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晉紀

晋紀九

第 9 篇

資治通鑑 第087巻

【晋紀九】 起屠維大荒落、尽重光協洽、凡三年。

春、正月、辛丑朔、火犯紫微。漢太史令宣于修之、漢主淵に言いて曰く、「三年を出でずして、必ず洛陽を克することを得ん。蒲子は崎嶇にして、久しく安んずるに堪えず。平陽は気象方に盛んなり。請う、都を彼に遷せ。」と。淵之に従う。大赦し、河瑞と改元す。

三月、戊申、高密孝王略卒す。尚書左僕射山簡を征南将軍・都督荊州湘州交州広州四州諸軍事と為し、襄陽に鎮す。簡は山濤の子なり。酒を嗜みて政事を顧みず。表して曰く、「順陽内史劉璠は民望を得たり。恐らくは百姓、璠を劫して主と為さん。」と。詔して璠を徴して越騎校尉と為す。南州は是に由り乱れ、父老、追慕して劉弘を思わざる者無し。

丁巳、太傅越、滎陽より京師に入る。中書監王敦、其の親しき者に謂いて曰く、「太傅威権を専らにす。而るに表を上りて官を除するに、尚書なお旧制を以て之を断ず。今、来たるや、必ず誅殺すること有らん。」と。帝初め皇太弟たりし時、中庶子繆播と親善す。即位に及び、播を中書監、胤を太僕卿と為し、以て心腹と為す。舅の散騎常侍王延・尚書何綏・太史令高堂沖、皆密謀に参ず。越、朝臣の己に二心あるを疑う。劉輿・潘滔、越に勧めて播等を悉く誅せしむ。越、乃ち播等の乱を作さんと欲するを誣う。乙丑、平東将軍王秉を遣わし、甲士三千人を率いて宮に入らしめ、帝側に於いて播等十余人を収め、廷尉に付して之を殺す。帝、嘆息流涕するのみ。綏、何曾の孫なり。初め、曾、武帝の宴に侍す。退きて諸子に謂いて曰く、「主上、大業を創建す。吾、毎に宴見するに、未だ嘗て経国の遠謀を聞かず。唯だ平生の常事を説くのみ。是れ孫謀を遺すの道に非ず。身のみを顧みるのみ。其の祚、後世に延びる無からん。汝曹猶お免るるを得んか。」と。指して諸孫に曰く、「此の輩必ず乱に遭わん。」と。綏の死するに及び、兄嵩、哭して曰く、「我が祖、其れ聖に幾からんか。」と。曾、日食万銭にして、猶お箸を下ろす所無しと為す。子劭、日食二万銭。綏及び弟機・羨、侈汰尤甚し。人と書疏するに、辞礼簡傲なり。河内王尼、綏の書を見て、人に謂いて曰く、「伯蔚、乱世に処して而も驕矜する乃爾。其れ能く免るるか。」と。人曰く、「伯蔚、卿の言を聞かば、必ず卿を害せん。」と。尼曰く、「伯蔚の我が言を聞かん時、自ずから已に死せん。」と。永嘉の末、何氏、遺種無し。

臣光曰く、何曾、晋武の苟且偷安、目前を顧みて遠慮無きを譏る。天下将に乱れんことを知りて、子孫必ず其の患に遭うと為す。豈に明ならずや。然れども身、僭侈を為し、子孫其の風を襲う。卒に驕奢を以て族滅す。其の明、安くに在る。且つ宰相と為り、君の過を知りて、君に諫めずして私家に語る。忠臣の為す所に非ず。

太傅越、王敦を揚州刺史と為す。

劉寔、年を連ねて老を請うて休む。朝廷許さず。尚書左丞劉坦、上言す、「古の之を養うや、之を事に勤めざるを以て憂いと為し、之を官に任ずるを以て貴しと為さず。宜しく寔の所守を全うせしむべし。」と。丁卯、詔して寔をして侯に就きて第に帰らしむ。王衍を太尉と為す。

太傅越、兗州牧を解き、司徒を領す。越、頃者の変の多き、殿中尚書省に由りて起るを以て、乃ち奏して侯有るの宿衛を悉く罷めよとす。時に殿中の武官、皆侯に封ぜられたり。是に由りて出でしむる者、幾んど尽く空しうし、皆泣きて去る。更に右衛将軍何倫・左衛将軍王秉をして東海国の兵数百人を率い宿衛せしむ。

左積弩将軍朱誕、漢に奔り、具に洛陽孤弱の状を陳じ、漢主淵に勧めて之を攻めしむ。淵、誕を前鋒都督と為し、滅晋大将軍劉景を大都督と為し、兵を率いて黎陽を攻め、之を克く。又た王堪を延津に破り、男女三万人余りを河に沈む。淵聞きて怒りて曰く、「景、何の面ありてか復た朕に見えん。且つ天道、之を容るることを得んや。吾が欲する所の者は、司馬氏のみ。百姓に何の罪か有らん。」と。景を貶じて平虜将軍と為す。

夏、大旱す。江・漢・河・洛、皆渇して徒渉す可し。

漢、安東大将軍石勒、巨鹿・常山を寇す。衆十余万。士人を集め、別に君子営を立て、趙郡張賓を謀主と為し、刁膺を股肱と為し、夔安・孔萇・支雄・桃豹・逯明を爪牙と為す。并州の諸胡・羯、多く之に帰す。

初め、張賓、書を好み、闊達にして大志有り。常に自らを張子房に比す。及び勒の山东を徇るに及び、賓、其の親しき者に謂いて曰く、「吾、歴観諸将、此の胡将に比ぶる者無し。与に共に大事を成す可し。」と。乃ち剣を提げて軍門に詣り、大呼して見を請う。勒も亦た奇と為さず。賓、数、策を勒に進む。已にして皆其の言の如し。勒是に由りて之を奇と為し、軍功曹と為し、動静に咨す。

漢主淵、王弥を侍中・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事・征東大将軍・青州牧と為し、楚王聡と共に壷関を攻め、石勒を前鋒都督と為す。劉琨、護軍黄粛・韓述を遣わして壷関を救わしむ。聡、西澗に於いて述を破り、勒、封田に於いて粛を破り、皆之を殺す。太傅越、淮南内史王旷・将軍施融・曹超を遣わし、兵を率いて聡等を禦ぐ。旷、河を済み、長駆せんと欲す。融曰く、「彼は険に乗じて我に間を出だす。我、数万の衆有りと雖も、猶お一軍独り当たらるるが若し。且つ暫く河水を阻みて固守し、勢を量りて後、図る可し。」と。旷怒りて曰く、「君、衆心を沮まんと欲するか。」と。融退きて曰く、「彼は兵を用ゆるに善し。旷、事勢を暁らず。吾が輩、今日死せん。」と。旷等、太山を踰えて聡と遇い、長平の間に戦う。旷兵大敗し、融・超皆戦死す。

聡、遂に屯留・長子を破り、首級一万九千を斬獲す。上党太守龐淳、壷関を以て漢に降る。琨、都尉張倚を以て上党太守を領せしめ、襄垣に拠る。

初め、匈奴劉猛の死するや、右賢王去卑の子誥升爰、其の衆を代領す。誥升爰卒し、子虎立ち、新興に居る。号して鐵弗氏と謂い、白部鮮卑と皆漢に附く。琨、自ら兵を率いて虎を攻む。聡、兵を遣わして晋陽を襲う。克くする能わず。

五月、漢主淵、子裕を斉王と為し、隆を魯王と為す。

秋、八月、漢主淵、楚王聡等に命じて洛陽を攻む。詔して平北将軍曹武等をして之を禦がしむ。皆聡に敗る。聡、長駆して宜陽に至る。自ら屡勝を恃み、懈りて備えず。九月、弘農太守垣延、偽りて降る。夜、聡軍を襲い、聡大敗して還る。

王浚、祁弘と鮮卑段務勿塵とを遣わし、飛龍山に於いて石勒を撃つ。勒大破せらる。勒、黎陽に退屯す。

冬季、十月、漢の主劉淵は再び楚王劉聡、王弥、始安王劉曜、汝陰王劉景に精鋭騎兵五万を率いて洛陽を侵させ、大司空の雁門剛穆公呼延翼に歩兵を率いてこれに続かせた。丙辰の日、劉聡らは宜陽に到着した。朝廷は漢軍が先ごろ敗れたばかりで、再び来るとは予想しておらず、大いに恐れた。辛酉の日、劉聡は西明門に駐屯した。北宮純らは夜間に勇士千余人を率いて城を出て漢軍の営塁を攻撃し、その征虜将軍呼延顥を斬った。壬戌の日、劉聡は南に移って洛水に駐屯した。乙丑の日、呼延翼はその部下に殺され、その部衆は大陽から潰走して帰還した。劉淵は劉聡らに軍を返すよう命じた。劉聡は上表して晋軍の兵力は微弱であり、呼延翼・呼延顥が戦死したという理由で帰還することはできないと述べ、固く留まって洛陽を攻めることを請い、劉淵はこれを許した。太傅司馬越は城を巡って固く守った。戊寅の日、劉聡は自ら嵩山に赴いて祈祷し、平晋将軍安陽哀王劉厲、冠軍将軍呼延朗を留めて留守の軍隊を督管させた。太傅参軍孫詢は司馬越に隙に乗じて呼延朗を出撃するよう勧め、これを斬り、劉厲は水に投身して死んだ。王弥は劉聡に言った「今、軍は既に利を失い、洛陽の守備はなお堅く、運粮の車は陝県にあり、食糧は数日も支えられない。殿下は龍驤将軍と共に平陽に帰り、食糧を備え、士卒を徴発し、後続の行動を為すが良い。下官もまた兵馬・糧穀を収集し、兗州・豫州にて命を待つ。これもまた良からんか」。劉聡は自ら留まることを請うたため、帰還することを敢えてしなかった。宣于修之は劉淵に言った「歳星は辛未の年にあり、初めて洛陽を得るでしょう。今、晋の気運はなお盛んであり、大軍を帰さなければ、必ず敗れます」。劉淵はそこで劉聡らを召し帰した。

天水の人訇琦らは成国の太尉李離、尚書令閻式を殺し、梓潼を献じて羅尚に降った。成国の君主李雄は太傅李驤、司徒李雲、司空李璜を派遣してこれを攻めたが、攻略できず、李雲・李璜は戦死した。

初め、譙周には子がいて巴西に住んでいた。成国の巴西太守馬脱がこれを殺したため、その子譙登は劉弘のところへ行き、軍を請うて仇を報じようとした。劉弘は上表して譙登を梓潼内史とし、自ら巴・蜀の流民を募らせて二千人を得た。西に向かって進み、巴郡に至り、羅尚に兵の増援を請うたが、得られなかった。譙登は宕渠を攻め、馬脱を斬り、その肝を食べた。ちょうど梓潼が降伏したため、譙登は進軍して涪城を占拠した。李雄が自らこれを攻めたが、譙登に敗れた。

十一月、甲申の日、漢の楚王劉聡、始安王劉曜は平陽に帰った。王弥は南に出て轘轅関を越え、潁川・襄城・汝南・南陽・河南の流民は数万家にのぼり、常に地元の住民に苦しめられていたため、皆城邑を焼き払い、二千石・長吏を殺して王弥に応じた。石勒は信都を侵し、冀州刺史王斌を殺した。王浚は自ら冀州刺史を兼ねた。詔して車騎将軍王堪、北中郎将裴憲に兵を率いて石勒を討伐させ、石勒は兵を返してこれを防いだ。魏郡太守劉矩は郡城を献じて石勒に降った。石勒は黎陽に至り、裴憲は軍を棄てて淮南に奔り、王堪は兵を退いて倉垣を守った。

十二月、漢の主劉淵は陳留王劉歓楽を太傅とし、楚王劉聡を大司徒とし、江都王劉延年を大司空とした。都護大将軍曲陽王劉賢と征北大将軍劉霊、安北将軍趙固、平北将軍王桑を派遣し、東に進んで内黄に駐屯させた。王弥は上表して左長史曹嶷を仮の安東将軍とし、東に進んで青州を攻略し、かつその家族を迎え入れることを請い、劉淵はこれを許した。

初め、東夷校尉勃海の人李臻は、王浚とともに晋室を輔佐することを約束していたが、王浚は内心に異志を抱き、李臻はこれを恨んだ。和演が死んだ後、別駕昌黎の人王誕は逃亡して李臻に帰服し、李臻に兵を起こして王浚を討伐するよう勧めた。李臻はその子李成に兵を率いて王浚を攻めさせた。遼東太守龐本は、常に李臻と隙があり、隙に乗じて襲撃して李臻を殺し、さらに人を派遣して無慮で李成を殺した。王誕は逃亡して慕容廆に帰服した。詔して勃海の人封釈を以て李臻に代えて東夷校尉とし、龐本はまたもこれを殺そうと謀った。封釈の子封悛は封釈に伏兵を設けて龐本を招き、これを捕らえて斬り、その家族を誅滅するよう勧めた。

春、正月、乙丑朔の日、天下に大赦を行った。

漢の主劉淵は単征の女を皇后とし、梁王劉和を皇太子とし、天下に大赦を行った。子の劉義を北海王とし、長楽王劉洋を大司馬とした。

漢の鎮東大将軍石勒は黄河を渡り、白馬を攻略し、王弥は三万人を率いてこれと合流し、共に徐州・豫州・兗州を侵した。二月、石勒は鄄城を襲撃し、兗州刺史袁孚を殺し、すぐに倉垣を攻略し、王堪を殺した。また北に黄河を渡り、冀州の諸郡を攻め、これに従う百姓は九万余人にのぼった。

成国の太尉李国は巴西を鎮守しており、帳下の者文石が李国を殺し、巴西を献じて羅尚に降った。

太傅司馬越は建威将軍呉興の人銭㻅と揚州刺史王敦を召した。銭㻅は王敦を殺して叛こうと謀り、王敦は建業に逃げ、琅邪王司馬睿に報告した。銭㻅は遂に叛き、進軍して陽羨を犯した。司馬睿は将軍郭逸らを派遣してこれを討たせた。周玘は同郷の者を集め、郭逸らと共に銭㻅を討ち、これを斬った。周玘は三度江南を平定し、司馬睿は周玘を呉興太守とし、その郷里に義興郡を置いてこれを顕彰した。

曹嶷は大梁から兵を率いて東進し、至る所を攻略し、遂に東平を攻略し、さらに進んで琅邪を攻めた。

夏、四月、王浚の部将祁弘は広宗で漢の冀州刺史劉霊を破り、これを殺した。

成主李雄はその部将張宝に言った「汝がもし梓潼を攻略できるならば、私は李離の官職を汝に与えよう」。張宝はそこで先ず人を殺して逃亡し、梓潼に奔った。訇琦らはこれを信頼し、腹心とした。ちょうど羅尚が使者を梓潼に派遣したため、訇琦らは城を出て使者を見送った。張宝は後ろから城門を閉じ、訇琦らは巴西に奔った。李雄は張宝を太尉とした。

幽州・并州・司州・冀州・秦州・雍州の六州で大いに蝗害が発生し、蝗は草木や牛馬の毛を食い尽くした。

秋、七月、漢の楚王劉聡、始安王劉曜、石勒、および安北大将軍趙国は懐県で河内太守裴整を包囲した。詔して征虜将軍宋抽に懐県を救援させた。石勒は平北大将軍王桑と共に宋抽を迎撃し、これを殺した。河内の人々は裴整を捕らえて降伏し、漢の主劉淵は裴整を尚書左丞とした。河内の督将郭默は裴整の残余の部衆を収集し、自ら塢主と称し、劉琨は郭默を河内太守とした。羅尚は巴郡で死去し、詔して長沙太守下邳の人皮素を以てその職を継がせた。

庚午(誤りか)、漢主・劉淵、病重し、辛未(誤りか)、陳留王・劉歓楽を太宰とし、長楽王・劉洋を太傅とし、江都王・劉延年を太保とし、楚王・劉聡を大司馬・大単于とし、併せて尚書事務を総領せしむ。平陽の西に単于台を置く。斉王・劉裕を大司徒とし、魯王・劉隆を尚書令とし、北海王・劉乂を撫軍大将軍・司隷校尉兼領とし、始安王・劉曜を征討大都督・単于左輔兼領とし、廷尉・喬智明を冠軍大将軍・単于右輔兼領とし、光禄大夫・劉殷を左僕射とし、王育を右僕射とし、任𫖮を吏部尚書とし、朱紀を中書監とし、護軍・馬景を左衛将軍兼領とし、永安王・劉安国を右衛将軍兼領とし、安昌王・劉盛、安邑王・劉飲、西陽王・劉璇を皆武衛将軍兼領とし、それぞれ禁軍を掌らしむ。初め、劉盛、年少の時、書を好まず、ただ『孝経』『論語』を読むのみにして、曰く「これを誦して能く行に従えば、即ち足れり。何ぞ多く読むも能く行わざらんや!」と。李熹、之を見て、嘆じて曰く「遠く望めば軽んず可きの若く、及び近づけば、厳として君の如し、是を君子と謂う可し!」と。劉淵、其の忠篤なるを以て、故に臨終に当たりて要務を託す。丁丑(誤りか)、劉淵、太宰・劉歓楽等を召し入れて宮中に入らしめ、遺詔を受けて朝政を輔佐す。己卯(誤りか)、劉淵、薨ず。太子・劉和、位に即く。

劉和、性猜忌にして、恩徳無し。宗正・呼延攸は、呼延翼の子なり。劉淵、其の才能品行無きを以て、終身官を進めず。侍中・劉乗は、素より楚王・劉聡を悪む。衛尉・西昌王・劉鋭は、顧命に与らざるを恥ず。是に於いて、共に謀り、劉和に説きて曰く「先帝、軽重の勢を慮らず、三王をして内に強兵を統べしめ、大司馬十万の衆を擁して近郊に駐す。陛下は乃ち寄居の座に過ぎず。早く当に図るべきなり」と。劉和は、呼延攸の甥なり。深く其の言を信ず。辛巳(誤りか)の夜、安昌王・劉盛、安邑王・劉欽等を召して之に告ぐ。劉盛曰く「先帝の梓宮未だ殡宮に在り、四王、叛逆の迹無し。一旦自ら相殺戮せば、天下何を以て陛下を評せん!且つ大業始めて創まる。陛下、讒佞の小人を聴きて兄弟を疑うこと勿れ。兄弟尚お信ずべからず、他人誰をか信ず可けん!」と。呼延攸、劉鋭、怒りて曰く「今日の議、理に二無し。領軍将軍の言、是れ何の語ぞ!」と。左右に命じて刀を以て劉盛を殺さしむ。劉盛死し、劉欽、懼れて曰く「惟だ陛下の命に従う!」と。壬午(誤りか)、劉鋭、馬景を率いて単于台に於いて楚王・劉聡を攻め、呼延攸、永安王・劉安国を率いて司徒府に於いて斉王・劉裕を攻め、劉乗、安邑王・劉飲を率いて魯王・劉隆を攻め、尚書・田密、武衛将軍・劉璇を遣わして北海王・劉乂を攻む。田密、劉璇、劉乂を挟みて関を斬り、奔りて劉聡に帰す。劉聡、兵に命じて甲冑を着け之を待たしむ。劉鋭、劉聡已に備え有るを知り、速やかに還り、呼延攸、劉乗と共に劉隆、劉裕を攻む。呼延攸、劉乗、劉安国、劉欽に異心有りと疑い、之を殺す。是の日、劉裕を斬る。癸未(誤りか)、劉隆を斬る。甲申(誤りか)、劉聡、西明門を攻め、之を克つ。劉鋭等、南宮に逃れ入る。前鋒、随いて進む。乙酉(誤りか)、光極殿西室に於いて劉和を殺し、劉鋭、呼延攸、劉乗を捕え、通衢に於いて斬首して示す。

群臣、劉聡に請いて帝位に登らんとす。劉聡、北海王・劉乂は、単皇后の子なりと以て、位を之に譲らんとす。劉乂、涙を流して固く辞す。劉聡、久しくして乃ち許し、曰く「劉乂及び諸公、正に禍難尚お多きを以て、我が年長なるを貪るのみ。是れ家国の大事なり。我、敢えて辞せんや!劉乂の長ずるを俟ちて、大業を之に帰さん」と。乃ち位に即く。大赦し、改元して光興と為す。単氏を尊んで皇太后と為し、其の母・張氏を帝太后と為す。劉乂を皇太弟・大単于・大司徒兼領と為す。其の妻・呼延氏を立てて皇后と為す。呼延氏は、劉淵皇后の従妹なり。其の子・劉粲を河内王と為し、劉易を河間王と為し、劉翼を彭城王と為し、劉悝を高平王と為す。仍りて劉粲を撫軍大将軍・都督中外諸軍事と為す。石勒を并州刺史と為し、汲郡公に封ず。

略陽臨渭の氐酋・蒲洪、驍勇にして権略多し。氐人、畏服す。漢主・劉聡、使者を遣わして蒲洪を平遠将軍と為さんとす。蒲洪、受けず、自ら護氐校尉・秦州刺史・略陽公と称す。九月、辛未(誤りか)、漢主・劉淵を永光陵に葬る。諡して光文皇帝と曰い、廟号を高祖と為す。

雍州の流民、多くは南陽に在り。詔して郷里に還るを下す。流民、関中荒廃し残破せるを以て、皆還るを願わず。征南将軍・山簡、南中郎将・杜蕤、各々兵を遣わして送り、期日を限りて発せしむ。京兆の人・王如、是に於いて密かに壮士を結び、夜を以て二軍を襲い、之を破る。是に於いて馮翊の人・厳嶷、京兆の人・侯脱、各々衆を聚めて城鎮を攻め、令長を殺して之に応ず。未だ幾ばくもあらずして、衆四、五万に至る。王如、自ら大将軍・司・雍二州牧と称し、漢に称藩す。

冬、十月、漢の河内王・劉粲、始安王・劉曜及び王弥、衆四万を率いて洛陽を寇す。石勒、騎二万を率いて大陽に於いて劉粲と会し、渑池に於いて監軍・裴邈を撃破し、因りて長駆して洛川に入る。劉粲、軒轅関に出で、梁・陳・汝・穎の間に掠む。石勒、成皐関に出づ。壬寅(誤りか)、倉垣に於いて陳留太守・王賛を囲む。王賛に敗られ、兵を退き文石津に駐まる。

劉琨、自ら兵を率いて劉虎及び白部を討つ。使者を遣わし、卑辞厚礼を以て鮮卑・拓跋猗盧に説き、出兵を請う。猗盧、其の弟・弗の子・郁律を遣わし、騎二万を率いて之を援く。因りて劉虎、白部を撃破し、其の営を屠る。劉琨、猗盧と結んで兄弟と為す。表を上りて猗盧を大単于と為し、代郡を以て之に封じて代公と為す。当時、代郡は幽州に属す。王浚、許さず。兵を遣わして猗盧を攻む。猗盧、拒戦して之を破る。王浚、是に由りて劉琨と隙有り。

猗盧、封邑本国に遠く、百姓相連接せざるを以て、乃ち部落一万余戸を率いて雲中より雁門に入る。劉琨に陘北の地を請う。劉琨、之を制御する能わず、且つ之に頼りて援助と為さんと欲す。乃ち楼煩・馬邑・陰館・繁畤・崞の五県の民を陘南に徙し、其の地を猗盧に与う。是に由りて猗盧、益々強盛と為る。

劉琨、使者を遣わして太傅・司馬越に言上し、兵を出して共に劉聡、石勒を討たんことを請う。司馬越、苟晞及び豫州刺史・馮嵩を忌み、其の後患と為るを恐れ、聴さず。劉琨、乃ち猗盧の軍を辞謝し、之をして国に還らしむ。

劉虎、余衆を収集し、西のかた黄河を渡り、朔方の肆盧川に居る。漢主・劉聡、劉虎は宗室なるを以て、楼煩公に封ず。

壬子(誤りか)、劉琨を平北大将軍と為し、王浚を司空と為し、鮮卑・段務勿塵を進めて大単于と為す。

京師の飢饉と困窮は日ごとに深刻となり、太傅司馬越は使者を遣わして緊急の文書で天下の兵馬を徴発し、京師への救援を命じた。皇帝は使者に告げて言った。「我に代わって各地の征鎮将軍に伝えよ。今ならまだ救えるが、遅れれば間に合わなくなるぞ。」しかし、ついに援軍は到着しなかった。征南将軍山簡は督護王万に兵を率いて援軍に向かわせ、涅陽に駐屯させたが、王如に敗れた。王如はここに沔水・漢水一帯を大いに掠奪し、襄陽に迫ったため、山簡は城を囲んで防戦した。荊州刺史王澄は自ら軍を率いて京師を救おうとし、沶口に至ったが、山簡が敗れたと聞き、軍勢は潰散して引き返した。朝廷の議論では多くが遷都して難を避けようとしたが、王衍はそれが不可だと考え、車や牛を売り払って人心を安定させた。山簡は厳嶷に迫られ、襄陽から夏口に移駐した。

石勒は兵を率いて黄河を渡り、まさに南陽に向かおうとしていた。王如、侯脱、厳嶷らはこれを聞き、一万人を襄城に駐屯させて石勒を防いだ。石勒は彼らを攻撃し、その部衆をことごとく捕虜とし、軍を進めて宛城の北に駐屯した。この時、侯脱は宛城を占拠し、王如は穣城を占拠していた。王如はかねてより侯脱と仲が悪く、使者を遣わして厚い礼物で石勒に賄賂を贈り、兄弟の契りを結び、石勒に侯脱を攻撃するよう勧めた。石勒は宛城を攻めて陥落させた。厳嶷は兵を率いて宛城を救援しようとしたが、間に合わずに降伏した。石勒は侯脱を斬り、厳嶷を捕らえて平陽に送り、その部衆をことごとく併合した。ここにおいて南方の襄陽に侵攻し、江西の三十余りの砦を攻め落とした。軍を返して襄城に向かうと、王如は弟の王璃を遣わして石勒を襲撃させた。石勒は迎え撃って王璃を滅ぼし、再び江西に駐屯した。

太傅司馬越は王延らを殺した後、大いに人望を失った。また胡人の寇盗がますます盛んになり、内心不安を抱き、ついに軍服を着て宮中に入り謁見し、石勒を征討し、併せて兗州・豫州を鎮守・慰撫するよう請願した。皇帝は言った。「今や胡虜が京郊に迫り、人人に守る意志はなく、朝廷社稷はあなたに頼って支えられている。どうして遠出して根本を孤立させることができようか。」司馬越は答えて言った。「臣が外に出て、幸いにも賊を破ることができれば、国威は再び振るいましょう。座して困窮を待つよりはましでございます。」十一月、甲戌の日、司馬越は四万の甲士を率いて許昌に向かい、妃の裴氏、世子の司馬毗、および竜驤将軍李惲、右衛将軍何倫を残して京師を守らせ、宮省を監視・防衛させた。潘滔を河南尹とし、留守の事務を総管させた。司馬越は上表して行台を随行させるよう請い、太尉王衍を軍司とし、朝廷の賢士で素より声望ある者をすべて輔佐の官吏とし、名将・精兵をすべてその府中に収めた。ここにおいて宮省には守備がなくなり、飢饉は日ごとに深刻となり、殿内には死者が交錯して横たわり、盗賊は公然と横行し、府寺・営署はすべて堀を巡らせて各自守備した。司馬越は東方の項城に駐屯し、馮嵩を左司馬とし、自ら豫州牧を兼ねた。

竟陵王司馬楙は皇帝に禀告し、兵を遣わして何倫を襲撃させようとしたが、成功しなかった。皇帝は罪を司馬楙に帰し、司馬楙は逃げて死を免れた。

揚州都督周馥は洛陽が孤立し危険であるため、上書して寿春への遷都を請うた。太傅司馬越は周馥が先に自分に禀告せずに直接上書したことに怒り、周馥および淮南太守裴碩を召喚した。周馥は赴こうとせず、裴碩に兵を率いて先に行くよう命じた。裴碩は司馬越の密旨を受けたと偽り、周馥を襲撃したが、周馥に敗れ、東城に退いて守った。

詔により張軌を鎮西将軍・都督隴右諸軍事に加えた。光禄大夫傅祗、太常摯虞は張軌に書簡を送り、京師の飢饉と欠乏を知らせた。張軌は参軍杜勳を遣わし、五百頭の馬と三万匹の毯布を献上させた。

成国の太傅李驤は涪城で譙登を攻撃していた。羅尚の子の羅宇および参佐はかねてより譙登を嫌い、彼に食糧を与えなかった。益州刺史皮素は怒り、彼らを罪に問おうとした。十二月、皮素が巴郡に到着すると、羅宇らは人を遣わして夜間に皮素を殺害した。建平都尉暴重は羅宇を殺し、巴郡は大いに乱れた。李驤は譙登の食糧が尽き援軍が絶えたことを知り、涪城を攻めるのをいっそう厳しくした。城中の士民はみな鼠を燻して食べ、餓死者は多かったが、叛く者は一人もいなかった。李驤の子の李寿はもと譙登の許におり、譙登はここに李寿を返還した。三府の官属は上表して巴東監軍南陽人の韓松を益州刺史とし、治所を巴東に置くことを請うた。

当初、皇帝は王弥、石勒が京畿に迫っているため、詔して苟晞に州郡を督率して彼らを討伐させた。ちょうど曹嶷が琅邪を破り、北方の斉地を収め、兵勢は非常に盛んで、荀純は城を閉ざして自守した。苟晞は軍を返して青州を救援し、曹嶷と連戦してこれを破った。

この年、寧州刺史王遜が任に就き、上表して李釗を朱提太守とすることを請うた。当時、寧州は外に成国の逼迫を受け、内に夷人の寇盗があり、城邑は廃墟と化していた。王遜は粗衣を着て粗食を食べ、流散した人々を招集し、慰労・慰撫することに疲れを知らず、数年を経て州境は安定を取り戻した。法を守らぬ豪強十余家を誅殺し、五苓夷がかつて乱の首謀者であったため、これを攻撃して滅ぼし、内外ともに震え懼れ服従した。

漢主劉聡は自らが次序を越えて立ったと思い、その嫡兄の劉恭を憎み、劉恭が寝ている隙に壁に穴を掘って刺殺した。

漢の太后単氏が死去し、漢主劉聡は母の張氏を皇太后と尊んだ。単氏は若くして美しく、劉聡は彼女と私通した。太弟劉乂はたびたび進言したため、単氏は恥じて憤慨し死んだ。劉乂の寵信はこれにより次第に衰えたが、単氏の故により、まだ廃されることはなかった。呼延皇后は劉聡に言った。「父が死に子が継ぐのは、古今の常道でございます。陛下は高祖の基業を継承されましたが、太弟は何ものでございましょうか。陛下の百年の後、劉粲兄弟には必ず後が絶えましょう。」劉聡は言った。「そのとおりだ。私はゆっくり考えるべきだろう。」呼延氏は言った。「事は長引けば変事が生じます。太弟は劉粲兄弟が次第に成長するのを見て、必ず不安の心を持つでしょう。万一、小人が間に割り込んで離間すれば、今日にも禍を起こさぬとは限りません。」劉聡は心の中でその言を正しいと思った。劉乂の舅である光禄大夫単沖は泣いて劉乂に言った。「疎遠な者は親しい者を離間できませぬ。主上は河内王劉粲に意図を持たれております。殿下はどうして避けられないのでしょうか。」劉乂は言った。「河瑞の末年、主上自ら嫡庶の分を考え、大位を劉乂に譲ろうとされた。劉乂は主上が年長であるため、推し奉ったのだ。天下は高祖の天下であり、兄が死に弟が継ぐのは、どうして不可であろうか。劉粲兄弟はすでに成長し、今と同じである。それに子弟の間で、親疎にどれほどの差があろうか。主上にどうしてそのような意思があろうか。」

春季、正月、壬申の日、苟晞は曹嶷に敗れ、城を棄てて高平に逃れた。

石勒は江・漢に拠ることを謀ったが、参軍都尉張賓はそれが不可だと考えた。ちょうど軍中に飢饉と疫病が起こり、死者が半数を超えたため、沔水を渡り、江夏を侵犯した。癸酉の日、江夏を攻め落とした。

乙亥の日、成国の太傅李驤は涪城を陥落させ、譙登を捕らえた。太保李始は巴西を陥落させ、文石を殺した。ここにおいて成主李雄は大赦し、年号を玉衡と改めた。譙登は成都に送られた。李雄は彼を赦そうとしたが、譙登は言辞節を屈せず、李雄は彼を殺した。

巴蜀の流民は荊州・湘州の間に分布し、たびたび当地の士民に侵害・困窮されていた。蜀人の李驤は衆を集めて楽郷に拠って反乱を起こし、南平太守応詹は醴陵令杜苾と共にこれを撃破した。王澄は成都内史王机を遣わして李驤を討伐させた。李驤は降伏を請うたが、王澄は偽って許し、襲撃して殺した。その妻子を賞与とし、八千人余りを江に沈めたため、流民はますます怨恨・憤怒した。蜀人の杜疇らはまた反乱を起こし、湘州参軍馮素は蜀人の汝班と仲が悪く、刺史荀眺に言った。「巴・蜀の流民は皆、反乱を謀っております。」荀眺はこの言葉を信じ、流民を皆殺しにしようとした。流民は非常に恐れ、四五万家が同時に反乱し、杜苾が州里に素より声望があるため、共同で彼を首領に推戴した。杜苾は自ら梁・益二州牧と称し、湘州刺史を兼ねた。

裴碩は琅邪王司馬睿に救援を求めた。司馬睿は揚威将軍甘卓らを遣わして寿春に至り周馥を攻撃させた。周馥の部衆は潰散し、項城に逃れた。豫州都督新蔡王司馬確は彼を捕らえ、周馥は憂憤のうちに死んだ。司馬確は司馬騰の子である。

揚州刺史の劉陶が死去した。琅邪王司馬睿は再び安東軍諮祭酒の王敦を揚州刺史とし、まもなく都督征討諸軍事を加えた。

庚辰の日、平原王司馬干が死去した。

二月、石勒は新蔡を攻め、南頓で新蔡荘王司馬確を殺害した。進軍して許昌を攻略し、平東将軍の王康を殺した。

氐人の苻成と隗文が再び反乱し、宜都から巴東へ向かった。建平都尉の暴重がこれを討伐した。暴重はこの機に乗じて韓松を殺し、自ら三府の事務を兼管した。

東海孝献王司馬越は既に苟晞と確執があり、河南尹の潘滔や尚書の劉望らがまたこれに従い誣告した。苟晞は怒り、上表して潘滔らの首級を求め、「司馬元超は宰相として公平を欠き、天下を混乱させている。苟道将がどうして不義をもって我を駆り立てることができようか」と宣言した。そこで各州に檄文を発し、自らの功績を称え、司馬越の罪状を述べた。皇帝も司馬越の専権を憎み、しばしば詔命に背いた。残された将士の何倫らは公卿を略奪し、公主を逼迫侮辱した。皇帝は密かに苟晞に手詔を賜り、司馬越を討伐させた。苟晞はたびたび皇帝と文書を往復させたため、司馬越は疑い、成皋一帯に遊騎を派遣して偵察させ、果たして苟晞の使者と詔書を捕らえた。そこで檄文を発して苟晞の罪状を糾明し、従事中郎の楊瑁を兗州刺史とし、徐州刺史の裴盾と共に苟晞を討伐させた。苟晞は騎兵を派遣して潘滔を捕らえようとしたが、潘滔は夜に逃走して難を免れた。尚書の劉曾と侍中の程延を捕らえ、斬殺した。司馬越は憂憤のあまり病に倒れ、後事を王衍に託した。三月、丙子の日、項城で死去したが、喪を秘した。人々は共に王衍を元帥に推挙したが、王衍は敢えて受けようとしなかった。襄陽王司馬範に譲ろうとしたが、司馬範も受けなかった。司馬範は司馬瑋の子である。そこで王衍らは共に司馬越の霊柩を東海に送り埋葬しようとした。何倫や李惲らは司馬越の死去を聞き、裴妃と世子の司馬毗を護送して洛陽から東方へ逃走し、城中の士民は争ってこれに従った。皇帝は司馬越を追って県王に貶め、苟晞を大将軍・大都督とし、都督青・徐・兗・豫・荊・揚六州諸軍事とした。

益州の将吏は共に暴重を殺し、上表して巴郡太守の張羅に三府の事務を兼管させるよう求めた。張羅は隗文らと戦い、戦死した。隗文らは吏民を駆り略奪し、西方の成国に降った。三府の文武は共に上表して、平西司馬の蜀郡人王異に三府の事務を兼管させ、巴郡太守を兼任させるよう求めた。

当初、梁州刺史の張光は魏興で各郡太守を集め、共に進取の策を議した。張燕が言を発して「漢中は荒廃しており、また大敵に隣接している。収復の事は、英雄豪傑を待つべきである」と言った。張光は張燕が鄧定の賄賂を受け、漢中の陥落を招いたとし、今また衆人を阻もうとしているため、叱りつけて引き出し斬首した。その後、軍を整え進兵して戦い、多年を経てようやく漢中に至り、百姓を慰撫し、生産を回復させたため、民は心から従った。

夏、四月、石勒は軽騎を率いて太傅司馬越の霊柩を追い、苦県の寧平城で追いつき、晋軍を大破し、馬を駆って包囲し射殺した。将士十余万人は互いに踏みつけられ山のようになり、一人も生き残る者はなかった。石勒は太尉王衍、襄陽王司馬範、任城王司馬済、武陵荘王司馬澹、西河王司馬喜、梁懐王司馬禧、斉王司馬超、吏部尚書劉望、廷尉諸葛銓、豫州刺史劉喬、太傅長史庾金全らを捕らえ、帳の下に座らせ、晋朝の状況を尋ねた。王衍は禍乱失敗の原因を詳しく述べ、計策は自分から出たものではないと主張した。また自ら若い頃から官職を望まず、世間の事に関与しなかったと述べ、石勒に帝位に就くよう勧め、これによって死を免れようとした。石勒は「あなたは若くして朝廷に出仕し、名声は四海に知られ、重責を担っていた。どうして官職を望まなかったと言えるのか。天下を壊したのは、あなた以外の誰でもない」と言い、左右に命じて彼を連れ出させた。人々は死を恐れ、多くは自ら弁明した。ただ襄陽王司馬範だけは神色荘重であり、振り返って彼らを叱り「今日の事、どうしてまたこうもわずらわしく言う必要があるのか」と言った。石勒は孔苌に「私は天下を巡って、このような人物を見たことがない。彼らを留めておくべきだろうか」と言った。孔苌は「彼らは皆晋の王公であり、結局は我らのために用いられることはないでしょう」と言った。石勒は「そうではあるが、剣をもって害を加えるわけにはいかない」と言った。夜になり、人に命じて壁を倒して彼らを圧殺させた。司馬済は宣帝の弟景王司馬陵の子であり、司馬禧は司馬澹の子である。石勒は司馬越の棺を割り、その屍を焼き、「天下を乱したのはこの者だ。私は天下のために仇を報いる。故にその屍骨を焼き、天地に告げるのだ」と言った。

何倫らは洧倉に至り、石勒と遭遇し、敗れた。東海世子司馬毗および宗室四十八王は皆石勒の手に落ち、何倫は下邳に奔り、李惲は広宗に奔った。裴妃は人に掠め取られ売られ、久しくしてようやく江を渡った。当初、琅邪王司馬睿が建業に鎮したのは裴妃の計らいによるものであったため、司馬睿は彼女に感謝し、手厚く慰撫し、その子の司馬冲に司馬越の後を継がせた。

漢の趙固と王桑は裴盾を攻め、殺害した。

杜苾は長沙を攻めた。五月、荀眺は城を棄てて広州に奔ったが、杜苾は追撃して捕らえた。ここにおいて杜苾は南に零陵・桂陽を破り、東に武昌を掠め、二千石の長吏を多く殺した。

朝廷は太子太傅傅祗を司徒とし、尚書令荀籓を司空とし、王浚に大司馬・侍中・大都督を加え、都督幽州・冀州諸軍事とし、南陽王司馬模を太尉・大都督とし、張軌を車騎大将軍とし、琅邪王司馬睿を鎮東大将軍とし、都督揚州・江州・湘州・交州・広州五州諸軍事を兼ねさせた。

当初、太傅司馬越は南陽王司馬模が関中をよく鎮撫できないとして、上表して彼を召し出し司空としようとした。将軍淳于定は司馬模に召し出しを受けないよう勧め、司馬模は従った。上表して世子司馬保を平西中郎将とし、上邽を鎮守させたが、秦州刺史裴苞がその入境を拒んだ。司馬模は帳下都尉陳安を派遣して裴苞を攻め、裴苞は安定に奔り、太守賈疋がこれを受け入れた。

苟晞は上表して都を倉垣に遷すよう求め、従事中郎劉会に船数十艘、宿衛五百人、食糧千斛を率いさせて皇帝を迎えた。皇帝は従おうとしたが、公卿は決断を下さず、左右の侍従は家財を惜しんだため、遂に行われなかった。まもなく洛陽は飢饉で困窮し、人々は互いに食い合い、百官の逃亡する者は十中八九に及んだ。皇帝は公卿を集めて議し、出発しようとしたが、護衛の兵が整わなかった。皇帝は手を打ち嘆息して「どうして車輿すらないのか」と言った。そこで傅祗を河陰に派遣し、船を整えさせ、朝官の数十人が導き従った。皇帝は歩いて西掖門を出、銅駝街に至ったが、強盗に遭い、進むことができずに戻った。度支校尉東郡の魏浚は、流民数百家を率いて河陰の硤石に拠り、当時略奪して得た穀麦を皇帝に進上した。皇帝は彼を揚威将軍・平陽太守とし、なお度支校尉を兼ねさせた。

漢主劉聰は前軍大将軍呼延晏に二万七千の兵を率いさせ洛陽を侵攻させた。河南に到着した時、晋軍は前後十二回にわたり敗北し、死者は三万余りに及んだ。始安王劉曜、王弥、石勒はそれぞれ軍を率いて合流しようとしたが、到着する前に呼延晏は輜重を張方の旧営塁に残し、癸未の日に先に洛陽に到着した。甲申の日、平昌門を攻撃し、丙戌の日には城門を破り、東陽門および諸官衙を焼き払った。六月の丁亥朔の日、呼延晏は後続部隊が到着していなかったため、略奪を行った後に去った。皇帝は洛水で船を準備し、東方へ逃亡しようとしたが、呼延晏は全ての船を焼き払った。庚寅の日、荀籓とその弟の光禄大夫荀組は轘轅関に逃亡した。辛卯の日、王弥は宣陽門に到着し、壬辰の日、始安王劉曜は西明門に到着した。丁酉の日、王弥と呼延晏は宣陽門を攻略し、南宮に入り、太極前殿に登って兵を放ち大いに略奪し、宮人や珍宝をことごとく収奪した。皇帝は華林園門を出て、長安へ逃れようとしたが、漢兵が追って捕らえ、端門に幽閉した。劉曜は西明門から入り、武庫に駐屯した。戊戌の日、劉曜は太子司馬詮、呉孝王司馬晏、竟陵王司馬楙、右僕射曹馥、尚書閭丘沖、河南尹劉黙らを殺し、士民の死者は三万余りに及んだ。そして諸陵墓を発掘し、宮廟や官府を焼き尽くした。劉曜は恵帝の羊皇后を娶り、皇帝および六つの玉璽を平陽に移した。石勒は軍を率いて轘轅関を出て、許昌に駐屯した。光禄大夫劉蕃、尚書盧志は并州に逃亡した。

丁未の日、漢主劉聰は天下に大赦を行い、年号を嘉平と改めた。晋帝を特進左光禄大夫に封じ、平阿公とし、侍中庾珉、王俊を光禄大夫に任命した。庾珉は庾敳の兄である。

初め、始安王劉曜は、王弥が自分を待たずに先に洛陽に入ったことを恨んでいた。王弥は劉曜に勧めて言った。「洛陽は天下の中心であり、山河は四方に険しく、城郭や宮室は新たに修築する必要はありません。主上に奏上して平陽からここに遷都すべきです。」劉曜は天下が定まらず、洛陽は四方から敵に囲まれ守りにくいと考え、王弥の計略を用いず、かえって洛陽を焼き払った。王弥は罵って言った。「屠各の小僧め、帝王の心などあるものか。」こうして劉曜と不和になり、軍を率いて東進し項関に駐屯した。前司隷校尉劉暾は王弥に勧めて言った。「今や九州は沸騰し、群雄が競い合っています。将軍は漢朝に不世の功を立てながら、始安王と仲違いし、どのように身を処すおつもりですか。本州に東進して拠り、ゆっくりと天下の情勢を観察すれば、上は四海を統一でき、下は鼎立三分の業を失うことはありません。これこそ上策です。」王弥は内心で同意した。

司徒傅祗は河陰に行台を建立し、司空荀籓は陽城に、河南尹華荟は成皋に拠った。汝陰太守平陽人の李矩は彼らのために家屋を建て、食糧を運んで供給した。華荟は華歆の曾孫である。

荀籓は弟の荀組、族子の中護軍荀崧、華荟は弟の中領軍華恒とともに密県に行台を建立し、四方に檄を飛ばし、琅邪王司馬睿を盟主に推挙した。荀籓は承制して荀崧を襄城太守、李矩を滎陽太守、前冠軍将軍河南人の褚翜を梁国内史に任命した。揚威将軍魏浚は洛陽北の石梁塢に駐屯し、劉琨は承制して魏浚を河南尹に任命し、魏浚は荀籓のもとへ軍事を相談しに行った。荀籓は李矩を招いて共に会見しようとし、李矩は夜を徹して赴いた。李矩の属官は皆言った。「魏浚は信頼できません。夜間に赴くのは避けるべきです。」李矩は言った。「忠臣は心を同じくするもので、何を疑うことがあろうか。」こうして赴き、互いに交わり歓談してから去った。魏浚の族子の魏該は部衆を集めて一泉塢を守り、荀籓は彼を武威将軍に任命した。

豫章王司馬端は太子司馬詮の弟であり、東方の倉垣に逃亡し、苟晞は百官を率いて彼を皇太子と尊び、行台を設置した。司馬端は承制して苟晞に太子太傅を兼任させ、都督中外諸軍事、録尚書事とし、倉垣から蒙城に移駐した。

撫軍将軍秦王司馬業は呉孝王の子であり、荀籓の甥で、年は十二歳であった。南方の密県に逃亡し、荀籓らは彼を尊び、南方の許昌へ向かった。前豫州刺史天水人の閻鼎は、西州の流民数千人を密県に集め、故郷に帰ろうとしていた。荀籓は閻鼎に才能があり部衆を擁していると考え、閻鼎を豫州刺史とし、中書令李𫄠、司徒左長史彭城人の劉疇、鎮軍長史周𫖮、司馬李述らを彼の参佐とした。周𫖮は周浚の子である。

当時、海内は大乱であり、ただ江東だけがやや安定していたため、中原の士人や百姓は避難のため多くが長江を渡った。鎮東司馬王導は琅邪王司馬睿に、その中の賢能な俊傑を招き、共に事をなすよう勧めた。司馬睿はこれに従い、属官百余人を召し出し、当時の人はこれを「百六掾」と呼んだ。前潁川太守勃海人の刁協を軍諮祭酒に、前東海太守王承、広陵相卞壺を従事中郎に、江寧令諸葛恢、歴陽参軍陳国人陳𫖳を行参軍に、前太傅掾庾亮を西曹掾に任命した。王承は王渾の弟の子であり、諸葛恢は諸葛靚の子であり、庾亮は庾兗の弟の子である。

江州刺史華軼は華歆の曾孫であり、自ら朝廷の任命を受けながら琅邪王司馬睿の管轄下にあることを不服とし、多くは彼の教令を受け入れなかった。郡県の官員の多くが諫めたが、華軼は言った。「私はただ詔書を見たいだけである。」やがて司馬睿が荀籓の檄文を受け、承制して官員を設置し、長吏を更迭すると、華軼と豫州刺史裴憲は共に命令に従わなかった。司馬睿は揚州刺史王敦、歴陽内史甘卓と揚烈将軍廬江人の周訪に兵を合わせて華軼を攻撃させた。華軼は敗れて安成に逃亡し、周訪が追撃して彼を斬り、その五人の子も共に殺した。裴憲は幽州に逃亡した。司馬睿は甘卓を湘州刺史、周訪を尋陽太守とし、また揚武将軍陶侃を武昌太守に任命した。

秋七月、王浚は祭壇を設け、上天を祭祀し、皇太子を立て、天下に公告して、朝廷の密詔を受けたと称し、皇帝の旨を秉承して封爵や任命を行うことができるとし、ここに百官を完備し、征・鎮などの将帥を整えた。荀籓を太尉、琅邪王司馬睿を大将軍とした。王浚は自ら尚書令を兼任し、裴憲とその女婿の棗嵩を尚書とし、田征を兗州刺史、李惲を青州刺史に任命した。

南陽王司馬模は牙門将趙染に薄坂を守らせたが、趙染は馮翊太守の任命を求めて許されず、怒って部衆を率いて漢国に投降した。漢主劉聰は趙染を平西将軍に任命した。八月、劉聰は趙染と安西将軍劉雅に二万の騎兵を率いさせ、長安の司馬模を攻撃させ、河内王劉粲、始安王劉曜は大軍を率いて後に続いた。趙染は潼関で司馬模の軍を破り、長駆して下邽に達した。涼州の将北宮純は長安からその部衆を率いて漢国に投降した。漢軍は長安を包囲し、司馬模は淳于定を派遣して城を出て戦わせたが、敗れた。司馬模の倉庫は空虚で尽き、兵士は離散し、ついに漢国に投降した。趙染は司馬模を河内王劉粲のもとに送り、九月、劉粲は司馬模を殺した。関西は飢饉が発生し、白骨が原野を覆い、生き残った民は百分の一にも満たなかった。劉聰は始安王劉曜を車騎大将軍、雍州牧とし、中山王に改封して長安を鎮守させた。王弥を大将軍とし、斉公に封じた。

苟晞は驕り高ぶって贅沢を好み、苛烈で暴虐であった。前遼西太守の閻亨は、閻瓚の子で、何度も苟晞を諫めたが、苟晞は彼を殺した。従事中郎の明預は病にかかっていたが、人に自分を担がせて中に入り諫めようとした。苟晞は怒って言った。「我が閻亨を殺したのは、他人と何の関係があろう。お前は病を押して担がれて来て、我を罵るのか!」明預は言った。「明公が礼をもって私を遇するゆえ、私もまた礼をもって己の本分を尽くすのです。今、明公が私に対して怒れば、遠近の人々が明公に対して怒るのをどうすることもできましょうか!夏の桀は天子でありながら、なお驕り暴虐で滅びました。まして臣下としてどうでありましょうか!願わくは明公、しばしこの怒りを収め、私の言うことをお考えください。」苟晞は従わなかった。ここから人々は心を離れ、怨恨に満ち、加えて疫病と飢饉が起こった。石勒は陽夏で王讚を攻め、これを捕らえた。そして蒙城を襲撃し、苟晞と豫章王司馬端を捕らえ、鎖で苟晞の首を繋ぎ、左司馬に任じた。漢主劉聡は石勒に幽州牧の官職を授けた。

王弥と石勒は、表面上は親しみ合っていたが、内心では互いに猜疑していた。劉暾は王弥に、曹嶷の軍を召し寄せて石勒を図るよう勧め、王弥は書状を認め、劉暾を遣わして曹嶷を召し寄せるとともに、石勒の軍を誘って共に青州へ向かおうとした。劉暾が東阿に到着した時、石勒の遊撃騎兵に捕らえられた。石勒は密かに劉暾を殺害したが、王弥はそのことを知らなかった。折しも王弥の部将の徐邈、高梁が勝手にそれぞれの部隊を率いて離脱したため、王弥の兵力は次第に衰えた。王弥は石勒が苟晞を捕らえたと聞き、内心これを嫌いながらも、手紙を送って祝った。「あなたは苟晞を捕らえて任用するとは、何と不思議なことでしょう!苟晞をあなたの左手とし、私をあなたの右手とすれば、天下を平定するのは難しくありません。」石勒は張賓に言った。「王弥は地位が尊いのに言葉が謙虚だ。彼はきっと私を図ろうとしている。」張賓はこれに乗じて、王弥の勢力がやや衰えた隙に、彼を誘い出して除くよう勧めた。時に石勒は蓬関で乞活の陳午と互いに攻撃し合っており、王弥もまた劉瑞と対峙して、状況は非常に緊迫していた。王弥は石勒に救援を求めたが、石勒は応じなかった。張賓は言った。「あなたは常に王弥を処置する機会を得られないことを憂えていましたが、今や天が王弥を私たちに与えたのです。陳午のような小物は憂えるに足りません。王弥は人中の傑物であり、早く除くべきです。」石勒はそこで軍を率いて劉瑞を攻撃し、殺した。王弥は大いに喜び、石勒が本当に自分に親しいものと思い込み、もはや疑わなくなった。冬十月、石勒は己吾で宴を設けて王弥を招いた。王弥は行こうとしたが、長史の張嵩が諫めたが、王弥は聞かなかった。酒が酣になった時、石勒は自ら手を下して王弥を殺し、その部衆を併合した。そして漢主劉聡に上表し、王弥が叛逆したと称した。劉聡は大いに怒り、使者を遣わして石勒を「勝手に朝廷の輔政大臣を殺害し、心中に主君なし」と責めたが、なおも石勒に鎮東大将軍、督并幽二州諸軍事、兼并州刺史を加え、これをもってその心をなだめた。苟晞と王讚は密かに石勒を裏切ることを謀ったため、石勒は彼らを殺し、苟晞の弟の苟純も共に殺した。

石勒は軍を率いて豫州の各郡を劫掠し、長江の辺りに至ってから引き返し、葛陂に駐屯した。

初め、石勒が人に掠められて売られた時、その母の王氏と離れ離れになった。劉琨が彼女を見つけ出し、甥の石虎と共に石勒に送り返し、ついでに石勒に一通の手紙を送った。「将軍は用兵神の如く、向かうところ敵なし。天下を周遊しながらも立つべき地なく、百戦百勝しながらも尺寸の功もないのは、おそらく君主を輔ければ正義の師となり、叛逆に従えば賊寇の衆となるからでしょう。成敗の道理は呼吸の如く、吹けば冷たく、息を掛ければ温かい。今、あなたに侍中、車騎大将軍、兼領護匈奴中郎将、襄城郡公の官爵を授けます。将軍、お受け取りください。」石勒は返書を送った。「功業を建てるには異なる道があり、迂遠な書生の知るところではありません。あなたは自らの朝廷のために忠節を尽くすべきであり、私は自ら禍難を平定することに力を尽くしましょう。」石勒は劉琨に名馬や珍宝を贈り、その使者を厚く遇し、その籠絡を謝絶して関係を絶った。

時に石虎は十七歳で、残忍の限りを尽くし、軍中の禍いとなっていた。石勒は母に告げた。「この子は凶暴で無頼です。もし軍人に殺させれば、その名を惜しむゆえ、私が自ら除いた方が良いでしょう。」母は言った。「速く走る牛は子牛の時に、多くは車を壊すものだ。お前は少し耐えなさい。」石虎が成長すると、騎射に優れ、その勇猛さは当時比肩する者がなかった。石勒は彼を征虜将軍に任じ、城を屠るたびに、生かして残す者はほとんどいなかった。しかし彼の統率する軍は厳格で煩雑でなく、敢えて違犯する者はいなかった。彼の指揮する攻撃は、向かうところ敵なく、石勒はそこで寵愛し重用した。石勒は滎陽太守の李矩を攻めたが、李矩はこれを撃退した。

初め、南陽王司馬模は従事中郎の索𬘭を馮翊太守とした。索𬘭は索靖の子である。司馬模が死んだ後、索𬘭は安夷護軍の金城人曲允、頻陽県令の梁粛と共に、安定へ逃れた。時に安定太守の賈疋は、各氐族・羌族の部族と共に皆人質を漢国に送っていたが、索𬘭らは陰密で彼らに遭い、彼らを擁して臨涇に帰り、賈疋と共に晋朝の皇室を再興することを謀り、賈疋はこれに従った。そこで共に賈疋を推して平西将軍とし、五万の部衆を率いて長安へ向かわせた。雍州刺史の曲特、新平太守の竺恢は皆漢国に降伏しておらず、賈疋が起兵したと聞き、扶風太守の梁綜と共に十万の部衆を率いてこれに合流した。梁綜は梁粛の兄である。漢国の河内王劉粲は新丰におり、その部将の劉雅、趙染を遣わして新平を攻めたが、攻略できなかった。索𬘭が新平を救援し、大小の戦いは百回を数え、劉雅らは敗れて撤退した。中山王劉曜は賈疋らと黄丘で戦い、劉曜の軍は大敗した。賈疋はそこで漢国の梁州刺史彭蕩仲を襲撃し、殺した。曲特らは新丰で劉粲を破り、劉粲は平陽に帰還した。ここにおいて賈疋らの兵勢は大いに振るい、関西地方の胡人、晋人は一斉に呼応した。

閻鼎は秦王司馬業を護送して関中に入れ、長安を占拠して天下に号令しようと考えた。河陰県令の傅暢は、傅祗の子で、手紙を送ってこれを勧め、閻鼎はそこで出発した。荀籓、劉疇、周顗、李述らは、皆山東の人で、西に向かうことを望まず、途中で逃げ散った。閻鼎は兵を遣わして彼らを追ったが、追いつけず、李纟亘らを殺した。閻鼎は司馬業と共に宛から武関へ向かい、上洛で盗賊に遭い、兵士は敗走して散り散りになった。閻鼎は残った部衆を集め、進んで藍田に至り、人を遣わして賈疋に報告し、賈疋は兵を遣わして彼らを迎えた。十二月、雍城に入り、梁綜に軍を率いて彼らを護衛させた。

周顗は琅邪王司馬睿のもとへ奔り、司馬睿は周顗を軍諮祭酒に任じた。前騎都尉の譙国人桓彝もまた戦乱を避けて長江を渡り、司馬睿の勢力の弱小なのを見て、周顗に言った。「私は中原の多難ゆえに、ここに来て保全を求めたが、ここはかくも孤独で弱小であり、何を頼りに大事を成せようか。」間もなく王導に会い、共に天下の大事を論じ、出て来て、周顗に言った。「先ほど管夷吾を見ました。もはや憂いはありません。」

諸名士は共に新亭に登って遊宴し、周顗は座中で嘆息して言った。「風景に異なるところはないが、ただ目を挙げて望めば、長江と黄河の差があるのみだ。」そこで互いに顔を見合わせて涙を流した。王導は顔色を改めて言った。「我々は共に朝廷のために力を尽くし、中原を回復すべきである。どうして囚われの楚囚のように相対して涙を流すことがあろうか。」皆、涙を拭いて彼に謝した。

陳𫖳は王導に書を送って言った。「中華が傾き衰えたのは、まさに人材を登用する方法を誤り、まず虚名を重んじて実際の事務を軽んじ、誇り高く競い合い、奔走し賄賂を送る者どもが互いに推挙し合い、言葉の重みのある者が先に顕達し、言葉の軽い者が後に任用され、互いに煽り合って、ついに風気が衰え颓れたからであります。これに加えて、荘子・老子の風習があり、朝廷を惑わし、声望を養う者を弘大雅正とし、政務を処理する者を凡俗と見なし、朝廷の職務を顧みず、典章制度が失われました。遠方を制御しようと欲するならば、必ず近くから始めねばなりません。今こそやり方を変え、賞罰を明らかにし、密県で卓茂を抜擢し、桐郷で朱邑を顕彰したようにすべきであり、そうして後に大業は興り、中兴は期待できるでしょう。」王導は聞き従うことができなかった。

劉琨は招き懐柔することには長けていたが、撫で統べることは短く、一日のうちに、数千人が帰順して来ても、去っていく者も絶え間なかった。劉琨は子の劉遵を代公拓跋猗盧のもとに援兵を請うために遣わし、また族人である高陽内史劉希に中山で部衆を集めさせたところ、幽州が統轄する代郡・上谷・広寧の民の多くが彼に帰順し、部衆は三万人に達した。王浚は怒り、燕相胡矩に諸軍を督率させ、遼西公段疾陸眷と共に劉希を攻撃し、これを殺し、三郡の男女の民を駆り立て略奪して去った。段疾陸眷は段務勿塵の子である。拓跋猗盧はその子の拓跋六修に軍隊を率いさせて劉琨を助け、新興を守らせた。

劉琨の牙門将邢延は一塊の碧玉を劉琨に献じ、劉琨はそれを拓跋六修に与えた。拓跋六修はまた邢延に碧玉を要求したが、得られず、邢延の妻子を捕らえた。邢延は怒り、自らの部衆を率いて拓跋六修を襲い、拓跋六修は逃走し、邢延はついに新興を率いて漢国に帰順し、兵を派遣して并州を攻めるよう請うた。

李臻が死んだ時、遼東に付き従う辺塞の鮮卑、素喜連・木丸津は、李臻の仇を討つと偽り、諸県を陥れ、士人や民を殺害し掠奪し、たびたび郡兵を破り、連年乱を起こした。東夷校尉封釈は討伐できず、彼らと講和するよう請うたが、素喜連・木丸津は聞き従わなかった。民は生計を失い、慕容廆に帰順する者が非常に多く、慕容廆は食糧を与えて送り返し、留まりたいと願う者には慰め恤んだ。

慕容廆の小児子で鷹揚将軍の慕容翰は慕容廆に言った。「古より、為すところある君主は、天子を尊びて民の望みに従い、大業を成し遂げない者はおりません。今、崔毖・張統は、表面上は慕容廆を戴くことを名目としながら、内心では災いを幸いし乱をなそうとしています。封釈はすでに張統を誅殺し和解を請うたにもかかわらず、なお侵擾暴虐をやめません。中原は離れ乱れ、州府の軍隊は士気が衰え、遼東は荒れ果て散り散りで、救助し恤む者はいません。単于は、彼らの罪状を列挙して討つべきです。上は遼東を興し回復し、下は彼らの二部を併呑し、忠義は本朝に顕れ、私利は我が国に帰し、これこそ覇王の業の基であります。」慕容廆は笑って言った。「この小童、よくもかくも考えたものだ。」そこで部衆を率いて東に向かい崔毖・張統を攻撃し、慕容翰を先鋒とし、これを撃破して斬り、二部の部衆をことごとく併呑した。彼らに掠奪された民三千余家を得、先に慕容廆に帰順していた者と合わせて、全て郡府に付して安置し、遼東はこれによって再び存続した。

封釈は病にかかり、その孫の封弈を慕容廆に託した。封釈が亡くなると、慕容廆は封弈を召して語り合い、非常に気に入り、「これは奇才である」と言った。そこで小都督に補任した。封釈の子である冀州主簿封悛と幽州参軍封抽が喪に駆けつけた。慕容廆は彼らに会い、「この一家は千斤の重き牛である」と言った。道が通じないため、棺を故郷に送り返すことができず、二人とも慕容廆のところに留まって職務に就き、慕容廆は封抽を長史とし、封悛を参軍とした。王浚は妻の舅である崔毖を東夷校尉に任命した。崔毖は崔琰の曾孫である。