晋紀十八
起于著雍淹茂,止于重光赤奋若,凡四年。
显宗成皇帝中之下·咸康四年(戊戌、公元三三八年)
春、正月、燕王慕容皝、都尉趙槃を趙國に遣はし、出兵の期日を問ふ。趙王石虎、段遼を攻めんと欲し、驍勇の者三萬人を募り、悉く龍騰中郎と爲す。會ひて段遼、段屈雲を遣はして趙國の幽州を襲はしむ。幽州刺史李孟、易京に退く。石虎、是に於て桃豹を横海將軍と爲し、王華を渡遼將軍と爲し、水軍十萬を率ゐて漂渝津より發す。支雄を龍驤大將軍と爲し、姚弋仲を冠軍將軍と爲し、歩騎七萬を率ゐて前鋒と爲し、段遼を討つ。
三月、趙槃、棘城に還る。燕王慕容皝、軍を率ゐて令支以北の諸城を攻めて掠む。段遼、將に之を追はんとす。慕容翰曰はく、「今趙軍南に在り、當に并力して之を禦ぐべし。而るに反りて燕と爭ふ。燕王自ら來る、其の士卒精鋭なり。萬一利あらずんば、將に何を以て南敵を禦がんや」と。段蘭怒りて曰はく、「吾前日に汝に誤られ、以て今日の患を致す。復た汝の計中に墮ちじ」と。乃ち見兵の衆を悉くして慕容皝を追ふ。慕容皝伏兵を設けて之を待つ。段蘭の軍を大破し、斬首すること數千、五千戸及び畜産萬計を掠めて還る。
趙王石虎、進んで金台に屯す。支雄、長驅して薊城に入る。段遼の所署の漁陽・上谷・代郡の守相、皆降る。四十餘城を取る。北平相陽裕、其の民數千家を率ゐて燕山に登り以て固守す。諸將、其の後患と爲るを患ゐ、之を攻めんと欲す。石虎曰はく、「裕は儒生にして名節を惜しむ。但だ迎降を恥づるのみ。爲す所有らじ」と。乃ち之を過ぎ、徐无に至る。段遼、弟蘭の已に敗れたるを以て、復た戰はず。妻子・宗族・豪右千餘家を棄て、令支を去り、密雲山に奔る。將に發せんとし、慕容翰の手を執りて泣きて曰はく、「卿の言を用ゐず、自ら敗亡を取る。吾固より之を痛む。卿をして流離せしむるに、深く愧づ」と。慕容翰、北のかた宇文氏に奔る。
段遼の左右長史劉群・盧諶・崔悦等、府庫を封じて降を請ふ。石虎、將軍郭太・麻秋を遣はし精騎二萬を率ゐて段遼を追はしめ、密雲山に至る。其の母妻を獲、斬首三千級。段遼、單騎走りて險を保つ。其の子乞特真を遣はし、表を奉りて名馬を趙に獻ず。石虎、之を受く。
石虎、令支の署に入り、功に論じて賞すること差あり。段國の民二萬餘戸を司・雍・兗・豫四州に徙す。士大夫の才能行義ある者、皆擢用す。陽裕、軍門に詣り降る。石虎、之を責めて曰はく、「卿、昔奴虜と爲り走り、今士人と爲り來る。豈に天命を知れるか、將た逃匿する所無きか」と。裕對へて曰はく、「臣、昔王公に事へて匡救する能はず。段氏に奔りて保全する能はず。今陛下天網張りて四海を籠絡す。幽・冀の豪傑、風に靡き歸せざる莫し。臣の如き者比比として、獨り愧づるに足らず。生死の命、惟だ陛下の制する所」と。石虎、大いに悅び、即ち之をして北平太守と爲す。
夏、四月、癸丑、慕容皝を征北大將軍・幽州牧と爲し、平州刺史を領せしむ。
成主李期、驕暴日を以て甚だし。多く人を誅殺し、其の資財・婦女を籍沒す。是に由りて大臣多く安んぜず。漢王李壽、素より重く貴く、威名有り。期と建寧王李越等、皆之を憚る。壽、免るべからざるを恐れ、朝に入らんとする毎に、常に邊急の文書を假り、警急を以て辭す。
初め、巴西の處士龔壯、父及び叔父、皆李特が爲に殺さる。壯、仇を報ぜんと欲し、服を釋くこと年を經ず。壽、數を以て禮して辟召す。壯、應ぜず。乃ち壽に往き見ゆ。壽、壯に私問して自全の策を求む。壯曰はく、「巴・蜀の民、本皆晉の臣民なり。節下、若し能く發兵して西のかた成都を取り、晉に藩と稱せば、誰か節下の爲に奮臂して先驅せざらん。是に由りて福、子孫に流れ、名、不朽に垂る。豈に徒に今日の禍を逃るるのみならんや」と。壽、其の言を然りとし、密かに長史略陽の羅恒・巴西の解思明と謀りて成都を攻む。
期、聞く所有り。數たび許涪を壽の所に遣はし、其の動靜を覘はしむ。又、壽の養弟安北將軍李攸を酖殺す。壽、乃ち妹夫任調の書を僞り、期の將に壽を收めんとするを言ふ。其の衆、之を信ず。乃ち歩騎一萬餘を率ゐて涪城より成都を襲ふ。城中の財物を賞とすと許す。其の將李弈を遣はして前鋒と爲す。期、其の至るを料らず、初め防備無し。壽の世子李勢、翊軍校尉と爲り、城門を開きて之を納る。是に於て成都を克し、兵を宮門に屯す。期、侍中を遣はして壽を慰勞す。壽、建寧王李越・景騫・田褒・姚華・許涪及び征西將軍李遐・將軍李西等、心に姦を懷き、朝政を亂すと奏し、皆收めて斬る。縱兵して大いに掠め、數日にして乃ち定まる。壽、太后任氏の命を假りて期を廢し邛都縣公と爲し、別宮に幽す。戾太子を追諡して哀皇帝と爲す。
羅恒・解思明・李弈等、壽に勸めて自ら鎮西將軍・益州牧・成都王と稱し、晉に藩と稱し、邛都公を建康に送らしむ。任調及び司馬蔡興・侍中李艷等、壽に勸めて自ら皇帝と稱せしむ。壽、人をして之を卜はしむ。卜者曰はく、「數年の天子と爲るべし」と。任調、喜びて曰はく、「一日だも且つ足る。況んや數年をや」と。解思明曰はく、「數年の天子、百世の諸侯に孰れか若かん」と。壽曰はく、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と。遂に位に即き、國號を漢と改め、大赦し、年號を漢興と改む。安車・束帛を以て龔壯を太師と徵す。壯、仕へずと誓ひ、壽の所贈、一に受けず。壽、宗廟を改立し、父騫を追尊して獻皇帝と爲し、母昝氏を皇太后と爲す。妃閻氏を立てて皇后と爲し、世子勢を皇太子と爲す。舊廟を大成廟と改め、諸の制度、多く更改す。董皎を相國と爲し、羅恒を尚書令と爲し、解思明を廣漢太守と爲し、任調を鎮北將軍・梁州刺史と爲し、李弈を西夷校尉と爲し、姪權を寧州刺史と爲す。公・卿・州・郡、悉く其の僚屬を以て之に代ふ。成氏の舊臣・近親及び六郡の士人、皆疏斥せらる。邛都公期、嘆息して曰はく、「天下の主、乃ち小縣公と爲る。死に如かず」と。五月、縊死す。壽、諡して幽公と曰ひ、王禮を以て葬る。
趙王石虎、燕王慕容皝の趙軍に會して段遼を攻めず、獨り其の利を擅にするを以て、之を討たんと欲す。太史令趙覽、諫めて曰はく、「歳星、燕分に在り。出兵すること功無からん」と。石虎、怒りて之を鞭つ。慕容皝、聞きて、設備を嚴にす。六卿・納言・常伯・冗騎常侍の官を省く。趙兵、歩騎數十萬あり。燕人、震恐す。慕容皝、内史高詡に問ひて曰はく、「將に之を奈何せん」と。詡、對へて曰はく、「趙兵、強しと雖も、然れども憂ふるに足らず。但だ堅守して之を禦がば、其の爲す所有らじ」と。
石虎は使者を四方に派遣し、百姓や夷人を招き誘った。燕国の成周内史崔焘、居就令游泓、武原令常霸、東夷校尉封抽、護軍宋晃らは皆これに応じ、合わせて三十六城を得た。游泓は游邃の兄の子である。冀陽に流亡して寄居していた士人たちは共に太守宋燭を殺して趙国に降った。宋燭は宋晃の従兄である。営丘内史鮮于屈も使者を遣わして趙国に降った。武寧県令広平人の孫興は官吏や百姓に諭し、共に鮮于屈を逮捕し、その罪状を列挙して殺し、城門を閉ざして守りを固めた。朝鮮県令昌黎人の孫泳は部衆を率いて趙軍を防いだ。大姓の王清らは密かに趙軍に応じようと謀ったが、孫泳は彼らを逮捕して斬殺した。同謀の者数百人は恐れおののいて罪を謝したが、孫泳は皆を解放し、彼らと共に守りを固めた。楽浪太守鞠彭は境内が全て叛いたため、郷里の壮士二百余人を選び、共に棘城に帰った。
戊子の日、趙軍は棘城に迫った。燕王慕容皝は出奔しようとしたが、帳下の将慕輿根が諫めて言った。「趙は強く我らは弱い。大王が一たび足を動かせば、趙の勢いは形成され、趙人に我が国の民を収奪させ、兵力は強く糧草は充足すれば、もはや抗えなくなります。私は考えますに、趙人はまさに大王がそうされるのを望んでいるのです。どうしてその罠に陥りましょうか。今、堅城を固守すれば、気勢は百倍し、たとえ彼らが猛烈に攻めてこようとも、十分に支えられます。形勢の変化を観察し、機に乗じて出撃し勝利を謀るべきです。もし事が成らなければ、それから逃げるのも遅くはありません。どうして風向きを見て守りを捨て、必ず滅びる道を進むのですか。」慕容皝はこれで思いとどまったが、それでもなお顔色に恐れを現していた。玄菟太守河間人の劉佩が言った。「今、強敵が外にあり、衆人の心は恐れおののいています。事の安危は、大王一人に懸かっています。大王はこの時にあって、逃れることはできません。自ら強くあって将士を励ますべきで、弱みを見せてはなりません。事は急を告げています。私は出撃して彼らを攻めることを請います。大勝できなくとも、人々を安心させるには十分でしょう。」そこで敢死の騎兵数百人を率いて城を出て趙軍に突撃し、向かうところ敵なく、斬獲して城に帰った。これにより士気は百倍した。慕容皝は封弈に計略を問うた。封弈は答えて言った。「石虎の凶悪残虐は極まり、百姓と神霊は皆これを憎んでいます。禍いと敗北の到来は、どれほどの日があるでしょうか。今、彼は国を挙げて遠くから来ており、攻守の形勢は異なります。兵馬は強盛ですが、禍患とはなりえません。兵を長く留めておけば、綻びは自然に生じます。ただ堅守して彼を待つべきです。」慕容皝の心はようやく安定した。ある者が慕容皝に投降を勧めたが、慕容皝は言った。「我はまさに天下を取らんとしている。投降などと言うな。」
趙兵は四方から蟻のように城壁に取りついた。慕輿根らは昼夜奮戦し、合わせて十余日、趙兵は攻め落とせず、壬辰の日、退却した。慕容皝はその子慕容恪に二千騎を率いさせて追撃させ、趙兵は大敗し、三万余人を斬獲した。趙国の諸軍は皆甲冑を捨てて逃げ散った。ただ遊撃将軍石閔の一軍だけが独り全うした。石閔は名を石瞻といい、内黄の人で、本姓は冉である。趙主石勒が陳午を破った時に彼を捕らえ、石虎に命じて養子とさせた。石閔は驍勇で戦いに秀で、多くの謀略を持っていた。石虎は彼を愛し、自分の孫たちと同じように遇した。
石虎は鄴城に帰り、劉群を中書令とし、盧諶を中書侍郎とした。蒲洪は功により使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍を授けられ、西平郡公に封じられた。石閔が石虎に言った。「蒲洪は雄武で俊傑であり、将士は皆彼のために命を惜しまず尽くそうとしています。彼の数人の子も皆非凡な才能を持っています。しかも彼は五万の強兵を掌握し、京畿に駐屯しています。密かに除くべきで、以て国家を安定させるべきです。」石虎は言った。「我はまさに彼ら父子に頼って東呉と巴蜀を取ろうとしている。どうして殺せようか。」蒲洪を待遇することはますます厚くなった。
燕王慕容皝は兵を分けて諸々の叛いた城を討ち、ことごとく攻略した。疆域は凡城にまで及んだ。崔焘、常霸は鄴城に奔り、封抽、宋晃、游漲は高句麗に奔った。慕容皝は鞠彭、慕輿根らを賞し、諸々の叛乱者を処罰し、誅殺した者は多かった。功曹劉翔が彼らのために理を申し立て、多くの者が命を全うした。
後趙が棘城を攻めた時、燕国の右司馬李洪の弟李普は、棘城は必ず敗れると考え、李洪に外に出て災いを避けるよう勧めた。李洪は言った。「天道は幽遠で、人事は知り難い。しばらく安んじて職に就き、軽挙妄動して後悔することのないようにせよ。」李普は繰り返し請うて止まなかった。李洪は言った。「お前がもし見解を明確に慎んで持つなら、自らそうすべきだ。我は慕容氏の大恩を受けており、義によって背くことはできない。ここで死を尽くそう。」李普と涙を流して別れた。李普はついに後趙に降り、後趙軍に従って南帰したが、戦乱で死んだ。李洪はこれによって忠誠篤厚をもって知られた。
趙王石虎は渡遼将軍曹伏を派遣して青州の軍隊を率いて海島を戍らせ、三百万斛の穀物を運んでこれらを供給した。また三百艘の船で三十万斛の穀物を高句麗に運び、典農中郎将王典を派遣して一万余人を率いさせ、海浜で屯田させた。また青州に命じて一千艘の船を建造させ、燕国を攻めることを図った。
後趙の太子石宣は二万の歩騎を率いて朔方の鮮卑斛摩頭を攻め、これを破り、四万余級を斬首した。
冀州の八郡に大規模な蝗害が発生した。後趙の司隷は郡守・県令を処罰するよう請うた。趙王石虎は言った。「これは我が政務の過失によるものだ。それなのに罪を郡守・県令に帰そうとするとは、これが自らを責める本意であろうか。司隷は忠言を進めず、我の不備を補わず、かえって妄りに無辜を陥れようとしている。平民に落とし、職務は保留せよ。」
石虎は襄城公渉帰、上庸公日帰を派遣して軍を率いて長安を戍らせた。二人は鎮西将軍石広が私的に恩恵を施し、密かに不軌を謀っていると告発した。石虎は石広を鄴城に召還し、殺した。
乙未の年、司徒の王導を太傅とし、中外諸軍事を都督させた。郗鑑を太尉とし、庾亮を司空とした。六月、王導を丞相とし、司徒の官職を廃止して丞相府に併合した。王導は性格が寛厚で、任用した部将の趙胤、賈寧らは多くが法紀を守らず、大臣たちはこれを憂慮した。庾亮は郗鑑に手紙を送って言った。「皇上は八、九歳から成人に至るまで、内ではただ宮女の手の中にあり、外では武官や小人にしか接しておらず、書を読んでも音句を教わる者なく、諮問しても君子に出会うことがありません。秦の始皇帝は民を愚かにしようとしたが、天下すらそれが不可であることを知っています。ましてや君主を愚かにしようなどとは!君主は年も長じたので、朝政を返還すべきです。頭を下げて政権を返さず、師傅の尊位に身を置き、多くの無頼の徒を養うとは!あなたは私と共に重い託を受けながら、大奸を除かずして、何の面があって先帝に地下で会えようか!」と。共に兵を起こして王導を廃そうとしたが、郗鑑は聞き入れなかった。南蛮校尉の陶称は、陶侃の子であり、庾亮の謀略を王導に告げた。ある者が王導に密かに備えを促したが、王導は言った。「私は元規(庾亮の字)と休戚を共にする。そのような根拠のない話は、智者が口にすることを絶つべきだ。たとえあなたの言う通りだとしても、元規が来たなら、私は頭に角巾を被って家に帰るだけだ。何を恐れることがあろう!」また陶称に手紙を送り、「庾公は皇帝の大舅である。よく仕えるべきだ」と言った。征西参軍の孫盛は密かに庾亮を諫めて言った。「王公は常に世を離れる心を持っております。どうして凡俗なことを行いましょう!これはきっと奸佞の徒が内外を離間しようとしているに過ぎません。」庾亮はようやく止めた。孫盛は孫楚の孫である。この時、庾亮は外鎮にありながら、遥かに朝廷の大権を掌握し、上流に拠り強兵を擁していたため、風潮に乗じる者たちは多く彼に帰服した。王導は心中不平を抱き、西風が塵を巻き上げるたびに、扇を挙げて身を隠し、ゆっくりと言った。「元規の塵が人を汚す!」王導は江夏の李充を丞相掾に任用した。李充は、当時の風俗が浮華空虚を尊ぶのを憂い、『学箴』を著した。老子が「仁を絶ち義を棄てれば、民は孝慈に戻る」と言ったのは、仁義を絶って初めて孝慈が生まれるという意味だろうか。おそらく真心から仁義を行う者が少なく、仁義を借りて利を得る者が多いのを憂い、その責を聖人に託して実跡を忘れたのである。凡人はただ形跡の多いのを見て、大道に通じる者は少なく、形跡を追うほど根本から遠ざかる。そこで『学箴』を作ってこの弊を除こうとした。「名声が顕著になるほど、大道は廃れる。推賞するものを減らせば、廃れたものが興る。仁なくば万物は生じず、義なくば恥を弁えず、仁義は本来遠ざけがたく、それを害するものを除くのみである」と。
成漢の李弈の従兄である広漢太守の李幹が、大臣が廃立を謀っていると告発した。秋七月、成漢の主李寿はその子の李広と大臣たちを前殿で盟約させ、李幹を漢嘉太守に遷した。李闳を荊州刺史とし、巴郡を鎮守させた。李闳は李恭の子である。
八月、蜀中に長雨が続き、民は飢えと疫病に苦しんだ。李寿は群臣に命じて政事の得失を極言させた。龔壮は密封の上奏文を奉った。「陛下が兵を起こされた初め、上は星辰を指し、天地に告げ、血を飲んで衆と盟い、全国が藩として称し、天が応じ人々が喜び、大功が成りました。ところが議する者たちは道理を明らかにせず、権宜の計で帝位に即きました。今、淫雨が百日も続き、飢饉と疫病が同時に起こっています。上天はおそらくこれをもって陛下に警告しているのでしょう。愚見をもってすれば、前の盟に従い、建康の朝廷を推し奉るべきです。彼らは必ずや高位重爵を惜しまず、大功に報いるでしょう。位階は一つ下がるものの、子孫は限りなく、永遠に福祚を保つことができましょう。それも良くないでしょうか!議する者の中には、二州が晋に帰順すれば栄誉だが、六郡の者にとっては不便だと言う者もいます。昔、公孫述が蜀にいた時、客卿が権を握りました。劉備が蜀にいた時、楚の士人が多く顕貴となりました。呉漢や鄧艾が西征した時には、全国が屠滅され、どこに客主の区別がありましょう!議する者は安固の根本を通じず、姑息に名位を惜しみ、劉氏の守令が州郡に任じられたばかりだと言います。まさに国が亡び主が変わる時であり、どうして今日の義挙が主を栄えさせ臣を顕わすのと同じでありましょうか!議する者はまた、私が法正に倣うべきだと言います。私は陛下の大恩を受け、適う所に安んじています。栄華利禄については、漢であれ晋であれ、私はこれを求めません。どうして法正に倣う必要がありましょうか!」李寿は上奏文を見て内心恥じ入り、密かに隠して公開しなかった。
九月、成漢の僕射任顔が謀反し、誅殺された。任顔は任太后の弟である。成漢の主李寿はこの機に乗じて、成主李雄の子たちを皆殺しにした。
冬十月、光禄勲の顔含が年老いて官を辞した。議する者は「王導は皇帝の師傅であり、名位は隆重である。百官は彼に対して降礼を行うべきだ」と考えた。太常の馮懐がこれを顔含に問うた。顔含は言った。「王公は貴重ではあるが、道理として偏った敬礼はない。降礼の説は、おそらく諸君の事であろう。鄙人は老いて、時務を知らぬ。」後に人に語って言った。「私は征伐の国は仁人に問わぬと聞く。先ほど馮祖思が私に諂媚の術を問うたが、私に邪徳があるのだろうか!」郭璞がかつて顔含に遇い、彼のために占おうとした。顔含は言った。「寿命は天にあり、職位は人にある。身を修めて天が与えぬのは命であり、道義を守って人が知らぬのは性である。自ら性命を持つ者は、蓍亀を煩わせるに及ばぬ。」官を辞して二十余年、九十三歳で没した。
代王拓跋翳槐の弟拓跋什翼犍は後趙に人質となっていた。拓跋翳槐が病重く、諸大人に命じて彼を立てさせようとした。拓跋翳槐が没すると、諸大人の梁蓋らは、大喪の直後で拓跋什翼犍は遠方にあり、必ずしも帰れるとは限らず、帰るのを待てば変乱が起こる恐れがあるとして、別の君主を立てることを謀った。そして拓跋翳槐の次弟拓跋屈は剛猛で多く詐りがあり、拓跋屈の弟拓跋孤の仁厚には及ばないとして、共に拓跋屈を殺して拓跋孤を立てようとした。拓跋孤は同意せず、自ら鄴城に行って拓跋什翼犍を迎え、自分が人質として残ることを願った。趙王石虎は彼に義気があると見て、二人を共に帰国させた。十一月、拓跋什翼犍は繁畤の北で代王の位に即き、年号を建国と改め、国土の半分を拓跋孤に分け与えた。
初め、代王拓跋猗盧が没した後、国内に内乱が多く、部落は離散し、拓跋氏は次第に衰えた。拓跋什翼犍が即位すると、雄健勇武で智謀韜略を有し、祖先の基業を振興することができ、国人は帰服し、百官を設置して諸務を分掌させ始めた。代郡の燕鳳を長史とし、許謙を郎中令とした。謀反大逆、殺人、姦盗の律を初めて制定し、号令は明らかで、政事は清簡、連座審問の煩わしさがなく、民は安堵して業に従った。ここにおいて東は濊貊から、西は破落那に至り、南は陰山、北は沙漠にまで、皆帰服し、部衆は数十万人に達した。
十二月、段遼が密雲山から使者を遣わして後趙に迎えを求めた。間もなく翻意し、再び使者を遣わして燕国に迎えを求めた。
趙王石虎は征東将軍麻秋を派遣し、三万人を率いてこれを迎えさせ、麻秋に命じて言った。「降伏を受け入れるのは敵を受けるが如くであり、軽んじてはならぬ。」尚書左丞の陽裕は段遼の旧臣であり、彼を麻秋の司馬とした。
燕王慕容皝は自ら諸将軍を率いて段遼を迎えた。段遼は密かに燕と謀り、後趙の軍を襲撃しようとした。慕容皝は慕容恪を派遣し、密雲山に七千の精鋭騎兵を伏せさせ、三蔵口で麻秋を大敗させ、死者は十の六七に及んだ。麻秋は徒歩で逃れ、陽裕は燕に捕らえられた。
後趙の将軍范陽の鮮于亮は戦馬を失い、山路に沿って歩いて進めず、ついに止まって端座した。燕の兵士が彼を包囲し、立ち上がるよう叱った。鮮于亮は言った。「私は貴人である。道義により小人に屈しない。お前たちは殺したければ早く殺せ。できなければ去れ!」鮮于亮は容貌魁偉で、声は雄壮激しく、燕の兵士は彼を畏れて殺せず、慕容皝に報告した。慕容皝は馬で彼を迎え、語り合って大いに喜び、左常侍に任用し、崔毖の娘を妻として与えた。
慕容皝は段遼の部衆を全て収編した。段遼を上賓の礼で遇し、陽裕を郎中令とした。
趙王石虎は麻秋の敗戦を聞いて大いに怒り、その官爵を削った。
顕宗成皇帝中之下 咸康五年(己亥、紀元三三九年)
春正月、辛丑の日、天下に大赦を行った。
三月、乙丑の日、広州刺史の鄧岳が兵を率いて成漢の寧州を攻撃し、成漢の建寧太守の孟彦が成漢の刺史の霍彪を捕らえて降伏した。
征西将軍の庾亮は中原を回復しようと志し、上表して桓宣を都督沔北前鋒諸軍事・司州刺史とし、襄陽に鎮守させるよう推挙した。また、上表して弟の臨川太守の庾怿を監梁・雍二州諸軍事・梁州刺史とし、魏興に鎮守させ、西陽太守の庾翼を南蛮校尉とし、南郡太守を兼任させて江陵に鎮守させるよう求めた。いずれも符節を授けた。さらに、自身の豫州の職務を解き、征虜将軍の毛宝に委ねるよう請願した。朝廷は詔を下して毛宝を監揚州江西諸軍事・豫州刺史とし、西陽太守の樊峻とともに一万の精兵を率いて邾城を守らせた。また、建威将軍の陶称を南中郎将・江夏相とし、沔中地方に入らせた。陶称は二百人を率いて流れに沿って下り、庾亮に拝謁したが、庾亮はかねてより陶称の軽薄で狡賢い性質を嫌っており、陶称の前後の罪を列挙して逮捕し、斬首した。その後、魏興の地勢が険しく辺境であることを理由に、庾怿に命じて半洲に移駐させ、武昌太守の陳嚣を梁州刺史に改任し、漢中に向かわせた。参軍の李松を派遣して成漢の巴郡・江陽を攻撃させた。夏、四月、成漢の荆州刺史の李闳と巴郡太守の黄植を捕らえ、建康に送致した。成漢の主である李寿は李弈を鎮東将軍とし、李闳に代わって巴郡を守らせた。
庾亮は上疏して言った。「蜀地は弱く、胡人(後趙)はなお強い。私は十万の大軍を率いて石城に移鎮し、諸軍を長江・沔水一帯に配置し、後趙討伐の計画を進めたい。」皇帝はその上疏を朝臣に回覧して議論させた。丞相の王導は許可を求めた。太尉の郗鉴は議論して、「物資の準備が十分でなければ、大軍を動かすことはできない」とした。
太常の蔡謨は議論して言った。「時運には盛衰があり、道理には屈伸がある。強弱を考慮せずに軽率に行動すれば、滅亡は目前にあり、何の功績も得られない! 今のところは、鋭気を養い時を待つに如くはない。時機が可能かどうかは胡人の強弱にかかり、胡人の強弱は石虎の能力にかかっている。石勒が挙兵して以来、石虎は常にその手足となり、百戦百勝でついに中原を平定し、占拠した地域は曹魏の時代と同じである。石勒の死後、石虎は後継の君主を擁立し、将相を誅殺した。内乱を平定した後、さらに外敵を討ち滅ぼし、一挙に金墉を攻略し、再戦で石生を捕らえ、石聡を殺すことは落ちているものを拾うように容易く、郭権を取ることは枯れ葉を揺り落とすようであった。四方の境域内で、一寸の土地も失うことはなかった。これを見るに、石虎は能力があるのか、ないのか? 論者は胡人がかつて襄陽を攻めて落とせなかったことをもって、彼には力がないと言う。百戦百勝の強兵が一つの城を落とせなかっただけで劣っていると見なされるなら、百発百中の弓が一度外れただけで拙いと言えるだろうか?
「ましてや石遇はただの偏師に過ぎず、桓平北(桓宣)は辺境の将に過ぎない。争うのは辺境の土地であり、利があれば進み、利がなければ退く、緊急の事柄ではない。今、征西将軍(庾亮)が重鎮の名賢として、自ら大軍を率いて河南を席巻しようとすれば、石虎は必ず自ら全国の軍を率いて雌雄を決しようとするだろう。どうして襄陽の情況で類推できようか! 今、征西将軍が彼と戦おうとするなら、石生と比べてどうか? 城を守ろうとするなら、金墉と比べてどうか? 沔水の天険に頼ろうとするなら、長江と比べてどうか? 石虎を防ごうとするなら、蘇峻と比べてどうか? これらの点は、すべて慎重に比較すべきである。
「石生は猛将であり、関中は精兵である。征西将軍が彼と戦っても、おそらく勝つことはできない。金墉は険要で堅固であり、劉曜の十万の大軍も攻略できなかった。征西将軍が城を守っても、おそらく守り切れない。しかもその当時、洛陽・関中はともに石虎に対して挙兵していた。今やこの三つの重鎮はかえって石虎の手に渡っている。以前と比べれば、形勢は倍半分も異なる。石生でさえ半数の敵に耐えられなかったのに、征西将軍は倍の敵に耐えようとする。これが私の疑うところである。蘇峻の強さは石虎には及ばず、沔水の険しさは長江には及ばない。長江さえ蘇峻を防げなかったのに、沔水で石虎を防ごうとする。これもまた私の疑うところである。昔、祖士稚(祖逖)は譙郡にあり、城北の境界で田を耕していた。胡人が攻めてくると、あらかじめ軍屯を設けて外から防いだ。穀物が熟そうとする時、胡人が果たして来た。壮丁は外で戦い、老弱は内で収穫し、多くの者が火炬を手にし、危急の場合は穀物を焼いて撤退した。こうして数年を経たが、ついに利益を得ることはできなかった。その当時、胡人は黄河以北のみを占めていたに過ぎず、今と比べればわずか四分の一である。祖士稚でさえ四分の一に耐えられなかったのに、征西将軍は四分の四に耐えようとする。これもまた私の疑うところである。
「しかしながら、これらはただ征西将軍が到着した後の情況を論じたに過ぎず、途上の憂慮については論じていない。沔水より西は、水流は急で岸は高く、軍は魚のように首尾を連ねて逆流し、前後百里に及ぶ。もし胡人が宋襄公のような仁義を持たず、我々が陣を敷く前に攻撃を仕掛けてきたら、どうなるのか? 今、我が国は胡人と地続きであり、水路と陸路の形勢は異なり、慣れも異なる。胡人がもし死にに来るなら、防ぐには十分余裕がある。もし長江を捨てて遠征し、我が短所をもって彼の長所を攻めるなら、恐らく朝廷の決勝の計とはならないだろう。」
朝廷の議論は多くが蔡謨と同じであった。そこで詔を庾亮に下し、移鎮を許さなかった。
前燕の前軍師の慕容評、広威将軍の慕容軍、折衝将軍の慕輿根、蕩寇将軍の慕輿泥が後趙の遼西を襲撃し、一千余戸を捕らえて撤退した。後趙の鎮遠将軍の石成、積弩将軍の呼延晃、建威将軍の張支らがこれを追撃した。慕容評らは彼らと戦い、呼延晃・張支の首級を斬った。
段遼が前燕で反乱を謀ったため、前燕の人々は段遼とその同党数十人を殺し、段遼の首級を後趙に送った。
五月、代王の拓跋什翼犍が参合陂で諸部の大人を会し、灅源川に都を建てることを議した。その母の王氏が言った。「我々は祖先以来、移徙を業としてきた。今、国家に多難があり、もし城郭を築いて定住すれば、いったん敵寇が来たなら、避ける場所がなくなってしまう。」そこで中止された。
代国では、他国から帰附してきた民衆をみな烏桓と呼び、拓跋什翼犍は彼らを二部に分け、それぞれ大人を置いて監督させた。弟の拓跋孤は北部を監督し、子の拓跋寔君は南部を監督した。
拓跋什翼犍は前燕に求婚し、前燕王の慕容皝はその妹を彼に嫁がせた。
秋、七月、後趙王の石虎は太子の石宣を大単于とし、天子の旌旗を用いさせた。
庚申の日、始興文文献公の王導が死去した。喪葬の礼儀は漢の博陸侯(霍光)と安平献王(司馬孚)の旧例に従い、天子の礼儀を参用した。
王導は簡素で質素、清らかで欲が少なく、事勢に順応して功業を成すことに長けており、一日ごとの効果はなかったが、一年を経れば余裕があった。彼は三代の君主を輔佐したが、倉庫に余分な穀物はなく、衣服も重ねて帛を用いることはなかった。当初、王導は庾亮と共に皇帝に丹楊尹の何充を推薦し、自身の副官とするよう請い、かつて言った。「私が死ぬ日には、願わくば何充を引き入れて内侍とすれば、国家に憂いはないでしょう。」そこで何充を吏部尚書に加えた。王導の死に際し、庾亮を丞相・揚州刺史・録尚書事に召そうとしたが、庾亮は固辞した。辛酉の日、何充を護軍将軍とし、庾亮の弟である会稽内史の庾冰を中書監・揚州刺史・参録尚書事とした。
庾冰は重任を担って以降、国政の処理に力を注ぎ、昼夜を問わず休まず、朝廷の賢士には礼をもって接し、後進の人材を登用した。そのため朝廷内外はこぞって彼を称賛し、賢明な宰相であると認めた。当初、王導が補政していた時は、常に寛容をもって治めていたが、庾冰はやや威勢と刑罰に頼るところがあり、丹楊尹の殷融がこれを諫めた。庾冰は言った。「前任の丞相の賢徳をもってしても、あのような寛容さには耐えかねた。ましてや私のような者ではなおさらである。」范汪が庾冰に言った。「近来、天象が乱れております。あなたは尽力して災いを除くべきです。」庾冰は言った。「天象など、私が推し測れるものではない。ただ人の世の務めを全力で尽くすのみである。」また、実際の戸口を調査し、戸籍のない者を一万余人も洗い出して、軍を充実させた。庾冰は糾察・摘発を好み、煩雑で細かいことに及ぶことが多く、後にはますます過ちを正そうとして行き過ぎ、また寛大に流れるようになり、寛厳は全て自分の心のままに決められ、律令は用をなさなくなった。
八月、壬午の日、再び丞相を司徒と改めた。
南昌文成公の郗鑑は病が重くなり、府中の事務を長史の劉遐に託し、上疏して引退を願い出て、さらに言った。「私が統率する部隊は構成が複雑で、多くは北方の人々であり、ある者は強制されて移住させられ、ある者は新たに帰順した者です。民は故郷を懐かしみ、皆、郷里に帰る心を持っております。私は国の恩徳を宣揚し、善悪の基準を示し、彼らに田や住居を割り当て、徐々に少しばかり安定させました。ところが今、私の病が重いと聞き、人々の心は驚き騒いでいます。もし彼らを長江の北に渡らせれば、必ずや敵寇の野心を引き起こすでしょう。太常の蔡謨は、平穏で簡潔、忠実で正直、常に衆人の敬慕するところです。私は彼を都督・徐州刺史に任じるのが良いと考えます。」朝廷は詔を下して蔡謨を太尉軍司とし、侍中を加授した。辛酉の日、郗鑑は死去し、すぐに蔡謨を征北将軍・都督徐兗青三州諸軍事・徐州刺史とし、符節を授けた。
当時、左衛将軍の陳光が後趙討伐を請願し、朝廷は詔を下して陳光に寿陽を攻撃させようとした。蔡謨は上疏して言った。「寿陽の城は小さいながらも堅固であります。寿陽から琅邪に至るまで、城塁が相次いでおり、一つの城が攻められれば、他の城々は必ず救援に来るでしょう。それに、我が軍は道中五十余日を要し、先鋒が到着しないうちに、情報は既に伝わっており、賊の駅伝は一日千里を走ることができ、黄河以北の騎兵は、十分に間に合って増援に来ることができます。白起、韓信、項籍のような勇猛をもってしても、なお橋や船を焼き払い、背水の陣を敷いたものです。今、船を水辺に留め、兵を率いて城下に逼ろうとするのは、前に強敵を臨み、後に帰路を顧みるという、兵法の忌み嫌うところです。もし攻めても陥ちず、胡人の騎兵が突然来襲すれば、恐らく荀林父(桓子)のように途方に暮れ、船の中で切り落とされた指を掬い取るような事態になりかねません。今、陳光が率いるのは皆、宮中の精鋭部隊であります。彼らを出征させても戦わせないのが良いでしょう。それを堅固な城の下に留め、国の精鋭の兵を用いて敵の小城を攻めても、陥ちたとしても利益は小さく、敵を損なうには足りず、陥ちなければ損失は大きく、かえって敵を利することになり、良い計略とは思えません。」そこで出兵は中止された。
当初、陶侃が武昌にいた時、論者の中には江北に邾城があるので、兵を分けて守るべきだと言う者がいた。陶侃はその度に答えなかったが、論者はやまなかった。そこで陶侃は川を渡って狩猟に出かけ、将や佐吏を呼び集めて言った。「私が要害を設けて敵寇を防ごうとするのは、正に長江に依っているからである。邾城は江北に隔てられ、内部には頼るものがなく、外部は諸々の異民族と接している。異民族の地域は利益が豊かで、晋人は利益を貪り、異民族はそれに耐えかねて、必ずや胡虜を引き入れて侵犯させるだろう。これは禍いを招く元であり、敵寇を防ぐ方法ではない。それに東呉の時代にこの城を守った時は、三万の兵力を用いた。今、たとえ兵を置いて守っても、江南にとって益はない。もし羯胡に乗ずる隙があれば、この城は頼りになるものではない。」
庾亮が武昌に鎮守するに及んで、ついに毛宝、樊峻を遣わして邾城を守らせた。後趙王の石虎はこれを嫌い、夔安を大都督とし、石鑑、石閔、李農、張貉、李菟の五人の将軍、五万の兵を率いさせて荊州・揚州の北部の边境を侵掠させ、別に二万の騎兵を派遣して邾城を攻撃させた。毛宝は庾亮に救援を求めたが、庾亮は邾城の城は堅固だと考え、すぐには兵を派遣しなかった。
九月、石閔は沔陰で晋軍を破り、将軍の蔡懐を斬った。夔安、李農は沔南を陥れた。朱保は白石で晋軍を破り、鄭豹ら五人の将軍を斬った。張貉は邾城を陥れ、死者は六千人、毛宝、樊峻は包囲を突破して逃げ、長江に身を投げて溺死した。夔安は進軍して胡亭を占拠し、江夏を侵犯した。義陽将軍の黄冲、義陽太守の鄭進は皆、後趙に降伏した。夔安は進軍して石城を包囲したが、竟陵太守の李陽が軍を率いて抵抗し、夔安を破り、首級五千余を斬り、夔安はついに退却した。その後、漢水以東を掠奪し、七千余戸を連れ去って幽州・冀州に移した。
この時、庾亮はまだ上疏して鎮所を石城に移すことを請願していたが、邾城が陥落したと聞いて、ようやく中止した。彼は上表して謝罪し、自らを三等降格し、安西将軍を代行するとしたが、朝廷は詔を下して彼の位を復した。輔国将軍の庾懌を豫州刺史とし、宣城・廬江・歴陽・安豊の四郡の軍事を監督させ、節を持たせ、蕪湖に鎮守させた。
後趙王の石虎は、外戚の権貴が驕り放恣であることを憂慮し、そこで殿中御史の李巨を抜擢して御史中丞とし、特に親しく信任したところ、朝廷内外はたちまち粛然とした。石虎は言った。「我は聞く、良臣は猛虎の如く、高歩して野を歩めば、豺狼も道を避けるものだと。誠にその通りである。」
石虎は撫軍将軍の李農を使持節・監督遼西北平諸軍事・征東将軍・営州牧とし、令支に鎮守させた。李農は三万人の兵を率いて、征北大将軍の張挙と共に前燕の凡城を攻撃した。燕王の慕容皝は、榼盧城大の悦綰を御難将軍とし、千人の兵を与えて凡城を守らせた。後趙の軍が到着するに及び、将や官吏は皆恐れ、城を棄てて逃げようとした。悦綰は言った。「我は命を受けて敵寇を防ぐ。生死はこれに準ずる。ましてや城に拠って守れば、一人で百人に敵することができる。あえて妄言して衆を惑わす者は、斬る!」皆ようやく落ち着いた。悦綰は兵士に先んじ、自ら矢石を冒した。張挙らは十日間攻めたが、陥れることができず、ついに退却した。石虎は遼西が前燕の边境に近く、度々攻撃襲擾を受けていたため、そこの民衆を全て冀州南部に移した。
成漢の主である李寿は病気にかかり、羅恒、解思明が再び晋朝に尊奉することを提案したが、李寿は聴き入れなかった。李演もまたこの事を上書したところ、李寿は怒り、李演を殺した。
李寿は常に漢の武帝や魏の明帝の人となりを慕い、父兄の時代の事を聞くことを恥じ、上書する者は前朝の政教について言及してはならず、自ら彼らに勝っていると思っていた。舎人の杜襲は十編の詩を作り、応璩の作品と仮託して諷諫した。李寿は答えて言った。「詩を読んでお前の意味が分かった。もし今の人の作であれば、賢哲の言である。もし古の人の作であれば、ただの死人の常談に過ぎない。」
燕王の慕容皝は、自らが王と称しながら晋朝の任命を受けていないことを考え、冬、長史の劉翔、参軍の鞠運を派遣し、戦利品を献上し、功績を論じて賞を賜り、かつ臨時に王を称していることを説明し、同時に期日を約して大挙出兵し、共に中原を平定することを請わせた。慕容皝は高句麗を攻撃し、軍は新城に至り、高句麗王の釗が同盟を請うたので、帰還した。また、その子の慕容恪、慕容霸を派遣して宇文部の別部を攻撃させた。慕容霸はわずか十三歳であったが、その勇名は三軍に冠していた。
張駿は辟雍、明堂を設けて礼儀を行った。十一月、世子の張重華に涼州の事務を代行させた。
十二月、丁丑の日、後趙の太保桃豹が死去した。
丙戌の日、驃騎将軍琅邪王の司馬岳を侍中・司徒とした。
成漢の李弈が巴東を侵犯し、守将の労楊が戦死した。
顕宗成皇帝中之下 咸康六年(庚子の年、西暦三四〇年)
春、正月、庚子朔、都亭文康侯庾亮、薨ず。護軍将軍・録尚書事の何充を以て中書令と為す。庚戌、南郡太守庾翼を都督江・荊・司・雍・梁・益六州諸軍事・安西将軍・荊州刺史と為し、節を持たせ、庾亮に代わりて武昌に鎮守せしむ。時に人、庾翼の年少なるを以て、兄の業を継ぐ能わざるを疑う。庾翼、心を尽くして治め、軍政嚴明、数年を経て、公私ともに充実し、人皆其の才を称す。
辛亥、左光禄大夫陸玩を侍中・司空と為す。宇文逸豆帰、慕容翰の才名を忌む。翰、是に於いて陽狂し、酔に任せて酣飲し、或いは臥して溲便し、或いは髪を披きて歌呼し、跪拝して匍匐して食を乞う。宇文部、国を挙げて之を賤しみ、復た省みる者無く、故に往来するに由を得、山川の形勢の便なる所を、皆黙識す。燕王慕容皝、翰の初め叛に非ず、猜疑を以て逃れ、身は他国に在りと雖も、常に陰に燕のために謀るを以て、乃ち商人王車を宇文部に遣わして通商せしめ、以て翰を窺う。翰、車を見るに、言わず、但だ胸を拍ちて頷くのみ。皝曰く「翰、還らんと欲す」と。復た車を遣わして之を迎えしむ。翰、三石余りの弓を引く能い、矢特に長大なり。皝、其の手に合う弓矢を為り、車をして道の旁らに埋め、密かに翰に告ぐ。二月、翰、宇文逸豆帰の名馬を盗み、二子を携え、以て弓矢を取り、逃げ還る。宇文逸豆帰、百餘の骁勇なる騎兵を遣わして之を追う。翰曰く「我、久しく客となりて郷に帰らんと欲す。既に馬に上れば、復た還る理無し。我、向日、愚を陽りて汝を欺く。我が故の芸在り、来りて我を逼る無かれ、自ら死を求むるなり」と。追兵、之を軽んじ、直ちに前りて之を突く。翰曰く「我、汝の国に居ること久しく、心に恨みを有す。汝を殺さざらんと欲す。汝、百步に退き、汝が刀を立てよ。我、射るに、一発して中れば、汝、還る可し。中らざれば、前る可し」と。追兵、刀を解きて立てる。一発、正に刀環に中る。追兵、散走す。皝、翰の至るを聞き、大いに喜び、恩遇甚だ厚し。
庚辰、星、太微に孛す。
三月、丁卯、大赦す。
成漢人、丹川を陷る。守将孟彦・劉斉・李秋、皆戦死す。
代王什翼犍、始めて雲中の盛楽宮に都す。
後趙王石虎、書を成漢主李寿に致し、兵を合わせて晋に寇し、江南を分かちて之を許すと欲す。寿、大いに悦び、散騎常侍王嘏・中常侍王広を遣わして趙に聘せしむ。龔壮、諫むるも聴かず。寿、大いに船艦を修り、兵を繕り、糧を積む。秋、九月、尚書令馬当を六軍都督と為し、七萬餘の衆を徴して水軍を為り、成都に大閲し、鼓譟の声、江を満たす。寿、城に登りて之を観、江南を併吞するの志有り。解思明、諫めて曰く「我が国、小にして兵弱く、呉会、険遠にして之を図るは易からず」と。寿、乃ち群臣をして広く利害を議せしむ。龔壮曰く「陛下、胡と与に合するは、孰れと晋と与に合するに若かん。胡、豺狼なり。晋を滅さば、我、北面して事ふるを得ざるなり。若し天下を争わば、則ち強弱敵せず、是れ危亡の勢なり。虞虢の事、前鑑は遠からず。願わくは陛下深く之を思え」と。群臣、皆壮の言を以て是と為し、頭を叩き涕泣して諫む。寿、乃ち止む。士衆、皆万歳を称す。
龔壮、人の行、忠孝より大なるは無しと以為う。既に父叔の仇を報い、復た寿をして晋を奉ぜしめんと欲するも、寿聴かず。乃ち聾を陽り、手物を持たず、官を辞して帰り、書を読み文を以て娯しみ、終身、成都に至らず。
後趙尚書令夔安、薨ず。
後趙王石虎、司・冀・青・徐・幽・并・雍七州の民をして五丁を抽き三、四丁を抽き二と為し、邺城の旧兵と合せて五十萬を為し、船萬艘を具え、河を通じて海に達し、穀一千一百萬斛を運んで楽安城に致さしむ。遼西・北平・漁陽の萬餘戸を徙して兗・豫・雍・洛四州の地に充つ。幽州より東のかた白狼に至るまで、大いに田を屯す。悉く民の馬を括り、敢えて私かに蔵する者は腰斬す。馬を得ること凡そ四萬餘匹。宛陽に大閲し、燕を撃たんと欲す。
燕王慕容皝、諸将に謂いて曰く「石虎、楽安城の防守の固きを以て、蓟城南北、必ず備え無しと自ら為す。今、若し小径より出其不意を以てせば、盡く破る可からずや」と。冬、十月、皝、諸軍を率い、蠮螉塞より入りて趙を襲う。守道の将、皆擒にせられ、直ちに蓟城に至る。後趙幽州刺史石光、兵數萬を擁し、城を閉ぢて敢えて出でず。燕兵、進みて武遂津を破り、高陽に入り、至る所、積聚を焚き、三萬餘戸を掠めて去る。光、懦弱を以て召還さる。
後趙王石虎、秦公韜を太尉と為し、太子宣と輪番にして尚書の奏事を省し、賞罰を専断し、復た稟せず。司徒申鍾、諫めて曰く「賞罰は人君の大権、他人に仮す可からず。以て微を防ぎ漸を杜り、逆乱を未然に消す所以なり。太子の職は、膳を視るに在り、政を干す可からず。庶人邃、政を干して以て敗る、前事の鑑遠からず。且つ二人権を分かたば、禍を致さざるは鮮し。愛するに道を以てせざれば、適に之を害するのみ」と。虎、聴かず。
中謁者令申扁、慧悟辯給を以て虎の寵を得、宣も亦た之を親しみ、機密を掌らしむ。虎、既に政を理めず、宣・韜、皆酣飲・田猟を好む。故に除授・生殺、皆扁に決し、九卿已下、皆風に望みて拝す。
太子詹事孫珍、目疾を患い、侍中崔約に方薬を乞う。約、戯れて曰く「尿に浸せば、即ち差ゆ」と。珍曰く「目、何ぞ尿に浸す可けんや」と。約曰く「君の眼、眥深し、正に尿に浸すに便す」と。珍、之を恨み、宣に告ぐ。宣、兄弟中、胡貌最も異なり、目深くして眥深し。怒り、約父子を誅す。是に於いて公卿已下、珍を畏れ、敢えて正視する者無し。
燕公斌、辺州を督し、亦た田猟を好み、常に鎖を懸けて城に入る。征北将軍張賀度、屡々之を規く。斌、怒り、賀度を辱む。虎、之を聞き、主書礼儀を遣わし、節を持して之を監せしむ。斌、儀を殺し、復た賀度を殺さんと欲す。賀度、嚴衛し、騎を馳せて白す。虎、尚書張離を遣わし、騎兵を率いて斌を追い、鞭之を三百、官を免じて家に帰らせ、其の親信十餘人を誅す。
張駿、別駕馬詵を遣わして趙に貢し、表辞傲慢す。趙王虎、怒り、詵を斬らんと欲す。侍中石璞、諫めて曰く「今、国家、先ず図るべき者は、遺晋に在り。河西、僻陋、之を図るに足らず。若し今詵を斬らば、必ず張駿を征せんとなり、則ち兵、二に分かたれ、建康、復た数年を延ぶるを得ん」と。乃ち止む。璞は石苞の曾孫なり。
当初、漢国の将李闳は晋朝に捕らえられ、さらに趙国に逃れた。漢主李寿は趙王石虎に書簡を送り、彼の送還を請うた。書簡の署名には「趙王石君」と記されていた。石虎はこれを不快に思い、朝臣に議論させた。中書監王波が言った。「今、李闳は死を誓って言う。『もし我を蜀の地に帰葬させてくださるなら、我は宗族を率いて、共に王道教化を受け入れましょう』と。もしこの言葉が信頼できるなら、兵を一も動かさずに、座して梁州・益州を平定できます。もし彼に変心があっても、ただ一人の亡命者を失うのみで、趙国に何の損失がありましょうか。李寿はすでに僭越して帝を称しています。今、詔書をもって彼に与えれば、彼は必ず返報してくるでしょう。それよりも、再び書簡を送るのがよいでしょう。」ちょうど挹婁国が趙国に楛木の矢柄と石製の矢鏃を献上してきたため、王波は機会に乗じてこれらの品を漢国に贈ることを請うて言った。「彼らに、我々が遠方の者をも服従させることを知らしめましょう。」石虎はこれに従い、李闳を送り返し、手厚いもてなしを与えた。李闳が成都に到着すると、李寿は詔を下して言った。「羯族の使者が来朝し、その楛矢を貢納した。」石虎はこれを聞いて怒り、王波を貶めて、平民の身分で職務を代行させた。
顕宗成皇帝中之下 咸康七年(辛丑年、紀元341年)
春、正月、燕王慕容皝は唐国内史陽裕らを派遣し、柳城の北、龍山の西に城を築かせ、宗廟・宮闕を建立し、これを龍城と名付けた。
二月、甲子朔、日食があった。
劉翔は建康に到着し、成帝は彼を引見して、慕容鎮軍が無事であるかどうかを尋ねた。劉翔は答えて言った。「臣が命を受けて出発した日、彼は朝服を着て朝廷に奏章を拝呈しました。」
劉翔は燕王慕容皝のために大将軍と燕王の印綬を求めた。朝廷は議論して言った。「旧例に従えば、大将軍は辺境に駐屯しない。漢・魏以来、異姓の者を王とすることはない。請われたところは許可できない。」劉翔は言った。「劉淵・石勒が乱を起こして以来、長江以北はことごとく戎狄の割拠する地となり、中原の公卿の子孫で、一人でも奮い立ち戈を揮って凶悪な叛逆を撃破した者があるとは聞きません。ただ慕容鎮軍父子だけが力を竭し、心を本朝に向け、寡兵をもって衆敵に勝ち、しばしば強敵を滅ぼし、石虎をして恐れさせ、辺境の民をことごとく三魏の地に移して分散させ、国境を千里縮め、薊城を北境としました。功績がこれほど顕著であるのに、海北の地を封地として惜しむのは、何故でしょうか!昔、漢高祖は王爵を惜しまず韓信・彭越に与えたからこそ、帝業を成し遂げられたのです。項羽は印綬を摩って角が磨り減っても他人に授けようとせず、ついに滅びました。我が真心は、ただ仕える者を尊びたいというだけでなく、私的に痛むのは、聖朝が忠義の国を疎遠にし、天下の人に勧め仰ぐべき目標を失わせていることです。」
尚書諸葛恢は劉翔の姉婿であり、独り異論を唱えて言った。「夷狄が互いに攻撃し合うのは、中国の利益である。ただ礼器と名号だけは、軽々しく許してはならない。」そして劉翔に言った。「仮に慕容鎮軍が石虎を滅ぼし得たとしても、また一人の石虎を得るに過ぎない。朝廷が彼に何を頼ることができようか!」劉翔は言った。「寡婦でさえ周室の滅亡を憂えたものです。今、晋室が危亡に瀕しているのに、あなたの地位は元・凱に等しく、憂国の心がないのでしょうか。仮に昔、靡・鬲の功業が立てられなければ、少康は何をもって夏朝を祀ることができたでしょう。斉桓公・晋文公の征戦が勝利を得なければ、華夏の人々は皆、左衽の衣服を着ることになったでしょう。慕容鎮軍は戈を枕にして旦を待ち、凶逆を滅ぼすことを志しているのに、あなたは邪悪で惑わすような言論を唱え、忠臣を猜疑し離間するのです。天下が未だ統一されないのは、まさにあなた方のような者たちのせいです!」劉翔は建康に留まること一年余り、衆議はついに決着しなかった。
劉翔はそこで中常侍彧弘に説いて言った。「石虎は八州の地を占拠し、百万の武装を擁し、長江・漢水の地を呑み込むことを志としています。索頭・宇文から諸々の小国に至るまで、臣服しない者はありません。ただ慕容鎮軍だけが天子を擁戴し、その精誠は白日をも貫くほどですが、かえって礼遇の任命を得られません。私は私かに、天下の人が心を移し、瓦解して離心し、もはや南方に心を向ける者がいなくなるのではないかと恐れています。公孫淵は呉国に対して一尺一寸の功績もなかったのに、呉主は彼を燕王に封じ、九錫を加えました。今、慕容鎮軍はしばしば賊の鋒先を摧き、その威名は秦・隴に震い、石虎はたびたび重要な使者を派遣し、甘言と厚礼をもって、彼に曜威大将軍・遼西王を授けようとしました。慕容鎮軍はその不正を憎み、拒絶して受け入れませんでした。今、朝廷は虚名を惜しんで、忠順の臣を圧制し阻む。これが国家の長久の計でしょうか!後日に悔いても、恐らく間に合わないでしょう。」彧弘は彼のために宮中に入って成帝に進言し、成帝もまた許す意向であった。ちょうど慕容皝が上表して言った。「庾氏兄弟が専権して禍乱を引き起こしたので、これを貶斥すべきで、もって国家を安定させるべきです。」また庾冰に書簡を送り、国政の大権を執りながら国家のために恥を雪げないことを非難した。庾冰は非常に恐れ、慕容皝が極遠の地にあり、自分の制御できるところでないため、何充と共に上奏してその請求を許可するよう求めた。乙卯、慕容皝を使持節・大将軍・都督河北諸軍事・幽州牧・大単于・燕王に任命し、諸々の礼儀器物・典冊策命は、すべて特別な礼に従った。またその世子慕容俊を仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王とし、軍資器械を千万計で賞賜した。また功臣百余人を封賞した。劉翔を代郡太守とし、臨泉郷侯に封じ、員外散騎常侍を加えた。劉翔は固辞して受けなかった。
劉翔は江南の士大夫が驕奢淫逸・酣飲放纵を以って互いに推崇し合うことを痛恨し、かつて朝中の権貴の宴会で、何充らに言った。「天下は動揺して已まず、すでに三十六年を過ぎました。宗廟社稷は廃墟と化し、百姓は水火の中に陥っています。これはまさに朝廷が憂慮すべき時であり、忠臣が命を献ずる時です。ところが諸君は長江の辺りで安逸を楽しみ、情欲を放纵し、奢侈靡費を以って栄えとし、傲慢荒誕を以って賢とします。正直な言は聞かれず、征伐の功は立てられません。何をもって君主を尊び、百姓を救うのでしょうか!」何充らは非常に慚愧した。
成帝は詔を下して兼大鴻臚郭烯に符節を持たせ、棘城に赴いて燕王を冊封させ、劉翔らと共に北行させた。公卿は江辺で彼らに餞別をした。劉翔は諸公卿に言った。「昔、少康は一軍によって有窮を滅ぼし、勾践は会稽に依って強呉に復讐しました。蔓延る野草でさえも早く除くべきであり、ましてや仇敵においておや!今、石虎・李寿は互いに併呑することを志しています。朝廷の軍隊がたとえ北方を掃清できなくとも、まず巴・蜀を当たるべきです。一旦石虎が先手を打って李寿を併呑し、地形の利を占めて東南を威逼すれば、たとえ智者といえども、後事を善処することはできません。」中護軍謝広は言った。「これこそ我が心の意です!」
三月、戊戌、皇后杜氏が崩じた。夏、四月、丁卯、恭皇后を興平陵に葬った。
成帝は詔を下して王公以下平民に至るまで戸籍を実査し、すべて実際の居住地に従って登記させ、白籍を確定した。
秋、七月、郭烯・劉翔らは燕国に到着した。燕王慕容皝は劉翔を東夷護軍・兼大将軍長史とし、唐国内史陽裕を左司馬、典書令李洪を右司馬、中尉鄭林を軍咨祭酒とした。
八月、辛酉、東海哀王司馬沖が薨じた。
九月、代王拓跋什翼犍は旧城の南八里に盛楽城を築いた。
代王妃慕容氏が薨じた。
冬、十月、匈奴劉虎が代国の西部を侵犯した。代王拓跋什翼犍は軍を派遣して迎撃し、劉虎を大破した。劉虎は死去し、その子劉務桓が位を継ぎ、使者を代国に派遣して和を請い、拓跋什翼犍は娘を彼に嫁がせた。劉務桓はまた趙国に朝貢し、趙国は劉務桓を平北将軍・左賢王とした。
趙国の横海将軍王華は水軍を率いて海路から燕国の安平を襲撃し、これを破った。
燕王慕容皝は慕容恪を渡遼将軍に任命し、平郭を鎮守させた。慕容翰や慕容仁の後、諸将の中で彼らに継ぐ者はいなかった。慕容恪が平郭に到着すると、旧臣を慰撫し新たな者を懐柔し、たびたび高句麗の軍を破った。高句麗は彼を恐れ、国境に入ることができなかった。
十二月、興平康伯の陸玩が死去した。
漢の主李寿は、その太子李勢に大将軍と録尚書事を兼任させた。当初、成の主李雄は倹約と寛厚仁恵をもって蜀の民心を得ていた。李闳と王嘏が鄴から帰還すると、鄴中の繁栄と富庶、宮殿の壮麗さを盛んに称賛し、また趙王石虎が刑罰と殺戮をもって臣下を御し、それゆえに国内を支配できると述べた。李寿はこれに羨望し、旁郡の三丁以上の家を遷して成都を充実させ、大規模に宮室を修築し、器物や玩好を整えた。人に小さな過失があれば、殺して威厳を立てた。左僕射の蔡興と右僕射の李嶷は、いずれも直言の諫言により処刑された。百姓は賦税や徭役に疲れ果て、道中には嘆きの声が満ち、反乱を企てる者が多かった。
