし臣が死んで国家に万分の一の益があれば、死ぬ日は生きる一年と同じであります。謹んで棺と沐浴を用意し、伏して重罰を待ちます。」奏章が提出されると、皇帝はその忠言に感動し、自ら筆を執って詔書で答えた。
皇帝はかつて便服をまとい、浅緑の半袖の衣をまとっていた。楊阜が皇帝に問うた。「これは礼法において、どのような服制でございましょうか。」皇帝は黙って答えなかった。それ以後、正式な礼服を着なければ楊阜に会わなかった。楊阜はまた上奏して、宮中で一度も皇帝の寵愛を受けていない宮女を減らそうと考え、御府の官吏を呼び寄せて後宮の人数を尋ねた。官吏は旧令を守り、「宮中の機密は漏らせません」と答えた。楊阜は怒り、官吏を杖で百回打ち、「国は九卿と機密を守らず、かえって小吏と機密を守るのか」と責めた。皇帝はますます彼を畏れた。
散騎常侍蔣済が上奏した。「昔、句践は出産を奨励して備えとし、燕の昭王は病を患う者をいたわって復讐を遂げました。そのため弱い燕で強い斉を征服し、疲れた越で強力な呉を滅ぼすことができたのです。今、二つの敵は強盛で、もし当代で滅ぼせなければ、百代の責務となりましょう。陛下の聖明・神武・謀略をもってすれば、不急のことを脇に置き、討伐に専念なされば、何の困難もないと考えます。」中書侍郎・東莱人の王基が上奏した。「臣は聞きます。古人は水を民にたとえて『水は船を載せることもできれば、船を覆すこともできる』と言いました。顔淵は『東野子が車を御し、馬の力は尽きたのに、なお止まらずに進めようとしている。恐らく失敗するだろう』と言いました。今、労役は辛苦を極め、男女は離別して空しく過ごしています。願わくば陛下、東野子の失敗を深く考察され、舟水のたとえに留意され、馬力の尽きぬうちに駆ける馬を止め、民の困窮せぬうちに労役を省かれますように。昔、漢が天下を有した時、孝文帝の時代には同姓の諸侯があるのみでしたが、賈誼は『火を薪の下に置きながらその上に眠り、安全だと言う』と憂いました。今、敵寇は滅びず、猛将は兵を擁し、これを束縛すれば敵に応じることができず、放任すれば後世に残し難く、盛世にあって禍患を取り除くことに努めなければ、もし子孫が志を継げねば、国家の憂いとなりましょう。もし賈誼が生き返れば、必ずや当時よりも痛切に嘆くでありましょう。」皇帝はどちらも聞き入れなかった。
殿中で労役を監督する者が、勝手に蘭台令史を逮捕した。右僕射衛臻が上奏してこれを追及した。皇帝は詔を下した。「宮殿が完成しないのは、我が心にかかることである。お前がそれを追及するのは、なぜか。」衛臻が言った。「古代の制度には、官員の越権を防ぐ法令がありました。彼らが職務に勤めることを嫌ったのではなく、実に得る利益は小さく、破る影響の大きいがゆえであります。私はこの種の事を調べるたびに、おおむねこのようなものです。もしまたこれを放任すれば、恐らく諸部門が次第に権限を越え、ついには破壊に至るでしょう。」
尚書・涿郡人の孫礼が固執して労役の中止を求めた。皇帝は詔を下した。「誠実に正直な言論を採用する。」すぐに民夫を解散させるよう督促した。監督の官員がまた上奏して、もう一ヶ月留まらせて工事を完成させたいと願った。孫礼は直接工事現場に行き、改めて上奏せず、詔を奉じて民夫を解散させたと称した。皇帝はその心意気を奇特に思い、咎めなかった。皇帝は群臣の直言をことごとく採用することはできなかったが、皆を寛容に遇した。
秋七月、洛陽の崇華殿で火災が起こった。皇帝は侍中兼太史令・泰山人の高堂隆に問うた。「これは何の災いか。礼において、祈り消す意味があるだろうか。」答えた。「『易経・伝』に曰く『君主が節倹せず、臣下が節度を守らねば、孽火がその家を焼く』と。また曰く『君主が高く楼台を築けば、天火が災いをなす』と。これは君主が宮室の装飾に専念し、民がすでに窮乏し尽くしていることを知らず、ゆえに天が旱害で応じ、大火が高殿から燃え上がったのであります。」皇帝は詔を下して高堂隆に問うた。「朕は聞く、漢の武帝の時、柏梁台に火災があり、そこで大いに宮殿を建ててこれを抑えたと。これはまたどういう道理か。」答えた。「それは夷越の巫術が行ったことで、聖賢の明らかな教えではございません。『五行志』に曰く『柏梁台の火災の後、江充の巫蠱の事件が起こった』と。『志』に拠れば、越の巫が建章宮を建てても、抑える働きはなかったのであります。今、民役を止め解散させるべきです。宮室の規模は、必ずや倹約を務め、火災の起こった場所を掃除し、あえてそこに建造せず、そうすれば萐莆・嘉禾が必ずやそこに生じましょう。もし民力を尽くし、民財を尽くせば、瑞祥を招き遠方を撫でる道ではございません。」
八月、庚午の日、皇子の曹芳を斉王に、曹詢を秦王に立てた。皇帝には子がなく、この二人の王子を養子とした。宮中のことは秘密にされ、その来歴を知る者はいなかった。ある者は言う。曹芳は任城王曹楷の子であると。
丁巳の日、皇帝は洛陽に帰った。
詔を下して崇華殿を再建し、名称を九龍殿と改めた。水路を開通させ、谷水を九龍殿の前を通過させ、玉の井戸と彫刻を施した欄干を建造し、蟾蜍の口に水を含ませ、神龍の口から吐き出させるようにした。博士の扶風人、馬鈞に命じて指南車、および水力で回転する百戯の模型を作らせた。陵霄闕の建設が始まったばかりの時、鵲がその上に巣を作った。帝がこのことを高堂隆に問うと、答えて言った。「『詩経』に『鵲に巣あり、鳩これに居る』とあります。今、宮室を興し、陵霄闕を建てているのに、鵲がその上に巣を作るのは、宮殿が完成せず、自ら住むことができないという兆しでございます。大意は『宮室は未だ完成せず、別の姓の者がこれを制するだろう』ということでございます。これは天の戒めでございます。天道に親疎はなく、ただ善人に与えるものでございます。太戊や武丁は災いを見て恐れ、それゆえに天は福を降ろしました。今、もし全ての労役を止め、徳政を修め増すならば、三王は四王となり、五帝は六帝となりましょう。商の君主が禍を転じて福となしたのみに留まりましょうか。」帝はこれを聞いて、顔色を変えた。帝の性格は厳しく急躁で、宮室の監督で期限に遅れた者があれば、帝自ら呼び寄せて問いただし、言葉が口にあるうちに、首は既に地に落ちていた。散騎常侍兼秘書監の王肅が上疏して言った。「今、宮室は未だ完成せず、工事中の者は三四万人におります。九龍殿は聖体を安置するに足り、内部は六宮を並べるに十分でございます。ただ太極殿前の工事のみ、規模がなお大きゅうございます。願わくば、陛下は常に俸禄を領する士人の中から、緊急を要しない者を選び、その中の壮丁を選抜し、一万人を留め置き、一年ごとに交替させるようお計らいください。彼らは皆、休息と交替に期限があることを知れば、喜んで働き、労苦しても怨みませぬ。計算しますに、一年に三百六十万の工日、これもまた少なくはございません。本来一年で完成すべきものを、仮に三年かけることを許し、残りの者を散じて遣わし、皆して農に従事させれば、これは無窮の計略にてございます。民に信を置くことは、国の大宝にてございます。以前、車駕が洛陽へ赴こうとした際、百姓を徴発して营地を造らせましたが、有司は营地が完成すれば中止すると命じました。完成した後も、その労力を貪り、時期に合わせて遣わしませなんだ。有司はただ目前の利益のみを営み、治国の根本を顧みませぬ。愚考するに、今後、もし再び百姓を徴発するならば、明確に命令を下し、必ず期限通りに終わらせ、事を順序立てて行い、寧ろ新たに徴発しても、信を失うことなきようにすべきでございます。凡そ陛下が臨時に命令して処決なさる者は、皆、罪ある官吏で、死に当たる者にてございます。しかし百姓は知らず、慌ただしく行われたものと思っております。故に、願わくば陛下はこれらの者を官吏に引き渡し、その罪を公にし、同じく死罪に処し、宮廷を汚して遠近の人に疑われませぬように。それに人命は最も重く、生き返らせるのは難しく殺すのは易く、一旦気絶すれば繋ぎ止めること能わず、故に聖賢はこれを重んじます。昔、漢の文帝が車駕に衝突した者を殺そうとした時、廷尉の張釈之が申しました。『その時、陛下が人を遣わして殺してしまえばそれまででした。今、廷尉に委ねられました。廷尉は天下の公平な執法者、偏ること能わず』と。私はこの言葉は大いにその本義を失しており、忠臣が述べるべきものとは思いませぬ。廷尉は天子の下の官吏でさえ、なお公平を失うことを許されませぬ。ましてや天子自らが惑い誤ることがありましょうか!これは自らのことを重んじ君のことを軽んずるもので、不忠極まりなく、明らかにせざるべからず。」
中山恭王曹衮が病重く、下属に命じて言った。「男子は婦人の手で死なじ。速やかに時に合わせて東堂を造れ。」東堂が完成すると、病を抱えてそこに移り住んだ。また世子に命じて言った。「汝は幼くして君主となり、ただ楽しみを知り苦しみを知らねば、必ず驕り奢りによって過ちを犯すだろう。兄弟に不善の行いがあれば、膝前に跪いて諫めよ。諫めを聴かねば、涙を流して諭せ。諭しても改めねば、その母に告げよ。なお改めねば、朝廷に上奏し、封国を辞すべし。恩寵を守って禍を招くよりは、貧賤であっても身を全うするに如かず。これも大いなる罪悪を指すのみである。微細な過ちや些事は、これを覆い隠すべきである。」冬、十月、己酉の日、曹衮が薨去した。
十一月、丁酉の日、帝は行幸して許昌に向かわれた。
この年、幽州刺史の王雄が勇士の韓龍を遣わし、鮮卑の首領である軻比能を刺殺させた。これにより部落は離散し、互いに侵伐し合い、強き者は遠くへ逃れ、弱き者は服属を請い、辺境はついに安定した。
張掖郡の柳谷口の水が漲り溢れ出し、宝石が図を背負って現れた。形は霊亀の如く、川の西に立ち、七匹の石馬および鳳凰、麒麟、白虎、犠牲牛、玉璜玉玦、八卦、星宿、彗星の形象があり、また「大討曹」という文字があった。詔を天下に布告し、祥瑞とした。任県の県令である于綽が、たびたびこのことを巨鹿人の張□に問うた。張□は密かに于綽に言った。「神霊は未来を予知するために用いられ、過去を追わない。祥兆は予め現れ、その後、廃興がそれに従う。今、漢は既に久しく亡び、魏は既に天下を得ている。何を追って祥兆を興すのか。この石は、当今の変異であり、将来の符瑞である。」
帝は馬を使って呉国に遣わし、真珠、翡翠、玳瑁を交換しようとした。呉主は言った。「これらは我が欲せざる所である。しかし馬を得るために用いることができるなら、我に何を吝しむことがあろう。」全てを彼らに与えた。
春、呉人は大銭を鋳造し、一枚を五百銭とした。
三月、呉の張昭が死去した。享年八十一歳。張昭は容貌が端厳で威風があり、呉主以下、国中がこれを畏れた。
夏、四月、漢主は湔県に到り、観阪に登って汶水の流れを観覧し、十日后に帰還した。
武都氐王の符健が漢国に帰降を請うた。その弟は従わず、四百戸を率いて来降した。
五月、乙卯の日、楽平定侯の董昭が死去した。
冬、十月、己卯の日、帝は洛陽宮に帰還された。
甲申の日、彗星が大辰星の近くに現れ、また東方に現れた。高堂隆が上疏して言った。「凡そ帝王が都を遷し城邑を建てるには、皆、まず天地、社稷の神位を定め、恭敬してこれを祀ります。将に宮室を営もうとするならば、宗廟を先にし、厩舎倉庫を次にし、居室を最後にします。今、圜丘、方沢、南北郊祀、明堂、社稷の神位が定まらず、宗廟の制度もまた礼に合いませぬ。それでいて居室を飾ることを崇尚し、士民は本業を失い、外の人々は『宮中の費用は軍国費用と相半ばす』と言い、百姓は命令に堪えず、皆怨み怒りを抱いております。『尚書』に『天の視聴は民の視聴より、天の明威は民の明威より』とあります。これは天の賞罰が、民の言論に従い、民の心に順うことを言うものです。柞木を椽とし、低き宮室は、唐堯、虞舜、大禹が皇風を伝えるために用いたものです。玉台、瓊室は、夏桀、商紂が天に逆らうために用いたものです。今、宮室は過度に大きく、天の彗星は明らかに顕著でございます。これは慈父の懇切なる訓戒でございます。孝子の恭敬畏懼の礼節を尊び、疎かにして天の怒りを重ねてはなりませぬ。」高堂隆は度々懇切に諫めたが、帝は大いに不興であった。侍中の盧毓が進み出て言った。「臣は聞きますに、君主が聖明であれば臣下は直であると。古の聖王は己の過ちを聞けぬことを恐れたものでございます。これこそ我らが高堂隆に及ばざる所以にてございます。」帝はついに怒りを鎮めた。盧毓は盧植の子である。
十二月、癸巳の日、穎陰靖侯の陳群が死去した。陳群は前後して度々得失を述べ、密奏を上呈するたびに、草稿を焼き捨てた。当時の人も、その子弟も知る者はいなかった。議論する者の中には、陳群が官位にありながら拱手黙黙しているのを諷する者もいた。正始年間、詔を下して群臣の上書を編集して『名臣奏議』とした時、朝廷の官員たちが初めて陳群の諫めた事跡を見て、皆嘆息してやまなかった。
袁子の評論に曰く、ある人が言う。「少府の楊阜は忠臣に非ずや!君の過ちを見れば勃然として犯し、人と言うごとに及ばざるはなし」と。答えて曰く、「仁者は人を愛す。君に施すを忠と謂い、親に施すを孝と謂う。今、臣として君の道を失うを見て、直ちにその過ちを詆り、その悪を宣揚するは、直士と謂うべし。忠臣と謂うべからず。故の司空陳群は然らず。終日談ずれども、曾て君の過ちを言わず。上書すること数十、外人知るなし。君子は陳群を以てこの事において長者なりと為す」と。
乙未、帝、許昌に幸す。
詔して公卿各々才徳兼ね備えたる者一人を挙げしむ。司馬懿、兗州刺史太原の王昶を挙げて選に応ぜしむ。昶、人となり謹厚なり。其の兄の子に名づけて黙・沈と曰い、己の子に名づけて渾・深と曰い、書を以て戒めて曰く、「吾、四子を以て汝が名と為すは、汝が名を見て義を思ひ、敢えて違越せざらんことを欲するなり。物、速やかに成る者は亡び易く、晩成する者は終を善くす。朝に華を開く者は、夕べに而して零す。松柏の茂りは、寒さに及びて衰へず。故に君子は闕党に戒むる所有り。屈を以て伸と為し、譲を以て得と為し、弱を以て剛と為すこと能はば、斯れ成らざる者鮮なし。夫れ毀誉は、愛憎の源にして、禍福の機なり。孔子曰く、『吾、人に於いて誰をか毀り、誰をか誉めん』と。聖人の徳を以てして尚ほ此くの如し、況んや庸庸の徒にして軽々しく毀誉するをや。人、若し己を毀つこと有らば、当に退いて自ら省みるべし。己に可毀の行有らば、則ち彼の言は当たれり。己に可毀の行無くば、則ち彼の言は妄なり。当たれば則ち彼に怨むこと無かれ。妄なれば則ち身に害なけん。又何をか報復せん。諺に曰く、『寒を救ふは厚き裘に如かず。謗を止むるは自ら修むるに如かず』と。斯の言、信なり。」
春、正月、壬辰、山茌県、黄龍有りと言上す。高堂隆、以爲へらく、「魏、土徳を得たれば、故に瑞は黄龍の見るなり。宜しく暦を改め、服色を易へ、以て政教を顕明にし、民の耳目を変ずべし」と。帝、之に従ふ。三月、詔して改元し、此の月を以て孟夏四月と為し、服色は黄を尚び、牲は白を用ふ。是れ地正に順ふなり。太和暦を改めて景初暦と為す。
五月、己巳、帝、洛陽に還る。
己丑、大赦す。
六月、戊申、京師、地震す。
己亥、尚書令陳矯を司徒と為し、左僕射衛臻を司空と為す。
有司奏す、武皇帝を魏太祖と為し、文皇帝を魏高祖と為し、帝を魏烈祖と為すことを請ふ。三祖の廟は万世毀つこと無からんと。
孫盛の評論に曰く、諡は行を表すもの、廟は容を存するものなり。未だ生きて祖を制し、没せずして顕を崇むる者あらざるなり。魏の有司、此に於いて道を失へり。
秋、七月、丁卯、東郷貞侯陳矯薨ず。
公孫淵、屡々国中の賓客に悪言を出す。帝、之を討たんと欲し、荊州刺史河東の毌丘倹を幽州刺史と為す。倹、奏して曰く、「陛下即位以来、未だ載すべき功績有らざるなり。呉・蜀、険を恃みて速やかに定め難しと雖も、此の方の閑散の兵を以て、以て遼東を克つに足らん」と。光禄大夫衛臻曰く、「倹の言ふ所は、皆戦国の小計にして、帝王の大略に非ざるなり。呉、年を連ねて出兵し、辺境を寇するも、而も我猶ほ兵を按じて鋭を養ひ、未だ之を討つこと終せざるは、誠に百姓疲労するを以てなり。公孫淵、海表に生長し、三世相承す。外に戎夷を撫し、内に戦射を修む。而るに倹、偏師を以て長駆し、朝に至り夕に巻かんと欲す。此れ妄誕にして実無きを知るなり」と。帝、聴かず。毌丘倹に諸軍及び鮮卑・烏桓を率ゐ、遼東の南界に屯せしめ、詔書を以て公孫淵を徴す。淵、先づ兵を発して反し、遼隧に於いて倹を逆へ戦ふ。会ひて天、霖雨十余日、遼水大いに漲る。倹、与に戦ひ利あらず、軍を引いて右北平に還る。淵、是に於いて自ら燕王と為り、改めて紹漢と元号し、百官を置き、使者を遣はし鮮卑単于に印綬を授け、辺民に封拝し、誘致して鮮卑を以て寇抄せしむ。
漢の張皇后、薨ず。
九月、冀・兗・徐・豫の四州、大水す。
西平の郭夫人、帝の寵有りて、毛皇后寵を失ふ。帝、後園に遊幸し、宴楽極めて歓び甚だし。郭夫人、毛皇后を請はんと請ふ。帝、許さず。且つ左右を禁じて宣揚することを得ざらしむ。毛皇后、後に之を知り、明日、帝に謂ひて曰く、「昨日北園に遊宴せしは楽しからずや」と。帝、左右の泄らすを以てし、十余人を殺す。庚辰、毛皇后を賜死す。然れども猶ほ諡を加へて悼と曰ふ。癸丑、愍陵に葬る。其の弟毛曾を遷して散騎常侍と為す。
冬、十月、帝、高堂隆の議を用ゐ、洛陽南の委杰山に圓丘を営む。詔して曰く、「昔、漢の初め、秦の滅学の後に承け、捃拾して遺文を採り、以て郊祀の礼を備ふ。四百余年、禘礼廃せり。曹氏世系、有虞氏に出づ。今、圓丘に皇皇帝天を祀り、始祖虞舜を以て配す。方丘に皇皇后地を祀り、舜妃伊氏を以て配す。南郊に皇天之神を祀り、武帝を以て配す。北郊に皇地之祇を祀り、武宣皇后を以て配す」と。
廬江主簿呂習、密かに人を呉に遣はし兵を請ひ、城門を開きて内応せんと欲す。呉主、衛將軍全琮をして前將軍朱桓等を督し、之に赴かしむ。至るに及び、事露れ、呉軍還る。
諸葛恪、丹楊に至る。文書を四部属城長吏に移し、各々其の疆界を保ち、部伍を明らかに立てしむ。其の降伏する平民は、悉く令して屯居せしむ。是に於いて内に諸将を遣はし、険阻に兵を羅列し、但だ藩篱を繕ひて与に交戦せず。其の穀の熟せんとするを俟ち、輒ち兵を縱ちて収刈し、種を遺さざらしむ。旧穀既に尽き、新穀収めず、平民又屯居し、略ぼ入る所無し。是に於いて山民飢困し、漸く降伏して出づ。恪、又令して曰く、「山民、悪を去りて化に順ふ者は、皆当に慰撫し、外県に徙し、疑って拘執することを得ざるべし」と。臼陽長胡伉、降民周遺を得たり。遺、元来悪民にして、逼迫して暫く出でし者なり。伉、之を縛して送る。恪、伉が教令に違うを以て、遂に伉を斬って徇む。民、伉が執送を以て殺さるるを聞き、官の但だ民の出づるを欲することを知り、老幼相携へて出づ。一年の間、数皆本規の如し。恪、自ら一万人を領し、余は諸将に分つ。呉主、其の功を嘉し、恪を威北将軍と為し、都郷侯に封じ、廬江皖口に徙屯す。
この年、長安から鐘虡・駱駝・銅人・承露盤を洛陽に移した。承露盤は折れ、その音は数十里に響いた。銅人は重すぎて運べず、霸城に留め置かれた。大量に銅を徴発して銅人を二体鋳造し、翁仲と称し、司馬門の外に並べて置いた。また、黄龍と鳳凰をそれぞれ一体ずつ鋳造し、龍の高さは四丈、鳳凰の高さは三丈余りで、内殿の前に置いた。芳林園の西北の角に土山を築き、公卿百官に命じて皆に土を背負わせ、山の上に松・竹・雑木・良草を植え、山中の鳥獣を捕らえてその中に放した。
司徒軍議掾の董尋が上奏して諫めていうには、「臣は聞きます、古の直言之士は、国に対して尽言して憚らず、死を恐れなかったと。ゆえに周昌は漢の高祖を夏桀・商紂に比し、劉輔は趙皇后を奴婢に比しました。天が忠直の人を生み出すのは、たとえ刃や熱湯に直面しても、勇往邁進して命を顧みないからで、これは実に当代の君主のために天下を愛惜するからであります。建安以来、野戦で死亡した者は多く、あるいは全家が死に絶え、たとえ生きている者がいても、遺された孤児や老弱でありました。もし今、宮室が狭小であるならば、拡大すべきですが、それも時節に順応し、農務を妨げないようにすべきであり、ましてやこれらの無用のものを建造するなどありえません。黄龍・鳳凰・九龍・承露盤、これらはすべて聖明の君が興建しないものであり、その労力は宮殿の三倍にもなります。陛下はすでに群臣を尊重し、冠冕をもって彼らを貴くし、華麗な刺繍を彼らにまとわせ、華やかな車に彼らを乗せておられますが、これは小人と区別するためであります。それにもかかわらず、彼らに穴を掘らせ土を背負わせ、面目を汚し、身体を濡らし足を塗り、衣冠を破壊し尽くさせ、国の光采を損なって無用のものを尊ぶのは、実に道理にかなっておりません。孔子は申しました。『君は臣を用いるに礼を以てし、臣は君に事えるに忠を以てす』と。忠もなく礼もなければ、国は何によって立つのでありましょうか。私は言葉を発すれば必ず死ぬことを知っておりますが、自らを牛の一毛に例え、生きていて益がなければ、死んでも何の損があろうか。筆を握り涙を流し、心はすでに世に別れを告げました。私には八人の子がおり、私が死んだ後は、陛下のお手を煩わせることになりましょう」と。上奏しようとする時、沐浴更衣して命令を待った。明帝は言った、「董尋は死を恐れないのか」と。主管の役人が董尋を逮捕すべきと奏請したが、明帝は詔を下して追求しなかった。
高堂隆が上奏疏していうには、「今の小人どもは、秦・漢の奢侈糜費を好んで語り、陛下の聖心を動揺させようとします。彼らは亡国の君主の礼にかなわない器物を搜し求め、労役を費やし、徳政を損なっております。これは礼楽を振興し調和し、神明の福を全うする道ではございません」と。明帝は聞き入れなかった。高堂隆はまた上書していうには、「昔、洪水が滔天すること二十二載、堯・舜もただ君臣南面して座しておられたのみでした。今、当時のような緊急の状況はないのに、公卿大夫を奴僕と共に労役に服させ、四方の夷狄の耳に伝わるのは、良い評判ではございません。史冊に記されるのも、美名ではございません。今、呉・蜀の二つの賊寇は、ただ空地を占拠する小股の虜賊や城邑に集まる盗寇ではなく、僭越して名号を自称し皇帝と称し、中原と勝負を争おうとしております。今、もし誰かが来て報告して言うことがありましたら、『孫権・劉禅はともに徳政を修め、租税賦斂を軽減し、事に当たっては耆老賢人に諮問し、行事は礼法制度に従っております』と。陛下がお聞きになれば、どうして彼らを警戒し嫌悪し、速やかに討伐消滅するのが難しく国の憂患となると思われないでありましょうか。もし報告する者が言うことがありましたら、『かの二つの賊寇はともに無道を行い、奢侈に節度なく、士民を使役し、賦斂を重ね、百姓は堪え難く、哀嘆が日ごとに深刻になっております』と。陛下がお聞きになれば、どうして彼らが疲弊凋落していることを喜び、彼らを攻め取るのは難しくないと思われないでありましょうか。もしこのようであれば、立場を換えて考えることができ、事理の数も遠くはないのでございます。亡国の君主は自ら亡びないと思い、それから亡びるのであり、賢聖の君主は自ら亡びると思い、それから亡びないのでございます。今、天下は凋敝し、百姓は一石半斗の蓄えもなく、国家は一年分の蓄えもなく、外には強敵がおり、六軍は辺境に曝され、内には大規模な土木工事が行われ、州郡は騒動不安であります。もし敵寇の警報があれば、私は築城の役夫たちが国のために敵庭で命を捨てて戦うことができないことを恐れます。また、将領官吏の俸禄は次第に削減され、過去と比べて五分の一に過ぎません。退職した者には俸禄賞賜が絶たれ、本来賦税を納めるべきでない者までもが半分を出すようになりました。このように官府の収入は以前より多く、支出は以前より少なくなりました。しかし度支の経費は、かえって常に不足し、牛肉のような小さな賦税も、前後して相次いで徴収されております。逆に推し量れば、これらの費用はすべて必ず行き先がございます。しかも俸禄賞賜の穀物布帛は、君主が官吏百姓を恵み養い、彼らの命を掌握するものであり、もし今これを廃するならば、それは彼らの命を奪うことでございます。すでに得たものをまた失うのは、怨恨を生む根源でございます」と。明帝はこれを見て、中書監・中書令に言った、「高堂隆のこの奏疏を見ると、私に恐れを感じさせる」と。
尚書の衛覬が上奏疏していうには、「今、議論する者どもは、悦耳の言葉を好む者が多い。彼らは政治を論ずれば、陛下を堯・舜に比し、征伐を論ずれば、二つの敵虜を狸猫や鼠に比する。私はそうではないと思います。四海の内は、三つの国に分裂し、群臣士人はそれぞれ力を尽くし、各々その主のために尽くしており、これは六国が分割して治めたのと異なるところはございません。今、千里の内には炊煙もなく、遺された百姓は困苦の極みにあります。陛下がよく心を留められなければ、凋敝に陥り、再び盛んにするのは難しくなりましょう。武皇帝の時、後宮の食事は一種類の肉を超えず、衣服は錦繍を用いず、坐臥の席には縁飾りがなく、器物には丹漆がありませんでした。それゆえに天下を平定し、福沢を子孫に残すことができました。これらはすべて陛下のご覧になられたところでございます。当今の急務は、君臣上下が共に府庫を計算し、収入に応じて支出を量り、なおかつ足りないことを恐れるべきであり、それなのに工事労役は止まず、奢侈糜費は日ごとに尊ばれ、国庫は日ごとに枯渇しております。昔、漢の武帝は神仙の道を信じ、雲の上の露を得て玉屑と混ぜて食べるべきと考え、ゆえに仙人掌を設けて高い所の露を受けました。陛下は聖明で、常に彼を嘲笑しておられます。漢の武帝は露を求めることがありましたが、なお嘲笑されました。陛下は露を求めることもなく、徒にそれを設けられ、益のないものを好み、労力を浪費しておられるのは、実にすべて陛下の聖慮が裁断節制されるべきところでございます」と。
当時、詔が下り、士人の娘で既に吏民に嫁いで妻となっている者を登記して奪い返し、士人に還し、生きている奴婢による自らの贖いを許し、またその中で容姿の美しい者を選んで後宮に入れることとした。太子舎人・沛国の張茂は上書して諫めて言った、「陛下は天の子であり、百姓吏民もまた陛下の子であります。今、これを奪ってそれに与えることは、兄の妻を奪って弟に与えるのと異ならず、父母の恩情に偏りがあります。また、詔は年齢・容貌が妻と等しい生きている奴婢をもって自らに代えることを許したため、富者は家を傾け、貧者は借財し、高い値で生きている奴婢を買って自らの妻を贖いました。県官は名目上は士人に配給するとしながら、実際には後宮に送り込み、醜い者のみを士人に与えました。妻を得た者は必ずしも喜ばず、妻を失った者は必ず憂いがあり、ある者は貧窮し、あるいは愁苦し、皆その志を得ることができません。君主が天下を有しながら万民の心を得ることができなければ、危うくないことは滅多にありません。ましてや軍は外に数十万人あり、一日の費用は千金に止まらず、天下の財物をもってこの労役を賄ってもなお足りません。それに加えて宮庭の中にいる非編制の女子があります。椒房(皇后)の母后の家には、賞賜が意のままに与えられ、内外が互いに引き合い、費用は軍隊の半分に相当します。昔、漢の武帝は地を掘って海とし、土を積んで山としましたが、それは当時天下が統一され、誰も彼と刃を交えようとする者がいなかったからに過ぎません。衰乱以来、四五十年、馬は鞍を下ろさず、兵は鎧を脱がず、強敵が辺境にあって、魏室を害そうと図っています。陛下が戦戦兢兢として節約を崇尚しようと思いめぐらさず、かえって奢侈靡費を追求し、中尚方は玩賞の物を作り、後園は承露盤を建造する。これは確かに耳目を愉悦させるものですが、敵寇の野心を助長するにも十分です!惜しいかな、堯・舜の節約を捨てて漢の武帝の奢侈を為すことを、私はひそかに陛下が取るべきでないと考えます。」明帝は聞き入れなかった。
高堂隆は病が重くなり、口述して上疏した、「曾子に言があります、『人の将に死せんとする、その言や善なり』。私は病床に臥し、病状は増すばかりで減らず、常に恐れるのは忽然として世を去り、忠誠が顕れないことです。私の赤誠の心を、陛下がどうか少しく省察されますように!私は夏・殷・周の三代が天下を有し、聖賢が相承けて数百年を経、一尺の土地も彼らの有せざるはなく、一人の百姓も彼らの臣たらざるはないのを見ました。然るに夏桀・殷紂の類は、心意を縦にし、欲望を極め、皇天は震怒し、宗廟国家は廃墟と化し、殷紂は首を斬られて白旗に懸けられ、夏桀は鳴条に流されました。天子的な尊位は、殷湯・周武の有するところとなりました。彼らは別の人であったでしょうか?皆、聖明な君王の後裔です。黄初の年間、上天は警戒を顕し、怪しい鳥が燕の巣の中で養われ、嘴・爪・胸が全て赤かったのは、これは魏室の大いなる異象です。応じて、鷹揚の如き猛臣が蕭牆の内にあるのを防ぐべきです。諸王を選抜し、彼らに封国を治め軍を統領させ、碁子のように配置し、皇畿を鎮守安撫し、帝室を輔翼光大させることができます。皇天は親疎なく、ただ徳ある者を輔けます。百姓が徳政を歌えば国祚は延長し、下に怨恨嘆息があれば、命を授けるのを止めて有能な者に伝えます。これによって見れば、天下は天下の天下であり、ただ陛下一人の天下ではありません!」明帝は自ら手ずから詔書を書き、深く慰労した。程なく高堂隆は世を去った。
陳寿は評して言う、高堂隆は学業修明で、志は君を匡正するにあり、災変に託して陳戒し、発するところは懇切至誠であり、真に忠臣である!しかし彼が必ず正朔を改め、魏朝に虞舜を始祖とさせようとしたのは、これはおそらく所謂、意は通達に過ぎたというものであろう!
明帝は浮華の徒を非常に憎み、詔を吏部尚書盧毓に下して言った、「選抜挙薦は名声ある者を取るな。名声は地に画いた餅の如く、食べられない。」盧毓は答えて言った、「名声はもって奇異な人を招くには足りませんが、平常の士人を得ることはできます。平常の士人は教化を畏れ善行を慕い、しかる後に名声があるのであって、これは憎むべきものではありません。愚臣はもって奇異な人を識別するに足りず、また主る者は正に循名責実・按常規事を職務とするものであり、ただその後の作為を検証する方法があるべきです。古は陳奏言論を以て功績によって考核しました。今は考課の法度が廃れ、毀誉をもって進退するので、真偽が混ざり、虚実が相蒙っています。」明帝はその言を採用した。詔を下して散騎常侍劉邵に考課法を制定させた。劉邵は『都官考課法』七十二条を作り、また『説略』一篇を書き、詔を下して百官に討論させた。
司隷校尉の崔林が言うには、「『周官』の考課の制度を考察すると、その条文はすでにかなり完備していました。しかし、周の康王以降、次第に衰退しました。これは、考課の制度が機能するかどうかは、実行する人物にかかっていることを示しています。漢の末年に至って、考課の制度に欠落があったのは、単に補佐官吏の職責が厳密でなかったからに過ぎないでしょうか!今日、軍隊は時に雑多で時に慌ただしく、増減が一定せず、そもそも統一した基準を設けることは困難です。ましてや、万の網目が開かなくとも、綱を引き上げればよく、多くの毛が整わなくとも、襟を振るえばよいのです。皋陶は虞舜の時に職務に就き、伊尹は殷の商の臣となり、不仁の者は自然と遠ざかりました。もし大臣が自らの職責を全うし、百官の模範となれば、誰が敢えて厳粛に恭敬しないでしょうか。どうして考課の制度など必要とするでしょうか!」と述べた。黄門侍郎の杜恕が言うには、「功績を公開で考核し、三回の考核を経て昇降を決定することは、確かに帝王の盛んな制度です。しかしながら、夏・殷・周・秦・漢・魏の六代を経ても、功績を考核する方法は顕彰されず、堯・舜・禹・湯・文王・武王・周公の七人の聖人を経ても、考核試験の条文は伝わっていません。私は私的に考えますに、これは考核の方法は大まかに依拠できるものの、その詳細な内容を完全に列挙することが難しいからであります。世の諺に『世には乱を作る人はいても、乱を作る法はない』とあります。もし法律だけで依存できるならば、唐堯・虞舜は稷・契のような補佐を必要とせず、殷・周も伊尹・呂尚のような助手を重んじることはなかったでしょう。今、功績考核を上奏する人々は、周・漢のやり方を述べ、京房の本意を継ぎ合わせており、考核の要領を明らかにしたと言えます。しかし、この方法で謙譲の風を推し進め、荘厳な治理を興そうとしても、完全な善には至らないと私は考えます。彼らは州郡に士人を考察させ、必ず四科(德行・言語・政事・文学)を経て、すべて事功の実効を伴わせ、その後考察して推挙し、さらに試用して公府に召し抱え、新たに任地の長官とし、功績の順序に従って郡守に転任させるか、あるいは直接官秩を加え爵位を賜うことを望んでいます。これは確かに考核の最も緊急な事務であります。私は、彼らの身分を顕彰し、彼らの建議を採用し、完全な州郡の考核方法を制定させるべきだと考えます。方法が実施された後、必ず果たされる賞与を設け、必ず執行される刑罰を施行すべきです。公卿および内廷の大臣については、その職責に従って考核すべきです。古代の三公は、坐して治国の道を議論し、内廷の大臣は、諫めて善を勧め過ちを補い、善行が記録されず、過ちが挙げられないことはありませんでした。ましてや天下は極めて広大であり、政務は極めて繁多であり、確かに一人で全てを管理できるものではありません。故に君王は頭のようであり、臣子は股肱のようであり、それらが一体であり、相互に依存して初めて成功する道理を明らかにすべきです。それゆえ古人は言いました。『朝廷を造る木材は、一本の樹の枝ではない。帝王の功業は、一人の士の謀略ではない』と。これによって言えば、どうして大官がただ職務を守り、考核を整えるだけで太平の世に達することができるでしょうか!もしただ身を保ち位を保つことだけを求め、追放や罷免の罪がなく、尽忠して公事に当たりながら、疑われる境地に置かれ、公義が修まらず私議が風を成すならば、たとえ孔子をして考核を主宰させても、全ての人の才能を完全に発揮させることはできず、ましてや世俗の者においておや!」と述べた。司空掾の北地の人、傅嘏が言うには、「官職を設置し職責を均衡させ、民事・物事を整理することは、根本を立てる方法であります。名に従って実を求め、既存の規律を正し督促することは、末節を治める方法であります。根本の綱紀が確立されていないのに、末節の規程を制定し、国家の方略が崇高でないのに、考核を最優先にすることは、賢愚を区別するに足りず、幽明の理を精査することもできないでしょう。」と述べた。議論は長く決着せず、この事はついに実行されなかった。
臣・司馬光が言うには、国家を治める要諦は、人を用いることより重要なものはない。而して人を識る方法は、聖賢も困難とする所である。故に、もし毀誉によって人材を求めるならば、愛憎の情が競い現れ、善悪が混ざり合う。もし功状によって考核するならば、巧詐の事が横溢し、真偽が互いに紛れる。要するに、その根本は極めて公正で、極めて明察であることに尽きる。上位に立つ者が極めて公正で極めて明察であれば、下属の才能の高低は明らかに眼前に現れ、逃れる場所はない。もし公正でなく明察でなければ、考核の方法は、まさに偏私・欺瞞・隠蔽の手段となる。なぜそう言えるのか。公正明察は内面であり、功状は外面の表れである。自らの内心すら治められずに、他人の外面を考核しようとするのは、難しすぎはしないか!上位に立つ者が、もし本当に親疎貴賤によって心を変えず、喜怒好悪によって志を乱されなければ、経術を治める士人を知りたいと思えば、その記誦閲覧が広博かどうか、講論が精通かどうかを観る。これがよく経術を治める者である。刑獄を治める士人を知りたいと思えば、真偽を完全に弁別し、冤枉抑圧がないかどうかを観る。これがよく刑獄を治める者である。財政を治める士人を知りたいと思えば、倉庫が充実しているか、百姓が富裕充足しているかを観る。これがよく財政を治める者である。軍事を治める士人を知りたいと思えば、戦いに勝ち攻め取れるか、敵が畏れ服従するかを観る。これがよく軍事を治める者である。百官についても、皆このようにすべきである。衆人に諮問するとはいえ、決断は自らにあり、外面を考察するとはいえ、明察は内心にある。実際の状況を研究し実情を検証し、適否を斟酌し、極めて精微であり、口で述べることもできず、文字で伝えることもできない。どうして予め法規を制定して、全てを担当官署に委ねることができようか!もし親信で顕貴な者が才能がなくても職に就き、疎遠で賤しい者が賢才であっても遺棄され、好きな者は官職を損なっても去らず、怒り嫌う者は功績があっても記録されず、衆人に諮問すれば毀誉が半ばして決断できず、外面を考察すれば文書は完備しているが実質は欠けており明察できない。たとえさらに完全な法規を制定し、条目を増やし、簿冊を慎んで記録しても、どうして真実の状況を得られようか!
或る人が言う。国君が治めるのは、大きいものは天下、小さいものは一国であり、内外の官員は数千数万に及び、考察昇降を行うのに、どうして担当官署に委ねず、独りでこの事を担うことができようか。答えて言う。そういうことではない。凡そ上位に立つ者は、国君だけではない。太守は一郡の上に立ち、刺史は一州の上に立ち、九卿は属官の上に立ち、三公は百官の上に立つ。皆この方法を用いて下属を考察昇降し、国君もまたこの方法を用いて公卿・刺史・太守を考察昇降する。どこに煩わしいことがあろうか!或る人が言う。功績を考核する方法は、唐堯・虞舜が施行したものであり、京房・劉邵が述べて完成させたものである。どうして廃止できようか。答えて言う。唐堯・虞舜の官員は、その在任期間が長く、任務を専一に受け、立法は寛緩であり、成果を求めるのは長遠であった。故に鯀は洪水を治め、九年功績なくして、その後罪に処せられた。禹は洪水を治め、九州が統一され、四方が安住できるようになり、その後その功績を賞した。京房・劉邵の方法のように、米塩のような瑣事を考核し、朝夕の成果を求めるのとは異なる。事には本来、名称は同じでも実質が異なるものがある。明察しないではいられない。功績を考核する方法は、唐堯・虞舜に施行できて、漢・魏に施行できないというのではない。京房・劉邵が根本を掴まず、末節のみを追求したからである。
当初、右僕射の衛臻が選挙を主管していた時、中護軍の蔣済が衛臻に手紙を送って言った。「漢の高祖は逃亡した捕虜に出会えば上将軍に任じ、周の武王は漁師を太師に抜擢した。平民や僕役であっても、王公の位に登ることができる。どうして成文に拘り、試験を行ってから任用する必要があろうか!」衛臻は答えた。「それは違う。あなたは周の武王が牧野で殷の紂王を討ったことを、周の成王・康王の太平盛世と同列に扱い、漢の高祖が蛇を斬って義兵を挙げたことを、漢の文帝・景帝の守成の時期と同列に論じようとしている。常軌を逸した行動を好み、奇才を抜擢する道を開けば、天下の人々が我先に奔走し競い合うことになるであろう!」盧毓は人物を評論し官員を選抜する際、常にまず品性と德行を重視し、その後に才能を論じた。黄門郎の馮翊人・李豊がかつてこのことを盧毓に問うたところ、盧毓は言った。「才能とは善事を行うためのものである。ゆえに大いなる才能は大いなる善事を成し、小さな才能は小さな善事を成す。今、才能があると言いながら善事を行えないとすれば、その才能は器用に適わないのである。」李豊はその言葉に感服した。
