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晉紀

晋紀五

第 5 篇

【晋紀五】 起屠維協洽,盡目章涿灘,凡二年。

春、正月、孟観、中亭に於いて氐の部隊を大破し、斉万年を獲る。

太子洗馬陳留の江統、戎・狄の華夏を乱すを以て、早く其の根源を絶つべきなりと為し、乃ち《徙戎論》を著して朝廷に諫めて曰く、「夷・蛮・戎・狄の諸民族は、地は辺遠の荒服に在り。大禹が九州を平定せる時、西戎既に帰順せり。其の性、貪婪にして凶悍、仁ならず。四夷の中に於いて、戎・狄最も為すこと甚だしく、弱小時は畏れ順い、強大なれば侵し叛く。其の強盛なる時、漢高祖は白登に囲まれ、漢文帝は霸上に軍を駐めたり。其の衰弱に及びては、漢元・成の微弱を以てすと雖も、匈奴の単于来朝す。是れ已に過ぎたる事實なり。故に有道の君の夷・狄を治むるは、唯だ之に備え有り、之を御するに常を有し、彼の叩頭進献すと雖も、邊城の堅き守りを緩めず、暴寇の來るも、軍を以て遠く征せず、境内の安きを得せしめ、疆場の侵さるる無きを期するのみ。

「周室の統を失い、諸侯各々擅に征伐し、疆界固ならず、利害異心有り、戎・狄乘じて以て中原に入るを得、或いは誘引・慰撫されて諸侯の用と為り、此れより四夷交々侵し、華夏と雑居す。秦の始皇の天下を統一するに及び、兵威遠く達し、胡を逐い、越を走らす。其の時に當りて、中原に復た四夷無し。

「後漢の建武中、馬援、隴西太守と為り、叛羌を征討し、其の餘衆を關中に徙し、馮翊・河東の空地に置く。數年を過ぎて、其の部族蕃息し、既に其の富強に依り、又漢人の侵擾に苦しむ。永初元年、諸羌叛し、將守を陷殺し、城邑を屠破し、鄧騭敗走し、侵擾河内に至る。十年の中、夷・華共に疲敝し、任尚・馬賢僅かに平定す。此の後、餘燼滅せず、稍々機に遇えば、復た侵叛す。中葉以來の禍患、唯だ此れ最大なり。魏の興り初め、蜀漢と分隔し、邊疆の戎人、一時に此に歸し、一時に彼に屬す。武帝、武都の氐人を秦州に徙すは、以て寇を弱くし國を強くし、蜀虜を禦がんと欲するのみ。是れ權宜の計にして、萬世の長利に非ず。今此に當りて、已に其の禍害を受けたり。

「關中の地は、沃野豊饒、帝王の居る所、戎・狄の此の地に住むべきを聞かず。我が族に非ざれば、其の心必ず異なり。其の衰敗に乘じ、之を畿甸に遷す。士民翫忽し、其の輕弱を侮り、怨毒の氣、骨髓に入る。其の繁殖して強盛に及び、自ら異心を生ず。貪悍の性を以て、憤怒の情を懷き、隙を伺い便を利し、動けば輒ち橫行亂す。而も其の疆域内に居り、障礙無く、不備を襲い、田野の積を斂め得れば、故に禍患蔓延し、暴虐測る可からざるを致す。是れ必然の勢、已に驗されたる事實なり。當今宜しく為すべきは、兵威の盛んなるに乘じ、諸事未だ畢はざるを以て、馮翊・北地・新平・安定の界内の諸羌を徙し、先零・罕幵・析支の地に置き、扶風・始平・京兆の氐人を徙し、出でて隴右に歸らしめ、陰平・武都の界に置き、其の道の糧を供給し、以て自ら至るに足らしめ、各々其の族に附き、其の舊土に返り、屬國・撫夷都尉を以て安集せしむ。戎・晉雑居せず、各々其の所を得、縱ひ華夏を侵す心、邊境の警報有りと雖も、亦中原に遠く、山河阻隔し、寇暴を為すと雖も、害の廣からざるなり。

「反駁する者曰く、氐寇方に平定せられ、關中飢疫し、百姓皆痛苦し、安息を望む。然るに疲悴の民を以て、猜疑の寇を遷さんと欲す。恐らくは力竭き勢窮まり、事業成らず、前の害未だ除かれず、後の變又生ぜん。答えて曰く、汝の謂う諸氐は、尚お餘有の資を挟み、罪を悔い善に歸し、我が恩德を懷き來り附くか、將た其の勢窘迫し、智勇共に困しみ、我が軍の誅を畏れて此に至るか。曰く、餘力無く、勢窮まり路盡きたるが故なり。然らば則ち我其の死生を制し、其の進退を我に由らしむ。業を樂しむ者は事を易えず、居に安んずる者は徙るの意無し。方に其の自ら疑懼し、恐れ急迫するに當り、故に兵威を以て之を制し、左右して敢えて違わず。其の死亡流散し、離散して未だ聚まらず、關中の人と、家々仇敵と為るに及び、故に遠く遠きに徙し、其の心故土を懷かざらしむ可し。聖賢の事を謀るは、未だ發せざるに處し、未だ亂れざるに治め、大道顯れずして平らぎ、德行彰われずして功成る。其の次は禍を轉じて福と為し、敗に因りて功に為し、困に遭いて必ず濟り、逆に逢いて通ずるを得。今汝は弊政の結末に遭い、而も改制の始めを圖らず、改轍の勞を惜しみ、覆軌の跡を循る。何ぞや!且つ關中の人口、一百餘萬、大略を計るに、戎・狄其の半ばを占む。留まるも徙るも、皆な養うに糧を須つ。若し窮乏して、碎米も接續せざる者有らば、則ち關中の全穀を出だし、以て其の生計を全うするを保全し、必ず之を溝壑に棄てて侵掠の害を致さざるなり。今之を徙すは、途に糧を受けて至り、其の族類に附き、自ら相い養うを得、秦地の人、其の半穀を獲、是れ行者に糧を濟し、居者に積を留め、關中の困迫を寬め、盜賊の根を除き、暫くの損を捨て、永年の利を建つ。若し暫くの小勞を畏れて久安の宏策を忘れ、日月の煩勞を惜しみて累世の寇を遺すは、所謂業を創め統を傳え、子孫の為に謀る所に非ず。

「并州の胡は、本と匈奴中の兇惡の寇、建安中、右賢王去卑を遣わし呼廚泉を誘質し、其の部落を聽して六郡に散居せしむ。咸熙中、一部落の大に過ぐるを以て、三帥に分け、泰始初、又四帥と為す。乃ち劉猛内に叛き、外虜と結び、近くは郝散の變、谷遠に起こる。今五部の衆、戸數數萬、人口の多き、西戎に過ぐ。其の天性驍勇、弓馬に長じ、氐・羌に倍す。若し不慮の憂有らば、則ち并州の地、寒心す可し。

正始年間、毌丘倹が句驪を征討し、その残余の部族を滎陽に移住させた。当初移住させた時は、戸数はわずかに百余りであった。子孫が繁殖し、今では千を数えるまでになった。数代を経れば、必ずや盛んに多くに至るであろう。今、民が常業を失い、なお逃亡・叛乱を起こす者がある。犬馬が肥えれば人を噛む。まして夷・狄においては、変乱を起こさないことがあろうか。ただその勢力が微弱で、力が及ばないだけなのだ。

「国を治める者は、民の少なさを憂えるのではなく、安定しないことを憂えるのである。四海の広大さ、士民百姓の富足を恃みとし、どこに夷虜が境内にあって初めて足りるということがあろうか。これらの者どもは、皆、明らかに諭令して、遣送し発還し、彼らをしてその本土に帰らせるべきである。彼らの客居し故郷を懐かしむ心を慰め、我が華夏の微細な憂いを除き、中原に恩恵を施し、もって四方を安撫し、恩徳を永世に行えば、策としては長遠である。」朝廷は採用しなかった。

散騎常侍の賈謐、東宮にて太子に侍して講学し、太子に対して傲慢無礼であった。成都王司馬穎、これを見て大声にこれを叱責す。賈謐怒り、賈后に言上し、司馬穎を外に平北将軍と為し、鄴城を鎮守せしむ。梁王司馬肜を召して大将軍・録尚書事と為す。河間王司馬顒を鎮西将軍と為し、関中を鎮守せしむ。そもそも武帝の時、石函の規定を設け、至親に非ざれば関中を鎮守すること能わずとす。司馬顒は財を軽んじ士を愛し、朝廷はその賢を以てし、故にこれを任用す。

夏六月戊戌、高密文献王司馬泰薨ず。

賈后淫乱暴虐日に益す。太医令程据らと私通す。又竹箱を以て道路上の年少の男子を載せて宮中に入れ、又その秘密を漏らすことを恐れ、常にこれを殺す。賈模、禍の己に連なるを恐れ、甚だ憂う。裴頠、賈模及び張華と議して后を廃し、改めて謝淑妃を立てんとす。賈模・張華、皆曰く「主上自ら廃黜の意無くして、而るに我ら擅に之を行わば、主上心に然りとせざることを仮らば、将に奈何せん。且つ諸王方に強盛にして、朋党各々同じからず。恐らくは一旦禍起これば、身死し国危うくして、国家に益無からん。」裴頠曰く「誠に如かん。然れども后、其の昏庸暴虐を放縦し、禍乱は直ちに待つ可し。」張華曰く「卿等二人、后と皆親戚なり。言う所の或いは信ぜらる可し。当に数々禍福の戒めを陳じ、大悖有る無きを冀うべし。然らば則ち天下未だ動乱せず、我ら安閑に歳月を度るを得ん。」裴頠朝夕其の姨母の広城君を説き、以て賈后に告諭し、太子を親厚せしむ。賈模も亦数々賈后に禍福を陳ず。賈后採用せず、反って賈模の己を誹謗するを以てして之を疎んず。賈模志を得ず、憂憤して死す。

秋八月、裴頠を尚書僕射と為す。裴頠は賈后の親属と雖も、然れども素より声望高く、天下唯だ其の権力の位に在らざるを恐る。間も無く詔して裴頠をして専ら門下省の事務を任ぜしむ。裴頠表を上りて堅く辞し、以て「賈模新たに死し、又我を以て之に代う。外戚の声望を高め、偏私の挙動を彰らかにし、聖朝に累を為す」と為す。帝聴かず。或る人裴頠に謂いて曰く「君、若し言を進む可くんば、当に后に尽言すべし。言いて聴かれずんば、当に遠く去るべし。此の二者を為すこと能わずんば、十回の表有りと雖も、禍を免るること難し。」裴頠感慨すること久しきも、竟に聴くを得ず。

晋の恵帝、人となり愚鈍痴呆なり。嘗て華林園に在りて蛤蟆の声を聞き、左右の従者に問いて曰く「此れ叫ぶ所の者、公の為に叫ぶか、私の為に叫ぶか。」時に天下飢荒し、百姓餓死す。恵帝聞きて曰く「何ぞ肉粥を食わざる。」此に由り大権臣下に在り、政令諸門より出ず。権勢の家、相い推薦し託付すること、市の如し。賈謐・郭彰、恣に横行し、賄賂公然と行わる。南陽の人魯褒、『銭神論』を作りて諷す。曰く「銭の形体、天地の象有り。之に親しむこと兄の如く、字を孔方と曰う。徳無くして尊く、勢無くして熱し。金門を推し開き、紫闥に入る。危きをして平らかならしめ、死をして生きしめ、尊きをして賤しからしめ、生きて之を殺さしむ。故に争弁は銭に非ざれば勝つを得ず。滞碍は銭に非ざれば通ずるを得ず。怨讐は銭に非ざれば解くを得ず。美名は銭に非ざれば聞こゆるを得ず。洛中の朱衣の貴人、当権の人士、我が家兄を愛すること、限り無く、我が手を握り、始終我を抱く。当今の人、唯銭のみ。」と。又朝臣、競って苛刻細察を以て能と為す。疑議有る毎に、群臣各々私見を堅持し、刑法一ならず、訴訟繁多なり。裴頠表して曰く「先王、刑賞相い称い、軽重二無く、故に臣下常法に聴き、吏安んじて職に任ず。元康四年、大風有り、宗廟宮闕の屋瓦、数枚落つるを以て、太常荀寓の官を免ず。事軽くして罰重く、常法に違う。五年二月又大風有り。蘭台主事の官、前事を畏れ、屋椽の間に捜し求め、瓦の少し斜めなる所十五処を得て、因りて太常を禁止し、又刑獄を興す。今年八月、陵園の上に、一枝囲七寸二分の荊棘を斫り、司徒・太常道路に奔走す。事の小なるを知りと雖も、弾劾審査の予測し難きを以て、騒擾駆馳し、各々過ちを免るるを争う。今に至るまで太常禁閉未だ解けず。刑律の文は限り有りて、違錯の由は窮り無し。故に臨時の議処の制有り、誠に悉く常規に循う可からず。此の類の事に至りては、皆過分に属す。恐らくは奸吏、此の機会に因り、随意に軽重を為す可からん。」間も無くして枉法の議未だ止まず。三公尚書劉頌又疏を上りて曰く「近世以来、法律漸く多門より出で、命令甚だ一ならず。吏何を守るべきかを知らず、民何を避くべきかを知らず。奸詐の人、此に因りて其の心計を逞しくし、上位の人、其の部下を察するに難し。事同じくして議異なり、獄不平ならず。君臣の職分、各々管轄有り。法律は必ず守らるるを欲す。故に主者をして条文を守らしむ。道理は通ぜざる所有り。故に大臣をして滞碍を解かしむ。事は時に宜しき有り。故に君をして権衡決断せしむ。主者の条文を守るは、張釈之の犯跸を処理するの公正を守るが如し。大臣の滞碍を解くは、公孫弘の郭解の獄を決するが如し。君の権衡決断は、漢高祖の丁公を誅するの事の如し。天下万の事、此の類に非ざる者は、妄りに議論を加う可からず。皆律令に依りて辦理すべし。然る後に法律臣民に信有り。百姓聞きて惑わず。吏奸邪を容れず。始めて政事を談ずる可し。」於是詔して曰く「郎・令史、再び法律を越えて案件を駁議する者有らば、事に随いて上報せよ。」然れども此の風気を変ずる能わず。

劉頌吏部尚書に遷り、九班の制を建て、百官の官に居り職に任じて昇進の遅きを望み、其の能力を考査し、賞罰を明らかにせんと欲す。賈謐・郭彰当権し、官に在る者速やかに昇進せんと欲し、事竟に行われず。

裴頠、張華に平陽の人韋忠を推薦す。張華、韋忠を徴す。韋忠、疾を以て辞して赴かず。人其の故を問う。韋忠曰く「張茂先は華にして実無し。裴逸民は貪にして厭くこと無し。礼法を棄てて賊后に附く。此れ豈に大丈夫の為す所ならんや。逸民、毎に心を以て我に託す。我常に其の淵に沈みて余波我に及ぶを恐る。況んや裳を引いて之に近づくをや。」と。

関内侯敦煌の人索靖、天下の将に大乱せんとするを知り、洛陽宮門の銅駝を指して嘆息して曰く「将に見る、汝の荊棘の中に臥すを。」と。

冬十一月甲子朔、日食有り。

当初、広城君郭槐は、賈后に子がなかったため、しばしば賈后に太子を慈しむよう勧めた。賈谧は驕り高ぶり、たびたび太子に無礼を働いたので、広城君は常に厳しく彼を叱責した。広城君は韓寿の娘を太子妃にしようと考え、太子も韓氏と姻戚関係を結んで自らを固めようとしたが、韓寿の妻である賈午と賈后はともに承諾せず、かえって太子のために王衍の末の娘を娶せた。太子は王衍の長女が美しいと聞き、賈后が賈谧のためにその長女を娶せたことを聞いて、心中不平を抱き、多くの怨み言を述べた。広城君が病重く、臨終の際、賈后の手を取って、心を尽くして太子に当たるよう命じ、その言葉は非常に懇切であった。また言った。「趙粲と賈午は、必ずや汝の家の事を乱すであろう。我が死後、再び彼女らを宮中に入れてはならぬ。我が言葉をしっかりと心に留めよ。」賈后は従わず、かえって趙粲、賈午と謀って太子を陥れようとした。

太子は幼少の頃に美名があったが、成長するにつれて学問を好まず、ただ側近の者たちと戯れ遊ぶのみであった。賈后はまた宦官たちを遣わして、彼に贅沢や浪費、威張り散らすことを誘惑させたため、次第に名声は落ち、驕り傲慢はますます顕著になった。ある時は朝見や供奉を放棄して遊興にふけり、宮中に市場を設け、人に屠殺や酒売りをさせ、自ら斤量を量り、その軽重は誤りがなかった。彼の母はもともと屠戸の娘であったので、太子はこれらを好んだ。東宮の月々の俸銭は五十万であったが、太子はしばしば二か月分を前借りしても、なお足りなかった。また西園に葵菜、藍子、鶏、麵粉などを売らせて利益を得ていた。また陰陽小術を好み、多くの禁忌を設けた。洗馬の江統が上書して五つの事を述べた。「第一に、たとえ軽い病痛があっても、無理をしてでも朝見供奉に努めるべきこと。第二に、太保太傅と会見し、善道を諮問することに勤めるべきこと。第三に、画室の仕事は暫く省き、後園の彫刻などの雑作は全て中止し解散させるべきこと。第四に、西園で葵菜、藍子などを売ることは、国家の体面を損ない、美名を下げること。第五に、壁を修繕し、屋根瓦を整えるのに、小さな禁忌に拘るべきではないこと。」太子は全て従わなかった。中舎人の杜錫は、太子がその地位を安んじられないことを憂い、常に忠誠を尽くして諫め、太子に徳行学問を修め、美名を全うするよう勧め、その言葉は懇切であった。太子は彼を嫌い、針を杜錫が常に座る氈の中に置き、彼を刺して血を流させた。杜錫は杜預の子である。

太子の性情は剛烈で、賈谧が皇后を恃んで驕り高ぶっているのを知り、彼を寛容にすることができなかった。賈谧は当時侍中であり、東宮に来ることがあったが、ある時太子は彼を避けて後庭で遊戯した。詹事の裴権が諫めて言った。「賈谧は皇后の親しく寵愛する者です。ひとたび互いに讒言し合えば、事は危うくなります。」太子は従わなかった。賈谧は賈后に讒言して言った。「太子は多くの私財を蓄えて小人と交わっています。これは賈氏のためなのです。もし皇上が崩御され、彼が大位に登れば、楊氏の先例に従って、我等を誅殺し、皇后を金墉城に廃することは、掌を返すように容易いことです。早く彼を図り、別に仁慈恭順な者を立てれば、自らを保全することができます。」賈后はその言葉を採用し、そこで太子の短所を宣伝し、遠近に流布させた。また妊娠したと偽り、内に草物や産具を置き、妹夫の韓寿の子である韓慰祖を取って養い、もって太子に代えようとした。

この時、朝野は皆、賈后が太子を害そうとしていることを知っていた。中護軍の趙俊は太子に皇后を廃するよう請うたが、太子は従わなかった。左衛率の東平人劉卞は、賈后の陰謀を張華に問い、張華は言った。「聞いていない。」劉卞は言った。「私はもともと須昌の小吏でしたが、あなたの抜擢によって今日の地位を得ました。士は知己に感謝するので、全てを申し上げたのに、あなたは私を疑われるのですか!」張華は言った。「もしそのようなことがあるなら、あなたはどうしようと思うのか。」劉卞は言った。「東宮には俊傑が林のように多く、四率の精兵は一万人います。あなたは阿衡の重職に就いておられます。もしあなたの命令を得れば、皇太子が入朝して尚書事を録し、賈后を金墉城に廃することは、二人の黄門の力で十分です。」張華は言った。「今、天子が政を執り、太子は子である。私はまた阿衡の命を受けていない。突然共にこの事を行うのは、これは君なく父なくして天下に不孝を示すものである。たとえ成功できても、なお罪を免れないであろう。況や権貴の親戚が朝廷に満ち、威権は一つではない。必ず成功すると言えるか。」賈后は常に親党を微服で外に探らせており、劉卞の言をかすかに聞き、そこで劉卞を雍州刺史に遷した。劉卞は話が漏れたことを知り、毒薬を服して死んだ。

十二月、太子の長子である司馬虨が病気になり、太子は司馬虨のために王爵を求めたが、許されなかった。司馬虨の病が重くなり、太子は彼のために祈祷して福を求めた。賈后はこれを聞き、そこで皇帝の体調が優れないと偽り、太子を召して入朝させた。到着した後、賈后は彼に会わず、別室に安置し、婢女の陳舞を遣わして、皇帝の命と称して太子に三升の酒を賜り、全て飲ませようとした。太子は三升の酒は飲めないと辞退したが、陳舞は迫って言った。「不孝者め!天がお前に酒を賜ったのに飲まないとは、酒の中に毒があるのか!」太子はやむを得ず、無理に飲み干し、ついに大いに酔った。賈后は黄門侍郎の潘岳に草稿を書かせ、小婢女の承福に、紙筆と草稿を持たせ、太子の酔いに乗じて、詔令と偽って写させた。文にはこう書かれていた。「陛下は自ら決断すべきである。決断しなければ、我は入宮して決断する。皇后もまた速やかに自ら決断すべきである。決断しなければ、我は自ら手を下して決断する。謝妃と共に約束し、期日を定めて両端から発動する。躊躇して後患を残すな。日月星辰の下で血を飲んで盟誓し、皇天は禍害を掃除することを許す。道文を王と立て、蔣氏を内主とする。願いが成就すれば、三牲をもって北君を祭祀する。」太子は酔って昏睡し何も知らず、そこで見本の通りに書き写した。字の半分は形を成さず、賈后が補い、恵帝に差し出した。

壬戌の日、恵帝は式干殿に臨み、公卿を召し入れて、黄門令の董猛に太子の書いた手紙と青紙の詔書を見せて言った。「司馬遹の書いた手紙がこのようである。今、死を賜う。」諸公王に全て見せたが、敢えて言う者はいなかった。張華が言った。「これは国家の大禍です。古より、嫡子を廃することで喪乱を招いたことがしばしばあります。況や国家が天下を有してから日が浅い今、陛下には詳細にご考慮いただきたい!」裴𬱟はまず手紙を伝えた者を検証すべきだと考え、また太子の手書きと比較するよう請い、そうでなければ恐らく詐欺があるだろうと言った。賈后はそこで太子の啓事の紙十数枚を出し、衆人は対比して見たが、敢えて違うと言う者もいなかった。

賈后は董猛を遣わし、長広公主の名を借りて恵帝に言わせた。「この事は速やかに決断すべきですが、群臣の意見はそれぞれ異なり、詔命に従わない者があれば、軍法をもって処断すべきです。」議論は日が西に傾くまで及んだが、決断は下らなかった。賈后は張華らが意志を固くしているのを見て、事態が変わることを恐れ、そこで上表して太子を庶人に廃することを請い、恵帝は詔を下してこれを許した。そこで尚書の和郁らを遣わし、符節を持たせて東宮に行かせ、太子を庶人に廃した。太子は平民の服装に着替えて出てきて、二度跪拝して詔書を受け、歩いて承華門を出て、粗末な牛車に乗った。東武公司馬澹が兵仗を率いて太子と妃の王氏、三子の司馬虨、司馬臧、司馬尚を護送し、共に金墉城に幽閉した。王衍は自ら上表して離婚を請い、許され、妃は涙を流して実家に帰った。太子の母である謝淑媛と司馬虨の母である保林の蔣俊を殺した。

春正月、癸亥朔(初一日)、天下に大赦し、年号を改めた。

西戎校尉司馬の閻纘は、車に棺を載せて宮門に至り上書した。その中で述べた。「漢の戾太子劉拠は兵を起こして命令に逆らいましたが、議論する者はなお彼の罪は笞刑に当たる程度のものだと言いました。今、司馬遹が罪を得た時は、子としての道に背くことはなく、罪は戾太子よりも軽いものです。改めて師傅を選び、まず厳しい教えを加え、もし彼が悔い改めなければ、その後に彼を棄てても遅くはありません。」奏章は差し出されたが、顧みられることはなかった。閻纘は閻圃の孫である。

賈后は宦官を派遣して自首させ、太子と共に謀反を企てたと主張させた。恵帝は詔勅を下して宦官の供述を公卿に公布し、東武公司馬澹に一千の兵士を率いて太子を護衛させ、許昌宮に監禁した。持書御史劉振に符節を持たせて看守させ、太子の属官には別れの見送りを禁じる詔勅を下した。洗馬の江統、潘滔、舎人の王敦、杜蕤、魯瑶らは禁令に背いて伊水の畔に至り、跪拝して別れを告げ、涙を流して泣いた。司隷校尉の満奮は江統らを逮捕して獄に送った。河南の獄に拘束されていた者については、楽広が全て釈放した。洛陽県の獄に拘束されていた者は、まだ釈放されていなかった。都官従事の孫琰は賈謐に勧めて言った。「太子を廃して流罪としたのは、彼が悪事を働いたからです。今、太子の属官が罪を冒して拝別したからといって、重刑に処すれば、かえって太子の徳を世に顕彰することになります。彼らを赦すのが賢明でしょう。」賈謐はそこで洛陽令の曹摅に命じて彼らを釈放させた。楽広も罪に問われることはなかった。王敦は王覧の孫であり、曹摅は曹肇の孫である。太子は許昌に到着し、妃の王氏に手紙を書き、自らの冤罪を訴えたが、妃の父である王衍はその手紙を上奏する勇気がなかった。

丙子(十四日)、皇孫の司馬虨が薨去した。

三月、尉氏県に血の雨が降り、妖星が南方に現れ、金星が昼間に出現し、中台星が分裂した。張華の末子である張韙は張華に辞職を勧めたが、張華は従わず、「天道は幽遠であり、静かに待つに如かず」と言った。

太子が廃されて後、人々の感情は憤激した。衛督の司馬雅、常従督の許超はいずれもかつて東宮に仕えており、殿中郎の士猗らと共に賈后を廃し、太子の地位を回復することを謀った。張華と裴頠が現状に安んじて禄位を守り、権変を共に行うことが難しいと考え、右軍将軍の趙王司馬倫が兵権を握り、性格が貪欲で進取に富むことから、彼を利用して事を成し遂げられると思った。そこで孫秀に説いて言った。「皇后は凶狠で妬み深く道に悖り、賈謐らと共に太子を誣告して廃しました。今、国家には嫡子たる後継者がおらず、社稷は危うくなっています。大臣たちは大事を起こそうとしていますが、あなたは名目上皇后に仕え、賈謐や郭彰と親しくしています。太子の廃位にあたっては、あなたが事前に知っていたと言われています。一旦事が起これば、災禍は必ずあなたに及ぶでしょう。どうして先に図らなければならないのですか!」孫秀は承諾し、司馬倫に告げると、司馬倫はこれを受け入れ、通事令史の張林や省事の張衡らに告げて内応させた。

事が起こりかけようとした時、孫秀は司馬倫に言った。「太子は聡明で剛毅勇猛です。もし東宮に戻れば、必ずや人の意のままにはならないでしょう。あなたは元来賈后と結託しており、路上の人々も皆知っています。今、太子に大功を立てたとしても、太子はあなたがただ民の期待に迫られ、節操を変えて罪を免れようとしているだけだと思うでしょう。たとえ旧怨を無理に忍んだとしても、必ずしもあなたに深く感謝するとは限らず、もし過ちがあれば、やはり誅殺を免れません。むしろ時を引き延ばし、賈后が必ず太子を殺すでしょう。その後、賈后を廃して太子の仇を討てば、災いを免れるだけでなく、志を遂げることすらできるでしょう!」司馬倫はその言を正しいと思った。

孫秀はそこで人を遣わして反間計を施し、「殿中に皇后を廃して太子を迎えようとする者がいる」と言い触らした。賈后はたびたび宮女を私服で民間に派遣して偵察させており、これを聞いて非常に恐れた。司馬倫と孫秀はそこで賈謐らに、早く太子を除いて人々の期待を断つよう勧めた。癸未(二十二日)、賈后は太医令の程据に命じて毒薬を調合させた。詔勅を偽って宦官の孫慮を許昌に派遣し、太子を毒殺しようとした。太子は廃されて以来、毒殺されることを恐れ、常に自らの前で食物を煮て食べていた。孫慮は事情を劉振に告げると、劉振は太子を小部屋に移し、食物を断った。宮人はなおも壁越しに食物を渡していた。孫慮は太子に毒薬の服用を強要したが、太子は従わず、孫慮は薬杵で太子を打ち殺した。関係省庁は庶人の礼で葬るよう上奏したが、賈后は上表して広陵王の礼で葬るよう求めた。

夏、四月、辛卯朔(朔日)、日食があった。

趙王司馬倫と孫秀は賈后を討伐しようとし、右衛佽飛督の閭和に告げると、閭和は従い、癸巳(初三)の三更時に鼓を合図とすることを約束した。癸巳、孫秀は司馬雅を張華のもとに派遣して言った。「趙王はあなたと共に社稷を匡正し、天下のために害を除きたいと望んでいます。私を遣わしてあなたに告げさせたのです。」張華は断った。司馬雅は怒って言った。「刃が首に掛かろうとしているのに、そんなことを言うのか!」振り返らずに出て行った。約束の時刻になると、司馬倫は詔勅を偽って三部司馬に命令した。「皇后と賈謐らが我が太子を殺した。今、車騎将軍を派遣して宮中に入り皇后を廃する。お前たちは皆、命令に従うべきである。事が成った後は、関内侯の爵位を賜い、従わない者は三族を誅滅する。」皆が従った。さらに詔勅を偽って宮門を開けさせ、夜中に入り、道南に軍を陳列し、翊军校尉の斉王司馬冏に一百人の兵を率いて門を押し開けて入らせ、華林令の駱休を内応とし、恵帝を東堂に迎え、詔勅を用いて賈謐を殿前に召し出し、殺そうとした。賈謐は西鐘の下に逃げ、大声で叫んだ。「皇后、私を救え!」その場で斬られた。賈后は斉王司馬冏を見て、驚いて言った。「あなたはなぜ来たのか?」司馬冏は言った。「詔勅があり、皇后を逮捕するのです。」賈后は言った。「詔勅は我から出すべきものだ。どこから詔勅が出たのか!」賈后は上閣に至り、遠くから恵帝に向かって叫んだ。「陛下には妻がおります。それを人に廃させれば、自らを廃することにもなりましょう。」この時、梁王司馬肜も謀議に参与していた。賈后は司馬冏に問うた。「事を起こしたのは誰か?」司馬冏は言った。「梁王と趙王です。」賈后は言った。「犬を繋ぐなら首を繋ぐべきだ。尾を繋いだのでは、どうしてこうならぬのか!」そこで賈后を庶人に廃し、建始殿に監禁し、趙粲、賈午らを逮捕して暴室に送り、拷問して罪を定めた。恵帝は詔勅を下して尚書に賈氏の親党を逮捕させ、中書監、侍中、黄門侍郎、八座の官員を皆、夜のうちに殿に召し入れた。尚書は初め詔勅に偽りがあるのではないかと疑い、郎の師景が親筆の詔勅を求める奏章を開陳したが、司馬倫らは彼を斬首して梟首した。

司馬倫は密かに孫秀と共に篡位を謀り、まず朝廷で声望のある者を除き、かつ私怨を報いようと考え、殿前にて張華、裴頠、解系、解結らを逮捕した。張華は張林に言った。「お前は忠臣を害そうとするのか?」張林は詔勅を偽って彼を責めて言った。「お前は宰相でありながら、太子が廃された時、死をもって節を全うしなかったのはなぜか?」張華は言った。「式干殿での議論、私が諫めたことは全て記録に残っている。調べれば分かる。」張林は言った。「諫めて聞き入れられなかったなら、なぜ辞職しなかったのか?」張華は答える言葉がなかった。そこで全員を斬首し、三族を誅滅した。解結の娘は裴家に嫁いでおり、翌日が婚礼の予定だったが、禍が起こった。裴家は彼女を引き取って助けようとしたが、娘は言った。「家が既にこのようなありさまです。私が生きていて何になるでしょう。」連座して処刑された。朝廷はこれにより旧制を改め、女子は父家に連座して処刑しないこととした。甲午(初四)、司馬倫は端門に坐し、尚書の和郁に符節を持たせて賈庶人を金墉城に送らせ、劉振、董猛、孫慮、程据らを殺した。司徒の王戎および朝廷内外の官員で、張華、裴頠の親党として罷免された者は多かった。閻纘は張華の屍を撫でて泣き、「以前から辞職を勧めたのに、あなたは応じなかった。今、ついに死を免れなかった。これは天命だ!」と言った。

そこで趙王司馬倫は仮託の詔勅により天下に大赦を行い、自ら使持節・都督中外諸軍事・相国・侍中となり、全て司馬懿・司馬昭が魏朝を輔佐した旧例に従った。府兵一万人を設置し、その世子である散騎常侍の司馬荂を冗従僕射に兼任させ、子の司馬馥を前將軍とし、濟陽王に封じた。司馬虔を黄門郎とし、汝陰王に封じた。司馬詡を散騎侍郎とし、霸城侯に封じた。孫秀らは皆大都に封じられ、兵権を掌握し、文武の官で侯に封じられた者は数千人に及び、百官は全て自己に統属して司馬倫に従った。司馬倫は元来平庸で愚鈍であり、また孫秀に制せられた。孫秀は中書令となり、その威権は朝廷を震動させ、天下の人々は皆孫秀に仕え、司馬倫に求めることはなかった。

恵帝は詔勅を下して元の太子司馬遹の位号を復し、尚書の和郁を派遣して東宮の官属を率い、許昌に行って太子の霊柩を迎えさせた。司馬遹の子である司馬虨を追封して南阳王とし、司馬虨の弟である司馬臧を臨淮王、司馬尚を襄陽王に封じた。

関係の役所が上奏した。「尚書令の王衍は大臣の位にありながら、太子が誣告された時、ただ苟且に禍を免れようとしたのみです。彼を終身禁固するよう請う。」恵帝はこれに従った。

相国の司馬倫は人心を収攬しようとし、天下の名望ある徳のある者を選び用い、前平陽太守の李重・滎陽太守の荀組を左・右長史とし、東平王の司馬堪・沛国の劉謨を左・右司馬とし、尚書郎の陽平人の束皙を記室とし、淮南王の文学の荀嵩・殿中郎の陸機を参軍とした。荀組は荀勗の子である。荀嵩は荀彧の玄孫である。李重は司馬倫に異心があることを知り、病と称して就任せず、司馬倫は絶えず彼を逼迫した。李重は憂憤のあまり病み、人に支えられて任命を受け、数日で死去した。

丁酉(七日)、梁王司馬肜を太宰とし、左光禄大夫の何劭を司徒とし、右光禄大夫の劉寔を司空とした。

太子司馬遹が廃された時、淮南王司馬允を太弟に立てようとしたが、議論する者たちの意見は合わなかった。ちょうど趙王司馬倫が賈后を廃したので、司馬允を驃騎將軍・開府儀同三司とし、中護軍を兼任させた。

己亥(九日)、相国の司馬倫は仮託の詔勅により尚書の劉弘を派遣し、金屑酒を携えさせ、金墉城に行って賈后に死を賜った。

五月己巳日、詔勅を下して臨淮王の司馬臧を皇太孫とし、太子妃王氏を帰らせてその母とし、太子の属官を太孫の属官に転じ、相国の司馬倫が太孫太傅を兼任した。

己卯日、故太子に諡を愍懐と加えた。六月壬寅日、顕平陵に葬った。

清河康王の司馬遐が死去した。

中護軍の淮南王司馬允は、性格が沈着剛毅で、宮中の宿衛の将士は皆彼を畏敬し従った。司馬允は相国の司馬倫と孫秀に異心があることを知り、密かに敢死の士を養い、彼らを討つことを謀った。司馬倫・孫秀は非常に彼を忌み嫌った。秋八月、司馬允を太尉に移し、表面は尊崇を示すものであったが、実際はその兵権を奪うものであった。司馬允は病と称して任命を受けなかった。孫秀は御史の劉機を派遣して司馬允を逼迫し、その属官以下の者を逮捕し、詔命に背き大逆不敬であると弾劾した。司馬允が詔書を見ると、孫秀の自筆であり、大いに怒り、御史を捕らえ殺そうとしたが、御史は逃れて死を免れ、その令史二人を殺した。司馬允は厳しくその手下に言った。「趙王は我が家を破滅させようとしている!」そこで封国の軍隊と帳下の七百人を率いてまっすぐに飛び出し、大声で叫んだ。「趙王が反逆した。私はこれを討伐しよう。私に従う者は左臂を露わにせよ。」ここに至って彼に帰順する者が多かった。司馬允は赴いて宮中に入ろうとしたが、尚書左丞の王輿が宮門を閉ざしたため、入ることができず、そこで相府を包囲した。司馬允が率いる軍は皆精鋭であり、司馬倫は彼らと戦い、たびたび敗れ、一千人余りが死んだ。太子左率の陳徽は東宮の兵を率い、宮内で鼓を打ち叫んで司馬允に呼応した。司馬允は承華門の前に陣を布き、弓弩を斉発し、司馬倫に向けて射かけ、矢は雨のように降り注いだ。主書の司馬眭秘は身体で司馬倫を覆い、矢はその背中に当たって死んだ。司馬倫の属官は皆樹の後ろに隠れ、それぞれの樹には数百本の矢が刺さった。辰の時から未の時まで、中書令の陳准は、陳徽の兄であり、司馬允に呼応しようとし、皇帝に言った。「白虎幡を派遣して闘いを解くべきです。」そこで司馬督護の伏胤に命じて四百騎の兵を率い、幡を持って宮中から出させた。侍中の汝陰王司馬虔は門下省にあり、密かに伏胤と盟約して言った。「富貴は当にあなたと共にすべきである。」伏胤はそこで空白の詔書を懐中にして出て、偽って詔があり淮南王を助けると言った。司馬允は察知せず、陣を開いて彼を入れ、車を下りて詔書を受けた。伏胤はその機に乗じて彼を殺し、また司馬允の子である秦王司馬郁・漢王司馬迪を殺した。司馬允の罪に連座して族滅された者は数千人に及んだ。洛陽の一部を赦免した。当初、孫秀はかつて小吏を務め、黄門郎の潘岳に仕え、潘岳はたびたび彼を鞭打った。衛尉の石崇の外甥の欧陽建は、常々相国の司馬倫と仇敵であった。石崇には愛妾の緑珠という者がおり、孫秀は人を派遣して求め取ったが、石崇は与えなかった。淮南王司馬允が敗れるに及び、孫秀はその機に乗じて石崇・潘岳・欧陽建が司馬允を尊奉して乱をなすと言い、彼らを捕らえた。石崇は嘆息して言った。「奴輩どもは我が財産を貪るのみである!」捕らえた者が言った。「財産が禍の根と知りながら、なぜ早く散じなかったのか。」石崇は答えることができなかった。当初、潘岳の母は常々潘岳を責めて言った。「あなたは当に足るを知るべきである。なおも貪り求めて止まないのか。」敗れるに及び、潘岳は母に謝罪して言った。「母に背きました。」ここに至り、石崇・潘岳・欧陽建と共に皆族滅され、石崇の家産は没収された。相国の司馬倫は淮南王の同母弟である呉王司馬晏を捕らえ、殺そうとした。光禄大夫の傅祗が朝堂で彼のために争い、人々は皆諫めて司馬倫を止めさせた。司馬倫はそこで司馬晏を賓徒県王に貶めた。

斉王司馬冏は功により遊撃将軍に昇進したが、司馬冏は心中不満で、怨恨の色があった。孫秀はこれを察知し、また彼が朝廷内にいることを忌み、そこで彼を平東将軍に出任させ、許昌を鎮守させた。

光禄大夫の陳准を太尉とし、録尚書事としたが、間もなく死去した。

孫秀は相国の司馬倫に九錫を加えることを提議し、百官の中で敢えて反対する者はいなかった。吏部尚書の劉頌が言った。「昔、漢が魏に賜い、魏が晋に賜ったのは、いずれも一時の権宜の計であり、常例とすることはできません。周勃・霍光は功績が極めて大きいにもかかわらず、九錫を賜ったという命令は聞いたことがありません。」張林は積年の憤りがやまず、劉頌は張華の同党であると考え、彼を殺そうとした。孫秀が言った。「張華・裴頠を殺したことで、すでに当時の声望を傷つけている。再び劉頌を殺すことはできない。」張林はここに至って止めた。劉頌を光禄大夫とした。そこで詔勅を下して司馬倫に九錫を加え、またその子の司馬荂を撫軍將軍とし、司馬虔を中軍將軍とし、司馬詡を侍中とした。また孫秀に侍中・輔国將軍を加え、相国司馬・右率は以前の如くとした。張林らは皆顕要の位に就いた。相府の兵を二万人に増やし、宿衛と同じとし、さらに隠された兵を合わせると、総数は三万人を超えた。

九月、司徒を丞相と改め、梁王司馬肜をこれに任じた。司馬肜は固く辞退して受けなかった。

司馬倫とその子らは皆愚頑で鄙陋で見識がなく、孫秀は狡猾で貪婪で淫らであり、彼と共に事を為した者は皆邪佞の徒であり、ただ栄利を争い追求するのみで、深謀遠略はなく、志趣は異なり互いに憎み妬んだ。孫秀の子の孫会は射声校尉となり、形貌は矮小で醜悪で、奴僕の中で最も賤しい者のようであり、孫秀は彼に皇帝の娘である河東公主を娶らせた。

冬十一月甲子日、皇后羊氏を立て、天下に大赦した。皇后は、尚書郎の泰山の羊玄之の娘である。その外祖父の平南将軍の楽安の孫旂は、孫秀と仲が良かったため、孫秀は彼女を后に立てた。羊玄之を光禄大夫・特進・散騎常侍とし、興晋侯に封じた。

詔を下し、益州刺史趙𫷷を大長秋に召し、成都内史の中山耿滕を益州刺史に任命した。趙𫷷は賈后の姻戚である。召されるのを聞き、大いに恐れ、また晋室の衰乱に乗じ、密かに蜀の地を占拠する心積もりがあり、倉庫の穀物を尽くして流民に施し、人心を買おうとした。李特兄弟が才能と武勇があることから、その同党は皆巴西の人で、趙𫷷と同郡であったため、厚く遇して心腹の手足とした。李特らは趙𫷷の勢力に依拠し、専ら徒衆を集めて強盗を働き、蜀人はこれを患とした。耿滕はたびたび密かに上表して言った。「流民は剛強で剽悍、蜀人は柔弱で、主が客を制することができず、必ず禍乱の根源となりましょう。故郷に帰すべきです。もし険要の地に留め置けば、秦・雍の禍が梁・益に移ることを恐れます。」趙𫷷はこれを聞いて憎んだ。

州が詔を受けて、文武官一千余人を遣わして耿滕を迎えた。この時、成都の治所は少城にあり、益州の治所は太城にあり、趙𫷷はなお太城にいて去らなかった。耿滕が州城に入ろうとすると、功曹の陳恂が諫めて言った。「今、州と郡の怨みは日に日に深まっております。城に入れば必ず大禍があります。少城に留まり変化を観察し、諸県に檄を伝えて村堡を連ねて秦地の氐人に備え、西夷校尉がまもなく到着することを述べ、しばらく待つべきです。さもなくば、犍為に退き、西のかた江源を渡り、不測に備えるのがよろしいでしょう。」耿滕は聞き入れなかった。その日、衆を率いて州城に入ると、趙𫷷は兵を遣わして迎え撃ち、西門で戦い、耿滕は敗れて死んだ。郡吏は皆逃げ散ったが、ただ陳恂のみが自ら縛して趙𫷷のもとに行き、耿滕の収葬を請うた。趙𫷷はその義を認めて許した。

趙𫷷はまた兵を遣わして西夷校尉の陳総を迎え撃った。陳総は江陽に至り、趙𫷷に異心があると聞き、主簿の蜀郡趙模が言った。「今、州郡は和せず、必ず大変が起こりましょう。火急に赴くべきです。府衙は兵家の要地、順義に従い叛逆を討てば、誰が敢えて乱を起こしましょう!」陳総はかえって道を迂回して逗留し、南安魚涪津に至った時、すでに趙𫷷の軍に遭った。趙模は陳総に言った。「財を散じて兵を募り、抵抗して戦い、もし州軍に勝てば州を得られ、勝てなくとも流れに従って退けば、必ずや害はありません。」陳総は言った。「趙益州は耿侯を恨み、故に殺した。我とには隙はない。どうしてそうする必要があろう!」趙模は言った。「今、事を起こさねば、必ずやあなたを殺して威を示すでしょう。戦わなくとも、益はありません!」涙を流して言ったが、陳総は聞き入れず、部衆はついに自ら潰散した。陳総は草むらに逃げ込み、趙模は陳総の衣服を着て格闘した。趙𫷷の兵は趙模を殺したが、陳総でないと見て、さらに捜索して陳総を見つけ、殺した。

趙𫷷は自ら大都督・大将軍・益州牧と称し、僚属を置き、郡守県令を改めた。朝廷の官で召された者は、敢えて行かない者はいなかった。李庠は妹夫の李含、天水の任回・上官昌、扶風の李攀、始平の費他、氐人の苻成・隗伯ら四千騎を率いて趙𫷷に帰順した。趙𫷷は李庠を威寇将軍とし、陽泉亭侯に封じ、心腹の重任を委ね、六郡の壮勇を招集して一万余人に達し、北道を遮断させた。