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秦紀

秦紀三

第 3 篇

秦紀三

起昭陽大荒落,盡閼逢敦牂,凡二年。

二世皇帝二年(癸巳年、前二〇八年)

1 冬、十月、泗川郡監平、軍を率いて豊県に沛公を包囲す。沛公、兵を出して之と戦い、平を破り、雍歯に命じて豊県を守らしむ。十一月、沛公、兵を率いて薛県に赴く。泗川郡守壮、薛県に敗れ、戚県に逃れる。沛公の左司馬、これを捕らえて殺す。

2 周章、函谷関を出で、曹陽に留まり駐屯すること二月余り、章邯、追撃して之を破る。周章、また渑池に逃れ、十数日にして、章邯、攻撃を発し、周章の軍を大いに敗る。周文、自刎して死す。ここにおいて軍、戦わず。

呉広、滎陽を包囲す。李由、三川郡守となり、滎陽を守る。呉広、これを抜く能わず。楚の将田臧ら、相議して曰く「周章の軍、已に破られたり。秦の軍、旦夕に至らんとす。我、滎陽城を囲みて抜く能わず。秦の軍至らば、必ず大敗せん。兵の一部を留めて滎陽を守らしめ、悉く精鋭を率いて秦軍に迎え撃つに如かず。今、假王(呉広)驕り、兵の権謀を知らず。之と大事を議す可からず。恐らく敗れん。」と。乃ち陳王の命を偽りて呉広を殺し、その首を陳王に献ず。陳王、使者を遣わして田臧に楚の令尹の印を賜い、上将軍と為す。

田臧、乃ち将李帰らを遣わして滎陽を守らしめ、自ら精鋭を率いて西のかた敖倉に至り秦軍を迎え撃ち、秦軍と戦う。田臧、戦死し、軍、敗れる。章邯、進軍して滎陽城下に至り李帰らを攻め、これを破り、李帰ら戦死す。陽城の人鄧説、軍を率いて郯県に駐屯す。章邯の別将、これを破る。銍県の人伍逢、軍を率いて許県に駐屯す。章邯、これを破る。両軍、潰散して陳県に逃る。陳王、鄧説を誅す。

3 二世、屡々李斯を責めて曰く「卿は三公の位にあり。如何にして盗賊をしてかくの如く猖獗ならしむるや!」と。李斯、恐れ、且つ爵位俸禄を貪り、為す所を知らず。乃ち二世の意に迎合し、上書して対え曰く「賢明なる主とは、必ず能く督察責罰の術を行う者を謂う。故に申子が曰く『天下を有ちて恣にせず、これを天下を桎梏と為すと謂う』と。他に由無し。督察責罰を行わず、反って身を天下の為に労し、尭・禹の如くするを以て、故に之を桎梏と謂うなり。申不害・韓非の英明なる術を修めず、督察責罰の道を行い、専ら天下を以て自ら快くせんとせず。徒に身を労し精神を苦しめ、身を以て民の先に立ちて之に役せば、是れ民の僕たるのみ。天下を治むる者に非ず。何ぞ貴ぶに足らんや!故に賢明なる主は、能く督察責罰の術を行いて朝廷に独断すれば、則ち権、臣下に落ちず。然る後、始めて能く仁義の塗を絶ち、諫諍の辞を杜り、傲然として自ら放縦し意の欲する所を行い、而して敢えて之に違う者無し。此の如くなれば、群臣・百姓、過ちを救うに暇あらず。何ぞ敢えて変を図らんや!」と。二世、大いに喜ぶ。ここにおいて益々督察責罰を厳しく行い、民に収税するに深刻なる者を賢吏と為し、人を殺すこと多き者を忠臣と為す。道に刑せらるる者、相継ぎ、市に死せる者、日々積りて多し。秦の民、益々恐れ驚き、乱を為さんと欲す。

4 趙の将李良、已に常山を平定し、還りて趙王に報告す。趙王、復た李良を遣わして太原を取らしむ。李良、石邑に至る。秦軍、井陘の関を塞ぎて進む能わず。秦の将、二世皇帝の書を偽りて李良を招降す。李良、書を得て信ぜず。邯鄲に還り、兵の増援を請う。未だ邯鄲に至らざるに、道に趙王の姉の酒を飲みて出でて帰るに遇う。従う騎兵百余り。李良、之を見て趙王と為し、跪いて道の旁に拝謁す。趙王の姉、酔いて将軍たるを知らず。騎兵を遣わして李良に謝意を示さしむ。李良、素より貴顕なり。起ちて、部属の前に在りて恥ず。部属の中の一人、言う「天下、秦に反す。能ある者、先ず王と為る。況や趙王、素より将軍の下に在り。今、一女子、将軍の為に車を下りず。追いかけて之を殺さん!」と。李良、先に秦国の書を得て、元より趙に叛かんと欲し、未だ決せず。此の怒りに乗じ、人を遣わして追いかけ趙王の姉を殺す。乃ちその軍を率いて邯鄲を襲う。邯鄲、覚らず、遂に趙王及び邵騒を殺す。趙人、多く張耳・陳余の耳目と為る。故に二人、独り逃れ得たり。

5 陳県の人秦嘉、符離の人朱鶏石ら、兵を起こし、郯県にて東海郡守を包囲す。陳王、之を聞き、武平君畔を将と為し、郯县城下の軍を監せしむ。秦嘉、命を受けず、自ら大司馬と為り、武平君に隷属するを悪み、軍吏に告げて曰く「武平君、年少、兵事を知らず。之に従う勿かれ!」と。乃ち陳王の命を偽りて武平君畔を殺す。

6 二世、長史司馬欣・董翳を増派して章邯を輔け盗賊を攻めしむ。章邯、伍逢を破り、又た陳王の柱国房君を攻めて之を殺す。進みて又た陳県の西にある張賀の軍を攻む。陳王、自ら出でて督戦す。張賀、戦死す。

7 臘月、陳王、汝陰に赴き、還りて下城父に至る。その御者荘賈、陳王を殺して秦に降る。初め、陳涉、陳王と為りし後、その故人、皆往きて之に就く。その舅父も亦た往く。陳王、普通の賓客の礼を以て之を接し、長揖するのみにして拝せず。舅父、怒りて曰く「乱に乗じて妄りに王と僭し、又た長者に傲る。久しきを得可からず!」と。辞せずして去る。陳王、跪いて謝すも、舅父、遂に顧みず。客、出入ますます縦肆となり、陳王の昔日の事を談ず。或る人、陳王に説く曰く「客、愚昧にして妄りに言い、専ら軽んずるを為す。威を損なう可し。」と。陳王、乃ち客を殺す。ここにおいてその故人、皆各自り去り、此の後、親しむ者無し。陳王、朱防を中正と為し、胡武を司過と為し、群臣を督察するを主らしむ。諸将、城邑を攻略して還る。命令に順わざれば、即ち逮捕して罪に問う。苛察を以て忠と為し、其の好まざる所は、司吏に下さず、輒ち自ら之を治む。諸将、此の故を以て親しみ附かず。是れ其の敗る所以なり。

陳王の故の侍従将軍呂臣、蒼頭軍を為り、新陽に起こり、陳県を攻めて之を抜き、荘賈を殺し、復た陳県を以て楚の都と為す。陳王を砀県に葬り、諡して隠王と為す。

初め、陳王、銍県の人宋留に命じて軍を率いて南阳を平定し、武関に入らしむ。宋留、已に南阳を取る。陳王の死を聞き、南阳、復た秦に附す。宋留、軍を率いて降る。二世、宋留を車裂にして以て徇す。

8 魏の周市、軍を率いて豊・沛の地を取る。人を遣わして雍歯を招降す。雍歯、本より沛公に属するを欲せず。乃ち豊県を以て魏に降る。沛公、豊県を攻むるも、抜く能わず。

9 趙の張耳・陳余、その散兵を収め、数万人を得、李良を攻む。李良、敗れ、逃げて章邯に帰附す。

客、張耳・陳余に説く曰く「二君、客として此に居り、趙をして帰附せしめんと欲す。独り立ちて成功すること難し。趙の後を立て、義を以て之を輔けよ。功業を成す可し。」と。ここにおいて趙歇を得たり。春、正月、張耳・陳余、趙歇を立てて趙王と為し、信都に都す。

10 東陽寧君と秦嘉は、陳王の軍が敗れたと聞き、景駒を楚王として擁立し、軍を率いて方与に向かい、定陶の城下で秦軍を攻撃しようとした。そこで公孫慶を斉に派遣し、斉と力を合わせて進軍しようとした。斉王は言った。「陳王は敗れ、その生死もわからぬのに、楚国はどうして勝手に王を擁立するのか。」公孫慶は言った。「斉は楚国に伺いを立てずに王を擁立した。楚国がなぜ斉に伺いを立てて王を擁立しなければならぬのか。そもそも楚国が先に事を起こし、天下に号令すべきである。」田儋は公孫慶を殺した。

11 秦の左・右校尉が再び陳県を攻め、陥落させた。呂将軍は逃走し、散兵を集めて再びまとめ、番陽の盗賊・黥布と出会い、力を合わせて秦の左・右校尉を攻め、青波でこれを破り、再び陳県を楚国の都とした。

黥布は六県の人で、姓は英氏。法に触れて黥刑に処せられ、刑徒として驪山に送られて労役に服した。驪山の刑徒は数十万人おり、黥布はこれらの刑徒の中の頭目や豪傑と交際を持ち、ついにその仲間を率いて、長江一帯に逃れて盗賊となった。番陽県令の呉芮は、江湖の地の人々の心をよく得ており、番君と号された。黥布が彼を訪ねると、その時にはすでに部衆は数千人に達していた。番君は娘を彼に嫁がせ、軍を率いて秦軍を攻めさせた。

12 楚王景駒は留県におり、沛公はこれに身を寄せた。張良もまた百余名の若者を集め、景駒に身を寄せようとして道中で沛公に出会い、これに帰順した。沛公は張良を厩将に任命した。張良はたびたび『太公兵法』を用いて沛公に献策し、沛公はこれを善しとして、しばしばその計略を用いた。張良が他の者にこれらを説いても、他の者には理解できなかった。張良は言った。「沛公はおそらく天が授けたものである。」こうして沛公に従い、離れることはなかった。沛公と張良は共に景駒に会い、兵を借りて豊県を攻めようと願い出た。この時、章邯の部将・司馬尸(ふたりの者)が軍を率いて北平から楚地を平定し、相県を虐殺し、砀県に至った。東陽寧君と沛公は軍を率いて西進し、蕭県の西で戦ったが、敗れて退き、軍を集めて留県に駐屯した。二月、砀県を攻め、三日で陥落させた。砀県の兵を収編して六千人を得、元の軍と合わせて九千人となった。三月、下邑を攻めて陥落させた。帰還して豊県を攻めたが、陥落させることができなかった。

13 広陵人の召平は陳王のために広陵を攻めたが、陥落させることができなかった。陳王が敗走したと聞き、章邯の軍が間もなく到来すると知り、長江を渡り、陳王の命令と偽って、項梁を楚の上柱国に任命し、言った。「江東はすでに平定された。速やかに軍を率いて西進し、秦軍を攻撃せよ。」項梁はここに八千人を率いて長江を渡り西進した。陳嬰がすでに東陽を攻略したと聞き、項梁は使者を派遣して彼と連合し共に西進しようとした。陳嬰はもと東陽県の令史で、県中で事務を執り、一貫して誠実で謹慎であり、長者と称されていた。東陽の若者たちはその県令を殺し、二万人を集めて、陳嬰を王に擁立しようとした。陳嬰の母は陳嬰に言った。「私があなたの家に嫁いで以来、あなたの先祖の中に高貴な者がいたとは聞いたことがない。今突然このような大きな名号を得るのは不吉である。他人に帰属する方がよい。事が成功すれば、なお侯に封じられることができ、事が失敗すれば、逃亡も容易で、世の衆目を集める者とはならない。」陳嬰はここに王を称するのを思いとどまり、配下の軍吏に言った。「項氏は代々将門であり、楚の国で声望がある。今大事を為そうとするならば、将帥は彼らでなければならない。我々が名門に頼れば、秦を滅ぼすことは必定である。」彼の部衆はこれに従い、ここに軍を項梁に委ねた。

14 英布はすでに秦軍を破り、軍を率いて東進した。項梁が西進して淮河を渡ったと聞き、英布と蒲将軍は共にその部隊を率いて項梁に帰属した。項梁の軍は合わせて六七万人となり、下邳に駐屯した。景駒、秦嘉の軍は彭城の東に駐屯し、項梁を防ごうとした。項梁は軍吏に言った。「陳勝が先に事を起こしたが、戦いに不利で、今どこにいるかわからない。今秦嘉は陳勝に背いて景駒を擁立した。大逆不道である。」ここに進軍して秦嘉を攻め、秦嘉の軍は敗走した。項梁は追撃し、胡陵に至ると、秦嘉は引き返して戦った。一日のうちに、秦嘉は戦死し、軍は降伏した。景駒は逃走し、梁の地で死んだ。

項梁はすでに秦嘉の軍を併合し、胡陵に駐屯し、軍を率いて西進しようとした。章邯の軍が栗県に至り、項梁は別将の朱鶏石、余樊君を派遣して章邯と戦わせた。余樊君は戦死し、朱鶏石の軍は敗れて胡陵に逃げ帰った。項梁はここに軍を率いて薛県に入り、朱鶏石を誅殺した。

沛公は百余騎を率いて項梁を訪ね、項梁は沛公に五千の兵と、五大夫の位の将十人を与えた。沛公は帰還し、軍を率いて豊邑を攻め、これを陥落させた。雍齒は魏に逃亡した。

項梁は項羽に別に襄城を攻めさせたが、襄城は堅く守り、陥落させることができなかった。陥落させた後、項羽は城中の軍民をことごとく生き埋めにし、帰還して報告した。

項梁は陳勝が確かに死んだと聞き、諸将の別将を薛県に召集して会議を開き大事を相談し、沛公もそこへ向かった。居鄛人の范増は七十歳で、かねてより隠居して家にいたが、奇計を好み、項梁を訪ねて説いた。「陳勝の失敗は、もとより当然のことです。秦が六国を滅ぼした中で、楚国が最も罪なくして滅ぼされました。楚の懐王が秦に入って帰れなくなって以来、楚人は今に至るまでこれを哀れんでおります。ゆえに楚の南公は言いました。『楚はたとえ三戸だけになろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚である。』と。今陳勝が先に事を起こしながら、楚の後裔を擁立せずに自ら王となりました。その勢力が長続きしなかったのも当然です。今あなたは江東から兵を起こし、楚の地から蜂起した将帥たちが競ってあなたに帰附するのは、あなたの家が代々楚の将帥であり、再び楚の後裔を擁立することができるからです。」ここに項梁はその言葉を正しいとし、民間にいる楚の懐王の孫・心を捜し求めた。彼はちょうど人の羊を放していた。夏、六月、彼を楚の懐王と立て、民の望みに応えた。陳嬰は上柱国となり、五県を与えられ、楚の懐王と共に盱眙に都した。項梁は自ら武信君と称した。

張良は項梁に勧めて言った。「あなたはすでに楚の後裔を擁立されました。韓の諸公子の中で横陽君・成が最も賢能です。彼を王と立て、同盟の勢力を増やすべきです。」項梁は張良に韓成を捜し求めさせ、韓王と立て、張良を司徒とし、韓王と共に千余人を率いて西進し韓の旧地を攻略した。幾つかの城邑を奪ったが、秦軍がすぐにまた奪い返した。彼らは往来して遊撃部隊となり、潁川一帯で活動した。

15 章邯はすでに陳勝を破り、進軍して臨済で魏王を攻めた。魏王は周市を外に派遣し、斉と楚に救援を求めた。斉王の田儋と楚の将・項它は共に軍を率いて周市に従い魏を救援した。章邯は夜間に兵士に口に箸をくわえさせて攻撃し、臨済の城下で斉・楚の連合軍を大破し、斉王の田儋と周市を殺した。魏王・咎は民のために降伏を約束し、約束が成立した後、自ら火を放って焼け死んだ。その弟の魏豹は楚に逃亡し、楚の懐王は魏豹に数千人を与え、再び魏の地を攻略させた。斉の田栄はその兄・田儋の残兵を収容し、東へ阿東に退いた。章邯は追撃してこれを包囲した。斉人は斉王・田儋が死んだと聞き、もとの斉王・田建の弟・田仮を王と立て、田角を丞相、田角の弟・田間を将軍として、諸侯に対抗した。

秋、七月、大雨が降り続いた。武信君・項梁は軍を率いて亢父を攻め、田栄の危急を聞き、軍を率いて東阿の城下で章邯の軍を破り、章邯は西に逃走した。田栄は軍を率いて東に帰り斉に戻った。武信君は単独で敗軍を追撃し、項羽と沛公に別に城陽を攻めさせ、城中の者を虐殺した。楚軍は濮陽の東に駐屯し、再び章邯と戦い、またもこれを破った。章邯は再び立て直し、濮陽を守り、城を取り巻いて水を引き固守した。沛公と項羽は去り、定陶を攻めた。

八月、田栄は斉王の田假を攻撃して追放した。田假は楚に逃げ、田角は趙に逃げた。田間は先に趙を救援し、そのまま留まって帰らなかった。田栄はそこで田儋の子である田市を斉王とし、田栄は丞相、田横は将軍となり、斉の地を平定した。章邯の兵力はますます強大となり、項梁はたびたび使者を斉・趙に送り、ともに章邯を攻撃するよう兵を求めた。田栄が言うには、「楚が田假を殺し、趙が田角・田間を殺せば、我は出兵する」と。楚と趙は同意しなかった。田栄は怒り、ついに出兵しなかった。

郎中の令である趙高は皇帝の恩寵を頼みに権勢をほしいままにし、私怨で多くの者を殺したため、大臣が朝廷に奏上する際に皇帝に告げ口するのを恐れ、そこで秦の二世皇帝に勧めた。「天子が尊ばれるのは、ただその声を聞くことができ、群臣がその姿を見ることができないからでございます。それに陛下はまだお若く、万事をすべてお詳しいわけではございますまい。もし朝廷にお出ましになって、叱責や推挙に誤りがあれば、大臣の前で短所を露呈することとなり、これは天下に神明を示す方法ではございません。陛下は奥深い宮中におられ、私や法令に詳しい侍中とともに事が起こるのを待ち、事が来てからそれを考慮して処理されるのがよろしいでしょう。そうすれば、大臣は疑わしいことを奏上できず、天下は陛下を聖明な君主と称えるでしょう。」秦の二世皇帝はこの計略を用い、もはや朝廷に出て大臣に会わず、常に宮中に居住した。趙高は侍中の身分で大権を掌握し、万事は趙高が決めた。

趙高は李斯がこのことについて議論していると聞き、丞相を訪ねて言った。「関東の群盗は多く、今や皇上は徭役を厳しく課し、阿房宮を築き、犬馬などの無用の物を集めておられます。私は諫めようと思いましたが、地位が低く賤しい身でございます。これは実に丞相であるあなた様のなさるべきことです。なぜ諫められないのですか?」李斯が言うには、「確かにその通りだ。私はこのことを長く言おうと思っていた。しかし今、皇上は朝廷にお出ましにならず、常に深い宮中におられる。私の言いたいことは、他人を介して伝えるわけにはいかない。面会しようとしても、機会がないのだ。」趙高が言うには、「あなた様が本当に諫められるなら、私があなた様のために皇上の暇な時をうかがってお知らせいたしましょう。」そこで趙高は、秦の二世皇帝が宴飲娯楽にふけり、婦女が前に侍っている時を選んで、人をやって丞相に告げた。「皇上がちょうど暇でいらっしゃいます。宮中に入って奏上なさるがよろしい。」丞相は宮門に至って拝謁を求めた。これを三度繰り返した。秦の二世皇帝は怒って言った。「私は普段暇な日が多いのに、丞相は来ない。私がひそかに宴楽している時に、丞相はいつも奏上に来る! 丞相は私を軽んじているのか? それともわざと私を困らせているのか?」趙高はこの機会に言った。「かつての沙丘の密謀には、丞相も加わっておりました。今や陛下は皇帝にお立ちになられましたが、丞相の地位は上がらず、その心中では領地を分け与えられて王となることを望んでおります。それに、陛下がお尋ねにならなければ、私はあえて申し上げませんでしたが、丞相の長子である李由は三川の郡守でございます。楚の地の盗賊陳勝らは、みな丞相の故郷の隣県の者でございます。それゆえに楚の地の盗賊は公然と横行し、三川の城を通り過ぎても、郡守は打ち出ようとはしません。私は彼らの間に文書のやり取りがあると聞きましたが、まだ確かな証拠を得ておりませんので、あえて申し上げなかったのです。それに丞相は外におられ、その権力は陛下よりも大きゅうございます。」秦の二世皇帝はその言を正しいと思い、丞相を処罰しようとしたが、事実が確かでないのを恐れ、まず人を遣わして三川の郡守と盗賊との連絡の状況を調べさせた。

李斯はこのことを聞き、そこで上書して趙高の短所を暴き言った。「趙高は利害をほしいままにし、陛下と異なるところがございません。昔、田常は斉の簡公の丞相となり、その恩徳と威権を盗み、下では民衆の支持を得、上では群臣の支援を得て、ついに斉の簡公を弑して斉の国を奪い取りました。これは天下の知るところでございます。今、趙高は邪悪な志を持ち、危険で反逆的な行いをし、その私的な富は、田氏が斉にあったのと同じでございます。しかも彼は貪欲で飽くことを知らず、利益を求めてやまず、地位と権勢は君主に次ぐものであり、その欲望には限りがなく、陛下の威信を奪い取ろうとしております。その野心は、韓□が韓の安の丞相であったのと同じでございます。陛下がもしご用心なされなければ、私は彼が必ずや変乱を起こすであろうことを恐れます。」秦の二世皇帝は言った。「これは何たる言葉か! 趙高は元々宦官であるが、彼は安逸によって心を放縦にせず、危難によって忠心を変えず、身を潔くし善行を修め、低い地位から今に至り、忠誠によって用いられ、信義によって地位を保っている。私は確かに彼を賢者と思う。而るに汝は彼を疑う、これはなぜか? それに我は趙君を除いて、誰を用いることができようか! それに趙君の人物は、精明廉潔、強幹有為で、下では人情に通じ、上では我が心にかなう。汝は疑うなかれ!」秦の二世皇帝はかねてより趙高を寵愛信任し、李斯が彼を殺すのを恐れ、ひそかに趙高に告げた。趙高は言った。「丞相が憂えているのはただ我が趙高一人でございます。我が趙高が死ねば、丞相は田常のなすことを行うでありましょう。」

この時、盗賊はますます増え、関中から兵を発して東方の盗賊を攻撃する動きは止まなかった。右丞相の馮去疾、左丞相の李斯、将軍の馮劫が進言した。「関東の群盗が相次いで蜂起し、秦は兵を発して追撃し、殺した者は多いが、盗賊はなお止みません。盗賊の多いのは、みな戍守・漕運・運輸・劳作などの労役があまりに苦しく、賦税があまりに重いからでございます。どうか一時的に阿房宮の建設工事を中止し、四方の戍守や運輸の労役を減らされますよう。」秦の二世皇帝は言った。「そもそも尊くして天下を有するゆえんは、思うままに放縦し、欲するままに行うためである。君主は法令を厳明にすることを重んじ、臣下があえて非をなさないようにして、はじめて天下を制御できるのだ。虞・夏の君主は、天子として尊くありながら、自ら窮苦の実の中に身を置いて民に従ったが、それで何の法令があろうか! それに先帝は諸侯から起こり、天下を兼ね併せ、天下がすでに平定されると、外では四夷を攘除して辺境を安定させ、宮室を築いて功業の成就を示された。そして汝らは先帝の功業の端緒を見たのだ。今や我が即位して二年の間に、群盗が並び起こり、汝らはそれを禁ずることができず、また先帝のなされたことを廃そうとする。これは上では先帝に報いることができず、次には我に忠誠を尽くして仕えることができない。何をもって官位にあるのか!」馮去疾・李斯・馮劫を官吏に引き渡し、その他の罪を追及して問いただした。馮去疾と馮劫は自殺し、ただ李斯だけが獄に下された。秦の二世皇帝は李斯を趙高に引き渡して審理させ、李斯とその子李由が謀反した状況を問いただし、その宗族・賓客をすべて逮捕した。趙高は李斯を審理し、千回以上鞭打った。李斯は痛みに耐えかねて、自ら罪を認める偽りの自白をした。

李斯が自殺を選ばなかったのは、自ら弁舌に長け、また功労があり、確かに反逆の心はなく、上書して自己弁明し、秦の二世皇帝が悟って赦してくれることを望んだからである。そこで獄中から上書して言った。「私は丞相として人民を治めて、すでに三十余年になります。当初、秦の国土は狭く、方円千里に過ぎず、兵士は数十万しかおりませんでした。私は微力を尽くし、ひそかに謀臣を派遣し、彼らに金銀玉帛を与えて、諸侯を遊説させました。またひそかに軍隊を整え、政令教化を整え、敢えて戦う者を用い、功臣を尊びました。これによってついに韓を脅し、魏を弱め、燕・趙を破り、斉・楚を平定し、最後に六国を兼ね併せ、その王を捕らえ、秦王を天子として擁立しました。続いてまた北方の胡・貉を駆逐し、南方の百越を平定し、もって秦の強さを示しました。さらに制度を改め、斗斛・度量衡を統一し、法令の条文を天下に公布し、もって秦の威名を打ち立てました。これらはすべて私の罪でございます。私はとっくに死罪に当たるべきでした! 皇上が幸いにも私に力を尽くして事を行うことを許されたので、今まで生きながらえております。どうか陛下、ご明察くださいますように!」上書が差し出されると、趙高は役人に命じて捨てさせ、上奏させなかった。「囚人がどうして上書できようか!」と言って。

趙高は彼の門客十数批を派遣し、御史・謁者・侍中に偽装させ、交代で李斯を尋問した。李斯が事実に基づいて答えると、彼らは人に命じて再び彼を拷問させた。後に秦の二世が使者を遣わして李斯の供述を検証したが、李斯は以前と同じだと思い込み、終始供述を改めることができなかった。そこで罪を認め、判決書が上奏された。秦の二世は喜んで言った。「趙君がいなければ、私はほとんど丞相に売られるところだった!」秦の二世が三川郡守の李由を調査に派遣した使者が到着した時には、楚軍はすでに彼を殺していた。使者が戻ってきた時、ちょうど李斯が獄吏に審判されることとなり、趙高は全て捏造した反逆の言辞でこじつけ、そこで李斯に五刑を科し、咸陽の街市で腰斬に処した。李斯は獄を出て、次男と共に護送された。彼は振り返って次男に言った。「お前と共に再び黄犬を連れ、上蔡の東門を出て狡兎を追うことができようか、それができるはずもない!」そして父子は相対して涙を流し、ついに三族を誅滅された。秦の二世はそこで趙高を丞相に任命し、政事は大小問わず全て彼が決断した。

項梁はすでに東阿で章邯を破り、兵を率いて西進し、北は定陶に至り、再び秦軍を破った。項羽と沛公はまた雍丘で秦軍と交戦し、大いにこれを破り、李由を斬った。項梁はますます秦軍を軽んじ、顔には傲慢な色が現れた。宋義は諫めて言った。「勝戦して将が驕り、兵が怠る者は、必ず敗れます。今、兵はすでにいくらか怠っており、秦軍は増え続けています。私はあなたのために憂えています。」項梁は聞き入れなかった。そこで宋義を斉国に使者として派遣したが、途中で斉国の使者高陵君顕に会い、言った。「あなたは武信君に会いに行くのですか?」高陵君顕は言った。「そうです。」宋義は言った。「私は武信君の軍が必ず敗れると断定します。あなたはゆっくり行けば死を免れ、急いで行けば災いに遭うでしょう。」秦の二世は全兵力を動員して章邯を援護し、楚軍を攻撃させ、定陶で大敗させ、項梁は戦死した。

当時、雨が続き、七月から九月まで降り続いた。項羽と沛公は外黄を攻めたが落とせず、撤退し、転じて陳留を攻めた。武信君が戦死したと聞き、兵士たちは皆恐れ、将軍呂臣と共に兵を率いて東へ撤退し、楚の懐王を盱眙から彭城に遷都した。呂臣の軍は彭城の東に駐屯し、項羽の軍は彭城の西に駐屯し、沛公の軍は砀県に駐屯した。

魏豹は魏の地の二十余りの城を攻略し、楚の懐王は魏豹を魏王に立てた。

後九月、楚の懐王は呂臣と項羽の軍を併合し、自ら統率した。沛公を砀郡長に任命し、武安侯に封じて、砀郡の軍を統領させた。項羽を長安侯に封じ、魯公と号させた。呂臣を司徒に任命し、その父の呂青を令尹に任命した。

章邯は項梁を破った後、楚の地の兵勢は憂うるに足らないと考え、黄河を渡り、北に向かって趙国を攻め、大いに趙軍を破った。彼は兵を率いて邯鄲に至り、民を全て河内に移住させ、城壁を平らげた。張耳は趙王歇と共に巨鹿城に逃げ込み、王離が彼らを包囲した。陳余は北に向かって常山の兵を集め、数万人を得て、巨鹿の北に駐屯した。章邯の軍は巨鹿の南の棘原に駐屯した。趙国は何度も楚に救援を求めた。

高陵君顕は楚におり、楚王に会見して言った。「宋義はかつて武信君の軍が必ず敗れると断定し、数日後、軍は確かに敗れました。軍がまだ交戦せずに敗れる兆候を予見できる者は、兵法を理解していると言えます。」楚王は宋義を召し出して大事を議し、非常に気に入り、そこで上将軍に任命した。項羽を次将、范増を末将とし、趙国を救援に向かわせた。他の諸将は全て宋義の指揮に属し、「卿子冠軍」と号した。

初め、楚の懐王は諸将と約束した。「先に関中に入り平定した者を、関中の王に封じる。」当時、秦軍は強く、しばしば勝ちに乗じて敗軍を追撃したため、諸将の中で先に関中に入ることが有利だと考えた者は誰もいなかった。ただ項羽だけが秦軍が項梁を殺したことを恨み、奮発激昂し、沛公と共に西へ入関することを願った。懐王の手下の老将たちは皆言った。「項羽の人は、凶暴で狡猾残忍です。彼はかつて襄城を攻め、襄城には一人の生き残りもなく、全て生き埋めにしました。彼の通った所は、殺戮と破壊を免れた所はありません。それに楚軍は何度も進攻し、前に陳勝や項梁が共に敗れました。寛厚な長者を派遣し、仁義を推し進めて西へ進軍させ、秦の地の父老たちに告諭するのが良いでしょう。秦の地の民は君主の害に苦しむこと久しく、今もし本当に寛厚な長者が赴き、暴虐を行わなければ、関中を攻略できるはずです。項羽は派遣できません。沛公だけは昔から寛厚で大度であり、派遣できます。」懐王はそこで項羽を認めず、沛公を派遣して西へ土地を奪取させ、陳勝や項梁の散兵を集めて秦軍を攻撃させた。

沛公は砀県を通り、陽城と杠里に至り、秦軍の壁を攻撃し、その二つの軍を破った。

二世皇帝三年(甲午、紀元前二〇七年)

冬、十月、斉国の将軍田都は田栄に背き、楚国を助けて趙国を救援した。

沛公は成武で東郡郡尉の軍を破った。

宋義は行軍して安陽に至り、四十六日間留まって進軍しなかった。項羽は言った。「秦軍が趙軍を包囲して情勢は緊急です。速やかに兵を率いて黄河を渡るべきです。楚軍が外から攻撃し、趙軍が内から応じれば、秦軍を破るのは必然です。」宋義は言った。「違う。牛を刺す虻は、虱を滅ぼすためには使えない。今、秦軍が趙軍を攻める、勝てば軍は疲弊する、我々はその疲弊に乗じて攻める。勝てなければ、我々は軍を率いて鼓を打ち西進すれば、必ず秦国を取ることができる。だからまず秦と趙を戦わせるのが良い。鎧を着て武器を手にするのは、私はあなたに及ばない。帳中に座って策を巡らすのは、あなたは私に及ばない。」そこで軍中に命令を下した。「虎のように猛々しく、羊のように凶暴で、狼のように貪欲で、強情で指揮に従わない者は、全て斬首せよ!」そこで彼の子の宋襄を斉国に国相として派遣し、自ら無塩まで送り、そこで大いに酒宴を開いた。天気は寒く、大雨が降り、兵士たちは凍え飢えていた。項羽は言った。「我々は本来心を一つにして秦軍を攻撃すべきなのに、長く留まって進まない。今年は不作で民は貧しく、兵士たちは半ば菜と豆の飯を食べ、軍中には蓄えがないのに、彼は酒を飲み宴を開いている。兵を率いて黄河を渡らず、趙国の食糧に頼り、趙軍と力を合わせて秦軍を攻撃するのをせず、『その疲弊に乗じる』と言っている。秦の強大さをもって、新たに立てられた趙国を攻めるのは、その勢い必ず趙国を取るだろう。趙国が破れれば、秦国はさらに強くなる、何の疲弊に乗じる余地があろうか!それに我が国軍はちょうど大敗したばかりで、王は座にも安んじられず、国内の兵力を全て将軍に委ねた。国家の安危は、この一挙にかかっている。今、彼が兵士を顧みず私欲に走るのは、国家の忠臣ではない!」

十一月、項羽は朝に上将軍宋義に会い、その陣営の中で宋義の首を斬った。出てきて軍中に命令した。「宋義は斉国と謀って楚国に反逆しようとし、楚王は密かに我が項羽に彼を誅殺するよう命じた!」当時、諸将は皆恐れ屈服し、異議を唱える者はいなかった。皆言った。「初めに楚王を擁立したのは、将軍の家です。今、将軍は叛乱者を誅殺したのです。」そこで共に項羽を代理上将軍に推戴した。人を遣わして宋義の子を追跡させ、斉国で追いつき、殺した。桓楚を派遣して懐王に報告した。懐王はそこで正式に項羽を上将軍に任命した。

十二月、沛公は兵を率いて栗県に至り、剛武侯に会い、その軍四千余人を奪い併合した。魏の将皇欣・武満の軍と共に秦軍を攻撃し、これを破った。

旧斉王田建の孫田安は済北を攻略し、項羽に従って趙国を救援した。

章邯は黄河に通じる甬道を築き、糧食を輸送して王離の軍に供給した。王離の軍は食料が十分にあり、巨鹿への攻撃を激化させた。巨鹿城中では食料が尽き、兵力も減少し、張耳は幾度も陳余に救援を求める使者を送った。陳余は自分の兵力が少なく、秦軍に敵わないと見積もり、進軍を躊躇した。数ヶ月が過ぎ、張耳は大いに怒り、陳余を恨み、張黡と陳澤を派遣して陳余を責めさせた。「かつて私はあなたと生死を共にする契りを結んだ。今や趙王と私は朝晩にも殺されようとしているのに、あなたは数万の兵を擁しながら救援に来ようとしない。これが生死を共する友情というものか!もしあなたが必ず信義を守るというなら、なぜ秦軍に向かって我々と共に戦死しないのか。そうすれば十分の一、二の望みで生き残れるかもしれない。」陳余は言った。「私が行ったところで結局趙を救えず、ただ無駄に全軍を失うだけだと見積もっている。それに私があなた方と共に死なないのは、趙王と張君のために復讐しようと思うからだ。今、無理に共に死のうとするのは、肉を飢えた虎に投げ与えるようなもので、何の益があろう!」張黡と陳澤は共に死ぬよう要求したため、陳余はやむを得ず張黡と陳澤に五千人の兵を率いさせ、まず秦軍を試させた。彼らが到着すると、全軍が壊滅した。当時、斉軍と燕軍も趙を救援に来ており、張敖も北方で代の兵力を集め、一万余人を得て到着したが、いずれも陳余のそばに陣営を構え、秦軍を攻撃しようとはしなかった。

項羽はすでに卿子冠軍を殺し、楚の国中にその威名が轟いていた。そこで当陽君と蒲将軍に二万人の兵を率いさせ、黄河を渡って巨鹿を救援させた。戦闘は小規模な勝利を得て、章邯の甬道を断ち切り、王離の軍は食料を欠くようになった。陳余は再び増援を要請した。項羽はそこで全軍を率いて黄河を渡り、すべての船を沈め、鍋や甑を打ち壊し、陣営を焼き払い、三日分の干し糧だけを携えさせ、兵士たちに必死の決意を示し、退却の考えを抱かせなかった。こうして到着するとすぐに王離を包囲し、秦軍と交戦し、九度にわたって戦い、大いに秦軍を破った。章邯は兵を率いて撤退した。諸侯の軍はようやく秦軍を攻撃する勇気を得て、蘇角を殺し、王離を捕らえた。渉間は降伏を拒み、自ら火を放って死んだ。当時、楚軍の勢いは諸侯の軍を圧倒した。巨鹿を救援に来た諸侯の軍は十数もの陣営があったが、いずれも敢えて出撃しなかった。楚軍が秦軍を攻撃するに及んで、諸侯の将領たちは皆、陣営の上から戦況を見守った。楚軍の兵士は一人で十人の敵に当たり、その鬨の声は天地を震わせ、諸侯の軍は皆、恐怖に陥った。こうして秦軍を破った後、項羽は諸侯の将領たちを召し出した。諸侯の将領たちは軍門に入ると、皆ひざまずいて膝で進み、顔を上げて見る者はいなかった。項羽はここから諸侯の上将軍となり、諸侯はすべて彼の統轄下に入った。

そこで趙王歇と張耳はようやく巨鹿城を出て、諸侯に感謝の意を表した。張耳は陳余と会い、陳余が趙軍を救援しようとしなかったことを責めた。さらに張黡と陳澤の行方を尋ね、陳余が彼らを殺したのではないかと疑い、幾度も陳余を問い詰めた。陳余は怒って言った。「あなたが私をこれほど深く恨むとは思いませんでした!まさか私が将軍の印を惜しむと思っているのですか?」そう言って印綬を解き、張耳に押し付けた。張耳も驚いて受け取ろうとしなかった。陳余は立ち上がって便所に行った。ある賓客が張耳に勧めて言った。「私は聞きました。『天が与えたものを受け取らなければ、かえって災いを招く』と。今、陳将軍が印をあなたに渡したのに、あなたが受け取らなければ、天意に背くことになり不吉です。早く受け取りなさい!」張耳はそこで印綬を身に着け、陳余の部下を編入した。陳余が戻って来て、張耳が譲らなかったことを恨み、急ぎ足で出て行き、自分の部下の中で親しい者数百人だけを連れて、黄河のほとりの沼沢地で漁や狩りをして暮らした。趙王歇は信都に帰った。

六年の春、二月、沛公は北に向かって昌邑を攻め、彭越に出会った。彭越はその部隊を率いて沛公に従った。彭越は昌邑の人で、常に巨野沢で漁をし、徒党を組んで盗賊となっていた。陳勝と項梁が兵を起こした時、沢中の若者たちが百余人集まり、彭越のもとに行って言った。「彭仲を首領にしてください。」彭越は辞退して「私は望まない」と言った。若者たちが強く請うため、彭越はようやく承諾し、翌日の日の出に集合するよう約束し、遅れた者は斬ると決めた。翌日の日の出の時、十数人が遅れ、最も遅れた者は正午になってから来た。そこで彭越は謝って言った。「私は年を取っているのに、あなた方が無理に首領にしようとした。今、約束の時間に多くの者が遅れた。皆を殺すわけにはいかないので、最も遅れて来た者だけを斬る。」そして校長に命じてその者を斬らせた。皆は笑って言った。「どうしてそこまでするのです!今後はしません。」そこで彭越はその者を引き出して斬り、祭壇を設け、部衆に命令を発した。部衆は皆、大いに驚き恐れ、彼の顔を上げて見ることができなかった。こうして彼らは土地を攻略し、諸侯の散兵を集めて一千余人を得、沛公を助けて昌邑を攻めた。

昌邑は攻め落とせず、沛公は兵を率いて西へ高陽を経由した。高陽の人郦食其は、家は貧しく落魄し、里の門番をしていた。沛公の麾下にある騎兵がたまたま郦食其の同郷であり、郦食其は彼に会って言った。「高陽を通り過ぎた諸侯の将領は数十人いる。私は調べたが、これらの将領は皆、器量が狭く、煩わしい礼節を好み、自らを正しいと思い込み、闊達で大らかな議論を受け入れない。私は沛公が人には傲慢で細かいことにこだわらず、雄才大略を持っていると聞いた。これこそが私が本当に従いたいと思う人だ。しかし私を紹介してくれる者がいない。あなたが沛公に会ったら、こう言ってくれ。『私の里に郦生という者がおり、六十余歳、身長八尺、人々は狂生と呼んでいます。郦生自身は「私は狂生ではない」と言っています。』」騎兵は言った。「沛公は儒者を好みません。客が儒冠をかぶって来ると、沛公はいつもその冠を奪い取り、中に小便をします。人と話す時も、しばしばののしり罵り、儒者の理屈で説得することはできません。」郦生は言った。「あなたはただそのように言いなさい。」騎兵はそこで落ち着いて郦生の言いつけ通りに話した。

沛公が高陽の伝舎に着くと、人をやって郦食其を召し出した。郦食其が来て、中に入って拝謁した。沛公はちょうど床に座って二人の女に足を洗わせており、そのままの姿で郦食其に会った。郦食其は中に入ると、ただ長揖(拱手して腰を深く曲げる礼)をするだけで跪拝せず、言った。「あなたは秦朝を助けて諸侯を攻めようとするのですか、それとも諸侯を率いて秦朝を打ち破ろうとするのですか?」沛公は罵って言った。「この無知な儒者め!天下の人々は長く秦朝の苦しみを受けてきた。だからこそ諸侯は相次いで兵を起こして秦朝を攻めているのだ。どうして秦朝を助けて諸侯を攻めるなどと言うのか!」郦食其は言った。「もし本当に徒衆を集め、義兵を合わせて無道な秦朝を誅滅しようとするなら、このように傲慢に年長者に接してはなりません!」そこで沛公は足を洗うのをやめ、立ち上がり、衣服を整え、郦食其を上座に招き、謝罪した。郦食其はそこで六国が合従連衡した昔話を語った。沛公は大いに喜び、郦食其に食物を与え、尋ねた。「計略はどのように出すのですか?」郦食其は言った。「あなたは烏合の衆の中から兵を起こし、散り散りになった兵を集めても、一万人に足りません。これでまっすぐ強力な秦朝に攻め入ろうとするのは、いわゆる虎の口を探るような行為です。陳留は天下の要衝であり、四方に通じる郊野であり、今や城中には多くの食料が蓄えられています。私は陳留の県令と仲が良いので、私が行って彼を説得し、あなたに帰順させましょう。もし彼が聞き入れなければ、あなたが兵を率いて攻め、私は城内で内応します。」そこで沛公は郦食其を出発させ、沛公は兵を率いてその後を追い、ついに陳留を攻め落とした。郦食其を広野君に封じた。郦食其はさらに弟の郦商を推薦した。当時、郦商は若者を集めて四千人を得ており、来て沛公に帰属した。沛公は彼を将軍に任命し、陳留の部隊を率いて自分に従わせ、郦食其は常に説客として諸侯の間を渡り歩いた。

三月、沛公は開封を攻めたが、攻め落とせなかった。西に向かい、秦の将軍楊熊と白馬で会戦し、さらに曲遇の東でも交戦し、大いに秦軍を破った。楊熊は滎陽に逃げ、秦の二世皇帝は使者を派遣して彼を斬り、首をさらした。

夏季、四月、沛公は南に向かって潁川を攻め、城を陥れて住民を虐殺した。張良の力を借りて、ついに韓の地を占領した。当時、趙の別将・司馬卬がまさに黄河を渡って函谷関に入ろうとしていた。沛公はそこで北に向かって平陰を攻め、黄河の渡し場の南岸を遮断し、洛陽の東で戦った。戦況は不利となり、南から轘轅関を通って撤退した。張良は兵を率いて沛公に従った。沛公は韓王・成に陽翟を守らせ、自ら張良と共に南下した。

六月、南陽郡守・呂齮と犨県の東で戦い、これを打ち破って南陽郡を占領した。南陽郡守は城中に逃げ帰って守りを固め、宛城に退いて守った。沛公は兵を率いて宛城を迂回し、西へ進発した。張良が諫めて言った。「沛公は急いで関中に入ろうとされていますが、秦の兵はまだ多く、険要の地を守っています。今、宛城を攻め落とさなければ、宛城が背後から攻撃し、強力な秦軍が前方にいることになり、これは危険な策です。」そこで沛公は夜のうちに軍を率いて別の道から引き返し、旗を伏せ太鼓を鳴らさず、夜明け近くに宛城を三重に包囲した。南陽郡守は自殺しようとしたが、その舎人・陳恢が言った。「死ぬのはまだ早い。」そこで城壁を越えて沛公の許に行き、言った。「私はあなたが約束をされたと聞いております。先に咸陽に入った者が王となる、と。今、あなたは宛城を攻めておられますが、宛城は大きな郡で、連なる県は数十もあります。その官吏や民衆は、降伏すれば必ず死ぬと思っており、皆、城に登って守りを固めています。今、あなたが一日中城を攻めれば、兵士の死傷は必ず多くなります。もし兵を率いて宛城を離れれば、宛城は必ずあなたの後を追って攻撃してくるでしょう。あなたが前進すれば咸陽の約束を果たせず、後退すれば強力な宛城の禍患を抱えることになります。あなたのために考えますに、降伏を約束して郡守に封じるのが良いでしょう。そして彼を残して城を守らせ、その甲兵を率いて西へ進むのです。まだ攻め落としていない城々は、この知らせを聞けば争って門を開いてあなたを待つでしょう。あなたは妨げられることなく進み、煩わされることはありません。」沛公は言った。「良い。」秋、七月、南陽郡守・呂齮は降伏し、殷侯に封じられ、陳恢には食邑千戸が与えられた。沛公は兵を率いて西へ進み、攻め落とせない所はなかった。丹水に至ると、高武侯・戚鰓と襄侯・王陵が降伏した。軍を返して胡陽を攻め、番君・呉芮の別将・梅鋗と出会い、彼と共に析県と郦県を攻め、いずれも降伏させた。沛公は軍が通る所で略奪をしてはならないと命じ、秦の地の人々は皆、喜んだ。

七年、王離の軍が壊滅した後、章邯の軍は棘原に駐屯し、項羽の軍は漳水の南岸に駐屯して、両軍は対峙して戦わなかった。秦軍はたびたび退却し、秦の二世皇帝は使者を送って章邯を責めた。章邯は恐れ、長史・司馬欣を咸陽に派遣して報告させた。司馬欣が咸陽に着くと、司馬門に三日間留め置かれ、趙高は彼に会おうとせず、信頼していない様子があった。長史・司馬欣は恐れ、自分の軍に逃げ帰り、来た道を通らなかった。趙高は確かに人を遣わして追わせたが、追いつけなかった。司馬欣が軍に帰り、報告して言った。「趙高が朝中で権力を一手に握っており、下の者には事を成し遂げられる者がいません。今、もし戦いに勝てば、趙高は必ず我々の功績を妬むでしょう。勝てなければ、免れずに処刑されるでしょう。将軍はどうかこのことをよくお考えください!」陳餘もまた章邯に手紙を送って言った。「白起は秦の将であり、南は鄢郢を征伐し、北は馬服君・趙括を坑殺し、城を攻め地を奪うこと、数えきれないほどでしたが、ついには賜死されました。蒙恬は秦の将であり、北は戎人を駆逐し、楡中の地数千里を開拓しましたが、ついに陽周で斬首されました。これはなぜでしょうか。功績が多すぎて、秦がすべてを封賞することができず、法律を借りて彼らを誅殺したのです。今、将軍が秦の将となって三年、失った兵力は十万を数え、諸侯は同時に起ち上がってますます増えています。あの趙高は以前から阿諛追従すること久しく、今や形勢は危急であり、秦の二世皇帝に殺されるのを恐れています。それゆえ、法律を借りて将軍を誅殺し責任を逃れようとし、人を遣わして将軍に代わらせ、自らの災いを免れようとしているのです。将軍は外に長くいるため、朝中には多くの怨みがあり、功があっても殺され、功がなくても殺されるでしょう。ましてや天が秦を滅ぼそうとしており、愚か者も賢者も皆知っています。今、将軍は内では直言して諫めることができず、外では亡国の将となり、孤立無援で長く存続しようとしても、なんと哀れではないでしょうか!将軍はどうして兵を退き、諸侯と合従し、共に秦を攻めてその地を分け合い、南面して王となられないのですか。これは身を斧鉞に伏し、妻子を殺されるより、どちらが良いでしょうか。」

章邯は決断できずにいたが、ひそかに候官・始成を項羽の許に使いに出し、和約を結ぼうとした。和約は成立せず、項羽は蒲將軍に兵を率いて昼夜兼行で三戸津を渡らせ、漳水の南岸に駐屯させ、秦軍と戦わせて再びこれを破った。項羽は全軍を率いて污水の上で秦軍を攻撃し、大いにこれを破った。章邯は人を遣わして項羽の許に行き、和約を結びたいと申し出た。項羽は軍吏を集めて相談し、「軍糧が少ないので、彼の和約を受け入れようと思う」と言った。軍吏たちは皆、「良いでしょう」と言った。項羽はそこで章邯と洹水の南岸、殷墟で会盟した。盟約の後、章邯は項羽に会って涙を流し、趙高のことについて語った。項羽はそこで章邯を雍王とし、楚軍の中に置き、長史・司馬欣を上将軍として、秦軍を率いさせ、先鋒とした。

瑕丘の人・申陽が河南を攻め落とし、兵を率いて項羽に従った。

八年、初め、中丞相・趙高は秦の大権を一手に掌握しようとし、群臣が従わないのを恐れ、まず試しを行った。一頭の鹿を引き連れて秦の二世皇帝に献上し、「これは馬です」と言った。秦の二世皇帝は笑って言った。「丞相は間違えたか、鹿を馬と言うとは!」左右の大臣に問うと、左右の者の中には黙る者もいれば、馬だと言って趙高に迎合する者もおり、鹿だと言う者もいた。趙高はそこでひそかに法律を借りて、鹿だと言った者たちを陥れた。その後、群臣は皆、趙高を恐れ、彼の過ちを言う者はいなかった。趙高は以前からたびたび「関東の盗賊は大事にはなりません」と言っていたが、項羽が王離らを捕らえ、章邯らの軍がたびたび敗北し、上書して増援を求めるに及んで、函谷関から東は、ほぼ全てが秦の官吏に背き、諸侯に応じ、諸侯は皆、部衆を率いて西へ進んだ。八月、沛公は数万人を率いて武関を攻め、城を陥れて住民を虐殺した。趙高は秦の二世皇帝が怒り、禍が自分に及ぶのを恐れ、病と称して朝廷に出なかった。

秦の二世皇帝は、白虎が自分の左の驂馬を噛み殺す夢を見て、ひどく不機嫌になり、怪しく思って、夢占いをする者に尋ねた。夢占いの者が卜占して言うには、「これは泾水の水神が怪しいことをしているのです。」そこで二世皇帝は望夷宮に行って斎戒し、泾水を祭祀しようとして、四頭の白馬を水中に沈めた。そして使者を遣わして、盗賊のことについて趙高を責めさせた。趙高はたいそう恐れ、ひそかに自分の娘婿である咸陽県令の閻楽と、弟の趙成と謀って言った。「皇帝は諫めを聞き入れられない。今や事態は緊迫しており、朕に災いを及ぼそうとされている。朕は皇帝を更迭し、子嬰を立てようと思う。子嬰は仁愛で節倹であり、百姓は皆、彼の言葉を信じている。」そこで郎中令に内応させ、大盗賊がいると偽って、閻楽に官吏を召集して兵を発して追捕するよう命じ、また閻楽の母を脅して人質とし、趙高の家に安置した。趙高は閻楽に官兵一千余人を率いさせて望夷宮の門前に至らせ、衛令僕射を縛って言った。「盗賊がこの中に入ったのに、なぜ防がなかったのか。」衛令が言う。「宮殿の周囲には衛士が非常に厳重に配置されており、どうして盗賊が敢えて宮中に入ることがありましょうか。」閻楽はそこで衛令を斬り、まっすぐに官兵を率いて宮中に入り、進みながら郎官や宦官を射殺した。郎官や宦官は大いに驚き色を失い、ある者は逃げ、ある者は抵抗した。抵抗した者は即座に殺され、死んだ者は数十人にのぼった。郎中令と閻楽は共に宮中に入り、二世皇帝の宝座の上の帷帳に向かって矢を射かけた。二世皇帝は大いに怒り、左右の侍従を呼び寄せたが、左右の侍従は皆、驚き慌れて動こうとしなかった。傍らに一人の宦官が侍っており、離れようとしなかった。二世皇帝は内室に入り、彼に言った。「なぜ早く私に告げなかったのか。ついにこのような事態になってしまった。」宦官が言う。「私は言うことを恐れて、それでようやく命を全うできたのです。もし私が早く言っていたなら、とっくに殺されていたでしょう。どうして今日まで生き延びられましょうか。」閻楽が近づいて二世皇帝に迫り、彼の罪を数え上げて言った。「あなたは驕り高ぶり放縦で、無道に殺戮を重ね、天下の人々は皆あなたに背きました。あなたは自ら処置をなさい。」二世皇帝が言う。「丞相に会うことはできるか。」閻楽が言う。「できませぬ。」二世皇帝が言う。「私は一つの郡を得て王になりたい。」閻楽は許さなかった。二世皇帝がまた言う。「どうか万戸侯になりたい。」やはり許さなかった。二世皇帝がまた言う。「妻子と共に普通の百姓となり、かの公子たちのようになりたい。」閻楽が言う。「私は丞相の命令を受け、天下人のためにあなたを誅殺するのです。あなたがどれだけ言おうとも、私は敢えて報告しませぬ。」そこで彼の兵士たちに進み出るよう指揮した。二世皇帝は自殺した。閻楽は帰って趙高に報告した。趙高はそこで全ての大臣と公子を集め、二世皇帝を誅殺したことを彼らに告げて言った。「秦は元々王国であった。始皇が天下に君臨したので、帝と称したのである。今や六国はまたそれぞれ独立し、秦の土地はますます狭まり、空名で皇帝と号するのはよろしくない。昔のように王と称するのが、これにふさわしい。」そこで子嬰を秦王として立てた。平民の礼をもって二世皇帝を杜南の宜春苑に葬った。

九月、趙高は子嬰に斎戒させ、宗廟に参拝して玉璽を受け取るべきこととした。五日間斎戒した。子嬰は自分の二人の息子と謀って言った。「丞相趙高は望夷宮で二世皇帝を殺した。群臣が自分を殺すことを恐れ、偽って道義の名義を用いて私を王に立てたのである。私は趙高が既に楚軍と約束し、秦の宗室を滅ぼした後、関中地方を分割してそれぞれ王となろうとしていると聞いている。今、私に斎戒させ、宗廟に行かせようとするのは、宗廟の中で私を殺そうとしているのだ。私は病気と偽って行かず、丞相が必ず自ら来るだろう。来たら殺すのだ。」趙高は何度も人を遣わして子嬰を招いたが、子嬰は行かなかった。趙高は果たして自ら来て言った。「宗廟の祭祀は大事であります。大王はなぜ行かれないのですか。」子嬰はそこで斎宮の中で趙高を刺し殺し、趙高の家の三族を誅滅して見せしめにした。

子嬰は将軍を遣わして兵を率い峣関を守らせた。沛公は攻めようとした。張良が言う。「秦軍はなお強く、軽んじてはなりませぬ。まず人を遣わして山上に多くの旗を掲げて疑兵とし、さらに郦食其と陸賈を遣わして秦軍の将を説得し、利をもって誘うのがよろしいでしょう。」秦軍の将は果たして講和しようとし、沛公は許そうとした。張良が言う。「これはただその将が背こうとしているだけで、恐らくその兵卒たちは従わないでしょう。彼らが油断しているところを攻撃するのがよろしい。」沛公は軍を率いて峣関を迂回し、蒉山を越え、秦軍を攻撃し、藍田の南で秦軍を大いに破った。そこで藍田に至り、さらに藍田の北で戦い、秦軍は大敗した。