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晉紀

晋紀十九

第 19 篇

資治通鑑 第097巻

【晋紀十九】 玄黓摂提格より始まり、強圉協洽に至るまで、合わせて六年。

顕宗成皇帝の下、咸康八年(壬寅、西暦342年)

春、正月、己未朔、日食す。乙丑、大赦す。豫州刺史庾怿、酒を江州刺史王允之に送る。允之、酒中に毒ありと察し、犬に飲ましむるに、犬即ち斃る。乃ち密かに奏す。成帝曰く、「大舅已に天下を乱す。小舅また是くの如くならんと欲するか!」と。二月、庾怿、毒酒を飲みて死す。三月、始めて武悼后の牌位を武帝廟に配享す。庾翼、武昌に在るに、屡々怪異有り。鎮所を楽郷に遷さんと欲す。征虜長史王述、庾冰に書を致して曰く、「楽郷、武昌を去ること千余里、数万の衆、一旦移徙せば、城郭を更に修築し、公私有りて労擾せん。且つ江州、逆流して数千里を上り、軍府の資を供給すれば、力役倍加せん。況んや武昌実に是れ江東の鎮戍の要衝にして、但だ御上流のみに非ざるなり。緩急を報ずるに、駿馬奔馳するも難からず。若し楽郷に移らば、西陲の遠きに在り、一旦江渚に変有らば、相い救接する能わざるなり。方伯・重将、固より当に要害に居り、内外の形勢を為し、窺覦する者をして向かう所を知らざらしむべし。昔秦、亡胡の讖を忌み、終に劉・項の資と為る。周、檿弧の謡を悪み、而して褒姒の禍を成す。是の故に達節の君子、直道を行い、禳避の術、皆な取らざるなり。当に人事の可否を択び、国計の遠大を思うのみ。」と。朝廷の議も亦た述の言を是とす。翼、乃ち徙を止む。夏、五月、乙卯、成帝、不豫す。六月、庚寅、疾篤し。或る人、尚書符を偽造し、宮門に勅して宰相を入れしめず。衆人皆な失色す。庾冰曰く、「是れ必ず偽なり。」と。推問するに、果たし然り。成帝の二子丕・弈、皆な襁褓に在り。庾冰、自ら兄弟権柄を秉ること久しきを以て、慮らく易代の後、親属愈々疏遠にして、人の間を為すを被らんことを。常に成帝に勧めて曰く、国有強敵、宜しく長君を立てよと。請うに、母弟琅邪王岳を以て為す。帝之れを聴く。中书令何充曰く、「父子相伝、先王の旧典。之を変ずるに乱を致さざるは鮮し。故に武王、聖弟に位を伝えず、愛せざるに非ざるなり。今琅邪王践祚せば、孺子を如何にせん!」と。庾冰聴かず。詔を下し、岳を以て嗣と為し、弈をして琅邪哀王を嗣がしむ。壬辰、庾冰・何充及び武陵王晞・会稽王昱・尚书令诸葛恢、同じく遺詔を受く。癸巳、成帝崩ず。帝、幼にして嗣位し、万機を親らせず。長じて後、頗る倹徳有り。甲午、琅邪王、皇帝位に即く。大赦す。己亥、成帝の子丕を琅邪王と為し、弈を东海王と為す。康帝、喪に居り言わず、政を庾冰・何充に委ねる。秋、七月、丙辰、成帝を興平陵に葬る。康帝、歩して喪を送り、阊阖門に至り、乃ち素車に乗りて陵所に至る。葬竟りて、帝殿前に臨み、庾冰・何充侍坐す。帝曰く、「朕、大業を嗣ぐは、二卿の力なり。」と。充曰く、「陛下龍飛するは、臣冰の功なり。若し臣の議の如くならば、太平の世を睹る能わざらん。」と。帝、慚色有り。己未、何充を以て騠騎将軍・都督徐州揚州之晋陵諸軍事・領徐州刺史と為し、京口に鎮し、以て庾氏を避く。冬、十月、燕王慕容皝、都を龙城に遷し、境内を赦す。建威将军慕容翰、皝に説きて曰く、「宇文部、強盛久しく、屡々国の患と為る。今逸豆归、篡窃し、衆心附かず。加之、性識昏庸にして、将帥非才、国に防備無く、軍に部伍無し。臣、久しく其国に居り、地形に習熟す。雖其れ遠く強羯に附すと雖も、声勢相い接せず、救援に益無し。今若し之を攻めれば、百戦百勝せん。然れども高句麗、我に密邇し、常有りて闚窬の志有り。彼、宇文の亡を聞きて、禍必ず己に及ぶと知らば、必ず虚に乗じて深く入り、吾が不備を襲わん。若し少く留むれば則ち守るに足らず、多く留むれば則ち行くに足らず。是れ心腹の患、当に先ず之を除くべし。其の勢を観るに、一戦して克つ可し。宇文は但だ自守の敵、遠く来りて利を争う能わず。高句麗を取りし後、還りて宇文を取り、掌を反すが如し。二国平定せば、利尽くして東海に帰し、国富み兵強く、顧に後患無く、然る後中原を図る可し。」と。皝曰く、「善し!」と。将に高句麗を討たんとす。高句麗に二道有り。北道平衍にして広闊、南道険狭なり。衆、北道より進まんと欲す。翰曰く、「敵、常情を以て料らば、必ず大軍北道より来たると為し、当に北道を重んじ南道を軽んずべし。王、宜しく鋭兵を率いて南道より撃ち、其の意表に出でば、丸都は取り易からん。別に偏師を遣わして北道より出で、縦令挫衄有るとも、其の腹心已に潰え、四肢無為なるのみ。」と。皝、之に従う。十一月、皝、自ら精兵四万を率いて南道より発す。慕容翰・慕容霸を以て前鋒と為す。別に長史王寓等に兵一万五千を率いしめて北道より発し、以て高句麗を討つ。高句麗王釗、果して其の弟武を遣わし精兵五万を率い北道に拒戦せしめ、自ら羸弱を率いて南道を備う。翰等先ず至り、釗と戦う。皝、大衆を以て継ぎ至る。左常侍鮮于亮曰く、「臣、俘虜の身を以て、国士の遇いを蒙り、報いる能わず。今日、臣が死を致すの日なり!」と。独り数騎を率いて高句麗の陣に拠る。鋒を摧かざる所無し。高句麗の陣動き、大衆縦撃し、高句麗兵大敗す。左長史韓寿、高句麗の将阿佛和度加を斬る。諸軍、勝に乗じて追撃し、遂に丸都に入る。釗、単騎走る。軽車将軍慕輿泥、追いて其の母周氏及び妻を獲て還る。会に王寓等、北道に戦い、皆な敗没す。是に由りて皝、窮追せず。使者を遣わして釗を招降す。釗、出でず。皝、将に還らんとす。韓寿曰く、「高句麗の地、守る可からず。今其の君亡び民散じ、山谷に潜伏す。大軍去りし後、必ず復た鳩集し、余燼を収めて、猶お足れりて患と為す。請う其の父の屍を載せ、其の母を囚えて生かして還り、其の自ら帰するを俟ちて而して後之を返し、恩信を以て之を撫せば、是れ上策なり。」と。皝、之に従う。釗の父乙弗利の墓を発き、其の屍を載せ、其の府庫の歴世積物を収め、男女五万余口を虜獲し、其の宮室を焚き、丸都を毀ちて還る。十二月、壬子、妃褚氏を立てて皇后と為す。征しを侍中・尚书と為す。裒、后父を以て、内に在るを願わず、苦請して外を求む。乃ち建威将軍・江州刺史と為し、半洲に鎮す。趙王虎、台観四十余所を邺に作る。又洛陽・長安の二宮を営作し、民夫四十余万人を役す。又邺より閣道を襄国に修せんと欲す。河南四州に勅して南征の備を具え、并・朔・秦・雍四州に厳に西討の資を整え、青・冀・幽三州に東征の計を為さしめ、皆な三丁取五とす。諸州甲士を造る者五十余万人、船夫十七万人、水に溺れ虎狼に食わるる者三分の一を占む。加うるに公侯牧宰、競いて私利を営み、百姓失業し、愁困す。贝丘人李弘、衆怨に因り、姓名讖に応ずと自称し、党を結び百寮を置く。事発覚し、誅され、連坐して死する者数千家。虎、畋猟に節無く、晨出で夜帰る。又屡々微行し、工役を親察す。侍中京兆人韦𫍲、諌めて曰く、「陛下、天下之重を忽にし、軽く斧鉞の間に出入す。万一狂夫の変有らば、智勇有りと雖も、之を如何せん!又、役に時無く、民の稼穡を廃す。歎声、道路に盈つ。恐らくは仁聖の君の忍びたもう所に非ざらん。」と。虎、𫍲に谷帛を賜う。而して営作愈々繁く、游察自若なり。秦公韜、虎の寵愛を受け、太子宣之を悪む。右僕射张离、五兵尚书を領し、宣に媚びんと欲し、之に説きて曰く、「今諸公の吏兵、限を過ぐ。漸く裁減し、以て根本を壮にすべし。」と。宣、離に命じて奏を上せしめて曰く、「秦公・燕公・义阳公・乐平公四人をして、吏を置くこと一百九十七人、帳下兵二百人を聽す。自是以下、三分の一に依りて置く。其余の兵五万、悉く東宮に配す。」と。是に由りて諸公怨望し、嫌隙愈々深し。青州上言す、「济南平陵城北の石虎、一夜にして城東南に移る。狼狐千余の迹、之に従い、迹皆な小路を成す。」と。虎、喜びて曰く、「石虎、朕なり。西北より東南に徙るは、天、朕に江南を平らげしめんと欲するなり。諸州の兵に勅し、明年悉く集め、朕、将に六軍を率いて、以て天命を奉ぜんとす。」と。群臣皆な賀し、皇德頌を上る者一百七人。制を下して曰く、「発する所の兵、五人に車一両、牛二頭、米十五斛、絹十匹を出さしむ。調弁せざる者は斬す。」と。民、子を鬻ぎ女を売りて供するも、猶お能く足らず、道傍の樹に自経する者相望む。

康皇帝

康皇帝下建元元年(癸卯、紀元三四三年)

春、二月、高句麗王釗、其の弟を遣はして燕に臣と称し朝貢せしむ、献ずる所の珍宝異物数千を以てす。燕王慕容皝、是に於て其の父の屍を還すも、猶ほ其の母を留めて人質と為す。

宇文逸豆归、其の丞相莫浅渾を遣はして軍を率ゐて燕を攻む。燕の諸将争ひて撃たんことを請ふも、燕王慕容皝許さず。莫浅渾、慕容皝の己を畏るるを以て、酣飲縱獵し、復た防備せず。慕容皝、慕容恪を遣はして撃たしむ、莫浅渾大敗し、僅かに身を免るるのみ、其の部衆悉く俘と為る。

庾翼、人と為り慷慨にして、功名を好み、浮華を崇尚せず。琅邪内史桓温は、桓彝の子にして、南康公主に娶し、豪爽にして風度有り。庾翼、之と親善にして、相ひ期して天下を安定せんとす。庾翼、嘗て晋の成帝に桓温を薦めて曰く、「桓温は英雄の才有り、願はくは陛下、常人の以て之を待し、常の婿の以て之を蓄ふること無からん。方叔、邵虎の如き重任を委ぬれば、必ず匡救艱難の大功を建つべし。」時に杜乂、殷浩、皆才名当世に冠たるも、独り庾翼は之を重んぜず、曰く、「此の輩は当に束の高閣に置き、天下の平らかなるを待ちて、徐ろに其の任用を議すべし。」殷浩、屡々征辟を辞し、墓所の側に隠居すること、将に十年に及ばんとす。時人、之を管仲、諸葛亮に比す。江夏相謝尚、長山令王蒙、常に其の出処を観察し、以て江左の興亡を推す。曾て相ひ倶に殷浩を訪ひ、其の堅き志有るを知り、還りて相ひ謂ひて曰く、「殷深源出でずんば、天下の百姓奈何せん!」謝尚は、謝鯤の子なり。庾翼、殷浩を請して司馬と為す。朝廷、詔して侍中、安西軍司を拝命す。殷浩応命せず。庾翼、殷浩に書を遺して曰く、「王夷甫は名声を立てるに誠実無く、道を談ずと雖も、実に浮華の競を長ず。徳有る君子、此の時勢に遭ひて、豈に然るべけんや!」殷浩、猶ほ肯て出仕せず。

殷羡、長沙相と為り、郡中に在りて貪婪殘暴なり。庾冰、庾翼に書を致して之を託し顧みる。庾翼、書を返して曰く、「殷君驕傲橫暴、亦其の佳児有るが如く、弟是に因りて少しく人情を以て之を容る。大に江東の政事を概略すれば、姑息豪強を常と為し、是れ常に百姓の蠧と為る。或は法令を施行するも、亦た常に貧弱の人に施す。譬へば往年、石頭城の倉庫一百万斛米糧を盗みし者は、皆豪強將領の輩なるに、唯だ倉督監を殺して責めを塞ぐ。山遐、餘姚長と為り、官府の為に豪強の隱匿せる二千戸の人口を查出するも、衆人相ひ倶に之を逐ひ、安坐するを得ざらしむ。是れ皆前代の宰相の昏庸謬乱に由ると雖も、江東大事の敗壞、実に此の故に在り。我が兄弟不幸にして、横に此の中に牽連陷没し、既に風塵の外に自ら抜く能はずんば、当に相ひ共に目を張りて政事を視るべし。荊州の統領する所の二十余郡、唯だ長沙最も劣悪なり。劣悪にして黜けずんば、督監を殺す者と何の異有らんや!」山遐は、山簡の子なり。

庾翼、胡を滅し蜀を取るを以て己が任と為し、使者を遣はして東に燕王慕容皝と約し、西に張駿と約し、日期を定めて大挙す。朝議多く困難と為すも、唯だ庾冰意を同じくし、而して桓温、譙王司馬无忌、皆之を賛す。司馬无忌は、司馬承の子なり。

秋、七月、後趙の汝南太守戴開、数千人を率ゐて庾翼の所に降る。丁巳、詔して中原経略を議す。庾翼、衆を悉くして北伐せんと欲し、表を上りて桓宣をして都督司雍梁三州荊州四郡諸軍事梁州刺史たらしめ、丹水に往かしむ。桓温をして前鋒小督假節たらしめ、衆を率ゐて臨淮に入らしむ。同時に其の統領する六州の奴隷及び車牛驢馬を発するに、百姓嗟怨す。

代王什翼犍、復た燕に婚を請ふ。燕王慕容皝、馬一千匹を納めて聘礼と為すを命ず。什翼犍与へず、又傲慢無礼にして、子婿の礼無し。八月、慕容皝、世子慕容俊を遣はして前軍師慕容評等を率ゐて代を攻めしむ。什翼犍、衆を率ゐて避けて去り、燕人獲る所無くして還る。

漢主李寿、薨ず。諡して昭文と曰ひ、廟号を中宗と為す。太子李勢、位に即き、大赦す。

後趙の太子石宣、鮮卑斛谷提を攻撃し、大いに之を破り、首級三万を斬る。

宇文逸豆归、段遼の弟段蘭を獲て後趙に送り、並せて駿馬一万匹を献ず。趙王石虎、段蘭をして所従の鮮卑五千人を率ゐて令支に屯せしむ。

庾翼、襄陽に移鎮せんと欲す。朝廷の許さざるを恐れ、乃ち上奏して安陸に移鎮せんと曰ふ。皇帝及び朝士、皆使者を遣はして庾翼を諫止す。庾翼、是に於て詔に違ひて北行す。夏口に至り、又表を上りて襄陽に鎮守せんことを請ふ。庾翼、時に部衆四万人有り。詔して庾翼に都督征討諸軍事を加ふ。此に先だち、車騎将軍揚州刺史庾冰、屡々外任を請ふ。辛巳、庾冰をして都督荊江寧益梁交広七州豫州四郡諸軍事兼江州刺史たらしめ、假節し、武昌に鎮守し、庾翼の後援と為す。徐州刺史何充を召して督揚豫徐州之琅邪諸軍事兼揚州刺史録尚書事と為し、朝政を輔けしむ。琅邪内史桓温をして都督青徐兗三州諸軍事徐州刺史たらしめ、江州刺史褚裒を召して衛将軍兼中書令と為す。

冬、十一月、己巳、大赦す。

康皇帝下建元二年(甲辰、紀元三四四年)

春、正月、趙王石虎、太武殿に群臣を宴す。白雁百余、馬道の南に集まる。石虎、射殺せしむるも、皆中らず。時に諸州の集結せる兵士、百余万人。太史令趙攬、密かに石虎に謂ひて曰く、「白雁、庭中に集まるは、宮室将に空寂ならんとするの兆なり、南行に宜しからず。」石虎、其の言を信じ、是に於て宣武観に臨み、大閲を行ひて止む。

漢主李勢、年号を太和と改む。母閻氏を尊びて皇太后と為し、妻李氏を立てて皇后と為す。

燕王慕容皝、左司馬高詡と宇文逸豆归を討たんことを議す。高詡曰く、「宇文氏強盛にして、今取らずんば、必ず国の患と為らん。之を討てば必ず勝つも、将に利あらず。」出でて人に告げて曰く、「吾此の往き必ず返らざるべし、然れども忠臣は難を避けず。」是に於て慕容皝、自ら軍を率ゐて逸豆归を討つ。慕容翰を前鋒将軍と為し、劉佩を副と為す。別に慕容軍、慕容恪、慕容霸及び折衝将軍慕輿根に命じ、兵を率ゐて三路に分れて並進す。高詡、将に出発せんとするも、其の妻を見ず、人を遣はして家事を告げて後上路す。

逸豆归、南羅大将渉夜干を遣はして精兵を率ゐて迎戦せしむ。慕容皝、人を馳せて慕容翰に告げて曰く、「渉夜干、勇冠三軍、当に少しく之を避くべし。」慕容翰曰く、「逸豆归、其の国内の精鋭を尽くして渉夜干に委ぬ。渉夜干、素より勇名有り、一国の頼む所なり。今之に勝たば、其の国自ら潰れん。況んや吾、渉夜干の人の為るを熟知す。虚名有るも、実は易く制す。避くべからず、以て我が軍気を挫かん。」乃ち進みて戦ふ。慕容翰、自ら衝鋒して陣を陥る。渉夜干出でて戦ふ。慕容霸、傍らより邀撃し、是に於て渉夜干を斬る。宇文氏の兵、渉夜干の死を見て、戦はずして潰ゆ。燕軍、勝に乗じて追撃し、遂に其の都を抜く。逸豆归、漠北に走りて死す。宇文氏、是に由り散滅す。慕容皝、其の畜産資財を悉く収め、其の部衆五千余部落を昌黎に遷し、地を開くこと一千余里。渉夜干の居たる城を改めて威徳城と名づけ、弟慕容彪を遣はして戍守せしめて後還る。高詡、劉佩、皆流矢に中りて死す。

高詡は天文に精通していた。慕容皝がかつて彼に言った。「そなたは良い書物を持っていながら私に見せないとは、どうして忠誠を尽くし節義を全うするというのか!」高詡は答えた。「私は聞いております。君主は大綱を掌握し、臣下は職務を遂行すると。大綱を掌握する者は安らかであり、職務を遂行する者は勤労であると。それゆえ后稷が耕し種を蒔いても、堯はそれに関与しなかったのです。占候や天文は、朝な夕なに辛苦を伴うものであり、帝王が自ら関与すべき事柄ではありません。殿下がそれを求めて何をなさろうというのですか!」慕容皝は沈黙した。

当初、逸豆帰は趙に仕えること極めて恭順であり、貢物を送る使者が道に絶えることなかった。燕人が逸豆帰を討伐すると、趙王石虎は右将軍白勝、并州刺史王霸を甘松から派遣して救援した。彼らが到着した時には、宇文氏はすでに滅亡しており、威徳城を攻撃したものの攻略できずに帰還した。慕容彪が追撃し、これを撃破した。

慕容翰が宇文氏と戦った時、流れ矢に当たり、床に臥せることが長く続き外出しなかった。後に病が徐々に快方に向かい、家の中で試しに馬に乗った。ある者が慕容翰が病と称しながら密かに馬を駆けていると告発し、変乱を企てているのではないかと疑った。燕王慕容皝は慕容翰の勇猛な謀略を頼りにしていたが、内心ではついに彼を忌み嫌い、慕容翰に死を賜った。慕容翰は言った。「私は罪を負って逃亡し、やがて帰参した。今日死ぬのはすでに遅すぎる。しかし羯賊が中原を占拠している。私は自らの力量を顧みず、国家のために天下を平定しようとした。この志が遂げられず、遺憾を残すのは、天命である!」そして毒を仰いで死んだ。

代王什翼犍はその大人長孫秩を燕に派遣し、妻を迎えた。

夏、四月、涼州の将軍張瓘が三交城で趙の将軍王擢を破った。

当初、趙の領軍王朗が趙王石虎に言った。「厳冬の雪寒の中、皇太子は人を遣わして宮室の木材を伐採させ、漳水から運搬させ、数万人を酷使し、道中は嘆きの声で満ちています。陛下は遊幸の機会に乗じてこれを中止させるべきです。」石虎はその言葉に従った。太子石宣は大いに怒った。折しも火星が房宿に留まった。石宣は太史令趙攬を遣わし、石虎に言わせた。「房宿は天王の象徴です。今、火星がここに留まるのは、その災禍が小さくありません。王姓の貴臣をもってこれを受けさせるべきです。」石虎が「誰がよいか」と尋ねると、趙攬は「王領軍より尊い者はおりません」と答えた。石虎は心の中で王朗を惜しみ、趙攬に次の者を言わせようとした。趙攬は答えに窮し、ついに言った。「次には中書監の王波しかおりません。」石虎はそこで詔を下し、王波が先に楛矢のことを論じた罪を問い、彼を腰斬に処し、その四人の子も共にし、屍を漳水に投げ込んだ。ほどなく彼に罪がないことを憐れみ、司空を追贈し、その孫を侯に封じた。

趙の平北将軍尹農が燕の凡城を攻撃したが、攻略できずに帰還した。

漢の太史令韓皓が上奏した。「火星が心宿に留まるのは、宗廟を修繕しないことへの天の咎めです。」漢主李勢は群臣に議させたは「景帝、武帝が基業を開き、献帝、文帝がそれを継承しました。至親は遠くなく、疎遠に隔絶すべきではありません」と述べた。そこで再び成始祖、太宗を祭祀するよう命じ、いずれも漢と称した。

征西将軍庾翼は梁州刺史桓宣を派遣し、丹水で趙の将軍李罴を攻撃させたが、李罴に敗れた。庾翼は桓宣を建威将軍に降格した。桓宣は恥辱と怒りで病に罹り、秋、八月、庚辰の日に死去した。庾翼は長子庾方之を義城太守とし、桓宣の部衆を代理させた。また司馬応誕を襄陽太守とし、参軍司馬勲を梁州刺史として西城に戍らせた。

中書令褚裒は枢要の職を固辞した。閏月、丁巳の日、褚裒を左将軍、都督兗州・徐州の琅邪諸軍事、兗州刺史とし、金城に鎮守させた。

皇帝の病が重くなり、庾冰、庾翼は会稽王司馬昱を後継者に立てようとした。中書監何充は皇子司馬聃を立てるよう建議し、皇帝はその意見に従った。九月、丙申の日、司馬聃を皇太子に立てた。戊戌の日、皇帝は式干殿で崩御した。己亥の日、何充が遺旨をもって太子に即位を奉り、大赦を行った。このため庾冰、庾翼は何充を深く恨んだ。皇后褚氏を皇太后と尊んだ。当時、穆帝はわずか二歳であり、太后が臨朝称制した。何充は中書監を加えられ、録尚書事となった。何充は自ら、既に録尚書事となった以上、中書監を兼ねるべきではないと述べ、皇帝はこれを許し、さらに侍中を加えられた。

何充は左将軍褚裒が太后の父であり、朝政を総覧すべきであると考え、上疏して褚裒を参録尚書に推薦した。そこで褚裒を侍中、衛将軍、録尚書事とし、持節、都督、刺史は従来のままとした。褚裒は近親であることを理由に、謗りや嫌疑を招くことを恐れ、上疏して固く藩鎮に留まることを求めた。そこで都督徐・兗・青三州・揚州の二郡諸軍事、衛将軍、徐・兗二州刺史に改任し、京口に鎮守させた。尚書が上奏した。「褚裒が太后に拝謁する場合、公庭では臣子の礼を行い、私的に謁見する場合は父の礼を行います。」皇帝はこれを認めた。

冬、十月、乙丑の日、康帝を崇平陵に葬った。

江州刺史庾冰が病にかかった。太后は庾冰を召して輔政させようとしたが、庾冰は辞退し、十一月、庚辰の日、死去した。庾翼は家国のことにより、子の庾方之を建武将軍として残し、襄陽に戍らせた。庾方之は幼かったため、参軍毛穆之を建武司馬として補佐させた。毛穆之は毛宝の子である。庾翼は夏口に帰鎮し、詔により庾翼に再び江州を都督させ、さらに豫州刺史を兼ねさせた。庾翼は豫州を辞退し、また楽郷に移鎮しようとしたが、詔は許さなかった。庾翼はなおも軍器を修繕し、大規模に屯田して穀物を蓄え、後の行動を図った。

趙王石虎は霊昌津に河橋を建設しようとし、石を採って中流の柱としたが、石を置くとすぐに水流に流され、労力五百余万を用いても橋は完成しなかった。石虎は大いに怒り、工匠を斬殺して中止した。

孝宗穆皇帝下 永和元年(乙巳、紀元三四五年)

春、正月、甲戌朔、皇太后が太极殿に白紗の帷を設け、幼帝を抱いて臨朝聴政した。

趙の義陽公石鑑は関中を鎮守し、徭役は重く賦税は苛烈であり、文武の官の中に長い髪の者がいれば、それを抜いて帽の纓とし、残りは宮人の用に供した。長史が髪を取ったことを趙王石虎に報告し、石虎は石鑑を召して鄴に帰らせた。楽平公石苞を代わりに長安に鎮守させた。雍州、洛州、秦州、并州の十六万人を徴発し、長安の未央宮を修筑させた。

石虎は狩猟を好み、晚年は体が肥えて馬に乗れなくなったため、獵車一千輛を製造し、期日を定めて狩猟を競わせた。霊昌津から南は荥陽に至り、東は陽都に至るまでを獵場とし、御史を派遣してその中の禽獣を監察させ、禁令に触れる者があれば、刑罰は死刑に及んだ。民間に美女や良馬があれば、御史が求めても得られない場合、彼らが禽獣の禁令に触れたと誣告し、そのために死罪となった者は百余人に及んだ。諸州の二十六万人を徴発して洛陽宮を修筑した。民の牛二万頭を徴発し、朔州牧官に配した。女官を増やして二十四等とし、東宮は十二等、公侯七十余国はすべて九等とし、民間の女子三万人余りを大量に徴集し、三等に分けてこれらに配した。太子や諸侯王公が私的に命令して徴発した者はまた一万人近くに及んだ。郡県は美色を極力搜求し、多くは強引に他人の妻を奪い、その夫を殺し、また自殺した夫は三千余人に及んだ。鄴に送られた後、石虎は殿前に臨んで等級を選び、使者が有能であるとして、侯に封じた者は十二人いた。荆楚、揚州、徐州の百姓は流亡し叛く者がほとんど尽きた。郡守県令は懐柔できなかった罪に問われ、下獄して処死された者は五十余人に及んだ。金紫光禄大夫逯明が侍奉の機会に乗じて恳切に諫めた。石虎は大いに怒り、龍騰の軍士に命じて彼を引きずり出して殺させた。

燕王慕容皝は貧民に牛を貸し与え、苑囿の中で耕作させ、収穫の十分の八を税として取り、自ら牛を持つ者からは十分の七を税として取った。記室参軍封裕が上書して諫め、言うには、「古くは十分の一の税を取るのが、天下において中正公平な法でありました。魏や晋の時代に至り、仁政は衰え浅薄になりましたが、官田・官牛を借りる者でもせいぜい十分の六の税を取り、自ら牛を持つ者には平分するだけで、なお十分の七や八を取ることはありませんでした。永嘉以来、天下は動揺し崩れ去り、武宣王(慕容廆)が徳政をもって撫で安んじたため、华夏と夷狄の人々が万里のかなたから集まり、子を背負って帰順したのは、まるで嬰児が父母に帰するかのようでありました。このため戸口は昔の十倍に増え、田地を持たない者が十分の三、四を占めております。殿下が大統を継がれてから、南のかた強き趙を摧き、東のかた高句麗を併せ、北のかた宇文部を奪い、領土を三千里広げ、民戸を十万増やされました。まさにこの時こそ、苑囿をことごとく廃して新たに帰順した百姓に分け与え、牛のない者には官府が牛を賜い、重税を再び課すべきではありません。それに、殿下的な百姓を用いて殿下的な牛を使うのであれば、もし牛が殿下の所有でなければ、それはどこにあるのでしょうか?こうすれば、軍が南に進発する時、百姓で誰が箪食壺漿をもって王師を迎えないでしょうか。石虎は誰と共にいることができましょうか!河川や溝渠が塞がれ廃れたものは、すべて疏通して利用すべきであり、干ばつには灌漑に使い、水害には排水に用いるべきです。一人の農夫が耕さなければ、それによって飢える者がいます。ましてや数万の遊手好閑の者がいるのに、どうして家々が富み、人々が足りることなどありましょうか。今、官府の人員は雑多で多く、むだに俸禄を浪費しております。もし才能が職務に耐えられないなら、すべて淘汰すべきです。工商業は末利であり、定員を設けるべきです。学生が三年で成果をあげなければ、むだに英才の道を塞ぐことになるので、すべて農業に戻すべきです。殿下は聖徳寬厚明察で、草野の鄙見を広くお採りになられます。参軍王憲、大夫劉明はともに上書して旨に触れ、主管の官は彼らを死刑に処そうとしましたが、殿下はその死罪を寬恕されたものの、なお官を免じて禁固されました。諫言を求めておきながら直言を罰するのは、あたかも越に行こうとして北に向かうようなもので、必ずその目的を達することはできません!右長史宋該らは阿諛追従して苟且に身を容れ、軽々に諫諍の士を弾劾し、自ら剛正の節操がなく、かえって他人のそれを妬み、耳目を掩蔽するのは、最も不忠な行いであります。」慕容皝はそこで令を下し、言うには、「封記室の諫言を観て、朕は実に恐懼する。国は民を本とし、民は食を命とする。すべて苑囿を廃して、田地のない百姓に分け与えることができる。真に貧しい者には、官府が牛を与える。力が余って官府の牛を得ることを願う者は、すべて魏・晋の旧法に従う。溝渠が真に有益なものは、時に修治するよう命じる。今、戦事がまさに起こり、功勲の賞賜が多く、税収を減らすことはできない。中原が平定統一されるのを待って、徐々に議そう。工商業や学生は、すべて裁減し選抜すべきである。臣が君に言を進めるのは、最も難しいことである。たとえ狂妄のところがあっても、その善きものを選んで従うべきである。王憲、劉明は、罪は廃黜に当たるとはいえ、これも朕の度量が広くないからである。すべて原官を復し、なお諫官とせよ。封生は忠誠直亮で、深く王臣の体を得ている。銭五万を賜う。内外に宣告せよ。朕が過失を陳べようと思う者は、貴賤を問わず、忌諱することなかれ!」慕容皝はかねてより文学を愛し、しばしば自ら学校に行き講授し、考課する生徒は一千余人に及び、その中には多く濫りにまぎれた者がいたので、封裕がこのことを言及したのである。

詔を下して衛将軍褚裒を召し、揚州刺史・録尚書事に任命しようとした。吏部尚書劉遐、長史王胡之が褚裒に説いて言うには、「会稽王司馬昱は美徳と清雅な声望を持ち、国家の周公であります。公は大政を彼に委ねられるべきです。」褚裒はそこで固辞し、藩鎮に帰った。壬戌の日、会稽王司馬昱を撫軍大将軍・録尚書六条事に任命した。司馬昱は清浄で虚心、欲望が少なく、特に玄学清談を得意とし、常に劉惔、王蒙および潁川の韓伯を談客とし、また郗超を撫軍掾に、謝万を従事中郎に召した。郗超は郗鑑の孫で、年少の時から卓越して群を抜き、束縛されなかった。父の郗愔は、沈黙寡言で謙虚退譲であったが、財貨には非常に吝嗇で、銭を数千万も蓄え、かつて銭庫を開いて郗超に自由に取らせた。郗超はそれを親戚朋友に撒き散らし、一日で使い尽くした。謝万は謝安の弟で、清高で俊秀、当時の名声もあった。

燕の国に黒龍と白龍が竜山に現れ、頭を交わらせて戯れ、角を脱ぎ捨てて去った。燕王慕容皝は自ら太牢をもって祭祀し、境内を赦免し、住居する新たな宮殿を和龍と名付けた。

都亭粛侯の庾翼が背中に毒瘤を生じた。上表して子の庾爰之に輔国将軍・荊州刺史を代行させ、後任を委ねるよう求め、司馬の義陽人朱焘を南蛮校尉とし、千人を率いて巴陵を守らせた。秋、七月、庚午の日、庾翼が死去した。

庾翼の部将の干瓚らが乱を起こし、冠軍将軍曹据を殺した。朱焘が安西長史の江虨、建武司馬の毛穆之、将軍の袁真らと共にこれを誅殺した。江虨は江統の子である。

八月、豫州刺史の路永が叛いて趙に奔り、趙王石虎は路永に寿春を守らせた。

庾翼が死去した後、朝廷の議論は皆、庾氏が代々西方の藩鎮を鎮めて人心が安定しているので、庾翼の請いに従い庾爰之にその職を代行させるべきだとした。何充が言うには、「荊楚は国家の西門であり、戸口は百万。北は強き胡人に連なり、西は勁き蜀地に隣接し、地勢は険阻で、周囲は万里。適任者を得れば中原を平定でき、失えば国家の憂いとなる。これは陸抗が言うところの『(荊州が)存すれば呉は存し、亡べば呉は亡ぶ』という場所である。どうして白面の少年をもって担当させることができようか!桓温の英明な謀略は常人を超え、文武の才能を備えている。西方の辺境の任は、桓温より適した者はいない。」議論する者がまた言うには、「庾爰之が桓温に位を譲るだろうか?もし兵力をもって抗拒すれば、恥辱と恐懼は小さくない。」何充が言うには、「桓温は彼を制するに足る。諸君は憂いることはない。」

丹楊尹の劉惔は常に桓温の才能に驚嘆したが、しかし彼に不臣の心があることを知り、会稽王司馬昱に言うには、「桓温は形勝の地に置くべきではありません。彼の官位称号は常に抑えるべきです。」司馬昱に自ら上流に鎮し、自分を軍司とするよう勧めたが、司馬昱は聴かず、また自ら行くことを請うたが、これも聴かれなかった。

庚辰の日、徐州刺史桓温を安西将軍・持節・都督荊司雍益梁寧六州諸軍事・兼領護南蛮校尉・荊州刺史とし、庾爰之は果たして争うことを敢えなかった。また劉惔を監沔中諸軍事・兼領義成太守とし、庾方之に代わらせた。庾方之、庾爰之を豫章に移した。

桓温はかつて雪の日に狩りをしようとし、先に劉惔を訪ねた。劉惔は彼の装束が非常に整っているのを見て、彼に言うには、「老賊、これを持って何をしようとするのか。」桓温は笑って言うには、「私がこれをしなければ、あなたはどうして安坐して談論できようか。」

漢主李勢の弟の大将軍李広は、李勢に子がないため、太弟となることを請うたが、李勢は許さなかった。馬当、解思明が諫めて言うには、「陛下の兄弟は多くはありません。もしまた廃黜することがあれば、ますます孤危になるでしょう。」固く請うて許すよう求めた。李勢は彼らが李広と陰謀があると疑い、馬当、解思明を捕らえて斬り、その三族を滅ぼした。太保李弈を涪城に遣わして李広を襲撃させ、李広を臨邛侯に貶め、李広は自殺した。解思明は捕らえられた時、嘆いて言うには、「国家が滅びないのは、我ら数人が存在するからである。今や危ういだろう!」談笑自若として死んだ。解思明は智略があり、敢えて諫争した。馬当はかねてより人心を得ていた。彼らが死ぬと、士卒は哀悼しない者はなかった。

冬、十月、燕王慕容皝、慕容恪を遣わして高句麗を攻め、南蘇を抜き、戍守を置いて還る。

十二月、張駿、焉耆を攻め、焉耆降る。是歳、張駿、武威等十一郡を分かち涼州と為し、世子の張重華を以て刺史と為す。興晋等八郡を分かち河州と為し、寧戎校尉の張瓘を以て刺史と為す。敦煌等三郡及び西域都護等三営を分かち沙州と為し、西胡校尉の楊宣を以て刺史と為す。張駿、自ら大都督・大将軍・仮涼王と称し、三州を統轄し、始めて祭酒・郎中・大夫・舍人・謁者等の官職を置く。官員は皆朝廷に倣いて名を少しく改め、車駕・服飾・旌旗は諸王に比す。

趙王石虎、冠軍将軍姚弋仲を以て持節・十郡六夷大都督・冠軍大将軍と為す。姚弋仲、清廉倹朴にして剛直、威儀を飾らず、言談に畏避する所無し。石虎、甚だ之を重んず。朝廷の大議には、常に之をして与らしめ、公卿皆之を畏れて其の下に在る。武城左尉は、石虎の寵愛する姫妾の弟なり。嘗て姚弋仲の営に入り、其の部衆を侵擾す。姚弋仲、之を捉えて数えて曰く、「汝、禁尉と為りて、小民を逼迫す。我、大臣と為りて、親ら見る所あり、縦容する能わず。」左右に命じて之を斬らんとす。左尉、叩頭して血を流し、左右固く諫めて、乃ち止む。

燕王慕容皝、古の諸侯の即位に各々元年を称うるを以て、始めて晋の年号を用いず、自称十二年とす。

趙王石虎、征東将軍鄧恒を遣わして数万の兵を率い樂安に駐屯せしめ、攻具を造り、以て燕を取るの計と為す。燕王慕容皝、慕容霸を平狄将軍と為し、徒河に戍守せしむ。鄧恒、之を畏れて敢えて犯さず。

孝宗穆皇帝下 永和二年(丙午、三四六年)

春、正月、丙寅の日、大赦を行う。己卯の日、都郷文穆侯の何充が死去した。何充は器量と度量があり、朝廷に臨んで政務を執る態度は荘重であり、国家を己の任とし、抜擢任用する者は全て功績の実効に基づき、親戚や旧故を偏重しなかった。初め、夫余国は鹿山に居住していたが、百済に侵擾され、部族は衰えて離散し、西へ移って前燕に近づいたが、防備を設けていなかった。燕王の慕容皝は世子の慕容俊に慕容軍、慕容恪、慕輿根の三人の将軍と一万七千の騎兵を率いさせて夫余を襲撃させた。慕容俊は中央で指揮を執り、軍事の事務は全て慕容恪に委ねた。ついに夫余を攻略し、夫余王の玄および部落の五万余人を捕らえて帰還した。慕容皝は夫余王の玄を鎮軍将軍に任命し、娘を嫁がせた。二月、癸丑の日、左光禄大夫の蔡謨を兼ねて司徒とし、会稽王の司馬昱と共に朝政を補佐させた。褚裒は前光禄大夫の顧和、前司徒左長史の殷浩を推薦した。三月、丙子の日、顧和を尚書令に、殷浩を建武将軍・揚州刺史に任命した。顧和は母の喪に服しているとして、固辞して就任せず、その親しい人に言った。「古の人に喪服を脱いで君主に従った者がいるのは、その才能が世を救い時に利するに足るからである。我のような者は、まさに孝道を損ない風俗を傷つけるに過ぎない。」識者はこれを称賛した。殷浩も固辞した。会稽王の司馬昱は殷浩に書を送って言った。「国家はまさに厄運に当たり、危難は凋弊の極みに達している。足下は深く明らかにして沈潜し、深遠な涵養を持ち、国事を治めるに足る。もしさらに深く謙退を守り、苟も己の心を満足させようとすれば、私は天下の大事がここからついに終わることを恐れる。足下の出仕か隠退かは、すなわち時局の興隆か衰亡かであり、家国の運命に異なることはない。足下は深く考えるべきである。」殷浩はこれによってようやく就職した。夏、四月、己酉の朔日、日食があった。五月、丙戌の日、西平忠成公の張駿が死去した。属官は世子の張重華を奉じて使持節・大都督・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・仮涼王とし、その境内で大赦を行い、嫡母の厳氏を大王太后、生母の馬氏を王太后と尊んだ。後趙の中黄門の厳生は尚書の朱軌を憎み、たまたま長雨が降ったため、厳生は朱軌が道路を修理しないことを誣告し、また朝政を誹謗したとして、後趙王の石虎は朱軌を囚えた。蒲洪は諫めて言った。「陛下はすでに襄国・鄴城の宮殿を持ち、さらに長安・洛陽の宮殿を修築しようとなさっている。それを何に用いようとされるのか。狩猟用の車一千輛を造り、数千里の土地を囲って禽獣を養い、百姓のを奪って後宮を充たす。聖明な帝王の為すところは、どうしてこのようなものであろうか。今また道路が修築されていないという理由で、尚書を殺そうとなさる。陛下が明徳の政事を修められなければ、上天は過剰な雨を降らせ、七十日にしてようやく晴れる。晴れてわずか二日、たとえ百万の鬼兵がいようとも、なお道路の泥濘や水たまりを取り除くことはできない。ましてや人においてをや。政事と刑罰がこのようであれば、天下の人々をどうされるのか。後代の子孫をどうされるのか。願わくば労役をやめ、苑囿を廃し、宮女を出し、朱軌を赦し、もって人々の期待に沿われんことを。」石虎は不満ではあったが、その罪を問うことはなく、このために長安・洛陽の修建労役を中止したが、ついに朱軌を殺した。また私的に朝政を議論する罪を設け、官吏がその長官を告発し、奴僕がその主人を告発することを許した。公卿以下の官員は、朝廷に上朝する際に互いに目で合図するだけで、敢えて往来して談笑することはなくなった。後趙の将軍の王擢は張重華を攻撃し、武街を襲撃して護軍の曹権・胡宣を捕らえ、七千余戸を雍州に移した。涼州刺史の麻秋、将軍の孫伏都是金城を攻め、太守の張沖は降伏を請い、涼州は震動した。張重華は境内の全兵力を発し、征南将軍の裴恒に率いさせて後趙を防がせた。裴恒は広武に塁を築き、長く出戦しなかった。涼州司馬の張耽は張重華に言った。「国家の存亡は軍隊にあり、軍隊の勝敗は将帥にある。今、議論する者は将帥を推挙するにあたり、多くは老将や旧臣を推す。昔、韓信が抜擢されたのは、旧臣によるものではなかった。英明な君主は人を用いるにあたり、固定した人選はなく、才能が任に足れば、大事を授ける。今、強敵が辺境にあり、諸将は進軍しようとせず、人心は恐懼して安んじない。主簿の謝艾は文武を兼ね備え、彼を用いて後趙を防ぐべきである。」張重華は謝艾を召し、方略を問うた。謝艾は兵七千人を請い、必ず後趙を破って報いると言った。張重華は謝艾を中堅将軍に任命し、歩兵騎兵五千人を与えて麻秋を攻撃させた。謝艾は軍を率いて振武から出た。夜に二羽の梟が軍旗の中で鳴いた。謝艾は言った。「六博で梟の目を出す者が勝つ。今、梟が軍旗の中で鳴くのは、克敵の兆しである。」進軍して後趙軍と戦い、大いに破り、首級五千を斬った。張重華は謝艾を福禄伯に封じた。麻秋が金城を攻略した時、太守の敦煌人の車済は降伏せず、剣に伏して自殺した。麻秋はまた大夏を攻め、護軍の梁式は太守の宋晏を捕らえ、城を挙げて麻秋に応じた。麻秋は宋晏に書を送らせて、宛戍都尉の敦煌人の宋矩を誘降した。宋矩は言った。「人臣として、功業がすでに成就できなければ、ただ死をもって節に殉ずるのみである。」まず妻子を殺してから自殺した。麻秋は言った。「皆、義士である。」収斂して葬った。冬、漢の太保の李弈は晋寿から兵を起こして叛き、蜀の人々は多くこれに従い、部衆は数万人に達した。漢主の李勢は城に登って防ぎ、李弈は単騎で城門に突入したが、守門の者が射殺し、その部衆はことごとく潰散した。李勢は境内で大赦を行い、年号を嘉寧と改めた。李勢は驕奢淫逸で、国事を顧みず、多くは宮禁の中に居住し、公卿と会うことは少なく、旧臣を疏んじて忌み、側近の者を信任し、讒言と諂諛が併せ用いられ、刑罰は苛酷で濫り、したがって朝廷内外は離心していた。蜀にはもともと獠人はいなかったが、この時になって始めて山中から出てきて、巴西から犍為・梓潼に至るまで、山谷に満ち、十余万の部落があり、禁制することも統御することもできず、百姓の大きな害となった。加えて飢饉があり、四境の内は、ついに蕭条として冷えびえとした。安西将軍の桓温は漢を征伐しようと準備し、将佐たちは皆できないと考えた。江夏相の袁喬は勧めて言った。「天下の大事を謀り経営するのは、もともと常人に見解が予測できるものではなく、明智な者は心中で了然としており、衆人の意見が一致するのを待つ必要はない。今、天下の患となっているものは、ただ胡人と蜀人の二つの敵寇のみである。蜀の地は険要で堅固ではあるが、胡人よりも弱小であり、これを除こうとするなら、まず易しい方を攻めるべきである。李勢は道義がなく、臣民は親しみ従わず、しかもその険要で遠隔な地に恃み、戦備を整えていない。精鋭の士卒一万人を用い、軽装で急速に進軍すれば、彼が気づく頃には、我はすでにその険要の地を越えており、一戦で彼を擒にすることができる。蜀の地は富饒で、戸口は繁盛して多く、諸葛武侯がもって中原と抗したところである。もしこれを占有できれば、国家の大利である。議論する者は、大軍が西進した後、胡人が必ず隙に乗じて動くことを恐れるが、これは正しいようで実は間違いである。胡人は我が万里の遠征を聞けば、国内に重兵の備えがあると考え、必ず敢えて軽挙妄動しないであろう。たとえ侵擾することがあっても、長江沿いの諸軍は防禦に足り、必ず憂いはない。」桓温はこれに従った。袁喬は、袁瓌の子である。十一月、辛未の日、桓温は益州刺史の周撫、南郡太守の譙王の司馬无忌を率いて漢を征伐し、上表してから出発した。留守の事務は安西長史の范汪に委ね、周撫に加えて梁州四郡諸軍事を督させ、袁喬に二千人を率いさせて前鋒とした。朝廷は蜀道が険峻で遠大であり、桓温の兵が少なくて深く敵境に入ることを、皆憂慮した。ただ劉惔だけは必ず攻略できると考えた。ある人がその理由を問うと、劉惔は言った。「博戯から知ることができる。桓温は博戯の上手であり、必ず勝てないことは行わない。ただ恐れるのは、蜀を攻略した後、桓温がついに朝廷を専断するようになることだけである。」

孝宗穆皇帝下 永和三年(丁未、紀元三四七年)

春、二月、桓温の軍は青衣に到着した。漢の主李勢は大軍を出し、叔父の右衛将軍李福、従兄の鎮南将軍李権、前将軍昝堅らに軍を率いさせ、山陽から合水へ急行させた。諸将は長江南岸に伏兵を置いて晋軍を待つことを提案したが、昝堅は従わず、軍を率いて長江北岸の鴛鴦埼から渡河し、犍為へ向かった。

三月、桓温は彭模に到着した。ある者が軍を二手に分け、道を別にして進み、漢軍の兵力を分散させることを提案した。袁喬は言った。「今、我々は孤軍で万里の外に深入りしております。勝てば大功を立てられますが、勝てねば全軍覆没し、一人の生き残りもありません。兵力を集中し、心を一つにして、一戦の勝利を勝ち取るべきです。もし軍を二手に分ければ、衆心が一致せず、万一一方が敗れれば、大事は終わってしまいます。全軍で共に進み、鍋や竈を捨て、三日分の干し糧だけを持ち、退路なきを示せば、必ず勝てるでしょう。」桓温はその言に従い、参軍孫盛、周楚に弱兵を率いさせて輜重を守らせ、自ら歩兵を率いて成都へ直進した。周楚は周撫の子である。

李福は彭模を攻撃したが、孫盛らが奮戦してこれを撃退した。桓温が進軍し李権と遭遇すると、三度交戦し三度勝利し、漢兵は潰走して成都に帰り、鎮東将軍李位は皆桓温を迎えて降伏した。昝堅は犍為に到着して初めて桓温と異なる道を進んだことを知り、引き返して沙頭津から渡河したが、到着した時には桓温は既に成都城外十里陌に駐軍しており、昝堅の部衆は自ら潰走した。

李勢は全軍を率いて成都の笮橋で出戦したが、桓温の前鋒は失利し、参軍龔護は戦死し、矢は桓温の馬の頭に当たった。部衆は恐れ、撤退しようとしたが、鼓吏が誤って進軍の鼓を打ち鳴らした。袁喬は剣を抜いて兵士を督励し奮戦させ、ついに漢軍を大破した。桓温は勝ちに乗じて長駆し成都に入り、城門に火を放った。漢人は驚き恐れ、もはや戦意を失った。李勢は夜間に東門を開けて逃走し、葭萌に至り、散騎常侍王幼を派遣して桓温に降伏の文書を送らせ、「略陽李勢、叩頭死罪」と自称し、まもなく棺を載せ、両手を縛って軍門に来た。桓温はその縄を解き棺を焼き、李勢と宗室十数人を建康に送った。漢の司空谯献之らを参佐に任用し、賢才を抜擢し善行を顕彰したため、蜀の人々は喜んだ。

日南太守夏侯覧は貪欲で放縦であり、胡人の商人の財物を奪い、また船や木材を徴発し、討伐を行うと称したため、諸国は憤慨した。林邑王范文は日南を陥落させ、将士の死者は五六千人に上り、夏侯覧を殺し、その屍を天に祭った。また交州刺史朱蕃に檄を送り、郡北の横山を境とするよう求めた。范文が去った後、朱蕃は督護劉雄を派遣して日南を戍らせた。

漢の元尚書僕射王誓、鎮東将軍鄧定、平南将軍王潤、将軍隗文らは皆兵を挙げて反乱し、それぞれ部衆一万余人を擁した。桓温は自ら鄧定を攻め、袁喬に隗文を攻めさせ、いずれも破った。桓温は益州刺史周撫に命じて彭模を鎮守させ、王誓、王潤を斬った。桓温は成都に三十日間留まり、軍を整えて江陵に帰還した。李勢は建康に到着し、帰義侯に封じられた。夏、四月、丁巳、鄧定、隗文らは成都に入り占拠し、征虜将軍楊謙は涪城を放棄し、徳陽に退いた。

後趙の涼州刺史麻秋は枹罕を攻撃した。晋昌太守郎坦は城が大きく守りにくいと考え、外城を放棄しようとした。武成太守張悛は言った。「外城を放棄すれば人心が動揺し、大事は終わります。」寧戎校尉張璩は張悛の言に従い、大城を堅守した。麻秋は八万の部衆を率い、包囲して壕を数重に掘り、雲梯や地道などあらゆる手段で攻撃した。城中は防戦し、麻秋の部衆の死傷者は数万に及んだ。後趙王石虎はまた将軍劉渾らに歩騎二万人を率いさせて合流させた。郎坦は自分の意見が採用されないことを恨み、軍士李嘉を教唆して密かに千余りの趙兵を城に登らせた。張璩は諸将を督率して奮戦し、二百余人を殺し、趙兵はようやく撤退した。張璩はその攻城具を焼き、麻秋は大夏に退いた。

石虎は中書監石寧を征西将軍とし、并州・司州の兵二万余人を率いさせて麻秋の後援とした。張重華の部将宋秦らは二万戸を率いて後趙に降伏した。張重華は謝艾を使持節・軍師将軍とし、歩騎三万人を率いて黄河の辺りに進軍させた。謝艾は小さな車に乗り、白い略帽をかぶり、鼓を打ち鳴らしながら進んだ。麻秋はこれを見て怒り、「謝艾は若い書生で、このような装いをしている。これは我を軽んじているのだ。」と言い、黒槊龍驤軍三千人に命じて飛びかからせた。謝艾の側近は大いに驚き騒いだ。ある者が謝艾に馬に乗るよう勧めたが、謝艾は従わず、車を降りて交椅に座り、指揮を執った。後趙の人々は伏兵があると思い、恐れて進むことができなかった。別の将張瑁が小道から兵を率いて後趙軍の後路を遮断し、後趙軍は撤退した。謝艾は勢いに乗じて進撃し、大いに破り、その将杜勲、汲魚を斬り、捕虜と斬首は一万三千級に及び、麻秋は単騎で大夏へ逃げ奔った。

五月、麻秋は石寧と共にまた十二万の部衆を率いて黄河南岸に駐屯し、劉寧、王擢は晋興、広武、武街を攻略し、曲柳に至った。張重華は将軍牛旋を派遣して防戦させたが、牛旋は枹罕に退き、姑臧は大いに震動した。張重華は自ら出陣して防戦しようとしたが、謝艾は固く諫めた。別駕従事索遐は言った。「君主は一国の鎮石であり、軽々しく動かれるべきではありません。」そこで謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍とし、索遐を軍正将軍とし、歩騎二万人を率いさせて防戦させた。別の将楊康は沙阜で劉寧を破り、劉寧は金城に退いた。

六月、辛酉、大赦が行われた。

秋、七月、林邑が再び日南を陥落させ、督護劉雄を殺した。

隗文、鄧定らは故国師范長生の子范賁を立てて帝とし、これに従い、妖異のことで衆人を惑わし、蜀の民は多くこれに帰順した。

後趙王石虎はまた征西将軍孫伏都、将軍劉渾に歩騎二万人を率いさせて麻秋の軍と合流させ、長駆して黄河を渡り、張重華を攻撃し、長最に城を築いた。謝艾は大旗を立てて誓師し、風が吹いて旗が東南を指した。索遐は言った。「風は号令です。今旗が敵を指すのは、上天が我々を助けるということです。」謝艾は神鳥に駐軍した。王擢は謝艾の前鋒と戦い、敗走して黄河南岸に帰った。八月、戊午、謝艾は麻秋を攻撃し、大いに破り、麻秋は金城に逃げ帰った。石虎はこれを聞き、嘆じて言った。「我は偏師を率いて九州を平定した。今や九州の力をもってしても枹罕に苦しめられている。彼の地には人材がいる。図ることはできない。」謝艾は帰還し、反乱した胡人斯骨真らの一万余の部落を討伐し、皆平定した。

後趙王石虎は十州の地を占拠し、金銀財帛や外国から献上された珍奇な宝物を収集し、府庫の財物は数えきれないほどであった。しかし彼はなお足りないと思い、前代の陵墓をすべて発掘し、中の金銀宝器を奪い取った。

僧呉進は石虎に言った。「胡人の気運は衰えようとしており、晋朝は復興すべきです。晋人に苦役を課してその気運を抑えるべきです。」石虎は尚書張群に命じて、附近の諸郡の男女十六万人、車十万乗を徴発し、土を運ばせて鄴城の北に華林苑と長牆を築かせ、方円数十里に及んだ。申鐘、石璞、趙攬らは上疏して天文の錯乱と百姓の疲弊を述べた。石虎は大いに怒って言った。「たとえ苑牆が朝に完成し、我が夕べに死んでも恨みはない。」張群を促して人々に灯りをともして夜間に工事をさせた。暴風大雨が起こり、数万人が死んだ。諸郡国から前後して蒼麟十六頭、白鹿七頭が献上され、石虎は司虞張曷柱に命じてこれらを飼いならし、芝蓋車を牽かせ、大朝会の際に殿庭に並べさせた。

九月、太子石宣に命じて山川に赴き祈福させ、ついでに遊猟を行わせた。石宣は大車に乗り、羽葆華蓋を用い、天子の旌旗を立て、十六軍、総勢十八万の兵士を率いて金明門から出発した。石虎は後宮から陵霄観に上ってこれを眺め、笑って言った。「我ら父子がこのような有様である以上、天が崩れ地が陥ちでもしない限り、何を憂うことがあろうか。ただ子を抱き孫を弄び、日々楽しみを尽くすのみである。」

石宣の赴くところでは、人に命じて包囲網を布かせ、四方それぞれ百里とし、禽獣を追い立てて、夕方にはすべて包囲網の中に集めさせた。文武の官員には跪いて立たせ、重ねて囲み守らせ、松明の火は昼のように明るく、百余名の強健な騎兵に命じてその中を馳せ回らせて射猟させ、石宣は姫妾とともに輦車に乗って臨み見物し、獣が尽きるまでやめさせなかった。時に獣が逃げ去ることがあり、囲みを守る者で爵位のある者には馬を奪い、一日歩いて追わせ、爵位のない者には百回の鞭打ちとした。兵士が飢え凍えて死んだ者は一万余人に及び、その通過した三州十五郡では、物資の備蓄はことごとく使い果たされた。

石虎はまた秦公石韬に命じて後に続いて出発させ、并州から秦州・雍州に至るまで、同様に行わせた。石宣は彼が自分と勢力を等しくすることを怒り、ますます妬んだ。宦官の趙生は石宣の寵愛を受けていたが、石韬の寵愛は受けておらず、密かに石宣に彼を除くよう勧め、ここに至って石韬を殺す謀りごとが起こった。

後趙の麻秋は再び張重華の部将・張瑁を襲撃し、これを破り、三千余級を斬首した。枹罕の護軍・李逵は部衆七千人を率いて後趙に降伏し、黄河以南の氐・羌はみな後趙に帰順した。

冬十月、乙丑、朝廷は侍御史・俞帰を涼州に派遣し、張重華に侍中・大都督・督隴右関中諸軍事・大将軍・涼州刺史・西平公を授けた。俞帰が姑臧に到着すると、張重華は自ら涼王と称そうとし、詔命を受け入れようとせず、側近の沈猛を密かに俞帰のもとに遣わして言った。「我が主家は代々晋朝の忠臣である。今や鮮卑にも及ばないのはなぜか。朝廷は慕容皝を燕王に封じたが、我が主家はただ大将軍に過ぎない。何をもって忠賢の人を褒め励ますのか。明公は河右に赴き、共に州主を説得して涼王とさせるべきである。人臣として使いするにあたり、国家に有利であれば、専断で事を行うことも許されよう。」俞帰が言った。「あなたの言は誤っている。昔、三代の君王は、爵位の最も尊いものは上公を超えなかった。周が衰微して初めて、呉・楚が僭越して王と称するようになったが、諸侯もこれを咎めなかったのは、おそらく彼らを蛮夷と見なしたからである。もし斉・魯が王と称したなら、諸侯が四方から攻めなかったであろうか。漢の高祖は韓信・彭越を王に封じたが、間もなくみな誅殺し族滅した。これは一時の権宜の策であり、厚遇したわけではない。聖上は貴公の忠誠賢能を嘉し、ゆえに上公に封じ、一方の諸侯に任じた。寵信と栄光は極みに達しており、どうして鮮卑の夷狄などと比べられようか。それに私は聞く、功績には大小があり、賞賜には軽重があると。今、貴公が位に就いてすぐに王と称し、もし河右の部衆を率いて東方の胡人・羯人を平定し、陵墓や宗廟を修復し、天子を洛陽に迎え入れるならば、その時、何をもってその爵位を加えられようか。」張重華はこれに至ってようやく思いとどまった。

武都の氐王・楊初は使者を遣わして藩と称した。詔により楊初を使持節・征南将軍・雍州刺史・仇池公に任命した。

十二月、振威護軍・蕭敬文が征虜将軍・楊謙を殺し、涪城を陥れ、自ら益州牧と称し、ここに巴西を攻め取り、漢中と通じた。