晋紀六
資治通鑑 第084巻
【晋紀六】 起重光作噩(辛酉年)、盡玄黓閹茂(壬戌年)、凡二年。
春正月、散騎常侍・安定の張軌を涼州刺史と為す。軌、時に方に多難に遭ひ、陰らかに河西に拠り以て自ら保たんとの志有り、故に涼州を求めしむ。時に涼州の境、盗賊横行し、鮮卑も亦た来り侵す。軌、至るや、宋配・汜瑗を以て謀主と為し、此の賊寇を悉く討平し、威名西土を震はす。
相國・司馬倫、孫秀と共に牙門・趙奉に指し、宣帝(司馬懿)の神靈の語りたまふを假り、曰はく、「司馬倫は早く西宮に入るべし」と。散騎常侍・義陽王・司馬威は、司馬望の孫なり。素より諂へて倫に事ふ。倫、威をして侍中を兼ねしめ、威を遣はし、逼りて皇帝の璽綬を奪ひ、禪讓の詔を作らしめ、又た尚書令・滿奮に節を持ち、璽綬を捧げて、皇位を倫に讓らしむ。左衛將軍・王輿、前軍將軍・司馬雅等、甲士を率ゐて宮殿に入り、三部司馬に命令を宣し、威賞を陳ぶるに、敢へて拒む者無し。張林等、諸門に屯す。乙丑、倫、法駕を備へ宮に入り、位に即き、大赦し、建始と改元す。帝(晉惠帝)、華林西門より出で、金墉城に居す。倫、張衡を遣はし兵を率ゐて之を守らしむ。
丙寅、帝を尊んで太上皇と為し、金墉城を改めて永昌宮と名づけ、皇太孫・司馬臧を廢して濮陽王と為す。己が子・司馬荂を立てて皇太子と為し、子・司馬馥を京兆王、司馬虔を廣平王、司馬詡を霸城王と為し、皆侍中と為し兵を領せしむ。梁王・司馬肜を宰衡と為し、何劭を太宰と為し、孫秀を侍中・中書監・驃騎將軍・儀同三司と為し、義陽王・司馬威を中書令と為し、張林を衛將軍と為し、其の餘の黨與は、皆九卿・將軍と為し、超階して擢用し、數ふるに勝へず。下は奴僕卒伍に至るまで、亦た爵を加ふ。朝會する毎に、貂蟬を冠る者、朝廷に滿つ。時に人の為に謠を為る曰はく、「貂足らず、狗尾續く」と。是の歳、天下の賢良・秀才・孝廉、一に試さず。郡國の計吏及び太學生の年十六已上の、皆署して吏と為す。郡守・縣令の赦の日當に在る者は、皆侯と為す。郡の綱紀、並びに孝廉と為し、縣の綱紀、並びに廉吏と為す。府庫の儲、賞賜を供ふるに足らず。侯に當る者多しと雖も、印を鑄するに暇あらず、或は白板を以て之に封ず。
初め、平南將軍・孫旂の子・弼、姪・髦・輔・琰、皆孫秀に附き、之と合族す。一兩月の間、顯位に超登す。倫の帝たるに及び、四子皆將軍と為り、郡侯に封ぜられ、旂を以て車騎將軍・開府儀同三司と為す。旂、弼等の倫の官爵を受くる、分を踰え禮を越すを以て、必ず家に禍を及ぼさんと爲し、少子・回を遣はし之を責む。弼等聽かず。旂、制する能はず、慟哭する而已。
癸酉、濮陽哀王・臧を殺す。孫秀、朝政を專らにす。倫の詔命する所、秀、輒ち改め奪ひ與へ、青紙を以て自ら詔を為し、或は朝に行ひ夕に改め、百官の動轉、流轉の如し。張林、素より秀と善からず、且つ己が開府するを得ざるを怨み、陰かに太子・荂に書を為り、曰はく、「孫秀、權を專らにし衆心に乖く。而るに功臣は皆小人にして、朝廷を亂る。悉く誅す可し」と。荂、書を以て倫に告ぐ。倫、書を秀に示す。秀、倫に勸めて林を收め、之を殺し、三族を夷にせよと。秀、齊王・冏、成都王・穎、河間王・顒の各々強兵を有し、一方に據るを以て、之を惡む。乃ち悉く其の親黨を以て三王の參佐と為し、冏を加へて鎮東大將軍、穎を征北大將軍と為し、皆開府儀同三司と為し、寵を以て之を安んず。
李庠、驍勇にして衆心を得、趙𫷷、漸く之を憚れども、未だ言はず。長史・蜀郡・杜淑、張粲、𫷷に説きて曰はく、「將軍、兵を起す未だ久しからざるに、遽かに李庠をして外に強兵を掌らしむ。我が族に非ざる者は、其の心必ず異なり。此れ兵を倒して以て人に授くるなり。早く圖るべし」と。會ひて庠、𫷷に勸めて帝號を稱せしむ。淑、粲、因りて𫷷に白して、庠は大逆不道なりと為し、收めて斬り、其の子姪十餘人を併せたり。時に特・流、皆兵を率ゐて外に在り。𫷷、人を遣はし之を慰安して曰はく、「庠、言ふ可からざるを言ひ、罪、死に當る。兄弟、罪を連ぬるに由なし」と。又た特・流を以て督將と為す。特・流、𫷷を怨み、兵を率ゐて綿竹に還る。
𫷷の牙門將・涪陵・許弇、巴東監軍を求む。杜淑、張粲、固く許さず。弇、怒り、𫷷の閣下に於いて手づから淑・粲を殺す。淑・粲の左右、又た弇を殺す。此の三人は、皆𫷷の心腹なり。𫷷、此に由りて衰へたり。
𫷷、長史・犍為・費遠、蜀郡太守・李苾、督護・常俊を遣はし、萬餘人を率ゐて北道を斷たしめ、綿竹の石亭に屯す。李特、密かに兵を募り、七千餘人を得、夜襲ひて遠等の軍を擊ち、火を放ちて之を焚く。死者十に八九。遂に成都を攻む。遠・苾及び軍祭酒・張微、夜に斬關して走り、文武、散ずるを悉くす。𫷷、獨り妻子と小船に乘りて走り、廣都に至り、從者に殺さる。特、成都に入り、兵を縱ひ大いに掠奪し、使を洛陽に遣はし、𫷷の罪狀を陳ぶ。
初め、梁州刺史・羅尚、𫷷の反するを聞き、表して曰はく、「𫷷、素より雄才に非ず、蜀の人、附かず、其の敗亡、計日して待つ可し」と。詔して尚を平西將軍・益州刺史と為し、牙門・王敦、蜀郡太守・徐倹、廣漢太守・辛冉等の七千餘人を督して蜀に入らしむ。特等、尚の至るを聞き、大いに懼れ、其の弟・驤を遣はし道に迎へ、珍玩を奉ず。尚、大いに喜び、驤を以て騎督と為す。特・流、復た牛酒を以て綿竹に尚を勞ふ。王敦、辛冉、尚に説きて曰はく、「特等、專ら盜賊を為す。會に因りて之を斬るべし。然らずんば必ず後患と為らん」と。尚、聽かず。冉、特と舊と有り、特に謂ひて曰はく、「故人相い逢ふ、吉凶其れ孰れか分たん」と。特、深く猜懼す。三月、尚、成都に至る。汶山羌、反く。尚、王敦を遣はし之を討たしむ。敦、羌に殺さる。
齊王・冏、趙王・倫を討たんと謀る。未だ發せず。會ひて離狐・王盛、潁川・處穆、濁澤に衆を聚む。百姓、從ふこと日に萬數。倫、其の將・管襲を遣はし齊王の軍司と為し、盛・穆を討たしめ、之を斬る。冏、因りて襲を收め、之を殺し、豫州刺史・何勗、龍驤將軍・董艾等と兵を起し、使を遣はし成都王・穎、河間王・顒、常山王・乂、及び南中郎將・新野公・歆に告げ、檄を徵・鎮・州・郡・縣・國に傳へ、言はく、「逆臣孫秀、迷ひ誤りて趙王を導く。當に共に誅討すべし。命を聽かざる者は、三族を誅せん」と。
使者が鄴城に到着すると、成都王司馬穎は鄴令盧志を召し出してこの事を謀った。盧志が言うには「趙王は位を簒奪し叛逆したので、人も神も皆憤っております。殿下は英俊の士を収揽して民心に順い、大義に依ってこれを討伐なされば、百姓は召さずとも自ずから来り、袖を捲くって我先にと争い、成功しないことはありません!」司馬穎はその建議に従い、盧志を咨議参軍に任命し、なお左長史を補任した。盧志は盧毓の孫である。司馬穎は兗州刺史王彦、冀州刺史李毅、督護趙驤、石超らを前鋒とし、遠近から応じる者が相次ぎ、朝歌に達した時には部衆は既に二十余万に及んだ。石超は石苞の孫である。常山王司馬乂はその封国に在り、太原内史劉暾と共にそれぞれ部衆を率いて司馬穎の後続部隊とした。
新野公司馬歆は司馬冏の檄文を受け取り、いずれに従うべきか分からなかった。その寵臣王綏が言うには「趙王は親しくかつ強く、斉王は疎くかつ弱い。公は趙王に従うべきです。」参軍孫洵が衆人の中で大声で言うには「趙王は凶悪叛逆にして、天下挙げて共に誅殺すべきであり、何の親疎強弱の区別があろうか!」司馬歆はそこで司馬冏に従った。
前安西参軍夏侯奭が始平に在り、数千人を集めて司馬冏に応じ、使者を遣わして河間王司馬顒を招いた。司馬顒は長史隴西の李含の計略を用い、振武將軍河間の張方を遣わして討ち、夏侯奭とその党与を捕らえて腰斬にした。司馬冏の檄文が届くと、司馬顒は司馬冏の使者を捕らえて司馬倫に送り、張方に兵を率いさせて司馬倫を助けさせた。張方が華陰に達した時、司馬顒は司馬冏・司馬穎の二王の兵が強盛であると聞き、また張方を召し返し、改めて二王に付いた。
司馬冏の檄文が揚州に届くと、州中の人々は皆司馬冏に応じようとした。刺史郗隆は郗慮の玄孫であり、兄の子の郗鑑及び自分の諸子が皆洛陽にいるため、猶豫して決せず、全ての僚属を集めて議した。主簿淮南の趙誘・前秀才虞潭が皆言うには「趙王は位を簒奪し叛逆したので、海内の者が皆痛恨しております。今義兵が四方から起こり、彼は必ず敗れましょう。明使君のためにお考えになるならば、自ら精兵を率いて直接許昌に赴くのが上策であり、将を遣わして兵を率い義軍と合流させるのが中策であり、心持ち小部隊を派遣して機に応じて勝利を助けるのが下策であります。」郗隆が退くと、密かに別駕顧彦と議した。顧彦が言うには「趙誘らの言う下策こそ、上策であります。」治中留宝・主簿張褒・西曹留承がこれを聞き、謁見を請うて言うには「明使君が今いかがなさろうとしているのか、知りませぬ。」郗隆が言うには「我は両朝の皇帝の恩遇を同時に受け、いずれにも偏らず、ただ本州を守らんと欲するのみである。」留承が言うには「天下は世祖司馬炎の天下です。太上皇は帝位を継いで久しく、今の主上が帝位を奪ったのは公平ではありません。斉王は時に順って事を起こし、成敗は予見できます。使君が早く兵を発して応じず、猶豫して引き延ばせば、変乱の災禍が起こりましょう。この州をどうして保てましょうか!」郗隆は応じなかった。虞潭は虞翻の孫である。郗隆は檄文を六日間も置いて発布せず、将士たちは怒った。参軍王邃が石头を鎮守しており、将士たちは我先に彼に帰附した。郗隆は従事を遣わして牛渚でこれを禁じたが、止められなかった。将士たちはそこで王邃を推戴して郗隆を攻め、郗隆父子及び顧彦は皆殺され、首級は司馬冏のもとに送られた。
安南將軍・監沔北諸軍事の孟觀は、紫宮の帝座に他の異変がないことから、司馬倫は必ず敗れないと考え、彼のために守りを固めた。
司馬倫・孫秀は三王が兵を起こしたと聞き、非常に恐れ、斉王司馬冏の偽りの奏表を作って言うには「何者かの賊が突然囲み攻めて来て、臣は懦弱にして自ら保つことができませぬ。中軍の救援を請い、願わくは機会を得て死を以て報国せん。」と。この奏表を朝廷内外に示し、上軍將軍孫輔・折衝將軍李嚴に兵七千人を率いさせて廷壽関から出発させ、征虜將軍張泓・左軍將軍蔡璜・前軍將軍閭和に兵九千人を率いさせて崿阪関から出発させ、鎮軍將軍司馬雅・揚威將軍莫原に兵八千人を率いさせて成皐関から出発させ、司馬冏を防がせた。孫秀の子の孫会に将軍士猗・許超を督率させ、宿衛兵三万人を率いさせて司馬穎を防がせた。東平王司馬楙を征召して衛將軍とし、諸軍を都督させ、また京兆王司馬馥・廣平王司馬虔に兵八千人を率いさせて三軍の後続増援とした。司馬倫・孫秀は日夜祈祷し、厭勝の術を用いて福を求め、巫覡に戦闘の日を選ばせ、また人を嵩山に遣わして羽衣を着け、仙人王喬と偽り、手紙にて司馬倫の国運が長久であると述べ、もって衆人を惑わそうとした。
閏月、丙戌朔、日食があった。正月からこの月に至るまで、五星が代わる代わる天空を巡り、縦横に運行して常がなかった。
張泓らは進軍して陽翟を占拠し、斉王司馬冏と戦い、しばしば彼を破った。司馬冏は穎陰に駐軍した。夏、四月、張泓は勝に乗じて迫り、司馬冏は兵を遣わして迎え撃った。諸軍は動かず、孫輔・徐建の軍は夜間に乱を生じ、直接洛陽に逃げ帰って自首し言うには「斉王の軍は強盛で、当たるべからず。張泓らは既に覆滅しました!」趙王司馬倫は非常に恐れ、秘して言わず、かえってその子の司馬虔と許超を召し返した。折しも張泓が司馬冏を破った露布が伝え届き、司馬倫はまた彼らを出発させた。張泓らは諸軍を率いて潁水を渡り司馬冏の営塁を攻めた。司馬冏は兵を出してその偏將孫髦・司馬譚らを攻撃し、これを破った。張泓らはようやく退いた。孫秀は偽って既に司馬冏の営塁を破り、司馬冏を捕らえたと称し、百官に命じて皆賀せしめた。
成都王司馬穎の前鋒が黄橋に達し、孫会・士猗・許超に敗れ、殺傷すること一万余人、兵士たちは震驚して恐れた。司馬穎は朝歌に退き守ろうとした。盧志・王彦が言うには「今我が軍は失利し、敵はまさに志を得て、我を軽んずる心があります。我らもし退けば、士気は沮喪し、もはや用いることはできません。況んや戦いに勝負の無いことがありましょうか! むしろ別に精兵を選び、星夜兼行し、その意表を衝くのが、用兵の奇策であります。」司馬穎はこれに従った。司馬倫は黄橋の戦功を賞し、士猗・許超と孫会は皆節を持ち、故にそれぞれ互いに従わず、軍政は統一せず、しかも勝利に依りて司馬穎を軽んじて防備を設けなかった。司馬穎は諸軍を率いてこれを攻め、湨水にて大戦し、孫会らは大敗し、軍を棄てて南に逃げた。司馬穎は勝に乗り長駆して黄河を渡った。
司馬冏らが兵を挙げて以来、百官や将士は皆、司馬倫と孫秀を誅殺しようと考えていた。孫秀は恐れ、中書省から出ることもできなかった。河北の軍が敗れたと聞くと、憂慮し煩悶してどうすればよいか分からなかった。孫会、許超、士猗らが到着し、孫秀と謀議した。ある者は残りの兵を集めて出戦しようと主張し、ある者は宮室に火を放ち、自分に従わない者を誅殺し、司馬倫を連れて南へ孫旗や孟観のもとに逃れようとし、ある者は船で東の海へ逃れようとしたが、計略は決まらなかった。辛酉の日、左衛将軍王輿と尚書陵公司馬漼が営兵七百余人を率いて南掖門から宮中に入り、三部司馬が宮中で内応し、中書省で孫秀、許超、士猗を攻撃し、ことごとく斬殺した。さらに孫奇、孫弼、および前将軍謝惔らを殺した。司馬漼は司馬人由の子である。王輿は雲龍門に駐屯し、八座の官員をすべて殿中に召集し、司馬倫に詔を下させて言わせた。「我は孫秀に誤られ、そのために三王の怒りに触れた。今、すでに孫秀を誅殺した。太上皇を迎えて位に復し、我は郷里に帰って農耕に従い老後を過ごすべきである。」伝詔の者は騶虞幡を用いて将士に兵器を解かせるよう命じた。黄門が司馬倫を華林東門から連れ出し、太子司馬荂とともに汶陽里の邸宅に帰した。甲士数千人を金墉城に派遣して皇帝を迎えた。百姓は皆、万歳を叫んだ。皇帝は端門から入り、殿に登り、群臣は頭を叩いて罪を謝した。詔を下して司馬倫と司馬荂を金墉城に送った。広平王司馬虔は河北から戻り、九曲に至り、変事を聞いて軍を棄て、数十人を連れて里巷の邸宅に帰った。
癸亥の日、大赦を行い、年号を改め、五日間大宴を開き、それぞれ使者を派遣して三王を慰労した。梁王司馬肜らは上表して言った。「趙王司馬倫父子は凶悪叛逆であり、法に従って処断すべきです。」丁卯の日、尚書袁敞を派遣し、節を持たせて司馬倫に死を賜い、その子の司馬馥、司馬虔、司馬詡を逮捕し、ことごとく誅殺した。司馬倫に任用された百官はすべて斥けられ免職となり、台、省、府、衛にはわずかな者だけが留任した。この日、成都王司馬穎が到着した。己巳の日、河間王司馬顒が到着した。司馬穎は趙驤と石超を派遣し、斉王司馬冏を助けて陽翟で張泓らを討伐させ、張泓らは皆降伏した。兵を挙げてから六十余日、戦闘で死んだ者はほぼ十万人にのぼった。東市で張衡、閭和、孫髦を斬り、蔡璜は自殺した。五月、義陽王司馬威を誅殺した。襄陽太守宗岱は司馬冏の檄文を受けて孫旗を斬り、永饒冶令空桐機は孟観を斬り、皆その首級を洛陽に送り、三族を滅ぼした。襄陽王司馬尚を皇太孫に立てた。
六月、乙卯の日、斉王司馬冏が軍を率いて洛陽に入り、通章署に駐屯し、甲士数十万、その威光は京師を震わせた。
戊辰の日、大赦を行った。
賓徒王司馬晏を改めて呉王に封じた。
甲戌の日、詔を下して斉王司馬冏を大司馬とし、九錫を加え、典章器物を備えさせ、宣王、景王、文王、武王が魏を輔佐した旧例に従わせた。成都王司馬穎を大将軍とし、都督中外諸軍事、仮黄鉞、録尚書事とし、九錫を加え、入朝して小歩する必要をなくし、剣を帯び鞋を履いて殿に上ることを許した。河間王司馬顒を侍中、太尉とし、三賜の礼を加えた。常山王司馬乂を撫軍大将軍とし、左軍を領させた。広陵公司馬漼の爵位を進めて王とし、尚書を領し、侍中を加えた。新野公司馬歆の爵位を進めて王とし、都督荊州諸軍事とし、鎮南大将軍を加えた。斉王、成都王、河間王の三府には、それぞれ属官四十人を設置し、武職の称号は森羅と並び、文官はただ員数を満たすだけであった。識者は戦いがまだ止まないことを知った。己卯の日、梁王司馬肜を太宰とし、司徒を領させた。
光禄大夫劉蕃の娘は趙王世子司馬荂の妻であったため、劉蕃とその二子、散騎侍郎劉輿、冠軍将軍劉琨は皆、趙王司馬倫に委任されていた。大司馬司馬冏は劉琨父子に才能と声望があるとみなし、特にこれを赦し、劉輿を中書郎、劉琨を尚書左丞に任じた。また、前司徒王戎を尚書令、劉暾を御史中丞、王衍を河南尹に任じた。
新野王司馬歆は鎮守の地に向かおうとし、司馬冏と同車で陵に謁し、その機に乗じて司馬冏に勧めて言った。「成都王は至親であり、共に大勲を立てました。今、彼を留めて共に政を輔けるべきです。もしそれができなければ、その兵権を削るべきです。」常山王司馬乂は成都王司馬穎と共に陵に謁し、司馬乂は司馬穎に言った。「天下は先帝の基業です。大王はこれを維持すべきです。」これを聞いた者は憂慮し恐れない者はなかった。盧志は司馬穎に言った。「斉王の軍は百万と称し、張泓らと相持して決することができませんでした。大王はまっすぐ進んで黄河を渡り、功績は比類ありません。しかし今、斉王は大王と共に朝政を輔けようとしています。二雄は並び立つことはできないと聞いております。太妃に小病があるのを借口に、帰省を請い、重任を斉王に委ね、天下の人心を収めるのが上策です。」司馬穎はこれに従った。皇帝は東堂で司馬穎を引見し、慰労した。司馬穎は拝謝して言った。「これは大司馬司馬冏の功績であり、臣は参与しておりません。」そこで上表して司馬冏の功徳を称え、朝政の大権を彼に委ねるべきだと述べ、自らは母の病気を理由に藩国に帰ることを請うた。すぐに辞して退出し、軍営に戻らず、太廟に謁し、東陽城門から出て、そのまま鄴に帰った。使者を派遣して司馬冏に別れを告げると、司馬冏は大いに驚き、馬を駆って司馬穎を送り、七里澗に至って追いついた。司馬穎は車を止めて別れを告げ、涙を流し、ただ母の病痛を憂えるのみで、時事には言及しなかった。このため士人や百姓の称賛は皆、司馬穎に帰した。
司馬冏は新興人劉殷を軍咨祭酒に、洛陽令曹摅を記室督に、尚書郎江統、陽平太守河内人荀晞を参軍事に、呉国人張翰を東曹掾に、孫恵を戸曹掾に、前廷尉正顧栄と順陽人王豹を主簿に召した。孫恵は孫賁の曾孫であり、顧栄は顧雍の孫である。劉殷は幼くして父を失い家は貧しかったが、曾祖母を養い、孝行で名を知られ、ある人が穀物や布帛を贈ると、劉殷は受け取って礼を言わず、ただ「後日富貴になったら報いよう」と言った。成長して後、経史に通じ、性格は洒脱で大志があり、節倹にして鄙劣ならず、清高にして偏狭ならず、外見は穏やかだが犯しがたいものがあった。司馬冏は何勖を中領軍に、董艾を枢機の大権を掌らせ、またその手下で功績のあった将佐葛旟、路秀、衛毅、劉真、韓泰を皆県公に封じ、腹心として委任し、「五公」と称した。
成都王司馬穎は鄴に到着し、詔により使者を派遣して前の命を重申した。司馬穎は大将軍の任命を受けたが、九錫の特殊な礼遇は辞退した。上表して興義軍の功臣を論じ、皆を公侯に封じた。また上表して言った。「大司馬は先に陽翟において、賊と久しく相持し、百姓は困苦疲敝しております。願わくば黄河以北の官倉の米十五万斛を運び、陽翟の飢民を賑済されたい。」棺八千余副を作り、成都国の秩禄を用いて衣服を作り、黄橋で戦死した将士を収殮して祭り、その家族を顕彰し、通常の戦没者より二等を加えた。また温県に命じて趙王司馬倫の戦士一万四千余人を埋葬させた。これらはすべて盧志の謀略である。司馬穎は容貌は美しかったが精神は昏く、書を読まなかったが、性格は敦厚であり、政事を盧志に委ねたため、その美名を成就することができた。詔により再び使者を派遣して司馬穎に入朝して政を輔けるよう告げ、かつ九錫を受けさせようとした。司馬穎の寵臣孟玖は洛陽に帰ることを望まず、程太妃も鄴都を恋しがったため、司馬穎はついに辞退して受けなかった。
当初、大司馬司馬冏は、中書郎陸機が趙王司馬倫のために禅譲の詔書を起草したことを疑い、彼を逮捕して処刑しようとした。大将軍司馬穎が彼の弁護に立ち、助命嘆願したため、かろうじて死を免れた。そこで上表して陸機を平原内史に推挙し、その弟の陸雲を清河内史に任命した。陸機の友人の顧栄と広陵の戴淵は、中原に多くの災難があるため、陸機に呉の地へ戻るよう勧めた。陸機は司馬穎に助けられ救われた恩恵を受け、また司馬穎が当時声望があり、共に功業を立てられると考え、留まって去らなかった。
秋、七月、常山王司馬乂を改めて長沙王に封じ、開府・驃騎将軍に昇進させた。
東萊王司馬蕤は、凶暴で酒に酔い、しばしば大司馬司馬冏を辱め、また司馬冏に開府の職を求めたが得られず、そのために彼を恨み、密かに上表して司馬冏の専権を告発し、左衛将軍王輿と共に司馬冏を廃する計画を謀った。事が露見し、八月、詔を下して司馬蕤を平民に廃し、王輿の三族を誅殺し、司馬蕤を上庸に流した。上庸内史陳鐘は司馬冏の意図をくみ、密かに彼を殺害した。
天下に大赦を行った。
東武公司馬澹は不孝の罪で遼東に流された。九月、弟の東安王司馬繇を召し出して元の爵位を回復させ、尚書左僕射に任命した。司馬繇は東平王司馬楙を平東将軍・都督徐州諸軍事に推挙し、下邳に鎮守させた。
当初、朝廷は秦州・雍州に命令を下し、蜀地に流入した流民を召還させ、また御史の馮該・張昌を派遣してこれを監督させた。李特の兄の李輔が略陽から蜀地に来て、中原はまさに乱れており、帰るに値しないと言った。李特はその言を正しいと考え、たびたび天水の閻式を羅尚のもとに派遣し、秋まで一時停止するよう請願し、また羅尚と馮該に賄賂を贈った。羅尚と馮該はそれを許した。朝廷は趙𫷷を討伐した功績を評定し、李特を宣威将軍、弟の李流を奮武将軍に任命し、いずれも侯に封じた。詔書が益州に下り、六郡の流民の中で李特と共に趙𫷷を討伐した者を列挙し、封賞を与えようとした。広漢太守辛冉は趙𫷷を滅ぼした功績を自分のものにしようとし、朝廷の命令を押さえつけて事実を報告せず、人々は皆彼を恨んだ。
羅尚は従事を派遣して流民の送還を督促し、七月に出発するよう期限を定めた。当時、流民は梁州・益州に分布し、人に雇われて働いており、州郡が逼迫して送還するのを聞き、人人は愁い怨み、どうしてよいか分からなかった。しかも水害が盛んで、穀物の収穫がなく、旅費もなかった。李特は再び閻式を羅尚のもとに派遣し、冬まで停止するよう請願した。辛冉と犍為太守李苾はそれができないと言った。羅尚は別駕蜀郡の杜苾を秀才に推挙し、閻式は杜苾のために逼迫して送還することの利害を述べ、杜苾もまた流民に一年の猶予を与えたいと考えた。羅尚は辛冉・李苾の計略を用い、従わなかった。杜苾はそこで秀才の板を返上し、家に帰った。辛冉は性情貪婪残忍で、流民の首領を殺し、その財物を奪おうとし、そこで李苾と共に羅尚に告げて言った、「流民は以前、趙𫷷の乱に乗じて、多く略奪を行いました。今、移住の際に関所を設けて、その財物を奪うべきです。」羅尚は文書を下して梓潼太守張演に命じ、各所の要路に関所を設け、宝物を捜索させた。
李特はたびたび流民のために留まることを請い、流民は皆彼に感謝して頼り、多くの者が互いに率いて李特に帰順した。李特はそこで綿竹に大営を築いて流民を安置し、辛冉に上書して猶予を求めた。辛冉は大いに怒り、人を遣わして大路に張り紙をさせ、李特兄弟を捕らえる賞金を懸け、重い報酬を約束した。李特はそれを見ると、全てを取り戻し、弟の李騤と共に賞金を書き換えて言った、「六郡の豪強李・任・閻・趙・楊・上官および氐人・叟人の侯王の首級一つを送った者には、布一百匹を賞賜する。」そこで流民は非常に恐れ、李特に帰順する者がさらに増え、十日半月の間に二万人を超えた。李流もまた数千人を集めた。
李特は再び閻式を羅尚のもとに派遣して期限の延長を請い、閻式は営寨の柵が交通の要路に設けられ、流民を襲撃しようとしているのを見て、嘆息して言った、「民心はまさに危惧しているのに、今これを逼迫すれば、禍乱がまさに起こるだろう。」また辛冉・李苾の意向が変えられないことを知り、そこで羅尚に別れを告げて綿竹に帰った。羅尚は閻式に言った、「君はひとまず私の意を諸々の流民に伝えよ。今は猶予を許すことを聞き入れよう。」閻式は言った、「明公は奸邪の言葉に惑わされており、おそらく猶予の道理はありません。百姓は弱くて軽んじてはならないものです。今、道理に従わずに彼らを逼迫すれば、大衆の怒りに逆らい難く、禍患は浅くないでしょう。」羅尚は言った、「その通りだ。私は君を欺かない。行きなさい。」閻式は綿竹に到り、李特に言った、「羅尚はこのように言うが、信じてはなりません。なぜなら、羅尚の威厳と刑罰はまだ確立されておらず、辛冉らはそれぞれ強兵を擁しており、ひとたび変事が起これば、羅尚の制御できるところでもありません。深く備えをすべきです。」李特はその言葉に従った。冬、十月、李特は二つの営寨に分け、李特は北営に住み、李流は東営に住み、鎧を繕い、武器を研ぎ、厳重に警戒して彼らを待った。
辛冉・李苾は互いに謀って言った、「羅尚は貪欲で決断力がなく、日を重ねるごとに、流民に奸計をめぐらすことを許している。李特兄弟は皆雄才を持ち、我々は彼らに捕らえられるだろう!果断に決断すべきであり、羅尚に問うまでもない!」そこで広漢都尉曾元・牙門張顕・劉并らを派遣し、密かに歩兵・騎兵三万人を率いて李特の営寨を襲撃させた。羅尚はこれを聞き、また督護田佐を派遣して曾元を助けた。曾元らが到着すると、李特は安らかに横たわって動かず、彼らの人馬が半分入ったところで、伏兵を発して攻撃し、死ぬ者が多かった。田佐・曾元・張顕を殺し、その首級を羅尚・辛冉のもとに送って見せた。羅尚は将佐に言った、「この賊寇はすでに勢力を成した。広漢は私の言葉を用いずに賊の勢いを張らせた。今どうすればよいのか!」
そこで六郡の流民李含らは共に李特を推して鎮北大将軍を代行させ、皇帝の旨を秉承して官爵を封拜させた。その弟の李流を鎮東大将軍を代行させ、東督護と号し、互いに鎮守・統領させた。また兄の李輔を驃騎将軍、弟の李騤を驍騎将軍とし、広漢に進軍して辛冉を攻撃した。羅尚は李苾・費遠を派遣して軍隊を率い辛冉を救援させたが、李特を恐れて進むことができなかった。辛冉は城を出て戦い、たびたび敗北し、包囲を突破して徳陽に奔った。李特は入城して広漢を占拠し、李超を太守に任命し、進軍して成都に至り羅尚を攻撃した。羅尚は書簡をもって閻式に告諭した。閻式は返書に言った、「辛冉は奸邪で巧みに偽り、曾元は小人物であり、李叔平は将帥の器ではありません。私は以前、節下と杜景文に留まるか移るかの適宜を論じました。人は故郷を懐かしむもの、誰が望まないでしょうか!ただ当初到着した時、穀物の価格に従って雇われ、一家五人が、また秋の水害に遭い、冬の成熟を待つよう請いましたが、ついに聞き入れられませんでした。逼迫が度を過ぎ、窮した鹿も虎に突き当たります。流民は首を伸ばして刀を受けることを肯んじず、そのために変乱が起こりました。もし私の言葉を聞き、ゆるやかに彼らに装いを整えさせれば、昨年九月に全てが集まり、十月に出発し、故郷に帰らせることができ、どうしてこのようなことがありましょう!」
李特は兄の李輔、弟の李騤、子の李始・李蕩・李雄、および李含、李含の子の李国・李離・任回・李攀、李攀の弟の李恭・上官晶・任臧・楊褒・上官惇らを将帥とし、閻式・李遠らを僚佐とした。羅尚はもともと貪婪残忍で、百姓の患となっていた。李特は蜀地の百姓と法を三章に約し、施しを施し、賢才を礼遇し、沈滞した人材を抜擢し、軍政は整然とし、蜀地の百姓は非常に喜んだ。羅尚はたびたび李特に敗れ、そこで長囲を築き、郫水に沿って営寨を建て、七百里に連なり、李特と対峙し、梁州と南夷校尉に救援を求めた。
十二月、穎昌康公何劭が死去した。
大司馬司馬冏の子の司馬冰を楽安王、司馬英を済陽王、司馬超を淮南王に封じた。
春、三月、沖太孫司馬尚が死去した。
夏、五月、乙酉の日、梁孝王司馬肜が死去した。
右光禄大夫劉寔を太傅に任命したが、まもなく老病のため罷免された。
河間王司馬顒は督護衙博を派遣して李特を討伐させ、梓潼に駐屯させた。朝廷はまた張微を広漢太守とし、徳陽に駐屯させた。羅尚は督護張龟を派遣して繁城に駐屯させた。李特はその子の鎮軍将軍李蕩らに衙博を襲撃させ、自ら軍を率いて張龟を攻撃し、これを破った。李蕩は陽沔で衙博の軍を破り、梓潼太守張演は城を棄てて逃亡し、巴西丞毛植は郡人とともに降伏した。李蕩は進軍して葭萌で衙博を攻め、衙博は逃走し、その部衆はことごとく降伏した。河間王司馬顒は許雄を梁州刺史に改任した。李特は自ら大将軍・益州牧・都督梁州益州二州諸軍事と称した。
大司馬司馬冏は長く大政を掌握しようと望み、皇帝の子孫はことごとく死去していたため、大将軍司馬穎には順序に従って即位する形勢があった。清河王司馬覃は司馬遐の子で、わずか八歳であったので、上表してこれを立てることを請うた。癸卯の日、司馬覃を皇太子とし、司馬冏を太子太師、東海王司馬越を司空・兼領中書監とした。
秋八月、李特は張微を攻撃したが、張微はこれを破り、進んで李特の営寨を攻めた。李蕩が兵を率いて救援し、山路は険しく狭かったが、李蕩は力戦して前進し、ついに張微の軍を破った。李特は涪県に戻ろうとしたが、李蕩と司馬王幸が諫めて言った。「張微の軍はすでに敗れ、智謀も勇気も尽きております。勢いに乗じてこれを擒えるべきです。」李特は再び張微を攻撃してこれを殺し、その子の張存を生け捕り、張微の棺を返還した。
李特はその部将寋碩に徳陽を守らせた。李驤は毘橋に駐屯し、羅尚は軍を派遣してこれを攻撃したが、たびたび李驤に敗れた。李驤はそこで成都を攻撃し、城門を焼き払った。李流は成都の北に駐屯し、羅尚は精兵一万人を派遣して李驤を攻撃した。李驤は李流と力を合わせて攻撃し、羅尚の軍を大破した。逃げ帰った者はわずか十分の一二であった。許雄はたびたび軍を派遣して李特を攻めたが勝てず、李特の勢力はますます盛んになった。
建寧の大姓である李睿・毛詵は太守杜俊を追放し、朱提の大姓である李猛は太守雍約を追放して、李特に呼応し、それぞれ数万人を集めた。南夷校尉李毅が討伐してこれを破り、毛詵を斬った。李猛は書状を送って降伏を願い出たが、その言辞意旨は恭しくなく、李毅はこれを誘い出して殺した。冬十一月丙戌の日、寧州を再設置し、李毅を刺史とした。
斉武閔王司馬冏は志を得た後、かなり驕奢専権となり、大いに府第を建造し、公私の家屋を数百も破壊し、その規模は西宮と同じであり、朝廷内外は失望した。侍中嵇紹は上疏して言った。「生存して灭亡を忘れずというのは、『易経』の善き戒めであります。願わくば陛下は金墉城を忘れず、大司馬は穎上を忘れず、大将軍は黄橋を忘れずんば、禍乱の萌芽は生ずる理由がございません。」また司馬冏に手紙を送り、「尭・舜は茅で屋根を葺き、夏禹は低い宮室に住みました。今、大いに住宅を建造し、また三王のために邸宅を造営されるのは、果たして今日の急務でありましょうか。」と述べた。司馬冏は謙遜な言葉で謝罪したが、従うことはなかった。
斉王司馬冏は宴飲享楽に溺れ、宮中に入って天子に朝見しなかった。府中に座って百官の拝見を受け、符節を用いて三台に勅令を下した。官員の選抜は公平でなく、小人物を寵愛して権力を振るわせた。殿中御史桓豹は事を奏上するに際し、先に斉王府を経由しなかったため、拷問の末に殺された。南陽の隠士鄭方は書を上って司馬冏を諫めて言った。「今、大王は安楽に耽って危険を考えず、宴飲享楽が度を過ぎております。これが第一の過失です。宗室骨肉の間は、本来隔たりがあってはなりませんが、今はそうではありません。これが第二の過失です。四方の蛮夷は静まらず、大王は功業がすでに盛大であると思い、このことを意に介しておりません。これが第三の過失です。戦事の後、百姓は困窮しておりますが、大王がこれを賑恤したとは聞いておりません。これが第四の過失です。大王は挙兵討逆の義軍と盟約し、事が平定した後は賞賜を遅らせてはならないとしましたが、今なお功勲の評価を受けていない者がおります。これが第五の過失です。」司馬冏は謝して言った。「あなたなしでは、私は自分の過ちを聞くことができません。」
孫惠は書を上って言った。「天下には五難・四不可がございますが、明公はすべてを備えておられます。刃鋒箭矢を冒すことは、第一の難です。天下の英雄豪傑を招き集めることは、第二の難です。将士と甘苦を共にすることは、第三の難です。弱をもって強に勝つことは、第四の難です。皇室の基業を復興することは、第五の難です。盛んな名望は長く受け持つことはできず、大きな功労は長く居続けることはできず、重大な権柄は長く執ることはできず、顕赫な威勢は長く有することはできません。大王はその難きことを為して難しとせず、その不可の地に居て可とされております。私孫惠はひそかに安からざるを覚えます。明公は功成り身退くの理を思われるべきです。宗室を推崇し親しみ、重任を長沙王・成都王に委ね、拱手して礼をなし藩国に退けば、太伯・子臧の美名も独り占めにはならないでしょう。今、高処の危うきを忘れ、権勢に貪って猜疑を招き、高台に遊び深宮に逍遥されているとはいえ、ひそかに危険の憂いは、穎川・翟県にいた時よりも大きいと考えます。」司馬冏は採用しなかった。孫惠は病と称して辞官して去った。司馬冏は曹摅に言った。「ある人が私に権柄を交還し封国に退くよう勧めるが、どうであろうか。」曹摅は言った。「事物は盛んを忌むものでございます。大王が果たして高きに居て危うきを思い、衣を挙げて去られるならば、これに勝る善はございません。」司馬冏は聴かなかった。
張翰と顧栄はともに禍が身に及ぶことを憂えた。張翰は秋風が吹くに及んで、故郷の菰菜・莼菜羹・鱸魚膾を思い、嘆じて言った。「人生は貴ぶべきは自分の心意に従うことのみ、富貴は何の役に立とう。」すぐに辞官して去った。顧栄は故意に酣飲し、府中の事務を理さず、長史葛旟はその職務を荒廃させたとして、司馬冏に報告して彼を中書侍郎に転任させた。潁川の隠士庾衮は、司馬冏が年を経ても上朝しないと聞き、嘆じて言った。「晋室は衰微した、禍乱が起こらんとしている。」妻子を率いて林慮山に逃れた。
王豹は司馬冏に手紙を送って言った。「私はひそかに思いますに、元康以来、宰相の位にある者は、一人として善終した者はありません。これは形勢がそうさせたのであって、必ずしも皆がその行いを悪くしたからではありません。今、あなたは禍乱を平定し国家を安定させましたが、またもや覆車の旧軌を踏もうとしておられます。長久の平安を望もうとしても、難しくはないでしょうか。今、河間王は関右に根を下ろし、成都王は旧魏の地に盤踞し、新野王は江・漢の間に大邑を封ぜられ、三王は血気剛強・勢力盛んな年に当たり、同時に兵馬を掌管し要害の地を占拠しております。而るに明公は賞し難き功を以て、主上を震動させる威勢を挟み、独り京都に拠り大権を専らにし、進めば『亢龍有悔』の象あり、退けば蒺藜の中に身を置くが如く、これによって安全を求めることは、私には福運を見ることができません。」そこで諸王侯をすべて封国に遣還し、周公・召公の制度に依り、成都王を北州伯とし、治所を鄴城とし、司馬冏自らを南州伯とし、治所を宛城とし、黄河を境として、それぞれ王侯を統領して天子を輔佐するよう請うた。司馬冏は優厚な詔令をもってこれに答えた。長沙王司馬乂は王豹の書を見て、司馬冏に言った。「この小僧は骨肉を離間しております。どうして銅駝街の下で撲殺しないのですか。」司馬冏はそこで上奏して王豹が朝内で讒言をなし朝外で離間をなして猜疑を生じさせ、不忠不義であるとし、鞭打ちにして殺した。王豹は死に臨んで言った。「私の首を大司馬府の門に懸けよ。私は軍が斉王を攻めるのを見よう。」
司馬冏は、河間王司馬顒が元々趙王司馬倫に従属していたことを理由に、心中常にこれを恨んでいた。梁州刺史で安定人の皇甫商は、司馬顒の長史李含と不和であった。李含は翊军校尉に召されたが、その時皇甫商は司馬冏の府で参軍事を務めており、夏侯奭の兄もまた司馬冏の府にいた。李含は心中安んじることができず、さらに司馬冏の右司馬趙驤と対立していたため、単身馬に乗って司馬顒のもとへ奔り、密詔を受けたと偽り、司馬顒に司馬冏を誅殺するよう命じたと称し、その機に乗じて司馬顒に勧めて言った。「成都王は至親であり、大功がありながら、譲り退いて藩国に帰り、大いに人心を得ています。斉王は親疎の関係を越えて専権し、朝廷の上下はみな目をそらしています。今、檄文を長沙王に送って斉王を討たせれば、斉王は必ず長沙王を殺すでしょう。我々はこれに乗じて、長沙王を殺したことを斉王の罪として討伐すれば、必ず捕らえることができます。斉王を除き、成都王を擁立し、逼上の脅威を除き、親藩を立てて社稷を安定させるのは、これこそ大功です。」司馬顒はこれに従った。この時、武帝の族弟である范陽王司馬虓が豫州諸軍事を都督していた。司馬顒は上表して司馬冏の罪状を述べ、さらに言った。「私は十万の軍隊を統率し、成都王司馬穎、新野王司馬歆、范陽王司馬虓と共に洛陽に会合し、長沙王司馬乂に請いて司馬冏を廃して府第に帰らせ、司馬穎に代わって司馬冏の輔政をさせようとしています。」司馬顒はそこで兵を起こし、李含を都督とし、張方らを率いて洛陽に向かわせ、また使者を派遣して司馬穎を招いた。司馬穎はこれに応じようとしたが、盧志が諫めたが、聞き入れなかった。
十二月丁卯の日、司馬顒の奏表が到着した。司馬冏は非常に恐れ、百官を集めて議し、言った。「私はまず義兵を興し、臣子の節操を尽くし、信義は神明に明らかである。今、二藩王が讒言を聞いて難を起こした、どうすべきか。」尚書令王戎が言った。「王の功勲は確かに大きいが、賞賜が労ある者に及んでいないため、人心に二心が生じている。今、二藩王の兵力は強盛で、当たることはできない。もし大王が退いて府第に帰り、権柄を譲り、謙譲を推し進めれば、あるいは平安を求めることができるかもしれない。」司馬冏の従事中郎葛旟が大いに怒って言った。「三台の大臣が、王事を恤れまない。賞賜の酬報が遅延しているのは、王府の責めではない。讒言叛逆は、誅殺討伐すべきである。どうして虚妄に偽書を受け入れ、慌てて大王を府第に退かせることができようか!漢・魏以来、王侯が府第に退いた者で、妻子を全うできた者がいるか?このようなことを言う者は殺すべきだ!」百官は震え上がり色を失い、王戎は薬性が発作したふりをして厠に落ち、かろうじて禍を免れた。
李含は陰盤に駐軍し、張方は二万の軍隊を率いて新安に駐屯し、檄文を長沙王司馬乂に送って司馬冏を討たせた。司馬冏は董艾を遣わして司馬乂を襲撃させた。司馬乂は左右の百余人を率いて馬を馳せて宮中に入り、諸門を閉ざし、天子を奉じて大司馬府を攻撃した。董艾は宮西に陣を敷き、火を放って千秋門・神武門を焼いた。司馬冏は人を遣わして驺虞幡を持たせ大声で叫ばせた。「長沙王は詔書を偽造している。」司馬乂もまた宣言した。「大司馬は謀反している。」その夜、城内で大戦となり、飛び交う矢は雨の如く、火光は天を衝いた。皇帝は上東門に臨御し、矢は御前にまで及んだ。群臣で死んだ者は互いに枕を重ねた。連日三日戦い、司馬冏の軍は大敗した。大司馬長史趙淵が何勖を殺し、その機に乗じて司馬冏を捕らえて降伏した。司馬冏は殿前に引き出された。皇帝は心中忍び難く、生かそうと思った。司馬乂は左右に命じ、急いで彼を引き出させ、閶闔門の外で斬首し、首級を六軍に巡示した。同党は皆三族を夷にされ、死んだ者は二千余人に上った。司馬冏の子の司馬超・司馬冰・司馬英を金墉城に囚え、司馬冏の弟の北海王司馬寔を廃した。大赦天下を行い、年号を改めた。李含らは司馬冏が死んだと聞き、軍を率いて長安に引き揚げた。
長沙王司馬乂は朝廷にあったが、事の大小を問わず、すべて鄴城に行って大将軍司馬穎に諮詢した。司馬穎は孫惠を参軍とし、陸雲を右司馬とした。
この年、陳留王曹奐が死去し、諡を魏元皇帝とされた。
鮮卑宇文単于莫圭の部衆は強盛で、その弟の屈雲を遣わして慕容廆を攻撃させた。慕容廆はその別部の首領素怒延を攻撃し、これを破った。素怒延はこれを恥とし、再び兵十万を発し、棘城で慕容廆を包囲した。慕容廆の部衆は皆非常に恐れたが、慕容廆は言った。「素怒延の兵は多いが法度がなく、すでに我が計略の中にある。諸君はただ奮戦せよ、何も憂えることはない!」そこで出兵して攻撃し、大いに敵軍を破り、百里を追撃し、俘獲・斬殺した者は数万に上った。遼東人の孟暉は、先に宇文部に陥落していたが、その部衆数千家を率いて慕容廆に降伏し、慕容廆は彼を建威将軍とした。慕容廆は、その臣の慕輿句が勤勉恭敬で廉潔沈静であるため、彼に府庫を掌管させた。慕輿句は心算・黙記に頼り、帳簿文書に依らず、ついに疏漏がなかった。慕輿河が聡明敏捷で精審細緻であるため、彼に刑獄訴訟を掌管させ、復審訊問は明白公允であった。
